朝鮮 三 — 宗系辨誣と壬辰の倭乱朝鮮 三
1宗系辨誣の始まり
初,成桂之自立也,與宰相李仁人本異族。永樂間,降祭海嶽祝文,稱成桂為仁人子,而祖訓亦載仁人子成桂更名旦。後成桂子芳遠奏辨,太宗許令改正。至是修大明會典,仍列祖訓於朝鮮國。貢使市以歸,懌上疏備陳世系,辨先世無弒逆事,乞改正。禮部議:「會典詳載本朝制度,事涉外國,疑似之際,在所略。況成桂得國出皇祖命,其不繫仁人後,太宗詔可徵,宜從其請。」詔曰:「可。」
もともと成桂が自ら位に即いたとき、宰相の李仁人とは別の家筋であった。ところが永楽年間に下された海嶽を祭る祝文に成桂を仁人の子と称し、祖訓にもまた「仁人の子の成桂が名を旦と改めた」と載せられていた。のちに成桂の子の芳遠が奏上して申し開きをしたので、太宗は訂正を許した。ところがここに至って大明会典を編むとき、なお祖訓の文を朝鮮国の条に載せた。貢使がこれを買って帰ったので、懌は上疏して系譜を詳しく述べ、先代に主殺しの事がなかったことを明らかにし、訂正を願った。礼部が議して言った。「会典は本朝の制度を詳しく載せるものですから、外国にかかわる事柄で疑わしいところは省くのが筋です。まして成桂が国を得たのは皇祖の命によるものであり、仁人の後裔でないことは太宗の詔によって証拠立てられますので、その願いに従うのが当然です。」詔して「よろしい」と言った。
2買い集めをやめさせる
十五年冬,命內官封懌子峼為世子,賜懌金帛珠玉,令括取異物及童男女以進。十六年,世宗即位,禮官言:「天子初踐祚,宜正中國之體,絕外裔狎侮之端。請諭懌非朝廷意,召內臣還,毋有所索取。」帝從之。
十五年冬、内官に命じて懌の子である峼を世子に封じ、懌に金帛・珠玉を賜り、珍しい品や童男童女を集めて献じさせた。十六年、世宗が即位すると、礼官が言った。「天子が初めて位に即かれたのですから、中国の体面を正し、外国を軽々しく侮る端緒を断つべきです。懌には朝廷の意ではないと諭し、内臣を召し返して、何も求め取ることがないようになさいますよう。」帝はこれに従った。
3倭の捕虜を献じる
嘉靖二年八月,以俘獲倭夷來獻,幷送還中國被掠八人。賜白金錦紵。
嘉靖二年八月、捕らえた倭夷を献じ、あわせて奪われていた中国の人八人を送り返したので、白金と錦・紵を賜った。
4柳溥の上疏
八年八月,陪臣柳溥上言:「國祖李旦係本國全州人。二十八世祖瀚仕新羅為司空。新羅亡,六世孫兢休入高麗。十三世孫安社仕元為南京千戶所達魯花赤。元季兵興,安曾孫子春與男成桂避地東遷。至正辛丑,當恭愍王之十年,有紅巾賊入境,成桂擊賊有功,授武班職事,時尚未知名。恭愍無嗣,陰蓄寵臣辛肫之子禑為子,晚為嬖臣洪倫、內豎崔萬生所弒。權臣李仁人誅倫、萬生而立禑,擢成桂為門下侍中。禑遣成桂侵遼東,成桂不從,返兵。禑懼,遜位於子昌。昌以偽姓見黜,復立王氏裔定昌君瑤,竄仁人於外。瑤復不道,國人戴成桂,請於高皇帝,立為王,更名旦,贍瑤別邸,終其身,實未嘗為弒。前永樂、正德間屢經奏請,俱蒙俞允,而迄未改正。今遇重修會典,乞賜昭雪。」詔送史館編纂。
