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朝鮮 四 — 丁酉の再乱朝鮮 四

明史 朝鮮伝(明史に記された朝鮮の記録) 明史 朝鮮傳 · 張廷玉ほか · 1739年(清・乾隆4年) · 段落 12 · 漢字 2,201字 · 朗読 8.8分

明史 朝鮮伝(明史に記された朝鮮の記録) 全一巻 明が見た朝鮮三百年。威化島回軍と「朝鮮」という国号、宗系弁誣をめぐる二百年の争い、そして半ばを占める壬辰倭乱(文禄・慶長の役)七年戦争の全容(平壌・碧蹄館・蔚山・露梁)まで — 「属国と称したが、国の内と変わりがなかった」と結ぶ最後の正史の朝鮮伝である。

1封貢を押し通す

二十二年正月,昖遣金晬等進方物謝恩。禮部郎中何喬遠奏:「晬涕泣言倭寇猖獗,朝鮮束手受刃者六萬餘人。倭語悖慢無禮,沈惟敬與倭交通,不云和親,輒曰乞降。臣謹將萬曆十九年中國被掠人許儀所寄內地書、倭夷答劉綎書及歷年入寇處置之宜,乞特敕急止封貢。」詔兵部議。時廷臣交章,皆以罷封貢、議戰守為言。八月,養謙奏講貢之說,貢道宜從寧波,關白宜封為日本王,諭行長部倭盡歸,與封貢如約。九月,昖請許保國。帝乃切責羣臣阻撓,追褫御史郭實等。詔小西飛入朝,集多官面議,要以三事:一,勒倭盡歸巢;一,既封不與貢;一,誓無犯朝鮮。倭俱聽從,以聞。帝復諭於左闕,語加周複。十二月,封議定,命臨淮侯李宗城充正使,以都指揮楊方亨副之,同沈惟敬往日本,王給金印,行長授都督僉事。

二十二年正月、昖は金晬らを遣わして方物を献じ、恩を謝した。礼部郎中の何喬遠が奏上した。「晬は涙を流して、倭寇が猛り狂い、朝鮮では手をつかねて刃にかかった者が六万余人に及ぶと申します。倭の言葉は道に背いて傲慢無礼であるのに、沈惟敬は倭と通じていて、和親とは言わず、やたらに降伏を願い出ていると申します。臣は謹んで、万暦十九年に中国から奪われた人である許儀が内地へ寄せた書、倭夷が劉綎に答えた書、および歴年の侵入に対する処置の是非を取りそろえました。とくに勅を下して封貢を急ぎお止めくださいますよう。」詔して兵部に議させた。このころ朝廷の臣たちが次々に上書し、みな封貢をやめて戦い守ることを議すべきだと述べた。八月、養謙が和議と朝貢の説を奏上し、貢路は寧波を通らせ、関白は日本王に封じ、行長に諭して率いる倭をすべて帰らせ、封貢を約束どおりにさせるべきだと言った。九月、昖は国を保たせてほしいと請うた。帝はそこで群臣が妨げることを厳しく責め、御史の郭実らの官を追って剥奪した。詔して小西飛を入朝させ、多くの官を集めて面前で議させ、三つの事に要約した。一つ、倭はことごとく巣に帰ること。一つ、封じはするが朝貢は許さぬこと。一つ、誓って朝鮮を侵さぬこと。倭はみな従うと言ったのでそのことを申し上げ、帝はさらに左闕で諭し、その言葉はいよいよ念入りであった。十二月、封じる議が定まり、臨淮侯の李宗城を正使に、都指揮の楊方亨を副使に命じ、沈惟敬とともに日本へ行かせ、王には金印を与え、行長には都督僉事を授けた。

2光海君の世子册封を阻む

二十三年九月,昖奏立次子琿為嗣。先是,昖庶長子臨海君珒陷賊中,驚憂成疾,次子光海君琿收集流散,頗著功績,奏請立之。禮部尚書范謙言繼統大義,長幼定分,不宜僭差,遂不許。至是復奏,引永樂間恭定王例上請,禮臣執奏,不從。二十四年五月,昖復疏請立琿,禮部仍執不可,詔如議。時國儲未建,中外恫疑,故尚書范謙於朝鮮易封事三疏力持云。

