欽明天皇
1欽明天皇
天國排開廣庭天皇。男大迹天皇嫡子也。母曰手白香皇后。天皇愛之。常置左右。天皇幼時夢。有人云。天皇寵愛秦大津父者。及壯大。必有天下。寤驚遣使普求。得自山背國紀伊郡深草里。姓字果如所夢。於是忻喜遍身。歎夫曾夢。乃告之曰。汝有何事。答云。無也。但臣向伊勢。商價來還。山逢二狼相鬪■血。乃下馬洗漱口手。祈請曰。汝是貴神。而樂麁行。儻逢獵士。見禽尤速。乃抑止相鬪。拭洗血毛。遂遣放之。倶令全命。天皇曰。必此報也。乃令近侍。優寵日新。大致饒富。及至踐祚。拜大藏省。四年冬十月。武小廣國押盾天皇崩。皇子天國排開廣庭天皇令群臣曰。余幼年淺識。未閑政事。山田皇后明閑百揆。請就而決。山田皇后怖謝曰。妾蒙恩寵。山海■同。萬機之難。婦女安預。今皇子者。敬老慈少禮下賢者。日中不食。以待士。加以幼而穎脱早擅嘉聲。性是寛和。務存矜宥。請諸臣等。早令臨登位光臨天下。冬十二月庚辰朔甲申。天國排開廣庭皇子。即天皇位。時年若干。尊皇后曰皇太后。大伴金村大連。物部尾與大連爲大連。及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣。並如故。
天國排開廣庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのてんのう)は、男大迹天皇の嫡子です。母は手白香皇后と申します。天皇はこの方を愛して、常に左右に置かれました。
天皇が幼いとき、夢にある人が申しました。「天皇が秦大津父(はたのおおつち)を寵み愛せば、成長して必ず天下を有つでしょう。」
寤めて驚き、使いを遣わして広く求めますと、山背国紀伊郡深草の里で得ました。姓と名が果たして夢のとおりでした。そこで忻び喜びが身に遍く、その夢を歎き驚かれました。
そこでその人に告げました。「汝に何の事があったか。」
答えて申しました。「ありません。ただ臣が伊勢に向かって商いをして還る途中、山で二匹の狼が相い鬪って血を流しているのに遭いました。そこで馬から下りて口と手を洗い漱ぎ、祈り請って申しました。『汝らは貴い神であるのに、麁い行いを楽しんでいる。もし獵士に遭えば、禽られることがいっそう速いであろう。』こうして相い鬪うのを抑え止め、血のついた毛を拭い洗って、ついに放ち遣わし、ともに命を全くさせました。」
天皇が申されました。「必ずこの報いである。」
そこで近く侍らせますと、寵み愛することが日に新しく、大いに饒かに富むようになりました。踐祚されるに至って、大藏省を拝けました。
四年の冬十月、武小廣國押盾天皇が崩じました。
皇子の天國排開廣庭天皇が群臣に令して申されました。「余は幼い年で識ることが浅く、まだ政事に閑れていない。山田皇后は百揆に明らかに閑れておられる。どうかお就きして決してもらえ。」
山田皇后は怖れ謝して申しました。「私が恩と寵みを蒙ったことは、山や海と同じです。万機の難しさに、婦女がどうして預かりましょうか。今、皇子は老いた者を敬い少い者を慈しみ、賢い者に身を下され、日の中にも食べずに士をお待ちになります。そのうえ幼くして穎け脱れ、早くから嘉い声を擅にされました。性は寛く和やかで、矜み宥すことに務められます。どうか諸々の臣たちは、早く位にお登りいただいて、天下に光り臨まれますように。」
冬十二月庚辰の朔の甲申の日、天國排開廣庭皇子が天皇の位に即きました。そのとき年は若干でした。皇后を尊んで皇太后と申しました。大伴金村大連と物部尾與大連を大連とし、蘇我稻目宿禰大臣を大臣とし、いずれももとのままでした。
2皇后を立てる
元年春正月庚戌朔甲子。有司請立皇后。詔曰。立正妃武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后。是生二男。一女。長曰箭田珠勝大兄皇子。仲曰譯語田渟中倉太珠敷尊。少曰笠縫皇女。
元年の春正月庚戌の朔の甲子の日、有司が皇后を立てることを請いました。
詔して申されました。「正妃である武小廣國押盾天皇の娘、石姫を立てて皇后とする。」
この方が二男一女を生みました。長を箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)と申し、仲を譯語田渟中倉太珠敷尊(おさだのぬなくらのふとたましきのみこと)と申し、少を笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)と申します。
夾注 1
更名狹田毛皇女。
別の名は狹田毛皇女(さたけのひめみこ)です。
3百済の人が来る
二月。百濟人己知部投化。置倭國添上郡山村。今山村己知部之先也。
二月、百済の人である己知部が投化しました。倭国添上郡の山村に置きました。今の山村の己知部の先祖です。
4蝦夷と隼人が附く
三月。蝦夷。隼人。並率衆歸附。
三月、蝦夷と隼人が、あわせて衆を率いて帰り附きました。
5磯城嶋金刺宮
秋七月丙子朔己丑。遷都倭國磯城郡磯城嶋。仍號爲磯城嶋金刺宮。
秋七月丙子の朔の己丑の日、都を倭国磯城郡の磯城嶋(しきしま)に遷しました。そこで磯城嶋の金刺宮(かなさしのみや)と号しました。
6四つの国が使いを遣わす
八月。高麗。百濟。新羅。任那。並遣使獻。並修貢職。召集秦人。漢人等諸蕃投化者。安置國郡。編貫戸籍。秦人戸數惣七千五十三戸。以大藏掾爲秦伴造。
八月、高麗・百済・新羅・任那が、あわせて使いを遣わして献じ、あわせて貢の職を修めました。
秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら、諸々の蕃から投化した者を召し集めて、国や郡に安置し、戸籍に編み貫きました。秦人の戸数は惣べて七千五十三戸でした。大藏の掾を秦伴造(はたのとものみやつこ)としました。
7新羅を伐つ軍を問う
九月乙亥朔己卯。幸難波祝津宮。大伴大連金村。許勢臣稻持。物部大連尾與等從焉。天皇問諸臣曰。幾許軍卒伐得新羅。物部大連尾與等奏曰。少許軍卒不可易征。襄者男大迹天皇六年。百濟遣使表請任那上■■。下■■。娑陀。牟婁四縣。大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是新羅怨曠積年。不可輕爾而伐。於是大伴大連金村居住吉宅。稱疾不朝。天皇遣青海夫勾子。慰問慇懃。大連怖謝曰。臣所疾者非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。乃以鞍馬贈使厚相資敬。青海夫人依實顯奏。詔曰。久竭忠誠。莫恤衆口。遂不爲罪。優寵彌深。是年也太歳庚申。
九月乙亥の朔の己卯の日、難波の祝津宮(はふりつのみや)に行幸されました。大伴大連金村、許勢臣稻持(こせのおみいなもち)、物部大連尾與らが従いました。
天皇が諸々の臣に問われました。「幾許の軍卒があれば新羅を伐って得られるか。」
物部大連尾與らが奏して申しました。「少しばかりの軍卒では、たやすく征つことはできません。襄に男大迹天皇の六年、百済が使いを遣わして表を上り、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四つの縣を請いました。大伴大連金村はたやすく表の請いに依って、求めるところを許し賜りました。これによって新羅の怨みが年を積んでおりますので、軽々しく伐つことはできません。」
そこで大伴大連金村は住吉の宅に居り住んで、疾と称して朝しませんでした。
天皇は青海夫人勾子(あおみのおとじ)を遣わして、慇懃に慰め問わせました。大連は怖れ謝して申しました。「臣が疾むところは、ほかの事ではありません。今、諸々の臣たちが臣が任那を滅ぼしたと申しますので、恐れ怖れて朝さないだけです。」
そして鞍と馬を使いに贈り、厚く相い資け敬いました。青海夫人は実のとおりに顯して奏しました。
詔して申されました。「久しく忠誠を竭くしてきた。衆の口を恤えるな。」ついに罪とはせず、優い寵みがいよいよ深くなりました。
この年は太歳庚申です。
8五人の妃
二年春三月。納五妃。元妃。皇后弟曰稚綾姫皇女。是生石上皇子。次有皇后弟。曰日影皇女。是生倉皇子。次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛。生七男。六女。其一曰大兄皇子。是爲橘豐日尊。其二曰磐隈皇女。初侍祀於伊勢大神。後坐奸皇子茨城解。其三曰臈嘴鳥皇子。其四曰豐御食炊屋姫尊。其五曰椀子皇子。其六曰大宅皇女。其七曰石上部皇子。其八曰山背皇子。其九曰大伴皇女。其十曰櫻井皇子。其十一曰肩野皇女。其十二曰橘本稚皇子。其十三曰舎人皇女。次堅鹽媛同母弟曰小姉君。生四男。一女。其一曰茨城皇子。其二曰葛城皇子。其三曰渥部穴穗部皇女。其四曰泥部穴穗部皇子。其五曰泊瀬部皇子。
