崇神天皇
1崇神天皇
御間城入彦五十瓊殖天皇。稚日本根子彦大日日天皇第二子也。母曰伊香色謎命。物部氏遠祖大綜麻杵之女也。天皇年十九歳。立爲皇太子。識性聰敏。幼好雄略。既壯寛博謹愼。崇重神祇。恒有經綸天業之心焉。六十年夏四月。稚日本根子彦大日日天皇崩。
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのてんのう)は、稚日本根子彦大日日天皇の第二子です。母は伊香色謎命といい、物部氏の遠い祖先である大綜麻杵(おおへそき)の娘です。
天皇は十九歳で皇太子に立てられました。知識も人柄も聡明で機敏であり、幼いころから雄々しい計略を好みました。成人すると寛大で度量が広く、慎み深くありました。神々を篤く敬い、つねに天の業を治めようという心を持っていました。
六十年夏四月、稚日本根子彦大日日天皇が崩じました。
2位に即く
元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。尊皇后曰皇太后。
元年春正月壬午の朔の甲午の日、皇太子が天皇の位に即きました。皇后を尊んで皇太后と申し上げました。
3皇后と妃たち
二月辛亥朔丙寅。立御間城姫爲皇后。先是。后生活目入彦五十狹茅天皇。彦五十狹茅命。國方姫命。千千衝倭姫命。倭彦命。五十日鶴彦命。又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛。生豐城入彦命。豐鍬入姫命。次妃尾張大海媛。生八坂入彦命。淳名城入姫命。十市瓊入姫命。是年也太歳甲申。
二月辛亥の朔の丙寅の日、御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后としました。これより先、皇后は活目入彦五十狹茅天皇、彦五十狹茅命(ひこいさちのみこと)、國方姫命(くにかたひめのみこと)、千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)、倭彦命(やまとひこのみこと)、五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生みました。
また妃である紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)は、豐城入彦命(とよきいりびこのみこと)、豐鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)を生みました。次の妃である尾張の大海媛(おしあまひめ)は、八坂入彦命(やさかいりびこのみこと)、淳名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)、十市瓊入姫命(とおちのにいりびめのみこと)を生みました。
この年は太歳甲申です。
夾注 1
一云大海宿禰女八坂振天某邊。
一説には、大海宿禰(おしあまのすくね)の娘、八坂振天□某邊(やさかふるあまいろべ)といいます。
4瑞籬宮に遷る
三年秋九月。遷都於磯城。是謂瑞籬宮。
三年秋九月、都を磯城(しき)に遷しました。これを瑞籬宮(みずかきのみや)といいます。
5詔を下す
四年冬十月庚申朔壬午。詔曰。惟我皇祖。諸天皇等。光臨宸極者。豈爲一身乎。蓋所以司牧人神經綸天下。故能世闡玄功。時流至徳。今朕奉承大運。愛育黎元。何當聿遵皇祖之跡。永保無窮之祚。其羣卿百僚。竭爾忠貞。共安天下。不亦可乎。
四年冬十月庚申の朔の壬午の日、詔を下しました。「思うに、我が皇祖と歴代の天皇が天の位に輝かしく臨まれたのは、どうして我が一身のためでしょうか。おそらくは人と神を司り育て、天下を治めるためであったのでしょう。それゆえ代々よく奥深い功を開き、折ごとに至高の徳を流されました。
今、朕は大いなる運を承け、民を愛し育てています。どうして皇祖の跡を踏み、永く尽きることのない幸いを守らずにいられましょう。諸々の大臣と百官は、おのおのの忠誠を尽くし、ともに天下を安らかにする——それがまた正しいことではないでしょうか。」
6疫病が流行る
五年。國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
五年、国の中に疫病が多く、民のうち死ぬ者が半ばを越えました。
7二神を宮の外で祭る
