繼體天皇
1繼體天皇
男大迹天皇更名彦太尊。譽田天皇五世孫、彦主人王之子也。母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井、中、此云那。納以爲妃。遂産天皇。天皇幼年、父王薨。振媛廼歎曰、妾今遠離桑梓。安能得膝養。余歸寧高向、高向者、越前國邑名。奉養天皇。天皇壯大、愛士禮賢、意豁如也。天皇年五十七歲、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。元無男女、可絶繼嗣。
男大迹天皇(をほどのてんのう)——別の名は彦太尊(ひこふとのみこと)です。——は譽田天皇(ほむたのてんのう)の五世の孫で、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子です。母は振媛(ふりひめ)と申します。振媛は活目天皇(いくめのてんのう)の七世の孫です。
天皇の父は、振媛の顔かたちが美しく妙で、たいそう麗しい色があると聞き、近江国高嶋郡三尾(おうみのくにたかしまのこおりみお)の別業から使いを遣わして、三國の坂中井(みくにのさかなゐ)に——中は「な」と読みます。——請い、迎え入れて妃としました。そしてついに天皇を生みました。
天皇が幼い年に、父の王が薨じました。振媛はそこで歎いて申しました。「私は今、故郷を遠く離れております。どうして膝もとで養うことができましょうか。私は高向(たかむく)に帰ります。」——高向は越前国の邑の名です。——こうして天皇をお育て申し上げました。
天皇が成長されますと、士を愛し賢者を礼し、意は豁やかでした。
天皇の年五十七歳となった八年の冬十二月己亥の日、小泊瀬天皇が崩じました。もとより男も女もなく、継ぐ嗣が絶えようとしていました。
2倭彦王が逃げる
壬子、大伴金村大連議曰、方今絶無繼嗣。天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。今足仲彦天皇五世孫倭彦王、在丹波國桑田郡。請、試設兵仗、夾衞乘輿、就而奉迎、立爲人主。大臣大連等、一皆隨焉、奉迎如計。於是、倭彦王、遙望迎兵、懼然失色。仍遁山壑、不知所詣。
壬子の日、大伴金村大連が議して申しました。
「今まさに継ぐ嗣が絶えてありません。天下は何に心を繋げばよいのでしょうか。古から今に至るまで、禍はこれによって起こりました。今、足仲彦天皇(たらしなかつひこのてんのう)の五世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)が丹波国桑田郡におられます。どうか試みに兵仗を設け、乗輿を左右から衛り、赴いてお迎え申し上げ、立てて人の主としましょう。」
大臣や大連たちはみな一つにこれに随い、計のとおりにお迎えに行きました。
ところが倭彦王は、遥かに迎えの兵を望み見て、懼れて色を失いました。そして山の谷に遁れ、行った所が分からなくなりました。
3男大迹王を迎える
元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰、男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。冀慇懃勸進、紹隆帝業。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰、妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。丙寅、遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三國。夾衞兵仗、肅整容儀、警蹕前駈、奄然而至。於是、男大迹天皇、晏然自若、踞坐胡床。齊列陪臣、既如帝坐。持節使等、由是敬憚、傾心委命、冀盡忠誠。然天皇、意裏尚疑、久而不就。適知河內馬飼首荒籠。密奉遣使、具述大臣大連等所以奉迎本意。留二日三夜、遂發。乃喟然而歎曰、懿哉、馬飼首。汝若無遣使來告、殆取蚩於天下。世云、勿論貴賤。但重其心。蓋荒籠之謂乎。及至踐祚、厚加荒籠寵待。甲申、天皇行至樟葉宮。
元年の春正月辛酉の朔の甲子の日、大伴金村大連がさらに籌り議して申しました。「男大迹王は性が慈しみ深く仁あり、孝順です。天の緒を承けるにふさわしい方です。願わくは慇懃にお勧め申し上げ、帝の業を紹いで隆んにしましょう。」
物部麁鹿火大連や許勢男人大臣(こせのおひとのおおおみ)たちがみな申しました。「枝の孫をよく簡べば、賢き者はただ男大迹王だけです。」
丙寅の日、臣や連たちを遣わし、節を持たせて法駕を備え、三國にお迎え申し上げました。左右を兵仗で衛り、容儀を肅しく整え、警蹕が前を駈けて、忽然と至りました。
ここで男大迹天皇は晏らかに自若として、胡床に踞り坐っておられました。陪臣を齊しく列ねたさまは、既に帝の坐のようでした。節を持った使いたちはこれによって敬い憚り、心を傾けて命を委ね、忠誠を尽くしたいと願いました。
けれども天皇は意の裏でなお疑い、久しく赴きませんでした。
たまたま河内の馬飼首荒籠(うまかいのおびとあらこ)を知っておられました。密かに使いを遣わし、大臣や大連たちがお迎えする本意を具さに述べさせました。二日三夜を留まって、ついに発たれました。
そして喟然と歎いて申されました。「懿いことだ、馬飼首よ。お前がもし使いを遣わして告げてくれなかったら、ほとんど天下に嗤われるところであった。世に『貴賤を論ずるな。ただその心を重んじよ』と申すが、おそらく荒籠のことを言うのであろう。」
踐祚されるに至って、荒籠に厚く寵愛と待遇をお加えになりました。
甲申の日、天皇は樟葉宮(くすばのみや)に行き至られました。
4位に即く
二月辛卯朔甲午、大伴金村大連、乃跪上天子鏡劒璽符再拜。男大迹天皇謝曰、子民治國重事也。寡人不才、不足以稱。願請、𢌞慮擇賢者。寡人不敢當。大伴大連、伏地固請。男大迹天皇、西向讓者三。南向讓者再。大伴大連等皆曰、臣伏計之、大王子民治國、最宜稱。臣等、爲宗廟社稷、計不敢忽。幸藉衆願、乞垂聽納。男大迹天皇曰、大臣大連、將相諸臣、咸推寡人。寡人敢不乖、乃受璽符。是日、卽天皇位。以大伴金村大連爲大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。是以、大臣大連等、各依職位焉。
二月辛卯の朔の甲午の日、大伴金村大連はそこで跪いて天子の鏡と劒と璽符を上り、再び拝しました。
男大迹天皇は謝して申されました。「民を子とし国を治めるのは重い事である。寡人は才なく、称えるに足りない。願わくは慮りを回らせて賢き者を択べ。寡人は敢えて当たらない。」
大伴大連は地に伏して固く請いました。男大迹天皇は西に向かって三たび譲り、南に向かって二たび譲られました。
