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李衛公問対 — 巻下唐李問對 卷下

武経七書(七つの兵法書)— 孫子を除いた六つ 武經七書 · 姜太公に仮託・黄石公に仮託・尉繚・呉起・司馬穰苴・李靖 · 戦国時代〜唐(紀元前4世紀〜7世紀) · 段落 15 · 漢字 3,029字 · 朗読 12.1分

武経七書(七つの兵法書)— 孫子を除いた六つ 李衛公問対 宋が武官を選ぶ教科書として定めた七つの兵書のうち、孫子兵法を除いた六つ。六韜は文王・武王が太公望に問う問答で、国の治めから車・騎兵・野戦・水渡りまで六十篇、三略は黄石公が張良に与えたという短い三篇、尉繚子は秦の前後の軍令と伍・什の編制を細かに記した二十四篇、呉子は呉起が魏の武侯に答えた六篇、司馬法は春秋以前の軍礼を伝える五篇、李衛公問対は唐の太宗と李靖が奇正・虚実・蕃漢・攻守をやり取りした三巻である。「兵は凶器である」、「人を至らせて人に引かれない」、「千章万句も、さまざまな方法で誤らせるというその一句を越えない」がここから出た。孫子兵法の次に読む兵家の残りの六つの流れを一か所に集めた。

1丘墓と古城 — 陰陽の忌みは人の事にすぎない

太宗曰:「太公云:『以步兵與車騎戰者,必依丘墓、險阻。』,又《孫子》云:『天隙之地,丘墓、故城,兵不可處。』,如何?」 靖曰:「用眾在乎心一,心一在乎禁祥去疑。儻主將有所疑忌,則羣情搖;羣情搖,則敵乘釁而至矣。故安營據地,便乎人事而已。若澗、井、陷、隙之地,及如牢羅之處,人事不便者也。故兵家引而避之,防敵乘我。丘墓故城,非絕險處,我得之為利,豈宜反去之乎?太公所說,兵之至要也。」 太宗曰:「朕思凶器無甚於兵者,行兵苟便於人事,豈以避忌為疑?今後,諸將有以陰陽拘忌、失於事宜者,卿當丁寧誡之。」 靖再拜謝曰:「臣按《尉繚子》云:『黃帝以德守之,以刑伐之,是謂刑德。非天官、時日之謂也。』,然詭道可使由之,不可使知之。後世庸將,泥於術數,是以多敗,不可不誡也。陛下聖訓,臣即宣告諸將。」

太宗が「太公は『歩兵で車や騎と戦うには、必ず丘墓や険阻に依れ』と言い、また『孫子』に『天隙の地、丘墓や古城には兵を置けない』とあるが、どうなのか」と言うと、 李靖が言った。「衆を用いるのは心が一つになることにあり、心が一つになるのは祥を禁じ疑いを去ることにあります。もし主将に疑い忌むところがあれば群情が揺れ、群情が揺れれば敵が隙に乗じて至ります。ですから営を安らかにし地に拠るのは、人の事に便であるだけのことです。澗・井・陥・隙の地や、牢や羅のような所は、人の事に便でないものです。ですから兵家は引いてこれを避け、敵が我に乗じるのを防ぎます。丘墓や古城は絶険の処ではなく、我が得れば利となるのに、どうしてかえって去るのが適切でしょうか。太公の説いたところが兵の至要です。」 太宗が「朕が思うに凶器として兵より甚しいものはない。兵を行って本当に人の事に便であれば、どうして避け忌むことで疑おうか。今後、諸将のうちに陰陽の拘りや忌みで事の宜しさを失う者があれば、卿はていねいに戒めよ」と言った。 李靖は再拝して謝し、言った。「臣が『尉繚子』を調べますと『黄帝は徳でこれを守り、刑でこれを伐った。これを刑徳という。天官や時日のことを言うのではない』とあります。しかし詭る道は、それに由らせることはできても、知らせることはできません。後世の凡庸な将が術数に泥み、それで多く敗れますから、戒めないわけにはいきません。陛下の聖訓を、臣はただちに諸将に宣告します。」

