垂仁天皇
1垂仁天皇
活目入彦五十狹茅天皇。御間城入彦五十瓊殖天皇第三子也。母皇后曰御間城姫。大彦命之女也。天皇以御間城天皇廿九年歳次壬子春正月己亥朔。生於瑞籬宮。生而有岐■之姿。及壯■儻大度。率性任眞。無所矯飾。天皇愛之。引置左右。廿四歳因夢祥以立爲皇太子。六十八年冬十二月。御間城入彦五十瓊殖天皇崩。
活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりびこいさちのてんのう)は、御間城入彦五十瓊殖天皇の第三子です。母の皇后は御間城姫といい、大彦命の娘です。
天皇は御間城天皇の二十九年、壬子の年の春正月己亥の朔の日、瑞籬宮で生まれました。生まれながらに秀でた□姿があり、成人すると□れて度量が大きく、生まれつきのままに真実にゆだね、飾り立てることがありませんでした。天皇はこれを愛して、身近に置きました。二十四歳のとき、めでたい夢によって皇太子に立てられました。
六十八年冬十二月、御間城入彦五十瓊殖天皇が崩じました。
2位に即く
元年春正月丁丑朔戊寅。皇太子即天皇位。
元年春正月丁丑の朔の戊寅の日、皇太子が天皇の位に即きました。
3先の天皇を葬る
冬十月癸卯朔癸丑。葬御間城天皇於山邊道上陵。
冬十月癸卯の朔の癸丑の日、御間城天皇を山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬りました。
4皇太后と尊ぶ
十一月壬申朔癸酉。尊皇后曰皇太后是年也太歳壬辰。
十一月壬申の朔の癸酉の日、皇后を尊んで皇太后と申し上げました。この年は太歳壬辰です。
5狹穗姫を皇后とする
二年春二月辛未朔己卯。立狹穗姫爲皇后。后生譽津別命。生而天皇愛之。常在左右。及壯而不言
二年春二月辛未の朔の己卯の日、狹穗姫(さほひめ)を立てて皇后としました。皇后は譽津別命(ほむつわけのみこと)を生みました。生まれたときから天皇は愛して、つねに身近に置きましたが、成人するまで物を言いませんでした。
6珠城宮に遷る
冬十月。更都於纒向。是謂珠城宮也。
冬十月、都をあらためて纒向(まきむく)に遷しました。これを珠城宮(たまきのみや)といいます。
7任那と新羅が敵となったはじめ
是歳。任那人蘇那曷叱智請之。欲歸于國。蓋先皇之世來朝未還歟。故敦賞蘇那曷叱智。仍齎赤絹一百疋。賜任那王。然新羅人遮之於道而奪焉。其二國之怨始起於是時也。
この年、任那の人、蘇那曷叱智が自分の国に帰りたいと願いました。おそらく先の天皇の代に来朝して、まだ帰っていなかったのでしょう。そこで蘇那曷叱智に篤く賞を与え、あわせて赤い絹百疋を持たせて、任那の王に与えさせました。しかし新羅の人が道で遮って奪いました。その二国の恨みは、このときから始まりました。
夾注 1
一云御間城天皇之世。額有角人。乘一船泊于越國笥飯浦。故號其處曰角鹿也。問之曰。何國人也。對曰。意富加羅國王之子。名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇。以歸化之。到于穴門時。其國有人。名伊都都比古。謂臣曰。吾則是國王也。除吾復無二王。故勿往他處。然臣究見其爲人。必知非王也。既更還之。不知道路留連嶋浦。自北海廻之。經出雲國至於此間也。是時遇天皇崩。便留之。仕活目天皇逮于三年。天皇問都怒我阿羅斯等曰。欲歸汝國耶。對諮。甚望也。天皇詔阿羅斯等曰。汝不迷道必速詣之。遇先皇而仕歟。是以改汝本國名。追負御間城天皇御名。便爲汝國名。仍以赤織絹給阿羅斯等。返于本土。故號其國謂彌摩那國。其是之縁也。於是。阿羅斯等以所給赤絹藏于己國郡府。新羅人聞之。起兵至之。皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。一云。初都怒我阿羅斯等。有國之時。黄牛負田器。將往田舍。黄牛忽失。則尋迹覓之。跡留一郡家中。時有一老夫曰。汝所求牛者。入此郡家中。然郡公等曰。由牛所負物而推之。必設殺食。若其主覓至。則以物償耳。即殺食也。若問牛直欲得何物。莫望財物。便欲得郡内祭神云爾。俄而郡公等到之曰。牛直欲得何物。對如老父之教。其所祭神。是白石也。乃以白石。授牛主。因以將來置于寢中。其神石化美麗童女。於是。阿羅斯等大歡之欲合。然阿羅斯等去他處之間。童女忽失也。阿羅斯等大驚之。問己婦曰。童女何處去矣。對曰。向東方。則尋追求。遂遠浮海以入日本國。所求童女者。詣于難波爲比賣語曾社神。且至豐國國前郡。復爲比賣語曾社神。並二處見祭焉。
一説にはこうです。御間城天皇の代に、額に角のある人が一艘の船に乗って、越国の笥飯浦(けひのうら)に泊まりました。そのため、その場所を角鹿(つぬが)と名づけました。問いました。「どの国の人か。」答えました。「意富加羅国の王の子で、名を都怒我阿羅斯等といい、于斯岐阿利叱智于岐ともいいます。日本国に聖なる天皇がいると伝え聞いて、帰化しようとしました。穴門(あなと)に至ったとき、その国に人があって、名を伊都都比古(いつつひこ)といい、私にこう言いました。『私こそがこの国の王である。私を除いて二人の王はいない。だから他の所へ行くな。』しかし私がその人柄をよく見ると、必ず王ではないと分かりました。そこであらためて引き返したものの、道が分からず島や浦に留まり、北の海を回って出雲国を経て、ここに至ったのです。」このとき天皇が崩じたことに出合い、そのままとどまって、活目天皇にお仕えすること三年に及びました。天皇が都怒我阿羅斯等に問いました。「お前の国に帰りたいか。」答えました。「とても願っています。」天皇は阿羅斯等に詔を下しました。「お前が道に迷わなければ、必ず早く着いて、先の天皇に会ってお仕えできたであろう。そこでお前の本国の名を改め、御間城天皇の御名にちなんで、お前の国の名としなさい。」そして赤く織った絹を阿羅斯等に与えて、本国に帰しました。そのため、その国を彌摩那国(みまなのくに)と名づけたのは、これがいわれです。