八年八月、陪臣の柳溥が申し上げた。「国祖の李旦は本国全州の人でございます。二十八世の祖である瀚は新羅に仕えて司空となり、新羅が滅びると六世の孫の兢休が高麗に入りました。十三世の孫の安社は元に仕えて南京千戸所のダルガチとなりました。元末に兵乱が起こると、安社の曾孫の子春が子の成桂とともに難を避けて東へ移りました。至正の辛丑、恭愍王の十年に当たる年、紅巾の賊が境内に入りましたが、成桂は賊を討って功があり、武班の職事を授かりました。そのころはまだ名を知られておりません。恭愍王は嗣子がなく、ひそかに寵臣の辛肫の子である禑を養って子とし、晩年に嬖臣の洪倫と内侍の崔万生に殺されました。権臣の李仁人は倫と万生を誅して禑を立て、成桂を門下侍中に抜擢しました。禑は成桂を遣わして遼東を侵させましたが、成桂は従わずに軍を返しました。禑は恐れて子の昌に位を譲りましたが、昌は偽りの姓であるとして退けられ、改めて王氏の後裔である定昌君の瑤を立て、仁人を外に流しました。瑤がまた無道でありましたので、国人が成桂を奉じ、高皇帝に請って王に立て、名を旦と改め、瑤を別邸に養ってその生涯を終えさせました。まことに主殺しをしたことはございません。さきの永楽・正徳の年間にもたびたび奏請し、いずれもご承認を頂きましたが、今日まで訂正されておりません。いま会典の重修に当たりますので、冤を明らかに晴らしていただきたく存じます。」詔して史館に送り、編纂させた。
5明堂配享の慶賀
十八年二月,睿宗祔太廟,配享明堂禮成,懌表賀。帝特御奉天門引見,賜宴禮部。
十八年二月、睿宗を太廟に合祀し、明堂に配享する礼が成ったので、懌は表を奉って慶賀した。帝は特に奉天門に出て引見し、礼部で宴を賜った。
6仁宗と明宗
二十三年冬,懌卒。二十四年正月來訃,賜諡恭僖。詔立其子峼。峼未踰年卒,賜諡榮靖。九月,峼弟權國事峘遣使謝祭諡,幷請襲封,詔許之。
二十三年冬、懌が亡くなった。二十四年正月に訃報が届いたので、恭僖という諡を賜り、詔してその子の峼(仁宗)を立てた。峼は年を越さずに亡くなったので、栄靖という諡を賜った。九月、峼の弟である権国事の峘(明宗)が使者を遣わして祭りと諡を謝し、あわせて襲封を請うたので、詔してこれを許した。
7漂流民六百人
二十五年,峘遣使送下海番人六百餘至邊,賜金幣。二十六年正月,峘咨稱:「福建人從無泛海至本國者,因往日本市易,為風所漂,前後共獲千人以上,皆挾軍器貨物,致中國火礮亦為倭有,恐起兵端。」詔:「頃年沿海奸民犯禁,福建尤甚,往往為外國所獲,有傷國體。海道官員令巡按御史察參。仍賜王銀幣,以旌其忠。」
二十五年、峘は使者を遣わして、海で漂流した番人六百余人を国境まで送って来たので、金と幣を賜った。二十六年正月、峘が咨文で述べた。「福建の人が海を渡って本国に来ることは、これまでございませんでした。ところが日本へ商売に行く途中、風に流された者を、前後で合わせて千人以上捕らえました。いずれも武器や貨物を携えており、中国の火砲まで倭の手に渡っておりますので、兵乱の端緒となるのではないかと恐れております。」詔して言った。「近年、沿海の悪民が禁を破ることは福建がとりわけひどく、しばしば外国に捕らえられて国の体面を損なっている。海道の官員については巡按御史に調べて報告させよ。あわせて王に銀と幣を賜り、その忠を表彰する。」
8律管を請う
三十一年冬,以洪武、永樂間所賜樂器敝壞,奏求律管,更乞遣樂官赴京校習,許之。