二十三年九月、昖は次子の琿(光海君)を嗣子に立てることを奏上した。これより先、昖の庶長子である臨海君の珒は賊中に落ちて、驚きと憂いから病となり、次子の光海君の琿は散り散りになった者を集めてかなりの功績を挙げていたので、立てることを請うたのである。礼部尚書の范謙は、統を継ぐ大義は長幼の分が定まっており、乱してはならぬと言って、許さなかった。ここに至って重ねて奏上し、永楽年間の恭定王(太宗)の例を引いて請うたが、礼部の臣が主張を押し通して奏上したので、従わなかった。二十四年五月、昖はまた上疏して琿を立てることを請うたが、礼部はなお不可を主張したので、詔してその議のとおりとした。このころ明では皇太子がまだ立っておらず、内外が不安に疑っていたので、尚書の范謙は朝鮮の世子を替える件について三度上疏して強く踏みとどまったのである。

3日本へ渡った册封使

九月,封使至日本。先是,沈惟敬抵釜山,私奉秀吉蟒玉、翼善冠、地圖、武經、良馬。而李宗城以貪淫為倭守臣所逐,棄璽書夜遁。事聞,逮問。乃以方亨充正使,加惟敬神機營銜副之。及是奉冊至,關白怒朝鮮王子不來謝,止遣二使奉白土綢為賀,拒其使不見,語惟敬曰:「若不思二子、三大臣、三都、八道悉遵天朝約付還,今以卑官微物來賀,辱小邦邪?辱天朝邪?且留石曼子兵於彼,候天朝處分,然後撤還。」翌日奉貢,遣使賫表文二道,隨冊使渡海至朝鮮。廷議遣使於朝鮮,取表文進驗,其一謝恩,其一乞天子處分朝鮮。

九月、册封の使者が日本に着いた。これより先、沈惟敬は釜山に至って、ひそかに秀吉に蟒玉・翼善冠・地図・武経・良馬を献じていた。また李宗城は貪欲と淫らな振る舞いのために倭の守臣に追われ、璽書を捨てて夜逃げした。このことが知られると、捕らえて問い詰めた。そこで方亨を正使とし、惟敬に神機営の職名を加えて副使とした。さて册書を奉じて着くと、関白は朝鮮の王子が来て謝さないことに怒り、二人の使者が白土綢を奉って賀するだけであったので、その使者を拒んで会わず、惟敬に言った。「二人の王子、三人の大臣、三都、八道をことごとく天朝の約束どおり返したことを思わず、いま低い官と粗末な品を持って賀しに来るのは、小邦を侮るのか、天朝を侮るのか。しばらく石曼子の兵をあちらに残し、天朝の処分を待ってから引き揚げよう。」翌日、貢物を奉り、使者に表文二通を持たせて、册使に従って海を渡り朝鮮に至らせた。朝廷の議により朝鮮へ使者を遣わして表文を取り寄せて検めたところ、一通は恩を謝するもの、もう一通は天子に朝鮮を処分してほしいと願うものであった。

4石星と沈惟敬の失脚

初,方亨詭報去年從釜山渡海,倭於大版受封,即回和泉州。然倭方責備朝鮮,仍留兵釜山如故,謝表後時不發,方亨徒手歸。至是,惟敬始投表文,案驗潦草,前折用豐臣圖書,不奉正朔,無人臣禮。而寬奠副總兵馬棟報清正擁二百艘屯機張營。方亨始直吐本未,委罪惟敬,幷呈石星前後手書。帝大怒,命逮石星、沈惟敬案問。以兵部尚書邢玠總督薊、遼;改麻貴為備倭大將軍,經理朝鮮;僉都御史楊鎬駐天津,申警備;楊汝南、丁應泰贊畫軍前。

