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応神天皇應神天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 51 · 漢字 3,335字 · 朗読 13.3分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1応神天皇

譽田天皇,足仲彦天皇第四子也。母曰氣長足姫尊。天皇以皇后討新羅之年,歳次庚辰冬十二月,生於筑紫之蚊田。幼而聰達,玄監深遠,動容進止,聖表有異焉。皇太后攝政之三年,立爲皇太子。初,天皇在孕而天神地祇授三韓,既産之,宍生腕上,其形如鞆,是肖皇太后爲雄裝之負鞆。故稱其名謂譽田天皇。

誉田天皇は、足仲彦天皇の第四子です。母は気長足姫尊といいます。

天皇は、皇后が新羅を討った年、歳の次が庚辰の冬十二月に、筑紫の蚊田で生まれました。幼いころから聡く達しており、見通しは玄く深く遠いものでした。立ち居ふるまいや進み止まりに、聖なるしるしが人と違っていました。皇太后が摂政となって三年に、皇太子に立てられました。

はじめ、天皇が孕まれているときに、天神地祇が三韓を授けました。生まれると、宍が腕の上に生えていて、その形は鞆のようでした。これは皇太后が雄々しい装いをするときに負った鞆に肖ているのです。そのためその名を称えて誉田天皇といいました。

夾注 3

時年三

その時の年は三歳でした。

肖,此云阿叡

肖は、阿叡と読みます。

上古時俗,號鞆謂褒武多焉。一云,初天皇爲太子,行于越國,拜祭角鹿笥飯大神。時大神與太子名相易,故號大神曰去來紗別神,太子名譽田別尊。然則可謂大神本名譽田別神,太子元名去來紗別尊,然無所見也,未詳

昔の世の習いで、鞆を褒武多といいました。一説にはこうです。はじめ天皇が太子であったとき、越国に行って、角鹿の笥飯大神を拝んで祭りました。そのとき大神と太子が名を取り替えました。そのため大神を去来紗別神といい、太子の名を誉田別尊といいました。そうであれば、大神の本の名が誉田別神で、太子のもとの名が去来紗別尊だといえます。しかし見えるところがなく、詳らかではありません。

2皇太后が亡くなる

攝政六十九年夏四月,皇太后崩。

摂政六十九年の夏四月に、皇太后が亡くなりました。

夾注 1

時年百歳

その時の年は百歳でした。

3位に即く

元年春正月丁亥朔,皇太子即位。是年也,太歳庚寅。

元年の春正月、丁亥が朔の日に、皇太子が位に即きました。この年は太歳が庚寅です。

4皇后と二十王

二年春三月庚戌朔壬子,立仲姫爲皇后。后生荒田皇女、大鷦鷯天皇、根鳥皇子。先是,天皇以皇后姊高城入姫爲妃,生額田大中彦皇子、大山守皇子、去來真稚皇子、大原皇女、澇來田皇女。又妃皇后弟弟姫,生阿倍皇女、淡路御原皇女、紀之菟野皇女。次妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛,生菟道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女。次妃宅媛之弟小甂媛,生菟道稚郎姫皇女。次妃河派仲彦女弟媛,生稚野毛二派皇子。次妃櫻井田部連男鉏之妹糸媛,生隼総別皇子。次妃日向泉長媛,生大葉枝皇子、小葉枝皇子。凡是天皇男女并廿王也。根鳥皇子,是大田君之始祖也。大山守皇子,是土形君、榛原君,凡二族之始祖也。去來真稚皇子,是深河別之始祖也。