2分かつことと集めること — 苻堅の淝水と呉漢の蜀

太宗曰:「兵有分有聚,各貴適宜。前代事迹,孰為善此者?」 靖曰:「苻堅總百萬之眾,而敗於淝水,此兵能合而不能分之所致也。吳漢討公孫述,與副將劉尚分屯,相去二十里,述來攻漢,尚出合擊,大破之,此兵分而能合之所致也。太公云:『分不分,為縻軍;聚不聚,為孤旅。』」 太宗曰:「然。苻堅初得王猛,實知兵,遂取中原。及猛卒,堅果敗,此縻軍之謂乎?吳漢為光武所任,兵不遙制,故漢果平蜀,此不陷孤旅之謂乎?得失事迹,足為萬代鑑。」

太宗が「兵には分かつことがあり集めることがあって、それぞれ適切であるのを貴ぶ。前代の事迹のうち、誰がこれをよくした者か」と言うと、 李靖が言った。「苻堅は百万の衆を総べながら淝水で敗れました。これは兵が合わせることはできても分かつことができなかったために至ったことです。呉漢が公孫述を討ったとき、副将の劉尚と分かれて屯し、互いに二十里離れていましたが、述が来て漢を攻めると尚が出て合わせ撃ち、大いに破りました。これは兵が分かれていても合わせられたために至ったことです。太公は『分かつべきを分かたなければ縻軍となり、集めるべきを集めなければ孤旅となる』と言いました。」 太宗が言った。「そうだ。苻堅は初め王猛を得たが、王猛はまことに兵を知っており、ついに中原を取った。猛が死ぬと堅は果たして敗れた。これが縻軍というものか。呉漢は光武に任され、兵を遠くから制されなかったので、漢は果たして蜀を平らげた。これが孤旅に陥らなかったというものか。得失の事迹は万代の鑑とするに足る。」

3「多方によって誤らせる」という一句

太宗曰:「朕觀千章萬句,不出乎『多方以誤之』一句而已。」 靖良久曰:「誠如聖語。大凡用兵,若敵人不誤,則我師安能克哉?譬如奕棊,兩敵均焉,一著或失,竟莫能救。是古今勝敗,率由一誤而已,況多失者乎!」

太宗が「朕が千章万句を見たところ、『多方によってこれを誤らせる』という一句を出ないだけだ」と言うと、 李靖はしばらくしてから言った。「まことに聖なるお言葉のとおりです。おおよそ兵を用いるとき、敵が誤らなければ我が師はどうして克てましょうか。たとえば碁のように、二人の敵が均しいのに、一手を誤れば、ついに救えません。これで古今の勝敗はおおむね一つの誤りから来ているだけです。まして多く失う者はなおさらです。」

4攻と守は一つの法 — 足らざるを示し、余りあるを示す

太宗曰:「攻守二事,其實一法歟?《孫子》言:『善攻者,敵不知其所守;善守者,敵不知其所攻。』即不言敵來攻我,我亦攻之;我若自守,敵亦守之。攻守兩齊,其術奈何?」 靖曰:「前代似此相攻相守者,多矣。皆曰:『守則不足,攻則有餘。』便謂不足為弱,有餘為強,蓋不悟攻守之法也。臣案《孫子》云:『不可勝者,守也;可勝者,攻也。』謂敵未可勝,則我且自守;待敵可勝,則攻之爾;非以強弱為辭也。後人不曉其義,則當攻而守,當守而攻。二役既殊,故不能一其法。」 太宗曰:「信乎!有餘不足,使後人惑其強弱。殊不知守之法,要在示敵以不足;攻之法,要在示敵以有餘也。示敵以不足,則敵必來攻,此是敵不知其所攻者也;示敵以有餘,則敵必自守,此是敵不知其所守者也。攻守一決,敵與我分為二事。若我事得,則敵事敗;敵事得,則我事敗。得失成敗,彼我之事分焉。攻守者,一而已矣;得一者,百戰百勝。故曰:『知彼知己,百戰不殆。』其知一之謂乎?」 靖再拜曰:「深乎!聖人之法也。攻是守之機,守是攻之策,同歸乎勝而已矣。若攻不知守,守不知攻,不唯二其事,抑又二其官;雖口誦孫、吳,而心不思妙攻守兩齊之說,其孰能知其然哉?」