そこで阿羅斯等は、与えられた赤い絹を自分の国の郡の役所に蔵めました。新羅の人がこれを聞き、兵を起こしてやって来て、その赤い絹をすべて奪いました。これが二国が互いに恨み合ったはじめです。一説にはこうです。はじめ都怒我阿羅斯等が自分の国にいたとき、黄色い牛に田の道具を負わせて田舎へ行こうとしたところ、黄色い牛が突然いなくなりました。そこで足跡を辿って探すと、足跡はある郡の役所の中で止まっていました。そのとき一人の老人があって言いました。「お前が探している牛は、この役所の中に入った。ところが役所の長たちは『牛が負っている物から推し量るに、きっと殺して食うためのものだ。もしその主が探しに来たら、物で償えばよい』と言って、すぐに殺して食べてしまった。もし牛の代わりに何が欲しいかと問われたら、財物を望まず、郡の中で祭っている神が欲しいと言いなさい。」やがて役所の長たちが来て言いました。「牛の代わりに何が欲しいか。」老人が教えたとおりに答えました。その祭っている神は白い石でした。そこで白い石を牛の主に与えました。それを持ち帰って寝床に置いたところ、その神の石が美しい少女に変わりました。そこで阿羅斯等は大いに喜んで、結ばれようとしました。しかし阿羅斯等が他の所へ行っている間に、少女は突然いなくなりました。阿羅斯等は大いに驚いて、自分の妻に問いました。「少女はどこへ行ったのか。」答えました。「東の方へ向かいました。」そこで探して追いかけ、ついに遠く海に浮かんで日本国に入りました。探していた少女は難波(なにわ)に至って比賣語曾社(ひめこそのやしろ)の神となり、また豊国の國前郡(くにさきのこおり)に至って、ふたたび比賣語曾社の神となりました。二つの所であわせて祭られています。
8新羅の王子、天日槍が来る
三年春三月。新羅王子天日槍來歸焉。將來物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則藏于但馬國。常爲神物也。
三年春三月、新羅の王子、天日槍が来て帰服しました。持って来た物は、羽太玉(はふとのたま)一箇、足高玉(あしたかのたま)一箇、鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)一箇、出石小刀(いずしのかたな)一口、出石桙(いずしのほこ)一枝、日鏡(ひのかがみ)一面、熊神籬(くまのひもろぎ)一具で、あわせて七つです。そこで但馬国に蔵めて、つねに神の物としました。
夾注 1
一云。初天日槍。乘艇泊于播磨國。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨。而問天日槍曰。汝也誰人。且何國人也。天日槍對曰。僕新羅國主之子也。然聞日本國有聖皇。則以己國授弟知古而化歸之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。膽狹淺大刀。并八物。仍詔天日槍曰。播磨國完粟邑。淡路島出淺邑。是二邑。汝任意居之。時天日槍啓之曰。臣將住處。若垂天恩。聽臣情願地者。臣親歴視諸國。則合于臣心欲被給。乃聽之。於是。天日槍自菟道河泝之。北入近江國吾名邑而暫住。復更自近江。經若狹國西到但馬國則定住處也。是以近江國鏡谷陶人。則天日槍之從人也。故天日槍娶但馬出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。
一説にはこうです。はじめ天日槍は小舟に乗って播磨国に泊まり、完粟邑(しさわのむら)にいました。そのとき天皇は、三輪君の祖先である大友主(おおともぬし)と、倭直の祖先である長尾市(ながおち)を播磨に遣わして、天日槍に問わせました。「お前は誰か。また、どの国の人か。」天日槍が答えました。「私は新羅国の主の子です。しかし日本国に聖なる天皇がいると聞いて、自分の国を弟の知古に授けて帰化しました。」そして献じた物は、葉細珠(はぼそのたま)、足高珠、鵜鹿鹿赤石珠、出石刀子、出石槍、日鏡、熊神籬、膽狹淺大刀(いささのたち)で、あわせて八つです。そこで天日槍に詔を下しました。「播磨国の完粟邑と、淡路島の出淺邑(いでさのむら)、この二つの邑を、お前の思うままに住みなさい。」そのとき天日槍が申し上げました。「私が住む所については、もし天の恵みを垂れて、私の願う土地をお聞き入れくださるなら、私が自ら諸国を見て回り、私の心に合う所をいただきたいのです。」そこで聞き入れました。そこで天日槍は菟道河(うじがわ)をさかのぼり、北へ近江国の吾名邑(あなのむら)に入ってしばらく住みました。さらに近江から若狹国を経て、西へ但馬国に至り、そこで住む所を定めました。そのため近江国の鏡谷(かがみのたに)の陶人(すえびと)は、天日槍に従って来た人です。そして天日槍は但馬の出嶋(いずし)の人、太耳(ふとみみ)の娘、麻多烏(またお)を娶って、但馬諸助(たじまのもろすく)を生みました。諸助は但馬日楢杵(たじまのひならき)を生み、日楢杵は清彦(きよひこ)を生み、清彦は田道間守(たじまもり)を生みました。
9狹穗彦が妹に匕首を授ける
四年秋九月丙戌朔戊申。皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷。因伺皇后之燕居而語之曰。汝孰愛兄與夫焉。於是。皇后不知所問之意趣。輙對曰。愛兄也。則誂皇后曰。夫以色事人。色衰寵緩。今天下多佳人。各遞進求寵。豈永得恃色乎。是以冀吾登鴻祚。必與與汝照臨天下。則高枕而永終百年。亦不快乎。願爲我弑天皇。仍取匕首。授皇后曰。是匕首佩■中。當天皇之寢。廼刺頚而弑焉。皇后於是心裏兢戰不知所如。然視兄王之志。便不可得諌。故受其匕首。獨無所藏。以著衣中。遂有諌兄之情歟。
四年秋九月丙戌の朔の戊申の日、皇后の母を同じくする兄、狹穗彦王(さほひこのみこ)が反逆を企て、社稷を危うくしようとしました。そこで皇后がくつろいでいるときをうかがって言いました。「お前は兄と夫と、どちらを愛するか。」