二年の春三月、庚戌が朔で壬子の日に、仲姫を立てて皇后としました。皇后は荒田皇女・大鷦鷯天皇・根鳥皇子を生みました。

これより前、天皇は皇后の姉の高城入姫を妃として、額田大中彦皇子・大山守皇子・去来真稚皇子・大原皇女・澇来田皇女を生みました。

また妃とした皇后の妹の弟姫は、阿倍皇女・淡路御原皇女・紀之菟野皇女を生みました。

次の妃、和珥臣の祖である日触使主の娘、宮主宅媛は、菟道稚郎子皇子・矢田皇女・雌鳥皇女を生みました。

次の妃、宅媛の妹の小甂媛は、菟道稚郎姫皇女を生みました。

次の妃、河派仲彦の娘の弟媛は、稚野毛二派皇子を生みました。

次の妃、櫻井田部連の男鉏の妹、糸媛は、隼総別皇子を生みました。

次の妃、日向の泉長媛は、大葉枝皇子・小葉枝皇子を生みました。

およそこの天皇の男女は、あわせて二十王です。

根鳥皇子は、大田君の始祖です。大山守皇子は、土形君と榛原君、およそ二つの族の始祖です。去来真稚皇子は、深河別の始祖です。

夾注 2

小甂,此云烏儺謎

小甂は、烏儺謎と読みます。

派,此云摩多

派は、摩多と読みます。

5蝦夷が朝貢する

三年冬十月辛未朔癸酉,東蝦夷悉朝貢,即役蝦夷而作廐坂道。

三年の冬十月、辛未が朔で癸酉の日に、東の蝦夷がことごとく朝貢しました。そして蝦夷を役して、廐坂の道を作りました。

6海人が騒ぐ

十一月,處々海人訕哤之不從命。則遣阿曇連祖大濱宿禰平其訕哤,因爲海人之宰。故俗人諺曰「佐麼阿摩」者,其是緣也。

十一月に、所々の海人が騒ぎ立てて命に従いませんでした。そこで阿曇連の祖である大濱宿禰を遣わして、その騒ぎを平らげました。それによって海人の宰としました。そのため世の人の諺に「佐麼阿摩」というのは、これがその由縁です。

夾注 1

訕哤,此云佐麼賣玖

訕哤は、佐麼賣玖と読みます。

7百済が辰斯王を殺す

是歳,百濟辰斯王立之,失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰,嘖讓其无禮状。由是,百濟國煞辰斯王以謝之。紀角宿禰等便立阿菟爲王而歸。

この年に、百済の辰斯王が立って、貴国の天皇に礼を失いました。そのため紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わして、その無礼のありさまを責めとがめました。これによって百済国は辰斯王を殺して謝しました。紀角宿禰らは、そこで阿菟を立てて王として帰りました。

8海人と山守を定める

五年秋八月庚寅朔壬寅,令諸國定海人及山守部。

五年の秋八月、庚寅が朔で壬寅の日に、諸国に命じて海人と山守部を定めました。

9枯野という船

冬十月,科伊豆國令造舩,長十丈。舩既成之,試浮于海,便輕泛疾行如馳,故名其舩曰枯野。

冬十月に、伊豆国に科して船を造らせると、長さは十丈でした。船ができあがって、試しに海に浮かべると、軽く泛んで馳せるように速く行きました。そのためその船を枯野と名づけました。

夾注 1

由舩輕疾名枯野,是義違焉。若謂輕野,後人訛歟

船が軽く疾いことから枯野と名づけたというのは、その義が違っています。もしや軽野といっていたのを、後の人が訛ったのでしょうか。

10菟道野を過ぎて歌う

六年春二月,天皇幸近江國,至菟道野上而歌之曰:

六年の春二月に、天皇が近江国に行き、菟道野の上に至って歌いました。

11歌 — 天皇

知麼能伽豆怒塢彌例麼、茂々智儾蘆夜珥波母彌喻、區珥能朋母彌喻。

「ちばの かづぬをみれば ももちだる やにはもみゆ くにのほもみゆ(知麼能伽豆怒塢彌例麼、茂々智儾蘆夜珥波母彌喻、區珥能朋母彌喻)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

12韓人池

七年秋九月,高麗人、百濟人、任那人、新羅人,並來朝。時命武内宿禰,領諸韓人等作池,因以名池號韓人池。

七年の秋九月に、高麗の人・百済の人・任那の人・新羅の人が、そろって来朝しました。そのとき武内宿禰に命じて、諸々の韓人らを領して池を作らせました。それによって池の名を韓人池といいました。

13百済の人が来る

八年春三月,百濟人來朝。

八年の春三月に、百済の人が来朝しました。

夾注 1

百濟記云,阿花王立,旡禮於貴國,故奪我枕彌多禮、及峴南、支侵、谷那、東韓之地。是以遣王子直支于天朝,以脩先王之好也

百済記にいうには、阿花王が立って貴国に無礼だったので、我が枕彌多禮と、峴南・支侵・谷那・東韓の地を奪われました。そのため王子の直支を天朝に遣わして、先の王の好みを脩めたといいます。

14武内宿禰が讒言を免れる

九年夏四月,遣武内宿禰於筑紫以監察百姓。時武内宿禰弟甘美内宿禰,欲廢兄,即讒言于天皇曰:「武内宿禰常有望天下之情。今聞在筑紫而密謀之曰:『獨裂筑紫,招三韓令朝於己,遂將有天下。』」於是,天皇則遣使以令煞武内宿禰。時武内宿禰歎之曰:「吾元無貳心,以忠事君。今何禍矣?無罪而死耶?」於是,有壹伎直祖真根子者,其爲人能似武内宿禰之形,獨惜武内宿禰無罪而空死,便語武内宿禰曰:「今大臣以忠事君,既無黒心,天下共知。願密避之,參赴于朝,親辨無罪,而後死不晩也。且時人毎云,僕形似大臣。故今我代大臣而死之,以明大臣之丹心。」則伏劒自死焉。時武内宿禰,獨大悲之,竊避筑紫浮海,以從南海廻之,泊於紀水門,僅得逮朝,乃辨無罪。天皇則推問武内宿禰(與)甘美内宿禰。於是二人各堅執而爭之,是非難決。天皇勅之,令請神祇探湯。是以,武内宿禰與甘美内宿禰,共出于磯城川湄爲探湯。武内宿禰勝之,便執横刀以毆仆甘美内宿禰,遂欲煞矣。天皇勅之令釋,仍賜紀伊直等之祖也。

