実知篇實知篇
儒者論聖人,以為前知千歲,後知萬事,有獨見之明,獨聽之聰,事來則名,不學自知,不問自曉。故稱聖則神矣,若蓍龜之知吉凶,蓍草稱神,龜稱靈矣。賢者才下不能及,智劣不能料,故謂之賢。夫名異則實殊,質同則稱鈞。以聖名論之,知聖人卓絕,與賢殊也。
儒者が聖人を論ずるとき、前には千年を知り、後には万の事を知り、独りで見る明るさと独りで聞く聡さがあって、事が来ればすぐ言い当て、学ばなくても自ずと知り、問わなくても自ずと分かると考える。だから聖と称せば神妙なのであって、蓍や亀が吉凶を知るようなもので、蓍は神妙と称され、亀は霊妙と称される。賢い者は才が下って及ばず、知が劣ってはかれないので、賢というのだ。そもそも名が違えば実も異なり、質が同じなら呼び名も同じである。聖という名で論ずれば、聖人がぬきんでていて、賢い者とは別なのだと分かる。
孔子將死,遺讖書曰:「不知何一男子,自謂秦始皇,上我之堂,踞我之床,顛倒我衣裳,至沙丘而亡。」其後秦王兼吞天下,號始皇,巡狩至魯,觀孔子宅,乃至沙丘,道病而崩。又曰:「董仲舒亂我書。」其後江都相董仲舒,論思《春秋》,造著傳記。又書曰:「亡秦者胡也。」其後二世胡亥竟亡天下。用三者論之,聖人後知萬世之效也。孔子生不知其父,若母匿之,吹律自知殷宋大夫子氏之世也。不案圖書,不聞人言,吹律精思,自知其世,聖人前知千歲之驗也。
孔子が死ぬとき、讖(しん)の書を残してこう言った。「どこのだれとも知らぬ一人の男が、自分を秦の始皇と名乗って、わが堂に上がり、わが床に腰かけ、わが衣を引っかき回し、沙丘に至って死ぬだろう。」その後、秦王が天下を併せ呑んで始皇と号し、巡幸して魯に至り、孔子の家を見て、そのまま沙丘に至り、道中で病んで崩じた。またこう言った。「董仲舒がわが書を乱す。」その後、江都の相の董仲舒が『春秋』を論じ考え、伝記を書いた。また書にこう言った。「秦を滅ぼす者は胡である。」その後、二世の胡亥がついに天下を滅ぼした。この三つで論ずれば、聖人が後に万代のことを知った証しである。孔子は生まれてその父を知らず、母が隠していたようで、律を吹いて自分が殷の宋の大夫、子氏の血すじだと知った。図書を調べず、人の話を聞かず、律を吹いて精しく考え、自分で自分の血すじを知ったのだから、聖人が前に千年を知った証しである。
曰:此皆虛也。案神怪之言,皆在讖記,所表皆效圖書。「亡秦者胡」,《河圖》之文也。孔子條暢增益以表神怪,或後人詐記以明效驗。高皇帝封吳王,送之,拊其背曰:「漢後五十年,東南有反者,豈汝邪?」
答える。これはみな空ごとである。調べてみれば、神妙で怪しい言葉はどれも讖記にあって、そこに示されているものはどれも図書をまねている。「秦を滅ぼす者は胡」は『河図』の文である。孔子がそれを整え広げて付け足して神妙さと怪しさを示したか、あるいは後の人が偽って記して効き目があったように見せたかである。高皇帝が呉王を封じて送り出すとき、その背をなでてこう言った。「漢の後、五十年に東南で反する者があるだろう。まさかおまえではあるまいな。」
到景帝時,濞與七國通謀反漢。建此言者,或時觀氣見象,處其有反,不知主名。高祖見濞之勇,則謂之是。原此以論,孔子見始皇、仲舒,或時但言「將有觀我之宅」、「亂我之書」者,後人見始皇入其宅,仲舒讀其書,則增益其辭,著其主名。如孔子神而空見始皇、仲舒,則其自為殷後子氏之世,亦當默而知之,無為吹律以自定也。孔子不吹律,不能立其姓,及其見始皇,睹仲舒,亦復以吹律之類矣。案始皇本事,始皇不至魯,安得上孔子之堂,踞孔子之床,顛倒孔子之衣裳乎?始皇三十七年十月癸丑出游,至云夢,望祀虞舜於九嶷。浮江下,觀藉柯,度梅渚,過丹陽。至錢唐,臨浙江,濤惡,乃西百二十里,從陝中度,上會稽,祭大禹,立石刊頌,望於南海。還過,從江乘,旁海上,北至琅邪。自琅邪北至旁、成山,因至之罘,遂并海西,至平原津而病,崩於沙丘平台。既不至魯,讖記何見而云始皇至魯?至魯未可知,其言孔子曰「不知何一男子」之言,亦未可用。「不知何一男子」之言不可用,則言「董仲舒亂我書」亦復不可信也。行事,文記譎常人言耳,非天地之書,則皆緣前因古,有所據狀。如無聞見,則無所狀。凡聖人見禍福也,亦揆端推類,原始見終,從閭巷論朝堂,由昭昭察冥冥。讖書秘文,遠見未然,空虛暗昧,豫睹未有,達聞暫見,卓譎怪神,若非庸口所能言。