皇后は問いの意図が分からず、すぐに答えました。「兄を愛します。」
そこで皇后をそそのかして言いました。「およそ容色で人に仕えれば、容色が衰えたときに寵は緩む。今、天下には美しい人が多く、それぞれ次々と進んで寵を求めている。どうして永く容色を頼みにできようか。だから願うのは、私が大いなる位に即けば、必ずお前とともに天下に明らかに臨み、枕を高くして永く百年を終える——それもまた心地よいことではないか。どうか私のために天皇を殺してくれ。」
そして匕首を取って皇后に授け、言いました。「この匕首を□の中に帯びておき、天皇が寝入ったときに、首を刺して殺せ。」
皇后はそこで心の中が震え、どうしてよいか分かりませんでした。しかし兄王の志を見ると、諫めることができませんでした。そのためその匕首を受け取りましたが、一人では隠す所がなく、衣の中に入れておきました。ついには兄を諫めたい気持ちがあったのでしょうか。
10涙が天皇の顔に落ちる
五年冬十月己卯朔。天皇幸來目。居於高宮。時天皇枕皇后膝而晝寢。於是。皇后既無成事。而空思之。兄王所謀。適是時也。即眼涙流之落帝面。天皇則寤之。語皇后曰。朕今日夢矣。錦色小蛇。繞于朕頚。復大雨從狹穗發而來之濡面。是何祥也。皇后則知不得匿謀。而悚恐伏地。曲上兄王之反状。因以奏曰。妾不能違兄王之志。亦不得背天皇之恩。告言則亡兄王。不言則傾社稷。是以一則以懼。一則以悲。俯仰喉咽。進退而血泣。日夜懷悒。無所訴言。唯今日也。天皇枕妾膝而寢之。於是。妾一思矣。若有狂婦成兄志者。適遇是時不勞以成功乎。茲意未竟。眼涕自流。則擧袖拭涕。從袖溢之沾帝面。故今日夢也。必是事應焉。錦色小蛇則授妾匕首也。大雨忽發則妾眼涙也。天皇謂皇后曰。是非汝罪也。即發近縣卒。命上毛野君遠祖八綱田。令撃狹穗彦。時狹穗彦與師距之。忽積稻作城。
五年冬十月己卯の朔の日、天皇は來目(くめ)に出向き、高宮(たかみや)にとどまりました。そのとき天皇は皇后の膝を枕にして昼寝をしました。
そこで皇后は、すでに事を成すこともできず、むなしく思いました。兄王が企てたことは、まさにこのときなのだと。すると涙が流れて、天皇の顔に落ちました。
天皇はそこで目を覚まし、皇后に言いました。「朕は今日、夢を見た。錦色の小さな蛇が朕の首に巻きつき、また大雨が狹穗から起こって来て、顔を濡らした。これは何のしるしだろうか。」
皇后はもう企てを隠せないと知り、恐れて地に伏し、兄王の反逆のありさまを詳しく申し上げました。そして奏上しました。
「私は兄王の志に逆らうこともできず、また天皇の恩に背くこともできません。告げれば兄王が亡び、告げなければ社稷が傾きます。そのため、一方では恐れ、一方では悲しみ、うつむいては仰ぎ、喉を詰まらせ、進んでは退いて血の涙を流し、昼も夜も気が晴れぬ思いを抱きながら、訴える所がありませんでした。
ただ今日、天皇が私の膝を枕にしてお休みになり、そこで私はひとつ思ったのです。もし狂った女があって兄の志を成そうとするなら、ちょうどこのときに出合えば、苦労せずに成し遂げられるだろうと。その思いが終わらぬうちに、涙がおのずから流れました。そこで袖を挙げて涙を拭いましたが、袖からあふれて天皇の顔を濡らしたのです。
ですから今日の夢は、必ずこの事に応じたものです。錦色の小さな蛇とは、私に授けられた匕首であり、大雨が突然起こったとは、私の涙なのです。」
天皇は皇后に言いました。「これはお前の罪ではない。」そして近くの県の兵を出し、上毛野君の遠い祖先である八綱田(やつなだ)に命じて、狹穗彦を討たせました。
そのとき狹穗彦は兵を率いて防ぎました。たちまち稲の束を積んで城を造ったので、
11稲で築いた城
其堅不可破。此謂稻城也。踰月不降。於是皇后悲之曰。吾雖皇后。既亡兄王。何以面目莅天下耶。則抱王子譽津別命。而入之於兄王稻城。天皇更益軍衆。悉圍其城。即勅城中曰。急出皇后與皇子。然不出矣。則將軍八綱田放火焚其城。於焉皇后令懷抱皇子。踰城上而出之。因以奏請曰。妾始所以逃入兄城。若有因妾子免兄罪乎。今不得免乃知妾有罪。何得面縛。自經而死耳。唯妾雖死之。敢勿忘天皇之恩。願妾所掌後宮之事。宜授好仇。丹波國有五婦人。志並貞潔。是丹波道主王之女也。當納掖庭以盈後宮之數。天皇聽矣。時火興城崩。軍衆悉走。狹穗彦與妹共死于城中。天皇於是美將軍八綱田之功。號其名謂倭日向武日向彦八綱田也。
その堅さは破ることができませんでした。これを稻城(いなき)といいます。月を越えても降伏しませんでした。
そこで皇后は悲しんで言いました。「私は皇后ではあるけれど、すでに兄王を失っては、どんな顔で天下に臨めましょう。」そして王子の譽津別命を抱いて、兄王の稻城に入りました。
天皇はさらに軍勢を増やし、その城をすべて囲みました。そして城の中に勅しました。「急いで皇后と皇子を出せ。」しかし出て来ませんでした。
そこで将軍の八綱田が火を放ってその城を焼きました。すると皇后は皇子を抱かせて、城の上を越えて出しました。そして奏上して願いました。
「私がはじめ兄の城に逃げ込んだのは、もしや私の子によって兄の罪が免じられるかと思ったからです。今それが叶わないので、私に罪があると知りました。どうして顔を縛られて引かれていけましょう。自ら首をくくって死ぬだけです。ただ私が死んでも、天皇の恩を忘れることはいたしません。願わくは、私が掌っていた後宮の事を、よい伴侶に授けてください。丹波国に五人の婦人があり、志はどれも貞しく清らかです。これは丹波道主王の娘たちです。どうぞ宮に入れて、後宮の数をお満たしください。」
天皇は聞き入れました。そのとき火が起こって城は崩れ、軍勢はみな逃げました。狹穗彦は妹とともに城の中で死にました。
天皇はそこで将軍八綱田の功を立派だとして、その名を倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)といいました。
夾注 1
