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履中天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 23 · 漢字 2,041字 · 朗読 8.2分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1弟が兄の名を偽る

去來穗別天皇。大鷦鷯天皇太子也。母曰磐之媛命。葛城襲津彦女也。大鷦鷯天皇卅一年春正月。立爲皇太子。八十七年春正月。大鷦鷯天皇崩。太子自諒闇出之。未即尊位之間。以羽田矢代宿禰之女黒媛欲爲妃。納采既訖。遣住吉仲皇子而告吉日。時仲皇子冒太子名以黒媛。是夜。仲皇子忘手鈴於黒媛之家而歸焉。明日之夜。太子不知仲皇子自而到之。乃入室開帳居於玉床。時床頭有鈴音。太子異之。問黒媛曰。何鈴也。對曰。昨夜之非太子所鈴乎。何更問妾。太子自知仲皇子冒名以黒媛。則默之避也。爰仲皇子畏有事將殺太子。密興兵圍太子宮。時平群木莵宿禰。物部大前宿禰。漢直祖阿知使主三人啓於太子。太子不信。故三人扶太子令乘馬而逃之。仲皇子不知太子不在。而焚太子宮。

去來穗別天皇(いざほわけのてんのう)は、大鷦鷯天皇(おおさざきのてんのう)の太子です。母は磐之媛命(いわのひめのみこと)といい、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の娘です。

大鷦鷯天皇の三十一年春正月、皇太子に立てられました。八十七年春正月、大鷦鷯天皇が崩じました。

太子が喪の廬を出て、まだ尊い位に即かないあいだに、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘、黒媛(くろひめ)を妃にしようとしました。結納の品を納めることがすでに終わり、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣わして吉日を告げさせました。

そのとき仲皇子は太子の名を偽って黒媛と交わりました。この夜、仲皇子は手鈴を黒媛の家に忘れて帰りました。

翌日の夜、太子は仲皇子が来ていたことを知らずに訪れました。そこで室に入り、帳を開いて床に座りました。そのとき床の枕もとで鈴の音がしました。太子は不思議に思い、黒媛に尋ねました。「何の鈴か」

答えました。「昨夜、太子がお召しになっていた鈴ではありませんか。どうしてまた私にお尋ねになるのですか」

太子は、仲皇子が名を偽って黒媛と交わったことを自ら知りました。そこで黙って退きました。

そこで仲皇子は事が表に出ることを恐れ、太子を殺そうとしました。密かに兵を興して太子の宮を囲みました。

そのとき平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)、漢直(あやのあたい)の祖である阿知使主(あちのおみ)の三人が太子に申し上げました。太子は信じませんでした。そこで三人は太子を助け起こし、馬に乗せて逃がしました。

仲皇子は太子がいないことを知らず、太子の宮を焼きました。

夾注 4

去來。此云伊弉。

去來は、伊弉(いざ)と読みます。

時年十五。

そのとき年は十五歳でした。

一云。太子醉以不起。

一説には、太子が酔って起きられなかったといいます。

一云。大前宿禰抱太子而乘馬。

一説には、大前宿禰が太子を抱いて馬に乗ったといいます。

2少女の言葉で難を免れる

通夜火不滅。太子到河内國埴生坂而醒之。顧望難波。見火光。而大驚。則急馳之。自大坂向倭。至干飛鳥山。遇少女於山口。問之曰。此山有人乎。對曰。執兵者多滿山中宜廻自當摩姪踰之。太子於是以爲。聆少女言而得免難。則歌之曰。於朋佐箇珥。阿布夜烏等謎烏。瀰知度沛麼。■駄珥破能邏孺。■■摩知烏能流。則更還之。發當縣兵令從身。自龍田山踰之。時有數十人執兵追來者。太子遠望之曰。其彼來者誰人也。何歩行急之。若賊人乎。因隱山中而待之。近則遣一人問曰。曷人。且何處往矣。對曰。淡路野嶋之海人也。阿曇連濱子爲仲皇子令追太子。於是。出伏兵圍之。悉得捕。當是時。倭直吾子篭素好仲皇子。預知其謀。密聚精兵數百於撹食栗林。爲仲皇子將拒太子。時太子不知兵塞而出山行數里。兵衆多塞。不得進行。乃遣使者問曰。誰人也。對曰。倭直吾子篭也。

夜を通して火は消えませんでした。太子は河内国の埴生坂(はにゅうのさか)に至って酔いが醒めました。難波を顧みると火の光が見えました。大いに驚いて、すぐに急ぎ走りました。大坂から倭に向かいました。