はじめ方亨は、去年釜山から海を渡り、倭は大坂で封を受け、すぐに和泉州へ帰ったと偽って報せていた。しかし倭はまさに朝鮮を責めており、依然として釜山に兵を残したまま、謝恩の表文も時が過ぎても出さなかったので、方亨は手ぶらで帰った。ここに至って惟敬がようやく表文を差し出したが、調べてみると粗略で、前の折り目には豊臣の印を用い、明の暦を奉じておらず、臣下の礼がなかった。そのうえ寛奠副総兵の馬棟が、清正が二百艘を抱えて機張営に陣取っていると報せた。方亨はそこでようやく本末をありのままに吐き、罪を惟敬に押しつけ、あわせて石星の前後の自筆の書を差し出した。帝は大いに怒り、石星と沈惟敬を捕らえて取り調べるよう命じた。兵部尚書の邢玠に薊・遼を総督させ、麻貴を備倭大将軍に改めて朝鮮を経理させ、僉都御史の楊鎬は天津に駐屯して警備を重ねて整え、楊汝南と丁応泰を軍前の贊画とした。

5邢玠が開戦を決意する

五月,玠至遼。行長建樓,清正布種,島倭窖水,索朝鮮地圖,玠遂決意用兵。麻貴望鴨綠江東發,所統兵僅萬七千人,請濟師。玠以朝鮮兵惟嫺水戰,乃疏請募兵川、浙,幷調薊、遼、宣、大、山、陝兵及福建、吳淞水師,劉綎督川、漢兵聽剿。貴密報候宣、大兵至,乘倭未備,掩釜山,則行長擒,清正走。玠以為奇計,乃檄楊元屯南原,吳惟忠屯忠州。

五月、玠が遼東に至った。行長は櫓を建て、清正は種を撒き、島の倭は水を穴に蓄え、朝鮮の地図を探していたので、玠はついに兵を用いる決意をした。麻貴は鴨緑江の東を目指して発ったが、率いる兵はわずか一万七千で、増援を請うた。玠は朝鮮の兵は水戦にしか慣れていないとして、上疏して四川・浙江で兵を募り、あわせて薊・遼・宣府・大同・山西・陝西の兵、および福建・呉淞の水軍を動かし、劉綎に四川・漢中の兵を率いさせて討伐を監督させるよう請うた。貴がひそかに、宣府・大同の兵が着くのを待って、倭が備えていない隙に釜山を襲えば、行長は捕らえられ清正は逃げると報せたので、玠はこれを奇計と考え、そこで檄を飛ばして楊元を南原に、呉惟忠を忠州に駐屯させた。

夾注 1

五月玠至遼按邢玠至遼東,以及上文所述楊方亨自朝鮮還奏、邢玠為薊遼總督等事,均在萬曆二十五年,見神宗實錄卷三0八三月己酉、己未各條,傳文失載年分。

「五月、玠が遼東に至った」 — 邢玠が遼東に至ったこと、および前文に述べられた楊方亨が朝鮮から帰って奏上したこと、邢玠が薊・遼の総督となったことなどは、いずれも万暦二十五年のことで、神宗実録巻三〇八の三月己酉・己未の各条に見える。伝文には年が記されていない。

6閑山島が崩れる

六月,倭數千艘泊釜山,戮朝鮮郡守安弘國,漸逼梁山、熊川。惟敬率營兵二百,出入釜山。玠陽為慰藉,檄楊元襲執之,縛至貴營,惟敬執而嚮導始絕。七月,倭奪梁山、三浪,遂入慶州,侵閑山。統制元均兵潰,遂失閑山。閑山島在朝鮮西海口,右障南原,為全羅外藩,一失守則沿海無備,天津、登、萊皆可揚帆而至。而我水兵三千甫抵旅順,閑山破,經略檄守王京西之漢江、大同江,扼倭西下,兼防運道。

六月、倭船数千艘が釜山に泊まり、朝鮮の郡守である安弘国を殺し、次第に梁山・熊川へ迫った。惟敬が営の兵二百を率いて釜山を出入りしていたので、玠は表向きは慰める振りをして、檄を飛ばして楊元に襲わせて捕らえさせ、貴の陣営へ縛って送らせた。惟敬が捕らえられて、ようやく道案内が絶えた。七月、倭が梁山・三浪を奪い、ついに慶州に入って閑山を侵した。統制の元均の軍が崩れ、ついに閑山を失った。閑山島は朝鮮の西海の入り口にあって、右手に南原を遮る、全羅の外囲いである。ひとたび守りを失えば沿海に備えがなくなり、天津・登州・莱州までみな帆を揚げて着けるようになる。わが水兵三千がようやく旅順に着いたとき、閑山が破られたので、経略は檄を飛ばして王京の西の漢江と大同江を守らせ、倭が西へ下るのを押さえ、あわせて輸送路を守らせた。

