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允恭天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 23 · 漢字 3,298字 · 朗読 13.2分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1病のために位を辞する

雄朝津間稚子宿禰天皇。瑞齒別天皇同母弟也。天皇自岐嶷至於總角。仁惠儉下。及壯篤病。容止不便。五年春正月。瑞齒別天皇崩。爰群卿議之曰。方今。大鷦鷯天皇之子。雄朝津間稚子宿禰皇子。與大草香皇子。然雄朝津間稚子宿禰皇子長之仁孝。即選吉曰。跪上天皇之璽。雄朝津間稚子宿禰皇子謝曰。我之不天。久離篤疾。不能歩行。且我既欲除病。獨非奏言。而密破身治病猶勿差。由是先皇責之曰。汝雖患病。縱破身。不孝孰甚於茲矣。其長生之遂不得繼業。亦我兄二天皇。愚我而輕之。群卿共所知。夫天下者大器也。帝位者鴻業也。且民之父母。斯則聖賢之職。豈下愚之任乎。更選賢王宜立矣寡人弗敢當。羣臣再拜言。夫帝位不可以久曠。天命不可以謙距。今大王留時逆衆。不正號位。臣等恐百姓望絶也。願大王雖勞。猶即天皇位。雄朝津間稚子宿禰皇子曰。奉宗廟社稷重事也。寡人篤疾不足以稱。猶辭而不聽。於是羣臣皆固請曰。臣伏計之。大王奉皇祖宗廟最宜稱。雖天下萬民皆以爲宜。願大王聽之。

雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのてんのう)は、瑞齒別天皇(みずはわけのてんのう)の同母弟です。天皇は幼い年から総角(あげまき)の年に至るまで、仁しく恵み深く、慎ましくて下の者に身を低くしました。壮年になると病が篤く、立ち居がままになりませんでした。

五年春正月、瑞齒別天皇が崩じました。そこで群卿が議って言いました。「いま、大鷦鷯天皇(おおさざきのてんのう)の子には、雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子(おおくさかのみこ)がおられる。しかし雄朝津間稚子宿禰皇子が年長で、仁しく孝である」

そこで吉日を選び、跪いて天皇の璽(しるし)を奉りました。

雄朝津間稚子宿禰皇子は辞して言いました。

「私は天の助けを得ず、長く篤い病に離れられず、歩くこともできない。また私はすでに病を除こうとして、独り奏し上げもせずに、密かに身を破って病を治したが、それでも癒えなかった。これによって先の皇は責めて『お前は病を患うとはいえ、ほしいままに身を破った。不孝がこれより甚だしいことがあろうか。たとえ長く生きても、ついに業を継ぐことはできないだろう』と言われた。また私の二人の兄の天皇が、私を愚かだとして軽んじたことは、群卿がともに知るところである。

そもそも天下は大きな器であり、帝の位は大きな業である。また民の父母となることは、聖く賢い者の職である。どうして下愚の者が任じられるものだろうか。改めて賢い王を選んで立てるのがよい。私は敢えて当たらない」

群臣は再拝して言いました。「そもそも帝の位は長く空けておくことができず、天の命は謙りによって退けることができません。いま大王が時を留め、衆に逆らい、号と位を正されないので、臣らは百姓の望みが絶えることを恐れます。願わくは大王、たとえ労しくとも、やはり天皇の位に即かれますように」

雄朝津間稚子宿禰皇子は言いました。「宗廟社稷を奉ることは重い事である。私は病が篤く、称えるに足らない」やはり辞して聴きませんでした。

そこで群臣は皆、固く請いました。「臣らが伏して計りますに、大王が皇祖の宗廟を奉られることが、最も称えるにふさわしいのです。天下の万民であっても、皆ふさわしいと思っています。願わくは大王、お聴きくださいますように」

2忍坂大中姫が水を捧げる

元年冬十有二月。妃忍坂大中姫命。苦羣臣之憂吟。而親執洗手水。進于皇子前。仍啓之曰。大王辭而不即位。位空之。既經年月。羣臣百寮愁之不知所爲願大王從群望。強即帝位。然皇子不欲聽。而背居不言。於是大中姫命惶之。不知退而侍之。經四五剋。當于此時。季冬之節。風亦烈寒。大中姫所捧鋺水溢而腕凝。不堪寒以將死。皇子顧之驚。則扶起謂之曰。嗣位重事。不得輙就。是以。於今不從。然今羣臣之請。事理灼然。何遂謝耶。爰大中姫命仰歡。則謂群卿曰。皇子將聽羣臣之請。今當上天皇璽符。於是羣臣大喜。即日捧天皇之璽符。再拜上焉。皇子曰。群卿共爲天下請寡人。寡人何敢遂辭。乃即帝位。是年也。太歳壬子。

