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天志下

墨子(墨翟の書) 墨子 · 墨翟とその門人たち · 紀元前4世紀頃 · 段落 8 · 漢字 2,447字 · 朗読 9.8分

墨子(墨翟の書) 戦国時代に儒家と並んで「二つの大きな群れ」に数えられた学派の文章である。一人の著述ではなく、墨翟とその門人たちが代を継いで加えたものなので、同じ主張を上・中・下の三通りに記した篇が多い。門派が分かれ、それぞれに写し取った跡と見られる。 十の主張が骨格である — 賢い者を高くし(尚賢)、上と義を同じくし(尚同)、あまねく愛し(兼愛)、攻めることを否とし(非攻)、用に節度を置き(節用)、葬に節度を置き(節葬)、天の意に従い(天志)、鬼神を明らかにし(明鬼)、音楽を否とし(非楽)、命を否とする(非命)。 「他人の家を見ることを自分の家のようにすれば、誰が盗むだろうか」が兼愛篇に、桃一つを盗めば罰しながら他国を攻めれば称えるという「非攻」の階段が、尺度なしに語れば「回る轆轤の上に日の出と日の入りの位置を立てるようなもの」だという三表が非命篇にある。 終わりの「公輸」の一篇は物語である。楚が雲梯を作って宋を攻めようとすると、墨子が十日十夜を歩いて行き、公輸盤と帯と木片で九度競って勝ち、帰る道で雨に遭い、よりによってその宋の村の門の内で雨を避けられない。

子墨子言曰:天下之所以亂者,其說將何哉?則是天下士君子皆明於小而不明於大。何以知其明於小不明於大也?以其不明於天之意也。何以知其不明於天之意也?以處人之家者知之。今人處若家得罪,將猶有異家所以避逃之者。然且父以戒子,兄以戒弟,曰:「戒之慎之,處人之家不戒不慎之,而有處人之國者乎?」今人處若國得罪,將猶有異國所以避逃之者矣。然且父以戒子,兄以戒弟,曰:「戒之,慎之,處人之國者,不可不戒慎也。」今人皆處天下而事天,得罪於天,將無所以避逃之者矣。然而莫知以相極戒也,吾以此知大物則不知者也。是故子墨子言曰:戒之慎之,必爲天之所欲,而去天之所惡。

墨子先生が言った。「天下が乱れる理由は、いったい何と言えばよいのか。つまりこれは、天下の士や君子がみな小さなことに明らかで大きなことに明らかでないということである。

何によって、彼らが小さなことに明らかで大きなことに明らかでないと知るのか。彼らが天の意に明らかでないことによって分かる。

何によって、彼らが天の意に明らかでないと知るのか。他人の家に身を置くことによって分かる。

いま人が他人の家に身を置いて罪を得ても、なお別の家に逃れる所がある。それなのに父は子を戒め、兄は弟を戒めてこう言う。『戒めよ、慎めよ。他人の家に身を置いて戒めず慎まないで、他人の国に身を置けようか。』

いま人が他人の国に身を置いて罪を得ても、なお別の国に逃れる所がある。それなのに父は子を戒め、兄は弟を戒めてこう言う。『戒めよ、慎めよ。他人の国に身を置く者は、戒め慎まないわけにはいかない。』

いま人はみな天下に身を置いて天に仕えているのに、天に罪を得れば逃れる所がない。それなのに誰もこれで互いに極みまで戒めることを知らない。私はこれによって、大きなことは知らないのだと分かる。」

だから墨子先生が言った。「戒めよ、慎めよ。必ず天の望むところを行い、天の憎むところを去れ。」

曰:天之所欲者何也?所惡者何也?天欲義而惡其不義者也。何以知其然也?曰:義者,正也。何以知義之爲正也?天下有義則治,無義則亂,我以此知義之爲正也。然而正者,無自下正上者,必自上正下。是故庶人不得次己而爲正,有士正之;士不得次己而爲正,有大夫正之;大夫不得次己而爲正,有諸侯正之;諸侯不得次己而爲正,有三公正之;三公不得次己而爲正,有天子正之;天子不得次己而爲政,有天正之。今天下之士君子,皆明於天子之正天下也,而不明於天之正天子也。是故古者聖人明以此說人曰:天子有善,天能賞之;天子有過,天能罰之。天子賞罰不當,聽獄不中,天下疾病禍福,霜露不時。天子必且犓豢其牛羊犬彘,絜爲粢盛酒醴,以禱祠祈福於天。我未嘗聞天之禱祠祈福於天子也,吾以此知天之重且貴於天子也。是故義者不自愚且賤者出,必自貴且知者出。曰:誰爲貴?誰爲知?曰:天爲貴,天爲知。然則義果自天出也。今天下之士君子之欲爲義者,則不可不順天之意矣。