二年の春三月、五人の妃を納れました。
元の妃は、皇后の妹で稚綾姫皇女(わかあやひめのひめみこ)と申します。この方が石上皇子(いそのかみのみこ)を生みました。
次に皇后の妹があり、日影皇女(ひかげのひめみこ)と申します。この方が倉皇子(くらのみこ)を生みました。
次に蘇我大臣稻目宿禰の娘は堅鹽媛(きたしひめ)と申し、七男六女を生みました。その一を大兄皇子(おおえのみこ)と申し、これが橘豐日尊(たちばなのとよひのみこと)です。その二を磐隈皇女(いわくまのひめみこ)と申し、初めは伊勢の大神に祀りをお仕えになりましたが、後に茨城皇子と姧した事に坐して解かれました。その三を臈嘴鳥皇子(あとりのみこ)と申し、その四を豐御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)と申し、その五を椀子皇子(まろこのみこ)と申し、その六を大宅皇女(おおやけのひめみこ)と申し、その七を石上部皇子(いそのかみべのみこ)と申し、その八を山背皇子(やましろのみこ)と申し、その九を大伴皇女(おおとものひめみこ)と申し、その十を櫻井皇子(さくらいのみこ)と申し、その十一を肩野皇女(かたののひめみこ)と申し、その十二を橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)と申し、その十三を舎人皇女(とねりのひめみこ)と申します。
次に堅鹽媛の同母の妹は小姉君(おあねのきみ)と申し、四男一女を生みました。その一を茨城皇子(いばらきのみこ)と申し、その二を葛城皇子(かずらきのみこ)と申し、その三を渥部穴穗部皇女(はしうどのあなほべのひめみこ)と申し、その四を泥部穴穗部皇子(はしうどのあなほべのみこ)と申し、その五を泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と申します。
夾注 4
此曰皇后弟。明是桧隈高田天皇女。而列后妃之名。不見母妃姓與皇女名字。不知出何書。後勘者知之。
ここに皇后の妹と申すのは、桧隈高田天皇の娘であることが明らかです。けれども后妃の名を列ねながら、母の妃の姓と皇女の名字が見えません。どの書から出たのか分かりません。後に勘える者が、これを知るでしょう。
堅鹽。此云岐施志。
堅鹽は「きたし」と読みます。
更名夢皇女。
別の名は夢皇女(ゆめのひめみこ)です。
更名天香子皇子。一書云。更名住迹皇子。
別の名は天香子皇子(あまかごのみこ)です。ある書には、別の名は住迹皇子(すみとのみこ)と申します。
9春日の糠子
次春日日柧臣女曰糠子。生春日山田皇女。與橘麻呂皇子。
次に春日日柧臣(かすがのひつめのおみ)の娘は糠子(ぬかこ)と申し、春日山田皇女と橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ)を生みました。
夾注 1
一書云。其一曰茨城皇子。其二曰泥部穴穗部皇女。其三曰泥部穴穗部皇子。更名住迹皇子。其四曰葛城皇子。其五曰泊瀬部皇子。一書云。其一曰茨城皇子。其二曰住迹皇子。其三曰泥部穴穗部皇女。其四曰泥部穴穗部皇子。更名天香子。其五曰泊瀬部皇子。帝王本紀多有古字。撰集之人。屡經遷易。後人習讀。以意刊改。傳冩既多。遂致舛雜。前後失次。兄弟參差。今則孝覆古今。歸其眞正。一往難識者。且依一撰而注詳其異。他皆效此。
ある書には、その一を茨城皇子と申し、その二を泥部穴穗部皇女と申し、その三を泥部穴穗部皇子と申して別の名は住迹皇子、その四を葛城皇子と申し、その五を泊瀬部皇子と申します。ある書には、その一を茨城皇子と申し、その二を住迹皇子と申し、その三を泥部穴穗部皇女と申し、その四を泥部穴穗部皇子と申して別の名は天香子、その五を泊瀬部皇子と申します。帝王本紀には古い字が多くあり、撰み集めた人が、しばしば遷し易えました。後の人が習い読んで、意によって刊り改めました。伝え冩したものが既に多く、ついに舛い雑じるに至りました。前後が次を失い、兄弟が参差しています。今は古今を考え覆して、その眞しく正しいところに帰します。一度では識り難いものは、ひとまず一つの撰に依って、その異なるところを注に詳しくします。ほかもみなこれに效いました。
10任那を復び建てる議
夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。久取柔利。加羅上首位古殿奚。卒麻旱岐。散半奚旱岐兒。多羅下旱岐夷他。斯二岐旱岐兒。子他旱岐等。與任那日本府吉備臣。往赴百濟倶聽詔書。百濟聖明王謂任那旱岐等言。日本天皇所詔者。全以復建任那。今用何策起建任那。盍各盡忠奉展聖懷。任那旱岐等對曰。前再三廻與新羅議而無答報所圖之旨。更告新羅尚無所報。今宜倶遣使徃奏天皇。夫建任那者。爰在大王之意。祗承教旨。誰敢間言。然任那境接新羅。恐致卓淳等禍。聖明王曰。昔我先祖速古王。貴首王之世。安羅。加羅。卓淳旱岐等。初遣使相通。厚結親好。以爲子弟。冀可恒隆。而今被誑新羅使天皇忿怒而任那憤恨。寡人之過也。我深懲悔。而遣下部中佐平麻鹵。城方甲背昧奴等赴加羅會干任那日本府相盟。以後繋念。
夏四月、安羅の次旱岐である夷呑奚・大不孫・久取柔利、加羅の上首位である古殿奚、卒麻の旱岐、散半奚の旱岐の子、多羅の下旱岐である夷他、斯二岐の旱岐の子、子他の旱岐らが、任那日本府の吉備臣と共に百済に往き赴いて、ともに詔書を聴きました。
百済の聖明王が任那の旱岐らに申しました。「日本の天皇が詔されたところは、もっぱら任那を復び建てよということである。今、何の策によって任那を起こし建てようか。どうしてそれぞれ忠を尽くして、聖なる懷いを奉じ展べないでいられようか。」
任那の旱岐らが対えて申しました。「先に再三にわたって新羅と議りましたが、図るところの旨に答え報いることがありませんでした。さらに新羅に告げましたが、なお報いるところがありません。今は共に使いを遣わして往き、天皇に奏すべきです。そもそも任那を建てることは、ひとえに大王の意にあります。祗んで教えの旨を承れば、誰が敢えて間に言を入れましょうか。けれども任那の境は新羅に接していますので、卓淳などの禍を致すことを恐れます。」
聖明王が申しました。「昔、我が先祖の速古王・貴首王の世に、安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、初めて使いを遣わして相い通じ、厚く親しく好みを結んで、子や弟とした。恒に隆んであることを冀ったのである。
ところが今、新羅に誑かされて、天皇を忿らせ怒らせ、任那を憤り恨ませることになった。寡人の過ちである。我は深く懲り悔いて、下部の中佐平である麻鹵、城方の甲背である昧奴らを遣わし、加羅に赴いて任那日本府と会い、相い盟わせた。この後も念いを繋いで
夾注 2
闕名字。
名字が闕けています。
等謂喙己呑加羅。言卓淳等國有敗亡之禍。
「など」と申すのは、喙己呑と加羅を指します。卓淳などの国に敗れ亡びる禍があることを言ったのです。
11三つの国が亡びた理由
相續圖建任那。旦夕無忘。今天皇詔稱。速建任那。由是欲共爾曹謨計。樹立任那國。宜善圖之。又於任那境。徴召新羅。問聽與不。乃倶遣使奏聞天皇。恭承示教。儻如使人未還之際。新羅候隙侵逼任那。我當往救。不足爲憂。然善守備。謹警無忘。別汝所道。恐致卓淳等禍。非新羅自強故所能爲也。其■己呑。居加羅與新羅境際。而被連年攻敗。任那無能救援。由是見亡。其南加羅。■爾狹小。不能卒備。不知所託。由是見亡。其卓淳上下携貳。主欲自附。内應新羅。由是見亡。因斯而觀三國之敗。良有以也。昔新羅請援於高麗。而攻撃任那與百濟。尚不剋之。新羅安獨滅任那乎。今寡人與汝戮力并心。翳頼天皇。任那必起。因贈物各有差。忻忻而還。
相い続いて任那を建てることを図り、朝夕に忘れることがなかった。今、天皇の詔に『速やかに任那を建てよ』と称われた。これによって汝らと共に謨り計って、任那国を樹て立てようと思う。宜しくよく図れ。
