高麗国高麗國
1長寿王と南斉
東夷高麗國,西與魏虜接界。宋末,高麗王樂浪公高璉為使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、車騎大將軍、開府儀同三司。太祖建元元年,進號驃騎大將軍。三年,遣使貢獻,乘舶汎海,使驛常通,亦使魏虜,然彊盛不受制。
東夷の高麗国は、西で魏虜(北魏)と境を接する。宋の末に、高麗王・楽浪公の高璉(長寿王)が使持節・散騎常侍・都督営平二州諸軍事・車騎大将軍・開府儀同三司となった。太祖の建元元年、驃騎大将軍に号を上げた。三年に使者を遣わして貢ぎ物を献じ、船に乗って海を渡り、使者と駅伝が常に通じていた。魏虜にも使者を送ったが、強く盛んで統制を受けることはなかった。
夾注 1
太祖建元元年進號驃騎大將軍按高帝紀繫此事於建元二年四月。
「太祖の建元元年、驃騎大将軍に号を上げた」 — 高帝紀では、この事は建元二年四月に置かれている。
2使者の席争い
虜置諸國使邸,齊使第一,高麗次之。永明七年,平南參軍顏幼明、冗從僕射劉思斅使虜。虜元會,與高麗使相次。幼明謂偽主客郎裴叔令曰:「我等銜命上華,來造卿國。所為抗敵,在乎一魏。自餘外夷,理不得望我鑣塵。況東夷小貊,臣屬朝廷,今日乃敢與我躡踵。」思斅謂偽南部尚書李思沖曰:「我聖朝處魏使,未嘗與小國列,卿亦應知。」思沖曰:「實如此。但主副不得升殿耳。此閒坐起甚高,足以相報。」思斅曰:「李道固昔使,正以衣冠致隔耳。魏國必纓冕而至,豈容見黜。」幼明又謂虜主曰:「二國相亞,唯齊與魏。邊境小狄,敢躡臣蹤。」
虜(北魏)は諸国の使者の邸を置いていたが、斉の使者が第一で、高麗がその次だった。永明七年、平南参軍の顔幼明と冗従僕射の劉思斅が虜に使者として行った。虜の元日の朝会で高麗の使者と並んで立つことになったので、幼明は偽朝の主客郎である裴叔令に言った。「我々は上国の命を奉じて、あなたの国に来た。敵として立ち向かう相手は、ただ魏ひとつだけである。そのほかの外夷は、理からいって我々の車の塵を仰ぎ見ることさえできない。まして東夷の小さな貊で、我が朝廷に臣として属する者が、今日あえて我々と踵を並べるとは。」
思斅が偽朝の南部尚書である李思沖に「我が聖朝は魏の使者をもてなすのに、小国と並べて立てたことがない。あなたも知っているはずだ」と言うと、思沖は「まことにそのとおりだ。ただ正使と副使が殿に上がれないだけのことだ。ここでは座る席がたいそう高いので、それで返しになる」と言った。思斅は「李道固が昔使者に来たときは、まさに衣冠のために隔てられただけのことだ。魏国が必ず冠の紐と冕を整えて来るなら、どうして退けられようか」と言った。
幼明はまた虜の君主に言った。「二つの国が互いに次ぐのは、ただ斉と魏だけです。辺境の小さな狄が、あえて臣の足跡を踏んでおります。」
3折風の冠は何か
高麗俗服窮袴,冠折風一梁,謂之幘。知讀五經。使人在京師,中書郎王融戯之曰:「服之不衷,身之災也。頭上定是何物?」答曰:「此即古弁之遺像也。」
高麗の風俗は、筒の狭い袴をはき、折風という一梁の冠をかぶって、これを幘と呼ぶ。五経を読むことができる。使者が都にいたとき、中書郎の王融がこれをからかって「着るものが身に合わなければ身の災いだと言う。頭の上のそれはいったい何か」と言うと、「これこそ古い弁の残った姿です」と答えた。
4長寿王が死ぬ — 欠けた一葉
高璉年百餘歲卒。隆昌元年,以高麗王樂浪公高雲為使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍、高麗王、樂浪公。建武三年,報功勞勤,實存名烈。假行寧朔將軍臣姐瑾等四人,振竭忠効,攘除國難,志勇果毅,等威名將,可謂扞城,固蕃社稷,論功料勤,宜在甄顯。
