神功皇后
1神功皇后
氣長足姬尊、稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。母曰葛城高顙媛。足仲彦天皇二年、立爲皇后。幼而聰明叡智。貌容壯麗。父王異焉。
気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇の曾孫で、気長宿禰王の娘です。母は葛城高顙媛といいます。足仲彦天皇の二年に皇后に立てられました。幼いころから聡明で叡智があり、姿や容貌は堂々として美しく、父の王は不思議に思いました。
2斎宮を造る
九年春二月、足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。
九年の春二月に、足仲彦天皇が筑紫の橿日宮で亡くなりました。そのとき皇后は、天皇が神の教えに従わないで早く亡くなったことを痛み、崇めるべき神を知って宝の国を求めようとしました。そのため群臣と百寮に命じて罪を解き過ちを改めさせ、改めて小山田邑に斎宮を造りました。
3神の名を問う
三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者。因以千繒高繒、置琴頭尾、而請曰、先日教天皇者誰神也。願欲知其名。逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。亦問之、除是神復有神乎。答曰、幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。問、亦有耶。答曰、於天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神有之也。問、亦有耶。答曰、有無之不知焉。於是、審神者曰、今不答而更後有言乎。則對曰、於日向國橘小門之水底所居、而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。問、亦有耶。答曰、有無之不知焉。遂不言且有神矣。時得神語、隨教而祭。然後、遣吉備臣祖鴨別、令擊熊襲國。未經浹辰、而自服焉。且荷持田村有羽白熊鷲者。其爲人强健。亦身有翼、能飛以高翔。是以、不從皇命。毎略盜人民。
三月、壬申が朔の日に、皇后は吉日を選んで斎宮に入り、みずから神主となりました。そして武内宿禰に命じて琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を呼んで審神者としました。そして千繒高繒を琴の頭と尾に置いて、こう請いました。
「先の日に天皇に教えたのは、どの神でしょうか。願ってその名を知りたいのです。」
七日七夜に至って、こう答えました。「神風の伊勢国、百伝う度逢県の拆鈴五十鈴宮にいる神で、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である。」
また問いました。「この神のほかに、さらに神がいますか。」
答えました。「幡荻の穂が出るように出る私である。尾田の吾田節の淡郡にいる神がいる。」
問いました。「ほかにもいますか。」
答えました。「天に事代し、虚に事代する玉籤入彦厳之事代主神がいる。」
問いました。「ほかにもいますか。」
答えました。「いるかいないか分からない。」
そこで審神者が言いました。「今は答えず、後になって言うことがあるのでしょうか。」
すると答えました。「日向国の橘の小門の水底にいて、水葉が若く出ている神がいる。名は表筒男・中筒男・底筒男の神である。」
問いました。「ほかにもいますか。」
答えました。「いるかいないか分からない。」ついに、さらに神がいるとは言いませんでした。
そのとき神の言葉を得て、教えのままに祭りました。その後、吉備臣の祖である鴨別を遣わして、熊襲国を撃たせました。十二日も経たないうちに、おのずから服しました。
また荷持田村に羽白熊鷲という者がいました。その人柄は強く健やかで、また身に翼があって、よく飛んで高く翔けました。そのため皇命に従わず、いつも人民を略奪し盗んでいました。
夾注 1
荷持、此云能登利。
荷持は、能登利と読みます。
4熊鷲と田油津媛を討つ
戊子、皇后欲擊熊鷲、而自橿日宮遷于松峽宮。時飄風忽起、御笠墮風。故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。謂左右曰、取得熊鷲。我心則安。故號其處曰安也。丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。
戊子の日に、皇后は熊鷲を撃とうとして、橿日宮から松峽宮に移りました。そのとき旋風が突然起こって、お召しの笠が風に落ちました。そのため当時の人はその所を御笠と名づけました。
辛卯の日に、層増岐野に至って、兵を挙げて羽白熊鷲を撃ち、滅ぼしました。左右の者に言いました。「熊鷲を取り得た。私の心は安らかだ。」そのためその所を安と名づけました。
丙申の日に、移って山門県に至り、土蜘蛛の田油津媛を誅しました。そのとき田油津媛の兄の夏羽が、軍を興して迎えに来ました。しかし妹が誅されたと聞いて逃げました。
5釣りと分かれた髪
夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣、而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上、而投鉤祈之曰、朕西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰、希見物也。故時人號其處、曰梅豆羅國。今謂松浦訛焉。是以、其國女人、毎當四月上旬、以鉤投河中、捕年魚、於今不絶。唯男夫雖釣、以不能獲魚。既而皇后、則識神教有驗、更祭祀神祗、躬欲西征。爰定神田而佃之。時引儺河水、欲潤神田、而掘溝。及于迹驚岡、大磐塞之、不得穿溝。皇后召武內宿禰、捧劒鏡令禱祈神祗、而求通溝。則當時、雷電霹靂、蹴裂其磐、令通水。故時人號其溝曰裂田溝也。皇后還詣橿日浦、解髮臨海曰、吾被神祗之教、頼皇祖之靈、浮渉滄海、躬欲西征。是以、令頭滌海水。若有驗者、髮自分爲兩。卽入海洗之、髮自分也。皇后便結分髮、而爲髻。
夏四月、壬寅が朔で甲辰の日に、北へ向かって火前国の松浦県に至り、玉嶋里の小川のほとりで食事をしました。
そこで皇后は針を曲げて鉤を作り、飯粒を餌とし、裳の糸を抜いて釣り糸としました。川の中の石の上に登って鉤を投げ、こう祈りました。「朕は西に宝の国を求めようとしている。もし事が成るのなら、川の魚が鉤を飲め。」
そして竿を挙げると、細鱗魚を獲ました。そのとき皇后は言いました。「めずらしい物だ。」そのため当時の人はその所を梅豆羅国と名づけました。今、松浦というのは訛ったものです。
そのため、その国の女は四月の上旬になるたびに鉤を川に投げて年魚を捕り、それが今も絶えません。ただ男は釣っても魚を獲ることができません。
やがて皇后は、神の教えにしるしがあることを知り、改めて神祇を祭って、みずから西を征とうとしました。そこで神田を定めて耕しました。そのとき儺河の水を引いて神田を潤そうとして、溝を掘りました。迹驚岡に至ると、大きな磐が塞いで、溝を穿つことができませんでした。
皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈らせ、溝が通ることを求めました。すると、そのとき雷電が霹靂して、その磐を蹴り裂き、水を通しました。そのため当時の人はその溝を裂田溝と名づけました。
皇后は還って橿日の浦に詣り、髪を解いて海に臨んで言いました。「私は神祇の教えを被り、皇祖の霊に頼って、青い海を渡り、みずから西を征とうとしている。そのため頭を海水で洗う。もししるしがあるなら、髪はおのずから分かれて二つになれ。」
そして海に入って洗うと、髪はおのずから分かれました。皇后はその分かれた髪を結んで髻としました。
夾注 1
希見、此云梅豆邏志。
希見は、梅豆邏志と読みます。
6群臣に意を明かす
因以、謂群臣曰、夫興師動衆、國之大事。安危成敗、必在於斯。今有所征伐。以事付群臣。若事不成者、罪有於群臣。是甚傷焉。吾婦女之、加以不肖。然暫假男貌、强起雄略。上蒙神祗之靈、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者、群臣共有功。事不就者、吾獨有罪。既有此意。其共議之。群臣皆曰、皇后爲天下、計所以安宗廟社稷。且罪不及于臣下。頓首奉詔。
そこで群臣に言いました。
「およそ師を興し衆を動かすことは、国の大事です。安らかさと危うさ、成ることと敗れることは、必ずここにかかっています。今、征伐するところがあって、事を群臣に付します。もし事が成らなければ、罪は群臣にあることになります。それはとても心の痛むことです。
私は女であり、その上おろかです。しかし、しばらく男の姿を借りて、強いて雄々しい計を起こします。上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを藉りて、兵甲を振るって険しい浪を渡り、艫船を整えて財の土を求めようと思います。もし事が就けば、群臣がともに功を得ます。事が就かなければ、私ひとりに罪があります。すでにこの意があるので、ともに議りなさい。」
群臣は皆言いました。「皇后は天下のために、宗廟社稷を安らかにする道を計られます。また罪は臣下に及ばないと仰せです。頓首して詔を奉ります。」
7船を集め軍令を下す
秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲。時軍卒難集。皇后曰、必神心焉、則立大三輪社、以奉刀矛矣。軍衆自聚。於是、使吾瓮海人烏摩呂、出於西海、令察有國耶。還曰、國不見也。又遣磯鹿海人名草而令視。數日還之曰、西北有山。帶雲横絚。蓋有國乎。爰卜吉日、而臨發有日。時皇后親執斧鉞、令三軍曰、金鼓無節、旌旗錯亂、則士卒不整。貪財多欲、懷私內顧、必爲敵所虜。其敵少而勿輕。敵强而無屈。則姧暴勿聽。自服勿殺。遂戰勝者必有賞。背走者自有罪。既而神有誨曰、和魂服王身而守壽命。荒魂爲先鋒而導師船。卽得神教、而拜禮之。因以依網吾彦男垂見爲祭神主。于時也、適當皇后之開胎。皇后則取石插腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土。其石今在于伊都縣道邊。既而則撝荒魂、爲軍先鋒、請和魂、爲王船鎭。
秋九月、庚午が朔で己卯の日に、諸国に命じて船を集め、兵甲を練らせました。そのとき軍卒が集まりにくくありました。皇后は言いました。「きっと神の心だ。」そして大三輪の社を立てて、刀と矛を奉りました。すると軍衆はおのずから集まりました。
そこで吾瓮の海人、烏摩呂を遣わして西の海に出し、国があるかどうかを察させました。帰って言いました。「国は見えません。」また磯鹿の海人、名草を遣わして見させました。数日して帰り、こう言いました。「西北に山があります。雲が帯のように横に張っています。おそらく国があるのでしょう。」
そこで吉日を卜って、出発の日が近づきました。そのとき皇后はみずから斧鉞を執って、三軍に命じました。
「金鼓に節がなく、旌旗が乱れていれば、士卒は整いません。財を貪り欲が多く、私を懐いて内を顧みれば、必ず敵に虜にされます。敵が少なくても軽んじてはならず、敵が強くても屈してはなりません。姧で暴な振る舞いは聞き入れず、おのずから服する者は殺してはなりません。ついに戦って勝った者には必ず賞があり、背いて走る者にはおのずから罪があります。」
やがて神が教えて言いました。「和魂は王の身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となって師の船を導くだろう。」
そこで神の教えを得て、拝礼しました。それによって依網の吾彦男垂見を、神を祭る主としました。
このとき、ちょうど皇后が産み月に当たっていました。皇后は石を取って腰に插し、こう祈りました。「事が終わって還る日に、この土で産もう。」その石は今、伊都県の道のほとりにあります。
やがて荒魂を指揮して軍の先鋒とし、和魂を請って王の船の鎮めとしました。
夾注 1
和魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。
和魂は、珥岐瀰多摩と読みます。荒魂は、阿邏瀰多摩と読みます。
8新羅の王が降る
冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波。不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪、遠逮國中。卽知、天神地祇悉助歟。新羅王、於是、戰々慄々厝身無所。則集諸人曰、新羅之建國以來、未嘗聞海水凌國。若天運盡之、國爲海乎。是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日。鼓吹起聲、山川悉振。新羅王遙望以爲、非常之兵、將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰、吾聞、東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎、卽素旆而自服。素組以面縛。封圖籍、降於王船之前。因以、叩頭之曰、從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柂、而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠、以毎年貢男女之調。則重誓之曰、非東日更出西、且除阿利那禮河返以之逆流、及河石昇爲星辰、而殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇、共討焉。時或曰、欲誅新羅王。
冬十月、己亥が朔で辛丑の日に、和珥津から出発しました。そのとき飛廉が風を起こし、陽侯が浪を挙げ、海の中の大きな魚がことごとく浮かんで船を扶けました。そして大風が順に吹き、帆船は波に従い、櫓や楫を労することなく、たやすく新羅に到りました。そのとき船に従った潮の浪は、遠く国の中にまで及びました。天神地祇がことごとく助けたのだと知られました。
新羅の王はこれに戦き慄えて、身を置く所もありませんでした。そして人々を集めて言いました。「新羅が国を建てて以来、まだ海の水が国を越えたと聞いたことがない。もし天運が尽きて、国が海になるのか。」
この言葉が終わらないうちに、船師が海に満ち、旌旗が日に輝きました。鼓と吹の声が起こり、山川がことごとく振れました。
