滕文公 上滕文公上
1性善を説き、必ず堯舜を挙げる
滕文公為世子,將之楚,過宋而見孟子。孟子道性善,言必稱堯、舜。 世子自楚反,復見孟子。孟子曰:「世子疑吾言乎?夫道一而已矣。成覸謂齊景公曰:『彼丈夫也,我丈夫也,吾何畏彼哉?』顏淵曰:『舜何人也?予何人也?有為者亦若是。』公明儀曰:『文王我師也,周公豈欺我哉?』今滕絕長補短,將五十里也,猶可以為善國。《書》曰:『若藥不瞑眩,厥疾不瘳。』」
滕(とう)の文公が世子であったとき、楚へ行く途中で宋を通り、孟子に会った。孟子は性善(せいぜん)を説き、語るたびに必ず堯舜を挙げた。
世子が楚から帰る途中、また孟子に会った。孟子が言った。「世子はわたしの言葉を疑われますか。そもそも道は一つだけです。
成覸(せいかん)は斉の景公に『あの人も男であり、わたしも男である。わたしがどうしてあの人を畏れよう』と言い、顔淵は『舜はどんな人であり、わたしはどんな人なのか。しようとする者もまたこのようである』と言い、公明儀(こうめいぎ)は『文王はわが師である。周公がどうしてわたしを欺かれよう』と言いました。
今の滕は長いところを切って短いところを補えば、これから五十里になるでしょうが、それでも善い国にすることができます。『書』に『薬を飲んで目がくらまなければ、その病は癒(い)えない』とあります。」
2三年の喪を行う ― 風と草
滕定公薨,世子謂然友曰:「昔者孟子嘗與我言於宋,於心終不忘。今也不幸至於大故,吾欲使子問於孟子,然後行事。」 然友之鄒問於孟子。 孟子曰:「不亦善乎!親喪固所自盡也。曾子曰:『生,事之以禮;死,葬之以禮,祭之以禮,可謂孝矣。』諸侯之禮,吾未之學也。雖然,吾嘗聞之矣:三年之喪,齋疏之服,飦粥之食,自天子達於庶人,三代共之。」 然友反命,定為三年之喪。父兄百官皆不欲也,故曰:「吾宗國魯先君莫之行,吾先君亦莫之行也;至於子之身而反之,不可。且《志》曰:『喪祭從先祖。』」曰:「吾有所受之也。」 謂然友曰:「吾他日未嘗學問,好馳馬試劍。今也父兄百官不我足也;恐其不能盡於大事。子為我問孟子。」 然友復之鄒問孟子。 孟子曰:「然,不可以他求者也。孔子曰:『君薨,聽於冢宰,飦粥,面深墨,即位而哭。百官有司,莫敢不哀,先之也。上有好者,下必有甚焉者矣。君子之德,風也;小人之德,草也。草上之風必偃。』。是在世子。」 然友反命。 世子曰:「然,是誠在我。」 五月居廬,未有命戒。百官族人,可謂曰知。及至葬,四方來觀之。顏色之戚,哭泣之哀,弔者大悅。
滕の定公が亡くなられると、世子が然友(ぜんゆう)に言った。「以前、孟子がわたしと宋で語ったことを、心にどうしても忘れられない。今、不幸にも大きな事に至ったのだから、おまえを使って孟子に尋ねさせてから事を行いたい。」
然友が鄒(すう)へ行って孟子に尋ねた。
孟子が言った。「それもよいことではないか。親の喪はもともと自分で尽くすべきものだ。曾子は『生きておられるときは礼で仕え、亡くなられたら礼で葬り、礼で祭れば、孝といえる』と言われた。諸侯の礼はわたしは学んでいない。しかし、わたしはかつて聞いた。三年の喪に粗い喪服を着て、粥(かゆ)と重湯(おもゆ)を食べることは、天子から庶人に至るまで、三代がともにしたことだ。」
然友が帰って申し上げると、三年の喪と定めた。父や兄に当たる親族と百官がみな望まず、こう言った。「わが宗主国である魯の先君たちも行わず、わが先君たちも行いませんでした。あなたの代になって覆すのはいけません。また『志(し)』に『喪と祭は先祖に従う』とあります。」世子が言った。「わたしには受けたものがある。」
然友に言った。「わたしは以前、学び問うこともせず、馬を走らせ剣を使うことを好んでいた。今、親族と百官がわたしを足りないと思っているので、大きな事に尽くせないのではないかと恐れる。おまえはわたしのために孟子に尋ねよ。」
然友がまた鄒へ行って孟子に尋ねた。
