仁徳天皇
1兄弟が位を譲り合う
大鷦鷯天皇。譽田天皇之第四子也。母曰仲姫命。五百城入彦皇子之孫也。天皇幼而聰明叡智。貌容美麗。及壯仁寛慈惠。四十一年春二月。譽田天皇崩。時太子菟道稚郎子。讓位于大鷦鷯尊、未即帝位。仍諮大鷦鷯尊。夫君天下以治萬民者。盖之如天。容之如地。上有驩心。以使百姓。百姓欣然。天下安矣。今我也弟之。且文獻不足。何敢繼嗣位登天業乎。大王者風姿岐嶷。仁孝達聆。以齒且長。足爲天下之君。其先帝立我爲太子。豈有能才乎。唯愛之者也。亦奉宗廟社稷重。事也。僕之不侫。不足以稱。夫昆上而季下。聖君而愚臣古今之常典焉。願王勿疑。須即帝位。我則爲臣之助耳。大鷦鷯尊對言。先皇謂。皇位者一日之不可空。故預選明徳。立王爲貳。祚之以嗣。授之以民。崇其寵章。令聞於國。我雖不賢。豈棄先帝之命。輙從弟王之願乎。固辭不承。各相讓之。是時額田大中彦皇子。
大鷦鷯天皇は、誉田天皇の第四子です。母は仲姫命といい、五百城入彦皇子の孫です。天皇は幼いころから聡明で叡智があり、姿や容貌が美しくありました。壮年になると、仁く寛く、慈しみ深く恵み深くありました。
四十一年の春二月に、誉田天皇が亡くなりました。そのとき太子の菟道稚郎子は、大鷦鷯尊に位を譲って、まだ帝の位に即きませんでした。そして大鷦鷯尊に諮って言いました。
「およそ天下に君となって万民を治める者は、覆うことを天のようにし、容れることを地のようにします。上に驩ぶ心があってこそ百姓を使い、百姓が欣んでこそ天下が安らかです。今、私は弟であり、また文も献も足りません。どうしてあえて位を継いで天の業に登れましょうか。
大王は風や姿が岐しく嶷しく、仁く孝く、聞いて達しておられます。齒もまた長じておられるので、天下の君となるに足ります。先の帝が私を太子に立てられたのは、どうして才があったからでしょうか。ただ愛されただけです。また宗廟社稷を奉ることは重い事です。私は侫くなく、称えるに足りません。
およそ兄が上にあり、季が下にあり、君が聖く臣が愚かであるのは、古今の常の典です。願って、王は疑われず、すべからく帝の位に即いてください。私は臣となってお助けするだけです。」
大鷦鷯尊は答えて言いました。「先の皇は『皇の位は一日も空けてはならない』と言われ、そのためあらかじめ明らかな徳を選んで、王を貳として立て、祚をもって嗣がせ、民を授け、その寵の章を崇めて、国に聞こえさせられた。私は賢くないとはいえ、どうして先の帝の命を棄て、たやすく弟の王の願いに従えようか。」
固く辞して承けず、それぞれ相譲りました。
このとき額田大中彦皇子が
2倭の屯田を争う
將掌倭屯田及屯倉。而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰。是屯田者。自本山守地。是以今吾將治矣。爾之不可掌。時淤宇宿禰啓于皇太子。皇太子謂之曰。汝便啓大鷦鷯尊。於是淤宇宿禰啓大鷦鷯尊曰。臣所任屯田者大中彦皇子距不令治。大鷦鷯尊問倭直祖麻呂曰。倭屯田者元謂山守地。是如何。對言。臣之不知。唯臣弟吾子篭知也。適是時。吾子篭遣於韓國。而未還。爰大鷦鷯尊謂淤宇曰。爾躬往於韓國。以喚吾子篭。其兼日夜而急徃。乃差淡路之海人八十。爲水手。爰淤宇往于韓國。即率子篭而來之。因問倭屯田。對言。傳聞之。於纒向玉城宮御宇天皇之世。科太子大足彦尊定倭屯田也。勅旨。凡倭屯田者。毎御宇帝皇之屯田也。其雖帝皇之子。非御宇者不得掌矣。是謂山守地非之也。時大鷦鷯尊遣吾子篭於額田大中彦皇子而令知状。大中彦皇子更無如何焉。
倭の屯田と屯倉を掌ろうとしました。そしてその屯田を司る出雲臣の祖、淤宇宿禰に言いました。「この屯田は、もとより山守の地である。そのため今、私が治める。お前が掌ってはならない。」
そのとき淤宇宿禰は皇太子に啓しました。皇太子は言いました。「お前は大鷦鷯尊に啓しなさい。」
そこで淤宇宿禰は大鷦鷯尊に啓しました。「臣が任された屯田を、大中彦皇子が距んで治めさせません。」
大鷦鷯尊は倭直の祖、麻呂に問いました。「倭の屯田は、もとより山守の地というが、これはどういうことか。」
答えました。「臣は知りません。ただ臣の弟、吾子篭が知っています。」
ちょうどこのとき、吾子篭は韓国に遣わされて、まだ還っていませんでした。そこで大鷦鷯尊は淤宇に言いました。「お前がみずから韓国に往って、吾子篭を喚んで来なさい。日夜を兼ねて急いで往け。」そして淡路の海人八十人を差して、水手としました。
そこで淤宇は韓国に往き、吾子篭を率いて来ました。そして倭の屯田について問いました。
答えました。「伝え聞くところ、纒向の玉城宮で天下を治められた天皇の世に、太子の大足彦尊に科して、倭の屯田を定めさせられました。勅旨にいうには『およそ倭の屯田は、天下を治める帝皇ごとの屯田である。たとえ帝皇の子であっても、天下を治める者でなければ掌ることはできない』とありました。これを山守の地というのは誤りです。」
そのとき大鷦鷯尊は吾子篭を額田大中彦皇子に遣わして、そのありさまを知らせました。大中彦皇子は、それ以上どうすることもできませんでした。
3大山守皇子が水に沈む
乃知其惡。而赦之勿罪。然後大山守皇子毎恨先帝廢之非立。而重有是怨。則謀之曰。我殺太子遂登帝位。爰大鷦鷯尊預聞其謀。密告太子。備兵令守。時太子設兵待之。大山守皇子不知其備兵。獨領數百兵士。夜半發而行之。會明詣菟道。將渡河。時太子服布袍。取楫櫓。密接度子。以載大山守皇子而濟。至于河中。誂度子蹈船而傾。於是大山守皇子墮河而沒。更浮流之。歌曰。知破揶臂苔。于施能和多利珥。佐烏刀利珥。破揶鷄務臂苔辭。和餓毛胡珥虚務。然伏兵多起。不得著岸。遂沈而死焉。令求其屍。泛於考羅濟。時太子視其屍。歌之曰。智破揶臂等。于泥能和多利珥。和多利涅珥。多■屡。阿豆瑳由瀰。摩由彌。伊枳羅牟苔。虚虚呂破望閇耐。伊斗羅牟苔。虚虚呂破望閇耐。望苔弊破。枳濔烏於望臂泥。須惠弊破。伊暮烏於望比泥。伊羅那鷄區。曾虚珥於望比。伽那志鷄區。虚虚珥於望臂。
そこでその悪を知って、赦して罪としませんでした。
その後、大山守皇子は、先の帝が自分を廃して立てなかったことをいつも恨み、重ねてこの怨みがあって、こう謀りました。「私が太子を殺して、ついに帝の位に登ろう。」
そこで大鷦鷯尊はあらかじめその謀を聞いて、ひそかに太子に告げ、兵を備えて守らせました。そのとき太子は兵を設けて待ちました。
大山守皇子はその兵の備えを知らず、ひとり数百の兵士を領して、夜半に発って行きました。明け方に菟道に至り、河を渡ろうとしました。
そのとき太子は布の袍を服て、楫と櫓を取り、ひそかに渡し守に混じりました。大山守皇子を載せて渡り、河の中に至ると、渡し守を誂えて船を蹈んで傾けさせました。
そこで大山守皇子は河に墮ちて沈み、また浮かんで流れながら歌いました。
「ちはやひと うぢのわたりに さをとりに はやけむひとし わがもこにこむ(知破揶臂苔。于施能和多利珥。佐烏刀利珥。破揶鷄務臂苔辭。和餓毛胡珥虚務)」
しかし伏せた兵が多く起こって、岸に著くことができませんでした。ついに沈んで死にました。
その屍を求めさせると、考羅の済に泛びました。そのとき太子はその屍を視て、歌いました。