九年の夏四月に、武内宿禰を筑紫に遣わして、百姓を監察させました。

そのとき武内宿禰の弟、甘美内宿禰が兄を廃そうとして、天皇に讒言しました。「武内宿禰は常に天下を望む心があります。今聞くところ、筑紫にいてひそかに謀り、『ひとり筑紫を裂き、三韓を招いて自分に朝させ、ついに天下を取ろう』と言っているそうです。」

そこで天皇は使いを遣わして、武内宿禰を殺させようとしました。

そのとき武内宿禰は歎いて言いました。「私はもとより二つの心がなく、忠をもって君に事えてきた。今、何の禍だろうか。罪がないのに死ぬのか。」

そこに壹伎直の祖である真根子という者がいて、その人柄は武内宿禰の姿によく似ていました。ひとり武内宿禰が罪なく空しく死ぬのを惜しんで、武内宿禰に語りました。

「今、大臣が忠をもって君に事え、黒い心がないことは、天下がともに知っています。願って、ひそかに避けて朝に参り、みずから罪のないことを弁じ、その後に死んでも遅くはありません。また当時の人はいつも、私の姿が大臣に似ているといいます。そのため今、私が大臣に代わって死んで、大臣の丹い心を明らかにします。」

そして剣に伏してみずから死にました。

そのとき武内宿禰はひとり大いに悲しみ、ひそかに筑紫を避けて海に浮かび、南の海から回って、紀の水門に泊まりました。やっと朝に至ることができて、罪のないことを弁じました。

天皇は武内宿禰と甘美内宿禰を推し問いました。すると二人はそれぞれ堅く執って争い、是非を決めがたくありました。

天皇は勅して、神祇に請って探湯をさせました。そのため武内宿禰と甘美内宿禰は、ともに磯城川のほとりに出て探湯をしました。武内宿禰が勝ちました。そして横刀を執って甘美内宿禰を毆って倒し、ついに殺そうとしました。天皇は勅して釈させ、そして紀伊直らの祖としました。

15池を作る

十一年冬十月,作劔池、輕池、鹿垣池、廐坂池。

十一年の冬十月に、劔池・軽池・鹿垣池・廐坂池を作りました。

16髪長媛

是歳,有人奏之曰:「日向國有孃子,名髪長媛,即諸縣君牛諸井之女也。是國色之秀者。」天皇悦之,心裏欲覓。

この年に、ある人が奏して言いました。「日向国に孃子がいて、名は髪長媛といい、諸縣君牛諸井の娘です。これは国の色の秀でた者です。」

天皇は悦んで、心の裏で求めたいと思いました。

17使いを遣わして召す

十三年春三月,天皇遣專使以徴髪長媛。

十三年の春三月に、天皇は専らの使いを遣わして髪長媛を徴しました。

18子に与えようと歌う

秋九月中,髪長媛至自日向,便安置於桑津邑。爰皇子大鷦鷯尊,及見髪長媛,感其形之美麗,常有戀情。於是天皇知大鷦鷯尊感髪長媛而欲配。是以天皇宴于後宮之日,始喚髪長媛,因以上坐於宴席。時撝大鷦鷯尊,以指髪長媛,乃歌之曰:

秋九月の中に、髪長媛が日向から至ったので、桑津邑に安置しました。

そこで皇子の大鷦鷯尊は、髪長媛を見て、その姿の美しさに感じ、常に恋う情がありました。そこで天皇は、大鷦鷯尊が髪長媛に感じていることを知って、配わせようと思いました。

そのため天皇が後宮で宴をした日に、はじめて髪長媛を喚んで、宴の席に上らせて坐らせました。そのとき大鷦鷯尊に向かって髪長媛を指して、こう歌いました。

19歌 — 天皇

伊奘阿藝怒、珥比蘆菟湄珥、比蘆菟濔珥、和餓喻區濔智珥、伽遇破志、波那多智麼那。辭豆曳羅波、比等未那等利、保菟曳波、等利委餓羅辭、濔菟遇利能、那伽菟曳能、府保語茂利、阿伽例蘆塢等咩、伊奘佐伽麼曳那。