太宗が「攻と守の二つの事は、実は一つの法なのか。『孫子』は『よく攻める者には、敵がその守るところを知らず、よく守る者には、敵がその攻めるところを知らない』と言うが、敵が来て我を攻めれば我もまたこれを攻め、我がみずから守れば敵もまた守る、ということは言っていない。攻と守が両方そろっているとき、その術はどうするのか」と言うと、 李靖が言った。「前代にこのように互いに攻め互いに守った例は多くあります。みな『守るのは足らず、攻めるのは余りある』と言い、そのまま足らないのを弱いこと、余りあるのを強いことと思いますが、おおよそ攻守の法を悟っていないのです。臣が『孫子』を調べますと『勝てないのは守りであり、勝てるのは攻めである』とあります。敵にまだ勝てなければ我はまずみずから守り、敵に勝てるようになるのを待って攻めよということで、強弱をもって言ったのではありません。後の人がその意を分からず、攻めるべきときに守り、守るべきときに攻めます。二つの役がすでに異なりますので、その法を一つにできないのです。」 太宗が言った。「まことにそうだ。余りあると足らないとが、後の人をその強弱に惑わせた。守る法は要が敵に足らないさまを示すことにあり、攻める法は要が敵に余りあるさまを示すことにあると、まったく知らなかったのだ。敵に足らないさまを示せば敵は必ず来て攻める。これが敵がその攻めるところを知らないということだ。敵に余りあるさまを示せば敵は必ずみずから守る。これが敵がその守るところを知らないということだ。攻と守は一たび決するものなのに、敵と我が分かれて二つの事となる。我の事が得られれば敵の事が敗れ、敵の事が得られれば我の事が敗れる。得失と成敗は、彼と我の事に分かれる。攻守は一つであるだけだ。一つを得た者は百戦して百勝する。だから『彼を知り己を知れば百戦しても危うくない』と言う。その一つを知ることを言うのか。」 李靖は再拝して言った。「深いものです、聖人の法は。攻は守の機であり、守は攻の策であって、ともに勝ちに帰するだけです。攻めながら守るを知らず、守りながら攻めるを知らなければ、その事を二つにするだけでなく、その官まで二つにします。口では孫・呉を唱えても、心で攻守が両方そろうという妙なる説を思わなければ、誰がそうであることを知れましょうか。」

5「国が大きくても戦いを好めば亡びる」 — 心を攻め、気を守る

太宗曰:「《司馬法》言:『國雖大,好戰必亡;天下雖平,忘戰必危。』,此亦攻守一道乎?」 靖曰:「有國有家者,曷嘗不講乎攻守也?夫攻者,不止攻其城、擊其陳而已,必有攻其心之術焉;守者,不止完其壁、堅其陳而已,必也守吾氣而有待焉。大而言之,為君之道;小而言之,為將之法。夫攻其心者,所謂知彼者也;守吾氣者,所謂知己者也。」 太宗曰:「誠哉!朕常臨陳,先料敵之心與己之心孰審,然後彼可得而知焉;察敵之氣與己之氣孰治,然後我可得而知焉。是以知彼知己,兵家大要。今之將臣,雖未知彼,苟能知己,則安有失利者哉?」 靖曰:「孫武所謂『先為不可勝』者,知己者也;『以待敵之可勝』者,知彼者也。又曰:『不可勝在己,可勝在敵。』臣斯須不敢失此誡。」

太宗が「『司馬法』に『国が大きくても戦いを好めば必ず亡び、天下が平らかでも戦いを忘れれば必ず危うい』とあるが、これも攻守が一つの道なのか」と言うと、 李靖が言った。「国を持ち家を持つ者が、攻守を講じなかったことがありましょうか。攻めるとは、その城を攻めその陣を撃つにとどまらず、必ずその心を攻める術があります。守るとは、その壁を完うしその陣を堅くするにとどまらず、必ず我が気を守って待つことがあります。大きく言えば君たる道、小さく言えば将たる法です。その心を攻めるとはいわゆる彼を知ることであり、我が気を守るとはいわゆる己を知ることです。」 太宗が言った。「まことにそうだ。朕は常に陣に臨めば、まず敵の心と己の心のどちらが審らかかを料り、そのうえで彼を知ることができた。敵の気と己の気のどちらが治まっているかを察し、そのうえで我を知ることができた。だから彼を知り己を知ることが兵家の大要だ。いまの将たる臣が、彼を知らなくても、まことに己を知れるなら、どうして利を失う者があろうか。」 李靖が言った。「孫武のいわゆる『まず勝てないようにしておく』のが己を知ることであり、『敵に勝てるようになるのを待つ』のが彼を知ることです。また『勝てないのは己にあり、勝てるのは敵にある』とあります。臣は一瞬も敢えてこの戒めを失いません。」