「ちはやひと うぢのわたりに わたりぜに たてる(智破揶臂等。于泥能和多利珥。和多利涅珥。多■屡) あづさゆみ まゆみ いきらむと こころはもへど いとらむと こころはもへど もとへは きみをおもひで すえへは いもをおもひで いらなけく そこにおもひ かなしけく ここにおもひ(阿豆瑳由瀰。摩由彌。伊枳羅牟苔。虚虚呂破望閇耐。伊斗羅牟苔。虚虚呂破望閇耐。望苔弊破。枳濔烏於望臂泥。須惠弊破。伊暮烏於望比泥。伊羅那鷄區。曾虚珥於望比。伽那志鷄區。虚虚珥於望臂)」
4太子がみずから死ぬ
伊枳羅儒層區屡。阿豆瑳由瀰。摩由瀰。乃葬于那羅山。既而興宮室於菟道而居之。猶由讓位於大鷦鷯尊。以久不即皇位。爰皇位空之既經三載。時有海人。齎鮮魚之苞苴獻于菟道宮也。太子令海人曰。我非天皇。乃返之令進難波。大鷦鷯尊亦返以令獻菟道。於是海人之苞苴、■於往還。更返之取他鮮魚而獻焉。讓如前日。鮮魚亦。海人苦於屡還。乃棄鮮魚而哭。故諺曰。有海人耶。因己物以泣。其是之縁也。太子曰。我知不可奪兄王之志。豈久生之煩天下乎。乃自死焉。時大鷦鷯尊聞太子薨以驚之。從難波馳之。到菟道宮。爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊■■■哭。不知所如。乃解髮跨屍。以三乎曰。我弟皇子。乃應時而活。自起以居。爰大鷦鷯尊語太子曰。悲兮。惜兮。何所以歟自逝之。若死者有知。先帝何謂我乎。乃太子啓兄王曰。天命也。誰能留焉。若有向天皇之御所。具奏兄王聖之且有讓矣。
「いきらずそくる あづさゆみ まゆみ(伊枳羅儒層區屡。阿豆瑳由瀰。摩由彌)」
— 右の三つの歌は、いずれも音を写したものなので、意味には訳しません。
そして那羅山に葬りました。
やがて菟道に宮室を興して住みました。それでも大鷦鷯尊に位を譲るために、久しく皇の位に即きませんでした。こうして皇の位が空いたまま、すでに三年が経ちました。
そのとき海人がいて、鮮やかな魚の苞苴を菟道宮に献じました。太子は海人に命じました。「私は天皇ではない。」そして返して、難波に進めさせました。大鷦鷯尊もまた返して、菟道に献じさせました。
そこで海人の苞苴は、往き還りのあいだに傷みました。改めて還って、ほかの鮮やかな魚を取って献じましたが、譲ることは前の日と同じでした。鮮やかな魚もまた傷みました。海人はたびたび還ることに苦しんで、魚を棄てて哭きました。そのため諺に「海人がいて、自分の物のために泣く」というのは、これがその由縁です。
太子は言いました。「私は兄の王の志を奪えないことを知っている。どうして久しく生きて天下を煩わせようか。」そしてみずから死にました。
そのとき大鷦鷯尊は、太子が薨じたと聞いて驚き、難波から馳せて菟道宮に到りました。すると太子が薨じて三日が経っていました。
そのとき大鷦鷯尊は胸を打って哭き、どうすればよいか分かりませんでした。そして髪を解いて屍を跨ぎ、三たび呼びました。「我が弟の皇子よ。」
するとその時に応じて活き、みずから起きて居ました。そこで大鷦鷯尊は太子に語りました。「悲しいことだ、惜しいことだ。どうしてみずから逝ったのか。もし死んだ者に知るところがあるなら、先の帝は私を何と言われるだろうか。」
そこで太子は兄の王に啓しました。「天の命です。誰がこれを留められましょうか。もし天皇のおられる御所に向かうなら、兄の王が聖くあり、また譲られたことを、具えて奏しましょう。
5八田皇女を進めて死ぬ
然聖王聞我死。以急馳遠路。豈得無勞乎。乃進同母妹八田皇女曰。雖不足納采。僅充掖庭之數。乃且伏棺而薨。於是大鷦鷯尊素服。爲之發哀。哭之甚慟。仍葬於菟道山上。
しかし聖なる王は、私が死んだと聞いて、急いで遠い路を馳せて来られました。どうして労がないでしょうか。」
そして同母の妹、八田皇女を進めて言いました。「納采には足りませんが、わずかに掖庭の数を充ててください。」
そしてまた棺に伏して薨じました。
そこで大鷦鷯尊は素服を着て、哀しみを発し、哭くことがとても慟しくありました。そして菟道山の上に葬りました。
6位に即く
元年春正月丁丑朔己卯。大鷦鷯尊即天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。即宮垣室屋弗堊色也。桶梁柱楹弗藻餝也。茅茨之蓋弗割齊也。此不以私曲之故留耕績之時者也。初天皇生日。木菟入于産殿。明旦譽田天皇喚大臣武内宿禰。語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日臣妻産時。鷦鷯入于産屋。是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子與大臣之子同日共産。並有瑞。是天之表焉。以爲取其鳥名。各相易名子。爲後葉之契也。則取鷦鷯名。以名太子。曰大鷦鷯皇子。取木菟名號大臣之子。曰木菟宿禰。是平群臣之始祖也。是年也。太歳癸酉。
元年の春正月、丁丑が朔で己卯の日に、大鷦鷯尊が天皇の位に即きました。皇后を尊んで皇太后と称しました。難波に都して、これを高津宮といいます。
宮の垣や室や屋を白い土で塗らず、桶や梁や柱や楹を藻で飾らず、茅で葺いた蓋を切り齊えませんでした。これは私の曲がった事のために、耕し績む時を留めないためでした。
はじめ天皇が生まれた日に、木菟が産殿に入りました。翌朝、誉田天皇は大臣の武内宿禰を喚んで語りました。「これは何の瑞だろうか。」
大臣が答えて言いました。「吉い祥です。また、ちょうど昨日、臣の妻が産むときに、鷦鷯が産屋に入りました。これもまた異なことです。」
そこで天皇は言いました。「今、朕の子と大臣の子が同じ日にともに生まれ、あわせて瑞があった。これは天の表である。その鳥の名を取って、それぞれ互いに子の名を易え、後の世の契りとしよう。」
そして鷦鷯の名を取って太子に名づけ、大鷦鷯皇子といい、木菟の名を取って大臣の子を名づけ、木菟宿禰といいました。これが平群臣の始祖です。
この年は太歳が癸酉です。
7皇后と子ら
二年春三月辛未朔戊寅。立磐之媛命爲皇后。后生大兄去來穗別天皇。住吉仲皇子。瑞齒別天皇。雄朝津間稚子宿禰天皇。又妃日向髮長媛生大草香皇子。幡梭皇女。
二年の春三月、辛未が朔で戊寅の日に、磐之媛命を立てて皇后としました。皇后は大兄去来穂別天皇・住吉仲皇子・瑞齒別天皇・雄朝津間稚子宿禰天皇を生みました。
また妃の日向の髪長媛は、大草香皇子と幡梭皇女を生みました。
8烟が上がらない
四年春二月己未朔甲子。詔羣臣曰。朕登高臺以遠望之。烟氣不起於域中。以爲百姓既貧。而家無炊者。朕聞。古聖王之世。人人誦詠徳之音。家家有康哉之歌。今朕臨億兆。於茲三年。頌音不聆。炊烟轉踈。即知。五穀不登。百姓窮乏也。封畿之内。尚有不給者。况乎畿外諸國耶。
四年の春二月、己未が朔で甲子の日に、群臣に詔しました。
「朕が高い臺に登って遠くを望むと、域の中に烟の気が起こらない。百姓がすでに貧しくて、家に炊ぐ者がないのだろうと思う。朕が聞くところ、古の聖なる王の世には、人々が徳を誦え詠う音があり、家々に康いという歌があったという。今、朕が億兆に臨んで三年になるが、頌える音は聆こえず、炊ぐ烟はますます踈らだ。すぐに分かる。五穀が登らず、百姓が窮しく乏しいのだ。封畿の内にもなお給らない者がいるのに、まして畿の外の諸国はどうだろうか。」