飛鳥山に至り、山の入口で少女に出会って尋ねました。「この山に人はいるか」

答えました。「兵を執る者が山の中に満ちています。當摩(たぎま)の道を回って越えるのがよろしいでしょう」

太子はそこで、少女の言葉を聞いて難を免れたと思い、そこで歌いました。

「於朋佐箇珥 阿布夜烏等謎烏 瀰知度沛麼 ■駄珥破能邏孺 ■■摩知烏能流(おほさかに あふやをとめを みちとへば ただにはのらず たぎまちをのる)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

そこで引き返し、その県の兵を出して身に従わせ、龍田山(たつたやま)から越えました。

そのとき数十人が兵を執って追って来る者がありました。太子は遠くから望んで言いました。「あちらから来る者は誰か。どうして歩みが急なのか。もしや賊人か」

そこで山の中に隠れて待ちました。近づくと一人を遣わして尋ねました。「どのような人か。また、どこへ行くのか」

答えました。「淡路の野嶋(のしま)の海人です。阿曇連濱子(あずみのむらじはまこ)が仲皇子のために太子を追わせたのです」

そこで伏せていた兵を出して囲み、ことごとく捕らえました。

このとき、倭直吾子篭(やまとのあたいあごこ)はもとより仲皇子と親しく、あらかじめその謀を知って、密かに精兵数百を撹食(かしはで)の栗林に集め、仲皇子のために太子を拒もうとしていました。

そのとき太子は兵が塞いでいることを知らず、山を出て数里行きました。兵衆が多く塞いでいて、進むことができませんでした。そこで使者を遣わして尋ねました。「誰か」

答えました。「倭直吾子篭です」

夾注 1

一云。阿曇連黒友。

一説には、阿曇連黒友(あずみのむらじくろとも)といいます。

3吾子篭が妹を献じる

便還問使者曰。誰使焉。曰。皇太子之使。時吾子篭憚其軍衆多在。乃謂使者曰。傳聞。皇太子有非常之事。將助以備兵待之。然太子疑其心欲殺。則吾子篭愕之獻己妹日之媛。仍請赦死罪。乃免之。其倭直等貢釆女。蓋始干此時歟。太子便居於石上振神宮。於是瑞齒別皇子知太子不在。尋之追詣。然太子疑弟王之心而不喚。時瑞齒別皇子令謁曰。僕無黒心。唯愁太子不在而參赴耳。爰太子傳告弟王曰。我畏仲皇子之逆。獨避至於此。何且非疑汝耶。其仲皇子在之。獨猶爲我病。遂欲除。故汝寔勿黒心。更返難波而殺仲皇子然後乃見焉。瑞齒別皇子啓太子曰。大人何憂之甚也。今仲皇子無道。群臣及百姓共惡怨之。復其門下人皆叛爲賊。獨居之無與誰議。臣雖知其逆未受太子命之。故獨慷慨之耳。今既被命。豈難於殺仲皇子乎。唯獨懼之。既殺仲皇子。猶且疑臣歟。冀見得忠直者。

そこで引き返して使者に尋ねました。「誰の使いか」

言いました。「皇太子の使いです」

そのとき吾子篭はその軍衆が多くいることを憚り、そこで使者に言いました。「伝え聞くところでは、皇太子に常ならぬ事があるというので、助けようとして兵を備えて待っていたのです」

しかし太子はその心を疑って殺そうとしました。そこで吾子篭は驚いて、自分の妹の日之媛(ひのひめ)を献じ、死罪を赦されることを請いました。そこでこれを免じました。あの倭直たちが釆女(うねめ)を貢ぐことは、おそらくこのときに始まったのでしょう。

太子はそこで石上(いそのかみ)の振(ふる)神宮に留まりました。

そこで瑞齒別皇子(みずはわけのみこ)は太子がいないことを知り、尋ねて追って参りました。しかし太子は弟王の心を疑って呼びませんでした。

そのとき瑞齒別皇子は、お目にかかることを願って言いました。「私には黒い心はありません。ただ太子がおられないことを憂えて参ったばかりです」

そこで太子は弟王に伝えて告げました。「私は仲皇子の逆らいを畏れて、独り避けてここに至った。どうしてまた、お前を疑わないでいられようか。あの仲皇子がいることが、独りなお私の病である。ついに除こうと思う。だから、お前がまことに黒い心がないのなら、もう一度難波に帰って仲皇子を殺せ。そうしてはじめて会おう」