三十一年冬、洪武・永楽の年間に賜った楽器が傷んで使えなくなったとして、律管を求めることを奏上し、さらに楽官を都に遣わして習わせたいと願ったので、これを許した。
9倭船を討ち破る
三十五年五月有倭船四自浙、直敗還,漂入朝鮮境。峘遣兵擊殲之,得中國被俘及助逆者三十餘人來獻,因賀冬至節,帝賜璽書褒諭。三十八年十一月奏:「今年五月,有倭寇駕船二十五隻來抵海岸,臣命將李鐸等剿殺殆盡,獲中國民陳春等三百餘人,內招通倭嚮導陳得等十六人,俱獻闕下。」復降敕奬勵,厚賚銀幣,幷賜鐸等有差。
三十五年五月、倭船四隻が浙江・直隷で敗れて帰る途中、朝鮮の境内に流れ込んだ。峘は兵を遣わしてこれを討ち滅ぼし、捕らわれていた中国の人と逆賊に手を貸した者三十余人を得て献じ、その折に冬至の節を賀したので、帝は璽書を賜って褒め諭した。三十八年十一月、奏上した。「今年五月、倭寇が船二十五隻を駆って海岸に至りましたので、臣は将の李鐸らに命じて討ち、ほとんど殺し尽くし、中国の民である陳春ら三百余人を得ました。そのうちから倭に通じて道案内をした陳得ら十六人を選び出し、みな闕下に献じます。」また勅を下して褒め励まし、銀と幣を手厚く賜り、あわせて鐸らにも等級に応じて賜った。
10会典に付け加える
四十二年九月,峘復上書辨先世非李仁人後,今修會典雖蒙釐正,乞著始祖旦、父子春之名,帝令附錄會典。
四十二年九月、峘はまた書を上って、先代が李仁人の後裔でないことを明らかにし、このたびの会典の修撰ではすでに訂正を受けたものの、始祖の旦と父の子春の名を載せていただきたいと願ったので、帝は会典に付け加えて記録させた。
11明宗が亡くなる
隆慶元年六月遣官頒即位詔。時帝將幸太學,來使乞留觀禮,許之。是年冬,峘卒,賜諡恭憲,命其姪昖襲封。
隆慶元年六月、官を遣わして即位の詔を頒布した。このとき帝が太学に行幸しようとしていたので、来ていた使者が残って礼を見せていただきたいと願い、これを許した。この年の冬、峘が亡くなったので、恭憲という諡を賜り、その甥の昖(宣祖)に跡を継いで封を受けさせた。
12会典を手に入れる
萬曆元年正月上穆宗尊諡、兩宮徽號禮成,昖表賀,獻方物馬匹。時昖屢請賜皇明會典,為其先康獻王旦雪冤。十六年正月,會典成,適貢使愈泓在京,請給前書,以終前命。許之。十七年十一月,陪臣奇芩等入賀冬至,奏稱本年六月,大琉球國船遭風至海岸,所有男婦合解京,給文放歸。從之。
万暦元年正月、穆宗に尊号の諡を奉り、両宮の徽号を奉る礼が成ったので、昖は表を奉って慶賀し、方物と馬を献じた。このころ昖はたびたび皇明会典を賜って、先祖の康献王の旦の冤を晴らしてほしいと請うていた。十六年正月、会典が成り、ちょうど貢使の愈泓が都にいたので、さきの命を果たしてその書を下されるよう請い、これを許した。十七年十一月、陪臣の奇芩らが冬至を賀しに入り、本年六月に大琉球国の船が風に遭って海岸に着いたので、乗っていた男女をすべて都へ送ると奏上したところ、文書を与えて帰らせることとした。
13関白秀吉が来る
