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告子 上告子上

孟子(孟軻の書) 孟子 · 孟軻とその門人 · 紀元前4世紀〜3世紀 · 段落 20 · 漢字 2,925字 · 朗読 11.7分

孟子(孟軻の書) 全一巻 「なぜ必ず利を仰せになるのですか」で始まり、「民が貴く君は軽い」に至る書。論語が静かに説くところで、孟子は王の前で論じ、問い返す。五十歩百歩、浩然の気、井戸に落ちようとする子を見れば誰でもはっとする四端、生を捨てて義を取ること、天が大きな任を下そうとするときはまずその心を苦しめるという言葉がみなここから出た。書架に先に収めた論語と並べて読む対である。

1柳と器 ― 性を害して仁義を作るのか

告子曰:「性,猶杞柳也;義,猶桮棬也。以人性為仁義,猶以杞柳為桮棬。」 孟子曰:「子能順杞柳之性,而以為桮棬乎?將戕賊杞柳,而後以為桮棬也?如將戕賊杞柳,而以為桮棬;則亦將戕賊人,以為仁義與?率天下之人而禍仁義者,必子之言夫。」

告子が言った。「性(さが)は柳のようなもので、義は木の器のようなものです。人の性で仁義を作るのは、柳で木の器を作るようなものです。」

孟子が言った。「おまえは柳の性に従って木の器を作るのか、それとも柳を切り削ってから木の器を作るのか。もし柳を切り削って木の器を作るのなら、人も切り削って仁義を作るというのか。天下の人を率いて仁義を災いにするのは、必ずおまえの言葉であろう。」

2水は東西を選ばないが、上下は選ぶ

告子曰:「性,猶湍水也。決諸東方則東流,決諸西方則西流。人性之無分於善不善也,猶水之無分於東西也。」 孟子曰:「水信無分於東西,無分於上下乎?人性之善也,猶水之就下也。人無有不善,水無有不下。今夫水:搏而躍之,可使過顙;激而行之,可使在山。是豈水之性哉?其勢則然也。人之可使為不善,其性亦猶是也。」

告子が言った。「性は激しい瀬の水のようなものです。東へ切り開けば東へ流れ、西へ切り開けば西へ流れます。人の性に善と善でないの分けがないのは、水に東西の分けがないのと同じです。」

孟子が言った。「水にまことに東西の分けはないが、上下の分けもないのか。人の性が善であることは、水が低いところへ流れるのと同じだ。人は善でない者がなく、水は低いところへ流れないものがない。

今あの水を打って跳ねさせれば額を越えさせることができ、せき止めて流せば山にあらせることもできる。しかしこれがどうして水の性であろう。その勢いがそうさせたのだ。人が善でないことをするようになるのも、その性はまた同じだ。」

3生まれたままを性というなら

告子曰:「生之謂性。」 孟子曰:「生之謂性也,猶白之謂白與?」 曰:「然。」 「白羽之白也,猶白雪之白;白雪之白,猶白玉之白歟?」 曰:「然。」 「然則犬之性猶牛之性,牛之性猶人之性歟?」

告子が言った。「生まれたままを性といいます。」

孟子が言った。「生まれたままを性というのは、白いものを白いというのと同じか。」

「そうです。」

「白い羽の白さが白い雪の白さと同じで、白い雪の白さが白い玉の白さと同じか。」

「そうです。」

「それなら犬の性が牛の性と同じで、牛の性が人の性と同じなのか。」

4仁は内、義は外という言葉

告子曰:「食、色,性也。仁,內也,非外也。義,外也,非內也。」 孟子曰:「何以謂仁內義外也?」 曰:「彼長而我長之,非有長於我也。猶彼白而我白之,從其白於外也。故謂之外也。」 曰:「異。於白馬之白也,無以異於白人之白也。不識長馬之長也,無以異於長人之長歟?且謂長者義乎?長之者義乎?」 曰:「吾弟則愛之,秦人之弟則不愛也,是以我為悅者也,故謂之內。長楚人之長,亦長吾之長,是以長為悅者也,故謂之外也。」 曰:「嗜秦人之炙,無以異於嗜吾炙。夫物則亦有然者也。然則嗜炙亦有外歟?」