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕■。請罪神祇。先是。天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢共住不安。故以天照大神。託豐鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。亦以日本大國魂神。託渟名城入姫命令祭。然渟名城入姫命髮落體痩而不能祭。
六年、民は散り散りに流れ、中には背く者もありました。その勢いは徳によって治めるのが難しいものでした。そのため天皇は朝早く起き夕べに□し、神々に罪を請いました。
これより先、天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大國魂(やまとのおおくにたま)の二神を、ともに天皇の大殿の中で祭っていました。しかしその神の威勢が畏ろしく、ともに住むことが安らかではありませんでした。そこで天照大神を豐鍬入姫命に託し、倭の笠縫邑(かさぬいのむら)で祭らせ、続いて磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てました。
また日本大國魂神を渟名城入姫命に託して祭らせました。しかし渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体が痩せて祭ることができませんでした。
夾注 1
神籬。此云比莽呂岐。
神籬は、ひもろぎと読みます。
8夢に大物主神が告げる
七年春二月丁丑朔辛卯。詔曰。昔我皇祖大啓鴻基。其後聖業逾高。王風轉盛。不意。今當朕世數有災害。恐朝無善政。取咎於神祇耶。蓋命神龜以極致之所由也。於是。天皇乃幸于神淺茅原。而會八十萬神以卜問之。是時。神明憑倭迹迹日百襲姫命曰。天皇何憂國之不治也。若能敬祭我者。必當自平矣。天皇問曰。教如此者誰神也。答曰。我是倭國城内所居神。名爲大物主神。時得神語隨教祭祀。然猶於事無驗。天皇乃沐浴齊戒。潔瀞殿内。而祈之曰。朕禮神尚未盡耶。何不享之甚也。冀亦夢裏教之。以畢神恩。是夜夢有一貴人。對立殿戸。自稱大物主神曰。天皇勿復爲愁國之不治。是吾意也。若以吾兒大田田根子。令祭吾者則立平矣。亦有海外之國自當歸伏。
七年春二月丁丑の朔の辛卯の日、詔を下しました。「昔、我が皇祖が大いなる基を大きく開かれ、その後、聖なる業はいよいよ高く、王の教化はますます盛んになりました。思いもよらず、今、朕の代になって災害がたびたび起こります。朝廷に善い政がなく、神々から咎を受けたのではないかと恐れます。おそらくは神霊な亀に命じて、その理由を究めるべきでしょう。」
そこで天皇は神淺茅原(かむあさじはら)に出向き、八十万の神を集めて占い問いました。
このとき、神霊が倭迹迹日百襲姫命に憑いて言いました。「天皇はなぜ国が治まらないことを憂えるのか。もし私を敬って祭ることができれば、必ずおのずから平らかになるだろう。」
天皇が問いました。「このように教えてくださるのは、どの神でしょうか。」
答えました。「私は倭国の中に住む神で、名を大物主神(おおものぬしのかみ)という。」
そのとき神の言葉を得て、教えのままに祭りました。しかしそれでも事に効き目がありませんでした。
天皇はそこで沐浴して斎戒し、殿の中を清めて祈りました。「朕が神を礼で敬うことが、まだ足りないのでしょうか。どうして享けてくださらないことがこれほど甚しいのでしょうか。願わくは、もう一度夢の中で教えて、神の恵みを尽くしてください。」
その夜の夢に、一人の貴い人があり、殿の戸に向かい立って、自ら大物主神と称して言いました。「天皇よ、もう国が治まらないことを憂えるな。これは私の意である。もし我が子の大田田根子(おおたたねこ)に私を祭らせれば、たちまち平らかになるだろう。また海の外の国も、おのずから帰服するだろう。」
9大田田根子を探す
秋八月癸卯朔己酉。倭迹速神淺茅原目妙姫。穗積臣遠祖大水口宿禰。伊勢麻績君。三人共同夢而奏言。昨夜夢之。有一貴人。誨曰。以大田田根子命爲祭大物主大神之主。亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神之主。必天下太平矣。天皇得夢辭益歡於心。布告天下求大田田根子。即於茅渟縣陶邑得大田田根子而貢之。天皇即親臨于神淺茅原。會諸王卿及八十諸部。而問大田田根子曰。汝其誰子。對曰。父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云。奇日方天日方。武茅渟祇之女也。天皇曰。朕當榮樂。乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者。吉之。又卜便祭他神。不吉。