元年冬十二月、妃の忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)は、群臣が憂えて吟ずるのを苦しく思い、自ら手を洗う水を執って皇子の前に進みました。続いて申し上げました。

「大王が辞して位に即かれず、位が空いたまま、すでに年月が経ちました。群臣も百寮も愁えて、どうすればよいか分かりません。願わくは大王、衆の望みに従い、強いてでも帝の位に即かれますように」

しかし皇子は聴こうとせず、背を向けて座ったまま言葉もありませんでした。そこで大中姫命は畏れて退くこともできず、お側に侍っていました。四、五刻が経ちました。

このときは季冬の節で、風もまた烈しく寒かったのです。大中姫が捧げた鋺(まり)の水は溢れて腕が凝りました。寒さに堪えられず、死ぬばかりになりました。

皇子は顧みて驚き、そこで助け起こして言いました。「位を嗣ぐことは重い事で、たやすく就くことはできない。だからこれまで従わなかった。しかしいま群臣の請いは、事の理が灼かである。どうしてついに辞そうか」

そこで大中姫命は仰いで歓び、群卿に言いました。「皇子が群臣の請いをお聴きになります。いま天皇の璽符を奉るべきです」

そこで群臣は大いに喜びました。その日のうちに天皇の璽符を捧げ、再拝して奉りました。

皇子は言いました。「群卿がともに天下のために私に請う。私がどうして敢えてついに辞そうか」

そこで帝の位に即きました。この年は太歳壬子です。

3皇后と昔の無礼

二年春二月丙申朔己酉。立忍坂大中姫。爲皇后。是日爲皇后定刑部。皇后生木梨輕皇子。名形大娘皇女。境黒彦皇子。穴穂天皇。輕大娘皇女。八釣白彦皇子。大泊瀬稚武天皇。但馬橘大娘皇女。酒見皇女。初皇后随母在家。獨遊苑中。時闘鶏國造從傍徑行之。乗馬而莅籬謂皇后嘲之曰。能作園乎。汝者也且曰。壓乞戸母。其蘭一莖焉。皇后則採一根蘭。與於乘馬者。因以問曰。何用求蘭耶。乘馬者對曰。行山撥■也。時皇后結之意裏乘馬者辭旡禮即謂之曰。首也。余不忘矣。是後。皇后登祚之年。覓乘馬乞蘭者。而數昔日之罪。以欲殺。爰乞蘭者搶地叩頭曰。臣之罪實當萬死。然當其日不知貴者。於是。皇后赦死刑。貶其姓謂稻置。

二年春二月丙申の朔の己酉の日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部(おさかべ)を定めました。

皇后は木梨輕皇子(きなしのかるのみこ)、名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのひめみこ)、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、穴穂天皇(あなほのてんのう)、輕大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)、八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、大泊瀬稚武天皇(おおはつせのわかたけのてんのう)、但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)、酒見皇女(さかみのひめみこ)を生みました。

初め、皇后は母に随って家にいて、独り苑の中で遊んでいました。そのとき闘鶏國造(つげのくにのみやつこ)が傍らの小道を通りかかり、馬に乗って籬(まがき)に臨み、皇后を嘲って言いました。「よく園を作るものだな、お前は」また言いました。「もしもし、お内儀、その蘭を一茎ください」

皇后はそこで蘭を一根採って、馬に乗った者に与えました。続いて尋ねました。「蘭を何に使うために求めるのか」

馬に乗った者は答えました。「山を行くときに虻を払うのです」

そのとき皇后は心の裏に結びました。「馬に乗った者の言葉は無礼である」そこで言いました。「おい、お前。私は忘れないぞ」

この後、皇后が位に登った年に、馬に乗って蘭を乞った者を探し出し、昔の日の罪を数えて殺そうとしました。

そこで蘭を乞った者は地に伏して頭を叩いて言いました。「臣の罪は、まことに万死に当たります。しかしその日には、貴い方とは知らなかったのです」

そこで皇后は死刑を赦し、その姓を貶して稻置(いなき)といいました。

夾注 3

汝。此云那鼻苔也。

汝は、那鼻苔(なびと)と読みます。

壓乞。此云異提。戸母。此云覩自。

壓乞は、異提(いで)と読みます。戸母は、覩自(とじ)と読みます。

□。此云摩愚那岐。

虻(■)は、摩愚那岐(まぐなぎ)と読みます。

4新羅に良医を求める

三年春正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。

三年春正月辛酉の朔の日、使いを遣わして新羅に良い医者を求めました。

5新羅の医者が病を治す

秋八月。醫至自新羅。則令治天皇病。未經幾時。病已差也。天皇歡之。厚賞醫以歸于國。

秋八月、医者が新羅から至りました。そこで天皇の病を治させました。いくらも経たないうちに、病はすでに癒えました。天皇は歓び、医者に厚く賞を与えて、その国に帰らせました。