告子が言った。「食べることと色が性です。仁は内にあるもので外にあるものではなく、義は外にあるもので内にあるものではありません。」

孟子が言った。「どうして仁は内、義は外というのか。」

「あの人が年長だからわたしがその人を年長として扱うのであって、わたしに年長というものがあるからではありません。あれが白いからわたしがそれを白いというのが、外の白さに従うのと同じです。だから外というのです。」

「違う。白い馬の白さは白い人の白さと違うところがない。しかし老いた馬を老いているというのが、年長者を年長として扱うのと違うところがないのかは分からない。また、年長であることが義なのか、年長として扱うことが義なのか。」

「わたしの弟なら愛し、秦の人の弟なら愛さないのですから、これはわたしを元にして喜ぶのですから内といいます。楚の人の年長者を年長として扱い、わたしの年長者も年長として扱うのですから、これは年長であることを元にして喜ぶのですから外というのです。」

「秦の人の焼き肉を好むことは、わたしの焼き肉を好むことと違うところがない。そもそも物にもそういうものがあるのだから、それなら焼き肉を好むことも外にあるというのか。」

5敬いは内から出る

孟季子問公都子曰:「何以謂義內也?」 曰:「行吾敬,故謂之內也。」 「鄉人長於伯兄一歲,則誰敬?」 曰:「敬兄。」 「酌則誰先?」 曰:「先酌鄉人。」 「所敬在此,所長在彼。果在外,非由內也。」 公都子不能答,以告孟子。 孟子曰:「『敬叔父乎?敬弟乎?』彼將曰:『敬叔父。』曰:『弟為尸,則誰敬?』彼將曰:『敬弟。』子曰:『惡在其敬叔父也?』彼將曰:『在位故也。』子亦曰:『在位故也。』庸敬在兄,斯須之敬在鄉人。」 季子聞之,曰:「敬叔父則敬,敬弟則敬。果在外,非由內也。」 公都子曰:「冬日則飲湯,夏日則飲水。然則飲食亦在外也?」

孟季子(もうきし)が公都子に尋ねた。「どうして義が内にあるというのですか。」

「自分の敬いを行うのですから、内というのです。」

「里の人が長兄より一つ年上なら、どちらを敬いますか。」

「兄を敬います。」

「酒を注ぐときは、どちらに先にしますか。」

「里の人に先に注ぎます。」

「敬うところはこちらにあり、年長として扱うところはあちらにあるのですから、やはり外にあるのであって、内からよったのではありません。」

公都子は答えられず、孟子に申し上げた。

孟子が言った。「『叔父を敬うか、弟を敬うか』と言えば、あの者は『叔父を敬う』と言うであろう。『弟が尸童(しどう)となれば、どちらを敬うか』と言えば、あの者は『弟を敬う』と言うであろう。おまえが『どこにその叔父を敬うことがあるのか』と言えば、あの者は『位にあるからだ』と言うであろう。おまえも『位にあるからだ』と言え。常の敬いは兄にあり、しばらくの敬いは里の人にある。」