また任那の境で新羅を徴し召して、聴くか聴かないかを問え。そして共に使いを遣わして天皇に奏し聞かせ、恭んで示された教えを承れ。
もし使いの人がまだ還らない間に、新羅が隙を候って任那を侵し逼るならば、我が往って救うであろう。憂えるには足りない。けれどもよく守り備え、謹んで警めて忘れるな。
別に汝らが道った『卓淳などの禍を致すことを恐れる』ということは、新羅が自ら強いゆえに能くできたことではない。
あの喙己呑は、加羅と新羅の境の際に居って、連年攻め敗られたが、任那は能く救い援けることがなかった。これによって亡びたのである。
あの南加羅は、地が爾さく狹くて、卒かなことに備えられず、託すところを知らなかった。これによって亡びたのである。
あの卓淳は、上と下が貳つの心を携え、主が自ら附こうとして、内から新羅に応じた。これによって亡びたのである。
これによって観れば、三つの国が敗れたことには、まことに由があるのだ。
昔、新羅が高麗に援けを請って任那と百済を攻め撃ったが、なおこれに剋てなかった。新羅がどうして独りで任那を滅ぼせようか。
今、寡人が汝らと力を戮せ心を并せて、天皇に翳み頼れば、任那は必ず起こるであろう。」
そして物を贈り、それぞれ差がありました。忻び忻びして還りました。
12安羅の日本府を責める
秋七月。百濟聞安羅日本府與新羅通計。遣前部奈率鼻利莫古。奈率宣文。中部奈率木州昧淳。紀臣奈率彌麻沙等。使于安羅。召到新羅任那執事謨建任那。別以安羅日本府河内直通計新羅。深責罵之。乃謂任那曰。昔我先祖速古王。貴首王。與故旱岐等。始約和親。式爲兄弟。於是我以汝爲子弟。汝以我爲父兄。共事天皇。倶距強敵。安國全家至于今日。言念先祖與舊旱岐。和親之詞。有如■日。自茲以降。勤修隣好。遂敦與國。恩踰骨肉。善始有終。寡人之所恒願。未審何縁輕用浮辭。數歳之間。慨然失志。古人云。追悔無及。此之謂也。上達雲際。下及泉中。誓神乎今。改咎乎菖。一無隠匿。發露所爲。請誠通靈。深自克責。亦所宜取。盖聞。爲人後者。
秋七月、百済は安羅の日本府が新羅と通じて計っていると聞き、前部の奈率である鼻利莫古、奈率の宣文、中部の奈率である木州昧淳、紀臣の奈率である彌麻沙らを、安羅に使いさせました。新羅に到っている任那の執事を召して、任那を建てることを謨りました。
別に、安羅の日本府の河内直が新羅と通じて計ったことを、深く責め罵りました。
そして任那に申しました。
「昔、我が先祖の速古王・貴首王が、故の旱岐らと始めて和親を約し、式のごとく兄弟となった。これによって我は汝らを子や弟とし、汝らは我を父や兄として、共に天皇に事え、ともに強い敵を距ぎ、国を安んじ家を全くして今日に至った。
先祖と旧い旱岐らの、和親の詞を言い念えば、明らかな日のようである。これより以降、隣の好みを勤め修めて、ついに与にする国を敦くした。恩は骨肉を踰えた。始めをよくして終わりを有つことは、寡人が恒に願うところである。
何の縁で軽々しく浮いた辞を用いて、数歳の間に、慨然として志を失ったのか、審らかにできない。古人が『追い悔いても及ばない』と云ったのは、これを謂うのである。
上は雲の際に達し、下は泉の中に及ぶまで、今、神に誓い、往いし咎を改めて、一つも隠し匿すことなく、為したところを発し露せ。誠が霊に通じることを請い、深く自ら克め責めよ。それもまた宜しく取るべきことである。
およそ聞くところでは、人の後となった者は
夾注 2
紀臣奈率者。盖是紀臣娶韓婦所生。因留百濟爲奈率者也。未詳其父。他皆效此也。
紀臣の奈率と申すのは、おそらく紀臣が韓の婦を娶って生ませた者で、百済に留まって奈率となった者でしょう。その父は詳らかではありません。ほかもみなこれに效いました。
百濟本記云。加不至費直阿賢移那斯佐魯麻都等。未詳也。
百済本記に、加不至費直・阿賢・移那斯・佐魯・麻都らと申します。詳らかではありません。
13先王の軌を継げ
貴能負荷先軌。克昌堂構。以成勲業也。故今追崇先世和親之好。敬順天皇詔勅之詞。拔取新羅所折之國。南加羅。■己呑等。還屬本貫。遷實任那。永作父兄。恒朝日本。此寡人之所食不甘味。寢不安席。悔往戒今之所勞想也。夫新羅甘言希誑。天下之所知也。汝等妄信既堕人權。方今任那境接新羅。宜常設備。豈能弛柝。爰恐陷羅誣欺網穽。喪國亡家。爲人繋虜。寡人念茲。勞想而不能自安矣。竊聞。任那與新羅運策席際。現蜂蛇恠。亦衆所知。且夫妖祥所以戒行。災異所以悟人。當是明天告戒。先靈之徴表者也。禍至追悔。滅後思興。孰云及矣。今汝遵余。聽天皇勅。可立任那。何患不成。若欲長存本土。永御舊民。其謨在茲。可不愼也。聖明王更謂任那日本府曰。天皇詔稱。任那若滅。汝則無資。任那若興。汝則有援。今宜興建任那。使如舊日。以爲汝助。撫養黎民。謹承詔勅悚懼填胸。誓効丹誠。
先の軌を負い荷って、よく堂構を昌かにし、勲しい業を成すことを貴しとすると申します。
ですから今、先の世の和親の好みを追い崇め、天皇の詔勅の詞を敬い順って、新羅が折り取った国である南加羅・喙己呑などを拔き取り、本の貫に還し属けて、任那に遷し実たし、永く父や兄となって、恒に日本に朝させようと思う。これが寡人が食べても味が甘くなく、寢ても席が安らかでなく、往いしことを悔い今を戒めて、勞い想うところである。
そもそも新羅が甘い言で希い誑かすことは、天下の知るところである。汝らが妄りに信じて、既に人の権に堕ちたのだ。
まさに今、任那の境は新羅に接しているから、宜しく常に備えを設けるべきである。どうして柝を弛めることができようか。ここに、新羅の誣き欺く網や穽に陥って、国を喪い家を亡ぼし、人の繋ぐ虜となることを恐れる。寡人がこれを念うと、勞い想っても自ら安んじることができない。
密かに聞くところでは、任那と新羅が席で策を運らせたとき、蜂と蛇の恠しいことが現れたという。それもまた衆の知るところである。
またそもそも妖しい祥は行いを戒めるためのものであり、災いや異りは人を悟らせるためのものである。これは明らかな天が告げ戒めるものであり、先の靈の徴し表すものである。禍が至ってから追い悔い、滅びた後に興すことを思っても、誰が及ぶと云えようか。
今、汝らが余に遵って天皇の勅を聴けば、任那を立てることができる。どうして成らないことを患えようか。もし本の土に長く存り、旧い民を永く御めようと思うなら、その謨りはここにある。愼まないでいられようか。」
聖明王がさらに任那日本府に申しました。
「天皇の詔に『任那がもし滅びれば、汝には資がない。任那がもし興れば、汝には援けがある。今、宜しく任那を興し建てて、旧い日のようにし、汝の助けとして、黎民を撫い養え』と称われた。
謹んで詔勅を承ると、悚れ懼れが胸に填ちる。丹い誠を効すことを誓って
14日本府を諭す
冀隆任那。永事天皇。猶如徃日。先慮未然。然後康樂。今日本府復能依詔。救助任那。是爲天皇所必襄讚。汝身所當賞祿。又日本卿等。久住任那之國。近接新羅之境。新羅情状。亦是所知。毒害任那。謨防日本。其來尚矣。匪唯今年。而不敢動者。近羞百濟。遠恐天皇。誘事朝廷。僞和任那。如斯感激任那日本府者。以未禽任那之間僞示伏從之状。願今候其間隙。■其不備。一擧兵而取之。天皇詔勅勸立南加羅。■己呑非但數十年。而新羅一不聽命。亦卿所知。且夫信敬天皇。爲立任那。豈若是乎。恐卿等輙信甘言。輕被謾語。滅任那國。奉辱天皇。卿其戒之。勿爲他欺。
任那が隆んになって、永く天皇に事えることが、なお往いし日のようであることを冀う。先に未だ然らざることを慮って、その後に康く楽しいのである。
今、日本府が復びよく詔に依って任那を救い助けるなら、これは天皇が必ず襄け讚えられるところであり、汝の身が当然に賞と祿を受けるところである。
また日本の卿らは、久しく任那の国に住んで、近く新羅の境に接しているから、新羅の情状もまた知るところであろう。任那を毒し害し、日本を防ぐことを謨ったのは、その由来が久しい。ただ今年だけのことではない。それなのに敢えて動かなかったのは、近くは百済に羞じ、遠くは天皇を恐れて、朝廷を誘い事え、任那と偽って和したのである。
このように任那日本府を感じ激ませるのは、まだ任那を禽えない間、偽って伏し従う状を示すためである。願わくは今、その間隙を候い、その備えのないところに乗じて、一挙に兵を挙げて取れ。
天皇の詔勅が南加羅と喙己呑を立てることを勧めてから、ただ数十年だけではないのに、新羅が一度も命を聴かなかったことも、また卿の知るところである。またそもそも天皇を信じ敬って任那を立てようとするなら、どうしてこのようであろうか。