高璉は百余歳で死んだ。隆昌元年、高麗王・楽浪公の高雲(文咨明王)を使持節・散騎常侍・都督営平二州諸軍事・征東大将軍・高麗王・楽浪公とした。
建武三年 — (この下の一葉が欠けて、高麗伝の後半と百済伝の前半が落ちている。続く文は百済王牟大の表の中の断片である。) —
「…功労と勤めに報いることは、まことに名と功烈を保つ道です。仮行寧朔将軍の臣姐瑾ら四人は、忠義の働きを振るって国の難を払い除けましたので、志と勇が果敢で、威は名将に等しく、城を守る盾と言うに足り、社稷の垣を固めました。功を論じ勤めを量れば、当然あらわし出すべきです。…」
夾注 3
原闕
原文が欠けている。
建武三年原闕此下缺一頁,脫高麗傳之下半篇,百濟傳之上半篇,各本同。原本每頁十八行,每行十八字。按元龜九百六十八:「明帝建武三年,高麗王、樂浪公遣使貢獻。」明帝紀不載,當亦為高麗傳缺頁中佚文。又建康實錄南齊高麗傳有:「其官位加(?)長史、司馬、參軍之屬。拜則申一腳,坐則跪,行則走,以為恭敬。國有銀山,採為貨,並人參貂皮。重中國綵纈,丈夫衣之。亦重虎皮。」疑亦南齊書高麗傳缺頁中佚文也。又元龜九百六十三:「齊高帝建元二年三月,百濟王牟都遣使貢獻。詔曰:『寶命維新,澤被絕域。牟都世藩東表,守職遐外,可即授使持節都督百濟諸軍事、鎮東大將軍。』」當亦為百濟傳缺頁中佚文。
「建武三年」の下、原文が欠けている — この下の一葉が欠けて、高麗伝の後半と百済伝の前半が落ちており、どの版本も同じである。原本は一葉につき十八行、一行につき十八字である。『冊府元亀』九百六十八に「明帝の建武三年、高麗王・楽浪公が使者を遣わして貢ぎ物を献じた」とあるが、明帝紀には載っていないので、これもまた高麗伝の欠けた葉の失われた文であろう。また『建康実録』の南斉高麗伝に「その官位に長史・司馬・参軍の類を加える。拝するときは片方の脚を伸ばし、座るときは膝をつき、歩くときは走って、それを恭敬とする。国に銀の山があり、採って財とし、人参と貂の皮も出る。中国の彩りの染め絹を貴んで男子がこれを着る。虎の皮も貴ぶ」とあるので、これも『南斉書』高麗伝の欠けた葉の文であるらしい。また『冊府元亀』九百六十三に「斉の高帝建元二年三月、百済王牟都が使者を遣わして貢ぎ物を献じた。詔に『宝命が新たになり、恵みは遠い地域にまで及ぶ。牟都は代々東のかたで藩の役を務め、遠い外で職を守ってきたので、すぐに使持節都督百済諸軍事・鎮東大将軍を授けてよい』とあった」とあるので、これは百済伝の欠けた葉の文であろう。
等威名將「威」原譌「截」,各本不譌,今改正。
「威は名将に等しい(等威名將)」の「威」は、もとは「截」と誤っていたが、どの版本も誤っていないので、いま正した。
5姐瑾ら四人の王侯
今依例輒假行職。伏願恩愍,聽除所假。寧朔將軍、面中王姐瑾,歷贊時務,武功竝列,今假行冠軍將軍、都將軍、都漢王。建威將軍、八中侯餘古,弱冠輔佐,忠効夙著,今假行寧朔將軍、阿錯王。建威將軍餘歷,忠款有素,文武列顯,今假行龍驤將軍、邁盧王。廣武將軍餘固,忠効時務,光宣國政,今假行建威將軍、弗斯侯。」
「…いま例に従ってとりあえず仮の職を授けましたので、伏してお願いいたします、恵みをもって顧み、仮に授けたものを正式の任命としてお許しください。寧朔将軍・面中王の姐瑾は、時務をあまねく助けて武功がそろって現れましたので、いま仮行冠軍将軍・都将軍・都漢王といたします。建威将軍・八中侯の餘古は、若い年で補佐して忠義の働きが早くから現れましたので、いま仮行寧朔将軍・阿錯王といたします。建威将軍の餘歴は、忠誠がもとからあり文武がはっきりしていますので、いま仮行龍驤将軍・邁盧王といたします。広武将軍の餘固は、時務に忠義を尽くして国の政を輝かせましたので、いま仮行建威将軍・弗斯侯といたします。」
6高達・楊茂・会邁