9三年の課役を免じる
三月己丑朔己酉。詔曰。自今以後。至于三年。悉除課役。以息百姓之苦。是日始之。黼衣■履、不弊盡不更爲也。温飯煖羹不酸■不易也。削心約志。以從事乎無爲。是以宮垣崩而不造。茅茨壌以不。風雨入隙而沾衣被。星辰漏壌而露床蓐。是後風雨順時。五穀豐穰。三稔之問。百姓富寛。頌徳既滿。炊烟亦繁。
三月、己丑が朔で己酉の日に、詔しました。「今より後、三年に至るまで、ことごとく課役を除いて、百姓の苦しみを息めよ。」
この日から始めて、衣や履は弊れ尽きるまで改めて作らず、温かい飯や煖かい羹は酸み傷むまで易えませんでした。心を削り志を約めて、無為に従いました。
そのため宮の垣が崩れても造らず、茅の茨が壊れても葺きませんでした。風や雨が隙から入って衣や被を沾し、星辰が壊れたところから漏れて、床や蓐に露れました。
これより後、風や雨は時に順い、五穀は豊かに穰りました。三年のあいだに百姓は富み寛やかになり、徳を頌える声はすでに満ち、炊ぐ烟もまた繁くなりました。
10百姓が富めば朕が富む
七年夏四月辛未朔。天皇居臺上而遠望之。烟氣多起。是日語皇后曰。朕既富矣。豈有愁乎。皇后對諮。何謂富焉。天皇曰。烟氣滿國。百姓自富歟。皇后且言。宮垣壌而不得脩。殿屋破之衣被露。何謂富乎。天皇曰。其天之立君。是爲百姓。然則君以百姓爲本。是以古聖王者。一人飢寒顧之責身。今百姓貧之。則朕貧也。百姓富之。則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。
七年の夏四月、辛未が朔の日に、天皇が臺の上にいて遠くを望むと、烟の気が多く起こっていました。この日、皇后に語りました。「朕はすでに富んだ。どうして愁いがあろうか。」
皇后が答えて諮りました。「何を富んだと申されるのですか。」
天皇は言いました。「烟の気が国に満ちている。百姓がおのずから富んだのではないか。」
皇后はまた言いました。「宮の垣が壊れても脩めることができず、殿や屋が破れて衣や被が露れています。どうして富んだと申されるのですか。」
天皇は言いました。「およそ天が君を立てるのは、百姓のためである。そうであれば、君は百姓を本とする。そのため古の聖なる王は、一人でも飢え寒えれば、顧みて身を責めた。今、百姓が貧しければ、朕が貧しいのであり、百姓が富めば、朕が富むのである。百姓が富んでいて君が貧しいということは、まだあったことがない。」
11壬生部と葛城部
秋八月己巳朔丁丑。爲大兄去來穗別皇子定壬生部。亦爲皇后定葛城部。
秋八月、己巳が朔で丁丑の日に、大兄去来穂別皇子のために壬生部を定め、また皇后のために葛城部を定めました。
12諸国が請う
九月。諸國悉請之曰。課役並免。既經三年。因此以宮殿朽壞。府庫已空。今黔首富饒。而不拾遣。是以里無鰥寡。家有餘儲。若當此時非貢税調以脩理宮室者。懼之其獲罪于天乎。然猶忍之不聽矣。
九月に、諸国がことごとく請って言いました。「課役をあわせて免じていただいて、すでに三年が経ちました。それによって宮殿が朽ち壊れ、府庫はすでに空になりました。今、黔首は富み饒かになって、落ちた物を拾いません。そのため里に鰥や寡はなく、家に余った儲えがあります。もしこの時にあたって、税や調を貢いで宮室を脩め理さないなら、天に罪を獲ることを懼れます。」
しかしなお忍んで、聴き入れませんでした。
13宮室が成る
十年冬十月。甫科課役。以搆造宮室。於是百姓之不領。而扶老携幼。運材負簣。不問日夜。竭力競作。是以未經幾時。而宮室悉成。故於今稱聖帝也。
十年の冬十月に、はじめて課役を科して、宮室を構え造りました。そこで百姓は催されないのに、老いた者を扶け、幼い者を携え、材を運び簣を負って、日夜を問わず力を竭くして競って作りました。そのため幾ばくの時も経たないうちに、宮室はことごとく成りました。そのため今まで聖なる帝と称えられています。
14水の路を治めよ
十一年夏四月戊寅朔甲午。詔羣臣曰。今朕視是國者。郊澤曠遠。而田圃少乏。且河水横逝以流末不■。聊逢霖雨。海潮逆上而巷里乘船。道路亦泥。故群臣共視之。決横源而通海。塞逆流以全田宅。
十一年の夏四月、戊寅が朔で甲午の日に、群臣に詔しました。
「今、朕がこの国を視ると、郊や澤は曠く遠いのに、田や圃は少なく乏しい。また河の水が横に逝って、流れの末が疾くない。少し霖雨に逢うだけで、海の潮が逆さに上って、巷や里で船に乗り、道路もまた泥になる。そのため群臣はともに視て、横に流れる源を決いて海に通じさせ、逆らう流れを塞いで田や宅を全うせよ。」
15茨田の堤
冬十月。掘宮北之郊原。引南水以入西海。因以號其水曰堀江。又將防北河之。以築茨田堤。是時有兩處之築而乃壌之難塞。時天皇夢。有神誨之曰。武藏人強頚。河内人茨田連衫子。二人以祭於河伯。必獲塞。則覓二人而得之。因以祷于河神。爰強頚泣悲之。沒水而死。乃其堤成焉。唯衫子取全匏兩箇。臨于難塞水。乃取兩箇匏投於水中請之曰。河神崇之。以吾爲幣。是以令吾來也。必欲得我者。沈是匏而不令泛。則吾知眞神。親入水中。若不得沈匏者。自知僞神。何徒亡吾身。於是飄風忽起。引匏沒水。匏轉浪上而不沈。則瀚ゝ汎以遠流。是以衫子雖不死。而其堤且成也。是因衫子之幹。其身非亡耳。故時人號其兩處。曰強頚斷間。衫子斷間也。
冬十月に、宮の北の郊の原を掘って、南の水を引いて西の海に入れました。それによってその水を堀江と名づけました。
また北の河を防ごうとして、茨田の堤を築きました。このとき二つの処は築くとすぐに壊れて、塞ぎがたくありました。
そのとき天皇の夢に神がいて教えました。「武蔵の人、強頚と、河内の人、茨田連衫子の二人をもって河伯を祭れば、必ず塞ぐことができるだろう。」
そこで二人を覓めて得ました。それによって河の神に祈りました。
そこで強頚は泣き悲しんで、水に沈んで死にました。そしてその堤は成りました。
ただ衫子は、全い匏を二箇取って、塞ぎがたい水に臨みました。そして二箇の匏を水の中に投げて、こう請いました。
「河の神が崇って、私を幣とした。そのため私を来させたのだ。必ず私を得たいのなら、この匏を沈めて泛ばせないようにせよ。そうすれば私は真の神と知って、みずから水の中に入ろう。もし匏を沈められないなら、おのずから偽りの神と知るだけだ。どうしていたずらに我が身を亡ぼそうか。」
そこで飄風が突然起こって、匏を引いて水に沈めようとしました。しかし匏は浪の上を転がって沈みませんでした。そして瀚々と汎んで遠く流れていきました。そのため衫子は死なずに、その堤もまた成りました。
そのため当時の人はその二つの処を名づけて、強頚の断間、衫子の断間といいました。
夾注 1
衫子。此云□呂母能古。
衫子は、コロモノコと読みます。
16新羅の人が役に働く
是歳。新羅人朝貢。則勞於是役。
この年に、新羅の人が朝貢しました。そしてこの役に労しました。
17高麗が鉄の盾と的を貢ぐ
十二年秋七月辛未朔癸酉。高麗國貢鐵盾。鐵的。
十二年の秋七月、辛未が朔で癸酉の日に、高麗国が鉄の盾と鉄の的を貢ぎました。
18鉄の的を射通す
八月庚子朔己酉。饗高麗客於朝。是日集群臣及百寮。令射高麗所献之鐵盾的。諸人不得射通的。唯的臣祖盾人宿禰。射鐵的而通焉。時高麗客等見之。畏其射之勝巧。共起以拜朝。明日。美盾人宿禰。而賜名曰的戸田宿禰。同日。小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣也。