「いざあぎの にひるつみに ひるつみに わがゆくみちに かぐはし はなたちばな しづえらは ひとみなとり ほつえは とりゐがらし みつぐりの なかつえの ふほごもり あかれるをとめ いざさかばえな(伊奘阿藝怒、珥比蘆菟湄珥、比蘆菟濔珥、和餓喻區濔智珥、伽遇破志、波那多智麼那。辭豆曳羅波、比等未那等利、保菟曳波、等利委餓羅辭、濔菟遇利能、那伽菟曳能、府保語茂利、阿伽例蘆塢等咩、伊奘佐伽麼曳那)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

20大鷦鷯尊が答える

於是大鷦鷯尊蒙御歌,便知得賜髪長媛而大悦之,報歌曰:

そこで大鷦鷯尊は御歌を蒙り、髪長媛を賜れると知って大いに悦び、報いて歌いました。

21歌 — 大鷦鷯尊

濔豆多摩蘆、豫佐濔能伊戒珥、奴那波區利、破陪鷄區辭羅珥、委愚比菟區、伽破摩多曳能、比辭餓羅能、佐辭鶏區辭羅珥、阿餓許居呂辭、伊夜于古珥辭氐。

「みづたまる よさみのいけに ぬなはくり はへけくしらに ゐぐひつく かはまたえの ひしがらの さしけくしらに あがこころし いやうこにして(濔豆多摩蘆、豫佐濔能伊戒珥、奴那波區利、破陪鷄區辭羅珥、委愚比菟區、伽破摩多曳能、比辭餓羅能、佐辭鶏區辭羅珥、阿餓許居呂辭、伊夜于古珥辭氐)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

22ひとり向かい合って歌う

大鷦鷯尊與髪長媛,既得交慇懃,獨對髪長媛歌之曰:

大鷦鷯尊は髪長媛と、すでに慇懃を交わすことができて、ひとり髪長媛に対して歌いました。

23歌 — 大鷦鷯尊

彌知能之利、古破儾塢等綿、塢伽未能語等、枳虚曳之介逎、阿比摩區羅摩區。

「みちのしり こはだをとめ をかみのごと きこえしかど あひまくらまく(彌知能之利、古破儾塢等綿、塢伽未能語等、枳虚曳之介逎、阿比摩區羅摩區)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

24また歌う

又歌之曰:

また歌いました。

25歌 — 大鷦鷯尊

濔知能之利、古波儾塢等綿、阿羅素破儒、泥辭區塢之叙、于蘆波辭彌茂布。

「みちのしり こはだをとめ あらそはず ねしくをしぞ うるはしみもふ(濔知能之利、古波儾塢等綿、阿羅素破儒、泥辭區塢之叙、于蘆波辭彌茂布)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

夾注 1

一云,日向諸縣君牛仕于朝庭,年既耆耇之不能仕,仍致仕,退於本土,則貢上己女髪長媛。始至播磨,時天皇幸淡路嶋而遊獵之。於是天皇西望之,數十麋鹿浮海來之,便入于播磨鹿子水門。天皇謂左右曰:「其何麋鹿也?泛巨海多來。」爰左右共視而奇,則遣使令察。使者至見皆人也,唯以着角鹿皮爲衣服耳。間曰:「誰人也?」對曰:「諸縣君牛,是年耆之,雖致仕,不得忘朝,故以己女髪長媛而貢上矣。」天皇悦之,即喚令從御舩。是以時人號其着岸之處,曰鹿子水門也。凡水手曰鹿子,盖始起於是時也

一説にはこうです。日向の諸縣君牛が朝庭に仕えていましたが、年がすでに老いて仕えられなくなり、仕を致して本土に退きました。そして自分の娘の髪長媛を貢ぎ上げました。はじめ播磨に至ったとき、天皇は淡路島に行って遊び狩りをしていました。そこで天皇が西を望むと、数十頭の麋鹿が海に浮かんで来て、播磨の鹿子水門に入りました。天皇は左右の者に言いました。「あれは何の麋鹿か。巨きな海に泛んで多く来る。」そこで左右の者がともに見て奇しみ、使いを遣わして察させました。使者が至って見ると、皆人でした。ただ角のついた鹿の皮を着て衣服としていただけでした。間に問いました。「誰か。」答えました。「諸縣君牛は年が老いて、仕を致したとはいえ、朝を忘れられませんでした。そのため自分の娘の髪長媛を貢ぎ上げます。」天皇は悦んで、喚んで御船に従わせました。そのため当時の人は、その岸に着いた所を鹿子水門と名づけました。およそ水手を鹿子というのは、おそらくこの時に始まったのでしょう。