季子はこれを聞いて言った。「叔父を敬えば敬い、弟を敬えば敬うのだから、やはり外にあるのであって、内からよったのではない。」

公都子が言った。「冬には沸かした湯を飲み、夏には冷たい水を飲みます。それなら飲み食いも外にあるというのですか。」

6性は善である ― 人がもともと持つもの

公都子曰:「告子曰:『性無善無不善也。』或曰:『性可以為善,可以為不善,是故文武興則民好善,幽厲興則民好暴。』或曰:『有性善,有性不善,是故以堯為君而有象,以瞽瞍為父而有舜,以紂為兄之子且以為君,而有微子啟、王子比干。』今曰『性善』,然則彼皆非歟?」 孟子曰:「乃若其情則可以為善矣,乃所謂善也。若夫為不善,非才之罪也。惻隱之心,人皆有之;羞惡之心,人皆有之;恭敬之心,人皆有之;是非之心,人皆有之。惻隱之心,仁也;羞惡之心,義也;恭敬之心,禮也;是非之心,智也。仁義禮智,非由外鑠我也,我固有之也,弗思耳矣。故曰:求則得之,舍則失之。或相倍蓰而無算者,不能盡其才者也。《詩》曰:『天生蒸民,有物有則。民之秉彝,好是懿德。』孔子曰:『為此詩者,其知道乎!故有物必有則,民之秉彝也,故好是懿德。』」

公都子が言った。「告子は『性には善も善でないもない』と言います。ある者は『性は善にもなり善でないにもなるので、だから文王と武王が起これば民は善を好み、幽王と厲王が起これば民は乱暴を好む』と言います。ある者は『性が善な者があり性が善でない者があるので、だから堯を君としながら象があり、瞽瞍を父としながら舜があり、紂を兄の子とし、また君としながら微子啓(びしけい)と王子比干があった』と言います。今『性は善だ』と言われますが、それではあの者たちはみな誤りなのですか。」

孟子が言った。「その実情で言えば善になれるのだから、これがいわゆる善ということだ。あの善でなくなることで言えば、生まれつきの質の罪ではない。

痛む心は人がみな持ち、恥じ憎む心は人がみな持ち、敬う心は人がみな持ち、是非を分ける心は人がみな持つ。痛む心は仁であり、恥じ憎む心は義であり、敬う心は礼であり、是非を分ける心は知である。

仁と義と礼と知は、外からわたしに鋳(い)つけたものではなく、わたしがもともと持っているものなのに、思わないだけだ。だから『求めれば得られ、放せば失う』と言う。ある者は互いに倍にも五倍にもなって数え切れないほどになるが、これはその生まれつきの質を尽くしていないのだ。

『詩』に『天が多くの民を生み、物があれば則(のり)がある。民が持つ常(つね)であるから、この美しい徳を好む』とある。孔子は『この詩を作った者は道を知っていたのだな。だから物があれば必ず則があり、民が持つ常であるから、この美しい徳を好むのだ』と言われた。」

7聖人もわたしと同じ類だ

孟子曰:「富歲,子弟多賴;兇歲,子弟多暴。非天之降才爾殊也,其所以陷溺其心者然也。今夫麰麥,播種而耘之,其地同,樹之時又同,浡然而生,至於日至之時,皆熟矣。雖有不同,則地有肥磽,雨露之養,人事之不齊也。故凡同類者,舉相似也,何獨至於人而疑之?聖人與我同類者。故龍子曰:『不知足而為屨,我知其不為蕢也。』屨之相似,天下之足同也。口之於味,有同嗜也,易牙先得我口之所嗜者也。如使口之於味也,其性與人殊,若犬馬之與我不同類也,則天下何嗜皆從易牙之於味也?至於味,天下期於易牙,是天下之口相似也。惟耳亦然,至於聲,天下期於師曠,是天下之耳相似也。惟目亦然,至於子都,天下莫不知其姣也;不知子都之姣者,無目者也。故曰:口之於味也,有同嗜焉;耳之於聲也,有同聽焉;目之於色也,有同美焉。至於心,獨無所同然乎?心之所同然者,何也?謂:理也,義也。聖人先得我心之所同然耳。故理義之悅我心,猶芻豢之悅我口。」

孟子が言った。「豊年には若者がたいてい素直で、不作の年には若者がたいてい荒い。天が下した質がそれほど違うのではなく、その心を溺らせたものがそうさせたのだ。

今あの大麦を播(ま)いて草を取り、その土地が同じで植えた時も同じなら、すくすく育って夏至の頃になればみな熟す。たとえ同じでないことがあっても、それは土地に肥えたところと痩せたところがあり、雨と露の養いや人の手の入れ方が同じでないからだ。