秋八月癸卯の朔の己酉の日、倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまくわしひめ)、穗積臣の遠い祖先である大水口宿禰(おおみくちのすくね)、伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人がともに同じ夢を見て、奏上しました。
「昨夜の夢に、一人の貴い人があってこう教えました。『大田田根子命を大物主大神を祭る主とし、また市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大國魂神を祭る主とすれば、必ず天下は太平になるだろう』と。」
天皇は夢の言葉を得て、心にいよいよ喜びました。天下に布告して大田田根子を求めました。そして茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)で大田田根子を見つけ、差し出しました。
天皇はすぐに自ら神淺茅原に臨み、諸王や大臣および八十の諸部を集めて、大田田根子に問いました。「お前は誰の子か。」
答えました。「父は大物主大神といい、母は活玉依媛(いくたまよりひめ)といって、陶津耳(すえつみみ)の娘です。」また、奇日方天日方(くしひかたあまつひかた)と武茅渟祇(たけちぬつみ)の娘ともいいます。
天皇は言いました。「朕はきっと栄え楽しむだろう。」そこで占って、物部連の祖先である伊香色雄(いかがしこお)を、神に物を分けて供える者としたところ、吉でした。また他の神を祭ることを占うと、吉ではありませんでした。
10疫病が止まる
十一月丁卯朔己卯。命伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物。即以大田田根子。爲祭大物主大神之主。又以長尾市。爲祭倭大國魂神之主。然後卜祭他神吉焉。便別祭八十萬羣神。仍定天社。國社。及神地。神戸。於是疫病始息。國内漸謐五穀既成。百姓饒之。
十一月丁卯の朔の己卯の日、伊香色雄に命じて、物部の八十手(やそて)が作った神を祭る物を用いさせました。そして大田田根子を大物主大神を祭る主とし、また長尾市を倭大國魂神を祭る主としました。
その後、他の神を祭ることを占うと吉でした。そこで八十万の群神を別に祭り、続いて天社(あまつやしろ)、國社(くにつやしろ)、および神地(かむどころ)、神戸(かんべ)を定めました。
こうして疫病がはじめて止まり、国の中はしだいに静まり、五穀が実って民は豊かになりました。
11酒を掌る者を立てる
八年夏四月庚子朔乙卯。以高橋邑人活日爲大神之掌酒。
八年夏四月庚子の朔の乙卯の日、高橋邑(たかはしのむら)の人、活日(いくひ)を大神の掌酒(さかびと)としました。
夾注 1
掌酒。此云佐介弭苔。
掌酒は、さかびとと読みます。
12三輪の宮の門を開く
冬十二月丙申朔乙卯。天皇以大田田根子令祭大神。是日活日自擧神酒。獻天皇。仍歌之曰。許能瀰枳破。和餓瀰枳那羅孺。■磨等那殊。於朋望能農之能。介瀰之瀰枳。伊句臂佐。伊久臂佐。如此歌之。宴于神宮。即宴竟之。諸大夫等歌之曰。宇磨佐開。瀰和能等能能。阿佐妬珥毛。伊弟■由介那。瀰和能等能渡■。於茲。天皇歌之曰。宇磨佐階。瀰和能等能能。阿佐妬珥毛。於辭寐羅箇禰。瀰和能等能渡烏。即開神宮門而幸行之。所謂大田田根子。今三輪君等之始祖也。
冬十二月丙申の朔の乙卯の日、天皇は大田田根子に大神を祭らせました。この日、活日は自ら神酒を捧げて天皇に献じました。そして歌いました。
「このみきは わがみきならず □まとなす おほものぬしの かみしみき いくひさ いくひさ(許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺 ■磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐)」
このように歌って、神宮で宴を開きました。宴が終わると、諸々の大夫たちが歌いました。
「うまさけ みわのとのの あさとにも いでて□ゆかな みわのとのど□(宇磨佐開 瀰和能等能能 阿佐妬珥毛 伊弟■由介那 瀰和能等能渡■)」
そこで天皇が歌いました。