十九年十一月奏,倭酋關白平秀吉聲言明年三月來犯,詔兵部申飭海防。平秀吉者,薩摩州人,初隨倭關白信長。會信長為其下所弒,秀吉遂統信長兵,自號關白,劫降六十餘州。朝鮮與日本對馬島相望,時有倭夷往來互市。二十年夏五月,秀吉遂分渠帥行長、清正等率舟師逼釜山鎮,潛渡臨津。時朝鮮承平久,兵不習戰,昖又湎酒,弛備,猝島夷作難,望風皆潰。昖棄王城,令次子琿攝國事,奔平壤。已,復走義州,願內屬。七月,兵部議令駐劄險要,以待天兵;號召通國勤王,以圖恢復。而是時倭已入王京,毀墳墓,劫王子、陪臣,剽府庫,八道幾盡沒,旦暮且渡鴨綠江,請援之使絡繹於道。廷議以朝鮮為國藩籬,在所必爭。遣行人薛潘諭昖以興復大義,揚言大兵十萬且至。而倭業抵平壤,朝鮮君臣益急,出避愛州。遊擊史儒等率師至平壤,戰死。副總兵祖承訓統兵渡鴨綠江援之,僅以身免。
十九年十一月、倭の首領である関白の平秀吉が、来年三月に攻め込むと言い立てていると奏上したので、詔して兵部に海防を重ねて取り締まらせた。平秀吉は薩摩州の人で、はじめ倭の関白である信長に従っていた。信長がその配下に殺されると、秀吉はそこで信長の兵を統べ、自ら関白と号して、六十余州を攻め降した。朝鮮は日本の対馬島と向かい合っており、つねに倭夷が往き来して交易していた。二十年夏五月、秀吉はついに首将の行長・清正らを分けて遣わし、水軍を率いて釜山鎮に迫り、ひそかに臨津江を渡らせた。このころ朝鮮は長く太平が続いて兵は戦いに慣れず、昖もまた酒に浸って備えを緩めていたので、突然島夷が事を起こすと、みな風を望んで崩れ去った。昖は王城を捨て、次子の琿に国事を代行させて平壌へ逃げ、やがてまた義州へ走り、内属を願い出た。七月、兵部は、険要の地に駐屯して天兵を待ち、国中に勤王を呼びかけて回復を図るよう議した。ところがこのとき倭はすでに王京に入り、墳墓を壊し、王子や陪臣を脅し捕らえ、府庫を奪って、八道はほとんど失われ、今日明日にも鴨緑江を渡ろうという勢いで、援軍を請う使者が道に引きも切らなかった。朝廷の議は、朝鮮は国の垣根であり、必ず争うべき地であるとして、行人の薛潘を遣わして昖に興復の大義を諭し、大軍十万が間もなく着くと言い広めさせた。しかし倭はすでに平壌に達していたので、朝鮮の君臣はいっそう急を覚え、愛州へ出て避けた。遊撃の史儒らが軍を率いて平壌に至り、戦って死んだ。副総兵の祖承訓が兵を率いて鴨緑江を渡って援けたが、やっと身一つで逃れただけであった。
14平壌の大勝と碧蹄館
中朝震動,以宋應昌為經略。八月,倭入豐德等郡,兵部尚書石星計無所出,議遣人偵探之,於是嘉興人沈惟敬應募。惟敬者,市中無賴也。是時秀吉次對馬島,分其將行長等守要害為聲援。惟敬至平壤,執禮甚卑。行長紿曰:「天朝幸按兵不動,我不久當還。以大同江為界,平壤以西盡屬朝鮮耳。」惟敬以聞。廷議倭詐未可信,乃趣應昌等進兵。而星頗惑於惟敬,乃題署遊擊,赴軍前,且請金行間。十二月,以李如松為東征提督。明年正月,如松督諸將進戰,大捷於平壤。行長渡大同江,遁還龍山。所失黃海、平安、京畿、江原四道並復,清正亦遁還王京。如松既勝,輕騎趨碧蹄館,敗,退駐開城。事具如松傳。