卿らがたやすく甘い言を信じ、軽々しく謾る語に被れて、任那国を滅ぼし、天皇に辱めを奉ることを恐れる。卿らはこれを戒めて、他に欺かれるな。」
15下韓と任那の政を奏す
秋七月。百濟遣紀臣奈率彌麻沙。中部奈率己連。來奏下韓任那之政。并上表之。
秋七月、百済が紀臣の奈率である彌麻沙と、中部の奈率である己連を遣わして、来て下韓と任那の政を奏し、あわせて表を上りました。
16彌麻沙らが罷る
四年夏四月。百濟紀臣奈率彌麻沙等罷之。
四年の夏四月、百済の紀臣の奈率である彌麻沙らが罷りました。
17扶南の財物を献じる
秋九月。百濟聖明王。遣前部奈率眞牟貴文。護徳己州己婁。與物部施徳麻奇牟等來獻扶南財物與奴二口。
秋九月、百済の聖明王が、前部の奈率である眞牟貴文、護徳の己州己婁、物部施徳麻奇牟(もののべのせとくまきむ)らを遣わして、来て扶南の財物と奴二口を献じました。
18下韓の郡令・城主をめぐって争う
冬十一月丁亥朔甲午。遣津守連。沼百濟曰。在任那之下韓。百濟郡令。城主。宜附日本府。并持詔書。宣曰。爾屡抗表。稱當建任那十餘年矣。表奏如此。尚未成之。且夫任那者爲爾國之棟梁。如折棟梁。誰成屋宇。朕念在茲。爾須早建。汝若早建任那。河内直等自當止退。豈足云乎。是日。聖明王聞宣勅已。歴問三佐平内頭及諸臣曰。詔勅如是。當復何如。三佐平等答曰。在下韓之我郡令。城主。不可出之。建國之事宜早聽聖勅。
冬十一月丁亥の朔の甲午の日、津守連(つもりのむらじ)を遣わして百済に詔されました。「任那の下韓にある百済の郡令と城主は、宜しく日本府に附けよ。」
あわせて詔書を持たせて宣べさせました。「爾はしばしば表を抗げて、任那を建てるはずだと称えてから十余年である。表に奏することはこのようであるのに、なおこれを成していない。またそもそも任那は、爾の国の棟梁である。棟梁が折れたら、誰が屋宇を成すのか。朕の念いはここにある。爾は須く早く建てよ。汝がもし早く任那を建てれば、河内直らは自ら止み退くであろう。どうして云うに足りようか。」
この日、聖明王は宣べられた勅を聞き終えて、三人の佐平と内頭および諸々の臣に歴て問いました。「詔勅はこのようである。まさに復びどうすべきか。」
三人の佐平らが答えて申しました。「下韓にいる我らの郡令と城主は、出すことはできません。国を建てる事は、宜しく早く聖なる勅を聴くべきです。」
夾注 1
河内直已見上文
河内直らは、既に上の文に見えます。
19群臣が議る
十二月。百濟聖明王。復以前詔普示群臣曰。天皇詔勅如是。當復何如。上佐平沙宅己婁。中佐平木州麻那。下佐平木尹貴。徳率鼻利莫古。徳率東城道天。徳率木州昧淳。徳率國雖多。奈率燕比善那等。同議曰。臣等禀性愚闇。都無智略。詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事。國國旱岐等。倶謀同計。抗表述志。又河内直移那斯。麻都等猶住安羅。任那恐難建之。故亦并表乞移本處也。聖明王曰。群臣所議。甚稱寡人之心。
十二月、百済の聖明王が、復び先の詔を群臣に普く示して申しました。「天皇の詔勅はこのようである。まさに復びどうすべきか。」
上佐平の沙宅己婁、中佐平の木州麻那、下佐平の木尹貴、徳率の鼻利莫古、徳率の東城道天、徳率の木州昧淳、徳率の國雖多、奈率の燕比善那らが、同じく議って申しました。
「臣らは禀けた性が愚かに闇く、まったく智略がありません。任那を建てよと詔されましたので、早く勅を奉るべきです。今は宜しく任那の執事と、国々の旱岐らを召して、ともに謀り同じく計り、表を抗げて志を述べるべきです。
また河内直の移那斯、麻都らがなお安羅に住んでいますので、任那を建てるのは難しいことを恐れます。ですからまたあわせて表を上って、本の処に移すことを乞うべきです。」
聖明王が申しました。「群臣が議ったところは、甚だ寡人の心に称っている。」
20執事を召す
是月。乃遣施徳高分。召任那執事與日本府執事。倶答言。過正旦而往聽焉。
この月、そこで施徳の高分を遣わして、任那の執事と日本府の執事を召しました。ともに答えて申しました。「正旦を過ぎてから往って聴きましょう。」
21再び召す
五年春正月。百濟國遣使召任那執事與日本府執事。倶答言。祭神時到。祭了而往。
五年の春正月、百済国が使いを遣わして任那の執事と日本府の執事を召しました。ともに答えて申しました。「神を祭る時が到りました。祭り終えてから往きましょう。」
22微しい者だけを遣わす
是月。百濟復遣使召任那執事與日本府執事。日本府。任那。倶不遣執事。而遣微者。由是百濟不得倶謀建任那國。
この月、百済が復び使いを遣わして任那の執事と日本府の執事を召しました。日本府と任那は、ともに執事を遣わさず、微しい者を遣わしました。これによって百済は、ともに任那国を建てることを謀ることができませんでした。
23河内直を罵る
二月。百濟遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府與任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率彌麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。彌麻沙等還自日本。以詔書宣曰。汝等宜共在彼日本府早建良圖副朕所望。爾其戒之。勿被他誑。又津守連從日本來。宣詔勅而問任那之政。故將欲共日本府任那執事。議定任那之政。奉奏天皇。遺召三廻尚不來到。由是不得共論圖計任那之政。奉奏天皇矣。今欲請留津守連。別以疾使。具申情状遣奏天皇。當以三月十日發遣使於日本。此使便到。天皇必須問汝。汝日本府卿。任那旱岐等。各宜發使共我使人。往聽天皇所宣之詔。別謂河内直。自昔迄今。唯聞汝悪。汝先祖等。倶懷奸僞。
二月、百済が施徳の馬武、施徳の高分屋、施徳の斯那奴次酒らを任那に使いさせ、日本府と任那の旱岐らに申しました。
「我らは紀臣の奈率である彌麻沙、奈率の己連、物部連の奈率である用歌多を遣わして、天皇に朝し謁えました。彌麻沙らが日本から還り、詔書をもって宣べて申すには、『汝らは宜しく彼の日本府と共に、早く良い図りを建てて、朕の望むところに副え。爾らはこれを戒めて、他に誑かされるな』とありました。
また津守連が日本から来て、詔勅を宣べて任那の政を問いました。ですから日本府と任那の執事と共に、任那の政を議り定めて、天皇に奉り奏そうとしました。三たび遣わして召しても、なお来り到りませんでした。これによって、共に任那の政を論じ図り計って、天皇に奉り奏すことができませんでした。
今、津守連を留めることを請い、別に疾い使いをもって情状を具さに申し、天皇に奏させようと思う。まさに三月十日に使いを日本に発ち遣わすであろう。この使いが到れば、天皇は必ず汝らに問われるであろう。汝ら日本府の卿、任那の旱岐らは、それぞれ宜しく使いを発して、我が使いの人と共に往き、天皇が宣べられる詔を聴け。」
別に河内直に申しました。「昔から今に至るまで、ただ汝の悪しきことばかりを聞いた。汝の先祖らは、ともに奸しく偽ることを懷いて
夾注 3
百濟本記云。津守連己麻奴跪。而語訛不正。未詳。
百済本記に、津守連己麻奴跪と申します。けれども語が訛って正しくなく、詳らかではありません。
百濟本記云。河内直移那斯。麻都。而語訛未詳其正也。
百済本記に、河内直移那斯・麻都と申します。けれども語が訛って、その正しさを詳らかにできません。
百濟本記云。汝先那干陀甲背。加臘直岐甲背。亦云。那哥陀甲背。鷹哥岐彌。語訛未詳。
百済本記に「汝の先の那干陀甲背、加臘直岐甲背」と申し、また「那哥陀甲背、鷹哥岐彌」と申します。語が訛って詳らかではありません。
24日本府が答える
誘説。爲哥可君專信其言不憂國難。乖背吾心縱肆暴虐。由是見逐。職汝之由。汝等來住任那。恒行不善。任那日損。職汝之由。汝是雖微。譬猶小火燒焚山野。連延村邑。由汝行惡。當敗任那。遂使海西諸國官家。不得長奉天皇之闕。今遣奏天皇。乞移汝等。還其本處。汝亦往聞。又謂日本府卿。任那旱岐等曰。夫建任那之國。不假天皇之威。誰能建也。故我思欲就天皇。請將士。而助任那之國。將士之粮我當須運。將士之數未限若干。運粮之處亦難自決。願居一處。倶論可不。擇從其善。將奏天皇。故頻遣召。汝猶不來。不得議也。日本府答曰。任那執事不赴召者。是由吾不遣。不得往之。吾遣奏天皇。還使宣曰。朕當以印哥臣。遣於新羅。以津守連。遺於百濟。汝待聞勅際。莫自勞徃新羅。百濟也。宣勅如是。會聞印哥臣使於新羅。乃追遣問天皇所宣詔。