牟大又表曰:「臣所遣行建威將軍、廣陽太守、兼長史臣高達,行建威將軍、朝鮮太守、兼司馬臣楊茂,行宣威將軍、兼參軍臣會邁等三人,志行清亮,忠款夙著。往泰始中,比使宋朝,今任臣使,冒涉波險,尋其至効,宜在進爵,謹依先例,各假行職。且玄澤靈休,萬里所企,況親趾天庭,乃不蒙賴。伏願天監特愍除正。達邊効夙著,勤勞公務,今假行龍驤將軍、帶方太守。茂志行清壹,公務不廢,今假行建威將軍、廣陵太守。(萬)〔邁〕執志周密,屢致勤効,今假行廣武將軍、清河太守。」詔可,竝賜軍號,除太守。為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍。
牟大はまた表を上げた。「臣が遣わした行建威将軍・広陽太守・兼長史の臣高達と、行建威将軍・朝鮮太守・兼司馬の臣楊茂と、行宣威将軍・兼参軍の臣会邁ら三人は、志と行いが清く信ずべきもので、忠誠が早くから現れていました。さきの泰始の年間に続けて宋朝へ使者として行き、いま臣の使いを務めて波の険しさを冒しましたので、その至らんかぎりの働きを量れば、当然爵を進めるべきです。謹んで前例に従って、それぞれ仮の職を授けました。また天の恵みは万里の彼方が仰ぐところですのに、まして自ら天庭に赴いておきながら恵みを受けられないことがありましょうか。伏してお願いいたします、天のお目によって特に正式の任命をお許しください。達は辺境での働きが早くから現れ、公務に勤めておりますので、いま仮行龍驤将軍・帯方太守といたします。茂は志と行いが清く一途で、公務を怠りませんので、いま仮行建威将軍・広陵太守といたします。邁は志を執ることが周密で、たびたび勤めの働きを成しましたので、いま仮行広武将軍・清河太守といたします。」
詔して許し、あわせて軍号を賜り、太守を任じた。そして牟大を使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍とした。
夾注 3
牟大又表曰按「牟大」通志及元龜並作「牟太」。又元龜九百六十三:「齊武帝永明八年正月,百濟王牟太遣使上表,遣謁僕射孫副策命」,知上此表在永明八年正月也。
「牟大はまた表を上げた」 — 「牟大」は『通志』と『冊府元亀』のどちらも「牟太」となっている。また『冊府元亀』九百六十三に「斉の武帝永明八年正月、百済王牟太が使者を遣わして表を上げたので、謁者僕射の孫副を遣わして策命した」とあるので、この表を上げたのが永明八年正月であることが分かる。
往泰始中「泰始」原譌「太始」,各本並譌,今改正。
「さきの泰始の年間(泰始)」の「泰始」は、もとは「太始」と誤っていて、どの版本も誤っているので、いま正した。
(萬)〔邁〕執志周密據南監本、殿本、局本改。按邁即上所云之會邁也。
「(萬)〔邁〕執志周密」は、南監本・殿本・局本によって改めた。邁は上に言う会邁である。
7牟大を册封する
使兼謁者僕射孫副策命大襲亡祖父牟都為百濟王。曰:「於戲!惟爾世襲忠懃,誠著遐表,滄路肅澄,要貢無替。式循彝典,用纂顯命。往欽哉!其敬膺休業,可不慎歟!制詔行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍百濟王牟大今以大襲祖父牟都為百濟王,即位章綬等玉銅虎竹符四。〔王〕其拜受,不亦休乎!」
兼謁者僕射の孫副を遣わして、牟大に死んだ祖父牟都の百済王の位を継ぐよう策命した。「ああ。汝は代々忠誠と勤めを継いで、誠が遠い所まで現れ、海の路は清く澄んで朝貢が絶えなかった。常の法に従ってあらわれた命を継がせるので、行って敬うがよい。その美しい業を敬んで受けよ。慎まずにいられようか。制詔する。行都督百済諸軍事・鎮東大将軍百済王の牟大は、いま祖父牟都を継いで百済王となるので、即位の印章と印の紐など、玉・銅虎・竹の符四つを与える。王は拝して受けよ。これもまた美しいことではないか。」
夾注 3
為使持節都督百濟諸軍事鎮東大將軍按此句上有奪文。