「うまさけ みわのとのの あさとにも おしびらかね みわのとのどを(宇磨佐階 瀰和能等能能 阿佐妬珥毛 於辭寐羅箇禰 瀰和能等能渡烏)」
——歌はいずれも音を書き写したものなので、意味には訳しません。
そして神宮の門を開いて出ていきました。いわゆる大田田根子は、今の三輪君(みわのきみ)たちの始祖です。
13夢に盾と矛を供えよと教える
九年春三月甲子朔戊寅。天皇夢有神人。誨之曰。以赤盾八枚。赤矛八竿。祠墨坂神。亦以黒盾八枚。黒矛八竿。祠大坂神。
九年春三月甲子の朔の戊寅の日、天皇の夢に神人があって教えました。「赤い盾八枚と赤い矛八竿で墨坂(すみさか)の神を祭り、また黒い盾八枚と黒い矛八竿で大坂(おおさか)の神を祭れ。」
14夢のとおりに祭る
夏四月甲午朔己酉。依夢之教。祭墨坂神。大坂神。
夏四月甲午の朔の己酉の日、夢の教えのとおりに墨坂の神と大坂の神を祭りました。
15民を教える根本
十年秋七月丙戌朔己酉。詔群卿曰。導民之本。在於教化也。今既禮神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。令知朕意。
十年秋七月丙戌の朔の己酉の日、諸々の大臣に詔を下しました。「民を導く根本は、教え導くことにあります。今すでに神々に礼を尽くし、災害はみな消えました。しかし遠く荒れた地に住む者たちは、いまだ正朔(せいさく)を受け入れません。これはまだ王の教化に馴れていないだけのことです。大臣を選んで四方に遣わし、朕の意を知らせなさい。」
16四つの道へ将軍を遣わす
九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃擧兵伐之。既而共授印綬爲將軍。
九月丙戌の朔の甲午の日、大彦命を北陸へ遣わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海へ遣わし、吉備津彦を西の道へ遣わし、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波へ遣わしました。そして詔を下しました。「もし教えを受け入れない者があれば、兵を挙げて討て。」やがてそれぞれに印綬を授けて将軍としました。
17少女の歌が反乱を告げる
壬子。大彦命到於和珥坂上。時有少女歌之曰。瀰磨紀異利寐胡播揶。飫逎餓鳥■。志齊務苔。農殊末句志羅珥。比賣那素寐殊望。於是大彦命異之。問童女曰。汝言何辭。對曰。勿言也。唯歌耳。乃重詠先歌忽不見矣。大彦乃還而具以状奏。於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命。聰明叡智。能識未然。乃知其歌恠。言于天皇。是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞。武埴安彦之妻吾田媛。密來之取倭香山土。領巾頭。而祈曰。是倭國之物實。乃反之。是以知有事焉。非早圖必後之。於是更留諸將軍而議之。未幾時。武埴安彦與妻吾田媛。謀反逆興師忽至。各分道而夫從山背。婦從大坂。共入欲襲帝京。時天皇遣五十狹芹彦命。撃吾田媛之師。即遮於大坂皆大破之。
壬子の日、大彦命が和珥坂(わにのさか)の上に至りました。そのとき一人の少女があって歌いました。
「みまきいりびこはや おのがをを□ しせむと ぬすまくしらに ひめなそびすも(瀰磨紀異利寐胡播揶 飫逎餓鳥■ 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望)」
そこで大彦命は不思議に思い、少女に問いました。「お前が言ったのは何の言葉か。」
答えました。「言ったのではありません。ただ歌っただけです。」そして先の歌をもう一度詠むと、たちまち見えなくなりました。
大彦はそこで帰って、ありさまを詳しく奏上しました。すると天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命は聡明で賢く、まだ起こっていないことをよく知る人でした。すぐにその歌が怪しいものだと分かり、天皇に申し上げました。
「これは武埴安彦が、まさに反逆を企てているしるしです。私が聞くところでは、武埴安彦の妻の吾田媛(あたひめ)が密かに来て、倭の香山(かぐやま)の土を取り、襟巻きの端に包んで『これは倭国の物實(ものしろ)である』と祈り、帰っていったとのことです。これによって何かが起きていると分かります。早く手を打たなければ、必ず後れを取りましょう。」