7南原の陥落と王京の防衛

八月,清正圍南原,乘夜猝攻,守將楊元遁。時全州有陳愚衷,去南原僅百里,南原告急,愚衷不敢救,聞已破,棄城走。麻貴遣遊擊牛伯英赴援,與愚衷合兵,屯公州。倭遂犯全慶,逼王京。王京為朝鮮八道之中,東阻烏嶺、忠州,西則南原、全州,道相通。自二城失,東西皆倭,我兵單弱,因退守王京,依險漢江。麻貴請於玠,欲棄王京退守鴨綠江。海防使蕭應宮以為不可,自平壤兼程趨王京止之。麻貴發兵守稷山,朝鮮亦調都體察使李元翼由烏嶺出忠清道遮賊鋒。玠既身赴王京,人心始定。玠召參軍李應試問計,應試請問廟廷主畫云何。玠曰:「陽戰陰和,陽剿陰撫,政府八字密畫,無泄也。」應試曰:「然則易耳。倭叛以處分絕望,其不敢殺楊元,猶望處分也。直使人諭之曰沈惟敬不死,則退矣。

八月、清正が南原を囲み、夜に乗じて突然攻めたので、守将の楊元は逃げた。このとき全州に陳愚衷がいて、南原とはわずか百里の隔たりであったのに、南原が急を告げても愚衷は救いに行く勇気がなく、すでに破られたと聞くと城を捨てて逃げた。麻貴は遊撃の牛伯英を遣わして救援に向かわせ、愚衷と兵を合わせて公州に駐屯させた。倭はついに全羅・慶尚を侵し、王京に迫った。王京は朝鮮八道の中央にあり、東は烏嶺・忠州に遮られ、西は南原・全州へ道が通じているが、この二城を失ってからは東も西も倭で、わが兵は少なく弱かったので、退いて王京を守り、漢江の険しさに頼った。麻貴は玠に願って、王京を捨てて退き鴨緑江を守ろうとしたが、海防使の蕭応宮はそれではならぬとして、平壌から道を倍に急いで王京へ駆けつけ、これを止めた。麻貴は兵を出して稷山を守り、朝鮮も都体察使の李元翼を動かして、烏嶺から忠清道へ出て賊の矛先を遮らせた。玠が自ら王京に着くと、人心はようやく落ち着いた。玠は参軍の李応試を呼んで計を問うと、応試は、朝廷の主たる構図はどうなっているのかとお尋ねした。玠は「表では戦いながら裏で和し、表では討ちながら裏で撫する。政府の八字の密計である。漏らしてはならぬ」と言った。応試は言った。「それならば簡単です。倭が背いたのは処分に望みを絶たれたからであり、あえて楊元を殺さなかったのも、なお処分を望んでいるからです。ただ人を遣わして、沈惟敬は死んでいないと諭せば、退くでしょう。」

夾注 1

東阻烏嶺烏嶺,原作「鳥嶺」,據本書卷二四七劉綎傳、神宗實錄卷三一五萬曆二十五年十月辛酉條改。下同。

「東は烏嶺・忠州に遮られ」の烏嶺は、もと「鳥嶺」とあったが、本書巻二四七の劉綎伝、および神宗実録巻三一五の万暦二十五年十月辛酉の条によって改めた。以下も同じ。

8稷山の戦い

」因請使李大諫於行長,馮仲纓於清正,玠從之。九月,倭至漢江,楊鎬遣張貞明持惟敬手書往,責其動兵,有乖靜候處分之實。行長、正成亦尤清正輕舉,乃退屯井邑。麻貴遂報青山、稷山大捷。蕭應宮揭言:「倭以惟敬手書而退,青山、稷山幷未接戰,何得言功?」玠、鎬怒,遂劾應宮恇怯,不親解惟敬,並逮。