誘い説いた。爲哥可君(いかがきみ)はもっぱらその言を信じて、国の難を憂えず、吾の心に乖き背いて、暴虐を縦り肆にした。これによって逐われたのは、ひとえに汝に由ることである。
汝らが任那に来り住んで、恆に善からぬことを行ったので、任那は日ごとに損じた。ひとえに汝に由ることである。
汝はたとえ微しくとも、譬えればなお小さい火が山野を燒き焚いて、村や邑に連なり延びるようなものである。汝の悪しき行いによって、まさに任那は敗れるであろう。ついに海の西の諸々の国の官家が、長く天皇の闕を奉ることができなくなった。
今、天皇に奏し遣わして、汝らを移し、その本の処に還すことを乞おう。汝もまた往って聞け。」
また日本府の卿と任那の旱岐らに申しました。
「そもそも任那の国を建てるのに、天皇の威を假らずに、誰が能く建てられようか。ですから我は天皇に就いて将士を請い、任那の国を助けようと思う。将士の粮は、我が須く運ぶべきである。将士の数はまだ若干と限ってはおらず、粮を運ぶ処もまた自ら決し難い。願わくは一処に居って、ともに可と不可を論じ、その善いところを択び従って、天皇に奏そうと思う。ですから頻りに遣わして召したのに、汝らはなお来ないので、議ることができなかった。」
日本府が答えて申しました。
「任那の執事が召しに赴かなかったのは、これは吾が遣わさなかったことに由るので、往くことができなかったのです。吾が天皇に奏し遣わしますと、還ってきた使いが宣べて申すには、『朕はまさに印哥臣(いきのおみ)を新羅に遣わし、津守連を百済に遣わすであろう。汝は勅を聞く際を待て。自ら勞して新羅や百済に往くな』とありました。
勅を宣べられたことはこのようでしたが、たまたま印哥臣が新羅に使いしたと聞きましたので、そこで追い遣わして、天皇が宣べられた詔を問いました。
夾注 2
百濟本記云。爲哥岐彌。名有非岐。
爲哥可君は、百済本記には爲哥岐彌と申し、名は有非岐と申します。
語訛未詳。
語が訛って詳らかではありません。
25津守連が通り過ぎる
曰。日本臣與任那執事。應就新羅。聽天皇勅。而不宣就百濟聽命也。後津守連遂來。過此。謂之曰。今余被遣於百濟者。將出在下韓之百濟郡令。城主。唯聞此説。不聞任那與日本府。會於百濟。聽天皇勅。故不徃焉。非任那意。於是任那旱岐等曰。由使來召、便欲徃參。日本府卿不肯發遣。故不徃焉。大王爲建任那。觸情曉示。覩茲忻喜難可具申。
答えには『日本の臣と任那の執事は、まさに新羅に就いて天皇の勅を聴け』とあり、百済に就いて命を聴けとは宣べられませんでした。
後に津守連がついに来て、ここを過ぎながら申しました。『今、余が百済に遣わされたのは、下韓にいる百済の郡令と城主を出させるためである。』
ただこの説を聞いただけで、任那と日本府が百済に会して天皇の勅を聴けということは聞きませんでした。ですから往かなかったのです。任那の意ではありません。」
そこで任那の旱岐らが申しました。「使いが来て召しましたので、すぐに往って参ろうとしましたが、日本府の卿が発ち遣わすことを肯じませんでした。ですから往かなかったのです。大王が任那を建てるために、情に触れて曉し示してくださいました。これを覩ますと、忻び喜びを具さに申し上げることは難しいほどです。」
26二人を移すよう奏す
三月。百濟遺奈率阿■得文。許勢奈率哥麻。物部奈率哥非等。上表曰。奈率彌麻沙。奈率己連等至臣蕃。奉詔書曰。爾等宜共在彼日本府同謀善計。早建任那。爾其戒之。勿被他誑。又津守連等至臣蕃。奉勅書。問建任那。恭承來勅。不敢停時。爲欲共謀。乃遣使召日本府與任那。倶對言。新年既至。願過而徃。久而不就。復遣使召。倶對言。祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者。不得同計。夫任那之不赴召者。非其意焉。是阿賢移那斯。佐魯麻都。奸佞之所作也。夫任那者以安羅爲兄。唯從其意。安羅人者。以日本府爲天。唯從其意。今的臣。吉備臣。河内直等。咸從移那斯。麻都指■而已。移那斯。麻都。雖是小家微者。專擅日本府之政。又制任那。障而勿遣。由是不得同計奏答天皇。
三月、百済が奈率の阿■得文、許勢の奈率である哥麻、物部の奈率である哥非らを遣わして、表を上って申しました。
「奈率の彌麻沙、奈率の己連らが臣の蕃に至り、詔書を奉じて申すには『爾らは宜しく彼の日本府と共に、同じく善い計を謀って、早く任那を建てよ。爾らはこれを戒めて、他に誑かされるな』とありました。
また津守連らが臣の蕃に至り、勅書を奉じて任那を建てることを問いました。恭んで来された勅を承り、敢えて時を停めませんでした。共に謀ろうとして、そこで使いを遣わして日本府と任那を召しました。
ともに対えて『新しい年が既に至りました。過ぎてから往きたく存じます』と申しました。久しく就きませんので、復び使いを遣わして召しました。ともに対えて『祭りの時が既に至りました。過ぎてから往きたく存じます』と申しました。久しく就きませんので、復び使いを遣わして召しましたが、微しい者を遣わしたために、同じく計ることができませんでした。
そもそも任那が召しに赴かなかったのは、その意ではありません。これは阿賢移那斯、佐魯麻都の、奸しく佞る心が作ったところです。
そもそも任那は安羅を兄として、ただその意に従い、安羅の人は日本府を天として、ただその意に従います。今、的臣、吉備臣、河内直らは、みな移那斯、麻都が指し示すところに従うばかりです。
移那斯、麻都は、たとえ小さい家の微しい者であっても、日本府の政を専ら擅にし、また任那を制して障えて遣わしません。これによって同じく計って天皇に奏し答えることができません。
夾注 3
百済本記云。遣召烏胡跛臣。盖是的臣也。
使いを遣わして日本府を召したことを、百済本記には烏胡跛臣を召したと申します。おそらく的臣でしょう。
二人名也。巳見上文。
二人の名です。既に上の文に見えます。
百濟本記云。以安羅爲父。以日本府爲本也。
百済本記には、安羅を父とし、日本府を本とすると申します。
27新羅の耕作
故留己麻奴跪。別遣疾使迅如飛烏。奉奏天皇。假使二人。在於安羅。多行奸佞。任那難建。海西諸國。必不獲事。伏請移此二人。還其本處。勅唹日本府與任那。而圖建任那。故臣遣奈率彌麻沙。奈率己連等。副己麻奴跪上表以聞。於是詔曰。的臣等。往來新羅非朕心也。襄者。印支彌與阿鹵旱岐在時。爲新羅所逼。而不得耕種。百済路迥。不能救急。由的臣等往來新羅。方得耕種。朕所曾聞。若已建任那。移那斯。麻都。自然却退。豈足云乎。伏承此詔。喜懼兼懷。而新羅誑朝。知匪天勅。新羅春取■淳。仍擯出我久禮山戍。而遂有之。近安羅處。安羅耕種。近久禮山處。新羅耕種。各自耕之不相侵奪。而移那斯。麻都。過耕他界。六月逃去。於印支彌後來許勢臣時。新羅無復侵逼他境。
ですから己麻奴跪を留めて、別に疾い使いを飛ぶ烏のように迅く遣わして、天皇に奉り奏します。
もし二人が安羅にいて、奸しく佞ることを多く行えば、任那を建てることは難しく、海の西の諸々の国は必ず事えることができないでしょう。伏してお請い申し上げます。この二人を移して、その本の処に還してください。
日本府と任那に勅して、任那を建てることを図らせてください。ですから臣は奈率の彌麻沙、奈率の己連らを遣わし、己麻奴跪に副えて表を上り、お聞かせ申し上げます。」
そこで詔して申されました。
「的臣らが新羅に往き来したのは、朕の心ではない。襄に印支彌(いきみ)と阿鹵旱岐がいたとき、新羅に逼られて耕し種えることができなかった。百済は路が迥くて、急を救うことができなかった。的臣らが新羅に往き来したことによって、まさに耕し種えることができたのである。朕がかつて聞いたところだ。もし既に任那を建てれば、移那斯、麻都は自然に却き退くであろう。どうして云うに足りようか。」
伏してこの詔を承りまして、喜びと懼れを兼ねて懷きます。けれども新羅が朝を誑かしたことは、天の勅ではないと存じます。
新羅は春に卓淳を取り、そのまま我らの久禮山の戍を擯い出して、ついにこれを有ちました。安羅に近い処は安羅が耕し種え、久禮山に近い処は新羅が耕し種えて、各々自ら耕し、相い侵し奪うことはありませんでした。ところが移那斯、麻都が他の界を過ぎて耕し、六月に逃げ去りました。