新羅の王は遥かに望んで、尋常でない兵が自分の国を滅ぼそうとしていると思い、おびえて志を失いました。そしてやがて醒めて言いました。「私が聞くところ、東に神の国があって日本という。また聖なる王があって天皇という。きっとその国の神の兵だ。どうして兵を挙げて拒めようか。」
そして白い旗を掲げてみずから服しました。白い組で面を縛り、図籍を封じて、王の船の前に降りました。そして頭を叩いて言いました。
「今より後は、長く乾坤とともに、伏して飼部となります。船の柂を乾かすことなく、春と秋に馬の梳と馬の鞭を献じます。また海の遠いのを煩わしがらず、毎年、男女の調を貢ぎます。」
そして重ねて誓いました。「東に出る日が改めて西に出ることがなく、また阿利那禮河が返って逆さに流れ、河の石が昇って星辰となることがないかぎり、春秋の朝を特に欠き、梳と鞭の貢を怠って廃するなら、天神地祇がともに討ってください。」
そのとき、ある者が言いました。「新羅の王を誅したいと思います。」
9三韓という
於是、皇后曰、初承神教、將授金銀之國。又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥、乃解其縛爲飼部。遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。卽以皇后所杖矛、樹於新羅王門、爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以、新羅王、常以八十船之調貢于日本國、其是之縁也。於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍、降於日本國、密令伺其軍勢。則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰、從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。
そこで皇后は言いました。「はじめ神の教えを承けたとき、金銀の国を授けようと言われた。また三軍に号令して『おのずから服する者は殺すな』と言った。今すでに財の国を得て、また人がおのずから降服した。殺すのは不祥である。」
そこでその縛を解いて飼部としました。ついにその国の中に入り、重宝の府庫を封じ、図籍や文書を収めました。そして皇后が杖としていた矛を新羅の王の門に樹てて、後の世の印としました。そのためその矛は今もなお新羅の王の門に樹っています。
そこで新羅の王、波沙寐錦は、微叱己知波珍干岐を質とし、さらに金銀や彩色、綾・羅・縑絹を八十艘の船に載せて、官軍に従わせました。そのため新羅の王がいつも八十船の調を日本国に貢ぐのは、これがその由縁です。
そこで高麗と百済の二国の王は、新羅が図籍を収めて日本国に降ったと聞いて、ひそかにその軍勢を伺わせました。そして勝てないことを知り、みずから営の外に来て、頭を叩いて款をつくして言いました。「今より後は、永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません。」
そのためこれによって、内官家の屯倉を定めました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から還りました。
夾注 1
ここでいう高麗は高句麗です。この書は終わりまで高句麗を「高麗」と書いています。― 訳者
10宇瀰で産む
十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。故時人號其産處曰宇瀰也。
十二月、戊戌が朔で辛亥の日に、誉田天皇を筑紫で産みました。そのため当時の人はその産んだ所を宇瀰と名づけました。
11別に伝わる話 一
一云、足仲彦天皇、居筑紫橿日宮。是有神、託沙麼縣主祖內避高國避高松屋種、以誨天皇曰、御孫尊也、若欲尋寶國耶、將現授之。便復曰、琴將來以進于皇后。則隨神言、而皇后撫琴。於是、神託皇后、以誨之曰、今御孫尊所望之國、譬如鹿角。以無實國也。其今御孫尊所御之船及穴戸直踐立所貢之水田、名大田爲幣、能祭我者、則如美女之睩、而金銀多之、眼炎國以授御孫尊。時天皇對神曰、其雖神何謾語耶。何處將有國。且朕所乘船、既奉於神、朕乘曷船。然未知誰神。願欲知其名。時神稱其名曰、表筒雄・中筒雄・底筒雄、如是稱三神名、且重曰、吾名向匱男聞襲大歷五御魂速狹騰尊也。時天皇謂皇后曰、聞惡事之言坐婦人乎。何言速狹騰也。於是、神謂天皇曰、汝王如是不信、必不得其國。唯今皇后懷姙之子、蓋有獲歟。是夜天皇忽病發以崩之。然後、皇后隨神教而祭。則皇后爲男束裝、征新羅。時神留導之。由是、隨船浪之、遠及于新羅國中。於是、新羅王宇流助富利智干、參迎跪之、取王船卽叩頭曰、臣自今以後、於日本國所居神御子、爲內官家、無絶朝貢。
一説にはこうです。足仲彦天皇が筑紫の橿日宮にいました。そこに神がいて、沙麼県主の祖である内避高国避高松屋種に憑いて、天皇に教えました。
「御孫尊よ、もし宝の国を尋ねたいと思うか。これから現して授けよう。」そしてまた言いました。「琴を持って来て皇后に進めよ。」
そこで神の言葉のままに、皇后が琴を弾きました。すると神が皇后に憑いて教えました。
「今、御孫尊が望む国は、たとえば鹿の角のようで、実のない国である。その、今、御孫尊が乗っておられる船と、穴戸直践立が貢いだ水田で大田という名のものを幣として、よく私を祭るなら、美しい女の目もとのようで、金銀が多く、目に輝く国を御孫尊に授けよう。」
そのとき天皇は神に答えました。「それが神だといっても、どうして偽りの言葉なのか。どこに国があるというのか。また朕が乗る船はすでに神に奉った。朕はどの船に乗ればよいのか。しかし、まだどの神か分からない。願ってその名を知りたい。」
そのとき神はその名を称えて言いました。「表筒雄・中筒雄・底筒雄である。」このように三神の名を称え、また重ねて言いました。「私の名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊である。」
そのとき天皇は皇后に言いました。「悪い事を言うのは、婦人に憑いているからか。どうして速狭騰などというのか。」
そこで神は天皇に言いました。「お前、王がこのように信じないなら、必ずその国を得られない。ただ今、皇后が懐妊した子が、おそらく得ることがあるだろう。」
この夜、天皇は突然病が発して亡くなりました。
その後、皇后は神の教えに従って祭りました。そして皇后は男の装いをして、新羅を征ちました。そのとき神が留まって導きました。これによって、船に従った浪は遠く新羅国の中にまで及びました。
そこで新羅の王、宇流助富利智干は、参り迎えて跪き、王の船を取って頭を叩いて言いました。「臣は今より後、日本国においでになる神の御子に、内官家となって、朝貢を絶やしません。」
12別に伝わる話 二
一云、禽獲新羅王、詣于海邊、拔王臏筋、令匍匐石上。俄而斬之、埋沙中。則留一人、爲新羅宰而還之。然後、新羅王妻、不知埋夫屍之地、獨有誘宰之情。乃誂宰曰、汝當令識埋王屍之處、必敦報之。且吾爲汝妻。於是、宰信誘言、密告埋屍之處。則王妻與國人、共議之殺宰。更出王屍葬於他處。乃時取宰屍、埋于王墓土底、以舉王櫬、窆其上曰、尊卑次第、固當如此。於是、天皇聞之、重發震忿、大起軍衆、欲頓滅新羅。是以、軍船滿海而詣之。是時、新羅國人悉懼、不知所如。則相集共議之、殺王妻以謝罪。