大伴大連たちはみな申しました。「臣らが伏して計りますに、大王が民を子とし国を治められることが、最も称えるにふさわしいのです。臣らは宗廟社稷のために計って、敢えて忽せにはいたしませんでした。幸いに衆の願いに藉りまして、どうか聴き納れてくださいますよう。」
男大迹天皇が申されました。「大臣大連、将相、諸臣がみな寡人を推す。寡人は敢えて乖くまい。」そして璽符を受けられました。
この日、天皇の位に即かれました。大伴金村大連を大連とし、許勢男人大臣を大臣とし、物部麁鹿火大連を大連とし、いずれももとのままでした。これによって大臣や大連たちは、それぞれ職位に依りました。
5手白香皇女を皇后に請う
庚子、大伴大連奏請曰、臣聞、前王之宰世也、非維城之固、無以鎭其乾坤。非掖庭之親、無以繼其趺萼。是故、白髮天皇無嗣、遣臣祖父大伴大連室屋、毎州安置三種白髮部、言三種者、一白髮部舍人、二白髮部供膳、三白髮部靫負也。以留後世之名。嗟夫、可不愴歟。請、立手白香皇女、納爲皇后、遣神祗伯等、敬祭神祗、求天皇息。允答民望。天皇曰、可矣。
庚子の日、大伴大連が奏して請いました。
「臣が聞きますに、前の王が世を宰めるとき、維城の固さでなければその乾坤を鎮めることはできず、掖庭の親しさでなければその趺萼を継ぐことはできないと申します。
このため、白髮天皇に嗣がなかったとき、臣の祖父である大伴大連室屋を遣わして、州ごとに三種の白髮部を安置させ——三種と申すのは、一つは白髮部舎人、二つは白髮部供膳(かしわで)、三つは白髮部靫負(ゆげい)です。——後の世に名を留めさせました。ああ、愴ましくないことがありましょうか。
どうか手白香皇女(たしらかのひめみこ)を立てて皇后にお納めになり、神祗伯たちを遣わして敬って神祗を祭り、天皇の息をお求めになって、民の望みに允くお答えください。」
天皇が申されました。「よろしい。」
6皇后を立て農を勧める
三月庚申朔、詔曰、神祗不可乏主。宇宙不可無君。天生黎庶、樹以元首、使司助養、令全性命。大連憂朕無息、被誠款、以國家、世々盡忠。豈唯朕日歟。宜備禮儀、奉迎手白香皇女。甲子、立皇后手白香皇女、修教于內。遂生一男。是爲天國排開廣庭尊。開、此云波羅企。是嫡子而幼年。於二兄治後、有其天下。二兄者、廣國排武金日尊、與武小廣國押盾尊也。見下文。戊辰、詔曰、朕聞、土有當年而不耕者、則天下或受其飢矣。女有當年而不績者、天下或受其寒矣。故、帝王躬耕、而勸農業、后妃親蠶、而勉桑序。況厥百寮、曁于萬族、廢棄農績、而至殷富者乎。有司普告天下、令識朕懷。
三月庚申の朔の日、詔して申されました。
「神祗に主が乏しいことはあってはならず、宇宙に君がないことはあってはならない。天は黎庶を生み、元首を樹てて、司り助け養わせ、性命を全くさせる。大連は朕に息のないことを憂え、誠款を尽くし、国家のために世々忠を尽くしている。どうして朕の日だけのことであろうか。宜しく礼儀を備えて、手白香皇女をお迎え申し上げよ。」
甲子の日、皇后手白香皇女を立てて、内を修め教えさせました。そしてついに一男を生みました。これが天國排開廣庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)です。——開は「はらき」と読みます。——これは嫡子ですが、年が幼かったのです。二人の兄が治めた後に、その天下を有たれました。——二人の兄とは、廣國排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)と武小廣國押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)です。下の文に見えます。
戊辰の日、詔して申されました。「朕が聞きますに、土にその年耕さないものがあれば、天下は或いはその飢えを受け、女にその年績まない者があれば、天下は或いはその寒さを受けると申す。ゆえに帝王は躬ら耕して農業を勧め、后妃は親ら蠶を飼って桑の序に勉める。ましてあの百寮から万族に至るまで、農と績を廢ち棄てて殷かに富むに至る者があろうか。有司は天下に普く告げて、朕の懐いを識らせよ。」
7八人の妃
癸酉、納八妃。納八妃、雖有先後、而此曰癸酉納者、據卽天位、占擇良日、初拜後宮、爲文。他皆效此。元妃、尾張連草香女曰目子媛。更名色部。生二子。皆有天下。其一曰勾大兄皇子。是爲廣國排武金日尊。其二曰檜隈高田皇子。是爲武小廣國排盾尊。次妃、三尾角折君妹曰稚子媛。生大郎皇子、與出雲皇女。次、坂田大跨王女曰廣媛。生三女。長曰神前皇女。仲曰茨田皇女。少曰馬來田皇女。次、息長眞手王女曰麻績娘子。生荳角皇女。荳角、此云娑佐礙。是侍伊勢大神祠。次、茨田連小望女或曰妹。曰關媛。生三女。長曰茨田大娘皇女。仲曰白坂活日姬皇女。少曰小野稚郎皇女。更名長石姬。次、三尾君堅楲女曰倭媛。生二男二女。其一曰大娘子皇女。其二曰椀子皇子。是三國公之先也。其三曰耳皇子。其四曰赤姬皇女。次、和珥臣河內女曰荑媛。生一男二女。其一曰稚綾姬皇女。其二曰圓娘皇女。其三曰厚皇子。次、根王女曰廣媛。生二男。長曰兔皇子。是酒人公之先也。少曰中皇子。是坂田公之先也。是年也、太歲丁亥。
癸酉の日、八人の妃をお納めになりました。——八人の妃をお納めになったのには先後がありますが、ここで癸酉の日に納れたと申すのは、天の位に即かれた際に良い日を占い択んで、初めて後宮に拝したことに拠って文としたのです。ほかもみなこれに效いました。
元の妃は、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘で目子媛(めのこひめ)と申します。——別の名は色部(しこべ)です。——二人の子を生み、いずれも天下を有たれました。その一人を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)と申し、これが廣國排武金日尊です。その二人めを檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)と申し、これが武小廣國排盾尊です。
次の妃は、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹で稚子媛(わかこひめ)と申し、大郎皇子(おおいらつこのみこ)と出雲皇女(いずものひめみこ)を生みました。
次に、坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘は廣媛(ひろひめ)と申し、三人の女を生みました。長を神前皇女(かむさきのひめみこ)と申し、仲を茨田皇女(まむたのひめみこ)と申し、少を馬來田皇女(うまくたのひめみこ)と申します。
次に、息長眞手王(おきながのまてのおおきみ)の娘は麻績娘子(おみのいらつめ)と申し、荳角皇女(ささげのひめみこ)を生みました。——荳角は「ささげ」と読みます。——この方が伊勢の大神の祠にお仕えになりました。