景帝の時に至って、濞が七国と通じて漢に反する謀をした。この言葉を立てた者は、ときには気を見てきざしを見て、反乱があることをさばいたが、その主の名は分からなかったのだ。高祖は濞の勇ましさを見て、それだと言った。これを推して論ずれば、孔子が始皇や仲舒を見たというのも、ときにはただ「わが家を見る者があるだろう」「わが書を乱す者があるだろう」と言っただけで、後の人が始皇がその家に入り、仲舒がその書を読むのを見て、その言葉に付け足してその主の名を示したのである。孔子が神妙で、何もなしに始皇や仲舒を見たのなら、自分が殷の後の子氏の血すじであることも黙って知るはずで、律を吹いて自分で定める必要はない。孔子が律を吹かなければその姓を立てられなかったのだから、始皇を見、仲舒を見たというのも、やはり律を吹くのと同じたぐいだ。調べてみれば、始皇のもともとの事跡では、始皇は魯に至っていない。どうして孔子の堂に上がり、孔子の床に腰かけ、孔子の衣を引っかき回せよう。始皇の三十七年十月癸丑に出かけて遊び、雲夢に至って九嶷で虞舜に望の祭りをした。江を下り、藉柯を見、梅渚を渡り、丹陽を通った。錢唐に至って浙江に臨むと、波が荒かったので、西へ百二十里行って陝中から渡り、会稽に上って大禹を祭り、石を立てて頌を刻み、南海に望の祭りをした。帰りに江乗を通り、海沿いに北へ琅邪に至った。琅邪から北へ旁・成山に至り、そのまま之罘に至り、ついに海沿いに西へ進み、平原津に至って病み、沙丘の平台で崩じた。そもそも魯に至っていないのに、讖記は何を見て始皇が魯に至ったというのか。魯に至ったかどうかも分からないのだから、孔子が「どこのだれとも知らぬ一人の男」と言ったという言葉も、やはり用いられない。「どこのだれとも知らぬ一人の男」の言葉が用いられないなら、「董仲舒がわが書を乱す」という言葉も、やはり信じられない。行われた事や文の記録が、ただ並の人の言葉と違うだけで、天地の書でないのなら、どれも前のものに拠り古いものに拠って、拠りどころとした形があるのだ。聞いたり見たりしたものがなければ、形を描くもとがない。およそ聖人が禍福を見るのも、やはり端をはかってたぐいを推し、始めをたどって終わりを見、路地から朝廷を論じ、明らかなものから暗いものを察するのである。讖書の秘めた文は、はるか先のまだそうなっていないことを見、空ろで暗いなかに、まだないものを先に見、通じ聞きちらと見て、とびぬけて奇怪で神妙であって、並の口が言えるものではないかのようである。
放象事類以見禍,推原往驗以處來事,〔賢〕者亦能,非獨聖也。周公治魯,太公知其後世當有削弱之患,太公治齊,周公睹其後世當有劫弒之禍:見法術之極,睹禍亂之前矣。紂作象箸而箕子譏,魯以偶人葬而孔子嘆,緣象箸見龍干之患,偶人睹殉葬之禍也。太公、周公俱見未然,箕子、孔子并睹未有,所由見方來者,賢聖同也。魯侯老,太子弱,次室之女倚柱而嘯,由老弱之徵,見敗亂之兆也。婦人之知,尚能推類以見方來,況聖人君子,才高智明者乎!秦始皇十年,(嚴)〔庄〕襄王母夏太后(夢)〔薨〕,孝文王后曰華陽后,與文王葬壽陵;夏太后〔子〕(嚴)〔庄〕襄王葬於(范陵)〔芷陽〕,故夏太后別葬杜陵,曰:「東望吾子,西望吾夫,後百年,旁當有萬家邑。」