26縫い物をする女が来る

十四年春二月,百濟王貢縫衣工女,曰真毛津,是今來目衣縫之始祖也。

十四年の春二月に、百済の王が縫衣の工女を貢ぎました。真毛津といいます。これが今の来目の衣縫の始祖です。

27弓月君が来る

是歳,弓月君自百濟來歸,因以奏之曰:「臣領己國之人夫百廿縣而歸化,然因新羅人之拒,皆留加羅國。」爰遣葛城襲津彦,而召弓月之人夫於加羅。然經三年而襲津彦不來焉。

この年に、弓月君が百済から来て帰りました。それによって奏して言いました。「臣は自分の国の人夫、百二十県を領して帰化しようとしました。しかし新羅の人が拒んだために、皆が加羅国に留まっています。」

そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の人夫を加羅から召させました。しかし三年を経ても襲津彦は来ませんでした。

28阿直岐が来る

十五年秋八月壬戌朔丁卯,百濟王遣阿直岐,貢良馬二匹,即養於輕坂上廐,因以以阿直岐令掌飼,故號其養馬之處曰廐坂也。阿直岐亦能讀經典,即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰:「如勝汝博士亦有耶?」對曰:「有王仁者,是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別、巫於百濟,仍徴王仁也。其阿直岐者,阿直岐史之始祖也。

十五年の秋八月、壬戌が朔で丁卯の日に、百済の王が阿直岐を遣わして、良い馬二匹を貢ぎました。そして軽坂の上の廐で養い、それによって阿直岐に飼うことを掌らせました。そのためその馬を養う所を廐坂と名づけました。

阿直岐はまた経典をよく読みました。そして太子の菟道稚郎子の師となりました。

そこで天皇は阿直岐に問いました。「もしお前にまさる博士が、ほかにいるか。」

答えました。「王仁という者がいて、これが秀でています。」

そのとき上毛野君の祖である荒田別と巫を百済に遣わして、王仁を徴しました。

その阿直岐は、阿直岐史の始祖です。

29王仁が来る

十六年春二月,王仁來之,則太子菟道稚郎子師之,習諸典籍於王仁,莫不通達。(故)所謂王仁者,是書首等之始祖也。

十六年の春二月に、王仁が来ました。そして太子の菟道稚郎子が彼を師として、諸々の典籍を王仁に習い、通達しないものはありませんでした。いわゆる王仁は、書首らの始祖です。

30直支王を帰す

是歳,百濟阿花王薨。天皇召直支王謂之曰:「汝返於國以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。

この年に、百済の阿花王が薨じました。天皇は直支王を召して言いました。「お前は国に返って位を嗣げ。」そしてまた東韓の地を賜って遣わしました。

夾注 1

東韓者,甘羅城、高難城、爾林城是也

東韓とは、甘羅城・高難城・爾林城がそれです。

31新羅を撃って道を開く

八月,遣平羣木菟宿禰、的戸田宿禰於加羅,仍授精兵詔之曰:「襲津彦久之不還,必由新羅人拒而滞之。汝等急往之,撃新羅,披其道路。」於是木菟宿禰等進精兵,莅于新羅之境。新羅王愕之,服其罪,乃率弓月之人夫,與襲津彦共來焉。

八月に、平羣木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に遣わしました。そして精兵を授けて詔しました。「襲津彦が久しく還らないのは、必ず新羅の人が拒んで滞っているからだ。お前たちは急いで行き、新羅を撃って、その道路を披け。」

そこで木菟宿禰らは精兵を進めて、新羅の境に莅みました。新羅の王は愕いて、その罪に服しました。そして弓月の人夫を率いて、襲津彦とともに来ました。

32国樔の人が酒を献じる

十九年冬十月戊戌朔,幸吉野宮。時國樔人來朝之,因以醴酒獻于天皇,而歌之曰:

十九年の冬十月、戊戌が朔の日に、吉野宮に行きました。そのとき国樔の人が来朝しました。それによって醴酒を天皇に献じて、こう歌いました。

33歌 — 国樔の人

伽辭能輔珥、豫區周塢菟區利、豫區周珥、伽綿蘆淤朋濔枳、宇摩羅珥、枳虚之茂知塢勢、磨呂俄智。

「かしのふに よくすをつくり よくすに かめるおほみき うまらに きこしもちをせ まろがち(伽辭能輔珥、豫區周塢菟區利、豫區周珥、伽綿蘆淤朋濔枳、宇摩羅珥、枳虚之茂知塢勢、磨呂俄智)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

34国樔の人の風俗

歌之既訖,則打口以仰咲。今國樔獻土毛之日,歌訖即撃口仰咲者,蓋上古之遣則也。夫國樔者,其爲人甚淳朴也,毎山取果食,亦煮蝦蟆爲上味,名曰毛瀰。其土自京東南之,隔山而居于吉野河上,峯嶮谷深,道路狹巘,故雖不遠於京,本希朝來。然自此之後,屡參赴以獻土毛。其土毛者,栗、菌及年魚之類焉。

