感類篇
陰陽不和,災變發起,或時先世遺咎,或時氣自然。賢聖感類慊懼,自思災變惡徵何為至乎?引過自責,恐有罪,畏慎恐懼之意,未必有其實事也。何以明之?以湯遭旱自責以五過也。聖人純完,行無缺失矣,何自責有五過?然如《書》曰:「湯自責,天應以雨。」
陰陽が和さず、災変が起こるのは、ときに前の世が遺した咎(とが)であり、ときに気がおのずとそうであるのである。賢く聖なる者は、類に感じて足らなさを思い懼れ、みずから、災変や悪い徴(しるし)はどうして至ったのかと思う。過ちを引き寄せてみずからを責め、罪があるのではないかと懼れるのは、慎み懼れる心であって、必ずその実の事があるわけではない。何によってそれを明らかにするか。湯が旱に遭って五つの過ちでみずからを責めたことによる。聖人は純(すなお)で完(まったき)もので、行いに欠けや失いはない。それなのにどうしてみずから五つの過ちがあると責めるのか。しかし『書』に「湯がみずからを責めると、天は雨で応じた」とある。
湯本無過,以五過自責,天何故雨?〔使〕以(無)過致旱,(亦)〔不〕知自責,(不)〔亦〕能得雨也。由此言之,旱不為湯至,雨不應自責。然而前旱後雨者,自然之氣也。此言《書》之語也。難之曰:「《春秋》大雩,董仲舒設土龍,皆為一時間也。一時不雨,恐懼雩祭,求有請福,憂念百性也。」
湯にはもともと過ちがないのに、五つの過ちでみずからを責めたからといって、天はどうして雨を降らせたのか。過ちによって旱を招いたのだとすれば、みずからを責めることを知らない者でもやはり雨を得られることになる。これによって言えば、旱は湯のために至ったのではなく、雨はみずからを責めたことに応じたのではない。それでも先に旱で後に雨だったのは、おのずとそうである気である。これは『書』の言についてである。難じて言う。「『春秋』の大雩や、董仲舒が土の龍を据えたことは、どれも一時のためである。一時雨が降らなければ、懼れて雩祭をし、願って福を求めるのは、民を憂え思うからである。」
湯遭旱七年,以五過自責,謂何時也?夫遭旱一時,輒自責乎?旱至七年,乃自責也?謂一時輒自責,七年乃雨,天應之誠,何其留也!(始)〔如〕謂七年乃自責,憂念百姓,何其遲也!不合雩祭之法,不厭憂民之義。《書》之言未可信也。
湯は旱に七年遭い、五つの過ちでみずからを責めたというが、どの時をいうのか。旱に一時遭ってすぐにみずからを責めたのか。旱が七年に至ってからみずからを責めたのか。一時ですぐにみずからを責めたのに七年たってようやく雨が降ったというのなら、天が誠に応ずるのがなんと渋ることか。七年たってようやくみずからを責めたというのなら、民を憂え思うのがなんと遅いことか。雩祭の法に合わず、民を憂える義にも満ち足りない。『書』の言は信じられない。
由此論之,周成王之雷風發,亦此類也。《金滕》曰:「秋大熟,未獲。天大雷電以風,禾盡偃,大木斯拔,邦人大恐。」
これによって論ずれば、周の成王のときに雷と風が起こったことも、やはりこの類である。『金滕』に「秋に大いに熟したが、まだ収めていなかった。天が大いに雷電し風を吹かせたので、禾(いね)はすべて倒れ、大木は抜かれ、国の人は大いに恐れた」とある。
當此之時,周公死,儒者說之,以為成王狐疑於〔葬〕周公:欲以天子禮葬公,公,人臣也;欲以人臣禮葬公,公有王功。狐疑於葬周公之間,天大雷雨,動怒示變,以彰聖功。
