蛮蠻
1蛮の封爵
蠻,種類繁多,言語不一,咸依山谷,布荊、湘、雍、郢、司等五州界。宋世封西陽蠻梅蟲生為高山侯,田治生為威山侯,梅加羊為扞山侯。太祖即位,有司奏蠻封應在解例,參議以:「戎夷疏爵,理章列代;酋豪世襲,事炳前葉。今宸曆改物,舊冊枃降,而梅生等保落奉政,事須繩總,恩命升贊,有異常品。謂宜存名以訓殊俗。」詔:「特留。」以治生為輔國將軍、虎賁中郎,轉建寧郡太守,將軍、侯如故。
蛮は種類が多く、言葉も一つではない。みな山あいの谷に寄って住み、荊州・湘州・雍州・郢州・司州の五州の境に広がっている。宋の世に、西陽の蛮である梅虫生を高山侯に、田治生を威山侯に、梅加羊を扞山侯に封じた。
太祖が即位すると、担当の役所が、蛮の封爵は解任の例に当たると奏上した。参議して言うには、「戎や夷に爵位をまれに授けるのは、その理が代々明らかであり、酋豪の世襲は、その事が前の世にはっきりしています。いま王朝が改まって古い冊書は取り下げられましたが、梅生たちは部落を保って政を奉じていますので、事はよく引き締めなければならず、恩命によって引き上げ助けるのは、普通の品位とは異なります。名を残して異なる風俗を教え導くのがよろしいでしょう」と。詔して「特に留めよ」と言った。治生を輔国将軍・虎賁中郎とし、建寧郡太守に移したが、将軍と侯はもとのままとした。
2秦遠と文勉徳
建元二年,虜侵豫、司,蠻中傳虜已近,又聞官盡發民丁,南襄城蠻秦遠以郡縣無備,寇潼陽,縣令焦文度戰死。司州蠻引虜攻平昌戍,戍主苟元賓擊破之。秦遠又出破臨沮百方砦,殺略百餘人。北上黃蠻文勉德寇汶陽,太守戴元孫孤城力弱,慮不自保,棄戍歸江陵。荊州刺史豫章王遣中兵參軍劉伾緒領千人討勉德,至當陽,勉德請降,收其部落,使戍汶陽所治城子,令保持商旅,付其清通,遠遂逃竄。
建元二年、虜(北魏)が豫州と司州を侵したので、蛮のあいだに虜がもう近いという話が伝わり、また役所が民の壮丁をすべて徴発するという噂も聞こえた。南襄城の蛮である秦遠は、郡県に備えがないのに乗じて潼陽を荒らし、県令の焦文度は戦って死んだ。司州の蛮が虜を引き入れて平昌の戍を攻めたが、戍主の苟元賓が撃ち破った。秦遠はまた出て臨沮の百方の砦を破り、百余人を殺し捕らえた。
北上黄の蛮である文勉徳が汶陽を荒らしたので、太守の戴元孫は孤立した城で力が弱く、自分では守りきれないと心配して、戍を捨てて江陵に帰った。荊州刺史の豫章王は、中兵参軍の劉伾緒に千人を率いて勉徳を討たせた。当陽に至ると勉徳が降伏を願ったので、その部落を収め、汶陽の管する城を守らせて、商人の道を保ち、清く通じるようにさせた。秦遠はついに逃げ隠れた。
夾注 1
北上黃蠻文勉德寇汶陽通鑑齊高帝建元二年:「北上黃蠻文勉德寇汶陽。」考異云:「齊紀作『文施德』,今從齊書。」
「北上黄の蛮である文勉徳が汶陽を荒らした」 — 『通鑑』の斉の高帝建元二年に同じ記事があり、『考異』に「『斉紀』には文施徳とあるが、いまは『斉書』に従う」とある。
3汶陽の地と向宗頭
汶陽本臨沮西界,二百里中,水陸迂狹,魚貫而行,有數處不通騎,而水白田甚肥腴。桓溫時,割以為郡。西北接梁州新城,東北接南襄城,南接巴、巫二邊,竝山蠻凶盛,據險為寇賊。宋泰始以來,巴建蠻向宗頭反,刺史沈攸之斷其鹽米,連討不剋。晉(天)〔太〕興三年,建平夷王向弘、向瓂等詣臺求拜除,尚書郎張亮議:「夷貊不可假以軍號。」元帝詔特以弘為折衝將軍、當平鄉侯,竝親晉王,賜以朝服。宗頭其後也。太祖置巴州以威靜之。
汶陽はもともと臨沮の西の境で、二百里のあいだ水の道も陸の道も曲がって狭く、魚を串に通したように一列で行かなければならず、何か所かは馬が通れないが、水田はたいそう肥えている。桓温の時に切り分けて郡とした。西北は梁州の新城に接し、東北は南襄城に接し、南は巴と巫の二つの辺境に接するが、どこも山の蛮が荒々しく盛んで、険しい所を拠として盗みを働いた。