歌が終わると、口を打って仰いで咲いました。今、国樔が土毛を献じる日に、歌が終わると口を撃って仰いで咲うのは、おそらく上古に遺った則なのでしょう。

およそ国樔は、その人柄がとても淳朴です。いつも山で果を取って食べ、また蝦蟆を煮て上の味とし、名を毛瀰といいます。

その土は、京から東南に山を隔てて、吉野河のほとりに住んでいます。峯は嶮しく谷は深く、道路は狹く巘しくあります。そのため京から遠くないのに、もとより朝に来ることは希でした。しかしこれより後は、たびたび参り赴いて土毛を献じました。その土毛は、栗・菌、それに年魚の類です。

35阿知使主が来る

廿年秋九月,倭漢直祖阿知使主、其子都加使主,並率己之黨類十七縣而來歸焉。

二十年の秋九月に、倭漢直の祖である阿知使主と、その子の都加使主が、そろって自分の黨類十七県を率いて来て帰りました。

36大隅宮

廿二年春三月甲申朔戊子,天皇幸難波,居於大隅宮。

二十二年の春三月、甲申が朔で戊子の日に、天皇は難波に行って、大隅宮に居ました。

37兄媛が故郷を恋う

丁酉,登高臺而遠望。時妃兄媛侍之,望西以大歎。於是天皇問兄媛曰:「何爾歎之甚也?」對曰:「近日妾有戀父母之情,便因西望而自歎矣。冀暫還之,得省親歟。」爰天皇愛兄媛篤温清之情,則謂之曰:「爾不視二親,既經多年,還欲定省,於理灼然。」則聽之,仍喚淡路御原之海人八十人爲水手,送于吉備。

丁酉の日に、高い臺に登って遠くを望みました。そのとき妃の兄媛が侍っていて、西を望んで大きく歎きました。

そこで天皇は兄媛に問いました。「どうしてお前の歎きはそれほど甚しいのか。」

答えました。「近ごろ妾には父母を恋う情があって、西を望むうちにおのずから歎きました。願って、しばらく還って、親を省みることができましょうか。」

そこで天皇は、兄媛が親を篤く温め清める情を愛しんで、こう言いました。「お前が二親を視ないまま、すでに多くの年が経った。還って定省したいというのは、理として灼かである。」

そして聴き入れ、淡路の御原の海人八十人を喚んで水手とし、吉備に送りました。

夾注 1

兄媛者,吉備臣祖御友別之妹也

兄媛は、吉備臣の祖である御友別の妹です。

38船を望んで歌う

夏四月,兄媛自大津發舩而往之。天皇居高臺,望兄媛之舩以歌曰:

夏四月に、兄媛は大津から船を発して往きました。天皇は高い臺にいて、兄媛の船を望んで歌いました。

39歌 — 天皇

阿波旎辭摩、異椰敷多那羅珥、阿豆枳辭摩、異椰敷多那羅珥、豫呂辭枳辭摩之魔、儾伽多佐例阿羅智之、吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流慕能。

「あはぢしま いやふたならび あづきしま いやふたならび よろしきしましま だかたされあらちし きびなるいもを あひみつるもの(阿波旎辭摩、異椰敷多那羅珥、阿豆枳辭摩、異椰敷多那羅珥、豫呂辭枳辭摩之魔、儾伽多佐例阿羅智之、吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流慕能)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

40淡路と吉備に遊ぶ

秋九月辛巳朔丙戌,天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海,在難波之西,峯巌紛錯,陵谷相續,芳草薈蔚,長瀾潺湲,亦糜鹿鳧鴈多在其嶋,故乘輿屡遊之。天皇便自淡路轉以幸吉備,遊于小豆嶋。

秋九月、辛巳が朔で丙戌の日に、天皇は淡路島で狩りをしました。この島は海を横ぎって、難波の西にあります。峯や巌が紛れ錯じり、陵と谷が相続き、芳しい草が薈い茂り、長い瀾が潺やかに流れます。また糜鹿や鳧や鴈がその島に多くいます。そのため乗輿がたびたび遊びました。

天皇はそこで淡路から転じて吉備に行き、小豆島で遊びました。

41吉備を子らに分け封じる

庚寅,亦移居於葉田葦守宮。時御友別參赴之,則以其兄弟子孫,爲膳夫而奉饗焉。天皇於是看御友別謹惶侍奉之状,而有悦情,因以割吉備國封其子等也。則分川嶋縣封長子稻速別,是下道臣之始祖也。次以上道縣封中子仲彦,是上道臣、香屋臣之始祖也。次以三野縣封弟彦,是三野臣之始祖也。復以波區藝縣封御友別弟鴨別,是笠臣之祖也。即以苑縣封兄浦凝別,是苑臣之始祖也。即以織部縣賜兄媛。是以其子孫於今在于吉備國,是其緣也。