八月、庚子が朔で己酉の日に、高麗の客を朝で饗しました。この日、群臣と百寮を集めて、高麗が献じた鉄の盾と的を射させました。諸人は的を射通すことができませんでした。ただ的臣の祖、盾人宿禰が鉄の的を射て通しました。
そのとき高麗の客らはこれを見て、その射ることの勝れて巧みなのを畏れ、ともに起って朝に拝しました。
翌日、盾人宿禰を美めて、名を賜って的戸田宿禰といいました。同じ日に、小泊瀬造の祖、宿禰臣に名を賜って賢遺臣といいました。
夾注 1
賢遺。此云左河之能□里
賢遺は、サカシノコリと読みます。
19栗隈の溝
冬十月。掘大溝於山背栗隈縣以潤田。是以其百姓毎年豐之。
冬十月に、山背の栗隈県に大きな溝を掘って田を潤しました。そのためその百姓は毎年豊かになりました。
20茨田の屯倉
十三年秋九月。始立茨田屯倉。因定春米部。
十三年の秋九月に、はじめて茨田の屯倉を立てました。それによって春米部を定めました。
21和珥池
冬十月。造和珥池。
冬十月に、和珥池を造りました。
22横野の堤
是月。築横野堤。
この月に、横野の堤を築きました。
23小橋
十四年冬十一月。爲橋於猪甘津。即號其處曰小橋也。
十四年の冬十一月に、猪甘津に橋を造りました。そしてその所を小橋と名づけました。
24大きな道と大きな溝
是歳。作大道置於京中。自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豐浦。下豐浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。
この年に、大きな道を作って京の中に置きました。南門からまっすぐに指して丹比邑に至りました。
また感玖に大きな溝を掘って、石河の水を引いて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四つの処の郊の原を潤しました。これによって墾いて、四万余頃の田を得ました。そのためその所の百姓は寛やかに饒かで、凶年の患いがありませんでした。
25玖賀媛
十六年秋七月戊寅朔。天皇以宮人桑田玖賀媛。示近習舍人等曰。朕欲愛是婦女。苦皇后之妬不能合。以經多年。何徒妨其盛年乎。仍以歌問之曰。瀰儺曾虚赴。於瀰能烏苔■烏。多例揶始儺播務。於是播磨國造祖速待獨進之。歌曰。瀰箇始報。破利摩波揶摩智。以播區娜輸。伽之古倶等望。阿例揶始儺破務。即日。以玖賀媛賜速待。明日之夕。速待詣于玖賀媛之家。而玖賀媛不和。乃強近帷内。時玖賀媛曰。妾之寡婦以終年。何能爲君之妻乎。於是天皇聞之。欲遂速待之志。以玖賀媛副速待送遣於桑田。則玖賀媛發病死于道中。故於今有玖賀媛之墓也。
十六年の秋七月、戊寅が朔の日に、天皇は宮人の桑田玖賀媛を近く習える舍人らに示して言いました。「朕はこの婦女を愛したいと思うが、皇后の妬みが苦しくて合うことができず、多くの年が経った。どうしていたずらにその盛りの年を妨げようか。」
そして歌で問いました。
「みなそこふ おみのをとめを たれやしなはむ(瀰儺曾虚赴。於瀰能烏苔■烏。多例揶始儺播務)」
そこで播磨国造の祖、速待がひとり進み出て歌いました。
「みかしほ はりまはやまち いはくだす かしこくとも あれやしなはむ(瀰箇始報。破利摩波揶摩智。以播區娜輸。伽之古倶等望。阿例揶始儺破務)」
— 二つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。
その日に玖賀媛を速待に賜いました。翌日の夕に、速待は玖賀媛の家に詣りましたが、玖賀媛は和みませんでした。そこで強いて帷の内に近づきました。
そのとき玖賀媛は言いました。「妾は寡婦として年を終えようと思います。どうして君の妻になれましょうか。」
そこで天皇はこれを聞いて、速待の志を遂げさせようとして、玖賀媛を速待に副えて桑田に送り遣わしました。すると玖賀媛は病を発して道の中で死にました。そのため今も玖賀媛の墓があります。
26新羅が朝貢しない
十七年。新羅不朝貢。
十七年に、新羅が朝貢しませんでした。
27使いを遣わして問う
秋九月。遣的臣祖砥田宿禰。小泊瀬造祖祖賢遺臣。而問闕貢之事。於是新羅人懼之。乃貢獻調絹一千四百六十疋及種種雜物丼八十艘。
秋九月に、的臣の祖、砥田宿禰と、小泊瀬造の祖、賢遺臣を遣わして、貢を欠いた事を問いました。
そこで新羅の人は懼れて、調として絹一千四百六十疋と、さまざまな雑物をあわせて、八十艘の船に載せて貢献しました。
28八田皇女をめぐって歌を交わす
廿二年春正月。天皇語皇后曰。納八田皇女將爲妃。時皇后不聽。爰天皇歌以乞於皇后曰。于磨臂苔能。多菟屡虚等太■。于磋由豆流。多曳麼菟餓務珥。奈羅陪■毛餓望。皇后答歌曰。虚呂望虚曾。赴多弊茂豫耆。瑳用廼虚烏。那羅陪務耆瀰破。箇辭古耆呂箇茂。天皇又歌曰。於辭■屡。那珥破能瑳耆能。那羅弭破莽。那羅陪務苔虚層。曾能古破阿利鷄梅。皇后答歌曰。那菟務始能。譬務始能虚呂望。赴多弊耆■。箇區瀰夜利破。阿珥豫區望阿羅儒。天皇又歌曰。阿佐豆磨能。避箇能烏瑳箇烏。箇多那耆珥。瀰致喩區茂能茂。多遇譬■序豫枳。皇后遂謂不聽。故默之亦不答言。
二十二年の春正月に、天皇は皇后に語りました。「八田皇女を納れて妃としたい。」そのとき皇后は聴き入れませんでした。
そこで天皇は歌をもって皇后に乞いました。
「うまひとの たつることだて うさゆづる たえばつがむに ならべてもがも(于磨臂苔能。多菟屡虚等太■。于磋由豆流。多曳麼菟餓務珥。奈羅陪■毛餓望)」
皇后が答えて歌いました。
「ころもこそ ふたへもよき さよどこを ならべむきみは かしこきろかも(虚呂望虚曾。赴多弊茂豫耆。瑳用廼虚烏。那羅陪務耆瀰破。箇辭古耆呂箇茂)」
天皇がまた歌いました。
「おしてる なにはのさきの ならびはま ならべむとこそ そのこはありけめ(於辭■屡。那珥破能瑳耆能。那羅弭破莽。那羅陪務苔虚層。曾能古破阿利鷄梅)」
皇后が答えて歌いました。
「なつむしの ひむしのころも ふたへきて かくみやりは あによくもあらず(那菟務始能。譬務始能虚呂望。赴多弊耆■。箇區瀰夜利破。阿珥豫區望阿羅儒)」
天皇がまた歌いました。
「あさづまの ひかのをさかを かたなきに みちゆくものも たぐひてぞよき(阿佐豆磨能。避箇能烏瑳箇烏。箇多那耆珥。瀰致喩區茂能茂。多遇譬■序豫枳)」
— 五つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。
皇后はついに聴き入れないと言いました。そのため黙って、それ以上答えて言うこともありませんでした。
29皇后が山背に行く