いう。天の望むところは何か。憎むところは何か。天は義を望み、その不義を憎む。

何によってそうだと知るのか。いう、義とは正しさである。

何によって義が正しさであると知るのか。天下に義があれば治まり、義がなければ乱れる。私はこれによって義が正しさであると分かる。

ところで正すということは、下から上を正すことはなく、必ず上から下を正す。だから庶民は自分の思いどおりに正すことはできず、士がこれを正し、士は自分の思いどおりに正すことはできず、大夫がこれを正し、大夫は自分の思いどおりに正すことはできず、諸侯がこれを正し、諸侯は自分の思いどおりに正すことはできず、三公がこれを正し、三公は自分の思いどおりに正すことはできず、天子がこれを正し、天子は自分の思いどおりに治めることはできず、天がこれを正す。

いま天下の士や君子は、みな天子が天下を正すことには明らかでありながら、天が天子を正すことには明らかでない。

だから昔の聖人は、明らかにこの言葉で人に言った。「天子に善があれば天はこれを賞することができ、天子に過ちがあれば天はこれを罰することができる。天子が賞と罰が当たらず、訴えを聴くのが当たらなければ、天下に病や災いや福が狂い、霜や露が時に合わなくなる。」

天子は必ずまた、その牛や羊や犬や豚を飼い、清めて供え物の穀物や酒を用意して、天に祈り福を求める。私はいまだかつて、天が天子に祈り福を求めるということを聞いたことがない。私はこれによって、天が天子より重くかつ貴いと分かる。

だから義とは、愚かでかつ賤しい者から出てくるのではなく、必ず貴くてかつ賢い者から出てくる。いう。誰が貴く、誰が賢いのか。いう、天が貴く、天が賢い。それなら、義ははたして天から出てくるのである。

いま天下の士や君子で義を行おうとする者は、天の意に従わないわけにはいかない。

曰:順天之意何若?曰:兼愛天下之人。何以知其兼愛天下之人也?以兼而食之也。何以知其兼而食之也?自古及今,無有遠靈孤夷之國,皆犓豢其牛羊犬彘,絜爲粢盛酒醴,以敬祭祀上帝山川鬼神,以此知兼而食之也。苟兼而食焉,必兼而愛之。譬之若楚越之君,今是楚王食於楚之四境之內,故愛楚之人;越王食於越之四境之內,故愛越之人。今天兼天下而食焉,我以此知其兼愛天下之人也。

いう。天の意に従うとはどのようなことか。いう、天下の人をあまねく愛することである。

何によって、天が天下の人をあまねく愛すると知るのか。あまねく食を受けるからである。

何によってあまねく食を受けると知るのか。昔から今まで、遠く隔たった孤立した夷の国であっても、みなその牛や羊や犬や豚を飼い、清めて供え物の穀物や酒を用意して、上帝や山川の鬼神をうやうやしく祭らないことはない。これによってあまねく食を受けると分かる。

まことにあまねく食を受けるなら、必ずあまねくこれを愛する。たとえれば楚や越の君のようである。いま楚の王は楚の四境の内で食を受けるから楚の人を愛し、越の王は越の四境の内で食を受けるから越の人を愛する。いま天は天下をあまねく食を受けるのだから、私はこれによって、天が天下の人をあまねく愛すると分かる。

且天之愛百姓也,不盡物而止矣。今天下之國,粒食之民,國殺一不辜,必有一不祥。曰:「誰殺不辜?」曰:「人也。」「孰予之不祥?」曰:「天也。」若天之中實不愛此民也,何故而人有殺不辜而天予之不祥哉?且天之愛百姓厚矣,天之愛百姓別矣,既可得而知也。何以知天之愛百姓也?吾以賢者之必賞善罰暴也。何以知賢者之必賞善罰暴也?吾以昔者三代之聖王知之。故昔也三代之聖王堯舜禹湯文武之兼愛天下也,從而利之,移其百姓之意焉,率以敬上帝山川鬼神。天以爲從其所愛而愛之,從其所利而利之,於是加其賞焉,使之處上位,立爲天子以法也,名之曰聖人。以此知其賞善之證。是故昔也三代之暴王桀紂幽厲之兼惡天下也,從而賊之,移其百姓之意焉,率以詬侮上帝山川鬼神。天以爲不從其所愛而惡之,不從其所利而賊之,於是加其罰焉,使之父子離散,國家滅亡,抎失社稷,憂以及其身。是以天下之庶民屬而毀之,業萬世子孫繼嗣,毀之賁不之廢也,名之曰失王。以此知其罰暴之證。今天下之士君子欲爲義者,則不可不順天之意矣。