「使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍とした」 — この句の上に落ちた文がある。
即位章綬等玉銅虎竹符四按此句疑有脫誤。
「即位の章綬など玉・銅虎・竹の符四つ」 — この句には落ちたり誤ったりしたところがあるようだ。
〔王〕其拜受據南監本、殿本、局本補。
「〔王〕は拝して受けよ」の王の字は、南監本・殿本・局本によって補った。
8数十万の騎兵を破る
是歲,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍,大破之。建武二年,牟大遣使上表曰:「臣自昔受封,世被朝榮,忝荷節鉞,剋攘列辟。往姐瑾等竝蒙光除,臣庶咸泰。去庚午年,獫狁弗悛,舉兵深逼。臣遣沙法名等領軍逆討,宵襲霆擊,匈梨張惶,崩若海蕩。乘奔追斬,僵尸丹野。由是摧其銳氣,鯨暴韜凶。今邦宇謐靜,實名等之略,尋其功勳,宜在褒顯。今假沙法名行征虜將軍、邁羅王,贊首流為行安國將軍、辟中王,解禮昆為行武威將軍、弗中侯,木干那前有軍功,又拔臺舫,為行廣威將軍、面中侯。伏願天恩特愍聽除。」又表曰:「臣所遣行龍驤將軍、樂浪太守兼長史臣慕遺,行建武將軍、城陽太守兼司馬臣王茂,兼參軍、行振武將軍、朝鮮太守臣張塞,行揚武將軍陳明,在官忘私,唯公是務,見危授命,蹈難弗顧。今任臣使,冒涉波險,盡其至誠。實宜進爵,各假行署。伏願聖朝特賜除正。」詔可,竝賜軍號。
この年、魏虜がまた数十万の騎兵を起こして百済を攻め、その境に入ったので、牟大は将の沙法名・賛首流・解礼昆・木干那を遣わし、衆を率いて虜の軍を襲わせ、大いにこれを破った。
建武二年、牟大は使者を遣わして表を上げた。「臣は昔から封を受けて代々朝廷の栄えを被り、かたじけなくも節と鉞を帯びて、数々の敵を払い除けてきました。さきに姐瑾らがみな輝かしい任命を被って、臣下も民もみな安んじました。去る庚午の年、獫狁(北魏)が悔いずに兵を挙げて深く迫ってきましたので、臣は沙法名らを遣わして軍を率いて迎え討たせ、夜に襲って雷のように撃ちましたところ、匈梨はうろたえて、海がひるがえるように崩れました。逃げるのに乗じて追い斬り、死骸が野を赤く染めました。これによってその鋭い気勢をくじき、鯨のように荒れていたものが凶暴さを隠しました。いま国土が静まったのは、まことに法名らの謀りごとによるものです。その功勲を尋ねれば、当然ほめあらわすべきですので、いま沙法名を仮行征虜将軍・邁羅王とし、賛首流を行安国将軍・辟中王とし、解礼昆を行武威将軍・弗中侯とし、木干那は先に軍功があり、また台と船を奪いましたので行広威将軍・面中侯といたします。伏してお願いいたします、天の恵みによって特に顧み、任命をお許しください。」
また表を上げた。「臣が遣わした行龍驤将軍・楽浪太守兼長史の臣慕遺と、行建武将軍・城陽太守兼司馬の臣王茂と、兼参軍・行振武将軍・朝鮮太守の臣張塞と、行揚武将軍の陳明は、官にあって私を忘れ、ただ公務にのみ努め、危ういのを見れば命を差し出し、難を踏んでも顧みませんでした。いま臣の使いを務めて波の険しさを冒し、その至誠を尽くしましたので、まことに爵を進めるべきであり、それぞれ仮行の官署を授けました。伏してお願いいたします、聖朝が特に正式の任命をお与えください。」
詔して許し、あわせて軍号を賜った。
夾注 1
匈梨張惶「梨」南監本作「犁」。漢書匈奴傳,其國稱單于曰撐犂孤塗單于。匈奴謂天為撐犂,謂子為孤塗,單于者,廣大之貌也。匈棃猶言匈奴單于,棃犂通。
「匈梨はうろたえて」の「梨」は、南監本に「犁」となっている。『漢書』匈奴伝に、その国では単于を撐犂孤塗単于と呼ぶとあり、匈奴は天を撐犂と言い、子を孤塗と言い、単于とは広大なさまである。匈梨は匈奴の単于を言うのと同じで、棃と犂は通じる。