6氏と姓を正せ

四年秋九月辛已朔己丑。詔曰。上古之治。人民得所。姓名勿錯。今朕踐祚於茲四年矣。上下相爭。百姓不安。或誤失己姓。或故認高氏。其不至於治者。蓋由是也。朕雖不賢。豈非正其錯乎。羣臣議定奏之。群臣皆言。陛下擧失正枉而定氏姓者。臣等冒死。奏可。

四年秋九月辛巳の朔の己丑の日、詔しました。

「上古の治めは、人民がその所を得て、姓と名が錯れることがなかった。いま朕が位を践んでここに四年である。上下が相争い、百姓が安らかでない。ある者は誤って自分の姓を失い、ある者は故意に高い氏を認める。治めに至らないのは、おそらくこれによるのであろう。朕は賢くないとはいえ、どうしてその錯れを正さないでいられようか。群臣は議って定め、奏せよ」

群臣は皆言いました。「陛下が失われたものを挙げ、枉がったものを正して氏姓を定められるのなら、臣らは死を冒して、可と奏します」

7盟神探湯で見分ける

戊申。詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。或帝皇之裔。或異之天降。然三才顯分以來。多歴萬歳。是以一氏蕃息。更爲萬姓。難知其實。故諸氏姓人等。沐浴齋戒各爲盟神探湯。則於味橿丘之辭禍戸。坐探湯瓮而引諸人令赴曰。得實則全。僞者必害。於是諸人各著木綿手繦而赴釜探湯。則得實者自全。不得實者皆傷。是以故詐者愕然之。豫退無進。自是之後。氏姓自定。更無詐人。

戊申の日、詔しました。

「群卿も百寮も、諸国造たちも、皆それぞれに、ある者は帝皇の裔といい、ある者は天から降ったという。しかし天と地と人の三才が顕れて分かれて以来、多く万歳を歴た。このため一つの氏が蕃り殖えて、改めて万の姓となったので、その実を知ることが難しい。だから諸氏姓の人たちは、沐浴し斎戒して、各々盟神探湯(くかたち)をせよ」

そこで味橿丘(うまかしのおか)の辭禍戸(ことのまがつひ)に探湯の瓮を据え、諸人を引いて赴かせて言いました。「実を得た者は全く、偽る者は必ず害われるだろう」

そこで諸人はそれぞれ木綿(ゆう)の手繦(たすき)を著け、釜に赴いて湯を探りました。すると実を得た者は自ずから全く、実を得ない者は皆傷つきました。このため故意に詐った者は愕然として、あらかじめ退いて進みませんでした。これより後、氏姓は自ずから定まり、二度と詐る人はいなくなりました。

夾注 2

盟神探湯。此云區訶陀智。或泥納釜煮沸攘手探湯泥。或燒斧火色置于掌。

盟神探湯は、區訶陀智(くかたち)と読みます。あるいは泥を釜に納れて煮沸かし、手を攘げて沸いた泥を探ります。あるいは斧を火の色に焼いて掌に置きます。

原文は木綿ですが、日本の古い祭りでは、これは楮(こうぞ)の皮で縒った白い糸(ゆう)です。― 訳者

8玉田宿禰を誅する

五年秋七月丙子朔己丑。地震。先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰。主瑞齒別天皇之殯。則當地震夕。遣尾張連吾襲。察殯宮之消息。時諸人悉聚無闕。唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言。殯宮大夫玉田宿禰非見殯所。則亦遣吾襲於葛城。令視玉田宿禰。是日。玉田宿禰方集男女而酒宴焉。吾襲擧状具告玉田宿禰。宿禰則畏有事。以馬一匹授吾襲爲禮幣。乃密遮吾襲而殺于道路。因以逃隱武内宿禰之墓域。天皇聞之喚玉田宿禰。玉田宿禰疑之。甲服襖中而參赴。甲端自衣中出之。天皇分明欲知其状。乃令小墾田釆女賜酒于玉田宿禰。爰釆女分明瞻衣中有鎧。而具奏于天皇。天皇設兵將殺玉田宿禰。乃密逃出而匿家。天皇更發卒圍玉田家。而捕之乃誅。