次に、茨田連小望(まむたのむらじおもち)の娘——あるいは妹と申します。——は關媛(せきひめ)と申し、三人の女を生みました。長を茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)と申し、仲を白坂活日姬皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)と申し、少を小野稚郎皇女(おののわかいらつめのひめみこ)と申して、別の名は長石姬(ながいしひめ)です。
次に、三尾君堅楲(みおのきみかたひ)の娘は倭媛(やまとひめ)と申し、二男二女を生みました。その一人を大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ)と申し、その二人めを椀子皇子(まろこのみこ)と申して、これが三國公(みくにのきみ)の先祖です。その三人めを耳皇子(みみのみこ)と申し、その四人めを赤姬皇女(あかひめのひめみこ)と申します。
次に、和珥臣河內(わにのおみかわち)の娘は荑媛(はえひめ)と申し、一男二女を生みました。その一人を稚綾姬皇女(わかあやひめのひめみこ)と申し、その二人めを圓娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)と申し、その三人めを厚皇子(あつのみこ)と申します。
次に、根王(ねのおおきみ)の娘は廣媛と申し、二人の男を生みました。長を兔皇子(うさぎのみこ)と申して、これが酒人公(さかひとのきみ)の先祖です。少を中皇子(なかつのみこ)と申して、これが坂田公(さかたのきみ)の先祖です。
この年は太歳丁亥です。
8耽羅が百済に初めて通じる
二年冬十月辛亥朔癸丑、葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵。十二月、南海中耽羅人、初通百濟國。
二年の冬十月辛亥の朔の癸丑の日、小泊瀬稚鷦鷯天皇を傍丘磐杯丘陵に葬りました。
十二月、南の海の中の耽羅の人が、初めて百済国に通じました。
9任那の百済の百姓を百済に附ける
三年春二月、遣使于百濟。百濟本記云、久羅麻致支彌、從日本來。未詳也。括出在任那日本縣邑、百濟百姓、浮逃絶貫、三四世者、並遷百濟附貫也。
三年の春二月、使いを百済に遣わしました。——百済本記に申します。久羅麻致支彌が日本から来たとあります。詳らかではありません。——任那の日本の縣や邑にいる百済の百姓で、浮かれ逃げて貫が絶えて三代四代になる者を括り出し、あわせて百済に遷して貫に附けました。
10筒城に遷る
五年冬十月、遷都山背筒城。
五年の冬十月、都を山背の筒城(やましろのつつき)に遷しました。
11任那の四つの縣を百済に与える
六年夏四月辛酉朔丙寅、遣穗積臣押山、使於百濟。仍賜筑紫國馬卌匹。冬十二月、百濟遣使貢調。別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰、此四縣、近連百濟、遠隔日本。旦暮易通、鶏犬難別。今賜百濟、合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危。況爲異場、幾年能守。大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。廼以物部大連麁鹿火、宛宣勅使。物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客。其妻固要曰、夫住吉大神、初以海表金銀之國、高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故大后息長足姬尊、與大臣武內宿禰、毎國初置官家、爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉。縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。大連報曰、教示合理、恐背天勅。其妻切諫云、稱疾莫宣。大連依諫。由是、改使而宣勅。付賜物幷制旨、依表賜任那四縣。大兄皇子、前有縁事、不關賜國、晩知宣勅。
六年の夏四月辛酉の朔の丙寅の日、穗積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に使いとして遣わしました。そして筑紫国の馬四十匹を賜りました。
冬十二月、百済が使いを遣わして調を貢りました。別に表を上って任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四つの縣を請いました。
哆唎の国守である穗積臣押山が奏して申しました。「この四つの縣は百済に近く連なり、日本からは遠く隔たっています。朝夕に通いやすく、鶏や犬を別ち難いほどです。今、百済に賜って合わせて同じ国とすることが、固く存てる策としてこれに過ぎるものはありません。けれども、たとえ賜って国を合わせても、後の世にはなお危ういのです。まして異なる場としておけば、幾年守れるでしょうか。」
大伴大連金村はこの言を具さに得て、同じく謨って奏しました。そこで物部大連麁鹿火を宣勅の使いに宛てました。
物部大連がまさに難波の館へ発ち向かい、百済の客に勅を宣べようとしました。その妻が固く要めて申しました。
「そもそも住吉の大神は、初めに海の表の金銀の国である高麗・百済・新羅・任那などを、胎中の譽田天皇に授けると記されました。ですから大后息長足姬尊(おきながたらしひめのみこと)と大臣武內宿禰(たけうちのすくね)が、国ごとに初めて官家を置いて海の表の蕃屏とされたのは、その由来が久しいのです。また由があることなのです。たとえ削って他に賜るなら、本の区域に違うことになります。綿く世に続く刺りが、どうして口を離れましょうか。」
大連が報えて申しました。「教え示すことは理に合うが、天の勅に背くことを恐れる。」
その妻が切に諫めて申しました。「疾と称して宣べないでください。」
大連は諫めに依りました。これによって使いを改めて勅を宣べました。賜る物とあわせて制旨を付し、表に依って任那の四つの縣を賜りました。
大兄皇子は、前に縁ある事があって国を賜ることに関わらず、晩くに勅を宣べたことを知って
12賄賂の噂が流れる
驚悔欲改。令曰、自胎中之帝、置官家之國、輕隨蕃乞、輙爾賜乎。乃遣日鷹吉士、改宣百濟客。使者答啓、父天皇、圖計便宜、勅賜既畢。子皇子、豈違帝勅、妄改而令。必是虛也。縱是實者、持杖大頭打、孰與持杖小頭打痛乎。遂罷。於是、或有流言曰、大伴大連、與哆唎國守穗積臣押山、受百濟之賂矣。
驚き悔いて改めようとされました。令して申されました。「胎中の帝のときから官家を置いた国を、軽々しく蕃の乞いに随って、たやすく賜ったのか。」
そこで日鷹吉士を遣わして、百済の客に改めて宣べさせました。
使者が答えて啓しました。「父である天皇が、便宜を図り計って、勅して賜ることを既に畢えられました。子の皇子が、どうして帝の勅に違い、妄りに改めて令されるでしょうか。必ずこれは虚でしょう。たとえ実であったとしても、杖の大きな頭で打たれるのと、杖の小さな頭で打たれるのと、どちらが痛いでしょうか。」