事のたぐいをなぞらえて禍を見、過ぎた証しをたどって来る事をさばくことは、賢い者にもできるのであって、聖人だけのことではない。周公が魯を治めたとき、太公はその後の世に削られ弱くなる患いがあることを知り、太公が斉を治めたとき、周公はその後の世に脅かされ殺される禍があることを見た。法術のきわまりを見て、禍乱の前ぶれを見たのである。紂が象牙の箸を作ると箕子がとがめ、魯が人形で葬ると孔子が嘆いた。象牙の箸によって竜干(りゅうかん)の患いを見、人形によって殉葬の禍を見たのである。太公と周公はともにまだそうなっていないものを見、箕子と孔子はともにまだないものを見た。それによってこれから来るものを見ることにおいて、賢い者と聖人は同じである。魯侯が老い太子が幼かったとき、次室の女が柱に寄りかかって長く嘆いた。老いと幼さのしるしによって、破れ乱れるきざしを見たのである。婦人の知でさえ、たぐいを推してこれから来るものを見られるのだから、まして聖人や君子で才が高く知が明らかな者ならなおさらだ。秦の始皇の十年、荘襄王の母、夏太后が亡くなった。孝文王の后は華陽后といい、文王とともに寿陵に葬られ、夏太后の子の荘襄王は芷陽に葬られていたので、夏太后は別に杜陵に葬られ、こう言った。「東に私の子を望み、西に私の夫を望む。百年の後には、かたわらに万戸の邑があるだろう。」
其後皆如其言。必以推類見方來為聖,次室、夏太后聖也。秦昭王十年,樗里子卒,葬於渭南章台之東,曰:「後百年,當有天子宮挾我墓。」
その後はみなその言葉のとおりになった。必ずたぐいを推してこれから来るものを見ることで聖人だというなら、次室の女も夏太后も聖人である。秦の昭王の十年、樗里子が死んで渭南の章台の東に葬られるとき、こう言った。「百年の後には、天子の宮が私の墓を挟むことになるだろう。」
至漢興,長樂宮在其東,未央宮在其西,武庫正值其墓,竟如其言。先知之效,見方來之驗也。如以此效聖,樗里子聖人也。如非聖人,先知見方來不足以明聖,然則樗里子見天子宮挾其墓也,亦猶辛有知伊川之當戎。昔辛有過伊川,見被髪而祭者,曰:「不及百年,此其戎乎!」
漢が興るに至って、長楽宮がその東に、未央宮がその西にあり、武庫がまさにその墓に当たって、ついにその言葉のとおりになった。先に知ったことの証しであり、これから来るものを見た証しである。これで聖人だと言うなら、樗里子は聖人である。聖人でないのなら、先に知りこれから来るものを見ることは聖人であることを明かすのに足りない。であれば、樗里子が天子の宮が自分の墓を挟むのを見たのも、辛有が伊川がやがて戎のものになると知ったのと同じである。昔、辛有が伊川を通って、髪を解いて祭る者を見てこう言った。「百年たたないうちに、ここはおそらく戎のものになろう。」
其後百年,晉遷陸渾之戎於伊川焉,竟如〔其言〕。辛有之知當戎,見被髪之兆也。樗里子之見天子〔宮〕挾其墓,亦見博平之(墓)〔基〕也。韓信葬其母,亦行營高敞地,令其旁可置萬家,其後竟有萬家處其墓旁。故樗里子之見博平(王)〔土〕有宮台之兆,猶韓信之睹高敞萬家之台也。先知之見,方來之事,無達視洞聽之聰明,皆案兆察跡,推原事類。春秋之時,卿大夫相與會遇,見動作之變,聽言談之詭,善則明吉祥之福,惡則處凶妖之禍。明福處禍,遠圖未然,無神怪之知,皆由兆類。以今論之,故夫可知之事者,思慮所能見也;不可知之事,不學不問不能知也。不學自知,不問自曉,古今行事,未之有也。夫可知之事,惟精思之,雖大無難;不可知之事,歷心學問,雖小無易。故智能之士,不學不成,不問不知。
その後百年して、晋が陸渾の戎を伊川に移し、ついにその言葉のとおりになった。辛有が戎のものになると知ったのは、髪を解いたきざしを見たからである。樗里子が天子の宮が自分の墓を挟むのを見たのも、広く平らな土地を見たからである。韓信がその母を葬るとき、やはり高く開けた土地をあちこち見て回り、そのかたわらに万戸を置けるようにした。その後、ついに万戸がその墓のかたわらに住むことになった。だから樗里子が広く平らな土地に宮や台のきざしを見たのは、韓信が高く開けた万戸の台を見たのと同じである。先に知って見ること、これから来る事については、通し見通し聞く聡明さなしに、どれもきざしを調べ跡を察し、事のたぐいをたどって因をさぐるのである。春秋の時代、卿や大夫が互いに会って、ふるまいの変わりを見、言葉の食い違いを聞き、善ければ吉祥の福を明らかにし、悪ければ凶い怪しいきざしの禍をさばいた。福を明らかにし禍をさばいて、はるか先のまだそうなっていないことをはかるのに、神妙で怪しい知などなく、どれもきざしのたぐいによったのである。いまの目で論ずれば、知りうる事は思い考えによって見えるものであり、知りえない事は、学ばず問わなければ知ることができない。学ばずに自ずと知り、問わずに自ずと分かるというのは、古今の行われた事にはなかった。知りうる事は、ただ精しく考えれば、大きなものでも難しくなく、知りえない事は、心を尽くして学び問うても、小さなものでもやさしくない。だから知と能のある士でも、学ばなければ成らず、問わなければ知らない。