だから、およそ同じ類はみな互いに似ている。どうして人に至ってだけ疑うのか。聖人もわたしと同じ類だ。

だから龍子は『足を知らずに履(くつ)を作っても、わたしはそれが籠(かご)にはならないと分かる』と言った。履が互いに似ているのは、天下の足が同じだからだ。

口が味について同じく好むところがあり、易牙(えきが)はわれらの口が好むところを先に知った者である。もし口が味についてその性が人と違い、犬や馬がわたしと同じ類でないように違うのなら、天下がどうして味でみな易牙に従おう。味に至って天下が易牙に期するのは、天下の口が互いに似ているからだ。

耳もまた同じだ。声に至って天下が師曠に期するのは、天下の耳が互いに似ているからだ。

目もまた同じだ。子都(しと)に至っては、天下にその美しさを知らない者はない。子都の美しさを知らない者は、目のない者だ。

だから『口が味について同じく好むところがあり、耳が声について同じく聞くところがあり、目が色について同じく美しいとするところがある』と言う。心に至ってだけ、同じくそうとするところがないであろうか。

心が同じくそうとするところとは何か。理であり、義である。聖人はわれらの心が同じくそうとするところを先に得られただけだ。だから理と義がわたしの心を喜ばせることは、肉がわたしの口を喜ばせるのと同じだ。」

8牛山の木 ― 夜の気と明け方の気

孟子曰:「牛山之木嘗美矣。以其郊於大國也,斧斤伐之,可以為美乎?是其日夜之所息,雨露之所潤,非無萌蘗之生焉,牛羊又從而牧之,是以若彼濯濯也。人見其濯濯也,以為未嘗有材焉,此豈山之性也哉?雖存乎人者,豈無仁義之心哉?其所以放其良心者,亦猶斧斤之於木也。旦旦而伐之,可以為美乎?其日夜之所息,平旦之氣,其好惡與人相近也者幾希,則其旦晝之所為,有梏亡之矣。梏之反覆,則其夜氣不足以存。夜氣不足以存,則其違禽獸不遠矣。人見其禽獸也,而以為未嘗有才焉者,是豈人之情也哉?故茍得其養,無物不長;茍失其養,無物不消。孔子曰:『操則存,舍則亡。出入無時,莫知其鄉。』惟心之謂與?」

孟子が言った。「牛山(ぎゅうざん)の木はかつて美しかった。ところが大国の郊外にあって斧で切られたので、美しくいられようか。

その昼も夜も育つところ、雨と露が潤すところに芽が出なかったのではないが、牛や羊がまた来て食べるので、それであのようにはげているのだ。人々はそのはげたのを見て、かつて材木があったことがないと思うが、これがどうして山の性であろう。

たとえ人にあるものも、どうして仁義の心がないであろう。その者が自分の善い心を放してしまう理由も、また斧が木に対するのと同じだ。日ごとに切られて、美しくいられようか。

その昼も夜も育つところ、明け方の澄んだ気において、その好み憎むところが人と互いに近いものはわずかなのに、昼にすることがそれを縛って失わせてしまう。縛ることを繰り返せば、その夜の気は残るに足りず、夜の気が残るに足りなければ、鳥や獣から遠くなくなる。人々はその鳥や獣のようであるのを見て、かつて質があったことがないと思うが、これがどうして人の実情であろう。

だから、まことに養いを得れば育たないものがなく、まことに養いを失えば消えないものがない。孔子は『執(と)れば残り、放せば失う。出入りに時がなく、その行く先が分からない』と言われたが、ただ心を言われたのであろう。」

9一日の日向と十日の寒さ、そして碁を学ぶ二人

孟子曰:「無或乎王之不智也。雖有天下易生之物也,一日暴之,十日寒之,未有能生者也。吾見亦罕矣,吾退而寒之者至矣,吾如有萌焉何哉!今夫弈之為數,小數也;不專心致志,則不得也。弈秋,通國之善弈者也。使弈秋誨二人弈:其一人專心致志,惟弈秋之為聽;一人雖聽之,一心以為有鴻鵠將至,思援弓繳而射之。雖與之俱學,弗若之矣。為是其智弗若與?曰:非然也。」