一説にはこうです。新羅の王を捕らえて海辺に行き、王の臏の筋を抜いて、石の上を匍わせました。やがて斬って、砂の中に埋めました。そして一人を留めて新羅の宰とし、還りました。
その後、新羅の王の妻は、夫の屍を埋めた地を知らず、ひとりで宰を誘う気持ちを抱きました。そこで宰を誂えて言いました。「あなたが王の屍を埋めた所を知らせてくれるなら、必ず篤く報います。また私はあなたの妻になります。」
そこで宰は誘いの言葉を信じて、ひそかに屍を埋めた所を告げました。すると王の妻は国人とともに議って宰を殺しました。改めて王の屍を出して、他の所に葬りました。そしてそのとき宰の屍を取って王の墓の土の底に埋め、王の櫬を挙げてその上に窆めて言いました。「尊いものと卑しいものの次第は、もとよりこうあるべきです。」
そこで天皇はこれを聞いて、重ねて激しく忿り、軍衆を大いに起こして、ただちに新羅を滅ぼそうとしました。そのため軍船が海に満ちて向かいました。このとき新羅国の人はことごとく懼れ、どうすればよいか分かりませんでした。そして相集まってともに議り、王の妻を殺して罪を謝しました。
13荒魂を穴門に祀る
於是、從軍神表筒男・中筒男・底筒男、三神誨皇后曰、我荒魂、令祭於穴門山田邑也。時穴門直之祖踐立・津守連之祖田裳見宿禰、啓于皇后曰、神欲居之地、必宜奉定。則以踐立、爲祭荒魂之神主。仍祠立於穴門山田邑。
そこで軍に従った神、表筒男・中筒男・底筒男の三神が皇后に教えました。「私の荒魂を、穴門の山田邑で祭らせよ。」
そのとき穴門直の祖である践立と、津守連の祖である田裳見宿禰が皇后に申し上げました。「神がおいでになろうとする地は、必ず奉って定めるべきです。」そこで践立を荒魂を祭る神主とし、穴門の山田邑に祠を立てました。
14麛坂王と忍熊王が謀る
爰伐新羅之明年春二月、皇后領群卿及百寮、移于穴門豐浦宮。卽收天皇之喪、從海路以向京。時麛坂王・忍熊王、聞天皇崩、亦皇后西征、幷皇子新生、而密謀之曰、今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。乃詳爲天皇作陵、詣播磨興山陵於赤石。仍編船絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。則毎人令取兵、而待皇后。於是、犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰、共隸于麛坂王。因以、爲將軍令興東國兵。時麛坂王・忍熊王、共出菟餓野、而祈狩之曰、若有成事、必獲良獸也。二王各居假庪。赤猪忽出之登假庪。咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰、是事大怪也。於此不可待敵。則引軍更返、屯於住吉。時皇后聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子、横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船、𢌞於海中、以不能進。
新羅を伐った翌年の春二月に、皇后は群卿と百寮を率いて、穴門の豊浦宮に移りました。そして天皇の喪を収めて、海路から京へ向かいました。
そのとき麛坂王と忍熊王は、天皇が亡くなり、また皇后が西を征ち、あわせて皇子が新しく生まれたと聞いて、ひそかに謀って言いました。「今、皇后に子がある。群臣は皆それに従うだろう。必ずともに議って幼い主を立てるだろう。我らがどうして兄として弟に従えようか。」
そこで偽って天皇の陵を作ると言い、播磨に行って赤石に山陵を興しました。さらに船を編んで淡路島に絚ぎ、その島の石を運んで造りました。そして人ごとに兵を取らせて、皇后を待ちました。
そこで犬上君の祖である倉見別と、吉師の祖である五十狭茅宿禰が、ともに麛坂王に隸きました。それによって将軍となり、東国の兵を興させました。
そのとき麛坂王と忍熊王はともに菟餓野に出て、祈狩をして祈りました。「もし事が成るのなら、必ず良い獣を獲るだろう。」
二人の王はそれぞれ仮の庪にいました。赤い猪が突然出て来て仮の庪に登り、麛坂王を咋んで殺しました。軍士はことごとく慄えました。
忍熊王は倉見別に言いました。「この事はとても怪しい。ここで敵を待ってはならない。」そして軍を引いて改めて返り、住吉に屯しました。
そのとき皇后は、忍熊王が師を起こして待っていると聞いて、武内宿禰に命じて皇子を懐き、横に南の海へ出て、紀伊の水門に泊まらせました。皇后の船はまっすぐ難波を指しました。このとき皇后の船は海の中で回って、進むことができませんでした。
夾注 1
祈狩、此云于氣比餓利。
祈狩は、于氣比餓利と読みます。
15神々が座を定め、阿豆那比の罪
更還務古水門而卜之。於是、天照大神誨之曰、我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。卽以山背根子之女葉山媛令祭。亦稚日女尊誨之曰、吾欲居活田長峽國。因以海上五十狹茅令祭。亦事代主尊誨之曰、祠吾于御心長田國。則以葉山媛之弟長媛令祭。亦表筒男・中筒男・底筒男、三神誨之曰、吾和魂宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船。於是、隨神教以鎭坐焉。則平得度海。忍熊王復引軍退之、到菟道而軍之。皇后南詣紀伊國、會太子於日高。以議及群臣、遂欲攻忍熊王、更遷小竹宮。適是時也、晝暗如夜、已經多日。時人曰、常夜行之也。皇后問紀直祖豐耳曰、是怪何由矣。時有一老父曰、傳聞、如是怪謂阿豆那比之罪也。問何謂也。對曰、二社祝者、共合葬歟。因以、令推問巷里、有一人曰、小竹祝與天野祝、共爲善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰、吾也生爲交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺櫬、各異處以埋之。則日暉爃、日夜有別。
改めて務古の水門に還って卜いました。すると天照大神が教えて言いました。「私の荒魂は、皇居に近づけてはならない。御心の広田国にいるべきだ。」そこで山背根子の娘、葉山媛に祭らせました。
また稚日女尊が教えて言いました。「私は活田の長峽国にいたい。」それによって海上五十狭茅に祭らせました。
また事代主尊が教えて言いました。「私を御心の長田国で祠れ。」そこで葉山媛の妹、長媛に祭らせました。
また表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて言いました。「私の和魂は、大津の渟中倉の長峽にいるべきだ。そこで往き来する船を看よう。」
そこで神の教えのままに鎮め坐えました。すると平らかに海を渡ることができました。
忍熊王は改めて軍を引いて退き、菟道に至って陣を構えました。皇后は南へ紀伊国に行き、太子に日高で会いました。群臣と議って、ついに忍熊王を攻めようとして、改めて小竹宮に遷りました。
ちょうどこのとき、昼が夜のように暗くなって、すでに多くの日が経っていました。そのとき人々は言いました。「長い夜が続いているのだ。」
皇后は紀直の祖、豊耳に問いました。「この怪しさは何によるのか。」
そのとき一人の老父がいて言いました。「伝え聞くところ、このような怪しさを阿豆那比の罪といいます。」
問いました。「どういうことか。」
答えました。「二つの社の祝を、ともに合葬したのです。」