そこで改めて諸々の将軍を留めて相談しました。いくらもたたぬうちに、武埴安彦は妻の吾田媛とともに反逆を企て、兵を起こして急に至りました。それぞれ道を分け、夫は山背(やましろ)から、妻は大坂から、ともに入って都を襲おうとしました。
そのとき天皇は五十狹芹彦命を遣わして吾田媛の軍を討たせました。すぐに大坂で遮り、ことごとく大いに破りました。
夾注 3
一云。大彦命到山背平坂。時道側有童女歌之曰。
一説にはこうです。大彦命が山背の平坂(ひらさか)に至ったとき、道のそばに少女があって歌いました。
一云。於朋耆妬庸利。于介伽卑氏。許呂佐務苔。須羅句志羅珥□。比賣那素寐須望。
「おほきみとより うかがひて ころさむと すらくしらに□ ひめなそびすも(於朋耆妬庸利 于介伽卑氏 許呂佐務苔 須羅句志羅珥■ 比賣那素寐須望)」
物實。此云望能志呂。
物實は、ものしろと読みます。
18埴安彦を射殺す
殺吾田媛悉斬其軍卒。復遣大彦與和珥臣遠祖彦國葺。向山背撃埴安彦。爰以忌瓮鎭坐於和珥武坂上。則率精兵。進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而■■草木。因以號其山曰那羅山。更避那羅山。而進到輪韓河。與埴安彦。挾河屯之。各相挑焉。故時人改號其河曰挑河。今謂泉河訛也。埴安彦望之問彦國曰。何由矣汝興師來耶。對曰。汝逆天無道。欲傾王室。故擧義兵欲討汝逆。是天皇之命也。於是各爭先射。武埴安彦先射彦國葺。不得中。後彦國射埴安彦。中胸而殺焉。其軍衆脅退則追破於河北。而斬首過半。屍骨多溢。故號其處曰羽振苑。亦其卒怖走。屎漏于褌。乃脱甲而逃之。知不得兔。叩頭曰我君。故時人號其脱甲處曰伽和羅。褌屎處曰屎褌。今謂樟葉訛也。又號叩頭之處曰我君。是後。倭迹迹日百襲姫命爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣。
吾田媛を殺し、その軍卒をことごとく斬りました。さらに大彦と和珥臣の遠い祖先である彦國葺(ひこくにふく)を遣わし、山背へ向かわせて埴安彦を討たせました。
そこで忌瓮(いわいべ)を和珥の武坂(たけさか)の上に据えて鎮め祀り、精兵を率いて那羅山(ならやま)に登って陣を敷きました。そのとき官軍が集まって草木を踏みならしました。そのことによって、その山を那羅山と名づけました。
さらに那羅山を離れて輪韓河(わからがわ)に至り、埴安彦と川を挟んで陣を敷きました。それぞれが互いに挑み合いました。そのため当時の人はその川の名を改めて挑河(いどみがわ)といいました。今、泉河(いずみがわ)というのは訛ったものです。
埴安彦が望み見て彦國葺に問いました。「どういう理由でお前は兵を起こして来たのか。」
答えました。「お前は天に逆らい道に背き、王室を傾けようとしている。だから義の兵を挙げてお前の逆らいを討とうとするのだ。これは天皇の命である。」
そこで互いに先に射ようと争いました。武埴安彦が先に彦國葺を射ましたが、当てられませんでした。後に彦國が埴安彦を射て、胸に当てて殺しました。
その軍勢は怯えて退いたので、追って川の北で破りました。首を斬ったものは半ばを越え、死骸と骨が多くあふれました。そのため、その場所を羽振苑(はふりその)と名づけました。
またその兵卒は恐れて逃げるうちに、袴に糞を漏らしました。そこで甲を脱いで逃げましたが、逃れられないと知って頭を地につけ「我が君よ」と言いました。そのため当時の人は甲を脱いだ場所を伽和羅(かわら)といい、袴に糞をした場所を屎褌(くそばかま)と名づけました。今、樟葉(くずは)というのは訛ったものです。また頭を地につけた場所を我君(わがきみ)と名づけました。
この後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となりました。しかしその神はいつも昼には見えず、夜にだけ来ました。
夾注 2
□□。此云布瀰那羅須。
■■は、ふみならすと読みます。
叩頭。此云逎務。
叩頭は、のむと読みます。
19櫛笥の中の小さな蛇