卅年秋九月乙卯朔乙丑。皇后遊行紀國到熊野岬。即取其處之御綱葉而還。於是曰。天皇伺皇后不在。而娶八田皇女納於宮中。時皇后到難波濟。聞天皇合八田皇女而大恨之。則其所採御綱葉投於海而不着岸。故時人號散葉之海曰葉濟也。爰天皇不知皇后忿不着岸。親幸大津待皇后之船。而歌曰。那珥波譬苔。須儒赴泥苔羅齊。許辭那豆瀰。曾能赴尼苔羅齊。於朋瀰赴泥苔禮。時皇后不泊于大津。更引之泝江。自山背廻而向倭。明日。天皇遣舍人鳥山令還皇后。乃歌之曰。夜莽之呂珥。伊辭鷄苔利夜莽。伊辭鷄之鷄。阿餓茂赴菟摩珥。伊辭枳阿波牟伽茂。皇后不還猶行之。至山背河而歌曰。菟藝泥赴。揶莽之呂餓波烏。箇破能朋利。餓能朋例麼。箇波區莽珥。多知瑳箇踰屡。毛毛多羅儒。揶素麼能紀破。於朋耆瀰呂箇茂。即越那羅山望葛城歌之曰。菟藝泥赴。揶莽之呂餓波烏。濔揶能朋利。和餓能朋例麼。阿烏珥豫辭。儺羅烏輸疑。烏陀■。夜莽苔烏輸疑。和餓瀰餓朋辭區珥波。箇豆羅紀多伽瀰揶。和藝弊能阿多利。更還山背。興宮室於筒城岡南而居之。
三十年の秋九月、乙卯が朔で乙丑の日に、皇后は紀国に遊び行って熊野の岬に至りました。そしてその所の御綱葉を取って還りました。
そこで天皇は、皇后が不在であるのを伺って、八田皇女を娶って宮の中に納れました。
そのとき皇后は難波の済に至り、天皇が八田皇女と合ったと聞いて大いに恨みました。そして採ってきた御綱葉を海に投げて、岸に着けませんでした。そのため当時の人は葉が散った海を葉済と名づけました。
そこで天皇は、皇后が忿って岸に着けないことを知らず、みずから大津に行って皇后の船を待ち、こう歌いました。
「なにはひと すずふねとらせ こしなづみ そのふねとらせ おほみふねとれ(那珥波譬苔。須儒赴泥苔羅齊。許辭那豆瀰。曾能赴尼苔羅齊。於朋瀰赴泥苔禮)」
そのとき皇后は大津に泊まらず、改めて船を引いて江を泝り、山背から廻って倭に向かいました。
翌日、天皇は舍人の鳥山を遣わして皇后を還らせようとして、こう歌いました。
「やましろに いしけとりやま いしけいしけ あがもふつまに いしきあはむかも(夜莽之呂珥。伊辭鷄苔利夜莽。伊辭鷄之鷄。阿餓茂赴菟摩珥。伊辭枳阿波牟伽茂)」
皇后は還らず、なお行って山背河に至って歌いました。
「つぎねふ やましろがはを かはのぼり わがのぼれば かはくまに たちさかゆる ももたらず やそばのきは おほきみろかも(菟藝泥赴。揶莽之呂餓波烏。箇破能朋利。餓能朋例麼。箇波區莽珥。多知瑳箇踰屡。毛毛多羅儒。揶素麼能紀破。於朋耆瀰呂箇茂)」
そして那羅山を越えて葛城を望んで歌いました。
「つぎねふ やましろがはを みやのぼり わがのぼれば あをによし ならをすぎ をだて やまとをすぎ わがみがほしくには かづらきたかみや わぎへのあたり(菟藝泥赴。揶莽之呂餓波烏。濔揶能朋利。和餓能朋例麼。阿烏珥豫辭。儺羅烏輸疑。烏陀■。夜莽苔烏輸疑。和餓瀰餓朋辭區珥波。箇豆羅紀多伽瀰揶。和藝弊能阿多利)」
— 四つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。
改めて山背に還って、筒城岡の南に宮室を興して住みました。
夾注 1
葉。此云箇始婆。
葉は、箇始婆と読みます。
30口持臣が庭に伏す
冬十月甲申朔。遣的臣祖口持臣喚皇后。爰口持臣至筒城宮。雖謁皇后而默之不答。時口持臣沾雪雨。以經日夜。伏于皇后殿前而不避。於是口持臣之妹國依媛仕于皇后。適是時侍皇后之側。見其兄沾雨而流涕之。歌曰。揶莽辭呂能。菟菟紀能瀰揶珥。茂能莽烏輸。和餓齊烏瀰例麼。那瀰多遇摩辭茂。時皇后謂國依媛曰。何爾泣之。對言。今伏庭請謁者妾兄也。沾雨不避。猶伏將謁。是以泣悲耳。時皇后謂之曰。告汝兄令速還。吾遂不返焉。口持則返之復奏于天皇。
冬十月、甲申が朔の日に、的臣の祖、口持臣を遣わして皇后を喚びました。
そこで口持臣は筒城宮に至り、皇后に謁しましたが、皇后は黙って答えませんでした。そのとき口持臣は雪や雨に沾れながら日夜を経て、皇后の殿の前に伏して避けませんでした。
そこで口持臣の妹、国依媛が皇后に仕えていました。ちょうどこのとき皇后の側に侍っていて、その兄が雨に沾れるのを見て涕を流し、こう歌いました。
「やましろの つつきのみやに ものまをす わがせをみれば なみだぐましも(揶莽辭呂能。菟菟紀能瀰揶珥。茂能莽烏輸。和餓齊烏瀰例麼。那瀰多遇摩辭茂)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
そのとき皇后は国依媛に言いました。「どうしてお前は泣くのか。」
答えました。「今、庭に伏して謁することを請うているのは、妾の兄です。雨に沾れても避けず、なお伏して謁しようとしています。そのため泣き悲しんでいるだけです。」
そのとき皇后は言いました。「お前の兄に告げて、早く還らせなさい。私はついに返らない。」
口持はそこで返って、天皇に復命しました。
夾注 1
一云。和珥臣祖口子臣。
一説には、和珥臣の祖、口子臣だといいます。
31天皇がみずから行く
十一月甲寅朔庚申。天皇浮江幸山背。時桑枝水而流之。天皇視桑枝歌之曰。菟怒瑳破赴以破能臂謎餓。飫朋呂伽珥枳許瑳。怒。于羅愚破能紀。豫屡麻志枳。箇破能區莽愚莽。豫呂朋譬喩玖伽茂。于羅愚破能紀。明日、乘輿詣于筒城宮喚皇后。皇后不肯參見。時天皇歌曰。菟藝泥赴。揶摩之呂謎能。許久波茂知。于智辭於朋泥。佐和佐和珥。儺餓伊弊劑虚曾。于知和多須。椰餓波曳儺須。企以利摩韋區例。亦歌曰。菟藝泥赴。夜莽之呂謎能。許玖波茂知。于智辭於朋泥。泥士漏辭漏多娜武枳。摩箇儒鷄麼虚曾。辭羅儒等茂伊波梅。時皇后令奏言。陛下納八田皇女爲妃。其不欲副皇女而爲后。遂不奉見。乃車駕還宮。天皇於是恨皇后大忿。而猶有戀思。
十一月、甲寅が朔で庚申の日に、天皇は江に浮かんで山背に行きました。そのとき桑の枝が水に浮かんで流れてきました。天皇は桑の枝を視て歌いました。
「つぬさはふ いはのひめが おほろかに きこさぬ うらぐはのき よるましき かはのくまぐま よろぼひゆくかも うらぐはのき(菟怒瑳破赴以破能臂謎餓。飫朋呂伽珥枳許瑳。怒。于羅愚破能紀。豫屡麻志枳。箇波能區莽愚莽。豫呂朋譬喩玖伽茂。于羅愚破能紀)」
翌日、乗輿が筒城宮に詣って皇后を喚びました。皇后は参り見ようとしませんでした。
そのとき天皇が歌いました。
「つぎねふ やましろめの こくはもち うちしおほね さわさわに ながいへせこそ うちわたす やがはえなす きいりまゐくれ(菟藝泥赴。揶摩之呂謎能。許久波茂知。于智辭於朋泥。佐和佐和珥。儺餓伊弊劑虚曾。于知和多須。椰餓波曳儺須。企以利摩韋區例)」
また歌いました。
「つぎねふ やましろめの こくはもち うちしおほね ねじろしろただむき まかずけばこそ しらずともいはめ(菟藝泥赴。夜莽之呂謎能。許玖波茂知。于智辭於朋泥。泥士漏辭漏多娜武枳。摩箇儒鷄麼虚曾。辭羅儒等茂伊波梅)」
— 三つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。
そのとき皇后は奏させました。「陛下は八田皇女を納れて妃とされました。その皇女と並んで后となることを望みません。」ついに見えませんでした。
そこで車駕は宮に還りました。天皇はこれによって皇后を恨んで大いに忿りましたが、それでも恋い慕う思いがありました。
32皇太子を立てる
卅一年春正月癸丑朔丁卯。立大兄去來穂別尊爲皇太子。
三十一年の春正月、癸丑が朔で丁卯の日に、大兄去来穂別尊を立てて皇太子としました。
33皇后が亡くなる
卅五年夏六月。皇后磐之媛命薨於筒城宮。
三十五年の夏六月に、皇后の磐之媛命が筒城宮で薨じました。
34那羅山に葬る
卅七年冬十一月甲戍朔乙酉。葬皇后於那羅山。