このときに当たって周公が死んだ。儒者はこれを説いて、成王は周公を葬ることに迷い、天子の礼で公を葬ろうとすれば公は人臣であり、人臣の礼で公を葬ろうとすれば公には王の功があった。周公を葬ることに迷っている間に、天が大いに雷雨を起こし、怒りを動かして変異を示し、聖なる功を明らかにしたのだとする。
古文家以武王崩,周公居攝,管、蔡流言,王意狐疑周公,周公奔楚,故天雷雨以悟成王。
古文家は、武王が崩じて周公が摂政の位にあったとき、管と蔡が流言を広め、王の意が周公を疑ったので、周公は楚へ逃れ、だから天が雷雨を起こして成王を悟らせたのだとする。
夫一雷一雨之變,或以為葬疑,或以為信讒,二家未可審。且訂葬疑之說,秋夏之際,陽氣尚盛,未嘗無雷雨也,顧其拔木偃禾,頗為(狀)〔壯〕耳。當雷雨時,成王感懼,開《金滕》之書,見周公之功,執書泣過,自責之深,自責適已,天偶反風,書家則謂天為周公怒也。千秋萬夏,不絕雷雨。苟謂雷雨為天怒乎,是則皇天歲歲怒也。正月陽氣發泄,雷聲始動,秋夏陽至極而雷折。苟謂秋夏之雷,為天大怒,正月之雷,天小怒乎?雷為天怒,雨為恩施。使天為周公怒,徒當雷不當雨,今〔雷〕雨俱至,天怒且喜乎?「子於是日也哭則不歌」。《周禮》「子卯稷食菜羹」,哀樂不并行。哀樂不并行,喜怒反并至乎!
一つの雷と一つの雨の変異を、あるいは葬りの迷いのためとし、あるいは讒(そしり)を信じたためとする。二つの家のどちらとも見きわめられない。また葬りの迷いの説を正してみると、秋と夏の交わりは陽の気がまだ盛んで、これまで雷雨がなかったことはない。ただその木を抜き禾を倒したのが、かなり激しかっただけである。雷雨のとき、成王は感じて懼れ、『金滕』の書を開き、周公の功を見て、書を手にして過ちを泣き、みずからを責めることが深かった。みずからを責め終えたちょうどそのとき、天はたまたま風を返したので、書を説く家は、天が周公のために怒ったのだと言ったのである。千の秋、万の夏にわたって、雷雨は絶えない。雷雨を天の怒りだというのなら、それは皇天が年ごとに怒っていることになる。正月に陽の気が泄れ出て雷の声が動き始め、秋と夏に陽が極まって雷が折れる。秋と夏の雷を天の大きな怒りだというのなら、正月の雷は天の小さな怒りなのか。雷は天の怒りであり、雨は恵みの施しである。天が周公のために怒ったのなら、ただ雷が鳴るだけで雨は降らないはずであるのに、いま雷と雨がともに至ったのだから、天は怒りながら喜んでもいたのか。「孔子はこの日に哭けば歌わなかった」とある。『周礼』に「子と卯の日には稷(きび)の飯と菜の羹(あつもの)を食べる」とあり、哀しみと楽しみは並び行われない。哀しみと楽しみが並び行われないのに、喜びと怒りはかえって並んで至るというのか。
秦始皇帝東封岱岳,雷雨暴至。劉媼息大澤,雷雨晦冥。始皇無道,自同前聖,治亂自謂太平,天怒可也。劉媼息大澤,夢與神遇,是生高祖,何怒於生聖人而為雷雨乎?堯時大風為害,堯(激)〔繳〕大風於青丘之野。舜入大麓,烈風雷雨。堯、舜世之隆主,何過於天,天為風雨也?大旱,《春秋》雩祭,又董仲舒設土龍以類招氣,如天應雩龍,必為雷雨。何則?秋夏之雨與雷俱也。必從《春秋》、仲舒之術,則大雩龍,求怒天乎!師曠奏《白雪之曲》,雷電下擊,鼓清角之音,風雨暴至。苟為雷雨為天怒,天何憎於《白雪》清角,而怒師曠為之乎!此雷雨之難也。