倭迹迹姫命語夫曰。君常晝不見者。分明不得視其尊顏。願暫留之。明旦仰欲覲美麗之威儀。大神對曰。言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。爰倭迹迹姫命心裏密異之。待明以見櫛笥。遂有美麗小蛇。其長大如衣紐。則驚之叫啼。時大神有耻。忽化人形。謂其妻曰。汝不忍令羞吾。吾還令羞汝。仍踐大虚登于御諸山。爰倭迹迹姫命仰見而悔之急居。則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓。謂箸墓也。是墓者日也人作。夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓。人民相踵。以手遞傳而運焉。時人歌之曰。飫朋佐介珥。菟藝逎煩例屡。伊辭務邏■。手誤辭珥固佐縻。固辭介■務介茂。
倭迹迹姫命が夫に言いました。「あなたはいつも昼に見えないので、そのお顔をはっきり見ることができません。どうか少しとどまってください。明日の朝、美しいお姿を仰ぎ見たいのです。」
大神が答えました。「言うことは理にかなっている。私は明日の朝、お前の櫛笥(くしげ)に入っていよう。どうか私の姿に驚かないでほしい。」
そこで倭迹迹姫命は心の中で密かに不思議に思いました。夜明けを待って櫛笥を見ると、ついに美しい小さな蛇がいて、その長さと太さは衣の紐のようでした。姫はすぐに驚いて叫び泣きました。
そのとき大神は恥じて、たちまち人の姿に変わり、その妻に言いました。「お前は耐えきれず、私に恥をかかせた。私も返して、お前に恥をかかせよう。」そして大空を踏んで御諸山(みもろやま)に登りました。
そこで倭迹迹姫命は仰ぎ見て悔い、その場に座り込みました。そのとき箸が陰部を突いて亡くなりました。そして大市(おおいち)に葬りました。そのため当時の人はその墓を箸墓(はしはか)といいました。
この墓は、昼は人が作り、夜は神が作りました。そのため大坂山の石を運んで築いたのですが、山から墓まで人々が次々と連なり、手で渡し伝えて運びました。そのとき人々が歌いました。
「おほさかに つぎのぼれる いしむらを たごしにこさば こしかてむかも(飫朋佐介珥 菟藝逎煩例屡 伊辭務邏■ 手誤辭珥固佐縻 固辭介■務介茂)」
夾注 1
急居。此云菟岐于。
急居は、つきうと読みます。
20四つの道の将軍を遣わす
冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。畿内無事。唯海外荒俗。騷動未止。其四道將軍等今急發之。
冬十月乙卯の朔の日、諸々の臣に詔を下しました。「今、背いた者はことごとく誅に伏し、畿内に事はありません。ただ海の外の荒れた者たちが騒ぎ動いて、まだ止まりません。あの四つの道の将軍たちは、今すぐに発ちなさい。」
21将軍たちが発つ
丙子。將軍等共發路。
丙子の日、将軍たちはともに道を発ちました。
22夷を平定したと奏上する
十一年夏四月壬子朔己卯。四道將軍以平戎夷之状奏焉。
十一年夏四月壬子の朔の己卯の日、四つの道の将軍が、戎夷を平定したありさまを奏上しました。
23国が安らかになる
是歳。異俗多歸。國内安寧。
この年、異なる風俗の者が多く帰服し、国の中は安らかになりました。
24民を数える
十二年春三月丁丑朔丁亥。詔曰。朕初承天位。獲保宗廟。明有所蔽。徳不能綏。是以陰陽謬錯。寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。然今解罪改過。敦禮神祇。亦垂教而緩荒俗。擧兵以討不服。是以官無廢事。下無逸民。教化流行。衆庶樂業。異俗重譯來。海外既歸化。宜當此時。更校人民。令知長幼之次第。及課之先後焉。
十二年春三月丁丑の朔の丁亥の日、詔を下しました。「朕は初めて天の位を承け、宗廟を保つことができました。しかし明らかさに覆われるところがあり、徳が人を安んじることができませんでした。そのため陰陽が乱れ、寒さ暑さが順序を失い、疫病が多く起こって民は災いを受けました。
しかし今、罪を解き過ちを改め、神々への礼を篤くしました。また教えを垂れて荒れた風俗を和らげ、兵を挙げて服さぬ者を討ちました。そのため官には放り出された務めがなく、下には遊び暮らす民がなく、教化が行きわたって人々は生業を楽しんでいます。異なる風俗の者が通訳を重ねて来り、海の外はすでに帰服しました。
まさにこの時にあたって、あらためて民を数え、長幼の順序と、課役の先後とを知らせなさい。」
25御肇國天皇と称える
秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。是以。天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。家給人足。天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也