難曰:夫項托年七歲教孔子,案七歲未入小學而教孔子,性自知也。孔子曰:「生而知之,上也。學而知之,其次也。」
なじって言う。そもそも項托は七歳で孔子を教えた。調べてみれば、七歳はまだ小学に入っていないのに孔子を教えたのだから、生まれつき自ずと知っていたのだ。孔子は言った。「生まれつき知っている者が上であり、学んで知る者がその次である。」
夫言生而知之,不言學問,謂若項托之類也。王莽之時,勃海尹方年二十一,無所師友,性智開敏,明達六藝。魏都牧淳於倉奏:「方不學,得文能讀誦,論義引《五經》文,文說議事厭合人之心。」
そもそも生まれつき知っていると言って学び問うことを言わないのは、項托のたぐいのような者を言うのだ。王莽のころ、勃海の尹方は二十一歳で、師も友もいないのに、生まれつき知が開けて機敏で、六芸に明らかに通じていた。魏都牧の淳于倉が上奏した。「方は学ばずして文を手にすれば読み唱えることができ、意味を論ずるのに『五経』の文を引き、その文や説が事を論ずるのに人の心にぴったり適います。」
帝征方,使射蜚蟲,策射無(非)〔弗〕知者,天下謂之聖人。夫無所師友,明達六藝,本不學書,得文能讀,此聖人也。不學自能,無師自達,非神如何?
帝は方を召して飛ぶ虫を射させたが、策にも射にも知らないことがなく、天下はこれを聖人といった。そもそも師も友もいないのに六芸に明らかに通じ、もともと字を学んでいないのに文を手にすれば読めるのだから、これは聖人である。学ばずに自ずとでき、師なしに自ずと通じるのだから、神でなければ何であろう。
曰:歲無師友,亦已有所問受矣;不學書,已弄筆墨矣。兒始生產,耳目始開,雖有聖性,安能有知?項托七歲,其三四歲時,而受納人言矣。尹方年二十一,其十四五時,多聞見矣。性敏才茂,獨思無所據,不睹兆象,不見類驗,卻念百世之後,有馬生牛,牛生驢,桃生李,李生梅,聖人能知之乎?臣弒君,子軾父,仁如顏淵,孝如曾參,勇如賁、育,辯如賜、予,聖人能見之乎?孔子曰:「其或繼周者,雖百世可知也。」
答える。師も友もいなかったとはいえ、すでに問い受けたものがあったのであり、字を学んでいなかったとはいえ、すでに筆と墨をいじっていたのだ。子が生まれたばかりで耳と目が開きはじめたときには、聖なる性があっても、どうして知がありえよう。項托が七歳なら、その三つ四つの歳のころに人の言葉を受け入れていた。尹方が二十一歳なら、その十四、五のころに聞き見たものが多かったのだ。生まれつき機敏で才が豊かでも、独りで考えるのに拠りどころがなく、きざしやかたちを見ず、たぐいの証しを見なければ、百代の後をふり返って思いめぐらして、馬が牛を生み、牛が驢馬を生み、桃が李を生み、李が梅を生むことがあるのを、聖人が知れるだろうか。臣が君を殺し、子が父を殺し、仁が顔淵のような者、孝が曾参のような者、勇が賁や育のような者、弁が賜や予のような者を、聖人が見られるだろうか。孔子は言った。「もし周を継ぐ者があるなら、百代の後でも知ることができる。」
又曰:「後生可畏,焉知來者之不如今也?」
また言った。「後から生まれる者は畏るべきだ。どうして来る者が今に及ばないと分かろう。」
論損益,言「可知」,稱後生,言「焉知」。後生難處,損益易明也。此尚為遠,非所聽察也。使一人立於牆東,令之出聲,使聖人聽之牆西,能知其黑白、短長、鄉里、姓字所自從出乎?溝有流〔澌〕,澤有枯骨,髪首陋亡,肌肉腐絕,使〔聖〕人詢之,能知其農商、老少、若所犯而坐死乎?