孟子が言った。「そうだ。ほかのところに求められない事だ。孔子は『君が亡くなられれば政事を冢宰(ちょうさい)に任せ、粥を食べて顔色が深く黒くなり、位に進んで哭(こく)する。百官や役人にあえて悲しまない者がないのは、先に立って示したからだ。上に好む者があれば、下には必ずそれより甚だしい者がある。君子の徳は風であり、小人の徳は草である。草の上に風が吹けば必ず伏す』と言われた。これは世子にかかっている。」
然友が帰って申し上げた。
世子が言った。「そうだ。これはまことにわたしにかかっている。」
五か月のあいだ仮小屋に住み、命令や戒めを出さなかった。百官や一族も、世子は礼を知っていると言えるほどであった。葬りに至って四方から来て見たが、顔色の悲しみ、哭き泣く痛ましさに、弔う者たちは大いに満ち足りた。
3国の治め方を問う ― 境界と井田(せいでん)
滕文公問為國。 孟子曰:「民事不可緩也。《詩》云:『晝爾于茅,宵爾索绹。亟其乘屋,其始播百穀。』民之為道也,有恒產者有恒心,無恒產者無恒心。茍無恒心,放僻邪侈,無不為已。及陷乎罪然後從而刑之,是罔民也。焉有仁人在位罔民而可為也?是故賢君必恭儉禮下,取於民有制。陽虎曰:『為富不仁矣;為仁不富矣。』 夏后氏五十而貢,殷人七十而助,周人百畝而徹。其實皆什一也。徹者徹也,助者藉也。龍子曰:『治地莫善於助,莫不善於貢。貢者校數歲之中以為常。樂歲粒米狼戾,多取之而不為虐,則寡取之;兇年糞其田而不足,則必取盈焉。為民父母,使民盻盻然,將終歲勤動,不得以養其父母,又稱貸而益之,使老稚轉乎溝壑,惡在其為民父母也?』夫世祿滕固行之矣。《詩》云:『雨我公田,遂及我私。』惟助為有公田。由此觀之,雖周亦助也。 設為庠序學校以教之。庠者養也,校者教也,序者射也。夏曰校,殷曰序,周曰庠,學則三代共之,皆所以明人倫也。人倫明於上,小民親於下。有王者起,必來取法,是為王者師也。《詩》云:『周雖舊邦,其命維新。』文王之謂也。子力行之,亦以新子之國!」 使畢戰問井地。 孟子曰:「子之君將行仁政,選擇而使子,子必勉之。夫仁政必自經界始。經界不正,井地不均,穀祿不平。是故暴君污吏必慢其經界。經界既正,分田制祿,可坐而定也。」 「夫滕壤地褊小,將為君子焉,將為野人焉。無君子莫治野人,無野人莫養君子。請野九一而助,國中什一使自賦。卿以下必有圭田。圭田五十畝,餘夫二十五畝。死徙無出鄉,鄉田同井,出入相友,守望相助,疾病相扶持,則百姓親睦。方里而井;井九百畝,其中為公田。八家皆私百畝,同養公田。公事畢,然後敢治私事,所以別野人也。此其大略也。若夫潤澤之,則在君與子矣。」
滕の文公が国の治め方を尋ねた。
孟子が言った。「民の事は遅らせられません。『詩』に『昼には茅(かや)を刈り、夜には縄を綯(な)い、急いで屋根に上れ。そうしてはじめて百穀を播(ま)く』とあります。
民の道というものは、定まった生業があれば定まった心があり、定まった生業がなければ定まった心がありません。まことに定まった心がなければ、放埒に偏り、邪に奢ることを、しないではいられなくなります。そうして罪に落ちてから追って罰するなら、それは民を網にかけるものです。仁の人が位にありながら、どうして民を網にかけることをしましょうか。
ですから賢い君は必ず恭しく倹(つま)しく下の者に礼を尽くし、民から取るのに法度があります。陽虎(ようこ)は『富もうとすれば仁でなく、仁であろうとすれば富まない』と言いました。
夏后氏(かこうし)は五十畝(ほ)で貢法(こうほう)を用い、殷の人は七十畝で助法(じょほう)を用い、周の人は百畝で徹法(てつほう)を用いましたが、その実はみな十分の一です。徹とは取るという意味であり、助とは借りるという意味です。
龍子(りゅうし)は言いました。『土地を治めるのに助法より善いものはなく、貢法より悪いものはない。貢法とは数年の中ほどを較べて定まった額とするものだ。豊年には粒が溢れ、多く取っても苛(むご)くないのに、かえって少なく取り、不作の年にはその畑の肥やし代にも足りないのに、必ず満たして取る。民の父母となって、民に恨めしい目をさせ、年中せっせと働いても自分の父母を養えないようにし、その上借りて満たさせて、老人や子どもを溝や谷に転がり落ちさせるなら、どこに民の父母であることがあろうか。』