秋九月甲辰の朔の己丑の日、はじめて民を数え、あらためて調(みつき)と役(えだち)を課しました。これを男の弭調(ゆはずのみつき)、女の手末調(たなすえのみつき)といいます。
そのため天の神と地の神がともに和らいで享け、風雨は時に順い、さまざまな穀物が実って、家々は足り、人々は満ち、天下は大いに太平になりました。そのため御肇國天皇(はつくにしらすてんのう)と称えられています。
26船を造らせる
十七年秋七月丙午朔。詔曰。船者天下之要用也。今海邊之民。由無船以甚苦歩運。其令諸國俾造船舶。
十七年秋七月丙午の朔の日、詔を下しました。「船は天下に要る大切なものです。今、海辺の民は船がないために、歩いて運ぶことをとても苦しんでいます。諸々の国に命じて船を造らせなさい。」
27船を造りはじめる
冬十月。始造船舶。
冬十月、はじめて船を造りました。
28夢で後継ぎを決める
四十八年春正月己卯朔戊子。天皇勅豐城命。活目尊曰。汝等二子。慈愛共齊。不知曷爲嗣。各宜夢。朕以夢占之。二皇子於是被命。淨沐而祈寐。各得夢也。會明。兄豐城命以夢辭奏于天皇曰。自登御諸山向東。而八廻弄槍。八廻撃刀。弟活目尊以夢辭奏言。自登御諸山之嶺。繩■四方。逐食粟雀。則天皇相夢。謂二子曰。兄則一片向東。當治東國。弟是悉臨四方。宜繼朕位。
四十八年春正月己卯の朔の戊子の日、天皇は豐城命と活目尊に勅して言いました。「お前たち二人の子は、慈しみ愛する気持ちがどちらも等しく、どちらを後継ぎとすべきか分からない。それぞれ夢を見なさい。朕は夢によって占おう。」
二人の皇子はそこで命を受け、清めの沐浴をして祈り、眠りました。それぞれ夢を得ました。
夜が明けると、兄の豐城命が夢の話を天皇に奏上しました。「自ら御諸山に登って東に向かい、八度槍を振るい、八度刀を打ちました。」
弟の活目尊が夢の話を奏上しました。「自ら御諸山の嶺に登り、四方に縄を張って、粟を食べる雀を追いました。」
そこで天皇は夢を見比べ、二人の子に言いました。「兄は一方だけ東に向かったので、東の国を治めなさい。弟は四方すべてに臨んだので、朕の位を継ぎなさい。」
29皇太子を立てる
夏四月戊申朔丙寅。立活目尊爲皇太子。以豐城命令治東國。是上毛野君。下毛野君之始祖也。
夏四月戊申の朔の丙寅の日、活目尊を皇太子に立て、豐城命には東の国を治めさせました。これが上毛野君(かみつけののきみ)、下毛野君(しもつけののきみ)の始祖です。
30出雲の神寶をめぐって兄が弟を殺す
六十年秋七月丙申朔己酉。詔群臣曰。武日照命。從天將來神寶。藏于出雲大神宮。是欲見焉。則遣矢田部造遠祖武諸隅而使獻。當是時。出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶。是徃筑紫國而不遇矣。其弟飯入根則被皇命。以神寶付弟甘美韓日狹與子■濡渟而貢上。既而出雲振根從筑紫還來之。聞神寶獻于朝廷。責其弟飯入根曰。數日當待。何恐之乎。輙許神寶。是以既經年月。猶懷恨忿有殺弟之志。仍欺弟曰。頃者於止屋淵多生■。願共行欲見。則隨兄而往之。先是。兄竊作木刀。形似眞刀。當時自佩之。弟佩眞刀。共到淵頭。兄謂弟曰。淵水清冷。願欲共游沐。弟從兄言。各解佩刀置淵邊。沐於水中。乃兄先上陸。取弟眞刀自佩。後弟驚而取兄木刀。共相撃矣。弟不得拔木刀。兄撃弟飯入根而殺之。故時人歌之曰。椰勾毛多菟。伊頭毛多鷄流餓波鷄流多知。
六十年秋七月丙申の朔の己酉の日、諸々の臣に詔を下しました。「武日照命(たけひなてるのみこと)が天から持って来た神寶が、出雲の大神宮に蔵められている。これを見たい。」
そこで矢田部造(やたべのみやつこ)の遠い祖先である武諸隅(たけもろすみ)を遣わして、献上させました。
このとき、出雲臣の遠い祖先である出雲振根(いずもふるね)が神寶を預かっていましたが、筑紫国に行っていて会えませんでした。その弟の飯入根(いいいりね)が天皇の命を受け、神寶を弟の甘美韓日狹(うましからひさ)と子の□濡渟(うかずくぬ)に渡して献上しました。
やがて出雲振根が筑紫から帰って来て、神寶を朝廷に献上したと聞き、その弟の飯入根を責めました。「数日待つべきであったのに、どうして恐れて、たやすく神寶を渡したのか。」
そのため、すでに年月が過ぎても、なお恨みと怒りを抱き、弟を殺す心を持ちました。そこで弟を騙して言いました。「このごろ止屋(やむや)の淵に菱が多く生えている。どうかいっしょに行って見たい。」