秦の始皇帝が東に岱岳を封じたとき、雷雨が激しく至った。劉媼が大きな沢で休んだとき、雷雨で暗くなった。始皇は道なくして、みずから前の聖と同じだとし、乱れを治めてみずから太平だと言ったのだから、天が怒るのはよい。劉媼が大きな沢で休み、夢に神と出あって、こうして高祖を生んだのだが、どうして聖人を生むことに怒って雷雨を起こそうか。堯のとき大風が害をなし、堯は青丘の野で大風を繳(いぐるみ)で射た。舜が大きな山裾に入ると、烈しい風と雷雨があった。堯と舜は世の優れた主であるのに、天に何の過ちがあって、天が風雨を起こしたのか。大旱のときに『春秋』は雩祭をし、また董仲舒は土の龍を据えて類によって気を招いた。天が雩や龍に応じるのなら、必ず雷雨を起こすだろう。なぜか。秋と夏の雨は雷とともにあるからである。どうしても『春秋』や仲舒の術に従うのなら、大きな雩や龍は天を怒らせることを求めているのか。師曠が『白雪の曲』を奏でると雷電が下り撃ち、清角の音を鼓(かな)でると風雨が激しく至った。雷雨を天の怒りだというのなら、天は『白雪』や清角の何を憎んで、師曠がそれを奏でたことに怒ったのか。これが雷雨についての難である。
又問之曰:「成王不以天子禮葬周公,天為雷風,偃禾拔術,成王覺悟,執書泣過,天乃反風,偃禾復起,何不為疾反風以立大木,必須國人起筑之乎?」應曰:「天不能。」曰:「然則天有所不能乎?」應曰:「然。」
また問うて言う。「成王が天子の礼で周公を葬らなかったので、天が雷と風を起こし、禾を倒し木を抜いた。成王が覚り悟って書を手に過ちを泣くと、天はそこで風を返し、倒れた禾はまた起きあがった。それならどうして、すばやく風を返して大木を立ててやらず、国の人が起こして支えるのを待たねばならなかったのか。」答えて言う。「天にはできないのだ。」言う。「それでは天にはできないことがあるのか。」答えて言う。「そうだ。」
難曰:「孟賁推人〔而〕人仆,接人而(起接)人立。天能拔木,不能復起,是則天力不如孟賁也。秦時三山亡,猶謂天所徒也。夫木之輕重,孰與三山?能徒三山,不能起大木,非天用力宜也。如謂三山非天所亡,然則雷雨獨天所為乎?」
難じて言う。「孟賁が人を押せば人は倒れ、人を支えれば人は立つ。天が木を抜くことはできて、また起こすことができないのなら、それでは天の力は孟賁に及ばないことになる。秦の時に三つの山が消えたのを、それでも天が移したのだという。木の軽さ重さと三つの山とでは、どちらが重いのか。三つの山を移せるのに大木を起こせないというのは、天が力を用いるのに宜しいとはいえない。三つの山は天が消したのではないというのなら、それでは雷雨だけが天の為したことなのか。」
問曰:「天之欲令成王以天子之禮葬周公,以公有聖德,以公有王功。《經》曰:『王乃得周公(死)〔所〕自以為功,代武王之說。』今天動威以彰周公之德也。」
問うて言う。「天が成王に天子の礼で周公を葬らせようとしたのは、公に聖なる徳があり、公に王の功があったからである。『経』に『王はそこで、周公がみずから功として武王に代わろうとした言葉を得た』とある。いま天は威を動かして周公の徳を明らかにしたのである。」
難之曰:「伊尹相湯伐夏,為民興利除害,致天下太平;湯死,復相大甲,大甲佚豫,放之桐宮,攝政三年,乃退復位。周公曰:『伊尹格於皇天。』天所宜彰也。伊尹死時,天何以不為雷雨?」應曰:「以《百(雨)〔兩〕篇》曰:『伊尹死,大霧三日。』
難じて言う。「伊尹は湯を助けて夏を伐ち、民のために利を興し害を除いて、天下の太平を招いた。湯が死ぬと、また太甲を助けたが、太甲が放埒であったので桐宮に放ち、政を摂(と)ること三年で、そこで退いて位を返した。周公は『伊尹は皇天に格(いた)った』と言った。天が明らかにすべきところである。伊尹が死んだとき、天はどうして雷雨を起こさなかったのか。」答えて言う。「『百両篇』に『伊尹が死ぬと、大きな霧が三日続いた』とある。