印支彌の後に来た許勢臣のときには、新羅は復び他の境を侵し逼ることがありませんでした。
夾注 4
蓋是津守連也。
おそらく津守連でしょう。
二人者。移那斯與麻都也。
二人とは、移那斯と麻都です。
等者謂吉備弟君臣。河内直等也。
「ら」とは、吉備弟君臣と河内直らを指します。
百濟本記云。我留印支彌之後。至既酒臣時。皆未詳。
百済本記に「我らが印支彌を留めた後、既酒臣の時に至って」と申します。いずれも詳らかではありません。
28麻都が新羅の冠を着る
安羅不言爲新羅逼不得耕種。臣甞聞。新羅毎春秋。多聚兵甲。欲襲安羅與荷山。或聞。當襲加羅。頃得書信。便遣將士。擁守任那。無懈怠也。頻發鋭兵。應時往救。是以任那随序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百濟路迥。不能救急。由的臣等往來新羅。方得耕種。是上欺天朝。轉成奸佞也。曉然若是。尚欺天朝。自餘虚妄。必多有之。的臣等猶住安羅。任那之國恐難建立。宜早退却。臣深懼之。佐魯麻都雖是韓腹。位居大連。廁日本執事之間。入榮班貴盛之之例。而今反著新羅奈麻禮冠。即身心歸附。於他易照。熟觀所作。都無怖畏。故前奏惡行。具録聞訖。今猶著他服。日赴新羅域。公私往還。都無所憚。夫喙國之滅。匪由他也。喙國之凾跛旱岐。貳心加羅國。而内應新羅。加羅自外合戰。由是滅焉。若使凾跛旱岐不爲内應。喙國雖小。未必亡也。至於卓淳。亦復然之。假使卓淳國主不爲内應新羅招冦。
安羅は、新羅に逼られて耕し種えることができないとは申しませんでした。
臣がかつて聞きますに、新羅は春と秋ごとに兵と甲を多く聚めて、安羅と荷山を襲おうとし、あるいは加羅を襲うはずだと聞きました。頃ごろ書信を得ますと、すぐに将士を遣わして任那を擁り守らせ、懈り怠ることがありませんでした。頻りに鋭い兵を発して、時に応じて往き救いました。これによって任那は序に随って耕し種え、新羅は敢えて侵し逼ることができませんでした。
それなのに『百済は路が迥くて急を救うことができず、的臣らが新羅に往き来したことによって、まさに耕し種えることができた』と奏したのは、上は天朝を欺くことであり、転じて奸しく佞ることを成すものです。これほど曉らかであるのに、なお天朝を欺くのですから、その余の虚しく妄りなことも、必ず多くあるでしょう。
的臣らがなお安羅に住んでいては、任那の国を建て立てることは難しいことを恐れます。宜しく早く退き却かせてください。臣はこれを深く懼れます。
佐魯麻都は、たとえ韓の腹から出たとはいえ、位は大連に居って、日本の執事の間に廁わり、栄えある班、貴く盛んな例に入っています。それなのに今、反って新羅の奈麻禮の冠を著けていますので、すなわち身も心も他に帰り附いたことが、容易に照らし見えます。
その為すところを熟く観ますと、まったく怖れ畏れがありません。ですから先に悪しき行いを奏し、具さに録してお聞かせ申し上げ終えました。今もなお他の服を著け、日ごとに新羅の域に赴き、公私に往き還って、まったく憚るところがありません。
そもそも喙国が滅びたのは、他に由ることではありません。喙国の凾跛旱岐が加羅国に貳つの心を持って、内から新羅に応じ、加羅が外から合わせて戦いました。これによって滅びたのです。もし凾跛旱岐が内から応じなかったなら、喙国はたとえ小さくても、必ず亡びはしなかったでしょう。
卓淳に至っても、また復びそのとおりです。もし卓淳の国主が内から新羅に応じて冦を招かなかったなら
29内から応じる者が国を亡ぼす
豈至滅乎。歴觀諸國敗亡之禍。皆由内應貳心人者。今麻都等腹心新羅。遂着其服。徃還旦夕。陰搆■心。乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣國孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑒遠察。速移本處。以安任那。
どうして滅びるに至ったでしょうか。
諸々の国が敗れ亡びた禍を歴て観ますと、みな内から応じて貳つの心を持つ人に由るものです。
今、麻都らは新羅を腹心として、ついにその服を着け、旦夕に往き還って、陰かに冦の心を搆えています。そこで、任那がこれによって永く滅びることを恐れます。任那がもし滅びれば、臣の国は孤り危うくなります。朝そうと思っても、どうして復びできましょうか。
伏してお願い申し上げます。天皇が玄かに鑒み遠く察せられて、速やかに本の処に移し、任那を安んじてください。」
30使いが罷り帰る
冬十月。百濟使人奈率得文。奈率哥麻等罷歸。
冬十月、百済の使いの人である奈率の得文、奈率の哥麻らが罷り帰りました。
夾注 1
百濟本記云。冬十月奈率得文。奈率哥麻等還自日本曰。所奏河内直移那斯。麻都等事。無報勅也。
百済本記に申します。冬十月、奈率の得文、奈率の哥麻らが日本から還って「奏した河内直移那斯、麻都らの事について、報いる勅はなかった」と申したとあります。
31三つの策 — その一
十一月。百濟遣使召日本府臣。任那執事曰。遺朝天皇。奈率得文。許勢奈率哥麻。物部奈率哥非等還自日本。今日本府臣及任那國執事。宜來聽勅同議任那。日本吉備臣。安羅下旱岐大不孫。久取柔利。加羅上首位古殿奚。卒麻君。斯二岐君。散半奚君兒。多羅二首位訖乾智。子他旱岐。久嵯旱岐。仍赴百濟。於是百濟王聖明略以詔書示曰。吾遣奈率彌麻佐。奈率己連。奈率用哥多等。朝於日本。詔曰。早建任那。又津守連奉勅問成任那。故遣召之。當復何如能建任那。請各陳謀。吉備臣。任那旱岐等曰。夫建任那國。唯在大王。欲冀遵王。倶奏聽勅。聖明王謂之曰。任那之國。與吾百濟。自古以來約爲子弟。今日本府印岐彌既討新羅。更將伐我。又樂聽新羅虚誕謾語也。夫遣印支彌於任那者。本非侵害其國。往古來今新羅无導。食言違信。而滅卓淳股肱之國。
十一月、百済が使いを遣わして日本府の臣と任那の執事を召して申しました。「天皇に朝させるために遣わした奈率の得文、許勢の奈率である哥麻、物部の奈率である哥非らが日本から還った。今、日本府の臣と任那国の執事は、宜しく来て勅を聴き、同じく任那を議れ。」
日本の吉備臣、安羅の下旱岐である大不孫・久取柔利、加羅の上首位である古殿奚、卒麻君、斯二岐君、散半奚君の子、多羅の二首位である訖乾智、子他旱岐、久嵯旱岐が、そこで百済に赴きました。
そこで百済の王である聖明が、詔書を略して示して申しました。「吾が奈率の彌麻佐、奈率の己連、奈率の用哥多らを遣わして日本に朝させますと、詔に『早く任那を建てよ』とありました。また津守連が勅を奉じて任那を成すことを問いました。ですから遣わして召したのである。まさに復びどうすれば能く任那を建てられるか。どうかそれぞれ謀を陳べよ。」
吉備臣と任那の旱岐らが申しました。「そもそも任那国を建てることは、ひとえに大王にかかっています。願わくは王に遵って、ともに奏して勅を聴きたく存じます。」
聖明王がこれに申しました。
「任那の国は、吾が百済と、古より以来、子や弟となることを約した。今、日本府の印岐彌が既に新羅を討ち、更に我を伐とうとしている。また新羅の虚しく誕り謾る語を楽しんで聴いている。
そもそも印支彌を任那に遣わしたのは、本よりその国を侵し害するためではなかった。往古から来今まで、新羅は導がなく、言を食んで信に違い、股肱の国である卓淳を滅ぼした。
夾注 1
謂在任那日本臣名也。
日本府の印岐彌は、任那にいる日本の臣の名を指します。
32三つの策 — その二とその三
欲快返悔。故遣召到倶承恩詔。欲冀興繼任那之國。猶如舊日永爲兄弟。竊聞。新羅。安羅兩國之境有大江水。要害之地也。吾欲據此脩繕六城。謹請天皇三千兵士。毎城充以五百。并我兵士勿使作田。而逼悩者。久禮山之五城、庶自投兵降首。卓淳之國。亦復當興。所請兵士吾給衣粮。欲奏天皇。其策一也。猶於南韓。置郡令。城主者。豈欲違背天皇遮斷貢調之路。唯庶尅濟多難殲撲強敵。凡厥凶黨。誰不謀附。北敵強大。我國微弱。若不置南韓郡領。城主修理防護。不可以禦此強敵。亦不可以制新羅。故猶置之攻逼新羅撫存任那。若不爾者。恐見滅亡不得朝聘。欲奏天皇。其策二也。又吉備臣。河内直。移那斯。麻都。猶在那國者。天皇雖詔建成任那。不可得也。請移此四人。各遣還其本邑。奏於天皇。其策三也。宜與日本臣。任那旱岐等。倶奉遣使。同奏天皇。乞聽恩詔。於是吉備臣。旱岐等曰。