孟子が言った。「王が知でないことを不思議に思うことはない。たとえ天下に育ちやすいものがあっても、一日日に当てて十日寒くすれば、育つものはない。

わたしがお会いするのも稀であり、わたしが退けばその方を寒くする者たちが来るのだから、芽が出てもわたしがどうできよう。

今あの碁の手は小さな技だが、心を専らにし志を尽くさなければ身につかない。弈秋(えきしゅう)は国全体で碁の上手な者である。弈秋に二人を教えさせれば、一人は心を専らにし志を尽くしてただ弈秋の言葉だけを聞き、一人は聞いてはいても、一方で心に雁(かり)や白鳥が来るだろうと思って、弓と矢を引いて射ることを考える。ともに学んでも、その者には及ばない。これはその知が及ばないからか。そうではない。」

10魚と熊の掌 ― 生を捨てて義を取る

孟子曰:「魚,我所欲也;熊掌,亦我所欲也。二者不可得兼,舍魚而取熊掌者也。生,亦我所欲也;義,亦我所欲也。二者不可得兼,舍生而取義者也。生亦我所欲,所欲有甚於生者,故不為茍得也。死亦我所惡,所惡有甚於死者,故患有所不辟也。如使人之所欲莫甚於生,則凡可以得生者何不用也?使人之所惡莫甚於死者,則凡可以辟患者何不為也?由是則生而有不用也,由是則可以辟患而有不為也。是故所欲有甚於生者,所惡有甚於死者。非獨賢者有是心也,人皆有之,賢者能勿喪耳。 「一簞食,一豆羹,得之則生,弗得則死。嘑爾而與之,行道之人弗受;蹴爾而與之,乞人不屑也。萬鍾則不辨禮義而受之,萬鍾於我何加焉?為宮室之美、妻妾之奉、所識窮乏者得我與?鄉為身死而不受,今為宮室之美為之;鄉為身死而不受,今為妻妾之奉為之;鄉為身死而不受,今為所識窮乏者得我而為之。是亦不可以已乎?此之謂失其本心。」

孟子が言った。「魚もわたしの願うところであり、熊の掌(てのひら)もわたしの願うところだが、二つをともに得られないなら、魚を捨てて熊の掌を取る。生もわたしの願うところであり、義もわたしの願うところだが、二つをともに得られないなら、生を捨てて義を取る。

生もわたしの願うところだが、願うところに生よりまさるものがあるから、恥ずかしいやり方で得ようとせず、死もわたしの憎むところだが、憎むところに死よりまさるものがあるから、災いに避けないところがある。

もし人の願うところに生よりまさるものがないなら、およそ生きられるやり方をどうして使わないであろう。もし人の憎むところに死よりまさるものがないなら、およそ災いを避けられるやり方をどうしてしないであろう。

こうすれば生きられるのにしないところがあり、こうすれば災いを避けられるのにしないところがある。だから願うところに生よりまさるものがあり、憎むところに死よりまさるものがあるのだ。賢い者だけがこの心を持つのではなく、人がみな持っているのに、賢い者はそれを失わないだけだ。」

「竹の器一杯の飯と椀一杯の汁を得れば生き、得られなければ死ぬとしても、どなりつけて与えれば道行く人も受けず、足で蹴って与えれば乞う人も快く思わない。

それなのに万鍾の禄は礼義を問わずに受けるが、万鍾がわたしに何を加えてくれるのか。宮室の美しさ、妻や妾の世話、自分の知る窮(きゅう)した者がわたしをありがたがることのためか。