大霧三日亂氣矣,非天怒之變也。東海張霸造《百(雨)〔兩〕篇》,其言雖未可信,且假以問:「天為雷雨以悟成王,成王未開金匱雷止乎?已開金匱雷雨乃止也?」應曰:「未開金匱雷止也。開匱得書,見公之功,党悟泣過,決以天子孔葬公,出郊觀變,天止雨反風,禾盡起。」
大きな霧が三日というのは乱れた気であって、天が怒った変異ではない。東海の張霸が『百両篇』を作ったのだから、その言は信ずるに足りないが、かりに借りて問う。「天が雷雨を起こして成王を悟らせたのなら、成王が金匱を開く前に雷はやんだのか。もう金匱を開いてから雷雨はやんだのか。」答えて言う。「金匱を開く前に雷はやんだ。匱を開いて書を得、公の功を見て、ふと悟り過ちを泣き、天子の礼で公を葬ろうと決して、郊に出て変異を見ると、天は雨をやめ風を返して、禾はすべて起きあがった。」
由此言之,成王未覺悟,雷雨止矣。難曰:「伊尹〔死〕,霧三日,天何不三日雷雨,須成王覺悟乃止乎?太戊之時,桑谷生朝,七日大拱,太戊思政,桑谷消亡。宋景公時,熒〔惑〕守心,出三善言,熒惑徒舍。使太戊不思政,景公無三善言,桑谷不消,熒惑不徒。何則?災變所以譴告也,所譴告未覺,災變不除,天之至意也。今天怒為雷雨以責成王,成王未覺,雨雷之息,何其早也?
これによって言えば、成王がまだ覚り悟らないうちに雷雨はやんだのである。難じて言う。「伊尹が死ぬと霧が三日続いたのに、天はどうして三日雷雨を起こして、成王が覚り悟るのを待ってからやめなかったのか。太戊のとき、桑と穀が朝廷に生え、七日で大きく一抱えになったが、太戊が政治を思うと、桑と穀は消えてなくなった。宋の景公のとき、熒惑が心の宿にとどまったが、三つの善い言葉を出すと、熒惑は宿を移った。もし太戊が政治を思わず、景公に三つの善い言葉がなければ、桑と穀は消えず、熒惑も移らなかっただろう。なぜか。災変は責め告げるためのものであり、責め告げられた者が覚らなければ、災変が除かれないのが天の至った意である。いま天が怒って雷雨を起こし成王を責めたというのに、成王がまだ覚らないうちに雨も雷もやんだのは、なんと早いことか。」
又問曰:「禮,諸侯之子稱公子,諸侯之孫稱公孫,皆食采地,殊之眾庶。何則?公子公孫,親而又尊,得體公稱,又食采地,名實相副,猶文質相稱也。天彰周公之功,令成王以天子禮葬,何不令成王號周公以周王,副天子之禮乎?」應曰:「王者,名之尊號也,人臣不得名也。」
また問うて言う。「礼では、諸侯の子を公子と称し、諸侯の孫を公孫と称して、どちらも采地(りょうち)を食み、多くの庶人と区別される。なぜか。公子・公孫は親しくてまた尊いので、公の称を身に得、また采地を食み、名と実が互いに副(そ)っていて、文と質が互いに釣りあっているのと同じである。天が周公の功を明らかにして、成王に天子の礼で葬らせようとしたのなら、どうして成王に周公を周王と号させて、天子の礼に副わせなかったのか。」答えて言う。「王とは名の尊い号であって、人臣が名とすることはできない。」
難曰:「人臣猶得名王,禮乎?武王伐紂,下車追王大王、王季、文王。三人者諸侯,亦人臣也,以王號加之。何為獨可於三王,不可於周公?天意欲彰周公,豈能明乎!豈以王跡起於三人哉!然而王功亦成於周公。江起岷山,流為濤瀨。相濤瀨之流,孰與初起之源?鬯之所為到,白雉之所為來,三王乎?周公也?周公功德盛於三王,不加王號,豈天惡人妄稱之哉!周衰,六國稱王,齊、秦更為帝,當時天無禁怒之變。周公不以天子禮葬,天為雷雨以責成王,何天之好惡不純一乎?」