道主王者。稚日本根子太日日天皇之孫。彦坐王子也。一云。彦湯産隅王之子也。
道主王は、稚日本根子太日日天皇の孫で、彦坐王の子です。一説には、彦湯産隅王の子といいます。
12相撲のはじまり
七年秋七月己巳朔乙亥。左右奏言。當麻邑有勇悍士。曰當麻蹶速。其爲人也。強力以能毀角申鈎。恒語衆中曰。於四方求之。豈有比我力者乎。何遇強力者。而不期死生。頓得爭力焉。天皇聞之。詔羣卿曰。朕聞。當麻蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言。臣聞。出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人。欲當于蹶速。即日遣倭直祖長尾市喚野見宿禰。於是。野見宿禰自出雲至。則當麻蹶速與野見宿禰令■力。二人相對立。各擧足相蹶。則蹶折當麻蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當麻蹶速之地。悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。
七年秋七月己巳の朔の乙亥の日、側近の者が奏上しました。「當麻邑(たいまのむら)に勇ましく荒々しい男があり、當麻蹶速(たいまのけはや)といいます。その人柄は力が強く、角を砕き、鉤を伸ばすことができます。つねに人々の中で『四方に求めても、どうして私の力に並ぶ者があろうか。どうにかして力の強い者に出会い、生死をかえりみず、ひとたび力を争ってみたいものだ』と言っております。」
天皇はこれを聞いて、諸々の大臣に詔を下しました。「朕が聞くに、當麻蹶速は天下の力士だという。この人に並ぶ者があるだろうか。」
一人の臣が進み出て言いました。「私が聞くところでは、出雲国に勇ましい男があり、野見宿禰(のみのすくね)といいます。試しにこの人を召して、蹶速に当たらせてみてはいかがでしょうか。」
その日すぐに倭直の祖先である長尾市を遣わして、野見宿禰を呼びました。そこで野見宿禰が出雲から来ました。そして當麻蹶速と野見宿禰に力を競わせました。
二人は向かい合って立ち、それぞれ足を挙げて互いに蹴り合いました。すると當麻蹶速の脇の骨を蹴って折り、またその腰を踏んで砕いて殺しました。
そのため當麻蹶速の地を奪って、すべて野見宿禰に与えました。これが、その邑に腰折田(こしおれだ)があるいわれです。野見宿禰はそのままとどまって仕えました。
13丹波の五人の女
十五年春二月乙卯朔甲子。喚丹波五女納於掖庭。第一曰日葉酢媛。第二曰渟葉田瓊入媛。第三曰眞砥野媛。第四曰瓊入媛。第五曰竹野媛。
十五年春二月乙卯の朔の甲子の日、丹波の五人の女を呼んで宮に入れました。第一を日葉酢媛(ひばすひめ)、第二を渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりびめ)、第三を眞砥野媛(まとのひめ)、第四を薊瓊入媛(あざみにいりびめ)、第五を竹野媛(たけのひめ)といいます。
夾注 1
底本は瓊入媛としており、薊の字がありません。次の段の薊瓊入媛と同じ人と見て、合わせました。――訳者
14醜いとして返される
秋八月壬午朔。立日葉酢媛命爲皇后。以皇后弟之三女爲妃。唯竹野媛者。因形姿醜返於本土。則羞其見返。到葛野自堕輿而死之。故號其地謂堕國。今謂弟國訛也。皇后日葉酢媛命生三男二女。第一曰五十瓊敷入彦命。第二曰大足彦尊第三曰大中姫命。第四曰倭姫命。第五曰稚城瓊入彦命。妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命與膽香足姫命。次妃薊瓊入媛。生池速別命。稚淺津姫命。
秋八月壬午の朔の日、日葉酢媛命を立てて皇后としました。皇后の妹三人を妃としました。ただ竹野媛だけは、姿が醜いとして本国に返されました。そこで返されたことを恥じ、葛野(かどの)に至って自ら輿から落ちて死にました。そのため、その地を堕國(おちくに)と名づけました。今、弟國(おとくに)というのは訛ったものです。
皇后日葉酢媛命は三男二女を生みました。第一を五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)、第二を大足彦尊(おおたらしひこのみこと)、第三を大中姫命(おおなかつひめのみこと)、第四を倭姫命(やまとひめのみこと)、第五を稚城瓊入彦命(わかきにいりびこのみこと)といいます。
妃の渟葉田瓊入媛は鐸石別命(ぬでしわけのみこと)と膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生みました。次の妃の薊瓊入媛は池速別命(いけはやわけのみこと)と稚淺津姫命(わかあさつひめのみこと)を生みました。
15三十になっても物を言わない
廿三年秋九月丙寅朔丁卯。詔群卿曰。譽津別王。是生年既卅。髯鬚八掬。猶泣如兒。常不言何由矣。因有司而議之。
二十三年秋九月丙寅の朔の丁卯の日、諸々の大臣に詔を下しました。「譽津別王は、生まれてすでに三十年、髯は八握りもあるのに、なお子どものように泣き、いつも物を言わない。どういう理由か。担当の官に付して議論しなさい。」
16鵠を見て言葉を得る
冬十月乙丑朔壬申。天皇立於大殿前。譽津別皇子侍之。時有鳴鵠。度大虚。皇子仰觀鵠曰。是何物耶。天皇則知皇子見鵠得言而喜之。詔左右曰。誰能捕是鳥獻之。於是。鳥取造祖天湯河板擧奏言。臣必捕而獻。即天皇勅湯河板擧曰。汝獻是鳥必敦賞矣。時湯河板擧遠望鵠飛之方。追尋詣出雲而捕獲。或曰。得干但馬國。
冬十月乙丑の朔の壬申の日、天皇が大殿の前に立ち、譽津別皇子が傍に侍っていました。そのとき鳴く鵠(くぐい)があって、大空を渡っていきました。皇子は鵠を仰ぎ見て言いました。「これは何ですか。」
天皇は、皇子が鵠を見て言葉を得たことを知って喜び、側近に詔を下しました。「誰かこの鳥を捕らえて献上できる者はいないか。」