増減を論ずるときには「知ることができる」と言い、後から生まれる者について言うときには「どうして分かろう」と言った。後から生まれる者はさばきにくく、増減は明らかにしやすいのだ。これはまだ遠いことで、聞いて察するところではない。一人の人を塀の東に立たせて声を出させ、聖人に塀の西でそれを聞かせたとして、その者の肌の黒白、背の高低、郷里、姓や字、どこから来たかが分かるだろうか。溝に流れる屍があり、沢に枯れた骨があって、髪も頭も崩れて失われ、肉が腐って絶えているとき、聖人に尋ねさせたら、その者が農か商か、老か若か、どんな罪を犯して死に当たったかが分かるだろうか。
非聖人無知,其知無以知也。知無以知,非問不能知也。不能知,則賢聖所共病也。
聖人に知がないのではなく、その知に知るすべがないのだ。知るすべがなければ、問わなければ知ることができない。知ることができないのは、賢い者も聖人もともに困るところである。
難曰:詹何坐,弟子侍,有牛鳴於門外。弟子曰:「是黑牛也而白蹄。」詹何曰:「然。是黑牛也而白其蹄。」使人視之,果黑牛而以布裹其蹄。詹何賢者也,尚能聽聲而知其色。以聖人之智,反不能知乎?
なじって言う。詹何が座り、弟子が傍に侍っていたとき、牛が門の外で鳴いた。弟子は言った。「これは黒い牛で、蹄が白い。」詹何は言った。「そうだ。これは黒い牛で、その蹄が白い。」人をやって見させると、たしかに黒い牛で、布でその蹄を包んでいた。詹何は賢い者だが、それでも声を聞いてその色が分かった。聖人の知で、かえって分からないということがあろうか。
曰:能知黑牛白其蹄,能知此牛誰之牛乎?白其蹄者以何事乎?夫術數直見一端,不能盡其實。雖審一事,曲辯問之,輒不能盡知。何則?不目見口問,不能盡知也。
答える。黒い牛でその蹄が白いことは分かっても、この牛がだれの牛か分かるだろうか。その蹄を白くしたのは何のためか、分かるだろうか。そもそも術数はただ一端を見るだけで、その実を尽くすことはできない。一つの事を見きわめても、こまごまと問いただせば、たちまち全部は分からなくなる。なぜか。目で見、口で問わなければ、全部は分からないからだ。
魯僖公二十九年,介葛盧來朝,舍於昌衍之上,聞牛鳴,曰:「是牛生三犧,皆已用矣。」或問:「何以知之?」曰:「其音云。」人問牛主,竟如其言。此復用術數,非知所能見也。廣漢楊翁仲〔能〕聽鳥獸之音,乘蹇馬之野,田間有放眇馬〔者〕,相去〔數里〕,鳴聲相聞。翁仲謂其御曰:「彼放馬(知此馬而)目眇。」其御曰:「何以知之?」曰:「罵此轅中馬蹇,此馬亦罵之眇。」其御不信,往視之,名竟眇焉。翁仲之知馬聲,猶詹何、介葛盧之聽牛鳴也。據術任數,相合其意,不達視聽,遙見流目以察之也。夫聽聲有術,則察色有數矣。推用術數,若先聞見,眾人不知,則謂神聖。若孔子之見獸,名之曰,太史公之見張良似婦人之形矣。案孔子未嘗見,至輒能名之,太史公與張良異世,而目見其形。使眾人聞此言,則謂神而先知。然而孔子名,聞《昭人之歌》;太史公之見張良,觀宣室之畫也。
魯の僖公二十九年、介の葛盧が来て朝見し、昌衍の上に宿ったとき、牛の鳴き声を聞いてこう言った。「この牛は三頭の犠牲を生んだが、どれもすでに使われている。」ある人が問うた。「どうして分かるのか。」答えた。「その声がそう言っている。」人が牛の主に問うと、ついにその言葉のとおりだった。これもまた術数を使ったのであって、知が見られるところではない。広漢の楊翁仲は鳥や獣の声を聞き分けられた。足の悪い馬に乗って野を行くとき、畑のあいだに放し飼いの片目の馬がいて、数里離れて鳴き声が互いに聞こえていた。翁仲はその御者に言った。「あの放し飼いの馬は目が片方つぶれている。」御者は言った。「どうして分かるのですか。」答えた。「あの馬はこの轅の中の馬を足が悪いとののしり、この馬もあの馬を片目とののしっている。」御者は信じなかったが、行って見ると、その馬はたしかに片目だった。翁仲が馬の声を分かったのは、詹何や介の葛盧が牛の鳴き声を聞いたのと同じである。