また天が百姓を愛することは、物を尽くしてやめるようなものではない。いま天下の国で、穀物を食う民のうち、国で罪のない一人を殺せば、必ず一つの不吉がある。いう。「誰が罪のない者を殺したのか。」いう、「人である。」「誰がその者に不吉を与えたのか。」いう、「天である。」

もし天が心の中からまことにこの民を愛していないなら、何のゆえに人が罪のない者を殺したのに天がその者に不吉を与えようか。また天が百姓を愛することが厚く、天が百姓を愛することが格別であることは、すでに得て知ることができる。

何によって天が百姓を愛すると知るのか。私は、賢者が必ず善を賞し暴を罰することによって分かる。

何によって賢者が必ず善を賞し暴を罰すると知るのか。私は昔の三代の聖王によって分かる。

だから昔の三代の聖王である堯・舜・禹・湯・文・武は、天下をあまねく愛して進んでこれを利し、その百姓の意を移して、率いて上帝や山川の鬼神をうやまった。天は、彼らが自分の愛するところに従って愛し、自分の利するところに従って利すると考え、そこでその賞を加えて、彼らを上の位に置き、立って天子となって法となるようにし、名づけて聖人といった。これによって、善を賞する証しが分かる。

だから昔の三代の暴王である桀と紂と幽王と厲王は、天下をあまねく憎んで進んでこれを害し、その百姓の意を移して、率いて上帝や山川の鬼神を罵り侮った。天は、彼らが自分の愛するところに従わずに憎み、自分の利するところに従わずに害すると考え、そこでその罰を加えて、その父と子が離れ散り、国家が滅び、社稷を失い、憂いがその身に及ぶようにした。これによって天下の庶民は続いてこれを謗り、万代の子孫が継いでいくまで謗りがすたれず、名づけて失われた王といった。これによって、暴を罰する証しが分かる。

いま天下の士や君子で義を行おうとする者は、天の意に従わないわけにはいかない。

曰:順天之意者,兼也;反天之意者,別也。兼之爲道也,義正;別之爲道也,力正。曰:義正者何若?曰:大不攻小也,强不侮弱也,衆不賊寡也,詐不欺愚也,貴不傲賤也,富不驕貧也,壯不奪老也。是以天下之庶國,莫以水火毒藥兵刃以相害也。若事上利天,中利鬼,下利人。三利而無所不利,是謂天德。故凡從事此者,聖知也,仁義也,忠惠也,慈孝也,是故聚斂天下之善名而加之。是其故何也?則順天之意也。曰:力正者何若?曰:大則攻小也,强則侮弱也,衆則賊寡也,詐則欺愚也,貴則傲賤也,富則驕貧也,壯則奪老也。是以天下之庶國,方以水火毒藥兵刃以相賊害也。若事上不利天,中不利鬼,下不利人。三不利而無所利,是謂天賊。故凡從事此者,寇亂也,盜賊也,不仁不義,不忠不惠,不慈不孝,是故聚斂天下之惡名而加之。是其故何也?則反天之意也。

いう。天の意に従うのはあまねく愛することであり、天の意に背くのは分け隔てることである。あまねく愛することが道となれば義の正しさであり、分け隔てることが道となれば力の正しさである。

いう。義の正しさとはどのようなものか。いう、大きい者が小さい者を攻めず、強い者が弱い者を侮らず、数の多い者が少ない者を害さず、偽る者が愚かな者を欺かず、貴い者が賤しい者に驕らず、富む者が貧しい者に高ぶらず、壮んな者が老いた者から奪わないことである。これによって天下の多くの国は、水や火や毒薬や武器で互いに害し合わない。

このような事は、上は天に利あり、中は鬼神に利あり、下は人に利がある。三つの利に利のないところがないので、これを天の徳という。だからおよそこれに当たって事を行う者は、聖く賢く、仁であり義であり、忠であり恵み深く、慈しみ孝であるので、だから天下の善い名を集めてこれに加える。これは何のゆえか。天の意に従ったからである。

いう。力の正しさとはどのようなものか。いう、大きければ小さい者を攻め、強ければ弱い者を侮り、数が多ければ少ない者を害し、偽れば愚かな者を欺き、貴ければ賤しい者に驕り、富めば貧しい者に高ぶり、壮んであれば老いた者から奪うことである。これによって天下の多くの国は、いまや水や火や毒薬や武器で互いに害し合う。