そもそも代々禄を与えることは、滕がもとより行っています。『詩』に『わが公田に雨を降らせ、続いてわが私田に及ばせたまえ』とありますが、助法だけに公田があります。これで見れば、周も助法を用いたのです。
庠(しょう)・序(じょ)・学(がく)・校(こう)を設けて教えてください。庠とは養うという意味、校とは教えるという意味、序とは射るという意味です。夏は校といい、殷は序といい、周は庠といい、学は三代がともにしたもので、みな人の倫(みち)を明らかにするためのものです。人の倫が上で明らかであれば、民は下で親しみ合います。
王者が起これば必ず来て法を取るでしょうから、これは王者の師となることです。『詩』に『周は古い国であるが、その命は新しい』とあるのは、文王を言ったのです。あなたが努めて行い、あなたの国もまた新しくしてください。」
畢戦(ひっせん)を使って井田(せいでん)の法を尋ねさせた。
孟子が言った。「あなたの君がこれから仁の政治を行おうとして、選んであなたをよこされたのですから、あなたは必ず努めなさい。そもそも仁の政治は必ず境界を正すことからはじまります。境界が正しくなければ井田が均(ひと)しくならず、禄として与える穀物が公平になりません。ですから乱暴な君や汚れた役人は、必ずその境界をおろそかにします。境界がすでに正しければ、田を分け禄を定めることは座ったままでも定まります。
そもそも滕は土地が狭く小さいとはいえ、これから君子も要り、野の人も要ります。君子がなければ野の人を治められず、野の人がなければ君子を養えません。
どうか野では九分の一で助法を用い、国の中では十分の一で自ら納めさせてください。卿(けい)以下には必ず圭田(けいでん)が要りますが、圭田は五十畝、余った壮丁には二十五畝を与えます。
死んでも移っても郷(さと)を出ず、郷の田が同じ井(せい)に入って、出入りに互いに友となり、守り見張って互いに助け、病めば互いに支え合えば、民は親しみ睦(むつ)みます。
四方一里が一井となり、一井は九百畝で、その真ん中が公田です。八家がみな私田百畝を持ち、ともに公田を作り、公田の仕事を終えてからはじめて私田の仕事に当たります。これが野の人を分ける方法です。これがその大すじです。それに潤いを加えることは、君とあなたにかかっています。」
4許行との論 ― 心を使う者と力を使う者
有為神農之言者許行,自楚之滕,踵門而告文公,曰:「遠方之人,聞君行仁政,愿受一廛而為氓。」文公與之處。其徒數十人,皆衣褐、捆屨、織席以為食。 陳良之徒陳相與其弟辛,負耒耜而自宋之滕。曰:「聞君行聖人之政,是亦聖人也,愿為聖人氓。」 陳相見許行而大悅,盡棄其學而學焉。 陳相見孟子,道許行之言曰:「滕君則誠賢君也;雖然,未聞道也。賢者與民并耕而食,饔飧而治。今也滕有倉廩府庫,則是厲民而以自養也,惡得賢?」 孟子曰:「許子必種粟而後食乎?」 曰:「然。」 「許子必織布而後衣乎?」 曰:「否,許子衣褐。」 「許子冠乎?」 曰:「冠。」 曰:「奚冠?」 曰:「冠素。」 曰:「自織之與?」 曰:「否,以粟易之。」 曰:「許子奚為不自織?」 曰:「害於耕。」 曰:「許子以釜甑爨、以鐵耕乎?」 曰:「然。」 「自為之與?」 曰:「否,以粟易之。」 「以粟易械器者,不為厲陶冶;陶冶亦以其械器易粟者,豈為厲農夫哉?且許子何不為陶冶,舍皆取諸其宮中而用之?何為紛紛然與百工交易?何許子之不憚煩?」 曰:「百工之事,固不可耕且為也。」 「然則治天下獨可耕且為與?有大人之事,有小人之事。且一人之身,而百工之所為備。如必自為而後用之,是率天下而路也。故曰:或勞心,或勞力。勞心者治人,勞力者治於人。治於人者食人,治人者食於人──天下之通義也。」 「當堯之時,天下猶未平,洪水橫流,氾濫於天下;草木暢茂,禽獸繁殖;五穀不登,禽獸偪人;獸蹄鳥跡之道,交於中國。堯獨憂之,舉舜而敷治焉。舜使益掌火;益烈山澤而焚之,禽獸逃匿。