瑞齒別皇子は太子に申し上げました。「大人はどうしてそれほど深く憂えられるのですか。いま仲皇子は道がなく、群臣も百姓もともに憎み怨んでいます。またその門下の人は皆背いて賊となりました。独りでいて、ともに議る者もありません。私はその逆らいを知っていましたが、まだ太子の命を受けていなかったので、独り憤っていただけです。いますでに命を受けましたから、どうして仲皇子を殺すことが難しいでしょうか。ただ独り懼れるのは、仲皇子を殺した後にも、なおまた私を疑われるのではないかということです。願わくは忠直な者を得て、

4仲皇子が死ぬ

欲明臣之不欺。太子則副木莵宿禰而遣焉。爰瑞齒別皇子歎之曰。今太子與仲皇子並兄也。誰從矣。誰乖矣。然亡無道就有道。其誰疑我。則詣干難波。伺仲皇子之消息。仲皇子思太子巳逃亡而無備。時有近習隼人。曰刺領巾。瑞齒別皇子陰喚刺領巾而誂之曰。爲我殺皇子。吾必敦報汝。乃脱錦衣褌與之。刺領巾恃其誂言。獨執矛。以伺仲皇子入厠而刺殺。即隸干瑞齒別皇子。於是木莵宿禰啓於瑞齒別皇子曰。刺領巾爲人殺己君。其爲我雖有大功。於己君無慈之甚矣。豈得生乎。乃殺刺領巾。即日向倭也。夜半臻於石上而復命。於是。喚弟王以敦寵。仍賜村合屯倉。是日。捉阿曇連濱子。

私が欺かないことを明らかにしたいのです」

太子はそこで木莵宿禰を副えて遣わしました。

そこで瑞齒別皇子は嘆いて言いました。「いま太子と仲皇子は、ともに兄である。誰に従い、誰に背くべきか。しかし道のない者を亡ぼして道のある者に就くのだから、その誰が私を疑おうか」

そこで難波に参り、仲皇子の様子をうかがいました。仲皇子は太子がすでに逃げ去ったと思って、備えがありませんでした。

そのとき近くに仕える隼人(はやひと)がいて、刺領巾(さしひれ)といいました。瑞齒別皇子は密かに刺領巾を呼んで誘いました。「私のために皇子を殺せば、私は必ずお前に厚く報いよう」そこで錦の衣と褌を脱いで与えました。

刺領巾はその誘いの言葉を恃み、独り矛を執って、仲皇子が厠に入るのをうかがって刺し殺しました。そして瑞齒別皇子に属きました。

そこで木莵宿禰は瑞齒別皇子に申し上げました。「刺領巾は人のために自分の君を殺しました。彼は我らのために大きな功があるとはいえ、自分の君に対して慈しみのないことが甚だしい。どうして生かしておけるでしょうか」

そこで刺領巾を殺しました。

その日のうちに倭へ向かい、夜半に石上に至って命を果たしたことを申し上げました。そこで弟王を呼んで厚く寵み、続いて村合(むらあわせ)の屯倉(みやけ)を賜りました。

この日、阿曇連濱子を捕らえました。

5位に即く

元年春二月壬午朔。皇太子即位於磐余稚櫻宮。

元年春二月壬午の朔の日、皇太子が磐余(いわれ)の稚櫻宮(わかさくらのみや)で位に即きました。

6阿曇の目

夏四月辛巳朔丁酉。召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。亦免從濱子野嶋海人等之罪。於倭蒋代屯倉。

夏四月辛巳の朔の丁酉の日、阿曇連濱子を召して詔しました。「お前は仲皇子とともに逆らいを謀り、国家を傾けようとした。罪は死に当たる。しかし大いなる恩を垂れて死を免じ、墨を入れる罰を科す」

その日のうちに目に墨を入れました。このため、当時の人は阿曇の目といいました。

また濱子に従った野嶋の海人たちの罪を免じ、倭の蒋代(こもしろ)の屯倉で働かせました。

7妃と子たち

秋七月己酉朔壬子。立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃。妃生磐坂市邊押羽皇子。御馬皇子。青海皇女。次妃幡梭皇女生中磯皇女。是年也太歳庚子。

秋七月己酉の朔の壬子の日、葦田宿禰(あしたのすくね)の娘、黒媛を立てて皇妃としました。妃は磐坂市邊押羽皇子(いわさかのいちのべのおしはのみこ)、御馬皇子(みまのみこ)、青海皇女(あおみのひめみこ)を生みました。