術に拠り数に任せて、その意に合わせたのであって、通し見通し聞いたのではなく、遠くを見て目を走らせて察したのである。そもそも声を聞くのに術があるなら、色を察するのにも数がある。術数を推して用いることが、まるで先に聞き見ていたかのようであるのに、多くの人がそれを知らないので、神妙だ聖だという。孔子が獣を見て名づけて狌(しょう)といい、太史公が張良を見て婦人の姿のようだと言ったようなものだ。調べてみれば、孔子はかつて狌を見たことがなかったのに、来るとすぐ名づけられ、太史公は張良と世が違うのに、目でその姿を見た。多くの人にこの話を聞かせれば、神妙で先に知ったのだという。しかし孔子が狌と名づけたのは『昭人の歌』を聞いていたからであり、太史公が張良を見たのは宣室の絵を見ていたからである。
陰見默識,用思深秘。眾人闊略,寡所意識,見賢聖之名物,則謂之神。推此以論,詹何見黑牛白蹄,猶此類也。彼不以術數,則先時聞見於外矣。方今占射事之工,據正術數,術數不中,集以人事,人事於術數而用之者,與神無異。詹何之徒,方今占射事者之類也。如以詹何之徒,性能知之,不用術數,是則巢居者先知風,穴處者先知雨,智明早成,項托、尹方其是也。
人知れず見、黙って覚えて、思いの使い方が深く秘められている。多くの人は大ざっぱで、心に留めて覚えるところが少ないので、賢い者や聖人が物を言い当てるのを見ると、それを神妙だという。これを推して論ずれば、詹何が黒い牛の白い蹄を見抜いたのも、これと同じたぐいである。彼が術数によらなかったのなら、それより前に外で聞き見ていたのだ。いま事を占って言い当てる職人は、正しい術数に拠り、術数が当たらなければ人の事をつなぎ合わせる。人の事を術数に加えて用いる者は、神と変わりがない。詹何のたぐいは、いま事を占って言い当てる者と同じたぐいである。詹何のたぐいが生まれつきそれを知れて術数を用いないのだとすれば、それでは巣に住む者が先に風を知り、穴に住む者が先に雨を知るのと同じで、知が明らかで早く成るというのは、項托や尹方がおそらくそれである。
難曰:黃帝生而神靈,弱而能言。帝嚳生而自言其名。未有聞見於外,生輒能言,稱其名,非神靈之效,生知之驗乎?
なじって言う。黄帝は生まれつき神妙で、幼くして口がきけた。帝嚳は生まれて自分の名を言った。外で聞き見たものがないのに、生まれてすぐ口がきけ、自分の名を言えたのは、神妙であることの証し、生まれつき知っていることの証しではないか。
曰:黃帝生而言,然而母懷之二十月生,計其月數,亦已二歲在母身中矣。帝嚳能自言其名,然不能言他人之名,雖有一能,未能遍通。所謂神而生知者,豈謂生而能言其名乎?乃謂不受而能知之,未得能見之也。黃帝、帝嚳雖有神靈之驗,亦皆早成之才也。人才早成,亦有晚就,雖未就師,家問室學。人見其幼成早就,稱之過度。云項托七歲,是必十歲,云教孔子,是必孔子問之。云黃帝、帝嚳生而能言,是亦數月。云尹方年二十一,是亦且三十。云無所師友,有不學書,是亦游學家習。世俗褒稱過實,毀敗愈惡。世俗傳顏淵年十八歲升太山,望見吳昌門外有繫白馬。定考實,顏淵年三十,不升太山,不望吳昌門。項托之稱,尹方之譽,顏淵之類也。
答える。黄帝は生まれて口をきいたが、その母が身に宿して二十か月で生んだのだから、その月数を数えれば、すでに二年を母の体の中にいたことになる。帝嚳は自分の名を言えたが、ほかの人の名は言えなかった。一つできることがあっても、あまねく通じることはできなかった。いわゆる神妙で生まれつき知っているというのは、どうして生まれて自分の名を言えることを指そうか。それは、授からずに知れることを指すのであって、そうできる者はまだ見つかっていない。黄帝と帝嚳に神妙さの証しがあったとしても、それもどれも早く成った才である。人の才には早く成るものがあり、また遅く成るものもある。まだ師につかなくても、家で問い部屋で学ぶ。人はそれが幼くして成り早く成ったのを見て、ほめ方が度を越す。項托が七歳だというが、実は必ず十歳であり、孔子を教えたというが、実は必ず孔子が問うたのである。