三十七年の冬十一月、甲戌が朔で乙酉の日に、皇后を那羅山に葬りました。
35八田皇女を皇后とする
卅八年春正月癸酉朔戊寅。立八田皇女爲皇后。
三十八年の春正月、癸酉が朔で戊寅の日に、八田皇女を立てて皇后としました。
36鹿の鳴く声
秋七月。天皇與皇后居高臺而避暑。時毎夜自菟餓野有聞鹿鳴。其聲寥亮而悲之。共起可憐之情。及月盡以鹿鳴不聆。爰天皇語皇后曰。當是夕而鹿不鳴。其何由焉。明日猪名。縣佐伯部獻苞苴。天皇令膳夫以問曰。其苞苴何物也。對言。牡鹿也。問之。何處鹿也。曰。菟餓野。時天皇以爲。是苞苴者必其鳴鹿也。因語皇后曰。朕比有懷抱。聞鹿聲而慰之。今推佐伯部獲鹿之日夜及山野。即當鳴鹿。其人雖不知朕之愛以適逢■獲。猶不得已而有恨。故佐伯部不欲近於皇居。乃令有司移郷于安藝渟田。此今渟田佐伯部之祖也。俗曰。昔有一人。往菟餓宿于野中。時二鹿臥傍。將及鷄鳴。牝鹿謂牝鹿曰。吾今夜夢之。白霜多降之覆吾身。是何祥焉。牝鹿答曰。汝之出行。必爲人見射而死。即以白鹽塗其身。如霜素之應也。時宿人心裏異之。未及昧爽。有獵人以射牡鹿而殺。是以時人諺曰。鳴牡鹿矣。隨相夢也。
秋七月に、天皇と皇后は高い臺にいて暑さを避けました。そのとき夜ごとに菟餓野から鹿の鳴く声が聞こえました。その声は寥く亮かで悲しく、ともに憐れむ思いが起こりました。
月が尽きるころになると、鹿の鳴く声が聆こえなくなりました。そこで天皇は皇后に語りました。「この夕べは鹿が鳴かない。それは何によるのだろうか。」
翌日、猪名の県の佐伯部が苞苴を献じました。天皇は膳夫に問わせました。「その苞苴は何の物か。」
答えました。「牡鹿です。」
問いました。「どこの鹿か。」
言いました。「菟餓野です。」
そのとき天皇は思いました。「この苞苴は、必ずあの鳴いていた鹿だ。」
それによって皇后に語りました。「朕はこのごろ懐い抱くところがあって、鹿の声を聞いて慰められていた。今、佐伯部が鹿を獲た日と夜、それに山や野を推してみると、まさにあの鳴いていた鹿にあたる。その人は朕が愛でていたことを知らず、たまたま逢って獲たのだとはいえ、それでもやむをえず恨みがある。そのため佐伯部を皇居の近くに置きたくない。」
そこで有司に命じて、郷を安藝の渟田に移させました。これが今の渟田の佐伯部の祖です。
世に言うには、昔ひとりの人が菟餓に往って野の中に宿りました。そのとき二頭の鹿が傍らに臥していました。鷄が鳴くころになって、牝鹿が牡鹿に言いました。「私は今夜、夢を見ました。白い霜が多く降って私の身を覆いました。これは何の祥でしょうか。」
牡鹿が答えました。「お前が出て行けば、必ず人に射られて死ぬだろう。白い塩をその身に塗るのが、霜のように素いのに応じたのだ。」
そのとき宿っていた人は心の裏で異しみました。まだ昧爽にならないうちに、猟人が牡鹿を射て殺しました。そのため当時の人は諺に言いました。「鳴く牡鹿よ、夢に相ったとおりだ。」
37雌鳥皇女と隼別皇子
四十年春二月。納雌鳥皇女欲爲妃。以隼別皇子爲媒。時隼別皇子密親娶。而久之不復命。於是天皇不知有夫。而親臨雌鳥皇女之殿。時爲皇女織■女人等歌之曰。比佐箇多能。阿梅箇儺麼多。謎迺利餓。於瑠箇儺麼多。波揶歩佐和氣能。瀰於須譬鵝泥。爰天皇知隼別皇子密婚而恨之。然重皇后之言。亦敦友于之義。而忍之勿罪。俄而隼別皇子枕皇女之膝以臥。乃語之曰。孰捷鷦鷯與隼焉。曰。隼捷也。乃皇子曰。是我所先也。天皇聞是言。更亦起恨。時隼別皇子之舍人等歌曰。破夜歩佐波。阿梅珥能朋利。等弭箇慨梨。伊菟岐餓宇倍能。娑弉岐等羅佐泥。天皇聞是歌。而勃然大怒之曰。朕以私恨不欲失親忍之也。何矣私事將及于社稷。則欲殺隼別皇子。時皇子率雌鳥皇女。欲納伊勢神宮而馳。於是天皇聞隼別皇子逃走。即遣吉備品遲部雄■。播磨佐伯直阿俄能胡曰。追之所逮即殺。
四十年の春二月に、雌鳥皇女を納れて妃としようとして、隼別皇子を媒としました。そのとき隼別皇子はひそかにみずから娶って、久しく復命しませんでした。
そこで天皇は夫がいることを知らず、みずから雌鳥皇女の殿に臨みました。そのとき皇女のために機を織っていた女人らが、こう歌いました。
「ひさかたの あめかなはた めどりが おるかなはた はやぶさわけの みおすひがね(比佐箇多能。阿梅箇儺麼多。謎迺利餓。於瑠箇儺麼多。波揶歩佐和氣能。瀰於須譬鵝泥)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
そこで天皇は、隼別皇子がひそかに婚したことを知って恨みました。しかし皇后の言葉を重んじ、また友于の義を敦くして、忍んで罪としませんでした。
やがて隼別皇子は皇女の膝を枕にして臥し、こう語りました。「鷦鷯と隼では、どちらが捷いか。」
言いました。「隼が捷いです。」
そこで皇子は言いました。「これは私が先んじるということだ。」
天皇はこの言葉を聞いて、改めてまた恨みを起こしました。そのとき隼別皇子の舍人らが歌いました。
「はやぶさは あめにのぼり とびかけり いつきがうへの さざきとらさね(破夜歩佐波。阿梅珥能朋利。等弭箇慨梨。伊菟岐餓宇倍能。娑弉岐等羅佐泥)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
天皇はこの歌を聞いて、勃然として大いに怒って言いました。「朕は私の恨みで親しみを失いたくないので忍んでいた。どうして私の事が社稷に及ぶのか。」
そして隼別皇子を殺そうとしました。そのとき皇子は雌鳥皇女を率いて、伊勢神宮に納れようとして馳せました。
そこで天皇は、隼別皇子が逃げ走ったと聞いて、吉備の品遲部のオハリと、播磨の佐伯直阿俄能胡を遣わして言いました。「追って逮ぶところで、すぐに殺せ。」
38素珥山で殺す
爰皇后奏言。雌鳥皇女寔當重罪。然其殺之日。不欲露皇女身。乃因勅雄等。莫取皇女所之足玉手玉。雄等追之至菟田。迫於素珥山。時隱草中僅得兔。急走而越山。於是皇子歌曰。破始多■能。佐餓始枳揶摩茂。和藝毛古等。赴駄利古喩例麼。揶須武志呂箇茂。爰雄等知兔。以急追及于伊勢蒋代野而殺之。時雄等探皇女之玉自裳中得之。乃以二王屍埋于廬杵河邊而復命。皇后令問雄等曰。見皇女之玉乎。對言。不見也。
そこで皇后が奏して言いました。「雌鳥皇女は、まことに重い罪にあたります。しかしそれを殺す日に、皇女の身を露わにしたくありません。」
そこでオハリらに勅しました。「皇女が着けている足玉と手玉を取るな。」
オハリらは追って菟田に至り、素珥山で迫りました。そのとき二人は草の中に隠れて、やっと免れ、急いで走って山を越えました。
そこで皇子が歌いました。
「はしたての さがしきやまも わぎもこと ふたりこゆれば やすむしろかも(破始多■能。佐餓始枳揶摩茂。和藝毛古等。赴駄利古喩例麼。揶須武志呂箇茂)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
そこでオハリらは免れたことを知って、急いで追い、伊勢の蒋代野で及んで殺しました。そのときオハリらは皇女の玉を探して、裳の中から得ました。そして二人の王の屍を廬杵の河辺に埋めて、復命しました。
皇后はオハリらに問わせました。「皇女の玉を見たか。」
答えました。「見ませんでした。」