難じて言う。「人臣でもやはり王と名のれるのが礼なのか。武王は紂を伐ち、車を下りて太王・王季・文王を追って王とした。三人は諸侯であり、やはり人臣であるのに、王の号を加えた。どうして三王にはよくて、周公にはよくないのか。天の意が周公を明らかにしようとしたのなら、どうして明らかにできなかったのか。王の跡が三人から起こったからというのか。しかし王の功はまた周公によって成った。江は岷山から起こって流れて濤(なみ)や瀨(せ)となる。濤や瀨の流れと初めに起こった源とでは、どちらが大きいのか。鬯(かおりざけ)が到ったのも、白い雉が来たのも、三王によることか、周公によることか。周公の功と徳は三王より盛んであるのに、王の号を加えなかった。それは天が人がみだりに称えるのを憎んだからだというのか。周が衰えて六つの国が王を称え、斉と秦が相次いで帝を称えたが、当時、天に禁じ怒る変異はなかった。周公を天子の礼で葬らなかったら、天が雷雨を起こして成王を責めたという。天の好き嫌いが、どうしてこれほど一つに定まらないのか。」
又問曰:「魯季孫賜曾子簀,曾子病而寢之。童子曰:『華而者,大夫之簀。』
また問うて言う。「魯の季孫が曾子に簀(すだれ)を贈ったので、曾子は病んでその上に寝た。童子が言った。『華やかで滑らかです。大夫の簀です。』
而曾子感慚,命元易簀。蓋禮,大夫之簀,士不得寢也。今周公人臣也,以天子禮葬,魂而有靈,將安之不也?」應曰:「成王所為,天之所予,何為不安?」
そこで曾子は感じて慚(は)じ、元に命じて簀を取り替えさせた。おそらく礼では、大夫の簀に士は寝られないのである。いま周公は人臣であるのに、天子の礼で葬れば、魂に霊があったとして、それを安らかとするだろうか、しないだろうか。」答えて言う。「成王が為したことは天が与えたことである。どうして安らかでないことがあろうか。」
難曰:「季孫所賜大夫之簀,豈曾子之所自制乎,何獨不安乎?子疾病,子路遣門人為臣。病間曰:『久矣哉!由之行詐也!無臣而為有臣,吾誰欺,欺天乎?』
難じて言う。「季孫が贈った大夫の簀は、曾子がみずから作らせたものではないのに、どうして曾子だけが安らかでなかったのか。孔子が病んだとき、子路は門人をつかわして臣とした。病が少し癒えたとき、孔子は言った。『久しいことだ、由が偽りを行うのは。臣がないのに臣があるようにして、わたしは誰を欺くのか。天を欺くのか。』
孔子罪子路者也。己非人君,子路使門人為臣,非天之心而妄為之,是欺天也。周公亦非天子也,以孔子之心況周公,周公必不安也。季氏旅於太山,孔子曰:『曾謂泰山不如林放乎?』
孔子が子路を咎めたのである。自分は君でないのに、子路が門人を臣としたのは、天の心でないのにみだりに為したことであり、それは天を欺くことである。周公もまた天子ではない。孔子の心によって周公をおしはかれば、周公は必ず安らかではなかっただろう。季氏が泰山で旅(りょ)の祭りをしたとき、孔子は言った。『まさか泰山が林放に及ばないというのか。』
以曾子之細,猶卻非禮;周公至聖,豈安天子之葬?曾謂周公不如曾子乎?由此原之,周公不安也。大人與天地合德,周公不安,天亦不安,何故為雷雨以責成王乎?」