それによって巷や里に推し問わせると、一人がいて言いました。「小竹の祝と天野の祝が、ともに良い友でした。小竹の祝が病に逢って死にました。天野の祝は血の涙を流して『私は生きて交わった友である。どうして死んで同じ穴に入らないでいられようか』と言い、屍の側に伏してみずから死にました。そして合葬しました。おそらくこれではないでしょうか。」
そこで墓を開いて見ると、本当でした。そのため改めて棺櫬を替えて、それぞれ別の所に埋めました。すると日の光が輝き、昼と夜の別ができました。
夾注 1
小竹、此云芝努。
小竹は、芝努と読みます。
16忍熊王を討つ
三月丙申朔庚子、命武內宿禰・和珥臣祖武振熊、率數萬衆、令擊忍熊王。爰武內宿禰等、選精兵從山背出之。至菟道以屯河北。忍熊王出營欲戰。時有熊之凝者。爲忍熊王軍之先鋒。則欲勸己衆、因以、高唱之歌曰、
三月、丙申が朔で庚子の日に、武内宿禰と和珥臣の祖である武振熊に命じて、数万の衆を率いて忍熊王を撃たせました。
そこで武内宿禰たちは精兵を選んで山背から出ました。菟道に至って河の北に屯しました。忍熊王は営を出て戦おうとしました。
そのとき熊之凝という者がいて、忍熊王の軍の先鋒となりました。そして自分の衆を勧めようとして、高く声をあげて歌いました。
夾注 1
熊之凝者、葛野城首之祖也。一云、多吳吉師之遠祖也。
熊之凝は、葛野城首の祖です。一説には、多吳吉師の遠い祖だといいます。
17歌 — 熊之凝
烏智箇多能、阿邏々麻菟麼邏、摩菟麼邏珥、和多利喩祇氐、菟區喩彌珥、末利椰塢多具陪、宇摩譬等破、于摩譬苔奴知野、伊徒姑播茂、伊徒姑奴池、伊裝阿波那、和例波、多摩岐波屢、于池能阿層餓、波邏濃知波、異佐誤阿例椰、伊裝阿波那、和例波。
「おちかたの あららまつばら まつばらに わたりゆきて つくゆみに まりやをたぐへ うまひとは うまひとどちや いとこはも いとこのち いざあはな われは たまきはる うちのあそが はらぬちは いさごあれや いざあはな われは(烏智箇多能、阿邏々麻菟麼邏、摩菟麼邏珥、和多利喩祇氐、菟區喩彌珥、末利椰塢多具陪、宇摩譬等破、于摩譬苔奴知野、伊徒姑播茂、伊徒姑奴池、伊裝阿波那、和例波、多摩岐波屢、于池能阿層餓、波邏濃知波、異佐誤阿例椰、伊裝阿波那、和例波)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
18弦を隠した計
時武內宿禰、令三軍悉令椎結。因以號令曰、各以儲弦藏于髮中、且佩木刀。既而乃舉皇后之命、誘忍熊王曰、吾勿貧天下。唯懷幼王、從君王者也。豈有距戰耶。願共絶弦捨兵、與連和焉。然則、君王登天業、以安席高枕、專制萬機。則顯令軍中、悉斷弦解刀、投於河水。忍熊王信其誘言、悉令軍衆、解兵投河水、而斷弦。爰武內宿禰、令三軍、出儲弦、更張、以佩眞刀。度河而進之。忍熊王知被欺、謂倉見別・五十狹茅宿禰曰、吾既被欺。今無儲兵。豈可得戰乎、曳兵稍退。武內宿禰出精兵而追之。適遇于逢坂以破。故號其處曰逢坂也。軍衆走之。及于狹々浪栗林而多斬。於是。血流溢栗林。故惡是事、至于今、其栗林之菓不進御所也。忍熊王逃無所入。則喚五十狹茅宿禰、而歌之曰、
そのとき武内宿禰は、三軍にことごとく椎結をさせました。それによって号令しました。「それぞれ儲えの弦を髪の中に蔵し、また木の刀を佩きなさい。」
やがて皇后の命を挙げて、忍熊王を誘って言いました。「私は天下を貪らない。ただ幼い王を懐いて、君王に従う者である。どうして拒んで戦うことがあろうか。願ってともに弦を絶ち兵を捨てて、和を連ねよう。そうすれば、君王は天の業に登り、席を安らかにし枕を高くして、もっぱら万機を制されるだろう。」
そして表向きに軍中に命じて、ことごとく弦を断ち刀を解いて、河の水に投げさせました。
忍熊王はその誘いの言葉を信じて、軍衆にことごとく兵を解いて河の水に投げさせ、弦を断たせました。
そこで武内宿禰は三軍に、儲えの弦を出して改めて張らせ、真の刀を佩かせました。河を渡って進みました。
忍熊王は欺かれたと知って、倉見別と五十狭茅宿禰に言いました。「私はすでに欺かれた。今、儲えの兵がない。どうして戦えようか。」そして兵を曳いて次第に退きました。
武内宿禰は精兵を出して追いました。ちょうど逢坂で遇って破りました。そのためその所を逢坂と名づけました。
軍衆は走りました。狹々浪の栗林に及んで多く斬りました。そこで血が流れて栗林に溢れました。そのためこの事を悪んで、今に至るまで、その栗林の菓は御所に進めません。
忍熊王は逃げても入る所がありませんでした。そこで五十狭茅宿禰を喚んで歌いました。
19歌 — 忍熊王
伊裝阿藝、伊佐智須區禰、多摩枳波屢、于知能阿曾餓、勾夫菟智能、伊多氐於破孺破、珥倍廼利能、介豆岐齊奈。
「いざあぎ いさちすくね たまきはる うちのあそが くぶつちの いたておはずは にほどりの かづきせな(伊裝阿藝、伊佐智須區禰、多摩枳波屢、于知能阿曾餓、勾夫菟智能、伊多氐於破孺破、珥倍廼利能、介豆岐齊奈)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
20瀬田に身を投げる
則共沈瀬田濟而死之。于時、武內宿禰歌之曰、
そして、ともに瀬田の済に沈んで死にました。このとき武内宿禰が歌いました。
21歌 — 武内宿禰
阿布彌能彌、齊多能和多利珥、伽豆區苔利、梅珥志彌曳泥麼、異枳廼倍呂之茂。
「あふみのみ せたのわたりに かづくとり めにしみえねば いきどほろしも(阿布彌能彌、齊多能和多利珥、伽豆區苔利、梅珥志彌曳泥麼、異枳廼倍呂之茂)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
22屍を探す
於是、探其屍而不得也。然後、數日之出於菟道河。武內宿禰亦歌曰、
そこでその屍を探しましたが、得られませんでした。その後、数日して菟道河に出ました。武内宿禰はまた歌いました。
23歌 — 武内宿禰
阿布瀰能瀰、齊多能和多利珥、介豆區苔利、多那伽瀰須疑氐、于泥珥等邏倍菟。
「あふみのみ せたのわたりに かづくとり たなかみすぎて うぢにとらへつ(阿布瀰能瀰、齊多能和多利珥、介豆區苔利、多那伽瀰須疑氐、于泥珥等邏倍菟)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
24摂政元年
冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳。則爲攝政元年。
冬十月、癸亥が朔で甲子の日に、群臣は皇后を尊んで皇太后と称しました。この年は太歳が辛巳です。そしてこれを摂政元年としました。
25天皇を葬る
二年冬十一月丁亥朔甲午、葬天皇於河內國長野陵。
二年の冬十一月、丁亥が朔で甲午の日に、天皇を河内国の長野の陵に葬りました。
26皇太子を立てる
三年春正月丙戌朔戊子、立譽田別皇子、爲皇太子。因以、都於磐余。
三年の春正月、丙戌が朔で戊子の日に、誉田別皇子を立てて皇太子としました。それによって磐余に都しました。
夾注 1
是謂若櫻宮。
これを若桜宮といいます。
27質の微叱許智が逃げる