6「三軍の気を奪える」 — 朝の気は時刻ではない

太宗曰:「《孫子》言『三軍可奪氣』之法:『朝氣銳,晝氣惰,暮氣歸。善用兵者,避其銳氣,擊其惰歸。』,如何?」 靖曰:「夫含生稟血,鼓作鬬爭,雖死不省者,氣使然也。故用兵之法,必先察吾士眾,激吾勝氣,乃可以擊敵焉。吳起『四機』,以氣機為上,無他道也,能使人人自鬬,則其銳莫當。所謂朝氣銳者,非限時刻而言也;舉一日始末為喻也。凡三鼓,而敵不衰不竭,則安能必使之惰歸哉?蓋學者徒謂空文,而為敵所誘。苟悟奪之之理,則兵可任矣。」

太宗が「『孫子』が言う『三軍の気を奪える』法に『朝の気は鋭く、昼の気は惰り、暮れの気は帰る。兵をよく用いる者は、その鋭気を避け、惰り帰るのを撃つ』とあるが、どうなのか」と言うと、 李靖が言った。「命を含み血を受けたものが、鼓を打って闘争を起こし、死んでも顧みないのは、気がそうさせるのです。ですから兵を用いる法は、必ずまず我が士衆を察し、我が勝つ気を激してこそ、敵を撃てます。呉起の『四機』で気の機を上とするのは、ほかに道がないからで、人ひとりひとりをみずから闘わせられれば、その鋭さに当たる者はありません。いわゆる朝の気が鋭いというのは、時刻を限って言ったのではなく、一日の始めと終わりを挙げて喩えたのです。およそ三たび鼓を打っても敵が衰えず尽きなければ、どうして必ず惰り帰らせられましょうか。おおよそ学ぶ者がただ空文と思って、敵に誘われるのです。まことに奪う理を悟れば、兵を任せられます。」

7李勣をどのように太子に継がせるか

太宗曰:「卿嘗言李勣能兵法,久可用否?然非朕控御,則不可用也。他日太子治,若何御之?」 靖曰:「為陛下計,莫若黜勣,令太子復用之,則必感恩圖報,於理何損乎?」 太宗曰:「善!朕無疑矣。」

太宗が「卿はかつて李勣が兵法に能いと言ったが、長く用いられるか。しかし朕が制御しなければ用いられない。後日、太子の治がどうして彼を御するのか」と言うと、 李靖は「陛下のために計りますと、勣を退けて、太子に改めて用いさせるのに越したことはありません。そうすれば必ず恩に感じて報いを図ります。理にどんな損がありましょうか」と答えた。 太宗が「善い。朕に疑いはない」と言った。

8李勣と長孫無忌がともに国政を執れば

太宗曰:「李勣若與長孫無忌共掌國政,他日如何?」 靖曰:「勣忠義,臣可保任也。無忌佐命大功,陛下以肺腑之親,委之輔相;然外貌下士,內實嫉賢。故尉遲敬德,面折其短,遂引退焉;侯君集恨其忘舊,因以犯逆,皆無忌致其然也。陛下詢及臣,臣不敢避其說。」 太宗曰:「勿泄也,朕徐思其處置。」

太宗が「李勣がもし長孫無忌とともに国政を掌れば、後日どうなるか」と言うと、 李靖が言った。「勣は忠義で、臣が保証できます。無忌は創業を助けた大功があり、陛下は肺腑の親しみでこれに輔相を委ねられました。しかし外では士に身を下しながら、内は実は賢者を嫉みます。ですから尉遅敬徳が面前でその短所を折り、ついに引き退きました。侯君集は旧い恩を忘れたと恨み、それによって逆を犯しました。みな無忌がそうさせたのです。陛下が臣にお尋ねになりましたので、臣は敢えてその説を避けません。」 太宗が「漏らすな。朕が徐ろにその処置を思う」と言った。