宋の泰始以来、巴建の蛮である向宗頭が背いたので、刺史の沈攸之はその塩と米を断ち、続けて討ったが勝てなかった。晋の太興三年、建平の夷王である向弘・向瓂らが朝廷に出て官の任命を求めたので、尚書郎の張亮は「夷貊に軍号を貸し与えてはならない」と論じたが、元帝は詔して特に弘を折衝将軍・当平郷侯とし、あわせて親晋王と呼んで朝服を賜った。宗頭はその子孫である。太祖は巴州を置いて威勢で静めた。
夾注 1
晉(天)〔太〕興三年張森楷校勘記云:「『天興』當作『太興』,晉書本紀可證,各本並譌。」今據改。
「晋の(天)〔太〕興三年」 — 張森楷の校勘記に「『天興』は『太興』とすべきである。『晋書』本紀で証明でき、どの版本も誤っている」とあるので、これに従って改めた。
4田思飄の反乱
其武陵酉溪蠻田思飄寇抄,內史王文和討之,引軍深入,蠻自後斷其糧。豫章王遣中兵參軍莊明五百人將湘州鎮兵合千人救之,思飄與文和拒戰,中弩矢死,蠻眾以城降。
武陵の酉溪の蛮である田思飄が荒らし掠めたので、内史の王文和が討とうとして軍を率いて深く入ったが、蛮が後ろからその糧道を断った。豫章王は中兵参軍の荘明に五百人を与え、湘州の鎮兵と合わせて千人で救わせた。思飄は文和と戦って弩の矢に当たって死に、蛮の群れは城を挙げて降伏した。
5砦を焼いて逃げる
永明初,向宗頭與黔陽蠻田豆渠等五千人為寇,巴東太守王圖南遣府司馬劉僧壽等斬山開道,攻其砦,宗頭夜燒砦退走。
永明の初め、向宗頭が黔陽の蛮である田豆渠ら五千人とともに盗みを働いたので、巴東太守の王図南は府司馬の劉僧寿らを遣わして山を切り開いて道を通し、その砦を攻めさせた。宗頭は夜に砦を焼いて退き逃げた。
6陳双と李答
三年,湘川蠻陳雙、李答寇掠郡縣,刺史呂安國討之不克。四年,刺史柳世隆督眾征討,乃平。
三年、湘川の蛮である陳双と李答が郡県を荒らしたので、刺史の呂安国が討ったが勝てなかった。四年、刺史の柳世隆が兵を率いて征討し、ようやく平らげた。
7桓天生を助ける
五年,雍、司州蠻與虜通,助荒人桓天生為亂。
五年、雍州と司州の蛮が虜と通じて、荒人である桓天生の乱を助けた。
8蛮の太守たち
六年,除督護北遂安左郡太守田駟路為試守北遂安左郡太守,前寧朔將軍田驢王〔為試守宜人左郡太守,田何代〕為試守新平左郡太守,皆郢州蠻也。
六年、督護・北遂安左郡太守の田駟路を試守北遂安左郡太守に任じ、前の寧朔将軍である田驢王を試守宜人左郡太守とし、田何代を試守新平左郡太守とした。みな郢州の蛮である。
夾注 1
前寧朔將軍田驢王〔為試守宜人左郡太守田何代〕為試守新平左郡太守據通典邊防典補。按齊州郡志郢州無宜人左郡,豈志有脫漏歟?
「前の寧朔将軍である田驢王〔を試守宜人左郡太守とし、田何代〕を試守新平左郡太守に」は、『通典』の辺防典によって補った。『斉書』州郡志には郢州に宜人左郡がないので、志に落ちたところがあるのだろうか。
9王僧旭の敗戦
九年,安隆內史王僧旭發民丁,遣寬城戍主萬民和助八百丁村蠻伐千二百丁村蠻,為蠻所敗,民和被傷,失馬及器仗,有司奏免官。
九年、安隆内史の王僧旭が民の壮丁を徴発し、寛城の戍主である万民和を遣わして、八百丁の村の蛮を助けて千二百丁の村の蛮を討たせたが、蛮に敗れて民和は傷を負い、馬と武具を失ったので、担当の役所が奏上して免職にした。
10田益宗の裏切り
西陽蠻田益宗,沈攸之時,以功勞得將領,遂為臨川王防閤,叛投虜,虜以為東豫州刺史。建武三年,虜遣益宗攻司州龍城戍,為戍主朱僧起所破。
西陽の蛮である田益宗は、沈攸之の時に功労によって将となり、臨川王の防閤となったが、背いて虜に投じたので、虜は彼を東豫州刺史とした。建武三年、虜は益宗を遣わして司州の龍城の戍を攻めさせたが、戍主の朱僧起に破られた。
11蛮の風俗
蠻俗衣布徒跣,或椎髻,或翦髮。兵器以金銀為飾,虎皮衣楯,便弩射,皆暴悍好寇賊焉。
蛮の風俗は、布の衣に裸足で、ある者は槌のような髷を結い、ある者は髪を切る。武器は金や銀で飾り、虎の皮で衣と盾を作り、弩を射るのに慣れていて、みな荒々しく盗みを好む。