五年秋七月丙子の朔の己丑の日、地震がありました。

これより先、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の孫である玉田宿禰(たまたのすくね)に命じて、瑞齒別天皇の殯(もがり)を主らせていました。そこで地震のあった夕べ、尾張連吾襲(おわりのむらじあそ)を遣わして殯宮の様子を察させました。そのとき諸人はことごとく聚まって欠けた者がなく、ただ玉田宿禰だけがいませんでした。

吾襲は奏して言いました。「殯宮の大夫、玉田宿禰が殯所に見えません」

そこでまた吾襲を葛城に遣わして、玉田宿禰を見させました。この日、玉田宿禰はちょうど男女を集めて酒宴をしていました。吾襲は事の状を挙げて、玉田宿禰に具に告げました。

宿禰はそこで事が表に出ることを畏れ、馬一匹を吾襲に授けて礼の幣としました。そして密かに吾襲を遮って道で殺しました。これによって武内宿禰(たけうちのすくね)の墓域に逃げ隠れました。

天皇はこれを聞いて玉田宿禰を喚びました。玉田宿禰は疑って、甲を襖(うちき)の中に服て参り赴きました。甲の端が衣の中から出ていました。

天皇はその状を分明に知ろうとして、そこで小墾田(おはりだ)の釆女に玉田宿禰へ酒を賜らせました。そこで釆女は衣の中に鎧があることを分明に瞻て、天皇に具に奏しました。

天皇は兵を設けて玉田宿禰を殺そうとしました。そこで密かに逃げ出して家に匿れました。天皇は改めて卒を発して玉田の家を囲み、捕らえて誅しました。

9耳原の陵

冬十有一月甲戌朔甲申。葬瑞齒別天皇于耳原陵。

冬十一月甲戌の朔の甲申の日、瑞齒別天皇を耳原(みみはら)の陵に葬りました。

10衣通郎姫を召す

七年冬十二月壬戌朔。讌于新室。天皇親之撫琴。皇后起■。々既終而不言禮事。當時風俗。於宴會者、■者■終。則自對座長曰。奉娘子也。時天皇謂皇后曰。何失常禮也。皇后惶之復起■。々竟言。奉娘子。天皇即問皇后曰。所奉娘子者誰也。欲知姓字。皇后不獲已而奏言。妾弟名弟姫焉。弟姫容姿絶妙無比。其艶色徹衣而晃之。是以。時人號曰衣通郎姫也。天皇之志存于衣通郎姫。故強皇后而令進。皇后知之不輙言禮事。爰天皇歡喜。則明日遣使者喚弟姫。時弟姫随母。以在於近江坂田。弟姫畏皇后之情。而不參向。又重七喚。猶固辭以不至。於是天皇不悦。而復勅一舎人中臣烏賦津使主曰。皇后所進之娘子弟姫。喚而不來。汝自往之召將弟姫以來。必敦賞矣。爰烏賦津使主承命退之。糒■■中。到坂田。伏于弟姫庭中言。天皇命以召之。弟姫對曰。豈非懼天皇之命。唯不欲傷皇后之志耳。妾雖身亡不參赴。

七年冬十二月壬戌の朔の日、新しい室で讌(うたげ)をしました。天皇は自ら琴を撫で、皇后が起って舞いました。舞がすでに終わっても、礼の言葉を言いませんでした。

当時の風俗では、宴会の席で舞った者は、舞が終わると自ら向かいに座る長に「娘子を奉ります」と言うのでした。

そのとき天皇は皇后に言いました。「どうして常の礼を失うのか」

皇后は畏れて、また起って舞いました。舞が竟わって言いました。「娘子を奉ります」

天皇はすぐに皇后に尋ねました。「奉る娘子とは誰か。姓と字を知りたい」

皇后はやむを得ず奏して言いました。「私の妹で、名は弟姫(おとひめ)です」

弟姫は容姿が絶えて妙しく、比べるものがなく、その艶やかな色は衣を徹して晃きました。このため、当時の人は衣通郎姫(そとおしのいらつめ)と号しました。

天皇の志は衣通郎姫にありました。だから皇后に強いて進めさせたのです。皇后はこれを知って、たやすく礼の言葉を言わなかったのでした。

そこで天皇は歓び喜び、翌日、使者を遣わして弟姫を喚びました。そのとき弟姫は母に随って、近江の坂田にいました。弟姫は皇后の心を畏れて、参り向かいませんでした。また重ねて七たび喚びましたが、やはり固く辞して至りませんでした。