速やかに悔いを快くしようと思って、遣わして召し到らせ、ともに恩の詔を承って、任那の国を興し継ぎ、なお旧い日のように永く兄弟となることを冀う。
密かに聞くところでは、新羅と安羅の両国の境に大きな江の水があり、要害の地だという。吾はここに據って六つの城を脩め繕おうと思う。謹んで天皇に兵士三千を請い、城ごとに五百を充て、あわせて我が兵士で田を作らせないようにして逼り悩ませれば、久禮山の五つの城は、おそらく自ら兵を投げて首を降すであろう。卓淳の国もまた、復びまさに興るであろう。請う兵士の衣と粮は吾が給する。これを天皇に奏そうと思う。その策が一つめである。
なお南韓に郡令と城主を置くことは、どうして天皇に違い背いて貢調の路を遮り断とうとするものであろうか。ただ多くの難を尅ち済い、強い敵を殲し撲つことを庶うばかりである。およそあの凶しい党のうち、誰が附くことを謀らないであろうか。北の敵は強く大きく、我が国は微しく弱い。もし南韓に郡領と城主を置いて防ぎ護ることを修め理めなければ、この強い敵を禦ぐことはできず、また新羅を制することもできない。ですからなおこれを置いて、新羅を攻め逼り、任那を撫い存える。もしそうしなければ、滅び亡びて朝し聘うことができなくなることを恐れる。これを天皇に奏そうと思う。その策が二つめである。
また吉備臣、河内直、移那斯、麻都が、なおあの国にいては、天皇が任那を建て成せと詔されても、得ることはできない。どうかこの四人を移して、それぞれその本の邑に遣わし還すことを天皇に奏そうと思う。その策が三つめである。
宜しく日本の臣、任那の旱岐らと、ともに使いを奉り遣わして、同じく天皇に奏し、恩の詔を聴くことを乞おう。」
そこで吉備臣と旱岐らが申しました。
33千載に一度会う時
大王所述三策。亦協愚情而已。今願歸以敬諮日本大臣。安羅王。加羅王。倶遣使同奏天皇。此誠千載一會之期。可不深思而熟計歟。
「大王が述べられた三つの策は、また愚かな私どもの情にも協っております。今、願わくは帰って、日本の大臣、安羅王、加羅王に敬って諮り、ともに使いを遣わして同じく天皇に奏したく存じます。これはまことに千載に一度会う期ですから、深く思い熟く計らないでいられましょうか。」
夾注 1
謂在任那日本府之大臣也。
任那日本府の大臣を指します。
34佐渡嶋の肅愼人
十二月。越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅。不敢近之。嶋東禹武邑人採拾椎子。爲欲熟喫。著灰裏炮。其皮甲化成二人。飛騰火上一尺餘許。經時相闘。邑人深以爲異。取置於庭。亦如前飛相闘不已。有人占云。是邑人必爲魃鬼所迷惑。不久如言被其抄掠。於是肅愼人移就瀬波河浦。浦神嚴忌。人敢近。渇飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。
十二月、越国が申しました。
「佐渡嶋の北、御名部の碕の岸に肅愼(みしはせ)の人がいて、一艘の船に乗って来て、長く淹り留まりました。春と夏には魚を捕って食に充てました。あの嶋の人は、人ではないと申し、また鬼魅だと申して、敢えて近づきませんでした。
嶋の東の禹武の邑の人が椎の子を採り拾い、熟して喫べようとして、灰の裏に著けて炮りました。その皮の甲が二人に化り成って、火の上一尺余りばかりに飛び騰り、時を経て相い闘いました。邑の人は深くこれを異としまして、取って庭に置きました。やはり前のように飛んで相い闘うことが已みませんでした。
ある人が占って『この邑の人は必ず魃鬼に迷わし惑わされるであろう』と申しましたが、久しからずして言のとおりに、その抄め掠められるのを被りました。
そこで肅愼の人は瀬波河の浦に移り就きました。浦の神が嚴しく忌みますので、人は敢えて近づきません。渇いてその水を飲み、死んだ者が半ばほどでした。骨が巖の岫に積もり、俗に肅愼隈(みしはせのくま)と呼びます。」
35巴提便を百済に遣わす
六年春三月。遣膳臣巴提便使于百濟。
六年の春三月、膳臣巴提便(かしわでのおみはでび)を百済に使いさせました。
36百済が表を上る
夏五月。百濟遣奈率其悛。奈率用哥多。施徳次酒等上表。
夏五月、百済が奈率の其悛、奈率の用哥多、施徳の次酒らを遣わして表を上りました。
37呉の財物を贈る
秋九月。百濟遣中部護徳菩提等使于任那。贈呉財於日本府臣及諸旱岐各有差。
秋九月、百済が中部の護徳である菩提らを任那に使いさせ、呉の財物を日本府の臣と諸々の旱岐に贈りましたが、それぞれ差がありました。
38丈六の仏像を造る
是月。百濟造丈六佛像。製願文曰。盖聞。造丈六佛功徳甚大。今敬造。以此功徳。願天皇獲勝善之徳。天皇所用彌移居國倶蒙福祐。又願普天之下一切衆生皆蒙解脱。故造之矣。
この月、百済が丈六の仏像を造り、願文を製って申しました。
「およそ聞きますに、丈六の仏を造る功徳は甚だ大きいと申します。今、敬って造ります。この功徳によって、天皇が勝れ善い徳を獲られ、天皇が用められる彌移居(みやけ)の国が、ともに福と祐けを蒙ることを願います。また、普天の下の一切の衆生が、みな解脱を蒙ることを願います。ですからこれを造るのです。」
39巴提便が虎を殺す
冬十一月。膳臣巴提便還自百濟言。臣被遣使。妻子相逐去。行至百濟濱。日晩停宿。小兒忽亡不知所之。其夜大雪。天曉始求有虎連跡。臣乃帶刀■甲。尋至巖岫。拔刀曰。敬受絲綸、劬勞陸海、櫛風沐雨、藉草班荊者。爲愛其子令紹父業也。惟汝威神。愛子一也。今夜兒亡。追蹤覓至。不畏亡命。欲報故來。既而其虎進前開口欲噬。巴提便忽申左手。執其虎舌。右手刺殺。剥取皮還。
冬十一月、膳臣巴提便が百済から還って申しました。
「臣が使いとして遣わされますと、妻子が相い逐って行きました。行って百済の濱に至り、日が晩れて停まり宿りました。小さい兒が忽ちに亡くなって、行った所が分かりませんでした。その夜、大きな雪が降りました。天が曉けてから初めて求めますと、虎の連なった跡がありました。
臣はそこで刀を帯び甲を著け、尋ねて巖の岫に至り、刀を拔いて申しました。『敬んで絲綸を受け、陸と海に劬れ勞い、風に櫛り雨に沐い、草を藉き荊を班べて寝るのは、その子を愛んで父の業を紹がせるためである。ただ汝、威ある神よ、子を愛むことは一つである。今夜、兒が亡くなり、蹤を追い覓めて至った。命を亡うことを畏れず、報いようとして来たのだ。』
やがてその虎が前に進み、口を開いて噬もうとしました。巴提便は忽ちに左の手を申べて、その虎の舌を執り、右の手で刺し殺しました。皮を剥ぎ取って還りました。」
夾注 1
濱。海濱也。
濱は海の濱です。
40高麗が大いに乱れる
是歳。高麗大亂被誅殺者衆。
この年、高麗が大いに乱れ、誅され殺された者が多くありました。
夾注 1
百濟本記云。十二月甲午。《廿》高麗國細群與麁群戰于宮門。伐鼓戰闘。細群敗不解兵。三日。盡捕誅細群子孫。戊戌。《廿四》狛鵠香岡上王薨也。
百済本記に申します。十二月甲午の日、高麗国の細群と麁群が宮門で戦いました。鼓を伐って戦い闘いました。細群が敗れ、三日のあいだ兵を解きませんでした。細群の子孫をことごとく捕えて誅しました。戊戌の日、高麗の鵠香岡上王が薨じたとあります。
41百済の使いが罷り帰る
七年春正月甲辰朔丙午。百濟使人中部奈率己連等罷歸。仍賜以良馬七十匹。船一十隻。
七年の春正月甲辰の朔の丙午の日、百済の使いの人である中部の奈率己連らが罷り帰りました。そして良い馬七十匹と船十隻を賜りました。
42調を献じる
夏六月壬申朔癸未。百濟遣中部奈率掠葉禮等獻調。
夏六月壬申の朔の癸未の日、百済が中部の奈率である掠葉禮らを遣わして調を献じました。
43良い馬
秋七月。倭國今來郡言。於五年春。川原民直宮登樓騁望。乃見良駒。睨影高鳴。輕超母脊。就而買取。襲養兼年。及壯鴻驚龍■。別輩越群。服御随心。馳驟合度。超渡大内丘之壑十八丈焉。川原民直宮。桧隈邑人也。
秋七月、倭国の今來郡(いまきのこおり)が申しました。
「五年の春に、川原民直宮(かわはらのたみのあたいみや)が樓に登って騁く望んでいますと、良い駒を見ました。影を睨んで高く鳴き、軽々と母の脊を超えました。就いて買い取り、襲ね養って年を兼ねました。壯きくなりますと、鴻が驚き龍が飛ぶようで、輩を別ち群を越えていました。服け御すのは心に随い、馳せ驟るのは度に合いました。大内丘の壑、十八丈を超え渡りました。」
川原民直宮は、桧隈の邑の人です。