五年春三月癸卯朔己酉、新羅王遣汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以、誂許智伐旱、而紿之曰、使者汙禮斯伐・毛麻利叱智等、告臣曰、我王以坐臣久不還、而悉沒妻子爲孥。冀蹔還本土、知虛實而請焉。皇太后則聽之。因以、副葛城襲津彦而遣之。共到對馬、宿于鉏海水門。時新羅使者毛麻利叱智等、竊分船及水手、載微叱旱岐、令逃於新羅。乃造蒭靈、置微叱許智之床、詳爲病者、告襲津彦曰、微叱許智忽病之將死。襲津彦使人令看病者。既知欺、而捉新羅使者三人、納檻中、以火焚而殺。乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。
五年の春三月、癸卯が朔で己酉の日に、新羅の王が汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らを遣わして朝貢しました。さらに、先に質となっていた微叱許智伐旱を返そうという意がありました。
そのため許智伐旱を誂えて、こう欺きました。「使者の汙禮斯伐・毛麻利叱智らが臣に告げて、『我が王は、あなたが久しく還らないので、妻子をことごとく没して奴としてしまった』と申しました。願って、しばらく本土に還り、虚か実かを知りたいと請います。」
皇太后はこれを聴き入れました。それによって葛城襲津彦を副えて遣わしました。
ともに対馬に至り、鉏海の水門に宿りました。そのとき新羅の使者、毛麻利叱智らは、ひそかに船と水手を分けて微叱旱岐を載せ、新羅へ逃がしました。
そして蒭の霊を造って微叱許智の床に置き、偽って病人としたうえで、襲津彦に告げました。「微叱許智が突然病んで、死にそうです。」
襲津彦は人を遣わして病人を看させました。すでに欺かれたと知って、新羅の使者三人を捉えて檻の中に納め、火で焚いて殺しました。そして新羅に行き、蹈鞴津に次して、草羅城を抜いて還りました。
このとき俘にした人々が、今の桑原・佐糜・高宮・忍海、およそ四つの邑の漢人らの始祖です。
28太子を宴する
十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰、從太子令拜角鹿笥飯大神。癸酉、太子至自角鹿。是日、皇太后宴太子於大殿。皇太后舉觴以壽于太子。因以歌曰、
十三年の春二月、丁巳が朔で甲子の日に、武内宿禰に命じて、太子に従って角鹿の笥飯大神を拝ませました。
癸酉の日に、太子が角鹿から至りました。この日、皇太后は太子を大殿で宴しました。皇太后は觴を挙げて太子の長寿を祝しました。それによって歌いました。
29歌 — 皇太后
虛能彌企破、和餓彌企那羅儒、區之能伽彌、等虛豫珥伊麻輸、伊破多々須、周玖那彌伽未能、等豫保枳、保枳茂苔陪之、訶武保枳、保枳玖流保之、摩菟利虛辭彌企層、阿佐孺塢齊、佐佐。
「このみきは わがみきならず くしのかみ とこよにいます いはたたす すくなみかみの とよほき ほきもとほし かむほき ほきくるほし まつりこしみきぞ あさずをせ ささ(虛能彌企破、和餓彌企那羅儒、區之能伽彌、等虛豫珥伊麻輸、伊破多々須、周玖那彌伽未能、等豫保枳、保枳茂苔陪之、訶武保枳、保枳玖流保之、摩菟利虛辭彌企層、阿佐孺塢齊、佐佐)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
30武内宿禰が答える
武內宿禰爲太子答歌之曰、
武内宿禰が太子のために答えて歌いました。
31歌 — 武内宿禰
許能彌企塢、伽彌鶏武比等破、曾能菟豆彌、于輸珥多氐々、于多比菟々、伽彌鶏梅伽墓、許能彌企能、阿椰珥、于多娜濃芝作、沙。
「このみきを かみけむひとは そのつづみ うすにたてて うたひつつ かみけめかも このみきの あやに うただのし ささ(許能彌企塢、伽彌鶏武比等破、曾能菟豆彌、于輸珥多氐々、于多比菟々、伽彌鶏梅伽墓、許能彌企能、阿椰珥、于多娜濃芝作、沙)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
32三十九年 — 魏志を引く
卅九年。是年也、太歲己未。
三十九年。この年は太歳が己未です。
夾注 1
魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。
魏志にいうには、明帝の景初三年六月に、倭の女王が大夫の難斗米らを遣わして郡に行き、天子のもとに参って朝献することを求めました。太守の鄧夏は吏を遣わして、連れて京都に送ったといいます。
33四十年
卌年。
四十年。
夾注 1
魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。
魏志にいうには、正始元年に、建忠校尉の梯携らを遣わして、詔書と印綬を奉じて倭国に行ったといいます。
34四十三年
卌三年。
四十三年。
夾注 1
魏志云、正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。
魏志にいうには、正始四年に、倭王がまた使者として大夫の伊聲者・掖耶約ら八人を遣わして、上って献じたといいます。
35百済が道を問う
卌六年春三月乙亥朔、遣斯摩宿禰于卓淳國。於是、卓淳王末錦旱岐、告斯摩宿禰曰、甲子年七月中、百濟人久氐・彌州流・莫古三人、到於我土曰、百濟王、聞東方有日本貴國、而遣臣等、令朝其貴國。故求道路、以至于斯土。若能教臣等、令通道路、則我王必深德君王。時謂久氐等曰、本聞東有貴國。然未曾有通、不知其道。唯海遠浪嶮。則乘大船、僅可得通。若雖有路津、何以得達耶。於是、久氐等曰、然卽當今不得通也。不若、更還之備船舶、而後通矣。仍曰、若有貴國使人來、必應告吾國。如此乃還。爰斯摩宿禰卽以傔人爾波移與卓淳人過古二人、遣于百濟國、慰勞其王。時百濟肖古王、深之歡喜、而厚遇焉。仍以五色綵絹各一疋、及角弓箭、幷鐵鋌卌枚、幣爾波移。便復開寶藏、以示諸珍異曰、吾國多有是珍寶。欲貢貴國、不知道路。有志無從。然猶今付使者、尋貢獻耳。於是、爾波移奉事而還、告志摩宿禰。便自卓淳還之也。
四十六年の春三月、乙亥が朔の日に、斯摩宿禰を卓淳国に遣わしました。
そこで卓淳の王、末錦旱岐が斯摩宿禰に告げました。
「甲子の年の七月中に、百済の人、久氐・彌州流・莫古の三人が我が土に至って、『百済の王は、東方に日本という貴い国があると聞いて、臣らを遣わし、その貴い国に朝させました。そのため道を求めて、この土に至りました。もしよく臣らを教えて道を通じさせてくださるなら、我が王は必ず君王の徳を深く思うでしょう』と申しました。
そのとき久氐らに言いました。『もとより東に貴い国があるとは聞いていたが、まだ通じたことがなく、その道を知らない。ただ海が遠く浪が険しいので、大きな船に乗ってこそ、やっと通じられる。もし路や津があったとしても、どうして達せられようか。』
そこで久氐らが言いました。『それなら今は通じられません。改めて還って船を備え、その後に通じるのがよいでしょう。』そして『もし貴い国の使いの人が来たら、必ず我が国に告げてください』と申しました。このようにして還りました。」
そこで斯摩宿禰は、傔人の爾波移と卓淳の人、過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労しました。
そのとき百済の肖古王はこれを深く歓び喜んで、厚く遇しました。そして五色の綵絹を各一疋、それに角弓と箭、あわせて鉄の鋌四十枚を、爾波移に幣として与えました。
そしてまた宝の蔵を開いて、さまざまな珍しい物を示して言いました。「我が国にはこのような珍しい宝が多くある。貴い国に貢ぎたいと思っても、道を知らなかった。志はあっても従う道がなかった。しかし今、使者に付して、ついで貢献するだけである。」