中朝は震え動き、宋応昌を経略とした。八月、倭が豊徳などの郡に入ったが、兵部尚書の石星は計略の出どころがなく、人を遣わして探らせることを議したので、ここに嘉興の人である沈惟敬が募りに応じた。惟敬は市中の無頼者である。このとき秀吉は対馬島に陣し、その将の行長らを分けて要害を守らせ、後ろ盾とした。惟敬が平壌に至って、礼をとることがはなはだ低かったので、行長は偽って言った。「天朝がさいわい兵を押さえて動かぬなら、我らは間もなく帰ろう。大同江を境とし、平壌より西はすべて朝鮮に属させるだけのことだ。」惟敬がこれを申し上げると、朝廷の議は倭の偽りは信じられぬとして、応昌らに進兵を促した。しかし石星は惟敬にすっかり惑わされ、彼を遊撃に任じて軍前へ遣わし、さらに離間に使う金を請うた。十二月、李如松を東征提督とした。翌年正月、如松は諸将を督して進み戦い、平壌で大勝した。行長は大同江を渡って竜山へ逃げ帰った。失っていた黄海・平安・京畿・江原の四道はすべて回復され、清正もまた王京へ逃げ帰った。如松は勝ちに乗じて軽騎で碧蹄館へ駆けたが敗れ、退いて開城に駐屯した。このことは如松の伝に詳しい。
夾注 1
黃海平安京畿江原四道並復江原,原作「江源」,據李朝實錄世宗實錄卷一五三地理志改。
「黄海・平安・京畿・江原の四道はすべて回復された」の江原は、もと「江源」とあったが、李朝実録の世宗実録巻一五三地理志によって改めた。
15和議の論が起こる
初,如松誓師,欲斬惟敬,以參軍李應試言而止。至是敗,氣縮,而應昌急圖成功,倭亦乏食有歸志,因而封貢之議起。應昌得倭報惟敬書,乃令遊擊周弘謨同惟敬往諭倭,獻王京,返王子,如約縱歸。倭果於四月棄王城遁。時漢江以南千有餘里朝鮮故土復定,兵部言宜令王還國居守,我各鎮兵久疲海外,以次撤歸為便。詔可。應昌疏稱:「釜山雖瀕海南,猶朝鮮境,有如倭覘我罷兵,突入再犯,朝鮮不支,前功盡棄。今撥兵協守為第一策,即議撤,宜少需,俟倭盡歸,量留防戍。」部議留江浙兵五千,分屯要害,仍諭昖蒐練軍實,毋恃外援。已而沈惟敬歸自釜山,同倭使來請款,而倭隨犯咸安、晉州,逼全羅,聲復漢江以南,以王京、漢江為界。如松計全羅饒沃,南原府尤其咽喉,乃命諸將分守要害。已,倭果分犯,我師並有斬獲。兵科給事中張輔之、遼東都御史趙燿皆言款貢不可輕受。七月,倭從釜山移西生浦,送回王子、陪臣。
はじめ如松が軍に誓いを立てたとき、惟敬を斬ろうとしたが、参軍の李応試の言によって思いとどまった。ここに至って敗れると気力が縮み、応昌もまた功を成すことを急ぎ、倭もまた食糧に乏しく帰る気があったので、これによって封貢の議が起こった。応昌は倭が惟敬に返した書を手に入れ、そこで遊撃の周弘謨を惟敬とともに遣わして倭に諭し、王京を差し出し王子を返せば、約束どおり放って帰らせると言わせた。倭は案の定、四月に王城を捨てて逃げた。このとき漢江以南の千余里の朝鮮の旧地が再び定まったので、兵部は、王を国に帰して守らせ、長く海外で疲れたわが各鎮の兵は順に引き揚げさせるのが得策だと言い、詔して許された。応昌は上疏して言った。「釜山は海の南の端にあるとはいえ、なお朝鮮の境内です。もし倭がわが撤兵をうかがって突然また攻め込めば、朝鮮は支えきれず、これまでの功はすべて捨てられます。いま兵を割いてともに守るのが第一の策であり、撤退を議するにしても少し待ち、倭がすべて帰ったのちに、量を見て残して守らせるべきです。」部議により江南・浙江の兵五千を残して要害に分けて駐屯させ、あわせて昖には軍備を集めて訓練し、外からの援けを頼みにするなと諭した。