曾子のような小さな身でも礼でないものを退けたのに、周公は至って聖なる者である。どうして天子の葬りを安らかとするだろうか。まさか周公が曾子に及ばないというのか。これによって元をたどれば、周公は安らかでない。大人は天と地と徳を合わせるのだから、周公が安らかでなければ天もまた安らかでないのに、どうして雷雨を起こして成王を責めたりしようか。」
又問曰:「死生有命,富貴在天。武王之命,何可代乎?」
また問うて言う。「死と生には命があり、富と貴は天にある。武王の命をどうして代われようか。」
應曰:「九齡之夢,天奪文王年以益武王。克殷二年之時,九齡之年未盡,武王不豫,則請之矣。人命不可請,獨武王可,非世常法,故藏於金滕;不可復為,故掩而不見。」
答えて言う。「九齢の夢は、天が文王の年を奪って武王に足したものである。殷に克って二年のとき、九齢の年はまだ尽きていなかったが、武王が病んだので、それを願ったのである。人の命は願って得られるものではないが、武王だけはそれができた。世のいつもの法ではないので、金滕に蔵(おさ)め、二度とは為せないので、覆って見せなかったのである。」
難曰:「九齡之夢,武王已得文王之年未?」應曰:「已得之矣。」
難じて言う。「九齢の夢のとき、武王はもう文王の年を得ていたのか、まだなのか。」答えて言う。「もう得ていた。」
難曰:「已得文王之年,命當自延。克殷二年,雖病,猶將不死,周公何為請而代之?」應曰:「人君爵人以官,議定,未之即與,曹下案目,然後可諾。天雖奪文王年以益武王,猶須周公請,乃能得之。命數精微,非一臥之夢所能得也。(應曰九齡之夢能得也)
難じて言う。「もう文王の年を得ていたのなら、命はおのずと延びるはずである。殷に克って二年、たとい病んでも死ぬはずはなかったのに、周公はどうして願って代わろうとしたのか。」答えて言う。「君主が人に官を授けるとき、議が定まってもすぐには与えず、曹(つかさ)で案目(めいぼ)を調べてから諾(ゆる)すことができる。天が文王の年を奪って武王に足したとしても、やはり周公が願うのを待ってはじめて得られるのである。命の数は精(こま)やかで微かで、一度寝た夢で得られるものではない。」
難曰:「九齡之夢,文王夢與武王九齡。武王夢帝予其九齡,其天已予之矣,武王已得之矣,何須復請?人且得官,先夢得爵,其後莫舉,猶自得官。何則?兆象先見,其驗必至也。古者謂年為齡,已得九齡,猶人夢得爵也。周公因必效之夢,請之於天,功安能大乎?」
難じて言う。「九齢の夢は、文王が夢に武王に九齢を与え、武王が夢に帝からその九齢を与えられたのだから、天はもう与えており、武王はもう得ていたのに、どうしてさらに願うのを待つのか。人がこれから官を得ようとするとき、先に夢に爵を得れば、その後に挙げる者がなくても、やはりおのずと官を得る。なぜか。兆しや象が先に現れれば、その効き目は必ず至るからである。昔は年を齢といったのだから、もう九齢を得ていたのは、人が夢に爵を得たのと同じである。周公は必ず効き目のある夢によってそれを天に願ったのだから、その功がどうして大きいといえようか。」
又問曰:「功無大小,德無多少,人須仰恃賴之者,則為美矣。使周公不代武王,武王病死,周公與成王而致天下太平乎?」
また問うて言う。「功に大小はなく、徳に多少はない。人が仰ぎ頼りにするところであれば、それが美しいのである。もし周公が武王に代わらず、武王が病んで死んだとしたら、周公は成王とともに天下の太平を招けただろうか。」
應曰:「成事,周公輔成王而天下不亂。使武王不見代,遂病至死,周公致太平何疑乎?」
答えて言う。「出来あがった事として、周公は成王を輔(たす)けて天下は乱れなかった。武王が代わられることなく、ついに病んで死に至ったとしても、周公が太平を招くことに何の疑いがあろうか。」