そこで李大諫を行長に、馮仲纓を清正に使者として遣わすことを請い、玠はこれに従った。九月、倭が漢江に至ると、楊鎬は張貞明に惟敬の自筆の書を持たせて遣わし、兵を動かしたことが静かに処分を待つという実と食い違っていると責めさせた。行長と正成もまた清正の軽はずみを咎めたので、そこで退いて井邑に陣取った。麻貴はそこで青山・稷山の大勝を報じた。蕭応宮が揭文で「倭は惟敬の自筆の書によって退いたのであり、青山・稷山では交戦すらしていない。どうして功を言えるのか」と述べたので、玠と鎬は怒り、ついに応宮が臆病で惟敬を自ら護送しなかったと弾劾し、あわせて捕らえさせた。

9蔚山を囲む

十一月,玠徵兵大集,帝發帑金犒軍,賜玠尚方劍,而以御史陳效監其軍。玠大會諸將,分三協。鎬同貴率左右協,自忠州、烏嶺向東安,趨慶州,專攻清正。使李大諫通行長,約勿往援。復遣中協屯宜城,東援慶州,西扼全羅。以餘兵會朝鮮合營,詐攻順天等處,以牽制行長東援。十二月,會慶州。麻貴遣黃應賜賄清正約和,而率大兵奄至其營。時倭屯蔚山,城依山險,中一江通釜寨,其陸路由彥陽通釜山。貴欲專攻蔚山,恐釜倭由彥陽來援,乃多張疑兵,又遣將遏其水路,遂進逼倭壘。遊擊擺寨以輕騎誘倭入伏,斬級四百餘,獲其勇將,乘勝拔兩柵。

十一月、玠が兵を徴発して大いに集めると、帝は内蔵の金を出して軍を労い、玠に尚方の剣を賜り、御史の陳效にその軍を監督させた。玠は諸将を大いに集めて三つの協に分けた。鎬は貴とともに左協・右協を率い、忠州・烏嶺から東安へ向かって慶州へ進み、清正だけを攻めることとし、李大諫に行長と通じさせて救援に行かぬよう約させた。さらに中協を宜城に駐屯させ、東は慶州を援け、西は全羅を押さえさせた。残りの兵は朝鮮と陣を合わせ、順天などを攻める振りをして、行長が東へ援けに行くのを牽制した。十二月、慶州に集まった。麻貴は黄応賜を遣わして清正に賄を贈り和を約させておきながら、大軍を率いて不意にその陣営へ迫った。このとき倭は蔚山に陣取っており、城は山の険しさに拠り、真ん中の一筋の川が釜山の砦へ通じ、陸路は彦陽を経て釜山へ通じていた。貴は蔚山だけを攻めようとしたが、釜山の倭が彦陽から援けに来ることを恐れ、そこで偽の兵を多く並べ、さらに将を遣わしてその水路を遮り、ついに進んで倭の塁に迫った。遊撃の擺寨が軽騎で倭を誘って伏兵に引き込み、四百余の首を斬り、その勇将を捕らえ、勝ちに乗じて二つの柵を奪った。

夾注 2

遣黃應賜賄清正約和黃應賜,明史稿傳一九四朝鮮傳、國榷卷七八頁四八0五作「黃應暘」。

「黄応賜を遣わして清正に賄を贈り和を約させ」の黄応賜は、明史稿の伝一九四朝鮮伝および国榷巻七八の四八〇五頁に「黄応暘」とある。

時倭屯蔚山蔚山,原作「尉山」,據本書卷二五九楊鎬傳及卷二三八麻貴傳、神宗實錄卷三一七萬曆二十五年十二月丙戌條、國榷卷七七頁四八0四改。下同。

「このとき倭は蔚山に陣取っていた」の蔚山は、もと「尉山」とあったが、本書巻二五九の楊鎬伝および巻二三八の麻貴伝、神宗実録巻三一七の万暦二十五年十二月丙戌の条、国榷巻七七の四八〇四頁によって改めた。以下も同じ。

10島山の大敗

倭焚死者無算,遂奔島山,連築三寨。翌日,遊擊茅國器統浙兵先登,連破之,斬獲甚多,倭堅壁不出。島山視蔚山高,石城堅甚,我師仰攻多損傷。諸將乃議曰:「倭艱水道,餉難繼,第坐困之,清正可不戰縛也。」鎬等以為然,分兵圍十日夜,倭饑甚,偽約降緩攻。俄行長援兵大至,將繞出軍後。鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬。上聞之,震怒。乃罷鎬聽勘,以天津巡撫萬世德代。事詳鎬傳。