そしてついに罷めました。
このとき、ある者が流言して申しました。「大伴大連と哆唎の国守である穗積臣押山は、百済の賂を受けたのだ。」
13五經博士が来る
七年夏六月、百濟遣姐彌文貴將軍・洲利卽爾將軍、副穗積臣押山、百濟本記云、委意斯移麻岐彌。貢五經博士段楊爾。別奏云、伴跛國略奪臣國己汶之地。伏願、天恩判還本屬。秋八月癸未朔戊申、百濟太子淳陀薨。九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女。於是、月夜淸談、不覺天曉。斐然之藻、忽形於言。乃口唱曰、
七年の夏六月、百済が姐彌文貴将軍と洲利卽爾将軍を遣わし、穗積臣押山を副えて——百済本記に委意斯移麻岐彌と申します。——五經博士の段楊爾を貢りました。
別に奏して申しました。「伴跛国が臣の国の己汶の地を略め奪いました。伏してお願い申し上げます。天の恩によってお判じになり、本の属に還してください。」
秋八月癸未の朔の戊申の日、百済の太子淳陀が薨じました。
九月、勾大兄皇子が親ら春日皇女(かすがのひめみこ)を聘られました。そのとき月の夜に清らかに語らい、天の明けるのも覚えませんでした。斐しい藻が、忽ちに言に形れました。そして口に唱えられました。
14歌 — 勾大兄皇子
野絁磨倶儞、都磨々祁哿泥底、播屢比能、哿須我能倶儞々、倶婆絁謎鳴、阿利等枳々底、與慮志謎鳴、阿利等枳々底、莽紀佐倶、避能伊陀圖鳴、飫斯毗羅枳、倭例以梨魔志、阿都圖唎、都麼怒唎絁底、魔倶囉圖唎、都麼怒唎絁底、伊慕我堤鳴、倭例儞魔柯斯毎、倭我堤嗚麼、伊慕儞魔柯絁毎、麼左棄逗囉、多々企阿藏播梨、矢泪矩矢慮、于魔伊禰矢度儞、儞播都等唎、柯稽播儺倶儺梨、奴都等利、枳蟻矢播等余武、婆絁稽矩謨、伊麻娜以幡孺底、阿開儞啓梨倭蟻慕。
「やしまくに つままけかねて はるひの かすがのくにに くはしめを ありとききて よろしめを ありとききて まきさく ひのいたどを おしひらき われいりまし あととり つまどりして まくらとり つまどりして いもがてを われにまかしめ わがてをば いもにまかしめ まさきづら たたきあざはり しくしくしろ うまいねしとに にはつとり かけはなくなり ぬつとり きぎしはとよむ はしけくも いまだいはずて あけにけりわぎも(野絁磨倶儞、都磨々祁哿泥底、播屢比能、哿須我能倶儞々、倶婆絁謎鳴、阿利等枳々底、與慮志謎鳴、阿利等枳々底、莽紀佐倶、避能伊陀圖鳴、飫斯毗羅枳、倭例以梨魔志、阿都圖唎、都麼怒唎絁底、魔倶囉圖唎、都麼怒唎絁底、伊慕我堤鳴、倭例儞魔柯斯毎、倭我堤嗚麼、伊慕儞魔柯絁毎、麼左棄逗囉、多々企阿藏播梨、矢泪矩矢慮、于魔伊禰矢度儞、儞播都等唎、柯稽播儺倶儺梨、奴都等利、枳蟻矢播等余武、婆絁稽矩謨、伊麻娜以幡孺底、阿開儞啓梨倭蟻慕)」
——音を書き写したものなので、意味には訳しません。
15妃が答える
妃和唱曰、
妃が和して唱えました。
16歌 — 春日皇女
莒母唎矩能、簸覩細能哿波庾、那峨例倶屢、駄開能、以矩美娜開余嚢開、謨等陛嗚麼、莒等儞都倶唎、須衞陛嗚麼、府曳儞都倶唎、府企儺須、美母慮我紆陪儞、能朋梨陀致、倭我彌細麼、都奴娑播符、以簸例能伊聞能、美那矢駄府、紆嗚謨、紆陪儞堤々那皚矩、野須美矢々、倭我於朋枳美能、於魔細屢、娑佐羅能美於寐能、武須彌陀例、駄例夜矢比等母、紆陪儞泥堤那皚矩。
「こもりくの はつせのかはゆ ながれくる たけの いくみだけよだけ もとへをば ことにつくり すゑへをば ふえにつくり ふきなす みもろがうへに のぼりたち わがみせば つぬさはふ いはれのいけの みなしたふ うをも うへにでてなげく やすみしし わがおほきみの おばせる ささらのみおびの むすびたれ たれやしひとも うへにでてなげく(莒母唎矩能、簸覩細能哿波庾、那峨例倶屢、駄開能、以矩美娜開余嚢開、謨等陛嗚麼、莒等儞都倶唎、須衞陛嗚麼、府曳儞都倶唎、府企儺須、美母慮我紆陪儞、能朋梨陀致、倭我彌細麼、都奴娑播符、以簸例能伊聞能、美那矢駄府、紆嗚謨、紆陪儞堤々那皚矩、野須美矢々、倭我於朋枳美能、於魔細屢、娑佐羅能美於寐能、武須彌陀例、駄例夜矢比等母、紆陪儞泥堤那皚矩)」
——音を書き写したものなので、意味には訳しません。
17己汶と帶沙を百済に与える
冬十一月辛亥朔乙卯、於朝庭、引列百濟姐彌文貴將軍、斯羅汶得至、安羅辛已奚及賁巴委佐、伴跛既殿奚及竹汶至等、奉宣恩勅。以己汶・帶沙、賜百濟國。是月、伴跛國、遣戢支獻珍寶、乞己汶之地。而終不賜。十二月辛巳朔戊子、詔曰、朕承天緒、獲保宗廟、兢々業々。間者、天下安靜、海內淸平、屢致豐年、頻使饒國。懿哉、摩呂古、示朕心於八方。盛哉、勾大兄、光吾風於萬國。日本邕々、名擅天下。秋津赫々、譽重王畿。所寶惟賢、爲善最樂。聖化憑茲遠扇、玄功藉此長懸。寔汝之力。宜處春宮、助朕於仁、翼吾補闕。
冬十一月辛亥の朔の乙卯の日、朝廷に百済の姐彌文貴将軍、斯羅の汶得至、安羅の辛已奚と賁巴委佐、伴跛の既殿奚と竹汶至らを引き列ねて、恩の勅を奉じ宣べました。己汶と帶沙を百済国に賜りました。
この月、伴跛国が戢支を遣わして珍しい寶を献じ、己汶の地を乞いましたが、ついに賜りませんでした。
十二月辛巳の朔の戊子の日、詔して申されました。
「朕は天の緒を承け、宗廟を保つことを獲て、兢々として業々としてきた。この間、天下は安らかに静まり、海の内は清く平らかで、しばしば豐かな年を致し、頻りに国を饒かにさせた。懿いことだ、摩呂古よ、朕の心を八方に示した。盛んなことだ、勾大兄よ、吾の風を万国に光らせた。
日本は邕々として、名は天下に擅にし、秋津は赫々として、譽れは王畿に重い。寶とするところはただ賢であり、善を為すことが最も楽しい。聖なる化はこれに憑って遠く扇ぎ、玄かな功はこれを藉りて長く懸かる。まことに汝の力である。宜しく春宮に処って、朕を仁に助け、吾を翼けて闕を補えよ。」
18伴跛が城を築く
八年春正月、太子妃春日皇女、晨朝晏出、有異於常。太子意疑、入殿而見。妃臥床涕泣、惋痛不能自勝。太子怪問曰、今旦涕泣、有何恨乎。妃曰、「非餘事也。唯妾所悲者、飛天之鳥、爲愛養兒、樹巓作樔。其愛深矣。伏地之蟲、爲護衞子、土中作窟。其護厚焉。乃至於人、豈得无慮。無嗣之恨、方鍾太子。妾名隨絶。」於是、太子感痛、而奏天皇。詔曰、朕子麻呂古、汝妃之詞、深稱於理。安得空爾無答慰乎。宜賜匝布屯倉、表妃名於萬代。三月、伴跛築城於子呑・帶沙、而連滿奚、置烽候邸閣、以備日本。得築城於爾列比・麻須比、而絙麻且奚・推封。聚士卒兵器、以逼新羅。駈略子女、剥掠村邑。凶勢所加、罕有遺類。夫暴虐奢侈、悩害侵凌、誅殺尤多。不可詳載。
八年の春正月、太子妃の春日皇女が、朝まだきに晏く出てきて、常とは異なるところがありました。太子は意に疑い、殿に入って見ました。妃は床に臥して涕泣し、惋み痛んで自ら勝えられないほどでした。
太子は怪しんで問いました。「今朝、涕泣しているのは、何の恨みがあるのか。」
妃が申しました。「ほかの事ではありません。ただ私が悲しいのは、天を飛ぶ鳥も、子を愛み養おうとして樹の巓に樔を作ります。その愛は深いのです。地に伏す虫も、子を護り衞ろうとして土の中に窟を作ります。その護りは厚いのです。人に至って、どうして慮りがないことがありましょうか。嗣のない恨みが、まさに太子に鍾まっています。私の名も従って絶えてしまいます。」
そこで太子は感じ痛んで、天皇に奏しました。詔して申されました。「朕の子である麻呂古よ、汝の妃の詞は、深く理に称っている。どうして空しく答え慰めずにおられようか。宜しく匝布(さふ)の屯倉を賜って、妃の名を万代に表せ。」
三月、伴跛は子呑と帶沙に城を築いて滿奚に連ね、烽候と邸閣を置いて日本に備えました。また爾列比と麻須比に城を築いて麻且奚と推封に絙ぎました。士卒と兵器を聚めて新羅を逼りました。子女を駈り略め、村や邑を剥ぎ掠めました。凶しい勢いの加わった所には、遺された類が罕でした。およそ暴虐で奢り侈り、悩ませ害し侵し凌いで、誅し殺したものが尤も多く、詳しく載せることはできません。
19物部連が伴跛に追われる
九年春二月甲戌朔丁丑、百濟使者文貴將軍等請罷。仍勅、副物部連、闕名。遣罷歸之。百濟本記云、物部至至連。是月、到于沙都嶋、傳聞伴跛人、懷恨銜毒、恃强縱虐。故物部連、率舟師五百、直詣帶沙江。文貴將軍、自新羅去。夏四月、物部連於帶沙江停住六日。伴跛興師往伐。逼脱衣裳、劫掠所齎、盡燒帷幕。物部連等、怖畏逃遁。僅存身命、泊汶慕羅。汶慕羅。嶋名也。
九年の春二月甲戌の朔の丁丑の日、百済の使者である文貴将軍らが罷ることを請いました。そこで勅して、物部連——名が闕けています。——を副えて遣わし、罷り帰らせました。——百済本記に物部至至連と申します。
この月、沙都嶋に到って、伴跛の人が恨みを懷き毒を銜み、強きを恃んで虐を縦にしていると伝え聞きました。そこで物部連は舟師五百を率い、直ちに帶沙江に詣りました。文貴将軍は新羅から去りました。
夏四月、物部連は帶沙江に六日停まり住みました。伴跛は師を興して往き伐ちました。逼って衣裳を脱がせ、齎したものを劫め掠め、帷幕をことごとく焼きました。物部連らは怖れ畏れて逃げ遁れ、僅かに身命を存えて汶慕羅に泊まりました。——汶慕羅は嶋の名です。
20己汶の地を謝する
十年夏五月、百濟遣前部木刕不麻甲背、迎勞物部連等於己汶、而引導入國。群臣各出衣裳斧鐵帛布、助加國物、積置朝廷。慰問慇懃。賞祿優節。秋九月、百濟遺州利卽次將軍、副物部連來、謝賜己汶之地。別貢五經博士漢高安茂、請代博士段楊爾。依請代之。戊寅、百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多、副高麗使安定等、來朝結好。
十年の夏五月、百済が前部の木刕不麻甲背を遣わして、物部連らを己汶に迎え勞い、引き導いて国に入れました。群臣はそれぞれ衣裳・斧・鐵・帛・布を出して国の物に助け加え、朝廷に積み置きました。慰問は慇懃で、賞と祿は節を優くしました。
秋九月、百済が州利卽次将軍を遣わし、物部連を副えて来させて、己汶の地を賜ったことを謝しました。別に五經博士の漢高安茂を貢り、博士の段楊爾に代えることを請いました。請いのとおりに代えさせました。
戊寅の日、百済が灼莫古将軍と日本の斯那奴阿比多を遣わし、高麗の使いの安定らを副えて、来朝して好みを結びました。
21弟國に遷る
十二年春三月丙辰朔甲子、遷都弟國。
十二年の春三月丙辰の朔の甲子の日、都を弟國(おとくに)に遷しました。
22武寧王が薨じる
十七年夏五月、百濟國王武寧薨。十八年春正月、百濟太子明卽位。
十七年の夏五月、百済国の王である武寧が薨じました。
十八年の春正月、百済の太子である明が位に即きました。
23磐余玉穗に遷る
廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗。一本云、七年也。
二十年の秋九月丁酉の朔の己酉の日、都を磐余の玉穗(いわれのたまほ)に遷しました。——ある本には七年と申します。
24磐井が叛く
廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲往任那、爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前、遂戰而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滯。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。
二十一年の夏六月壬辰の朔の甲午の日、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)が衆六万を率いて任那に往き、新羅に破られた南加羅と喙己呑を復び興し建てて、任那に合わせようとしました。
このとき、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が陰かに叛逆を謨りましたが、猶預って年を経ました。事の成り難いことを恐れて、恆に間隙を伺っていました。
新羅はこれを知り、密かに貨賂を磐井のもとに行わせ、毛野臣の軍を防ぎ遏めるよう勧めました。
そこで磐井は火と豐の二つの国を掩い據って、職を修めさせませんでした。外には海路を邀えて、高麗・百済・新羅・任那などの国の年ごとの貢職の船を誘き致し、内には任那に遣わされた毛野臣の軍を遮って、乱りに語り揚言して申しました。
「今は使者となっているが、昔は吾の伴であった。肩を摩り肘を触れ、器を共にして同じく食べた。どうしてたやすく使者となって、余を汝の前に自ら伏させることができようか。」
そしてついに戦って受けませんでした。驕って自ら矜りました。これによって毛野臣は防ぎ遏められ、中途に淹り滞りました。
天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに詔して申されました。「筑紫の磐井が反き掩い、西の戎の地を有っている。今、誰が将となるべきであろうか。」
大伴大連らはみな申しました。「正しく直く仁あり勇あって兵の事に通じた者として、今、麁鹿火の右に出る者はありません。」
天皇が申されました。「よろしい。」
25斧を授ける
秋八月辛卯朔、詔曰、咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。物部麁鹿火大連再拜言、嗟、夫磐井西戎之姧猾。負川阻而不庭。憑山峻而稱亂。敗德反道。侮嫚自賢。在昔道臣、爰及室屋、助帝而罰。拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。詔曰、良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決。戰如風發。重詔曰、大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。