黄帝や帝嚳が生まれて口をきけたというが、これもまた数か月してからだ。尹方が二十一歳だというが、これもまた三十に近かった。師も友もなく、字を学んでいないというが、これもまた遊学して家で習ったのだ。世俗はほめるのに実を越え、そしるのはいよいよひどい。世俗には、顔淵が十八歳で太山に登り、呉の昌門の外に白い馬が繋がれているのを望み見たと伝わる。しかし確かめて実を調べれば、顔淵は三十歳で、太山に登っておらず、呉の昌門を望み見ていない。項托のほめられ方、尹方の誉め方は、顔淵のたぐいである。
人才有高下,知物由學,學之乃知,不問不識。子貢曰:「夫子焉不學,而亦何常師之有?」孔子曰:「吾十有五而志乎學。」五帝、三王,皆有所師。曰:是欲為人法也。曰:精思亦可為人法。(何)必以學者,事難空知,賢聖之才能立也。所謂神者,不學而知。所謂聖者,須學以聖。以聖人學,知其非聖。天地之間,含血之類,無性知者。
人の才には高下があり、物を知るのは学ぶことによるのだから、学んではじめて知り、問わなければ分からない。子貢は言った。「先生がどうして学ばれなかったことがあろう。また、どうして決まった師がおられたことがあろう。」孔子は言った。「私は十五で学に志した。」五帝と三王は、みな師とするところがあった。言う。これは人の手本になろうとしたのだ。答える。精しく考えることもまた人の手本になれる。それでも学ぶことによるのは、事が何もなしに知るのは難しくて、賢い者や聖人の才がそれで立つからだ。いわゆる神とは、学ばずに知る者である。いわゆる聖とは、学ぶのを待って聖となる者である。聖人が学ぶことによって、それが神でないと分かる。天地のあいだ、血を含むたぐいに、生まれつき知るものはいない。
知往,鵲知來,稟天之性,自然者也。如以聖人為若乎?則夫之類,鳥獸也。僮謠不學而知,可謂神而先知矣。如以聖人為若僮謠乎?則夫僮謠者,妖也。世間聖神,以為巫與?
狌(しょう)は過ぎたことを知り、鵲は来ることを知る。これは天の性を受けて、自然にそうなのである。聖人が狌のようだというのなら、そもそも狌のたぐいは鳥や獣である。童歌は学ばずに知っているのだから、神妙で先に知るといってよい。聖人が童歌のようだというのなら、そもそも童歌は怪しいきざしである。世間でいう聖なる神を、巫だと考えるのか。
鬼神用巫之口告人。如以聖人為若巫乎?則夫為巫者亦妖也。與妖同氣,則與聖異類矣。巫與聖異,則聖不能神矣。不能神,則賢之党也。同党,則所知者無以異也。及其有異,以入道也。聖人疾,賢者遲;賢者才多,聖人智多。所知同業,多少異量;所道一途,步騶相過。
亡霊は巫の口を使って人に告げる。聖人が巫のようだというのなら、そもそも巫となる者も怪しいきざしである。怪しいきざしと気を同じくするなら、聖人とはたぐいが違う。巫と聖人が違うなら、聖人は神妙ではありえない。神妙でないなら、賢い者の仲間である。同じ仲間なら、知ることに違いはない。違いがあるとすれば、それは道に入るところにある。聖人は速く、賢い者は遅い。賢い者は才が多く、聖人は知が多い。知るところは同じ仕事だが、多少の量が違い、行く道は一つの道だが、歩みに追い越しがある。
事有難知易曉,賢聖所共關思也。若夫文質之復,三教之重,正朔相緣,損益相因,賢聖所共知也。古之水火,今之水火也。今之聲色,後世之聲色也。鳥獸草木,人民好惡,以今而見古,以此而知來。千歲之前,萬世之後,無以異也。追觀上古,探察來世,文質之類,水火之輩,賢聖共之。見兆聞象,圖畫禍福,賢聖共之。見怪名物,無所疑惑,賢聖共之。事可知者,賢聖所共知也;不可知者,聖人亦不能知也。何以明之?使聖空坐先知雨也,性能一事知遠道,孔竅不普,未足以論也。所論先知性達者,盡知萬物之性,畢睹千道之要也。如知一不通二,達左不見右,偏駁不純,校不具,非所謂聖也。如必謂之聖,是明聖人無以奇也。詹何之徒聖,孔子之党亦稱聖,是聖無以異於賢,賢無以乏於聖也。賢聖皆能,何以稱聖奇於賢乎?如俱任用術數,賢何以不及聖?