そこで弟は兄に従って行きました。これより先、兄はひそかに木刀を作っており、その形は真剣に似ていました。そのとき兄は自らそれを帯び、弟は真剣を帯びていました。
ともに淵のほとりに至って、兄が弟に言いました。「淵の水は清く冷たい。どうかいっしょに泳いで体を清めたい。」弟は兄の言葉に従い、それぞれ帯びた刀を解いて淵のそばに置き、水の中で身を清めました。
そこで兄が先に陸に上がり、弟の真剣を取って自ら帯びました。後から弟が驚いて兄の木刀を取り、互いに打ち合いました。弟は木刀を抜くことができず、兄は弟の飯入根を打って殺しました。そのため当時の人が歌いました。
夾注 2
一云。武夷鳥。又云。天夷鳥。
一説には、武夷鳥(たけひなとり)といい、また天夷鳥(あめのひなとり)といいます。
一書云。一名大母隅也。
ある書には、別の名を大母隅(おおもすみ)といいます。
31幼な子の口を借りて神が語る
菟頭邏佐波磨枳。佐微那辭珥。阿波禮。於是甘美韓日狹。■濡渟。參向朝廷曲奏其状。則遣吉備津彦與武渟河別。以誅出雲振根。故出雲臣等畏是事。不祭大神而有間。時丹波氷上人。名氷香戸邊。啓于皇太子活目尊曰。己子有小兒。而自然言之。玉■鎭石。出雲人祭。眞種之甘美鏡。押羽振。甘美御神底寶御寶主。山河之水泳御魂。靜挂甘美御神底寶御寶主也。是非似小兒之言。若有託言乎。於是。皇太子奏于天皇。則勅之使祭。
「やくもたつ いづもたけるが はけるたち(椰勾毛多菟 伊頭毛多鷄流餓波鷄流多知) つづらさはまき さみなしに あはれ(菟頭邏佐波磨枳 佐微那辭珥 阿波禮)」——音を書き写したものなので、意味には訳しません。
そこで甘美韓日狹と□濡渟が朝廷に参上し、そのありさまを詳しく奏上しました。すぐに吉備津彦と武渟河別を遣わして、出雲振根を誅しました。
そのため出雲臣たちはこの事を恐れ、大神を祭らないまま、しばらくの時が過ぎました。
そのとき、丹波の氷上(ひかみ)の人で氷香戸邊(ひかとべ)という者が、皇太子の活目尊に申し上げました。「私の子に幼な子がおりますが、おのずからこう申します。『玉で飾った鎭石(しずいし)よ、出雲の人が祭る、眞種(まだね)の麗しい鏡よ、押し羽振る、麗しい御神(みかみ)の底の寶、寶の主よ、山と河の水に泳ぐ御魂(みたま)よ、静かに掛かる、麗しい御神の底の寶、寶の主であるぞ。』これは幼な子の言葉とは思えません。もしや神が憑いて語らせている言葉ではないでしょうか。」
そこで皇太子が天皇に奏上すると、天皇は勅して祭らせました。
夾注 1
□。此云毛。
■は、もと読みます。
32池を掘らせる
六十二年秋七月乙卯朔丙辰。詔曰。農天下之大本也。民所恃以生也。今河内狹山埴田水少。是以。其國百姓怠於農於農事。其多開池溝。以寛民業。
六十二年秋七月乙卯の朔の丙辰の日、詔を下しました。「農は天下の大本であり、民が頼って生きるところです。今、河内の狹山(さやま)は埴(はに)の田で水が少ない。そのため、その国の民は農事を怠っています。池と溝を多く開いて、民の生業をゆたかにしなさい。」
33依網池
冬十月。造依網池。
冬十月、依網池(よさみのいけ)を造りました。
34苅坂池と反折池
十一月。作苅坂池。反折池。
十一月、苅坂池(かりさかのいけ)と反折池(さかおりのいけ)を造りました。
夾注 1
一云。天皇居桑間宮造是三池也。
一説には、天皇が桑間宮(くわまのみや)にいて、この三つの池を造ったといいます。
35任那が朝貢する
六十五年秋七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫國二千餘里。北阻海以在鷄林之西南。
六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢させました。任那は、筑紫国から二千余里離れており、北は海を隔てて鷄林の西南にあります。
36百二十歳で崩じる
天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子崩。時年百廿歳。明年秋八月甲辰朔甲寅。葬于山邊道上陵。
天皇が位に即いてから六十八年、冬十二月戊申の朔の壬子の日に崩じました。そのとき年は百二十歳でした。翌年秋八月甲辰の朔の甲寅の日、山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬りました。