安康天皇
1太子が自ら死ぬ
穴穗天皇。雄朝津間稚子宿禰天皇第二子也。母曰忍坂大中姫命。稚渟毛二岐皇子之女也。四十二年春正月。天皇崩。冬十月葬禮畢之。是時太子行暴虐。淫于婦女。國人謗之。群臣不從。悉隷穴穗皇子。爰太子欲襲穴穗皇子而密設兵。穴穗皇子復興兵將戰。故穴穗括箭。輕括箭。始起于此時也。時太子知羣臣不從。百姓乖違。乃出之匿物部大前宿禰之家。穴穗皇子聞則圍之。大前宿禰出門而迎之。穴穗皇子歌之曰。於朋摩弊。烏摩弊輸區泥餓。訶那杜加礙。訶區多智豫羅泥。阿梅多知夜梅牟。大前宿禰答歌之曰。瀰椰比等能。阿由臂能古輸孺。於智珥岐等。瀰椰比等等豫牟。佐杜弭等茂由梅。乃啓皇子曰。願勿害太子。臣將議。由是太子自死于大前宿禰之家。十二月己巳朔壬午。穴穗皇子即天皇位。尊皇后曰皇太后。則遷都于石上。是謂穴穗宮。當是時。大泊瀬皇子欲聘瑞齒別天皇之女等。於是皇女等皆對曰。君王恒暴強也。■忽忿起。則朝見者夕被殺。夕見者朝被殺。今妾等顏色不秀。加以情性拙之。若威儀言語。如毫毛不似王意。豈爲親乎。是以不能奉命。遂遁以不聽矣。
穴穗天皇(あなほのてんのう)は、雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのてんのう)の第二子です。母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)といい、稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたのみこ)の娘です。
四十二年春正月、天皇が崩じました。冬十月、葬礼を終えました。
このとき太子は暴虐な行いをし、婦女と淫れました。国人は謗り、群臣は従わず、ことごとく穴穗皇子に隷きました。
そこで太子は穴穗皇子を襲おうとして、密かに兵を設けました。穴穗皇子もまた兵を興して戦おうとしました。だから穴穗の括箭(そや)、輕の括箭は、このときに始まったのです。
そのとき太子は、群臣が従わず、百姓が乖き違ったことを知って、そこで出て物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に匿れました。
穴穗皇子はこれを聞いて、すぐに囲みました。大前宿禰は門を出て迎えました。穴穗皇子が歌って言いました。
「於朋摩弊 烏摩弊輸區泥餓 訶那杜加礙 訶區多智豫羅泥 阿梅多知夜梅牟(おほまへ をまへすくねが かなとかげ かくたちよらね あめたちやめむ)」
大前宿禰が答えて歌って言いました。
「瀰椰比等能 阿由臂能古輸孺 於智珥岐等 瀰椰比等等豫牟 佐杜弭等茂由梅(みやひとの あゆひのこすず おちにきと みやひとどよむ さとびともゆめ)」
— 二つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。
そこで皇子に申し上げました。「願わくは太子を害されませんように。臣が議りましょう」
これによって太子は大前宿禰の家で自ら死にました。
十二月己巳の朔の壬午の日、穴穗皇子が天皇の位に即きました。皇后を尊んで皇太后といいました。そこで都を石上に遷しました。これを穴穗宮といいます。
このとき、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)が瑞齒別天皇の娘たちを聘ろうとしました。
そこで皇女たちは皆答えて言いました。「君王は常に暴く強く、たちまち忿りを起こされます。すると朝に見た者は夕べに殺され、夕べに見た者は朝に殺されます。いま私たちは顔色が秀れず、そのうえ情も性も拙いのです。もし威儀や言葉が、毫毛ほども王の意に似ていなければ、どうして親しくできましょうか。このため命を奉ることはできません」
ついに遁れて聴きませんでした。
夾注 4
一云。第三子也。
一説には、第三子といいます。
一云。流伊豫國。
一説には、伊豫国に流したといいます。
女名不見諸記。
婦女たちの名は、どの記にも見えません。
底本は君王です — 大泊瀬皇子を指し、穴穗天皇の弟です。― 訳者
2讒言によって大草香皇子を殺す
元年春二月戊辰朔。天皇爲大泊瀬皇子。欲聘大草香皇子妹幡梭皇女。則遣坂本臣祖根使主。請於大草香皇子曰。願得幡梭皇女。以欲配大泊瀬皇子。爰大草香皇子對言。僕頃患重病不得愈。譬如物積船以待潮者。然死之命也。何足惜乎。但以妹幡梭皇女之孤而不能易死耳。今陛下不嫌其醜。將滿■菜之數。是甚之大恩也。何辭命辱。故欲呈丹心。捧私寶名押木珠縵。附所使臣根使主。而敢奉獻。願物雖輕賎納爲信契。於是。根使主見押木珠縵。感其麗美。以爲盜爲己寶。則詐之奏天皇曰。大草香皇子者不奉命。乃謂臣曰。其雖同族。豈以吾妹得爲妻耶。既而留縵入己而不獻。於是天皇信根使主之讒言。則大怒之起兵。圍大草香皇子之家而殺之。是時難波吉師日香蛟父子。並仕于大草香皇子。共傷其君无罪而死之。則父抱王頚。二子各執王足而唱曰。吾君無罪以死之。悲乎。我父子三人生事之。死不殉。是不臣矣。即自刎之死於皇尸側。軍衆悉流涕。爰取大草香皇子之妻中蒂姫納于宮中。因爲妃。復遂喚幡梭皇女配大泊瀬皇子。是年也太歳甲午。
元年春二月戊辰の朔の日、天皇は大泊瀬皇子のために、大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹である幡梭皇女(はたびのひめみこ)を聘ろうとしました。そこで坂本臣(さかもとのおみ)の祖である根使主(ねのおみ)を遣わして、大草香皇子に請わせました。「願わくは幡梭皇女を得て、大泊瀬皇子に配したいのです」
そこで大草香皇子は答えて言いました。
「私はこのごろ重い病を患って癒えません。譬えれば、物を船に積んで潮を待つようなものです。しかし死ぬことは命です。どうして惜しむに足りましょうか。ただ妹の幡梭皇女が孤りになることのために、たやすく死ねないだけです。
いま陛下がその醜さを嫌わず、後宮の数を満たそうとされるのは、はなはだ大きな恩です。どうして命を辞して辱めましょうか。だから丹き心を呈したいと思います」
私の宝で、名を押木珠縵(おしきのたまかずら)というものを捧げ、使いに来た臣の根使主に附けて、敢えて奉り献じました。「願わくは、物は軽く賎しくとも、納めて信の契りとされますように」
そこで根使主は押木珠縵を見て、その麗しく美しいことに感じ、盗んで自分の宝にしようとしました。そこで詐って天皇に奏して言いました。
「大草香皇子は命を奉りませんでした。そして臣に言いました。『彼は同じ族とはいえ、どうして我が妹を妻にさせられようか』と」
やがて縵を自分のものにして、献じませんでした。
そこで天皇は根使主の讒る言葉を信じ、大いに怒って兵を起こし、大草香皇子の家を囲んで殺しました。
このとき難波吉師日香蛟(なにわのきしのひかか)の父子が、ともに大草香皇子に仕えていました。ともにその君が罪なくして死んだことを傷みました。そこで父は王の頚を抱き、二人の子はそれぞれ王の足を執って唱えました。「我が君は罪なくして死にました。悲しいことです。我ら父子三人は生きて仕えたのに、死んで殉わないのなら、これは臣ではありません」
そして自ら首を刎ねて、皇の尸の側で死にました。軍衆はことごとく涕を流しました。
そこで大草香皇子の妻である中蒂姫(なかしひめ)を取って宮の中に納れ、これによって妃としました。また、ついに幡梭皇女を喚んで大泊瀬皇子に配しました。
この年は太歳甲午です。
夾注 1
一云。立縵。又云。磐木縵。
一説には立縵(たちかずら)といい、また磐木縵(いわきかずら)といいます。
3中蒂姫を皇后とする
二年春正月癸巳朔己酉。立中蒂姫命爲皇后。甚寵也。初中蒂姫命生眉輪王於大草香皇子。乃依母以得免罪。常養宮中。
二年春正月癸巳の朔の己酉の日、中蒂姫命を立てて皇后とし、はなはだ寵みました。
初め、中蒂姫命は大草香皇子との間に眉輪王(まゆわのおおきみ)を生みました。そこで母によって罪を免れることができ、常に宮の中で養われました。
4眉輪王に殺される
三年秋八月甲申朔壬辰。天皇爲眉輪王見弑。三年後。乃葬菅原伏見陵。
三年秋八月甲申の朔の壬辰の日、天皇は眉輪王に弑されました。三年の後、菅原(すがわら)の伏見の陵に葬りました。
夾注 1
辭具在大泊瀬天皇紀。
詳しい言葉は大泊瀬天皇の紀にあります。