そこで鳥取造(ととりのみやつこ)の祖先である天湯河板擧(あめのゆかわたな)が奏上しました。「私が必ず捕らえて献上いたします。」
すぐに天皇は湯河板擧に勅しました。「お前がこの鳥を献上すれば、必ず篤く賞を与えよう。」
そのとき湯河板擧は鵠が飛んでいく方を遠く望み、追い尋ねて出雲に至り、捕らえました。ある人は、但馬国で得たといいます。
夾注 1
板擧。此云□儺。
板擧は、たなと読みます。
17鳥取造の姓を賜る
十一月甲午朔乙未。湯河板擧獻鵠也。譽津別命弄是鵠。遂得言語。由是以敦賞湯河板擧。則賜姓而曰鳥取造。因亦定鳥取部。鳥養部。譽津部。
十一月甲午の朔の乙未の日、湯河板擧が鵠を献上しました。譽津別命はこの鵠を弄んで、ついに言葉を得ました。これによって湯河板擧に篤く賞を与え、姓を賜って鳥取造といいました。そしてまた鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、譽津部(ほむつべ)を定めました。
18五人の大夫に詔を下す
廿五年春二月丁巳朔甲子。詔阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦國。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日。五大夫曰。我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損。志懷沖退。綢繆機衡。禮祭神祇。剋己勤躬。日愼一日。是以人民富足。天下太平也。今當朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。
二十五年春二月丁巳の朔の甲子の日、阿倍臣の遠い祖先である武渟川別、和珥臣の遠い祖先である彦國葺、中臣連の遠い祖先である大鹿嶋(おおかしま)、物部連の遠い祖先である十千根(とちね)、大伴連の遠い祖先である武日(たけひ)の五人の大夫に詔を下しました。
「我が先の天皇、御間城入彦五十瓊殖天皇は、賢くあって聖なる徳を成し、明らかに聡く通じておられ、深く謙りと控えめさを保ち、志には空しさと退くことを抱かれました。国の要を細やかに整え、神々を礼をもって祭り、自らを克めて身を励まし、日ごとに一日一日を慎まれました。そのため民は豊かに足り、天下は太平でした。今、朕の代になって、神々を祭ることにどうして怠りがあってよいでしょうか。」
19天照大神を伊勢に奉る
三月丁亥朔丙申。離天照大神於豐耜入姫命。託干倭姫命。爰倭姫命求鎭坐大神之處。而詣莵田筱幡。更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。時天照大神誨倭姫命日。是神風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大神教。其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。
三月丁亥の朔の丙申の日、天照大神を豐耜入姫命から離して、倭姫命に託しました。
そこで倭姫命は大神が鎮まり座す場所を求めて、莵田(うだ)の筱幡(ささはた)に至りました。さらに引き返して近江国に入り、東へ美濃を回って伊勢国に至りました。
そのとき天照大神が倭姫命に教えました。「この神風の伊勢国は、常世(とこよ)の浪が幾重にも寄せ来る国である。傍らの国の中でも、うるわしい国である。この国に居たい。」
そこで大神の教えのとおり、その祠を伊勢国に立て、あわせて五十鈴川(いすずがわ)の上流に齋宮(いわいのみや)を興しました。これを磯宮(いそのみや)といいます。すなわち天照大神がはじめて天から降りた所です。
夾注 2
筱此云佐佐。
筱は、ささと読みます。
一云。天皇以倭姫命爲御杖。貢奉於天照太神。是以倭姫命以天照太神。鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨神誨。取丁巳年冬十月甲子。遷干伊勢國渡遇宮。是時倭太神。著穗積臣遠祖大水口宿禰。而誨之曰。太初之時期曰。天照大神。悉治天原。皇御孫尊。専治葦原中國之八十魂神。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇。雖祭祀神祇。微細未探其源根。以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以。今汝御孫尊。悔先皇之不及而愼祭。則汝尊壽命延長。復天下太平矣。時天皇聞是言。則仰中臣連祖探湯主而卜之。誰人以令祭大倭大神。即渟名城稚姫命食卜焉。因以命渟名城稚姫命。定神地於穴礒邑。祠於大市長岡岬。然是渟名城稚姫命。既身體悉痩弱以不能祭。是以命大倭直祖長尾市宿禰。令祭矣。
一説にはこうです。天皇は倭姫命を御杖(みつえ)として、天照大神に奉りました。そこで倭姫命は天照大神を磯城(しき)の嚴橿(いつかし)の本に鎮め座らせて祭りました。その後、神の教えに従い、丁巳の年の冬十月甲子の日を選んで、伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)に遷しました。このとき倭大神が穗積臣の遠い祖先である大水口宿禰に憑いて教えました。「太初のとき、こう約した。『天照大神は天の原をすべて治め、皇御孫尊(すめみまのみこと)は葦原中國の八十魂神(やそみたまのかみ)をもっぱら治め、私は自ら大地の官を治める』と。その言葉はすでに終わっている。ところが先の天皇、御間城天皇は神々を祭ったとはいえ、細かなところまで及んでその根源を探らず、おおまかに枝葉にとどまった。そのためその天皇は命が短かった。そこで今、お前、皇御孫尊が、先の天皇の及ばなかったことを悔いて慎んで祭れば、お前の命は長く延び、また天下は太平になるだろう。」そのとき天皇はこの言葉を聞いて、中臣連の祖先である探湯主(くかたぬし)に命じて占わせました。誰に倭大神を祭らせるべきかと占うと、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が卜に出ました。そこで渟名城稚姫命に命じて、穴礒邑(あなしのむら)に神の地を定め、大市(おおいち)の長岡岬(ながおかのさき)で祭らせました。しかしこの渟名城稚姫命は、すでに体がすっかり痩せ衰えて祭ることができませんでした。そのため大倭直の祖先である長尾市宿禰に命じて、祭らせました。