難曰:「若是,武王之生無益,其死無損,須周公功乃成也。周衰,諸侯背畔,管仲九合諸侯,一匡天下。孔子曰:『微管仲,吾其被髪左衽矣。』
難じて言う。「そうであれば、武王の生は益がなく、その死は損がなく、周公の功を待ってはじめて成ることになる。周が衰え、諸侯が背き叛いたとき、管仲は諸侯を九たび合わせ、天下を一たび匡(ただ)した。孔子は言った。『管仲がいなければ、わたしは髪を被(みだ)し左の衽(おくみ)にしていただろう。』
使無管仲,不合諸侯,夷狄交侵,中國絕滅。此無管仲有所傷也。程量有益,管仲之功,偶於周公。管仲死,桓公不以諸侯禮葬,以周公況之,天亦宜怒,微雷薄雨不至,何哉?豈以周公聖而管仲(不)賢乎?夫管仲為反坫,有三歸,孔子譏之,以為不賢。
管仲がいなくて諸侯を合わせなければ、夷狄が交互に侵し、中国は絶え滅んでいただろう。これは管仲がいなければ損なわれるところがあるということである。益を量ってみれば、管仲の功は周公と並ぶ。管仲が死んだとき、桓公は諸侯の礼で葬らなかった。周公の例でおしはかれば、天もまた怒るべきであるのに、小さな雷も薄い雨も至らなかったのはなぜか。周公は聖で管仲は賢くないというのか。管仲は反坫(はんてん)を設け、三帰を置いたので、孔子はそれを譏り、賢くないとした。
反坫、三歸,諸侯之禮;天子禮葬,王者之制,皆以人臣俱不得為。大人與天地合德,孔子,大人也,譏管仲之僭禮,皇天欲周公之侵制,非合德之驗。
反坫や三帰は諸侯の礼であり、天子の礼で葬ることは王者の制(きまり)であって、どちらも人臣としてはともに為せないことである。大人は天と地と徳を合わせる。孔子は大人であり、管仲が礼を僭(おか)したのを譏ったのに、皇天は周公が制を侵すことを望んだというのでは、徳を合わせていることの徴にはならない。
《書》家之說,未可然也。
書を説く家の説は、そうだとは認められない。
以見鳥跡而知為書,見蜚蓬而知為車。天非以鳥跡命倉頡,以蜚蓬使奚仲也,奚仲感蜚蓬而倉頡起鳥跡也。晉文反國,命徹麋墨,舅犯心感,辭位歸家。夫文公之徹麋墨,非欲去舅犯,舅犯感慚,自同於麋墨也。宋華臣弱其宗,使家賊六人以鈹殺華吳於宋,命合左師之後。左師懼曰:「老夫無罪。」
鳥の跡を見て書(もじ)を作ることを知り、飛ぶ蓬(よもぎ)を見て車を作ることを知った。天が鳥の跡で倉頡に命じ、飛ぶ蓬で奚仲を使ったのではなく、奚仲が飛ぶ蓬に感じ、倉頡が鳥の跡から思い立ったのである。晋の文公が国に返り、麋(び)と墨(ぼく)を撤(さ)げよと命ずると、舅犯は心に感じて位を辞して家に帰った。文公が麋と墨を撤げたのは舅犯を退けようとしたのではないのに、舅犯が感じて慚じ、みずからを麋や墨と同じものと思ったのである。宋の華臣がその宗族を弱めようとして、家の賊六人に鈹(ほこ)で華呉を宋で殺させ、命じて左師の家の後ろに集まらせた。左師は懼れて言った。「この老いた身には罪がない。」
其後左師怨咎華臣,華臣備之。國人逐狗,狗入華臣之門,華臣以為左師來攻己也,逾牆而走。夫華臣自殺華吳而左師懼,國人自逐狗而華臣自走。成王之畏懼,猶此類也。心疑於不以天子禮葬公,卒遭雷雨之至,則懼而畏過矣。夫雷雨之至,天未必責成王也。雷雨至,成王懼以自責也。夫感則蒼頡、奚仲之心,懼則左師、華臣之意也。懷嫌疑之計,遭暴至之氣,以類之驗見,則天怒之效成矣。見類驗於寂漠,猶感動而畏懼,況雷雨揚(軒)〔忟〕之聲,成王庶幾能不怵惕乎?