このような事は、上は天に利がなく、中は鬼神に利がなく、下は人に利がない。三つの利のなさに利のあるところがないので、これを天の賊という。だからおよそこれに当たって事を行う者は、寇し乱す者であり盗み害する者であって、仁でなく義でなく、忠でなく恵み深くなく、慈しまず孝でないので、だから天下の悪い名を集めてこれに加える。これは何のゆえか。天の意に背いたからである。

故子墨子置立天之,以爲儀法,若輪人之有規,匠人之有矩也。今輪人以規,匠人以矩,以此知方圜之別矣。是故子墨子置立天之,以爲儀法,吾以此知天下之士君子之去義之遠也。何以知天下之士君子之去義遠也?今之世,大國之君寬者然曰:「吾處大國,而不攻小國,吾何以爲大哉!」是以差論其蚤牙之士,比列其舟車之卒,以攻伐無罪之國。入其溝境,刈其禾稼,斬其樹木,殘其城郭以御其溝池,焚燒其祖廟,攘殺其犧牷。民之格者則勁拔之,不格者則係操而歸。丈夫以爲僕圉胥靡,婦人以爲舂酋。則夫好攻伐之君,不知此爲不仁義,以告四鄰諸侯曰:「吾攻國、覆軍、殺將若干人矣。」其鄰國之君亦不知此爲不仁義也,有具其皮幣,發其総處,使人饗賀焉。則夫好攻伐之君有重不知此爲不仁不義也,有書之竹帛,藏之府庫。爲人後子者,必且欲順其先君之行,曰:「何不當發吾庫,視吾先君之法義?」必不曰文武之爲正。爲正者若此矣,曰:「吾攻國、覆軍、殺將若干人矣。」則夫好攻伐之君不知此爲不仁不義也,其鄰國之君不知此爲不仁不義也,是以攻伐世世而不已者。此吾所謂大物則不知也。

だから墨子先生が天の意を置き立てて基準と法としたのは、輪作りにコンパスがあり、大工に曲尺があるのと同じである。いま輪作りはコンパスによって、大工は曲尺によって、これで四角と丸の分かれ目を知る。

だから墨子先生が天の意を置き立てて基準と法としたので、私はこれによって、天下の士や君子が義から遠いことが分かる。

何によって天下の士や君子が義から遠いと知るのか。いま世に大国の君のうち寛やかだという者が、そうであろうとしてこう言う。「私が大国にあって小国を攻めないなら、私は何をもって大きいといえようか。」

これによって、その爪や牙となる士を択び論じ、その舟や車の兵卒を並べて、罪のない国を攻め伐つ。その堀や国境に入ってその稲や穀物を刈り、その樹木を切り、その城郭を崩してその堀や池を塞ぎ、その祖先の廟を焼き、その犠牲を奪って殺す。民のうち抗う者は力まかせに抜き殺し、抗わない者は縛って引いて帰る。男は馬丁や下僕とし、女は臼をつき酒を造る者とする。

それなのに、あの攻め伐つのを好む君はこれが不仁で不義になることを知らず、四方の隣国の諸侯に告げてこう言う。「私は国を攻め、軍を覆し、将を何人か殺した。」その隣国の君もまたこれが不仁で不義になることを知らず、その皮や幣を用意し、その蓄えを出して、人を遣わして宴し祝う。

それなのに、あの攻め伐つのを好む君は重ねてこれが不仁で不義になることを知らず、これを竹や絹に書いて府庫に蔵める。人の跡継ぎとなる子は、必ずまたその先君の行いに従おうとして、こう言う。「どうしてわが庫を開いて、わが先君の法と義を見ないでいられようか。」必ずそれを文王や武王が正したものだとは言わず、正したものはこのようだとして、こう言う。「私は国を攻め、軍を覆し、将を何人か殺した。」

それなのに、あの攻め伐つのを好む君はこれが不仁で不義になることを知らず、その隣国の君もこれが不仁で不義になることを知らない。これによって攻め伐つことが代々やまない。これが私のいう、大きなことは知らないということである。