そこで爾波移は事を奉じて還り、志摩宿禰に告げました。そして卓淳から還りました。
夾注 1
斯麻宿禰者、不知何姓人也。
斯麻宿禰は、どの姓の人か分かりません。
36二国の貢物
卌七年夏四月、百濟王使久氐・彌州流・莫古、令朝貢。時新羅國調使、與久氐共詣。於是、皇太后・太子譽田別尊、大歡喜之曰、先王所望國人、今來朝之。痛哉、不逮于天皇矣。群臣皆莫不流涕。仍檢校二國之貢物。於是、新羅貢物者、珍異甚多。百濟貢物者、少賤不良。便問久氐等曰、百濟貢物、不及新羅、奈之何。對曰、臣等失道、至沙比新羅。則新羅人捕臣等禁囹圄。經三月而欲殺。時久氐等、向天而呪詛之。新羅人怖其呪詛而不殺。則奪我貢物、因以、爲己國之貢物。以新羅賤物、相易、爲臣國之貢物。謂臣等曰、若誤此辭者、及于還日、當殺汝等。故久氐等恐怖從耳。是以、僅得達于天朝。時皇太后・譽田別尊、責新羅使者、因以、祈天神曰、當遣誰人於百濟、將檢事之虛實。當遣誰人於新羅、將推問其罪。便天神誨之曰、令武內宿禰行議。因以千熊長彦爲使者、當如所願。於是、遣千熊長彦于新羅、責以濫百濟之獻物。
四十七年の夏四月に、百済の王が久氐・彌州流・莫古を遣わして朝貢させました。そのとき新羅国の調の使いが、久氐とともに参りました。
そこで皇太后と太子の誉田別尊は大いに歓び喜んで言いました。「先の王が望まれた国の人が、今来て朝する。痛ましいことだ、天皇に及ばなかった。」群臣は皆、涕を流さない者はありませんでした。
そして二国の貢物を検め校べました。すると新羅の貢物は珍しい物がとても多く、百済の貢物は少なく賤しくて良くありませんでした。
そこで久氐らに問いました。「百済の貢物が新羅に及ばないのは、どうしたことか。」
答えました。「臣らは道を失って、沙比新羅に至りました。すると新羅の人が臣らを捕らえて囹圄に禁じ、三月を経て殺そうとしました。そのとき久氐らは天に向かって呪詛しました。新羅の人はその呪詛を怖れて殺しませんでした。そして我らの貢物を奪って、それを自分の国の貢物とし、新羅の賤しい物と取り替えて、臣の国の貢物としました。臣らに『もしこの言葉を誤れば、還る日にお前たちを殺す』と申しました。そのため久氐らは恐れて従ったにすぎません。そのため、やっと天朝に達することができました。」
そのとき皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めました。それによって天神に祈りました。「誰を百済に遣わして、事の虚実を検めさせましょうか。誰を新羅に遣わして、その罪を推し問わせましょうか。」
すると天神が教えて言いました。「武内宿禰に議らせよ。そして千熊長彦を使者とすれば、願うとおりになるだろう。」
そこで千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献物を濫りにしたことを責めました。
夾注 1
千熊長彦者、分明不知其姓人。一云、武藏國人。今是額田部槻本首等之始祖也。百濟記云職麻那々加比跪者、蓋是歟也。
千熊長彦は、その姓がどの人か、はっきり分かりません。一説には武蔵国の人だといいます。今の額田部槻本首らの始祖です。百済記にいう職麻那々加比跪という者が、おそらくこの人かと思われます。
37加羅七国を平定する
卌九年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍。則與久氐等、共勒兵而度之、至卓淳國、將襲新羅。時或曰、兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請増軍士。卽命木羅斤資・沙々奴跪領精兵、與沙白・蓋盧共遣之。倶集于卓淳、擊新羅而破之。因以、平定比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅、七國。仍移兵、西𢌞至古爰津、屠南蠻忱彌多禮、以賜百濟。於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會。時比利・辟中・布彌支・半古、四邑、自然降服。是以、百濟王父子及荒田別・木羅斤資等、共會意流村。相見欣感。厚禮送遣之。唯千熊長彦與百濟王、至于百濟國、登辟支山盟之。復登古沙山、共居磐石上。時百濟王盟之曰、若敷草爲坐、恐見火燒。且取木爲坐、恐爲水流。故居磐石而盟者、示長遠之不朽者也。是以、自今以後、千秋萬歲、無絶無窮。常稱西蕃、春秋朝貢。則將千熊長彦、至都下厚加禮遇。亦副久氐等而送之。
四十九年の春三月に、荒田別と鹿我別を将軍としました。そして久氐らとともに兵を勒して渡り、卓淳国に至って、新羅を襲おうとしました。
そのとき、ある者が言いました。「兵衆が少なくて、新羅を破ることはできません。改めて沙白・蓋盧を奉り上げて、軍士を増やすことをお願いなさい。」
そこで木羅斤資・沙々奴跪に命じて精兵を領させ、沙白・蓋盧とともに遣わしました。みな卓淳に集まって、新羅を撃って破りました。
それによって、比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定しました。
そして兵を移し、西に回って古爰津に至り、南蛮の忱彌多禮を屠って、百済に賜いました。
そこでその王の肖古と王子の貴須も、また軍を領して来て会いました。そのとき比利・辟中・布彌支・半古の四つの邑が、おのずから降服しました。
そのため百済の王父子と荒田別・木羅斤資らは、ともに意流村で会いました。相見て欣び感じ、厚い礼で送り遣わしました。
ただ千熊長彦と百済の王は、百済国に至って辟支山に登って盟いました。さらに古沙山に登って、ともに磐石の上に居ました。
そのとき百済の王が盟って言いました。「もし草を敷いて坐とすれば、火に焼かれるのが恐ろしく、また木を取って坐とすれば、水に流されるのが恐ろしい。そのため磐石に居て盟うのは、長く遠く朽ちないことを示すためである。そのため今より後、千秋万歳、絶えることなく窮まることなく、常に西蕃と称して、春秋に朝貢しよう。」
そして千熊長彦を連れて都の下に至り、厚く遇しました。また久氐らを副えて送りました。
夾注 2
是二人、不知其姓人也。但木羅斤資者、百濟將也。
この二人は、その姓がどの人か分かりません。ただ木羅斤資は百済の将です。
今云州流須祇。
今、州流須祇といいます。
38多沙城を賜う
五十年春二月、荒田別等還之。夏五月、千熊長彦・久氐等、至自百濟。於是、皇太后歡之問久氐曰、海西諸韓、既賜汝國。今何事以頻復來也。久氐等奏曰、天朝鴻澤、遠及弊邑。吾王歡喜踊躍、不任于心。故因還使、以致至誠。雖逮萬世、何年非朝。皇太后勅云、善哉汝言。是朕懷也。増賜多沙城、爲往還路驛。
五十年の春二月に、荒田別らが還りました。
夏五月に、千熊長彦と久氐らが百済から至りました。
そこで皇太后は歓んで久氐に問いました。「海の西の諸々の韓は、すでにお前の国に賜った。今、何の事でたびたびまた来るのか。」
久氐らが奏しました。「天朝の鴻い澤が、遠く弊邑にまで及びました。我が王は歓び喜んで踊躍し、心を抑えられません。そのため還る使いに因って、至誠を致します。万世に及ぶとしても、どの年が朝さない年でしょうか。」
皇太后は勅して言いました。「善いことだ、お前の言葉は。それが朕の思いである。」そして多沙城を増し賜って、往き還りの路の駅としました。
39百済と交わる意