倭の焼け死んだ者は数え切れず、ついに島山へ逃げて、続けて三つの砦を築いた。翌日、遊撃の茅国器が浙江の兵を率いて先に登り、続けてこれを破り、斬り取った数がはなはだ多かったので、倭は壁を固めて出て来なくなった。島山は蔚山より高く、石の城がきわめて堅固で、わが軍は見上げて攻めたために損害が多かった。そこで諸将が議して言った。「倭は水路が細って兵糧を続けにくい。ただ座ったまま困らせれば、清正は戦わずして縛れる。」鎬らはそのとおりだと考え、兵を分けて十日十夜囲んだ。倭はひどく飢え、偽って降伏を約して攻撃を緩めさせた。やがて行長の援軍が大挙して到り、軍の背後へ回り込もうとした。鎬は命令を下す間もなく馬に鞭打って西へ逃げ、諸軍はみな崩れた。ついに兵を引いて王京へ帰ったが、死んだ士卒は二万であった。上はこれを聞いて激しく怒った。そこで鎬を罷免して取り調べを待たせ、天津巡撫の万世徳を代わりとした。このことは鎬の伝に詳しい。

11水陸の四路

二十六年正月,邢玠以前役乏水兵無功,乃益募江南水兵,議海運,為持久計。二月,都督陳璘以廣兵,劉綎以川兵,鄧子龍以浙、直兵先後至。玠分兵三協,為水陸四路,路置大將。中路如梅,東路貴,西路綎,水路璘,各守汛地,相機行剿。時倭亦分三窟。東路則清正,據蔚山。西路則行長,據粟林、曳橋,建砦數重。中路則石曼子,據泗州。而行長水師番休濟餉,往來如駛。我師約日並進,尋報遼陽警,李如松敗沒,詔如梅還赴之,中路以董一元代。

二十六年正月、邢玠は、先の戦役が水兵に乏しくて功がなかったとして、そこで江南の水兵をさらに募り、海運を議して長期の計を立てた。二月、都督の陳璘が広東の兵を、劉綎が四川の兵を、鄧子竜が浙江・直隷の兵を率いて前後して着いた。玠は兵を三つの協に分けて水陸四路とし、路ごとに大将を置いた。中路は李如梅、東路は麻貴、西路は劉綎、水路は陳璘として、それぞれ持ち場を守り、機を見て討たせた。このとき倭もまた三つの巣に分かれ、東路は清正が蔚山に拠り、西路は行長が粟林・曳橋に拠って砦を幾重にも構え、中路は石曼子が泗州に拠っていた。しかも行長の水軍が交代で休みながら兵糧を運び、往き来が飛ぶように速かった。わが軍は日を約して一斉に進もうとしたが、折しも遼陽の警報が届き、李如松が敗れて死んだので、詔して如梅をそちらへ引き返させ、中路は董一元を代わりとした。

12丁応泰の事件

當應泰之劾鎬也,昖請回乾斷,崇勵鎮撫,以畢征討。上不許。又應泰曾以築城之議為鎬罪案,謂堅城得志,啟朝鮮異日之患,於是昖奏辨。帝曰:「連年用兵發餉,以爾國素効忠順故也,毋以人言自疑。」

応泰が鎬を弾劾したとき、昖は、お上のご裁断を翻し、鎮撫する者を高く励まして征討をやり遂げさせてほしいと請うたが、上は許さなかった。また応泰はかつて築城の議を鎬の罪状とし、堅固な城で思いどおりにできれば、朝鮮の後日の患いを開くことになると言ったので、そこで昖が奏上して申し開きをした。帝は「連年兵を出し兵糧を出したのは、そなたの国が平素から忠順を尽くしてきたからである。他人の言葉で自ら疑うことはない」と言った。

夾注 1

又應泰曾以築城之議為鎬罪案應泰,原作「應」,脫「泰」字,據上文及神宗實錄卷三二七萬曆二十六年十月癸丑條補。「應泰」指丁應泰,不宜省。

「また応泰がかつて築城の議を楊鎬の罪状とした」の応泰は、もと「応」だけで「泰」の字が落ちていたが、前文および神宗実録巻三二七の万暦二十六年十月癸丑の条によって補った。「応泰」は丁応泰を指すので、省いてはならない。