秋八月辛卯の朔の日、詔して申されました。「ああ、大連よ、この磐井が率わない。汝が徂いて征て。」
物部麁鹿火大連が再び拝して申しました。
「ああ、あの磐井は西の戎の姧しく猾い者です。川の阻しさを負うて庭らず、山の峻しさに憑って乱を称えています。徳を敗り道に反き、侮り嫚って自ら賢しとしています。昔、道臣(みちのおみ)があり、やがて室屋に及んで、帝を助けて罰し、民を塗炭から拯いました。あのときとこのときは一つです。ただ天の贊けるところであり、臣の恆に重んじるところです。どうして恭んで伐たないことがありましょうか。」
詔して申されました。「良い将の軍は、恩を施し惠を推し、己を恕して人を治める。攻めることは河の決けるようであり、戦うことは風の発つようである。」
重ねて詔して申されました。「大将は民の司命である。社稷の存亡は、ここにかかっている。勗めよ。恭んで天の罰を行え。」
天皇は親ら斧鉞を操って大連に授け、申されました。「長門より東は朕が制す。筑紫より西は汝が制せ。賞罰を専ら行い、頻りに奏することを煩わしがるな。」
26磐井を斬る
廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井、交戰於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接。決機兩陣之間、不避萬死之地。遂斬磐井、果定疆場。十二月、筑紫君葛子、恐坐父誅、獻糟屋屯倉、求贖死罪。
二十二年の冬十一月甲寅の朔の甲子の日、大将軍物部大連麁鹿火が、親ら賊の帥である磐井と、筑紫の御井郡で交戦しました。旗と鼓が相い望み、埃と塵が相い接しました。両の陣の間で機を決し、万死の地を避けませんでした。そしてついに磐井を斬り、果たして疆場を定めました。
十二月、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は父の罪に坐することを恐れ、糟屋(かすや)の屯倉を献じて、死罪を贖うことを求めました。
27多沙津を請う
廿三年春三月、百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰、夫朝貢使者、恆避嶋曲、謂海中嶋曲崎岸也。俗云美佐祁。毎苦風波。因茲、濕所齎、全壤无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。是以、押山臣爲請聞奏。
二十三年の春三月、百済の王が下哆唎の国守である穗積押山臣に申しました。
「そもそも朝貢の使者は、恆に嶋の曲を避けて——海の中の嶋の曲や崎の岸を申します。俗に「みさけ」と申します。——風や波に毎たび苦しみます。これによって齎したものが濕れ、すべて壤れて色を无くします。どうか加羅の多沙津を、臣の朝貢の津の路としてください。」
そこで押山臣は請いを聞いて奏しました。
28多沙津を百済に与える
是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百濟王。於是、加羅王謂勅使云、此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉、安得輙改賜隣國。違元所封限地。勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。別遣錄史、果賜扶余。由是、加羅結儻新羅、生怨日本。加羅王娶新羅王女、遂有兒息。新羅初送女時、幷遣百人、爲女從。受而散置諸懸、令着新羅衣冠。阿利斯等、嗔其變服、遣使徵還。新羅大羞、翻欲還女曰、前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。加羅己富利知伽未詳。報云、配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。遂於所經、拔刀伽・古跛・布那牟羅、三城。亦拔北境五城。
この月、物部伊勢連父根(もののべのいせのむらじちちね)と吉士老(きしのおゆ)らを遣わして、津を百済の王に賜りました。
このとき加羅の王が勅使に申しました。「この津は、官家を置いて以来、臣が朝貢に渉るところです。どうしてたやすく改めて隣の国に賜るのですか。元の封じた限りの地に違います。」
勅使の父根らはこれによって面と向かって賜り難く、却って大嶋に還りました。別に錄史を遣わして、果たして扶余に賜りました。
これによって加羅は新羅と儻を結び、日本に怨みを生じました。
加羅の王は新羅の王の娘を娶り、ついに兒息がありました。新羅が初めに娘を送ったとき、あわせて百人を遣わして娘の從としました。受けて諸々の縣に散り置き、新羅の衣冠を着させました。
阿利斯等はその服を変えたことを嗔り、使いを遣わして徵し還しました。新羅は大いに羞じ、翻って娘を還させようとして申しました。「前に汝の聘を承けて、吾はすぐに婚を許した。今すでにこのようであるから、どうか王の娘を還せ。」
加羅の己富利知伽——詳らかではありません。——が報えて申しました。「配け合わせて夫婦となったのに、どうして更に離れられようか。また息兒もある。これを棄ててどこへ往こうか。」
そしてついに経るところで、刀伽・古跛・布那牟羅の三つの城を抜きました。また北の境の五つの城を抜きました。
29安羅で詔勅を聞く
是月、遣近江毛野臣、使于安羅。勅勸新羅、更建南加羅・喙己呑。百濟遣將軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵等、往赴安羅、式聽詔勅。新羅、恐破蕃國官家、不遣大人、而遣夫智奈麻禮・奚奈麻禮等、往赴安羅、式聽詔勅。於是、安羅新起高堂、引昇勅使。國主隨後昇階。國內大人、預昇堂者一二。百濟使將軍君等、在於堂下。凡數月再三、謨謀乎堂上。將軍君等、恨在庭焉。
この月、近江毛野臣を遣わして、安羅に使いさせました。勅して新羅に勧め、南加羅と喙己呑を更に建てさせました。
百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを遣わして安羅に往き赴かせ、式のとおりに詔勅を聴かせました。
新羅は蕃国の官家を破ったことが露れるのを恐れて大人を遣わさず、夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを遣わして安羅に往き赴かせ、式のとおりに詔勅を聴かせました。
そこで安羅は新たに高い堂を起こして、勅使を引き昇らせました。国の主は後に随って階を昇りました。国の内の大人で、予め堂に昇った者は一人二人でした。百済の使いの将軍君らは堂の下にいました。
およそ数か月のあいだ再三、堂の上で謨り謀りました。将軍君らは庭にいることを恨みました。