39玉で露れる
是歳。當新甞之月以宴會日賜酒於内外命婦等。於是近江山君稚守山妻與釆女磐坂媛。二女之手有纏良珠。皇后見其珠。既似雌鳥皇女之珠。則疑之命有司。推問其玉所得之由。對言。佐伯直阿俄能胡妻之玉也。仍推鞫阿俄能胡。對曰。誅皇女之日探而取之。即將殺阿俄能胡。於是阿俄能胡乃獻己之私地請兔死。故納其地赦死罪。是以號其地曰玉代。
この年、新甞の月にあたって、宴会の日に内と外の命婦らに酒を賜いました。そこで近江の山君、稚守山の妻と、釆女の磐坂媛、二人の女の手に良い珠が纏かれていました。
皇后がその珠を見ると、すでに雌鳥皇女の珠に似ていました。そこで疑って有司に命じ、その玉を得た由を推し問わせました。
答えました。「佐伯直阿俄能胡の妻の玉です。」
そこで阿俄能胡を推し鞫すと、答えました。「皇女を誅した日に探して取りました。」
そして阿俄能胡を殺そうとしました。そこで阿俄能胡は自分の私の地を献じて、死を免れることを請いました。そのためその地を納れて、死罪を赦しました。そのためその地を玉代と名づけました。
40酒君
四十一年春三月。遣紀角宿禰於百濟。始分國郡場。具録郷土所出。是時百濟王之族酒君无禮。由是紀角宿禰訶責百濟王。時百濟王懼之。以鐵鎖縛酒君。附襲津彦而進上。爰酒君來之。則迅匿于石川錦織首許呂斯之家。則欺之曰。天皇既赦臣罪。故寄汝而活焉。久之天皇遂赦其罪。
四十一年の春三月に、紀角宿禰を百済に遣わして、はじめて国と郡の場を分け、郷土から出る物を具えて録しました。
このとき百済の王の族、酒君が無礼でした。これによって紀角宿禰は百済の王を訶め責めました。そのとき百済の王は懼れて、鉄の鎖で酒君を縛り、襲津彦に附けて進め上げました。
そこで酒君が来て、すぐに石川の錦織首、許呂斯の家に匿れました。そして欺いて言いました。「天皇はすでに臣の罪を赦された。そのためお前に寄って生きている。」
久しくして、天皇はついにその罪を赦しました。
41鷹狩り
四十三年秋九月庚子朔。依網屯倉阿弭古捕異鳥。獻於天皇曰。臣毎張網捕鳥。未曾得是鳥之類。故奇而獻之。天皇召酒君示鳥曰。是何鳥矣。酒君對言。此鳥之類多在百濟。得馴而能從人。亦捷飛之掠諸鳥。百濟俗號此鳥曰倶知。乃授酒君令養馴。未幾時而得馴。酒君則以韋緡著其足。以小鈴著其尾。居腕上獻于天皇。是日幸百舌鳥野而遊獵。時雌雉多起。乃放鷹令捕。忽獲數十雉。◎是月。甫定鷹甘部。故時人號其養鷹之處。曰鷹甘邑也。
四十三年の秋九月、庚子が朔の日に、依網の屯倉の阿弭古が異しい鳥を捕らえて、天皇に献じて言いました。「臣はいつも網を張って鳥を捕らえてきましたが、まだこのような鳥の類を得たことがありません。そのため奇しんで献じます。」
天皇は酒君を召して鳥を示して言いました。「これは何の鳥か。」
酒君が答えて言いました。「この鳥の類は百済に多くいます。馴らせばよく人に従い、また捷く飛んで諸々の鳥を掠めます。百済の俗ではこの鳥を倶知といいます。」
そこで酒君に授けて養い馴らさせました。幾ばくの時も経たないうちに馴らすことができました。酒君は韋の緡をその足に著け、小さな鈴をその尾に著けて、腕の上に居らせて天皇に献じました。
この日、百舌鳥野に行って遊び狩りをしました。そのとき雌の雉が多く起ちました。そこで鷹を放って捕らせると、たちまち数十の雉を獲ました。
この月に、はじめて鷹甘部を定めました。そのため当時の人は、その鷹を養う所を鷹甘邑と名づけました。
夾注 1
是今時鷹也。
これが今の鷹です。
42鴈が子を産む
五十年春三月壬辰朔丙申。河内人奏言。於茨田堤鴈産之。即日遣使令視。曰。既實也。天皇於是歌以問武内宿禰曰。多莽耆破屡。宇知能阿曾。儺虚曾破。豫能等保臂等。儺虚曾波。區珥能那餓臂等。阿耆豆辭莽。揶莽等能區珥珥。箇利古武等。儺波企箇輸揶。武内宿禰答歌曰。夜輸瀰始之。和我於朋枳瀰波。于陪儺于陪儺。和例烏斗波輸儺。阿企菟辭摩。揶莽等能倶珥珥。箇利古武等。和例破■枳箇儒。
五十年の春三月、壬辰が朔で丙申の日に、河内の人が奏して言いました。「茨田の堤で鴈が子を産みました。」
その日に使いを遣わして視させると、こう言いました。「すでに本当です。」
天皇はそこで歌をもって武内宿禰に問いました。
「たまきはる うちのあそ なこそは よのとほひと なこそは くにのながひと あきづしま やまとのくにに かりこむと なはきかすや(多莽耆破屡。宇知能阿曾。儺虚曾破。豫能等保臂等。儺虚曾波。區珥能那餓臂等。阿耆豆辭莽。揶莽等能區珥珥。箇利古武等。儺波企箇輸揶)」
武内宿禰が答えて歌いました。
「やすみしし わがおほきみは うべなうべな われをとはすな あきづしま やまとのくにに かりこむと われはきかず(夜輸瀰始之。和我於朋枳瀰波。于陪儺于陪儺。和例烏斗波輸儺。阿企菟辭摩。揶莽等能倶珥珥。箇利古武等。和例破■枳箇儒)」
— 二つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。
43新羅が朝貢しない
五十三年。新羅不朝貢。
五十三年に、新羅が朝貢しませんでした。
44田道が新羅を撃つ
夏五月。遣上毛野君祖竹葉瀬。令問其闕貢。是道路之間獲白鹿。乃還之献于天皇。更改日而行。俄且重遣竹葉瀬之弟田道。則詔之日。若新羅距者擧兵撃之。仍授精兵。新羅起兵而距之。爰新羅人日日挑戰。田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外。則掠俘之。因問消息。對曰。有強力者。曰百衝。輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒。故伺之撃左則敗也。時新羅空左備右。於是。田道連精騎撃其左。新羅軍潰之。因縱兵乘之。殺數百人。即虜四邑之人民以歸焉。
夏五月に、上毛野君の祖、竹葉瀬を遣わして、その貢を欠いたことを問わせました。この道の途中で白い鹿を獲ました。そこで還って天皇に献じました。改めて日を替えて行きました。
やがてまた重ねて竹葉瀬の弟、田道を遣わして、こう詔しました。「もし新羅が距むなら、兵を挙げて撃て。」そして精兵を授けました。
新羅は兵を起こして距みました。そこで新羅の人は日ごとに戦いを挑みました。田道は固く塞いで出ませんでした。
そのとき新羅の軍卒の一人が営の外に出た者があって、すぐに掠め俘にしました。そして消息を問いました。
答えました。「強い力の者がいて、百衝といいます。軽く捷く猛く幹く、いつも軍の右の前鋒となります。そのため、それを伺って左を撃てば敗れます。」
そのとき新羅は左を空けて右を備えていました。そこで田道は精しい騎を連ねてその左を撃ちました。新羅の軍は潰えました。それによって兵を縦って乗じ、数百人を殺し、四つの邑の人民を虜にして帰りました。
45田道が蝦夷に殺される
五十五年。蝦夷叛之。遣田道令撃。則爲蝦夷所敗。以死于伊寺水門。時有從者。取得田道之手纒與其妻。乃抱手纒而縊死。時人聞之流涕矣。是後蝦夷亦襲之略人民。因以掘田道墓。則有大蛇發瞋目自墓出以咋。蝦夷悉被蛇毒而多死亡。唯一二人得兔耳。故時人云。田道雖既亡遂報讎。何死人之無知耶。
五十五年に、蝦夷が叛きました。田道を遣わして撃たせましたが、蝦夷に敗られて、伊寺の水門で死にました。