以前は自分の身が死んでも受けなかったのに、今は宮室の美しさのためにし、以前は自分の身が死んでも受けなかったのに、今は妻や妾の世話のためにし、以前は自分の身が死んでも受けなかったのに、今は知る窮した者がわたしをありがたがることのためにする。これもやめられないことなのか。これをその本(もと)の心を失うという。」

11放した心を求めることが学問の道

孟子曰:「仁,人心也。義,人路也。舍其路而弗由,放其心而不知求。哀哉!人有雞犬放,則知求之;有放心,而不知求。學問之道無他,求其放心而已矣。」

孟子が言った。「仁は人の心であり、義は人の道である。その道を捨ててよらず、その心を放して求めることを知らないのは、哀しいことだ。

人は鶏や犬を放せば求めることを知るのに、心を放しては求めることを知らない。学問の道はほかにない。その放した心を求めることだけだ。」

12曲がった指は憎むことを知りながら

孟子曰:「今有無名之指,屈而不信,非疾痛害事也。如有能信之者,則不遠秦、楚之路,為指之不若人也。指不若人,則知惡之;心不若人,則不知惡。此之謂不知類也。」

孟子が言った。「今、名のない指が曲がって伸びないとしよう。痛むのでも事の妨げになるのでもない。それなのにもしそれを伸ばせる者があれば、秦や楚への遠い道もいやがらないであろう。指が人に及ばないからだ。

指が人に及ばなければ憎むことを知りながら、心が人に及ばないことは憎むことを知らない。これを、何が重く何が軽いかを分けることを知らないという。」

13自分の身を養うことは知らない

孟子曰:「拱把之桐、梓,人茍欲生之,皆知所以養之者。至於身,而不知所以養之者,豈愛身不若桐、梓哉?弗思甚也。」

孟子が言った。「ひと抱えやひと握りほどの桐(きり)や梓(あずさ)でも、人がまことに生かそうとすれば、みなその養い方を知る。それなのに自分の身に至ってはその養い方を知らないが、どうして自分の身を愛することを桐や梓に及ばないようにしよう。思わないことがひどいのだ。」

14小さいものを養って大きいものを失う

孟子曰:「人之於身也,兼所愛;兼所愛,則兼所養也。無尺寸之膚不愛焉,則無尺寸之膚不養也。所以考其善不善者,豈有他哉?於己取之而已矣。體有貴賤,有小大。無以小害大,無以賤害貴。養其小者為小人,養其大者為大人。今有場師,舍其梧槚,養其樲棘,則為賤場師焉。養其一指,而失其肩背而不知也,則為狼疾人也。飲食之人,則人賤之矣,為其養小以失大也。飲食之人,無有失也,則口腹豈適為尺寸之膚哉?」

孟子が言った。「人は自分の身について広く愛し、広く愛すれば広く養う。一尺一寸の肌も愛さないところがないから、一尺一寸の肌も養わないところがない。

その善し悪しを見分けることが、どうしてほかにあろう。自分に取るだけだ。

身には貴いものと賤しいものがあり、小さいものと大きいものがある。小さいもので大きいものを害するな、賤しいもので貴いものを害するな。その小さいものを養う者は小人となり、その大きいものを養う者は大人となる。

今、ある庭師が桐や梓を放っておいて棘(いばら)や野茨(のいばら)を育てるなら、賤しい庭師となる。自分の指一本を養って肩や背を失っても気づかないなら、これは正気を失った人だ。

飲み食いするだけの人を人々が賤しむのは、小さいものを養って大きいものを失うからだ。飲み食いする人に失うところがないなら、口と腹がどうして一尺一寸の肌にすぎないであろう。」

15大きいものに従えば大人、小さいものに従えば小人

公都子問曰:「鈞是人也,或為大人,或為小人,何也?」 孟子曰:「從其大體為大人,從其小體為小人。」 曰:「鈞是人也,或從其大體,或從其小體,何也?」 曰:「耳目之官不思,而蔽於物。物交物,則引之而已矣。心之官則思;思則得之,不思則不得也。此天之所與我者,先立乎其大者,則其小者不能奪也。此為大人而已矣。」