20出雲の神寶を検め定める
廿六年秋八月戊寅朔庚辰。天皇勅物部十千根大連曰。屡遣使者於出雲國。雖検校其國之神寶。無分明申言者。汝親行干出雲。宜検校定。則十千根大連校定神寶。而分明奏言之。仍令掌神寶也。
二十六年秋八月戊寅の朔の庚辰の日、天皇は物部十千根大連に勅しました。「たびたび使者を出雲国に遣わして、その国の神寶を検めさせたが、はっきりと申し上げる者がいない。お前が自ら出雲に行き、検め定めなさい。」
そこで十千根大連は神寶を検め定め、はっきりと奏上しました。そしてそのまま神寶を掌らせました。
21兵器を神に奉る
廿七年秋八月癸酉朔己卯。令祠官卜兵器爲神幣。吉之。故弓矢及横刀納諸神之社。仍更定神地。神戸以時祠之。蓋兵器祭神祇。始興於是時也。
二十七年秋八月癸酉の朔の己卯の日、祭りを掌る官に、兵器を神の幣(にえ)とすることを占わせたところ、吉でした。そのため弓矢と横刀(たち)を諸々の神の社に納めました。そしてあらためて神の地と神戸を定め、時に合わせて祭りました。おそらく兵器で神々を祭ることは、このときに始まったのでしょう。
22屯倉を興す
是歳。興屯倉于來目邑。
この年、來目邑(くめのむら)に屯倉(みやけ)を興しました。
夾注 1
屯倉。此云彌夜氣。
屯倉は、みやけと読みます。
23倭彦命が亡くなる
廿八年冬十月丙寅朔庚午。天皇母弟倭彦命薨。
二十八年冬十月丙寅の朔の庚午の日、天皇の同母弟、倭彦命が亡くなりました。
24殉死をやめさせる
十一月丙申朔丁酉。葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是集近習者。悉生而埋立於陵域。數日不死。晝夜泣吟。遂死而爛之。犬烏聚■焉。天皇聞此泣吟之聲。心有悲傷。詔羣卿曰。夫以生所愛令殉亡者。是甚傷矣。其雖古風之。非良何從。自今以後。議之止殉。
十一月丙申の朔の丁酉の日、倭彦命を身狹(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に葬りました。そのとき近くに仕えていた者たちを集め、ことごとく生きたまま陵の域に埋めて立てました。数日たっても死なず、昼も夜も泣き叫びました。ついに死んで腐ると、犬や烏が集まってきました。
天皇はこの泣き叫ぶ声を聞いて心に悲しみを覚え、諸々の大臣に詔を下しました。「およそ生きている愛する者を、亡くなった者に殉じて死なせるのは、とても痛ましいことだ。古くからの風習とはいえ、良くないものにどうして従おうか。今より後は、議って殉死をやめなさい。」
25弓矢と、位
卅年春正月己未朔甲子。天皇詔五十瓊敷命。大足彦尊曰。汝等各言情願之物也。兄王諮。欲得弓矢。弟王諮。欲得皇位。於是。天皇詔之曰。各宜隨情。則弓矢賜五十瓊敷命。仍詔大足彦尊曰。汝必繼朕位。
三十年春正月己未の朔の甲子の日、天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に詔を下しました。「お前たちは、それぞれ心に願うものを言いなさい。」
兄王が申し上げました。「弓矢を得たいと思います。」
弟王が申し上げました。「天皇の位を得たいと思います。」
そこで天皇が詔を下しました。「それぞれ思いのままにしなさい。」そして弓矢を五十瓊敷命に与えました。続いて大足彦尊に詔を下しました。「お前は必ず朕の位を継ぎなさい。」
26埴輪が生まれる
卅二年秋七月甲戌朔己卯。皇后日葉酢媛命薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。
三十二年秋七月甲戌の朔の己卯の日、皇后日葉酢媛命が亡くなりました。葬る日が近づいたとき、天皇は諸々の大臣に詔を下しました。「殉死の道が良くないことは、先に知った。今回の葬りはどうすればよいだろうか。」
そこで野見宿禰が進み出て言いました。「およそ君王の陵墓に生きた人を埋めて立てるのは、良くないことです。どうして後の世に伝えられましょう。どうか今、都合のよい方法を議して奏上させてください。」
そして使者を遣わして、出雲国の土部(はじべ)百人を呼び上げました。自ら土部たちを率い、埴(はに)を取って人や馬やさまざまな物の形を作り、天皇に献じて言いました。「今より後は、この土の物で生きた人に代えて陵墓に立て、後の世の法としてください。」
天皇はこれを大いに喜び、野見宿禰に詔を下しました。「お前の都合のよい議は、まことに朕の心にかなっている。」そしてその土の物を、はじめて日葉酢媛命の墓に立てました。そしてこの土の物を埴輪(はにわ)と名づけ、立物(たてもの)ともいいました。
そして令を下しました。「今より後は、陵墓に必ずこの土の物を立て、人を傷つけてはならない。」
天皇は野見宿禰の功に篤く賞を与え、また鍛(かぬち)の地を与え、そのまま土部の職を任せ、もとの姓を改めて土部臣(はじのおみ)といいました。これが土部連たちが天皇の葬儀を掌るいわれです。いわゆる野見宿禰は、土部連たちの始祖です。
夾注 1
一云。日葉酢根命也。
日葉酢根命ともいいます。
27大きな亀が白い石に変わる
卅四年春三月乙丑朔丙寅。天皇幸山背。時左右奏言之。此國有佳人。曰綺戸邊。姿形美麗。山背大國不遲之女也。天皇於茲執矛祈之曰。必遇其佳人。道路見瑞。比至于行宮。大龜出河中。天皇擧矛剌龜。忽化爲白石。謂左右曰。因此物而推之。必有驗乎。仍喚綺戸邊納于後宮。生磐衝別命。是三尾君之始祖也。先是娶山背苅幡戸邊。生三男。第一曰祖別命。第二曰五十日足彦命。第三曰膽武別命。五十日足彦命。是子石田君之始祖也。