庚寅の日に、また葉田の葦守宮に移って居ました。そのとき御友別が参り赴いて、その兄弟や子孫を膳夫として饗を奉りました。

天皇はそこで、御友別が謹み惶れて侍り奉るさまを看て、悦ぶ情がありました。それによって吉備国を割いて、その子らに封じました。

まず川嶋県を分けて長子の稲速別に封じました。これが下道臣の始祖です。次に上道県を中の子の仲彦に封じました。これが上道臣と香屋臣の始祖です。次に三野県を弟の弟彦に封じました。これが三野臣の始祖です。さらに波區藝県を御友別の弟の鴨別に封じました。これが笠臣の祖です。また苑県を兄の浦凝別に封じました。これが苑臣の始祖です。また織部県を兄媛に賜いました。

そのため、その子孫が今も吉備国にいるのは、これがその由縁です。

夾注 1

葉田,此云簸𡌈

葉田は、簸𡌈と読みます。

42木滿致が国の政を執る

廿五年,百濟直支王薨,即子久爾辛立爲王。王年幼,木滿致執國政,與王母相婬,多行無禮。天皇聞而召之。

二十五年に、百済の直支王が薨じて、子の久爾辛が立って王となりました。王は年が幼く、木滿致が国の政を執って、王の母と相婬み、無礼な振る舞いを多く行いました。天皇はそれを聞いて召しました。

夾注 1

百濟記云,木滿致者,是木羅斤資討新羅時,娶其國婦而所生也。以其父功專於任那,來入我國,往還貴國,承制天朝,執我國政,權重當世。然天皇聞其暴,召之

百済記にいうには、木滿致は、木羅斤資が新羅を討ったときに、その国の婦を娶って生まれた子です。その父の功によって任那を専らにし、我が国に入って貴国を往き還り、天朝の制を承けました。我が国の政を執って、権は当世に重いものでした。しかし天皇はその暴を聞いて召したといいます。

43高麗の表を破る

廿八年秋九月,高麗王遣使朝貢,因以上表,其表曰:「高麗王教日本國也。」時太子菟道稚郎子讀其表,怒之,責高麗之使以表状無禮,則破其表。

二十八年の秋九月に、高麗の王が使いを遣わして朝貢しました。それによって表を上りましたが、その表には「高麗王、日本国に教う(高麗王教日本國也)」とありました。

そのとき太子の菟道稚郎子はその表を読んで怒り、表の文のありさまが無礼だとして高麗の使いを責め、その表を破りました。

44枯野を焼いて琴を作る

卅一年八月,詔羣卿曰:「官舩名枯野者,伊豆國所貢之舩也。是朽之不堪用,然久爲官用,功不可忘。何其舩名勿絶而得傅後葉焉?」羣卿便被詔以令有司,取其舩材爲薪而燒鹽。於是得五百籠鹽,則施之周賜諸國,因令造舩。是以諸國一時貢上五百舩,悉集於武庫水門。當是時,新羅調使共宿武庫。爰於新羅停,忽失火,即引之及于聚舩,而多舩見焚。由是責新羅人。新羅王聞之,讋然大驚,乃貢能匠者,是猪名部等之始祖也。初,枯野舩爲鹽薪燒之日,有餘燼,則奇其不燒而獻之。天皇異以令作琴,其音鏗鏘而遠聆。是時天皇歌之曰:

三十一年の八月に、群卿に詔しました。「官船のうち、名を枯野というものは、伊豆国が貢いだ船である。これが朽ちて用いるに堪えない。しかし久しく官の用となったので、その功を忘れることはできない。どうすればその船の名を絶やさず、後の世に伝えられるだろうか。」

群卿は詔を被って有司に命じ、その船の材を取って薪とし、塩を焼かせました。そこで五百籠の塩を得て、諸国にあまねく施し賜って、それによって船を造らせました。

そのため諸国は一時に五百船を貢ぎ上げ、ことごとく武庫の水門に集めました。

このとき、新羅の調の使いがともに武庫に宿りました。そこで新羅の人の停まる所から突然火が出て、燃え移って集めた船に及び、多くの船が焚かれました。これによって新羅の人を責めました。新羅の王はそれを聞いて、讋然として大いに驚き、能い匠を貢ぎました。これが猪名部らの始祖です。

はじめ、枯野の船を塩の薪として焼いた日に、焼け残りがありました。それが焼けなかったことを奇しんで献じました。天皇は異しんで琴を作らせると、その音は鏗鏘として遠くまで聆こえました。このとき天皇が歌いました。