五十一年春三月、百濟王亦遣久氐朝貢。於是、皇太后語太子及武內宿禰曰、朕所交親百濟國者、是天所致。非由人故。玩好珍物、先所未有。不闕歲時、常來貢獻。朕省此款、毎用喜焉。如朕存時、敦加恩惠。
五十一年の春三月に、百済の王がまた久氐を遣わして朝貢しました。
そこで皇太后は太子と武内宿禰に語りました。「朕が交わり親しんでいる百済国は、天が致したものであり、人によるものではない。玩び好む珍しい物は、以前にはなかったものだ。歳時を欠かさず、常に来て貢献する。朕はこの款を省みて、いつも喜んでいる。朕が存る時のように、恩恵を敦く加えなさい。」
40百済の王父子が盟う
卽年、以千熊長彦、副久氐等遣百濟國。因以、垂大恩曰、朕從神所驗、始開道路。平定海西、以賜百濟。今復厚結好、永寵賞之。是時、百濟王父子、並顙致地、啓曰、貴國鴻恩、重於天地。何日何時、敢有忘哉。聖王在上、明如日月。今臣在下、固如山岳。永爲西蕃、終無貳心。
その年に、千熊長彦を久氐らに副えて百済国に遣わしました。それによって大きな恩を垂れて言いました。「朕は神から験したところに従って、はじめて道を開いた。海の西を平定して、百済に賜った。今またさらに厚く好みを結んで、永く寵み賞しよう。」
このとき百済の王父子は、ともに顙を地に致して啓しました。「貴い国の鴻い恩は、天地より重いものです。どの日、どの時に、あえて忘れるでしょうか。聖なる王が上におられ、明らかなことは日月のようです。今、臣が下にあって、固いことは山岳のようです。永く西蕃となって、終に二つの心はありません。」
41七枝刀と七子鏡
五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口・七子鏡一面、及種々重寶。仍啓曰、臣國以西有水。源出自谷那鐵山。其邈七日行之不及。當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。乃謂孫枕流王曰、今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩、割海西而賜我。由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。自是後、毎年相續朝貢焉。
五十二年の秋九月、丁卯が朔で丙子の日に、久氐らが千熊長彦に従って参りました。そして七枝刀一口と七子鏡一面、それにさまざまな重い宝を献じました。
そして啓しました。「臣の国の西に水があり、源は谷那の鉄山から出ています。その遥かさは、七日行っても至りません。この水を飲み、この山の鉄を取って、永く聖なる朝に奉りましょう。」
そして孫の枕流王に言いました。「今、我らが通じている海の東の貴い国は、天が啓いたものである。そのため天の恩を垂れて、海の西を割いて我らに賜った。これによって国の基が永く固まった。お前はよく好みを脩め、土の物を聚め歛めて、貢ぐことを絶やすな。死んだとしても、何の恨みがあろうか。」
これより後、毎年相続いて朝貢しました。
42肖古王が亡くなる
五十五年、百濟肖古王薨。
五十五年に、百済の肖古王が薨じました。
43貴須が王となる
五十六年、百濟王子貴須立爲王。
五十六年に、百済の王子、貴須が立って王となりました。
44沙至比跪と加羅
六十二年、新羅不朝。卽年、遣襲津彦擊新羅。
六十二年に、新羅が朝しませんでした。その年に、襲津彦を遣わして新羅を撃ちました。
夾注 1
百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。貴國遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國。加羅國王己本旱岐、及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云、天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討。反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈。不任憂思。故、以來啓。天皇大怒、卽遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。一云、沙至比跪、知天皇怒、不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人、問天皇怒解不。妹乃託夢言、今夜夢見沙至比跪。天皇大怒云、比跪何敢來。妹以皇言報之。比跪知不兔、入石穴而死也。
百済記にいうには、壬午の年に新羅が貴国を奉じませんでした。貴国は沙至比跪を遣わして討たせました。新羅の人は美しい女二人を装い飾って、津で迎えて誘いました。沙至比跪はその美しい女を受けて、かえって加羅国を伐ちました。加羅国の王、己本旱岐と、子の百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至らは、その人民を率いて百済へ奔りました。百済は厚く遇しました。加羅国の王の妹、既殿至は大倭に向かって啓しました。「天皇が沙至比跪を遣わして新羅を討たせました。ところが新羅の美しい女を納れて、捨て置いて討ちませんでした。かえって我が国を滅ぼし、兄弟や人民は皆、流れ沈みました。憂いの思いを抑えられず、そのため来て啓します。」天皇は大いに怒り、すぐに木羅斤資を遣わして、兵衆を領して加羅に来集させ、その社稷を復しました。一説にはこうです。沙至比跪は天皇が怒ったと知って、あえて公に還らず、みずから竄れ伏しました。その妹に皇宮で幸を受けている者がいました。比跪はひそかに使いの人を遣わして、天皇の怒りが解けたかどうかを問いました。妹は夢に託して言いました。「今夜、夢に沙至比跪を見ました。」天皇は大いに怒って言いました。「比跪がどうしてあえて来られようか。」妹は皇の言葉でそれを報せました。比跪は免れないと知って、石の穴に入って死んだといいます。
45枕流王が即位する
六十四年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
六十四年に、百済国の貴須王が薨じました。王子の枕流王が立って王となりました。
46辰斯が位を奪う
六十五年、百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
六十五年に、百済の枕流王が薨じました。王子の阿花は年が若かったので、叔父の辰斯が奪って立ち、王となりました。
47六十六年 — 晋起居注を引く
六十六年。
六十六年。
夾注 1
是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。
この年は晋の武帝の泰初二年です。晋起居注にいうには、武帝の泰初二年十月に、倭の女王が訳を重ねて貢献したといいます。
48百歳で亡くなる
六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚櫻宮。冬十月戊午朔壬申、葬狹城盾列陵。是日、追尊皇太后、曰氣長足姬尊。是年也、太歲己丑。
六十九年の夏四月、辛酉が朔で丁丑の日に、皇太后が稚桜宮で亡くなりました。
冬十月、戊午が朔で壬申の日に、狭城の盾列の陵に葬りました。この日、皇太后を追尊して、気長足姫尊と申しました。この年は太歳が己丑です。
夾注 1
時年一百歲。
その時の年は百歳でした。