いにしえの文 › 日本書紀(日本の編年史) › 人代

宣化天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 10 · 漢字 650字 · 朗読 2.6分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1宣化天皇

武小廣國押盾天皇。男大迹天皇第二子也。勾大兄廣國押武金日天皇之同母弟也。二年十二月。勾大兄廣國押武金日天皇崩無嗣。群臣奏上劒鏡於武小廣國押盾尊。使即天皇之位焉。是天皇爲人器宇清通。神襟朗邁。不以才地矜人爲王。君子所服。

武小廣國押盾天皇(たけおひろくにおしたてのてんのう)は、男大迹天皇の第二子で、勾大兄廣國押武金日天皇の同母の弟です。

二年の十二月、勾大兄廣國押武金日天皇が嗣なく崩じました。群臣が劒と鏡を武小廣國押盾尊に奏し上り、天皇の位に即かせました。

この天皇は人となりが、器や宇が清く通じ、神しき襟が朗らかに邁れていました。才や地位をもって人に矜らず、王となっては君子が服いました。

2桧隈廬入野に遷る

元年春正月。遷都于桧隈廬入野。因爲宮號也。

元年の春正月、都を桧隈の廬入野(ひのくまのいおりの)に遷しました。これによって宮の号としました。

3大臣と大連を置く

二月壬申朔。以大伴金村大連。爲大連。物部麁鹿火大連爲大連。並如故。又以蘇我稻目宿禰爲大臣。阿倍火麻呂臣爲大夫。

二月壬申の朔の日、大伴金村大連を大連とし、物部麁鹿火大連を大連とし、いずれももとのままでした。また蘇我稻目宿禰(そがのいなめのすくね)を大臣とし、阿倍火麻呂臣(あべのほまろのおみ)を大夫としました。

4皇后を請う

三月壬寅朔。有司請立皇后。

三月壬寅の朔の日、有司が皇后を立てることを請いました。

5皇后と御子たち

己酉。詔曰。立前正妃億計天皇女橘仲皇女爲皇后。是生一男。三女。長曰石姫皇女。次曰小石姫皇女。次曰倉稚綾姫皇女。次曰上殖葉皇子。亦名椀子。是丹比公。偉那公。凡二姓之先也。前庶妃大河内稚子媛生一男。是曰火焔皇子。是椎田君之先也。

己酉の日、詔して申されました。「先の正妃である億計天皇の娘、橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)を立てて皇后とする。」

この方が一男三女を生みました。長を石姫皇女(いしひめのひめみこ)と申し、次を小石姫皇女(こいしひめのひめみこ)と申し、次を倉稚綾姫皇女(くらのわかあやひめのひめみこ)と申し、次を上殖葉皇子(かみつうえはのみこ)と申して、別の名は椀子(まろこ)です。この方が丹比公(たじひのきみ)と偉那公(いなのきみ)、およそ二つの姓の先祖です。

先の庶妃である大河内稚子媛(おおしこうちのわかこひめ)が一男を生み、これを火焔皇子(ほのほのみこ)と申します。この方が椎田君(しいたのきみ)の先祖です。

6那津に穀を聚めよ

夏五月辛丑朔。詔曰。食者天下之本也。黄金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫國者遐迩之所朝届。去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝■于朕身。収藏穀稼。蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。安國之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰。宜遣尾張連運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉。散在縣隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永爲民命。早下郡縣令知朕心。

夏五月辛丑の朔の日、詔して申されました。

「食は天下の本である。黄金万貫でも飢えを療すことはできず、白玉千箱でも、どうして冷えを救えようか。

そもそも筑紫国は遐きも迩きも朝に届くところであり、去き來る者の関門である。これによって海の表の国は海の水を候って賓として来り、天の雲を望んで貢を奉る。胎中の帝のときから朕の身に至るまで、穀稼を収め藏め、儲けの粮を蓄え積んで、遥かに凶しい年に設け、良い客を厚く饗してきた。国を安んじる方として、さらにこれに過ぎるものはない。

ゆえに朕は阿蘇仍君(あそのきみ)を遣わして、河内国茨田郡の屯倉の穀を加え運ばせる。——詳らかではありません。——蘇我大臣稻目宿禰は、宜しく尾張連を遣わして尾張国の屯倉の穀を運ばせよ。物部大連麁鹿火は、宜しく新家連(にいのみのむらじ)を遣わして新家の屯倉の穀を運ばせよ。阿倍臣は、宜しく伊賀臣を遣わして伊賀国の屯倉の穀を運ばせよ。那津の口に官家を修め造れ。

また、あの筑紫・肥・豐の三つの国の屯倉は、縣ごとに散り在って隔たり、運び輸ぶのに遥かに阻まれる。もし須い要ることが起これば、卒かなことに備え難い。これもまた宜しく諸々の郡に課して分け移し、那津の口に聚め建てて、非常に備え、永く民の命とさせよ。早く郡や縣に下して、朕の心を知らせよ。」

夾注 1

未詳也。

7麁鹿火が薨じる

秋七月。物部麁鹿火大連薨。是年也太歳丙辰。

秋七月、物部麁鹿火大連が薨じました。この年は太歳丙辰です。

8任那を助ける

二年冬十月壬辰朔。天皇以新羅冦於任那。詔大伴金村大連。遣其子磐與狭手彦以助任那。是時。磐留筑紫執其國政以備三韓。狭手彦往鎭任那。加救百濟。

二年の冬十月壬辰の朔の日、天皇は新羅が任那を冦すというので、大伴金村大連に詔して、その子の磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わし、任那を助けさせました。

このとき磐は筑紫に留まってその国の政を執り、三韓に備えました。狭手彦は往って任那を鎭め、あわせて百済を救いました。

9天皇が崩じる

四年春二月乙酉朔甲午。天皇崩于桧隈廬入野宮。時年七十三。

四年の春二月乙酉の朔の甲午の日、天皇は桧隈の廬入野宮で崩じました。そのとき年は七十三でした。

10桃花鳥坂上陵

冬十一月庚戌朔丙寅。葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵。以皇后橘皇女及其孺子合葬干是陵。

冬十一月庚戌の朔の丙寅の日、天皇を大倭国の身狹(むさ)の桃花鳥坂上陵(つきさかのえのみささぎ)に葬りました。皇后橘皇女とその孺子(みどりこ)を、この陵に合葬しました。

夾注 1

皇后崩年傳記無載。孺子者盖未成人而葬歟。

皇后が崩じた年は、伝わる記録に載っていません。孺子とは、おそらく成人する前に葬った者でしょうか。