そこで天皇は悦ばず、改めて一人の舎人、中臣烏賦津使主(なかとみのいかつのおみ)に勅しました。「皇后が進めた娘子の弟姫を、喚んでも来ない。お前が自ら行って、弟姫を召して率いて来よ。必ず厚く賞しよう」

そこで烏賦津使主は命を承けて退きました。糒(ほしいい)を懐の中に入れ、坂田に到り、弟姫の庭の中に伏して言いました。「天皇の命によって召しに参りました」

弟姫は答えて言いました。「どうして天皇の命を懼れないことがありましょう。ただ皇后の志を傷つけたくないだけです。私は身が亡びても参り赴きません」

11七日のあいだ庭に伏す

時烏賦津使主對言。臣既被天皇命。必召率來矣。若不將來必罪之。故返被極刑。寧伏庭而死耳。仍經七日。伏於庭中。與飲食而不■。密食懷中之糒。於是弟姫以爲。妾因皇后之嫉。既拒天皇命。且亡君之忠臣。是亦妾罪。則從烏賦津使主而來之。到倭春日食于檪井上。弟姫親賜酒于使主慰其意。使主即日至京。留弟姫於倭直吾子篭之家。復命天皇。天皇大歡之。美烏賊津使主。而敦寵焉。然皇后之色不平。是以勿近宮中。則別構殿屋於藤原而居也。適産大泊瀬天皇之夕。天皇始幸藤原宮。皇后聞之恨曰。妾初自結髮陪於後宮。既經多年。甚哉天皇也。今妾産之死生相半。何故當今夕。必幸藤原。乃自出之燒産殿而將死。天皇聞之大驚曰。朕過也。因慰喩皇后之意焉。

そのとき烏賦津使主は答えて言いました。「臣はすでに天皇の命を被りましたから、必ず召して率いて参ります。もし率いて行けなければ、必ず罪を受けます。だから帰って極刑を被るよりは、むしろ庭に伏して死ぬばかりです」

続いて七日のあいだ、庭の中に伏していました。飲み物も食べ物も与えられても食べず、密かに懐の中の糒を食べました。

そこで弟姫は思いました。「私が皇后の嫉みのために、すでに天皇の命を拒み、そのうえ君の忠臣を亡ぼすのなら、これもまた私の罪である」

そこで烏賦津使主に従って来ました。倭の春日に到り、檪井(いちい)のほとりで食事をしました。弟姫は自ら使主に酒を賜って、その心を慰めました。

使主はその日のうちに京に至り、弟姫を倭直吾子篭(やまとのあたいあごこ)の家に留めて、天皇に命を果たしたことを申し上げました。

天皇は大いに歓び、烏賦津使主を美しとして、厚く寵みました。

しかし皇后の顔色は平らかでありませんでした。このため宮の中に近づけず、別に藤原に殿屋を構えて住まわせました。

ちょうど大泊瀬天皇(おおはつせのてんのう)を産む夕べに、天皇は初めて藤原宮に幸しました。皇后はこれを聞いて恨んで言いました。「私は初めて髪を結って以来、後宮に陪って、すでに多くの年が経ちました。甚だしいことです、天皇よ。いま私が産むのに、死ぬか生きるか相半ばであるのに、どうしてまさにこの夕べに、必ず藤原に幸されるのですか」

そこで自ら出て産殿を焼いて死のうとしました。

天皇はこれを聞いて大いに驚いて言いました。「朕の過ちである」そして皇后の心を慰め喩しました。

12藤原で交わした歌

八年春二月。幸于藤原。密察衣通郎姫之消息。是夕衣通郎姫戀天皇而獨居。其不知天皇之臨。而歌曰。和餓勢故餓。勾倍枳豫臂奈利。佐瑳餓泥能。區茂能於虚奈比。虚豫比辭流辭毛。天皇聆是歌。則有感情。而歌之曰。佐瑳羅餓多。迩之枳能臂毛弘。等枳舎氣帝。阿麻多絆泥受邇。多比等用能未。明旦。天皇見井傍櫻華而歌之曰。波那具波辭。佐區羅能梅涅。許等梅涅麼。波椰區波梅涅孺。和我梅豆留古羅。皇后聞之且大恨也。於是。衣通郎姫奏言。妾常近王宮。而晝夜相續欲視陛下之威儀。然皇后則妾之姉也。因妾以恒恨陛下。亦爲妾苦。是以。冀離王居而欲遠居。若皇后嫉意少息歟。天皇則更興造宮室於河内茅渟。而衣通郎姫令居。因此以屡遊獵于日根野。