公都子が尋ねた。「同じ人なのに、ある者は大人となり、ある者は小人となるのは、どうしてですか。」

孟子が言った。「その身の大きいものに従えば大人となり、その身の小さいものに従えば小人となる。」

「同じ人なのに、ある者はその身の大きいものに従い、ある者はその身の小さいものに従うのは、どうしてですか。」

「耳と目の官は思うことができず、物に覆われる。物が物と出会えば引かれるだけだ。心の官は思うから、思えば得られ、思わなければ得られない。これが天がわたしに与えたものだ。先にその大きいものを立てれば、その小さいものが奪えない。これが大人となるというだけのことだ。」

16天の爵と人の爵

孟子曰:「有天爵者,有人爵者。仁、義、忠、信,樂善不倦,此天爵也。公卿大夫,此人爵也。古之人,修其天爵而人爵從之。今之人,修其天爵以要人爵。既得人爵而棄其天爵,則惑之甚者也,終亦必亡而已矣。」

孟子が言った。「天の爵があり、人の爵がある。仁と義と忠と信で善を楽しんで倦(う)まないこと、これが天の爵である。公と卿と大夫、これが人の爵である。

昔の人はその天の爵を修めたので、人の爵が従って来た。今の人はその天の爵を修めて人の爵を求め、すでに人の爵を得ればその天の爵を捨てるが、これは惑いのひどいものだ。ついにはまた必ず失うだけである。」

17趙孟が貴くしたものは趙孟が賤しくできる

孟子曰:「欲貴者,人之同心也。人人有貴於己者,弗思耳矣。人之所貴者,非良貴也。趙孟之所貴,趙孟能賤之。《詩》云:『既醉以酒,既飽以德。』言飽乎仁義也,所以不愿人之膏粱之味也。令聞廣譽施於身,所以不愿人之文繡也。」

孟子が言った。「貴くなることを願うのは、人が同じく持つ心だ。人ごとに自分に貴いものがあるのに、思わないだけだ。

人が貴くしてくれたものは、まことに貴いものではない。趙孟(ちょうもう)が貴くしたものは、趙孟が賤しくできる。

『詩』に『すでに酒で酔い、すでに徳で満ちた』とあるが、仁義で満ちたことを言ったのだ。だから人の脂っこい肉や上等な穀物の味を願わない。善い評判と広い誉れが自分の身にあるから、人の刺繍(ししゅう)の衣を願わない。」

18一杯の水で車一台の薪の火を消せようか

孟子曰:「仁之勝不仁也,猶水之勝火。今之為仁者,猶以一杯水救一車薪之火也。不熄,則謂之水不勝火。此又與於不仁之甚者也,亦終必亡而已矣。」

孟子が言った。「仁が仁でないことに勝つのは、水が火に勝つのと同じだ。今、仁を行う者は、一杯の水で車一台の薪(たきぎ)に付いた火を消そうとするようなものだ。消えないと水が火に勝てないと言うが、これはまた仁でないことを大いに助けるものだ。ついにはまた必ず失うだけである。」

19熟さない五穀は稗(ひえ)にも及ばない

孟子曰:「五穀者,種之美者也。茍為不熟,不如荑稗。夫仁,亦在乎熟之而已矣。」

孟子が言った。「五穀は種のうちで美しいものだ。しかし、まことに熟さなければ稗(ひえ)にも及ばない。そもそも仁もまた、それを熟させるかどうかにかかっているだけだ。」

20弓は必ず満々と引くことに志す

孟子曰:「羿之教人射,必志於彀;學者亦必志於彀。大匠誨人,必以規矩;學者亦必以規矩。」

孟子が言った。「羿が人に弓を教えるときは必ず弓を満々と引くことに志させたので、学ぶ者も必ず満々と引くことに志した。大工の棟梁が人を教えるときは必ずぶんまわしと曲尺(かねじゃく)でしたので、学ぶ者も必ずぶんまわしと曲尺でした。」