禹疏九河,瀹濟、漯而注諸海;決汝、漢,排淮、泗,而注之江,然後中國可得而食也。當是時也,禹八年於外,三過其門而不入,雖欲耕,得乎?」 「后稷教民稼穡,樹藝五穀,五穀熟而民人育。人之有道也,飽食煖衣,逸居而無教,則近於禽獸。聖人有憂之,使契為司徒,教以人倫:父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信。放勛曰:『勞之來之、匡之直之、輔之翼之,使自得之;又從而振德之。』聖人之憂民如此,而暇耕乎?」 「堯以不得舜為己憂;舜以不得禹、皋陶為己憂。夫以百畝之不易為己憂者,農夫也。分人以財謂之惠,教人以善謂之忠,為天下得人者謂之仁。是故以天下與人易,為天下得人難。孔子曰:『大哉,堯之為君!惟天為大,惟堯則之。蕩蕩乎民無能名焉!君哉舜也!巍巍乎有天下而不與焉!』堯舜之治天下,豈無所用其心哉?亦不用於耕耳。」 「吾聞用夏變夷者,未聞變於夷者也。陳良,楚產也;悅周公、仲尼之道,北學於中國,北方之學者,未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年,師死而遂倍之。昔者孔子沒,三年之外,門人治任將歸,入揖於子貢,相向而哭,皆失聲,然後歸。子貢反,筑室於場,獨居三年,然後歸。他日子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,強曾子。曾子曰:『不可,江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。』今也南蠻鴃舌之人,非先王之道,子倍子之師而學之,亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷、遷于喬木者,未聞下喬木而入於幽谷者。魯頌曰:『戎狄是膺,荊舒是懲。』周公方且膺之,子是之學,亦為不善變矣。」 「從許子之道,則市賈不貳,國中無偽;雖使五尺之童適市,莫之或欺。布帛長短同,則賈相若;麻縷絲絮輕重同,則賈相若;五穀多寡同,則賈相若;屨大小同,則賈相若。」 曰:「夫物之不齊,物之情也。或相倍蓰,或相什百,或相千萬;子比而同之,是亂天下也。巨屨小屨同賈,人豈為之哉?從許子之道,相率而為偽者也,惡能治國家?」
神農(しんのう)の言葉を説く許行(きょこう)という者が、楚から滕へ来て門前に至り、文公に申し上げた。「遠い地方の者が、君が仁の政治を行われると聞き、家の地を一つ頂いて民となることを願います。」文公は住む所を与えた。その仲間数十人はみな粗い衣を着て、履(くつ)を編み、むしろを織って暮らしていた。
陳良(ちんりょう)の門人である陳相(ちんそう)が、その弟の辛(しん)とともに鋤(すき)と犂(からすき)を背負って宋から滕へ来て言った。「君が聖人の政治を行われると聞きましたから、これもまた聖人です。聖人の民となることを願います。」
陳相は許行に会って大いに喜び、自分の学んだものをすべて捨ててその者に学んだ。
陳相が孟子に会い、許行の言葉を伝えた。「滕の君はまことに賢い君です。しかし、まだ道を聞いておられません。賢い者は民とともに耕して食べ、自ら飯を炊いて食べながら治めます。今、滕には蔵や倉があるのですから、これは民を苦しめて自分の身を養うものです。どうして賢いといえましょうか。」
孟子が言った。「許子は必ず穀物を植えてから食べるのか。」
「そうです。」
「許子は必ず布を織ってから着るのか。」
「いいえ。許子は粗い衣を着ます。」
「許子は冠をかぶるのか。」
「かぶります。」
「どんな冠をかぶるのか。」
「白い冠をかぶります。」
「自分で織ったものか。」
「いいえ。穀物と換えます。」
「許子はどうして自分で織らないのか。」
「耕すのに妨げになるからです。」
「許子は釜(かま)と甑(こしき)で飯を炊き、鉄で耕すのか。」
「そうです。」
「自分で作ったものか。」
「いいえ。穀物と換えます。」