その後、左師は華臣を怨み咎め、華臣はそれに備えた。国の人が狗を追いかけ、狗が華臣の門に入ったので、華臣は左師が来て自分を攻めるのだと思い、牆(かき)を越えて逃げた。華臣がみずから華呉を殺して左師が懼れ、国の人がみずから狗を追って華臣がみずから逃げたのである。成王が畏れ懼れたのも、やはりこの類である。天子の礼で公を葬らないことに心が疑っていたところ、ついに雷雨の至るのに遭ったので、懼れて過ちを畏れたのである。雷雨が至ったことで、天が必ず成王を責めたのではない。雷雨が至って、成王が懼れてみずからを責めたのである。感じるというのは倉頡や奚仲の心であり、懼れるというのは左師や華臣の意である。疑いの思いを懐いているところに、激しく至る気に遭い、類の徴が現れたので、天が怒ったという効き目が成りたったのである。類の徴を静かで寂しいところで見てさえ、やはり感じ動いて畏れ懼れるのに、まして雷雨の揚がり激しく響く声では、成王がどうして怵(お)じ惕(おそ)れずにいられようか。
迅雷風烈,孔子必變。禮,君子聞雷,雖夜,衣冠而坐,所以敬雷懼激氣也。聖人君子於道無嫌,然猶順天變動,況成王有周公之疑,聞雷雨之變,安能不振懼乎!然則雷雨之至也,殆且自天氣,成王畏懼,殆且感物類也。夫天道無為,如天以雷雨責怒人,則亦能以雷雨殺無道。古無道者多,可以雷雨誅殺其身,必命聖人興師動軍,頓兵傷士,難以一雷行誅,輕以三軍克敵,何天之不憚煩也!
激しい雷と烈しい風には、孔子も必ず顔色を変えた。礼では、君子は雷を聞けば、夜であっても衣を着け冠をつけて坐る。雷を敬い、激しい気を懼れるからである。聖人や君子は道に疑わしいところがないのに、それでも天の変動に順(したが)う。まして成王には周公のことについての疑いがあって、雷雨の変異を聞いたのだから、どうして震え懼れずにいられようか。とすれば、雷雨が至ったのは、おそらくおのずと天の気によることであり、成王が畏れ懼れたのは、おそらく物の類に感じたことである。天の道は為すことがない。天が雷雨で人を責め怒るのなら、やはり雷雨で道のない者を殺せるはずである。昔、道のない者は多く、雷雨でその身を誅し殺せたはずなのに、必ず聖人に命じて師を興し軍を動かし、兵を疲らせ士を傷つけさせた。一つの雷で誅を行うことは難しいとしながら、三軍で敵に克つことは軽々と行うのでは、天はなんと煩わしさを厭わないことか。
或曰:「紂父帝乙射天毆地,游涇、渭之間,雷電擊而殺之。斯天以雷電誅無道也。」
ある人は言う。「紂の父の帝乙が天を射、地を毆(う)って、涇と渭の間を遊びまわっていたところ、雷電が撃ってこれを殺した。これは天が雷電で道のない者を誅したのである。」
帝乙之惡,孰與桀、紂?鄒伯奇論桀、紂惡不如亡秦,亡秦不如王莽,然而桀、紂、秦、莽之(地)〔死〕,不以雷電。孔子作《春秋》,采毫毛之善,貶纖介之惡,采善不逾其美,貶惡不溢其過。責小以大,夫人無之。成王小疑,天大雷雨。如定以臣葬公,其變何以過此!《洪范》稽疑,不悟災變者,人之才不能盡曉,天不以疑責備於人也。成王心疑未決,天以大雷雨責之,殆非皇天之意。書家之說,恐失其實也。
帝乙の悪と桀や紂の悪とでは、どちらが甚だしいのか。鄒伯奇は、桀や紂の悪は亡んだ秦に及ばず、亡んだ秦は王莽に及ばないと論じたが、それでも桀・紂・秦・莽の死は、雷電によってではなかった。孔子が『春秋』を作ったとき、毛ほどの善を採り、わずかな介(きざ)しほどの悪を貶(けな)したが、善を採るのにその美しさを越えず、悪を貶すのにその過ちを溢れさせなかった。小さなことを大きなことで責めるのは、人のしないことである。成王の小さな疑いに天が大きな雷雨を起こしたというのなら、人臣の礼で公を葬ると定めていたなら、その変異はどれほどこれを越えたことか。『洪範』の稽疑は、災変を悟れないことについてのもので、人の才ではすべてを知りつくせないので、天は疑いをもって人に備わりを責めないのである。成王が心に疑って決められずにいたところへ、天が大きな雷雨で責めたというのは、おそらく皇天の意ではない。書を説く家の説は、おそらくその実を失っている。