30任那の王が来る
夏四月壬午朔戊子、任那王己能末多干岐來朝。言己能末多者、蓋阿利斯等也。啓大伴大連金村曰、夫海表諸蕃、自胎中天皇、置內官家、不棄本土。因封其地、良有以也。今新羅、違元所賜封限、數越境以來侵。請、奏天皇、救助臣國。大伴大連、依乞奏聞。
夏四月壬午の朔の戊子の日、任那の王である己能末多干岐が来朝しました。——己能末多と申すのは、おそらく阿利斯等でしょう。
大伴大連金村に啓して申しました。「そもそも海の表の諸々の蕃は、胎中天皇のときから内の官家を置いて、本の土を棄てませんでした。その地に封じたのは、まことに由があることです。今、新羅は元の賜った封じた限りに違い、数たび境を越えて侵してきます。どうか天皇に奏して、臣の国を救い助けてください。」
大伴大連は乞いに依って奏し聞かせました。
31新羅の上臣が来る
是月、遣使送己能末多干岐。幷詔在任那近江毛野臣、推問所奏、和解相疑。於是、毛野臣、次于熊川、一本云、次于任那久斯牟羅。召集新羅・百濟、二國之王。新羅王佐利遲遣久遲布禮、一本云、久禮爾師知于奈師磨里。百濟遣恩率彌騰利、赴集毛野臣所、而二王不自來參。毛野臣大怒、責問二國使云、以小事大、天之道也。一本云、大木端者以大木續之。小木端者以小木續之。何故二國之王、不躬來集受天皇勅、輕遣使乎。今縱汝王、自來聞勅、吾不肯勅。必追逐退。久遲布禮・恩率彌縢利、心懷怖畏、各歸召王。由是、新羅改遣其上臣伊叱夫禮智干岐、新羅、以大臣爲上臣。一本云、伊叱夫禮知奈末。率衆三千、來請聽勅。毛野臣、遙見兵仗圍繞、衆數千人、自熊川、入任那己叱己利城。伊叱夫禮智干岐、次于多々羅原、不敬歸待三月。頻請聞勅。終不肯宣。伊叱夫禮智所將士卒等、於聚落乞食。
この月、使いを遣わして己能末多干岐を送らせました。あわせて任那にいる近江毛野臣に詔して、奏したところを推し問い、和らぎ解けて互いの疑いを解かせました。
そこで毛野臣は熊川に次り——ある本には任那の久斯牟羅に次ったと申します。——新羅と百済の二つの国の王を召し集めました。
新羅の王である佐利遲は久遲布禮を遣わし——ある本には久禮爾師知于奈師磨里と申します。——百済は恩率の彌騰利を遣わして、毛野臣のいる所に赴き集まりましたが、二人の王は自ら来て参りませんでした。
毛野臣は大いに怒り、二つの国の使いを責め問いました。「小が大に事えるのは天の道である。——ある本には、大きな木の端は大きな木で続け、小さな木の端は小さな木で続けると申します。——どういうわけで二つの国の王は、躬ら来て集まって天皇の勅を受けず、軽々しく使いを遣わしたのか。今、たとえ汝らの王が自ら来て勅を聞こうとしても、吾は勅を宣べることを肯じない。必ず追い逐って退けよう。」
久遲布禮と恩率の彌縢利は、心に怖れ畏れを懷き、それぞれ帰って王を召しました。
これによって新羅は改めてその上臣である伊叱夫禮智干岐を遣わし——新羅は大臣を上臣と申します。ある本には伊叱夫禮知奈末と申します。——衆三千を率いて来て、勅を聞くことを請いました。
毛野臣は、遥かに兵仗が圍み繞り、衆が数千人であるのを見て、熊川から任那の己叱己利城に入りました。
伊叱夫禮智干岐は多々羅の原に次り、敬わずに帰らないまま三か月待ちました。頻りに勅を聞くことを請いましたが、ついに宣べることを肯じませんでした。
伊叱夫禮智が率いた士卒らは、聚落で食を乞いました。
32四つの村を失う
相過毛野臣傔人河內馬飼首御狩。御狩入隱他門、待乞者過、捲手遙擊。乞者見云、謹待三月、佇聞勅旨、尚不肯宣。悩聽勅使。乃知欺誑、誅戮上臣矣。乃以所見、具述上臣。上臣抄掠四村、金官・背伐・安多・委陀、是爲四村。一本云、多多羅・須那羅・和多・費智爲四村也。盡將人物、入其本國。或曰、多々羅等四村之所掠者、毛野臣之過也。秋九月、巨勢男人大臣薨。
毛野臣の傔人である河內馬飼首御狩(かわちのうまかいのおびとみかり)のそばを過ぎました。御狩は他の門に入って隱れ、乞う者が過ぎるのを待って、手を捲いて遥かに撃ちました。
乞う者が見て申しました。「謹んで三か月待ち、勅旨を聞こうと佇んでいたのに、なお宣べることを肯じない。勅使を聴こうとする者を悩ませている。」そこで欺き誑かされたと知り、上臣を誅し戮そうとしました。
そして見たところを上臣に具さに述べました。上臣は四つの村を抄め掠めました。——金官・背伐・安多・委陀、これが四つの村です。ある本には多多羅・須那羅・和多・費智が四つの村と申します。——人と物をことごとく将いて、その本の国に入れました。
ある者は申しました。「多々羅など四つの村が掠められたのは、毛野臣の過ちである。」
秋九月、巨勢男人大臣が薨じました。
33賢き臣を求める
廿四年春二月丁未朔、詔曰、自磐余彦之帝・水間城之王、皆頼博物之臣、明哲之佐。故道臣陳謨、而神日本以盛。大彦申略、而膽瓊殖用隆。及乎繼體之君、欲立中興之功者、曷嘗不頼賢哲之謨謀乎。爰降小泊瀬天皇之王天下、幸承前聖、隆平日久。俗漸蔽而不寤。政浸衰而不改。但須其人各以類進。有大略者、不問其所短。有高才者、不非其所失。故獲奉宗廟、不危社稷。由是觀之、豈非明佐。朕承帝業、於今廿四年、天下淸泰、內外無虞。土壤膏腴、穀稼有實。竊恐元々、由斯生俗、藉此成驕。故令人舉廉節、宣揚大道、流通鴻化、能官之事、自古爲難。爰曁朕身、豈不愼歟。
二十四年の春二月丁未の朔の日、詔して申されました。
「磐余彦の帝、水間城の王から、みな博く物を知る臣と、明らかに哲い佐けに頼ってきた。ゆえに道臣が謨を陳べて神日本(かむやまと)は盛んになり、大彦が略を申して膽瓊殖(いにえ)は隆んになった。繼體の君に及んで中興の功を立てようとした者が、どうしてかつて賢く哲い者の謨謀に頼らなかったことがあろうか。
ここに降って小泊瀬天皇が天下に王たったとき、幸いに前の聖を承けて、隆んに平らかな日が久しかった。俗は漸く蔽われても寤めず、政は浸く衰えても改まらなかった。ただその人たちをそれぞれ類によって進ませ、大きな略のある者にはその短いところを問わず、高い才のある者にはその失ったところを非とはしなかった。ゆえに宗廟を奉ることを獲て、社稷を危うくしなかった。これによって観れば、どうして明らかな佐けでないことがあろうか。
朕が帝の業を承けて、今二十四年である。天下は清く泰らかで、内も外も虞がない。土壤は膏え腴え、穀稼は実がある。密かに恐れるのは、民がこれによって俗を生じ、これを藉りて驕りを成すことである。ゆえに人に廉く節ある者を舉げさせ、大きな道を宣べ揚げ、鴻きな化を流し通わせる。よく官たる人を得る事は、古から難しかった。ここに朕の身に及んで、どうして愼まないことがあろうか。」
34毛野臣を召す