「穀物で器や道具を換えることが陶工や鍛冶(かじ)を苦しめるのでないなら、陶工や鍛冶がその器や道具で穀物を換えることが、どうして農夫を苦しめることであろうか。
また許子はどうして陶工や鍛冶を兼ねて、何もかも自分の家の中から取って使わないのか。どうして騒がしく多くの職人と換えるのか。許子はどうして煩わしさを嫌がらないのか。」
「多くの職人の仕事は、もとより耕しながら兼ねられません。」
「それなら天下を治める仕事だけは、耕しながら兼ねられるのか。大人の仕事があり、小人の仕事がある。また一人の身に、多くの職人が作ったものが備わっている。もし必ず自分で作ってから使うなら、これは天下を率いて路頭に出るものだ。
だから言うのだ。『ある者は心を使い、ある者は力を使う。心を使う者は人を治め、力を使う者は人に治められる。人に治められる者は人を食わせ、人を治める者は人に食わせられる。』これが天下に広く通る義である。
堯の時に天下はまだ平らかでなく、洪水が勝手に流れて天下に溢れた。草木が茂り、鳥や獣が増え、五穀は実らず、鳥や獣が人を迫った。獣の足跡と鳥の足跡の道が国の中に交わった。堯は独りこれを憂え、舜を挙げて治めさせられた。
舜は益(えき)に火を任せ、益が山や沢に火を放って焼くと、鳥や獣は逃げ隠れた。禹は九つの河を疏(とお)し、済(せい)と漯(たつ)を通して海に注ぎ、汝(じょ)と漢を切り開き、淮(わい)と泗(し)を押して江に注いだ。それからはじめて国の中で食べられるようになった。この時に禹は八年を外で過ごし、三度自分の家の門の前を通りながら入られなかったのだから、耕そうとしてもできたであろうか。
后稷(こうしょく)は民に農を教えて五穀を植え育てさせ、五穀が実って民が育った。人には道があるが、腹いっぱい食べ暖かく着て安楽に暮らしながら教えがなければ、鳥や獣に近くなる。聖人はこれを憂えて、契(せつ)を司徒(しと)として人の倫を教えさせられた。父と子に親しみがあり、君と臣に義があり、夫と婦に分けがあり、年長者と年少者に順があり、友に信があるようにされた。
放勛(ほうくん)は『労(いた)わり来させ、正し直し、助け支えて自ら得させ、その上で後から徳をもって振い起こさせよ』と言われた。聖人が民を憂えることがこのようであったのに、耕す暇があったであろうか。
堯は舜を得られないことを自分の憂いとされ、舜は禹と皋陶(こうよう)を得られないことを自分の憂いとされた。そもそも百畝が治まらないことを自分の憂いとする者は農夫である。
人に財を分けることを恵(けい)といい、人に善を教えることを忠(ちゅう)といい、天下のために人を得ることを仁という。だから天下を人に与えるのはやさしいが、天下のために人を得るのは難しい。
孔子は『大きいことよ、堯の君であることは。ただ天が大きいのに、ただ堯だけがこれに則(のっと)られた。広く広く、民は名づけることができない。君であることよ、舜は。高く高く天下を持ちながら、それに囚われられなかった』と言われた。堯と舜が天下を治められたのに、どうして心を使うところがなかったであろう。ただ耕すことに使われなかっただけだ。
わたしは中華で夷(い)を変えるとは聞いたが、夷に変えられるとは聞いていない。陳良は楚の生まれだが、周公と仲尼の道を喜んで北へ中国に来て学び、北方の学ぶ者のうちで彼に先んじる者はなかった。彼はいわゆる豪傑の士である。
おまえたち兄弟はその人に数十年仕えながら、師が死ぬとついに背いた。昔、孔子が亡くなられて三年の後、門人たちが荷をまとめて帰ろうとするとき、入って子貢に礼をし、互いに向き合って哭き、みな声を失ってから帰った。子貢は帰って墓のそばに家を建て、独り三年住んでから帰った。
後日、子夏・子張・子游が有若が聖人に似ているとして、孔子に仕えた礼でその人に仕えようとし、曾子に強く求めた。曾子は『いけない。江水と漢水で洗い、秋の日に晒(さら)したように白く白く、それに加えるものはない』と言われた。