9将を将いる君 — 劉邦・項羽と光武帝

太宗曰:「漢高祖能將將,其後韓、彭見誅,蕭何下獄,何故如此?」 靖曰:「臣觀劉、項,皆非將將之君。當秦之亡也,張良本為韓報仇。陳平、韓信皆怨楚不用,故假漢之勢,自為奮爾。至於蕭、曹、樊、灌,悉由亡命。高祖因之以得天下。設使六國之後復立,人人各懷其舊,則雖有能將將之才,豈為漢用哉?臣謂漢得天下,由張良借箸之謀,蕭何漕輓之功也。以此言之,韓、彭見誅,范增不用,其事同也。臣故謂劉、項皆非將將之君。」 太宗曰:「光武中興,能保全功臣,不任以吏事,此則善於將將乎?」 靖曰:「光武雖藉前構,易於成功,然莽勢不下於項籍,寇、鄧未越於蕭、張,獨能推赤心,用柔治,保全功臣,賢於高祖遠矣!以此論將將之道,臣謂光武得之。」

太宗が「漢の高祖は将を将いることができたのに、その後、韓信・彭越が誅され、蕭何が獄に下された。どうしてこうなったのか」と言うと、 李靖が言った。「臣が劉と項を見ますと、みな将を将いる君ではありません。秦が亡びるとき、張良はもともと韓のために仇を報じようとしました。陳平と韓信はみな楚が用いなかったことを怨みましたので、漢の勢いを借りてみずから奮ったにすぎません。蕭何・曹参・樊噲・灌嬰に至っては、みな亡命から出ています。高祖はこれによって天下を得ました。もし六国の後裔が再び立っていたら、人ひとりひとりがそれぞれ旧い主を懐いたでしょう。将を将いる才があっても、どうして漢に用いられましょうか。臣が思いますに、漢が天下を得たのは、張良が箸を借りた謀と、蕭何が漕ぎ輓いた功によります。これで言えば、韓信・彭越が誅されたことと、范増が用いられなかったことは、その事が同じです。臣はですから劉と項がみな将を将いる君ではないと申すのです。」 太宗が「光武が中興して功臣を保全し、吏の事を任せなかったが、これは将を将いるのに善かったのか」と言うと、 李靖が言った。「光武は前の構えに藉って功を成しやすかったとはいえ、莽の勢いは項籍に下らず、寇恂・鄧禹は蕭何・張良を越えませんでした。それでも独り赤心を推し、柔らかな治めを用いて功臣を保全しましたので、高祖よりはるかに賢れています。これで将を将いる道を論ずれば、臣は光武が得たと思います。」

10将を遣わす礼 — 斎戒と斧鉞

太宗曰:「古者出師命將,齋三日,授之以鉞,曰:『從此至天,將軍制之。』又授之以斧,曰:『從此至地,將軍制之。』又推其轂,曰:『進退唯時。既行,軍中但聞將軍之令,不聞君命。』朕謂此禮久廢,今欲與卿定遣將之儀,如何?」 靖曰:「臣竊謂聖人制作,致齋於廟者,所以假威於神也;授斧鉞又推其轂者,所以委寄以權也。今陛下每有出師,必與公卿議論,告廟而後遣,此則邀以神至矣;每有任將,必使之便宜從事,此則假以權重矣。何與於致齋推轂邪?盡合古禮,其義同焉,不須參定。」 上曰:「善!」乃命近臣書此二事,為後世法。

太宗が言った。「古は師を出し将に命ずるとき、三日斎し、鉞を授けて『ここより天まで、将軍がこれを制せよ』と言い、また斧を授けて『ここより地まで、将軍がこれを制せよ』と言い、またその轂を推して『進退はただ時に従え。すでに行けば、軍中ではただ将軍の令を聞き、君の命は聞かない』と言った。朕が思うにこの礼は久しく廃れている。いま卿とともに将を遣わす儀を定めたいが、どうか。」 李靖が言った。「臣がひそかに思いますに、聖人が制を作って廟で斎を致したのは、神に威を借りるためであり、斧鉞を授けまたその轂を推したのは、権を委ね寄せるためです。いま陛下は師を出されるたびに必ず公卿と議論し、廟に告げてから遣わされます。これは神を迎えることが至っています。将を任じられるたびに必ず便宜に従って事を行わせられます。これは権を貸すことが重いのです。斎を致し轂を推すことと何の違いがありましょうか。すべて古の礼に合い、その意は同じですので、参り定める必要はありません。」 上は「善い」と言い、そこで近臣に命じてこの二つの事を書かせ、後世の法とした。