秋九月、任那使奏云、毛野臣、遂於久斯牟羅、起造舍宅、淹留二歲。一本云三歲者、連去來歲數也。懶聽政焉。爰以日本人與任那人、頻以兒息、諍訟難決、元無能判。毛野臣樂置誓湯曰、實者不爛。虛者必爛。是以、投湯爛死者衆。又殺吉備韓子那多利・斯布利、大日本人、娶蕃女所生、爲韓子也。恆悩人民、終無和解。於是、天皇聞其行狀、遣人徵入。而不肯來。顧以河內母樹馬飼首御狩、奉詣於京而奏曰、臣未成勅旨、還入京郷、勞往虛歸。慙恧安措。伏願、陛下、待成國命、入朝謝罪。奉使之後、更自謨曰、其調吉士、亦是皇華之使。若先吾取歸、依實奏聞、吾之罪過、必應重矣。乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城。於是、阿利斯等、知其細碎爲事、不務所期、頻勸歸朝、尚不聽還。由是、悉知行迹、心生飜背。乃遣久禮斯己母、使于新羅請兵。奴須久利、使于百濟請兵。毛野臣聞百濟兵來、迎討背評。
秋九月、任那の使いが奏して申しました。
「毛野臣はついに久斯牟羅に舍宅を起こし造って、二年も淹り留まり——ある本に三年と申すのは、往き来した年の数を連ねたのです。——政を聴くことを懶っています。
そこで日本の人と任那の人が、頻りに兒息のことで諍い訟えますが、決し難く、もとより判つことのできる者がありません。毛野臣は楽しんで誓いの湯を置き、「実なら爛れず、虚なら必ず爛れる」と申しました。これによって湯に投げ入れられ、爛れて死んだ者が多くあります。
また吉備の韓子である那多利と斯布利を殺しました。——大いなる日本の人が蕃の女を娶って生ませた者を韓子と申します。——恆に人民を悩ませて、ついに和解がありません。」
そこで天皇はその行状を聞き、人を遣わして徵し入れようとしましたが、来ることを肯じませんでした。
かえって河內母樹馬飼首御狩(かわちのもののきのうまかいのおびとみかり)を京に詣らせて奏しました。「臣がまだ勅旨を成さないまま京郷に還り入れば、勞して往き虚しく帰ることになり、慙じ恧じて身を措く所がありません。伏してお願い申し上げます。陛下が国の命を成すのをお待ちくだされば、朝に入って罪を謝します。」
使いを遣わした後、さらに自ら謨って申しました。「あの調吉士(つきのきし)もまた皇の華の使いである。もし吾より先に取って帰り、実のとおりに奏し聞かせれば、吾の罪過は必ず重くなるであろう。」
そこで調吉士を遣わし、衆を率いて伊斯枳牟羅城を守らせました。
このとき阿利斯等は、彼が細かく碎けた事を事とし、期したところに務めないことを知り、頻りに朝に帰ることを勧めましたが、なお還ることを聴きませんでした。
これによってその行跡をすべて知り、心に飜き背く思いを生じました。そこで久禮斯己母を遣わして新羅に使いさせて兵を請い、奴須久利を百済に使いさせて兵を請いました。
毛野臣は百済の兵が来ると聞いて、背評で迎え討ちました。
35五つの城を失う
背評地名。亦名能備己富里也。傷死者半。百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁、而共新羅圍城。責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。毛野臣、嬰城自固。勢不可擒。於是、二國圖度便地、淹留弦晦。筑城而還。號曰久禮牟羅城。還時觸路、拔騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳、五城。
——背評は地の名です。また別の名は能備己富里です。——傷つき死んだ者が半ばでした。
百済はすぐに奴須久利を捉え、杻・械・枷・鏁をかけて、新羅と共に城を囲みました。阿利斯等を責め罵って申しました。「毛野臣を出すべきだ。」
毛野臣は城に嬰って自ら固めましたので、勢いとして擒えることができませんでした。そこで二つの国は便りよい地を圖り度って、晦まで淹り留まり、城を築いて還りました。名づけて久禮牟羅城と申します。
還るとき、路に触れるままに、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五つの城を抜きました。
36毛野臣が死ぬ
冬十月、調吉士至自任那、奏言、毛野臣爲人傲恨、不閑治體。竟無和解、擾亂加羅。倜儻任意、而思不防患。故遣目頰子、徵召。目頰子。未詳也。是歲、毛野臣、被召到于對馬、逢疾而死。送葬尋河、而入近江。其妻歌曰、
冬十月、調吉士が任那から至って奏して申しました。「毛野臣は人となりが傲り恨み深く、治める体に閑れていません。ついに和解することなく、加羅を擾し乱しました。倜儻として意のままにし、患いを防ぐことを思いません。」
そこで目頰子(めつらこ)を遣わして徵し召しました。——目頰子は詳らかではありません。
この年、毛野臣は召されて對馬に到り、疾に逢って死にました。送り葬るのに河を尋ねて、近江に入りました。その妻が歌いました。
37歌 — 毛野臣の妻
比攞哿駄喩、輔曳輔枳能朋樓、阿苻美能野、愷那能倭倶吾伊、輔曳符枳能朋樓。
「ひらかたゆ ふえふきのぼる あふみのや けなのわくごい ふえふきのぼる(比攞哿駄喩、輔曳輔枳能朋樓、阿苻美能野、愷那能倭倶吾伊、輔曳符枳能朋樓)」
——音を書き写したものなので、意味には訳しません。
38目頰子を迎えた歌
目頰子、初到任那時、在彼郷家等、贈歌曰、
目頰子が初めて任那に到ったとき、その地の郷家の人たちが歌を贈りました。
39歌 — 任那の郷家の人々
柯羅屨儞嗚、以柯儞輔居等所、梅豆羅古枳駄樓、武哿左屨樓、以祇能和駄唎嗚、梅豆羅古枳駄樓。
「からくにを いかにふことそ めづらこきたる むかさくる いきのわたりを めづらこきたる(柯羅屨儞嗚、以柯儞輔居等所、梅豆羅古枳駄樓、武哿左屨樓、以祇能和駄唎嗚、梅豆羅古枳駄樓)」
——音を書き写したものなので、意味には訳しません。
40天皇が崩じ、年代を百済本記で定める
廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮。時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。或本云、天皇、廿八年歲次甲寅崩。而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記爲文。其文云、太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。
二十五年の春二月、天皇の病が甚しくなりました。丁未の日、天皇は磐余の玉穗宮で崩じました。そのとき年は八十二でした。
冬十二月丙申の朔の庚子の日、藍野陵(あいののみささぎ)に葬りました。
——ある本には、天皇は二十八年、歳次甲寅に崩じたと申します。けれどもここに二十五年、歳次辛亥に崩じたと申すのは、百済本記を取って文としたのです。その文に申します。「太歳辛亥の三月、軍が進んで安羅に至り、乞乇城に営みました。この月、高麗がその王である安を弑しました。また聞きますに、日本の天皇と太子・皇子が、ともに崩じ薨じました。」これによって言えば、辛亥の歳は二十五年に当たります。後に勘え校べる者が、これを知るでしょう。