三十四年春三月乙丑の朔の丙寅の日、天皇は山背に出向きました。そのとき側近の者が奏上しました。「この国に美しい人があり、綺戸邊(かにはたとべ)といいます。姿が麗しく、山背の大國不遲(おおくにのふち)の娘です。」
天皇はそこで矛を執って祈りました。「必ずその美しい人に出会えるなら、道の途中でしるしを見るだろう。」
行宮に着くころ、大きな亀が河の中から出てきました。天皇が矛を挙げて亀を刺すと、たちまち白い石に変わりました。天皇は側近に言いました。「この物から推し量れば、必ずしるしがあるだろう。」
そして綺戸邊を呼んで後宮に入れ、磐衝別命(いわつくわけのみこと)を生みました。これが三尾君(みおのきみ)の始祖です。
これより先、山背の苅幡戸邊(かりはたとべ)を娶って三人の男子を生みました。第一を祖別命(おじわけのみこと)、第二を五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)、第三を膽武別命(いたけるわけのみこと)といいます。五十日足彦命の子が、石田君(いしだのきみ)の始祖です。
28池を造る
卅五年秋九月。遣五十瓊敷命于河内國。作高石池。茅渟池。
三十五年秋九月、五十瓊敷命を河内国に遣わして、高石池(たかしのいけ)と茅渟池(ちぬのいけ)を造りました。
29狹城池と迹見池
冬十月。作倭狹城池。及迹見池。
冬十月、倭の狹城池(さきのいけ)と迹見池(とみのいけ)を造りました。
30国々に池と溝を開く
是歳。令諸國多開池溝數八百之。以農爲事。因是百姓富寛。天下大平也。
この年、諸々の国に命じて池と溝を多く開かせたところ、その数は八百でした。農を事としました。これによって民は豊かにゆとりを得、天下は大いに太平になりました。
31皇太子を立てる
卅七年春正月戊寅朔。立大足彦尊爲皇太子。
三十七年春正月戊寅の朔の日、大足彦尊を皇太子に立てました。
32剣を千口つくる
卅九年冬十月。五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮。作劔一千口。因名其劒謂川上部。亦名曰裸伴。藏于石上神宮也。是後命五十瓊敷命。俾主石上神宮之神寶。
三十九年冬十月、五十瓊敷命は茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)にいて、剣を千口つくりました。それによってその剣を川上部(かわかみべ)と名づけ、裸伴(あかはだかとも)ともいいました。石上神宮(いそのかみのかみのみや)に蔵めました。この後、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神寶を掌らせました。
夾注 2
裸伴。此云阿箇潘娜我等母。
裸伴は、あかはだかともと読みます。
一云。五十瓊敷皇子。居于茅渟菟砥河上。而喚鍜名河上。作大刀一千口。是時楯部。倭文部。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。大刀佩部。并十箇品部賜五十瓊敷皇子。其一千口大刀者。藏于忍坂邑。然後從忍坂移之。藏于石上神宮。是時神乞之言。春日臣族。名市河令治。因以命市河令治。是今物部首之始祖也。
一説にはこうです。五十瓊敷皇子は茅渟の菟砥の河上にいて、名を河上という鍛冶(かぬち)を呼び、大刀を千口つくりました。このとき楯部(たてべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かんゆげべ)・神矢作部(かんやはぎべ)・大穴磯部(おおあなしべ)・泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たまつくりべ)・神刑部(かんおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)、あわせて十種の品部(しなべ)を五十瓊敷皇子に与えました。その千口の大刀は、忍坂邑(おさかのむら)に蔵めました。その後、忍坂から移して石上神宮に蔵めました。このとき神が求めて「春日臣の一族で、名を市河(いちかわ)という者に治めさせよ」と言いました。それによって市河に命じて治めさせました。これが今の物部首(もののべのおびと)の始祖です。
33神の庫に梯を立てる
八十七年春二月丁亥朔辛卯。五十瓊敷命謂妹大中姫曰。我老也。不能掌神寶。自今以後。必汝主焉。大中姫命辭曰。吾手弱女人也。何能登天神庫耶。五十瓊敷命曰。神庫雖高。我能爲神庫造梯。豈煩登庫乎。故諺曰神之神庫隨樹梯之。此其縁也。然遂大中姫命授物部十千根大連而令治。故物部連等至于今治石上神寶。是其縁也。昔丹波國桑田村有人。名曰甕襲。則甕襲家有犬。名曰足徃。是犬咋山獸名牟士那而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮。
八十七年春二月丁亥の朔の辛卯の日、五十瓊敷命が妹の大中姫に言いました。「私は老いた。神寶を掌ることができない。今より後は、必ずお前が主となりなさい。」
大中姫命は辞して言いました。「私は手弱い女です。どうして天の神の庫に登れましょう。」
五十瓊敷命が言いました。「神の庫が高いとはいえ、私が神の庫のために梯を造ろう。どうして庫に登ることを煩わしく思うことがあろうか。」
そのため諺に「神の神庫も梯を立てるままに」というのは、これがいわれです。
しかし結局、大中姫命は物部十千根大連に授けて治めさせました。そのため物部連たちが今に至るまで石上の神寶を治めているのは、これがいわれです。