事に知りにくいものと分かりやすいものがあるのは、賢い者も聖人もともに思いをかける所である。あの文と質の繰り返し、三教の重なり、正朔が互いに引き継ぐこと、増減が互いに因ることは、賢い者も聖人もともに知るところだ。昔の水と火は、いまの水と火である。いまの声と色は、後の世の声と色である。鳥や獣、草や木、民の好き嫌いは、いまによって昔を見、これによって来るものを知る。千年の前も、万代の後も、違いはない。上古をさかのぼって見、来る世を探って察する、文と質のたぐい、水と火のたぐいは、賢い者も聖人もともにする。きざしを見てかたちを聞き、禍福を描くことは、賢い者も聖人もともにする。怪しいものを見て物を言い当てるのに迷いがないことは、賢い者も聖人もともにする。事で知りうるものは、賢い者も聖人もともに知るところであり、知りえないものは、聖人もまた知ることができない。どうしてそう言えるか。聖人がただ座っていて先に雨を知るとしても、生まれつき一つの事に通じて遠い道のことを知るというだけで、穴があまねく通じていないのだから、論ずるに足りない。論じている「先に知り、生まれつき通じている」とは、万物の性をことごとく知り、千の道のかんどころをすべて見ることだ。一つを知って二つに通じず、左に通じて右を見ず、偏り混じって純でなく、調べきっていないのなら、いわゆる聖人ではない。それでも必ず聖人だというなら、それは聖人に不思議なところがないことを明かすことになる。詹何のたぐいが聖人なら、孔子の仲間もまた聖人と称される。それは聖人が賢い者と違わず、賢い者が聖人に欠けるところがないということだ。賢い者も聖人もどちらもできるのに、どうして聖人が賢い者より不思議だと称されるのか。どちらも術数に任せて用いるのなら、賢い者はどうして聖人に及ばないのか。
實者,聖賢不能(知)性〔知〕,須任耳目以定情實。其任耳目也,可知之事,思之輒決;不可知之事,待問乃解。天下之事,世間之物,可思而〔知〕,愚夫能開精;不可思而知,上聖不能省。孔子曰:「吾嘗終日不食,終夜不寢以思,無益,不如學也。」
実のところ、聖人も賢い者も生まれつき知ることはできず、耳と目に任せて実情を定めるほかない。その耳と目に任せるとき、知りうる事は考えればすぐ決まり、知りえない事は問うのを待ってはじめて解ける。天下の事、世間の物で、考えて知りうるものは、愚かな者でも精しさを開けるが、考えても知りえないものは、最上の聖人でも見きわめられない。孔子は言った。「私はかつて一日中食べず、夜通し寝ずに考えたが、益がなく、学ぶには及ばなかった。」
天下事有不可知,猶結有不可解也。(見)〔兒〕說善解結,結無有不可解。結有不可解,(見)〔兒〕說不能解也。
天下の事に知りえないものがあるのは、結び目に解けないものがあるのと同じだ。兒説(じせつ)は結び目を解くのが巧みで、解けない結び目はなかった。だが解けない結び目があれば、兒説も解けない。
非(見)〔兒〕說不能解也,結有不可解。及其解之,用不能也。聖人知事,事無不可知。事有不可知,聖人不能知,非聖人不能知,事有不可知。及其知之,用不知也。故夫難知之事,學問所能及也;不可知之事,問之學之,不能曉也。
兒説が解けないのではなく、結び目に解けないものがあるのだ。それを解こうとするところで、できないということが現れる。聖人が事を知るのに、知りえない事はない。だが知りえない事があれば、聖人も知ることができない。聖人が知りえないのではなく、事に知りえないものがあるのだ。それを知ろうとするところで、知らないということが現れる。だから知りにくい事は、学び問うことで及べるものであり、知りえない事は、問い学んでも分からないのである。