今、南の蛮(ばん)の、百舌(もず)のような声で話す者が先王の道を否とするのに、おまえは自分の師に背いてその者に学ぶのだから、これも曾子と違う。わたしは暗い谷から出て高い木に移るとは聞いたが、高い木から下りて暗い谷に入るとは聞いていない。『魯頌(ろしょう)』に『戎(じゅう)と狄(てき)を討ち、荊(けい)と舒(じょ)を懲らす』とある。周公もまさにこれらを討たれたのに、おまえはこれを学ぶのだから、これもよく変えなかったものだ。」
「許子の道に従えば、市に二つの値がなく、国の中に偽りがなくなります。五尺の子どもを市へ行かせても、誰も欺きません。布や絹が長さが同じなら値も同じ、麻や糸や綿が重さが同じなら値も同じ、五穀が多少が同じなら値も同じ、履が大小が同じなら値も同じです。」
「そもそも物が同じでないのは、物の実情である。あるものは互いに倍にも五倍にもなり、あるものは十倍百倍になり、あるものは千倍万倍になる。おまえは並べて同じにしようとするが、これは天下を乱すものだ。粗い履と細かい履が同じ値なら、人がどうして細かい履を作ろうか。許子の道に従うのは、互いに率いて偽りを行うものだ。どうして国家を治められよう。」
夾注 1
放勛は堯のことです。― 訳者
5墨者の夷之 ― 愛に差等がないという言葉
墨者夷之,因徐辟而求見孟子。孟子曰:「吾固愿見,今吾尚病,病愈,我且往見。」夷子不來! 他日又求見孟子。孟子曰:「吾今則可以見矣。不直則道不見,我且直之。吾聞夷子墨者,墨者之治喪也,以薄為其道也。夷子思以易天下,豈以為非是而不貴也?然而夷子葬其親厚,則是以所賤事親也。」 徐子以告夷子。 夷子曰:「儒者之道,古之人『若保赤子』,此言何謂也?之則以為愛無差等,施由親始。」 徐子以告孟子。 孟子曰:「夫夷子信以為人之親其兄之子為若親其鄰之赤子乎?彼有取爾也。赤子匍匐將入井,非赤子之罪也。且天之生物也使之一本,而夷子二本故也。蓋上世嘗有不葬其親者,其親死則舉而委之於壑。他日過之,狐貍食之,蠅蚋姑嘬之。其顙有泚,睨而不視。夫泚也,非為人泚,中心達於面目。蓋歸反虆梩而掩之,掩之誠是也。則孝子仁人之掩其親,亦必有道矣。」 徐子以告夷子。夷子憮然為間曰:「命之矣!」 上一篇回目录下一篇
墨者の夷之(いし)が徐辟(じょへき)を通じて孟子に会うことを願った。孟子が言った。「わたしはもとより会いたいが、今はまだ病中である。病が癒えたら、わたしが行って会おう。」夷子は来なかった。
後日また孟子に会うことを願った。孟子が言った。「わたしは今なら会える。直(なお)くしなければ道は現れないから、わたしが直くしよう。
わたしの聞くところでは、夷子は墨者だという。墨者が喪を行うには、薄くすることを道とする。夷子はそれで天下を変えようと思っているのだから、どうしてそれを否として貴ばないであろう。それなのに夷子は自分の親を厚く葬ったのだから、これは卑しむものによって親に仕えたことだ。」
徐子がこれを夷子に伝えた。
夷子が言った。「儒者の道に、昔の人が『赤子(あかご)を守るようにする』とありますが、この言葉は何を言うのですか。わたしは、愛に差等はないが、施すことは親からはじまると思います。」
徐子がこれを孟子に伝えた。
孟子が言った。「そもそも夷子は、人が自分の兄の子を親しむのが隣の赤子を親しむのと同じだと、まことに思っているのか。あの言葉には取るところがある。赤子が這(は)って井戸に入ろうとするのは、赤子の罪ではない。
また天が物を生むとき、その本を一つにしたのに、夷子は本を二つにしているからだ。
昔の世に、自分の親を葬らない者があった。その親が死ぬと、担いで谷に捨てた。後日そこを通ると、狐や狸が食い、蠅(はえ)や虻(あぶ)が集まって吸っていた。その額に汗が浮かび、横目で見て正視できなかった。そもそもその汗は人のために浮かんだのではなく、心の中が顔に現れたのである。おそらく帰って籠(かご)と鋤を取って来て覆ったであろう。覆ったことがまことに正しいなら、孝子や仁の人が自分の親を覆うことにも、必ず道があるのだ。」
徐子がこれを夷子に伝えた。夷子はしばらく呆然としてから言った。「わたしを教えてくださった。」