昔、丹波国の桑田村(くわたのむら)に人があり、名を甕襲(みかそ)といいました。その甕襲の家に犬があり、名を足徃(あゆき)といいました。この犬が牟士那(むじな)という山の獣を咬んで殺したところ、その獣の腹に八尺瓊(やさかに)の勾玉がありました。それによって献上しました。この玉は今、石上神宮にあります。
夾注 1
神庫。此云保玖羅。
神庫は、ほくらと読みます。
34天日槍の神寶と出石の小刀
八十八年秋七月己酉朔戊午。詔群卿曰。朕聞。新羅王子天日槍初來之時。將來寶物今有但馬。元爲國人見貴。則爲神寶也。朕欲見其寶物。即日遣使者。詔天日槍之曾孫清彦而令獻。於是清彦被勅。乃自捧神寶而獻之。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。日鏡一面。熊神籬一具。唯有小刀一口。名曰出石。則清彦忽以爲。非獻刀子。仍匿袍中而自佩之。天皇未知匿小刀之情。欲寵清彦。而召之賜酒於御所。時刀子從袍中出而顯之。天皇見之。親問清彦曰。爾袍中刀子者何刀子也。爰清彦知不得匿刀子而呈言。所獻神寶之類也。則天皇謂清彦曰。其神寶之豈得離類乎。乃出而獻焉。皆藏於神府。然後開寶府而視之。小刀自失。則使問清彦曰。爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎。清彦答曰。昨夕刀子自然至於臣家。乃明旦失焉。天皇則惶之。且更勿覓。是後出石刀子自然至于淡路嶋。其嶋人謂神。而爲刀子立祠。是於今所祠也。昔有一人。乘艇而泊于但馬國。因問曰。汝何國人也。對曰。新羅王子。名曰天日槍。則留于但馬娶其國前津耳女。麻能烏。生但馬諸助。是清彦之祖父也。
八十八年秋七月己酉の朔の戊午の日、諸々の大臣に詔を下しました。「朕が聞くに、新羅の王子、天日槍がはじめて来たときに持って来た寶物が、今、但馬にあり、もともとその国の人に貴ばれて、そのまま神寶となったという。朕はその寶物を見たい。」
その日すぐに使者を遣わし、天日槍の曾孫の清彦に詔を下して、献上させました。
そこで清彦は勅を受け、自ら神寶を捧げて献上しました。羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿赤石玉一箇、日鏡一面、熊神籬一具です。ただ小刀が一口あって、名を出石(いずし)といいましたが、清彦はふと刀は献上しないことにして、袍(うわぎ)の中に隠して自ら帯びました。
天皇はまだ刀を隠した事情を知らず、清彦をかわいがろうとして呼び、御所で酒を賜りました。そのとき刀が袍の中から出て現れました。天皇はこれを見て、自ら清彦に問いました。「お前の袍の中の刀は、どういう刀か。」
そこで清彦は刀を隠せないと知って申し上げました。「献上した神寶の仲間です。」
そこで天皇は清彦に言いました。「その神寶が、どうして仲間から離れてよいものか。」そこで取り出して献上しました。すべて神の庫に蔵めました。
その後、寶の庫を開けて見ると、小刀がおのずから失われていました。そこで人をやって清彦に問わせました。「お前が献上した刀が突然失われた。もしやお前の所に来ていないか。」
清彦は答えました。「昨夜、刀がおのずから私の家に至り、翌朝には失われました。」
天皇はそこで畏れて、二度と探しませんでした。この後、出石の小刀はおのずから淡路島に至りました。その島の人は神だと考え、刀のために祠を立てました。これが今、祭られているものです。
昔、一人の人があって、小舟に乗って但馬国に泊まりました。そこで問いました。「お前はどの国の人か。」答えました。「新羅の王子で、名を天日槍という。」そして但馬にとどまり、その国の前津耳(まえつみみ)の娘、麻能烏(まのお)を娶って、但馬諸助を生みました。これが清彦の祖父です。
夾注 1
一云。前津見。一云。太耳
一説には、前津見(まえつみ)といい、一説には、太耳(ふとみみ)といいます。
35時ならぬ香菓を求めに遣わす
九十年春二月庚子朔。天皇命田道間守。遣常世國。令求非時香菓。今謂橘是也。
九十年春二月庚子の朔の日、天皇は田道間守に命じて常世国(とこよのくに)に遣わし、時ならぬ香菓(かくのみ)を求めさせました。今、橘(たちばな)というのがこれです。
夾注 1
香菓。此云箇倶能未。
香菓は、かくのみと読みます。
36百四十歳で崩じる
九十九年秋七月戊午朔。天皇崩於纒向宮。時年百四十歳。
九十九年秋七月戊午の朔の日、天皇は纒向宮(まきむくのみや)で崩じました。そのとき年は百四十歳でした。
37田道間守が陵の前で死ぬ
冬十二月癸卯朔壬子。葬於菅原伏見陵。明年春三月辛未朔壬午。田道間守至自常世國。則賚物也非時香菓八竿八縵焉。田道間守於是泣悲歎之曰。受命天朝。遠往絶域。萬里蹈浪。遥度弱水。是常世國。則神仙秘區。俗非所臻。是以往來之間。自經十年。豈期獨凌峻瀾。更向本土乎。然頼聖帝之神靈。僅得還來。今天皇既崩。不得復命。臣雖生之。亦何益矣。乃向天皇之陵。叫哭而自死之。群臣聞皆流涙也。田道間守。是三宅連之始祖也。
冬十二月癸卯の朔の壬子の日、菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬りました。
翌年春三月辛未の朔の壬午の日、田道間守が常世国から帰って来ました。持って来た物は、時ならぬ香菓の八竿と八縵(やかげ)でした。
田道間守はそこで泣いて悲しみ嘆きました。「命を朝廷から受けて、遠く絶え果てた地域へ行き、万里に浪を踏み、はるかに弱水(じゃくすい)を渡りました。この常世国は神仙の隠れた所で、俗の者が至れる所ではありません。そのため行き帰りの間に、おのずから十年が過ぎました。どうして一人で険しい波を越えて、ふたたび本国へ向かえると見込んでいたでしょうか。しかし聖なる天皇の神霊のおかげで、やっと帰って来られました。今、天皇はすでに崩じられ、命を果たしたことを申し上げられません。私が生きていても、何の役に立ちましょうか。」
そして天皇の陵に向かって叫び泣き、自ら死にました。諸々の臣はこれを聞いて、みな涙を流しました。田道間守は、三宅連(みやけのむらじ)の始祖です。