次の妃、幡梭皇女(はたびのひめみこ)は中磯皇女(なかしのひめみこ)を生みました。

この年は太歳庚子です。

夾注 1

一日飯豐皇女。

一つには飯豐皇女(いいとよのひめみこ)といいます。

8弟を儲君に立てる

二年春正月丙午朔己酉。立瑞齒別皇子爲儲君。

二年春正月丙午の朔の己酉の日、瑞齒別皇子を立てて儲君(もうけのきみ)としました。

9磐余に都する

冬十月。都於磐余。當是時。平羣木莵宿禰。蘇賀滿智宿禰。物部伊■弗大連。圓大使主共執國事。

冬十月、磐余に都しました。

このとき、平群木莵宿禰、蘇賀満智宿禰(そがのまちのすくね)、物部伊■弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、圓大使主(つぶらのおおおみ)がともに国の事を執りました。

夾注 1

圓。此云豆夫羅。

圓は、豆夫羅(つぶら)と読みます。

10磐余の池

十一月。作磐余池。

十一月、磐余の池を作りました。

11櫻の花が盃に落ちる

三年冬十一月丙寅朔辛未。天皇泛兩枝船干磐余市磯池。與皇妃各分乘而遊宴。膳臣余磯獻酒。時櫻花落干御盞。天皇異之。則召物部長眞膽連詔之曰。是花也。非時而來。其何處之花矣。汝自可求。於是。長眞膽連。獨尋花。獲干掖上室山而獻之。天皇歡其希有。即爲宮名。故謂磐余稚櫻宮。其此之縁也。是日。改長眞膽連之本姓曰稚櫻部造。又號膳臣余磯曰稚櫻部臣。

三年冬十一月丙寅の朔の辛未の日、天皇は磐余の市磯池(いちしのいけ)に両枝船(ふたまたぶね)を泛べました。皇妃とそれぞれ分かれて乗り、遊び宴しました。

膳臣余磯(かしわでのおみあれし)が酒を献じました。そのとき櫻の花が天皇の盃に落ちました。天皇は不思議に思い、そこで物部長眞膽連(もののべのながまいのむらじ)を召して詔しました。「この花は時でもないのに来た。どこの花か。お前が自ら求めよ」

そこで長眞膽連は独り花を尋ね、掖上(わきがみ)の室山(むろやま)で得て献じました。天皇はその希有なことを喜び、そこで宮の名としました。だから磐余の稚櫻宮というのは、これが由縁です。

この日、長眞膽連のもとの姓を改めて稚櫻部造(わかさくらべのみやつこ)といい、また膳臣余磯を稚櫻部臣(わかさくらべのおみ)と号しました。

12諸国に国史を置く

四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸國置國史。記言事達四方志。

四年秋八月辛卯の朔の戊戌の日、はじめて諸国に国史(くにのふみびと)を置き、言葉と事を記して四方の志を通じさせました。

13石上の溝

冬十月。堀石上溝。

冬十月、石上の溝を堀りました。

14三神が咎める

五年春三月戊午朔。於筑紫所居三神見干宮中言。何奪我民矣。吾今慚汝。於是祷而不祠。

五年春三月戊午の朔の日、筑紫におられる三神が宮の中に現れて言いました。「どうして私の民を奪うのか。私はいま、お前に恥をかかせよう」

そこで祈るばかりで祠りませんでした。

15墨を入れた気

秋九月乙酉朔壬寅。天皇狩干淡路嶋。是日。河内飼部等從駕執轡。先是飼部之黥皆未差。時居嶋伊奘諾神託祝曰。不堪血臭矣。因以卜之。兆云。惡飼部等黥之氣。故自是以後。頓絶以不黥飼部而止之。

秋九月乙酉の朔の壬寅の日、天皇は淡路嶋で狩りをしました。この日、河内の飼部(うまかいべ)たちが御車に従って轡を執りました。これより先、飼部の墨入れはみな癒えていませんでした。

そのとき嶋におられる伊奘諾(いざなぎ)の神が祝(はふり)に託して言いました。「血の臭いに堪えられない」

そこで占うと、兆に「飼部たちの墨を入れた気を悪む」とありました。だからこれより後、ただちに絶って飼部に墨を入れることをやめました。

16大虚から呼ぶ声

癸卯。有如風之聲。呼於大虚曰。劔刀太子王也。亦呼之曰。鳥往來羽田之汝妹者。羽狹丹葬立往。亦曰。狹名來田蒋津之命。羽狹丹葬立往也。俄而使者忽來曰。皇妃薨。天皇大驚之便命駕而歸焉。