11陰陽術数を廃せるか — 甲子の日と往亡日、田単と太公

太宗曰:「陰陽術數,廢之可乎?」 靖曰:「不可。兵者,詭道也。託之以陰陽術數,則使貪使愚,茲不可廢也。」 太宗曰:「卿嘗言:『天官、時日,明將不法,闇將拘之。』,廢亦宜然!」 靖曰:「昔紂以甲子日亡,武王以甲子日興;天官、時日,甲子一也。殷亂周治,興亡異焉。又宋武帝以徃亡日起兵,軍吏以為不可,帝曰:『我徃彼亡。』果克之。由此言之,可廢明矣。然而田單為燕所圍,單命一人為神,拜而祠之,神言:『燕可破。』,單於是以火牛出擊燕,大破之。此是兵家詭道,天官、時日亦猶此也。」 太宗曰:「田單託神怪而破燕,太公焚蓍龜而滅紂。二事相反,何也?」 靖曰:「其機一也,或逆而取之,或順而行之是也。昔太公佐武王,至牧野,遇雷雨,旗鼓毀折,散宜生欲卜吉而後行,此則因軍中疑懼,必假卜以問神焉。太公以為腐草枯骨無足問。且以臣伐君,豈可再乎?然觀散宜生發機於前,太公成機於後,逆順雖異,其理致則同。臣前所謂術數不可廢者,蓋存其機於未萌也。及其成功,在人事而已矣。」

太宗が「陰陽術数は廃せるか」と言うと、 李靖は「できません。兵は詭る道です。陰陽術数に託せば、貪る者を使い愚かな者を使えますから、これは廃せません」と答えた。 太宗が「卿はかつて『天官や時日は、明らかな将は法とせず、暗い将はこれに拘わる』と言った。廃するのも当然ではないか」と言うと、 李靖が言った。「昔、紂は甲子の日に亡び、武王は甲子の日に興りました。天官・時日は甲子として一つです。殷は乱れ周は治まり、興亡が異なりました。また宋の武帝は往亡日に兵を起こし、軍吏が不可と言いましたが、帝は『我が往けば彼が亡ぶ』と言い、果たしてこれに克ちました。これで言えば、廃せることは明らかです。しかし田単が燕に囲まれたとき、単は一人に命じて神とし、拝んでこれを祀らせ、神が『燕を破れる』と言うと、単はそこで火牛で出て燕を撃ち、大いに破りました。これが兵家の詭る道であり、天官・時日もまたこれと同じです。」 太宗が「田単は神怪に託して燕を破り、太公は蓍と亀を焼いて紂を滅ぼした。二つの事は相反するが、どうしてか」と言うと、 李靖が言った。「その機は一つで、あるいは逆らって取り、あるいは順って行ったということです。昔、太公が武王を佐けて牧野に至り、雷雨に遇って旗と鼓が毀れ折れると、散宜生は吉を卜ってから行こうとしました。これは軍中が疑い懼れたので、必ず卜を借りて神に問うのです。太公は腐った草と枯れた骨は問うに足らないと考えました。それに臣として君を伐つのに、どうして二度できましょうか。しかし散宜生が前で機を発し、太公が後で機を成したのを見れば、逆らうと順うとは異なっても、その理の至るところは同じです。臣が先に術数を廃せないと申したのは、おおよそその機をまだ萌さないうちに存しておくためです。その功を成すに至れば、人の事にあるだけです。」