45歌 — 天皇

訶羅怒烏、之褒珥椰枳、之餓阿摩離、虚等珥菟句離、訶枳譬句椰、由羅能斗能、斗那訶能異句離珥、敷例多菟、那豆能紀能佐々椰々。

「からのを しほにやき しがあまり ことにつくり かきひくや ゆらのとの となかのいくりに ふれたつ なづのきのさやさや(訶羅怒烏、之褒珥椰枳、之餓阿摩離、虚等珥菟句離、訶枳譬句椰、由羅能斗能、斗那訶能異句離珥、敷例多菟、那豆能紀能佐々椰々)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

46呉に縫い物の女を求めに遣わす

卅七年春二月戊午朔,遣阿知使主、都加使主於呉,令求縫工女。爰阿知使主等,渡高麗國欲逹于呉,則至高麗,更不知道路,乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波、久禮志二人爲導者,由是得通呉。呉王於是與工女兄媛、弟媛、呉織、穴織,四婦女。

三十七年の春二月、戊午が朔の日に、阿知使主と都加使主を呉に遣わして、縫工女を求めさせました。

そこで阿知使主らは高麗国を渡って呉に達しようとしました。高麗に至ったものの、それ以上は道路を知らず、高麗に道を知る者を乞いました。高麗の王は久禮波・久禮志の二人を副えて導く者としました。これによって呉に通じることができました。

呉の王はそこで、工女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人の婦女を与えました。

47新齊都媛が来る

卅九年春二月,百濟直支王,遣其妹新齊都媛以令任。爰新齊都媛率七婦女而來歸焉。

三十九年の春二月に、百済の直支王が、その妹の新齊都媛を遣わして仕えさせました。そこで新齊都媛は七人の婦女を率いて来て帰りました。

48二人の子に問う

四十年春正月辛丑朔戊申,天皇召大山守命、大鷦鷯尊,問之曰:「汝等者愛子耶?」對言:「甚愛也。」亦問之:「長與少孰尤焉?」大山守命對言:「不逮于長子。」於是天皇有不悦之色。時大鷦鷯尊預察天皇之色,以對言:「長者多經寒暑,既爲成人,更無悒矣。唯少子者,未知其成不,是以少子甚憐之。」天皇大悦曰:「汝言寔合朕之心。」是時,天皇常有立菟道稚郎子爲太子之情,然欲知二皇子之意,故發是問,是以不悦大守山命之對言也。

四十年の春正月、辛丑が朔で戊申の日に、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を召して問いました。「お前たちは子を愛するか。」

答えました。「とても愛します。」

また問いました。「長い子と少ない子では、どちらがまさるか。」

大山守命が答えました。「長子には及びません。」

そこで天皇は悦ばない色がありました。

そのとき大鷦鷯尊はあらかじめ天皇の色を察して、こう答えました。「長い子は寒さと暑さを多く経て、すでに成人となりましたので、もう悒うことはありません。ただ少ない子は、その成るか成らないかがまだ分かりません。そのため少ない子がとても憐れです。」

天皇は大いに悦んで言いました。「お前の言葉は、まことに朕の心に合う。」

このとき天皇は、常に菟道稚郎子を太子に立てる情がありました。しかし二人の皇子の意を知ろうとして、この問いを発したのです。そのため大山守命の答えの言葉を悦びませんでした。

49後嗣を立てる

甲子,立菟道稚郎子爲嗣。即日任大守山命令掌山川林野,以大鷦鷯尊太子輔之,令知國事。

甲子の日に、菟道稚郎子を立てて嗣としました。その日に大山守命に山や川、林や野を掌らせ、大鷦鷯尊を太子の輔として、国の事を知らせました。

50百十歳で亡くなる

四十一年春二月甲午朔戊申,天皇崩于明宮,時年一百一十歳。

四十一年の春二月、甲午が朔で戊申の日に、天皇が明宮で亡くなりました。その時の年は百十歳でした。

夾注 1

一云,崩于大隅宮

一説には、大隅宮で亡くなったといいます。

51縫い物の女が至る

是月,阿知使主等自呉至筑紫。時胸形大神有乞工女等,故以兄媛奉於胸形大神,是則今在筑紫國御使君之祖支。既而率其三婦女以至津國,及于武庫,而天皇崩之不及,即獻于大鷦鷯尊。是女人等之後,今呉衣縫、蚊屋衣縫是也。

この月に、阿知使主らが呉から筑紫に至りました。そのとき胸形大神が工女らを乞うことがありました。そのため兄媛を胸形大神に奉りました。これが、今、筑紫国にいる御使君の祖です。

やがてその三人の婦女を率いて津国に至り、武庫に及びましたが、天皇が亡くなって間に合いませんでした。そこで大鷦鷯尊に献じました。この女人らの後が、今の呉衣縫と蚊屋衣縫がそれです。