癸卯の日、風のような声があって、大虚から呼びました。「剱刀(つるぎたち)の太子の王よ」また呼んで言いました。「鳥の往き来する羽田(はた)のお前の妹は、羽狹(はさ)に葬りに立ち往く」また言いました。「狹名來田蒋津之命(さなきたのこもつのみこと)が羽狹に葬りに立ち往く」

やがて使者が忽ち来て言いました。「皇妃が薨じました」

天皇は大いに驚き、そこで御車を命じて帰りました。

夾注 1

汝妹。此云儺迩毛。

汝妹は、儺迩毛(なにも)と読みます。

17淡路から至る

丙午。自淡路至。

丙午の日、淡路から至りました。

18車持君を咎める

冬十月甲寅朔甲子。葬皇妃。既而天皇悔之不治神崇而亡皇妃。更求其咎。或者曰。車持君行於筑紫國。而悉校車持部。兼取死神者。必是罪矣。天皇則喚車持君。以推問之。事既實焉。因以數之曰。爾雖車持君。縱検校天子之百姓。罪一也。既分寄干神祇車持部。兼奪取之。罪二也。則負惡解除。善解除。而出於長渚崎令秡禊。既而詔之曰。自今以後。不得掌筑紫之車持部。乃悉收以更分之奉於三神。

冬十月甲寅の朔の甲子の日、皇妃を葬りました。

やがて天皇は、神の崇りを治めずに皇妃を亡くしたことを悔い、改めてその咎を求めました。

ある者が言いました。「車持君(くるまもちのきみ)が筑紫国に行って、車持部をことごとく検め、あわせて神に献じた者まで取りました。必ずこれが罪でしょう」

天皇はそこで車持君を喚び、推し問うと、事はすでに実でした。そこで数えて言いました。「お前は車持君とはいえ、ほしいままに天子の百姓を検めた。罪の一つである。すでに神々に分け寄せた車持部まであわせて奪い取った。罪の二つである」

そこで悪解除(あしはらえ)と善解除(よしはらえ)を負わせ、長渚崎(ながすざき)に出て禊ぎ祓わせました。

やがて詔しました。「今より後、筑紫の車持部を掌ることはできない」そこでことごとく収めて、改めて分けて三神に奉りました。

19皇后を立てる

六年春正月癸未朔戊子。立草香幡梭皇女爲皇后。

六年春正月癸未の朔の戊子の日、草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)を立てて皇后としました。

20蔵の職を建てる

辛亥。始建藏職。因定藏部。

辛亥の日、はじめて蔵の職を建てました。そこで蔵部(くらべ)を定めました。

21鷲住王

二月癸丑朔。喚■魚磯別王之女太姫郎姫。高鶴郎姫納於後宮、並爲嬪。於是二嬪恒歎之曰。悲哉。吾兄王何處去耶。天皇聞其歎而問之曰。汝何歎息也。對曰。妾兄鷲住王。爲人強力輕捷。由是獨馳越八尋屋而遊行。既經多日不得面言。故歎耳。天皇悦其強力以喚之。不參來。亦重使而召。猶不參來。恒居於住吉邑。自是以後。廢以不求。是讃岐國造。阿波國脚咋別。凡二族之始祖也。

二月癸丑の朔の日、■魚磯別王(ふなしのいそわけのみこ)の娘、太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)と高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)を喚んで後宮に納め、あわせて嬪としました。

そこで二人の嬪はいつも嘆いて言いました。「悲しいことです。私たちの兄の王はどこへ行ったのでしょう」

天皇はその嘆きを聞いて尋ねました。「お前たちはどうして嘆息するのか」

答えました。「私たちの兄、鷲住王(わしずみのみこ)は、人となりが力強く軽やかで速いのです。これによって独り八尋の屋を馳せ越えて遊び行きます。すでに多くの日が経っても顔を見て語ることができません。だから嘆くばかりです」

天皇はその力強さを悦んで喚びましたが、参り来ませんでした。また重ねて使いを遣わして召しましたが、やはり参り来ず、いつも住吉(すみのえ)の邑にいました。これより後は、やめて求めませんでした。

これが讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)と、阿波の脚咋別(あしくいわけ)、およそ二つの族の始祖です。

22天皇が崩じる

三月壬午朔丙申。天皇玉體不■。水土不調。崩干稚櫻宮。

三月壬午の朔の丙申の日、天皇は玉体が■やかでなく、水と土が調わず、稚櫻宮で崩じました。

夾注 1

時年七十。

そのとき年は七十歳でした。

23百舌鳥耳原の陵

冬十月己酉朔壬子。葬百舌鳥耳原陵。

冬十月己酉の朔の壬子の日、百舌鳥耳原(もずのみみはら)の陵に葬りました。