そのとき従う者がいて、田道の手纒を取り得て、その妻に与えました。妻は手纒を抱いて縊れて死にました。当時の人はそれを聞いて涕を流しました。
この後、蝦夷はまた襲って人民を略しました。それによって田道の墓を掘りました。すると大きな蛇がいて、瞋った目を発いて墓から出て咋みました。蝦夷はことごとく蛇の毒を被って多く死にました。ただ一、二人だけが免れたのです。
そのため当時の人は言いました。「田道はすでに亡んだとはいえ、ついに讎を報いた。どうして死んだ人に知るところがないといえようか。」
46二本の木が合わさる
五十八年夏五月。當荒陵松林之南道忽生兩歴木。挾路而末合。
五十八年の夏五月に、荒陵の松林の南の道に、突然二本の歴木が生えて、路を挟んで末が合わさりました。
47呉と高麗が朝貢する
冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
冬十月に、呉国と高麗国がそろって朝貢しました。
48白鳥の陵守
六十年冬十月。差白鳥陵守等死役丁。時天皇臨于役所。爰陵守目杵忽化白鹿以走。於是。天皇詔之曰。是陵自本空。故欲除其陵守。而甫差役丁。今視是恠者甚懼之。無動陵守者。則且授土師連等。
六十年の冬十月に、白鳥の陵守らを役の丁として差しました。そのとき天皇が役の所に臨みました。
そこで陵守の目杵が突然白い鹿に化けて走りました。そこで天皇は詔して言いました。「この陵はもとより空である。そのためその陵守を除こうとして、はじめて役の丁に差した。今、この恠しさを視ると、とても懼ろしい。陵守を動かすな。」そしてまた土師連らに授けました。
49大きな木で船を造る
六十二年夏五月。遠江國司表上言。有大樹。自大井河流之停于河曲。其大十圍。本一以末兩。時遣倭直吾子篭令造船。而自南海運之。將來于難波津。以死御船也。
六十二年の夏五月に、遠江の国司が表を上って言いました。「大きな樹があって、大井河から流れてきて河の曲がりに停まりました。その大きさは十囲で、本は一つなのに末が二つです。」
そのとき倭直吾子篭を遣わして船を造らせました。南の海から運んで難波津に持って来て、御船としました。
50氷室
是歳。額田大中彦皇子獵于闘鷄。時皇子自山上望之。瞻野中有物。其形如廬。仍遣使者令視。還來之曰。窟也。因喚闘鷄稻置大山主。問之曰。有其野中者何矣。啓之曰。氷室也。皇子曰。其藏如何。亦奚用焉。曰。掘土丈餘。以草蓋其上。敦敷茅荻。取氷以置其上。既經夏月而不■。其用之。即當熱月漬水酒以用也。皇子則將來其氷。獻于御所。天皇歡之。自是以後。毎當季冬必藏氷。至于春分始散氷也。
この年に、額田大中彦皇子が闘鷄で狩りをしました。そのとき皇子が山の上から望むと、野の中に物があって、その形は廬のようでした。そこで使者を遣わして視させました。
還って来て言いました。「窟です。」
それによって闘鷄の稻置、大山主を喚んで問いました。「あの野の中にあるものは何か。」
啓して言いました。「氷室です。」
皇子は言いました。「その蔵いかたはどうなのか。また何に用いるのか。」
言いました。「土を一丈余り掘り、草でその上を蓋い、茅や荻を敦く敷いて、氷を取ってその上に置きます。夏の月が経っても消えません。その用いかたは、熱い月にあたって水や酒に漬けて用いるのです。」
皇子はその氷を持って来て、御所に献じました。天皇は歓びました。これより後、季冬になるたびに必ず氷を蔵い、春分に至ってはじめて氷を散つようになりました。
51宿儺
六十五年。飛騨國有一人。曰宿儺。其爲人壹體有兩面。面各相背。頂合無項。各有手足。其有膝而無膕踵。力多以輕捷。左右佩劔。四手並用弓矢。是以不隨皇命。掠略人民爲樂。於是。遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。
六十五年に、飛騨国に一人の人がいて、宿儺といいました。その人柄は、一つの体に二つの面があり、面はそれぞれ相背き、頂が合わさって項がなく、それぞれに手足がありました。膝はあっても膕や踵がありませんでした。力が多く、軽く捷くありました。左右に剣を佩き、四つの手で弓矢をあわせ用いました。
そのため皇命に従わず、人民を掠め略すことを楽しみとしました。そこで和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わして誅しました。
52陵の地を定める
六十七年冬十月庚辰朔甲申。幸河内石津原。以定陵地。
六十七年の冬十月、庚辰が朔で甲申の日に、河内の石津原に行って、陵の地を定めました。
53百舌鳥耳原
丁酉始築陵。是日。有鹿忽起野中。走之入民之中而仆死。時異其忽死。以探其痍。即百舌鳥自耳出之飛去。因視耳中悉咋割剥。故號其處。曰百舌鳥耳原者。其是之縁也。
丁酉の日に、はじめて陵を築きました。この日、鹿がいて、突然野の中から起って、人の中に走り入って仆れて死にました。そのときその突然の死を異しんで、その痍を探しました。すると百舌鳥が耳から出て飛び去りました。そして耳の中を視ると、ことごとく咋み割かれ剥がされていました。そのためその所を名づけて百舌鳥耳原というのは、これがその由縁です。
54県守の淵
是歳。於吉備中國川嶋河派有大■令苦人。時路人觸其處而行。必被其毒以多死亡。於是。笠臣祖縣守爲人勇捍而強力。臨派淵以三全瓠投水曰。汝屡吐毒令苦路人。余殺汝■。汝沈是瓠則余避之。不能沈者仍斬汝身。時水■化鹿以引入瓠。瓠不沈。即擧劔入水斬■。更求■之黨類。乃諸■族満淵底之岫穴。悉斬之。河水變血。故號其水曰縣守淵也。當此時妖氣■稍動。叛者一二始起。於是天皇夙興夜寐。輕賦薄斂以寛民萠。布徳施惠。以振困窮。弔死問疾以養孤孀。是以政令流行。天下太平。廿餘年無事矣。
この年に、吉備の中国の川嶋河の派に大きな虬がいて、人を苦しめました。そのとき路を行く人がその所に触れて行くと、必ずその毒を被って多く死にました。
そこで笠臣の祖、県守は人柄が勇く捍く、力が強くありました。派の淵に臨んで、全い瓠を三つ水に投げて言いました。「お前はたびたび毒を吐いて路の人を苦しめている。私はお前、虬を殺す。お前がこの瓠を沈めるなら、私は避けよう。沈められないなら、お前の身を斬る。」
そのとき水の虬は鹿に化けて瓠を引き入れました。瓠は沈みませんでした。そこで剣を挙げて水に入り、虬を斬りました。さらに虬の黨類を求めると、諸々の虬の族が淵の底の岫穴に満ちていました。ことごとく斬ると、河の水は血に変わりました。そのためその水を県守の淵と名づけました。
このときにあたって、妖しい気が次第に動いて、叛く者が一、二人、起こり始めました。そこで天皇は夙く興き夜に寐て、賦を軽くし斂めを薄くして民の萠を寛やかにしました。徳を布き恵みを施して、困り窮まった者を振るい起こし、死んだ者を弔い病んだ者を問って、孤や孀を養いました。そのため政と令は流れ行って、天下は太平となり、二十余年のあいだ事がありませんでした。
55天皇が亡くなる
八十七年春正月戊子朔癸卯。天皇崩。
八十七年の春正月、戊子が朔で癸卯の日に、天皇が亡くなりました。
56百舌鳥野の陵に葬る
冬十月癸未朔己丑。葬于百舌鳥野陵。
冬十月、癸未が朔で己丑の日に、百舌鳥野の陵に葬りました。