やがて沈惟敬が釜山から帰り、倭の使者とともに来て和議を請うた。ところが倭はそれに続いて咸安・晋州を侵し、全羅を圧迫して、漢江以南を取り戻すと言い立て、王京と漢江を境にしようとした。如松は全羅が肥沃で、南原府がとりわけその喉元であると考え、諸将に命じて要害を分け守らせた。やがて倭が案の定分かれて侵したが、わが軍はいずれも斬り取るところがあった。兵科給事中の張輔之と遼東都御史の趙燿は、いずれも和議と朝貢を軽々しく受けてはならぬと言った。七月、倭は釜山から西生浦へ移り、王子と陪臣を送り返した。
16劉綎だけを残す
時師久暴露,聞撤,勢難久羈。應昌請留劉綎川兵,吳惟忠、駱尚志等南兵,合薊、遼兵共萬六千,聽綎分布慶尚之大丘,月餉五萬兩,資之戶兵二部。先是,發帑給軍費,已累百萬。廷臣言虛內實外非長策,請以所留川兵命綎訓練,兵餉令本國自辦。於是詔撤惟忠等兵,止留綎兵防守。諭朝鮮世子臨海君珒居全慶,以顧養謙為經略。
このころ軍は長く野にさらされて疲れており、撤退と聞けば、勢いとして長く引き留めるのは難しかった。応昌は、劉綎の四川兵と、呉惟忠・駱尚志らの南兵を残し、薊・遼の兵と合わせて一万六千とし、綎に任せて慶尚の大丘に配置させ、月々の糧五万両を戸部・兵部の二部から出すよう請うた。これより先、内蔵を出して軍費に充てたものが、すでに百万に積もっていた。朝廷の臣たちは、内を空にして外を満たすのは長い計ではないと言い、残す四川兵は綎に命じて訓練させ、兵糧は本国に自ら用意させるよう請うた。そこで詔して惟忠らの兵を引き揚げさせ、綎の兵だけを残して守らせ、朝鮮の世子である臨海君の珒に全羅・慶尚に居るよう諭し、顧養謙を経略とした。
17曾偉芳の論策
九月,昖以三都既復,疆域再造,上表謝恩。然時倭猶據釜山也,星益一意主款。九月,兵部主事曾偉芳言:「關白大眾已還,行長留待。知我兵未撤,不敢以一矢加遺。欲歸報關白捲土重來,則風不利,正苦冬寒。故款亦去,不款亦去。沈惟敬前於倭營講購,咸安、晉州隨陷,而欲恃款冀來年不攻,則速之款者,正速之來耳。故款亦來,不款亦來。宜令朝鮮自為守,弔死問孤,練兵積粟,以圖自強。」帝以為然,因敕諭昖者甚至。
九月、昖は三都がすでに回復され、国土が再び造られたとして、表を奉って恩を謝した。しかしこのとき倭はなお釜山に拠っていたのに、石星はいよいよ一途に和議を主張した。九月、兵部主事の曾偉芳が言った。「関白の大軍はすでに帰り、行長が残って待っております。わが兵がまだ撤退していないのを知って、矢一本も加えようとしないのです。帰って関白に報せ、土を巻いて再び来ようとしても風が不利で、ちょうど冬の寒さに苦しむ時期です。ですから和議をしても去り、和議をしなくても去ります。沈惟敬がさきに倭の陣営で和議を談じたときも、咸安・晋州は続けて陥ちました。和議を頼みにして来年攻めて来ないことを願うなら、和議を急がせることは、まさに来るのを急がせることにほかなりません。ですから和議をしても来ますし、和議をしなくても来ます。朝鮮には自ら守らせ、死者を弔い孤児を見舞い、兵を鍛え穀を蓄えて、自強を図らせるべきです。」帝はそのとおりだと考え、そこで昖に下した勅諭はきわめて懇切であった。