夾注 1

徃亡日

往亡日は「往けば亡ぶ」として軍事を忌んだ日です。武帝の答えの「我が往けば彼が亡ぶ」は、その日の名をそのまま受けた言葉遊びです。― 訳者

12節制の兵 — 大勝もせず大敗もしない

太宗曰:「當今將帥,唯李勣、道宗、薛萬徹。除道宗以親屬外,孰堪大用?」 靖曰:「陛下嘗言勣、道宗用兵,不大勝亦不大敗;萬徹若不大勝即須大敗。臣愚思聖言,不求大勝亦不大敗者,節制之兵也;或大勝或大敗者,幸而成功者也。故孫武云:『善戰者,立於不敗之地,而不失敵之敗也。』,節制在我云爾。」

太宗が「いまの将帥は李勣・道宗・薛万徹だけだ。道宗は親属だから除いて、誰が大いに用いるに堪えるか」と言うと、 李靖が言った。「陛下はかつて、勣と道宗は兵を用いて大勝もせず大敗もせず、万徹は大勝しなければすぐ大敗すると言われました。臣が愚かながら聖なるお言葉を思いますに、大勝を求めず大敗もしないのは節制の兵であり、あるいは大勝しあるいは大敗するのは、幸いによって功を成す者です。ですから孫武は『よく戦う者は、敗れない地に立って、敵の敗れを失わない』と言いました。節制が我にあるということです。」

13戦わないのは我に、必ず戦うのは敵に

太宗曰:「兩陳相臨,欲言不戰,安可得乎?」 靖曰:「昔晉師伐秦,交綏而退。《司馬法》曰:『逐奔不遠,縱綏不及。』臣謂綏者,御轡之索也。我兵既有節制,彼敵亦正行伍,豈敢輕戰哉?故有出而交綏,退而不逐,各防其失敗者也。孫武云:『勿擊堂堂之陳,無邀正正之旗。』若兩陳體均勢等,苟一輕肆,為其所乘,則或大敗,理使然也。是故,兵有不戰、有必戰。夫不戰者在我,必戰者在敵。」 太宗曰:「不戰在我,何謂也?」 靖曰:「孫武云:『我不欲戰者,畫地而守之,敵不得與我戰者,乖其所之也。』敵有人焉,則交綏之間,未可圖也。故曰不戰在我。夫必戰在敵者,孫武云:『善動敵者,形之,敵必從之;予之,敵必取之。以利動之,以本待之。』。敵無人焉,則必來戰,吾得以乘而破之。故曰必戰者在敵。」

太宗が「二つの陣が互いに臨んで、戦わないようにしたいと言えば、できるものか」と言うと、 李靖が言った。「昔、晋の師が秦を伐ったとき、綏を交えて退きました。『司馬法』に『奔る者を逐っても遠くまで行かず、綏を縦めても及ばない』とあります。臣が思いますに綏とは轡を御する索です。我が兵にすでに節制があり、あの敵もまた行伍を正していれば、どうして敢えて軽々しく戦いましょうか。ですから出て綏を交え、退いて逐わず、それぞれその失敗を防いだのです。孫武は『堂堂たる陣を撃つな、正正たる旗を邀えるな』と言いました。二つの陣が体も均しく勢いも等しいのに、もし一たび軽々しくふるまって、相手に乗じられれば、あるいは大敗します。理がそうさせるのです。ですから兵には戦わないことがあり、必ず戦うことがあります。戦わないのは我にあり、必ず戦うのは敵にあります。」 太宗が「戦わないのが我にあるとは、どういう意味か」と言うと、 李靖が言った。「孫武は『我が戦おうとしなければ、地に画いて守っても敵が我と戦えないのは、その行くところを乖かせるからである』と言いました。敵に人がいれば、綏を交えるあいだに図ることはできません。ですから戦わないのは我にあると言います。必ず戦うのが敵にあるとは、孫武が『よく敵を動かす者は、これを形せば敵は必ず従い、これを予えれば敵は必ず取る。利で動かし、本で待つ』と言ったことです。敵に人がいなければ必ず来て戦いますので、我が乗じて破れます。ですから必ず戦うのは敵にあると言います。」

14歴代の節制を図にまとめて上らせよ

太宗曰:「深乎!節制之兵。得其法則昌,失其法則亡。卿為纂述歷代善於節制者,具圖來上,朕當擇其精微,垂於後世。」 靖曰:「臣前所進黃帝、太公二陳圖,并《司馬法》、諸葛亮奇正之法,此已精悉。歷代名將,用其一二,成功者亦眾矣。但史官鮮克知兵,不能紀其實迹焉。臣敢不奉詔,當纂述以聞。」