八年春二月、藤原に幸して、密かに衣通郎姫の様子を察しました。

この夕べ、衣通郎姫は天皇を恋いながら独りでいました。天皇が臨んだことを知らずに歌いました。

「和餓勢故餓 勾倍枳豫臂奈利 佐瑳餓泥能 區茂能於虚奈比 虚豫比辭流辭毛(わがせこが くべきよひなり ささがねの くものおこなひ こよひしるしも)」

天皇はこの歌を聆いて、感じる情があり、歌って言いました。

「佐瑳羅餓多 迩之枳能臂毛弘 等枳舎氣帝 阿麻多絆泥受邇 多比等用能未(ささらがた にしきのひもを ときさけて あまたはねずに ただひとよのみ)」

翌朝、天皇は井のほとりの櫻の花を見て歌って言いました。

「波那具波辭 佐區羅能梅涅 許等梅涅麼 波椰區波梅涅孺 和我梅豆留古羅(はなぐはし さくらのめで ことめでば はやくはめでず わがめづるこら)」

— 三つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。

皇后はこれを聞いて、またも大いに恨みました。

そこで衣通郎姫は奏して言いました。「私は常に王宮の近くにいて、昼夜続けて陛下の威儀を視たいと思います。しかし皇后は私の姉です。私のためにいつも陛下を恨み、また私のために苦しんでおられます。このため、願わくは王のおられるところを離れて、遠くに住みたいのです。そうすれば、あるいは皇后の嫉む心も少しは息むでしょうか」

天皇はそこで改めて河内の茅渟(ちぬ)に宮室を興し造って、衣通郎姫を住まわせました。これによって、しばしば日根野(ひねの)で遊び獵りをしました。

13茅渟宮に幸する

九年春二月。幸茅渟宮。

九年春二月、茅渟宮に幸しました。

14茅渟に幸する

秋八月。幸茅渟。

秋八月、茅渟に幸しました。

15茅渟に幸する

冬十月。幸茅渟。

冬十月、茅渟に幸しました。

16行幸を減らす

十年春正月。幸茅渟。於是皇后奏言。妾如毫毛非嫉弟姫。然恐陛下屡幸於茅渟。是百姓之苦歟。仰願宜除車駕之數也。是後希有之幸焉。

十年春正月、茅渟に幸しました。

そこで皇后が奏して言いました。「私は毫毛ほども弟姫を嫉んではおりません。しかし陛下がしばしば茅渟に幸されることが、百姓の苦しみになるのではないかと恐れます。仰ぎ願わくは、車駕の数をお減らしくださいますように」

この後は、幸することが希になりました。

17藤原部を定める

十一年春三月癸卯朔丙午。幸於茅渟宮。衣通郎姫歌之曰。等虚辭陪迩。枳彌母阿閇椰毛。異舎儺等利。宇彌能波摩毛能。余留等枳等枳弘。時天皇謂衣通郎姫曰。是歌不可聆他人。皇后聞必大恨故時人號濱藻。謂奈能利曾毛也。先是衣通郎姫居于藤原宮。時天皇詔大伴室屋連曰。朕頃得美麗孃子。是皇后母弟也。朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉奈何。室屋連依勅而奏可。則科諸國造等。爲衣通郎姫定藤原部。

十一年春三月癸卯の朔の丙午の日、茅渟宮に幸しました。衣通郎姫が歌って言いました。

「等虚辭陪迩 枳彌母阿閇椰毛 異舎儺等利 宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘(とこしへに きみもあへやも いさなとり うみのはまもの よるときときを)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

そのとき天皇は衣通郎姫に言いました。「この歌を他の人に聆かせてはならない。皇后が聞けば、必ず大いに恨むだろう」

だから当時の人は、浜の藻を奈能利曾毛(なのりそも)といいました。

これより先、衣通郎姫が藤原宮にいたとき、天皇は大伴室屋連(おおとものむろやのむらじ)に詔しました。「朕はこのごろ美しい孃子を得た。これは皇后の母を同じくする妹である。朕の心に異なって愛しい。願わくはその名を後の葉に伝えたいと思うが、どうであろうか」