所謂小物則知之者,何若?今有人於此,入人之場園,取人之桃李瓜薑者,上得且罰之,衆聞則非之,是何也?曰:不與其勞,獲其實,已非其有所取之故。而況有踰於人之墻垣,格人之子女者乎?與角人之府庫,竊人之金玉蚤絫者乎?與踰人之欄牢,竊人之牛馬者乎?而況有殺一不辜人乎?今王公大人之爲政也,自殺一不辜人者,踰人之墻垣,格人之子女者,與角人之府庫,竊人之金玉蚤絫者,與踰人之欄牢,竊人之牛馬者,與入人之場園、竊人之桃李瓜薑者,今王公大人之加罰此也,雖古之堯舜禹湯文武之爲政,亦無以異此矣。今天下之諸侯,將猶皆侵凌攻伐兼并,此爲殺一不辜人者數千萬矣;此爲踰人之墻垣、格人之子女者,與角人府庫、竊人金玉蚤絫者,數千萬矣;踰人之欄牢、竊人之牛馬者,與入人之場園、竊人之桃李瓜薑者,數千萬矣,而自曰義也。故子墨子言曰:是蕡我者,則豈有以異是蕡黑白甘苦之辯者哉?今有人於此,少而示之黑謂之黑,多示之黑謂白,必曰:「吾目亂,不知黑白之別。」今有人於此,能少嘗之甘謂甘,多嘗謂苦,必曰:「吾口亂,不知其甘苦之味。」今王公大人之政也,或殺人,其國家禁之,此蚤越有能多殺其鄰國之人,因以爲大義。此豈有異蕡白黑甘苦之別者哉?

いわゆる小さなことは知るというのは、どのようなことか。

いまここにある人が他人の庭や畑に入って、他人の桃や李や瓜や生姜を取れば、上は知ってこれを罰し、人々は聞いてこれを非とする。これはなぜか。いう、その労に加わらずにその実りを得るので、すでに自分のものでないものを取ったからである。

まして他人の垣を越えて他人の子女を捕らえる者はどうか。他人の府庫を破って他人の金や玉や糸を盗む者はどうか。他人の囲いを越えて他人の牛や馬を盗む者はどうか。まして罪のない一人を殺す者はどうか。

いま王公や大人が政を執るにあたって、罪のない一人を殺した者から、他人の垣を越えて他人の子女を捕らえた者、他人の府庫を破って他人の金や玉や糸を盗んだ者、他人の囲いを越えて他人の牛や馬を盗んだ者、他人の庭や畑に入って他人の桃や李や瓜や生姜を盗んだ者に対して、いま王公や大人がこれらに罰を加えることは、昔の堯・舜・禹・湯・文・武が政を執ったのも、これと違いはない。

いま天下の諸侯はやはりみな侵し踏みつけ攻め伐って併せ呑んでいる。これは罪のない一人を殺したことが数千万であり、これは他人の垣を越えて他人の子女を捕らえ、他人の府庫を破って他人の金や玉や糸を盗んだことが数千万であり、他人の囲いを越えて他人の牛や馬を盗み、他人の庭や畑に入って他人の桃や李や瓜や生姜を盗んだことが数千万であるのに、自ら義だという。

だから墨子先生が言った。「これは私を惑わすものであり、どうして黒と白、甘さと苦さの見分けを惑わすことと違いがあろうか。

いまここにある人がいて、少し黒いものを示せば黒いといい、多く黒いものを示せば白いというなら、必ず『私の目が狂って、黒と白の分かれ目が分からない』と言うだろう。いまここにある人がいて、少し味わって甘ければ甘いといい、多く味わえば苦いというなら、必ず『私の口が狂って、その甘さと苦さの味が分からない』と言うだろう。

いま王公や大人が政を執るにあたって、もし人を殺せばその国家はこれを禁じるのに、かつてよくその隣国の人を多く殺せば、それによって大いなる義だという。これがどうして、白と黒、甘さと苦さの分かれ目を惑わすことと違いがあろうか。」

故子墨子置天之,以爲儀法。非獨子墨子以天之志爲法也,於先王之書《大夏》之道之然:「帝謂文王,予懷而明德,毋大聲以色,毋長夏以革,不識不知,順帝之則。」此誥文王之以天志爲法也,而順帝之則也。且今天下之士君子,中實將欲爲仁義,求爲上士,上欲中聖王之道,下欲中國家百姓之利者,當天之志而不可不察也。天之志者,義之經也。

だから墨子先生は天の意を置いて基準と法とした。ひとり墨子先生だけが天の志を法としたのではなく、先王の書『大夏』の道がそうである。「帝が文王に言った、私はおまえの明らかな徳を懐く。声や色を大きくするな、鞭や革を長くするな。知らず知らずのうちに帝の則に従っている。」これは、文王が天の志を法として帝の則に従ったことを告げたのである。

またいま天下の士や君子で、心の中から仁義を行い、上の士となることを求め、上は聖王の道にかない、下は国家と百姓の利にかなうことを望む者は、まさに天の志を察しないわけにはいかない。天の志とは、義の縦糸である。