太宗が「深いものだ、節制の兵は。その法を得れば昌え、その法を失えば亡ぶ。卿は歴代で節制に善かった者をまとめ述べ、図を具えて上れ。朕はその精微なところを択んで後世に垂れよう」と言うと、 李靖が言った。「臣が先に進めた黄帝・太公の二つの陣図、ならびに『司馬法』、諸葛亮の奇正の法が、すでに精しく悉くしています。歴代の名将がその一つ二つを用いて功を成した者も多くあります。ただ史官で兵を知る者がまれで、その実際の迹を記せませんでした。臣が敢えて詔を奉じないことがありましょうか。まとめ述べて申し上げます。」

15兵法の三つの段 — 道・天地・将法、そして書を李勣に伝える

太宗曰:「兵法,孰為最深?」 靖曰:「臣常分為三等,使學者當漸而至焉。一曰道,二曰天地,三曰將法。夫道之說,至微至深;《易》所謂『聰明叡智,神武而不殺』者是也。夫天之說陰陽,地之說險易。善用兵者,能以陰奪陽,以險攻易;《孟子》所謂『天時地利』者是也。夫將法之說,在乎任人利器;《三略》所謂『得士者昌』、《管子》所謂『器必堅利』者是也。」 太宗曰:「然!吾謂不戰而屈人之兵者,上也;百戰百勝者,中也;深溝高壘以自守者,下也。以是校量,孫武著書,三等皆具焉。」 靖曰:「觀其文,迹其事,亦可差別矣。若張良、范蠡、孫武,脫然高引,不知所往,此非知道,安能爾乎?若樂毅、管仲、諸葛亮,戰必勝,守必固,此非察天時地利,安能爾乎?其次王猛之保秦,謝安之守晉,非任將擇材,繕完自固,安能爾乎?故習兵之學,必先繇下以及中,繇中以及上,則漸而深矣。不然,則垂空言,徒記誦,無足取也。」 太宗曰:「道家忌三世為將者,不可妄傳也,亦不可不傳也。卿其慎之。」靖再拜出,盡傳其書與李勣。

太宗が「兵法は何が最も深いのか」と言うと、 李靖が言った。「臣は常に三つの段に分け、学ぶ者が次第に至るようにします。一つを道と言い、二つを天地と言い、三つを将法と言います。道の説は至って微かで至って深く、『易』のいわゆる『聡明叡智、神武にして殺さず』がそれです。天の説は陰陽、地の説は険しさと易しさです。兵をよく用いる者は陰で陽を奪い、険で易を攻められます。『孟子』のいわゆる『天の時、地の利』がそれです。将法の説は人を任じ器を利くすることにあり、『三略』のいわゆる『士を得た者は昌える』、『管子』のいわゆる『器は必ず堅く利くあれ』がそれです。」 太宗が言った。「そうだ。吾は戦わずに人の兵を屈するのが上であり、百戦百勝が中であり、溝を深くし壘を高くしてみずから守るのが下だと思う。これで較べ量れば、孫武の著した書には三つの段がみな具わっている。」 李靖が言った。「その文を観てその事を迹づければ、やはり差別できます。張良・范蠡・孫武のように、脱然と高く引き退いて行くところを知らせないのは、道を知る者でなければ、どうしてそうできましょうか。楽毅・管仲・諸葛亮のように、戦えば必ず勝ち、守れば必ず固いのは、天の時と地の利を察した者でなければ、どうしてそうできましょうか。その次に王猛が秦を保ち、謝安が晋を守ったのは、将を任じ材を択び、繕い完うしてみずから固めた者でなければ、どうしてそうできましょうか。ですから兵を習う学びは、必ずまず下から中に及び、中から上に及んでこそ、次第に深まります。そうでなければ空言を垂れ、ただ記し唱えるだけで、取るに足りません。」 太宗が「道家は三世にわたって将となることを忌む。妄りに伝えてもならず、また伝えないわけにもいかない。卿は慎めよ」と言った。李靖は再拝して出て、その書をすべて李勣に伝えた。