室屋連は勅によって、可と奏しました。そこで諸国造たちに科して、衣通郎姫のために藤原部を定めました。

夾注 1

奈能利曾毛は「名を告るな草」という意味です。― 訳者

18男狹磯が真珠を得て死ぬ

十四年秋九月癸丑朔甲子。天皇獵于淡路嶋。時麋鹿猿猪莫莫紛紛。盈于山谷。■起蝿散。然終日以下獲一獸。於是。獵止以更卜矣。嶋神祟之曰。不得獸者。是我之心也。赤石海底有眞珠。其珠祠於我。則悉當得獸。爰更集處處之白水郎。以令探赤石海底。海深不能至底。唯有一海人。曰男狹磯。是阿波國長邑之海人也。勝於諸海人。好深探。是腰繋繩入海底。差頃之出曰。於海底有大蝮。其處光也。諸人皆曰。嶋神所請之珠。殆有是蝮腹乎。亦入而探之。爰男狹磯抱大蝮而泛出之。乃息絶以死浪上。既而下繩測海深六十尋。則割蝮實眞珠有腹中。其大如桃子。乃祠嶋神而獵之。多獲獸也。唯悲男狹磯入海死之。則作墓厚葬。其墓猶今存之。

十四年秋九月癸丑の朔の甲子の日、天皇は淡路嶋で獵りをしました。そのとき麋(おおしか)、鹿、猿、猪が群れ連なって乱れ、山や谷に満ち、火のように起こり、蝿のように散りました。しかし終日、一匹の獸も獲ることができませんでした。

そこで獵りを止めて、改めて卜いました。嶋の神が祟って言いました。「獸を得られないのは、私の心である。赤石(あかし)の海の底に真珠がある。その珠を私に祠れば、ことごとく獸を得られるだろう」

そこで改めて処々の海人を集めて、赤石の海の底を探らせました。海が深くて底に至ることができませんでした。

ただ一人の海人がいて、男狹磯(おさし)といいました。これは阿波国の長邑(ながのむら)の海人です。諸々の海人より勝れて、深く探ることを好みました。この者が腰に繩を繋いで海の底に入りました。しばらくして出て言いました。「海の底に大きな蝮(あわび)があって、そこが光っています」

諸人は皆言いました。「嶋の神が請われた珠は、おそらくこの蝮の腹にあるのだろう」

また入って探りました。そこで男狹磯は大きな蝮を抱いて泛び出ました。そして息が絶えて、波の上で死にました。

やがて繩を下して海の深さを測ると、六十尋でした。そこで蝮を割くと、まことに真珠が腹の中にありました。その大きさは桃の実のようでした。

そこで嶋の神を祠って獵りをすると、獸を多く獲ました。

ただ男狹磯が海に入って死んだことを悲しみ、そこで墓を作って厚く葬りました。その墓は今もなお存っています。

19太子が妹と通じる

廿三年春三月甲午朔庚子。立木梨輕皇子爲太子。容姿佳麗。見者自感。同母妹輕大娘皇女亦艶妙也。太子恒念合大娘皇女。畏有罪而黙之。然感情既盛。殆將至死。爰以爲。徒空死者。雖有罪。何得忍乎。遂竊通。乃悒懷少息。因以歌之曰。阿資臂紀能。椰摩娜烏菟勾利。椰摩娜箇彌。斯■媚烏和之勢。志■那企貳。和餓儺勾菟摩。箇■儺企貳。和餓儺勾兎摩。去樽去曾。椰主區■娜布例。

二十三年春三月甲午の朔の庚子の日、木梨輕皇子を立てて太子としました。容姿が佳く麗しく、見る者は自ずから感じました。母を同じくする妹の輕大娘皇女も、また艶やかで妙しくありました。

太子は常に大娘皇女と合いたいと念いましたが、罪があることを畏れて黙っていました。しかし感じる情がすでに盛んになって、ほとんど死に至るばかりでした。そこで思いました。「いたずらに空しく死ぬのなら、罪があろうとも、どうして忍べようか」

ついに竊かに通じました。そこで悒えた懐いが少し息みました。これによって歌って言いました。

「阿資臂紀能 椰摩娜烏菟勾利 椰摩娜箇彌 斯■媚烏和之勢 志■那企貳 和餓儺勾菟摩 箇■儺企貳 和餓儺勾兎摩 去樽去曾 椰主區■娜布例(あしひきの やまだをつくり やまだかみ したびをわしせ したなきに わがなくつま かたなきに わがなくつま こぞこそ やすくはだふれ)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

20羹が凍る

廿四年夏六月。御膳羹汁凝以作氷。天皇異之卜其所由。卜者曰。有内亂。盖親親相奸乎。時有人曰。木梨輕太子同母妹輕大娘皇女。因以推問焉。辭既實也。太子是爲儲君。不得罪。則流輕大娘皇女於伊豫。是時太子歌之曰。於褒企彌烏。志摩珥波夫利。布儺阿摩利。異餓幣利去牟鋤。和餓■■瀰由梅。去等烏許曾。■多瀰等異絆梅。和餓菟摩烏由梅。又歌之曰。阿■摩霧。箇留■等賣。異■儺介縻。臂等資利奴陪瀰。幡舎能夜摩能。波刀能資■儺企迩奈勾。

二十四年夏六月、御膳の羹の汁が凝って氷になりました。天皇は不思議に思い、その由るところを卜いました。卜う者が言いました。「内に乱れがあります。おそらく親しい者同士が相姦したのでしょう」

そのときある人が言いました。「木梨輕太子が、母を同じくする妹の輕大娘皇女と、そうなのです」

これによって推し問うと、言葉はすでに実でした。太子は儲君であったので、罪とすることができませんでした。そこで輕大娘皇女を伊豫に流しました。

このとき太子は歌って言いました。

「於褒企彌烏 志摩珥波夫利 布儺阿摩利 異餓幣利去牟鋤 和餓■■瀰由梅 去等烏許曾 ■多瀰等異絆梅 和餓菟摩烏由梅(おほきみを しまにはぶり ふなあまり いがへりこむぞ わがたたみゆめ ことをこそ たたみといはめ わがつまをゆめ)」

また歌って言いました。

「阿■摩霧 箇留■等賣 異■儺介縻 臂等資利奴陪瀰 幡舎能夜摩能 波刀能資■儺企迩奈勾(あまたむ かるのをとめ いたなけば ひとしりぬべみ はさのやまの はとのしたなきになく)」

— 二つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。

21新羅が弔う

四十二年春正月乙亥朔戊子。天皇崩。時年若干。於是新羅王聞天皇既崩而驚愁之。貢上調船八十艘及種種樂人八十。是泊對馬而大哭。到筑紫亦大哭。泊于難波津。則皆素服之。悉捧御調。且張種種樂器。自難波至于京。或哭泣或■歌。遂參會於殯宮也。

四十二年春正月乙亥の朔の戊子の日、天皇が崩じました。そのとき年はいくつであったか分かりません。

そこで新羅の王は、天皇がすでに崩じたことを聞いて驚き愁えました。調(みつき)を載せた船八十艘と、種々の楽人八十人を貢り上げました。これらが対馬に泊まって大いに哭き、筑紫に到ってまた大いに哭き、難波津に泊まると、皆が素服を着ました。調をことごとく捧げ奉り、また種々の楽器を張りました。難波から京に至るまで、ある者は哭き泣き、ある者は舞い歌って、ついに殯宮に参り会いました。

22畝傍山と耳成山

冬十一月。新羅弔使等喪禮既而還之。爰新羅人恒愛京城傍耳成山。畝傍山。則到琴引坂。顧之曰。宇泥■巴椰。彌彌巴椰。是未習風俗之言語。故訛畝傍山謂宇泥■。訛耳成山謂瀰瀰耳。時倭飼部從新羅人。聞是辭而疑之以爲。新羅人通釆女耳。乃返之啓于大泊瀬皇子。皇子則悉禁固新羅使者而推問時新羅使者啓之曰。無犯釆女。唯愛京傍之兩山而言耳。則知虚言皆原之。於是新羅人大恨。更減貢上之物色及船數。

冬十一月、新羅の弔いの使いたちは喪の礼を終えて帰りました。

そこで新羅の人たちは、常に京城の傍らの耳成山(みみなしやま)と畝傍山(うねびやま)を愛していました。そこで琴引坂(ことびきのさか)に到り、顧みて言いました。「宇泥■巴椰(うねめはや)、彌彌巴椰(みみはや)」

これはまだその国の風俗の言葉に習っていなかったからです。だから畝傍山を訛って宇泥■(うねめ)といい、耳成山を訛って瀰瀰(みみ)といったのです。

そのとき倭の飼部が新羅の人に従っていて、この言葉を聞いて疑い、こう思いました。「新羅の人が釆女と通じたのだな」そこで返って大泊瀬皇子に申し上げました。

皇子はそこで新羅の使者をことごとく禁め固めて、推し問いました。

そのとき新羅の使者が申し上げました。「釆女を犯してはおりません。ただ京の傍らの二つの山を愛して言ったばかりです」

そこで虚言であると知って、皆を原しました。

そこで新羅の人は大いに恨み、改めて貢り上げる物の色と船の数を減らしました。

23長野原の陵

冬十月庚午朔己卯。葬天皇於河内長野原陵。

冬十月庚午の朔の己卯の日、天皇を河内の長野原(ながののはら)の陵に葬りました。