夾注 1
紀伊國漁者負贄草馬之子也。
紀伊国の漁る者が負って来た贄の草馬の子です。
44高麗が大いに乱れる
是歳。高麗大亂。凡闘死者二千餘。
この年、高麗が大いに乱れ、およそ闘って死んだ者が二千余りでした。
夾注 1
百濟本記云。高麗以正月丙午。立中夫人子爲王。年八歳。狛王有三夫人。正夫人無子。中夫人生世子。其舅氏麁群也。小夫人生子。其舅氏細群也。及狛王疾篤。細群。麁群。各欲立其夫人之子。故細群死者二千餘人也。
百済本記に申します。高麗は正月丙午の日、中夫人の子を立てて王としましたが、年は八歳でした。高麗の王には三人の夫人がありました。正夫人には子がなく、中夫人が世子を生み、その舅氏が麁群です。小夫人が子を生み、その舅氏が細群です。高麗の王の病が篤くなりますと、細群と麁群が、それぞれ自分の夫人の子を立てようとしました。ですから細群で死んだ者が二千余人だったとあります。
45救いの軍を乞う
八年夏四月。百濟遣前部徳率眞慕宣文。奈率哥麻等。乞救軍。仍貢下部東城子言代徳率■休麻那。
八年の夏四月、百済が前部の徳率である眞慕宣文、奈率の哥麻らを遣わして、救いの軍を乞いました。そして下部の東城子言を貢って、徳率の■休麻那に代えさせました。
46救いの軍を遣わすと告げる
春正月癸巳朔乙未。百濟使人前部徳率眞慕宣文等請罷。因詔曰。所乞救軍必當遣救。宜速報王。
春正月癸巳の朔の乙未の日、百済の使いの人である前部の徳率眞慕宣文らが罷ることを請いました。そこで詔して申されました。「乞うた救いの軍は、必ずまさに遣わして救うであろう。宜しく速やかに王に報せよ。」
47馬津城の役
九年夏四月壬戌朔甲子。百濟遣中部柾率掠葉禮等奏曰。徳率宣文等奉勅至臣蕃曰。所乞救兵應時遣送。祗承恩詔。喜慶無限。然馬津城之役虜謂之曰。由安羅國與日本府招來勸罰罸。以事准況。寔當相似。然三廻欲審其言遣召。而並不來。故深勞念。伏願。可畏天皇先爲勘當。躄停所乞救兵。待臣遣報。詔曰。式聞呈奏。爰覿所憂。日本府與安羅不救隣難。亦朕所疾也。又復密使于高麗者。不可信也。朕命即自遣之。不命何容可得。願王開襟緩帶。恬然自安。勿深疑懼。宜共任那依前勅。戮力倶防北敵。各守所封。朕當遣送若干人。充實安羅逃亡空地。
九年の夏四月壬戌の朔の甲子の日、百済が中部の奈率である掠葉禮らを遣わして奏して申しました。
「徳率の宣文らが勅を奉じて臣の蕃に至り、『乞うた救いの兵は時に応じて遣わし送る』と申されました。祗んで恩の詔を承りまして、喜びと慶びに限りがありません。
けれども馬津城の役で虜となった者が『安羅国と日本府が招き来らせて罰つことを勧めた』と申しました。事をもって准え況べますと、まことにまさに相い似ております。
けれども三たびその言を審らかにしようとして遣わして召しましたが、いずれも来ませんでした。ですから深く勞い念います。伏してお願い申し上げます。可畏き天皇が先に勘え当てられ、乞うた救いの兵をしばらく停めて、臣が報せ遣わすのをお待ちください。」
詔して申されました。
「式のごとく呈された奏を聞いて、ここに憂えるところを覿た。日本府と安羅が隣の難を救わなかったことも、また朕が疾むところである。また復び密かに高麗に使いしたということは、信じられない。朕が命じれば即ち自ら遣わすであろうが、命じていないのに、どうして容れ得られようか。
願わくは王は襟を開き帯を緩めて、恬かに自ら安んじ、深く疑い懼れるな。宜しく任那と共に前の勅に依って、力を戮せてともに北の敵を防ぎ、各々封じられたところを守れ。朕はまさに若干の人を遣わし送って、安羅の逃げ亡せて空いた地を充ち実たすであろう。」
夾注 2
正月辛丑。高麗卒衆圍馬津城。
正月辛丑の日、高麗が衆を卒いて馬津城を囲みました。
西蕃皆稱日本天皇爲可畏天皇。
西の蕃はみな日本の天皇を可畏き天皇と称えます。
48ともに防げ
六月辛酉朔壬戌。遣使詔于百濟曰。徳率宣文取歸以後。當復何如。消憩何如。朕聞。汝國爲狛賊所害。宜共任那策勵。同謀如前防距。
六月辛酉の朔の壬戌の日、使いを遣わして百済に詔されました。「徳率の宣文が取り帰った後、まさに復びどうであるか。消息はどうであるか。朕が聞くに、汝の国が狛の賊に害されたという。宜しく任那と共に策め勵まし、同じく謀って、前のように防ぎ距げ。」
49使いが罷り帰る
閏七月庚申朔辛未。百濟使人掠葉禮等罷歸。
閏七月庚申の朔の辛未の日、百済の使いの人である掠葉禮らが罷り帰りました。
50城を築くのを助ける
冬十月。遣三百七十人於百濟助築城於得爾辛。
冬十月、三百七十人を百済に遣わして、得爾辛に城を築くのを助けさせました。
51救いの軍を停める
夏六月乙酉朔辛卯。將徳久貴。固徳馬次文等請罷歸。因詔曰。延那斯。麻都。陰私遣使高麗者。朕當遣問虚實。所乞軍者依願停之。
夏六月乙酉の朔の辛卯の日、将徳の久貴、固徳の馬次文らが罷り帰ることを請いました。そこで詔して申されました。「延那斯と麻都が陰かに私かに高麗に使いを遣わした事は、朕がまさに人を遣わして虚と実を問うであろう。乞うた軍は願いのとおりに停める。」
52矢三十具を賜る
十一春二月辛巳朔庚寅。遣使詔于百濟曰。朕依將徳久貴。固徳馬進文等所上表意一一教示如視掌中。思欲具情。冀將盡抱。大市頭歸後。如常無異。今但欲審報辭。故遣使之。又復朕聞。奈率馬武是王之股肱臣也。納上傳下。甚協王心而爲王佐。若欲國家無事。長作官家永奉天皇。宜以馬武爲大使。遣朝而已。重詔曰。朕聞。北敵強暴。故賜矢卅具。庶防一處。
十一年の春二月辛巳の朔の庚寅の日、使いを遣わして百済に詔されました。
「朕は将徳の久貴、固徳の馬進文らが上った表の意に依って、一つ一つ教え示すこと、掌の中を視るようにしよう。情を具さにしたいと思うから、願わくは抱くところを尽くせ。
大市頭(おおいちのおびと)が帰った後も、常のように異なることはない。今はただ報える辞を審らかにしたいと思って、使いを遣わすのである。
また復び朕が聞くに、奈率の馬武は王の股肱の臣で、上を納め下に伝えて、甚だ王の心に協い、王の佐けとなっているという。もし国家に事なく、長く官家となって永く天皇を奉ろうと思うなら、宜しく馬武を大使として、朝させるだけである。」
重ねて詔して申されました。「朕が聞くに、北の敵が強く暴しいという。ですから矢三十具を賜る。一処でも防ぐことを庶う。」
夾注 1
百濟本記云。三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟來至都下。
百済本記に申します。三月十二日辛酉の日、日本の使いの人である阿比多が三艘の舟を率いて都の下に来り至ったとあります。
53高麗の奴を献じる
夏四月庚辰朔。在百濟日本王人方欲還之。百濟王聖明謂王人曰。任那之事奉勅堅守。延那斯。麻都之事。問與不問唯從勅之。因獻高麗奴六口別贈王人奴一口。
夏四月庚辰の朔の日、百済にいた日本の王人(おうじん)が、まさに還ろうとしていました。
百済の王である聖明が王人に申しました。「任那の事は勅を奉じて堅く守ります。延那斯と麻都の事は、問われようと問われまいと、ただ勅に従います。」
そして高麗の奴六口を献じ、別に王人に奴一口を贈りました。
夾注 2
百濟本記云。四月一日庚辰。日本阿比多還也。
百済本記に申します。四月一日庚辰の日、日本の阿比多が還ったとあります。
皆攻爾林所禽奴也。
いずれも爾林を攻めて禽えた奴です。
54再び高麗の虜を献じる
乙未。百濟遣中部奈率皮久斤。下部施徳灼干那等。獻狛虜十口。
乙未の日、百済が中部の奈率である皮久斤、下部の施徳である灼干那らを遣わして、狛の虜十口を献じました。
55麥の種を賜る
十二年春三月。以麥種一千斛賜百濟王。
十二年の春三月、麥の種一千斛を百済の王に賜りました。
56百済が漢城と平壌を得る
是歳。百濟聖明王親率衆及二國兵往伐高麗。獲漠城之地。又進軍討平壌。凡六郡之地。遂復故地。
この年、百済の聖明王が親ら衆と二つの国の兵を率いて往き、高麗を伐って漢城の地を獲ました。また軍を進めて平壌を討ち、およそ六つの郡の地を、ついに故の地として復しました。
夾注 1
二國謂新羅。任那也。
二つの国とは、新羅と任那を指します。
57大兄皇子が薨じる
十三年夏四月。箭田珠勝大兄皇子薨。
十三年の夏四月、箭田珠勝大兄皇子が薨じました。
58三つの国が救いの兵を請う
五月戊辰朔乙亥。百濟。加羅。安羅。遣中部徳率木州今敦。河内部阿斯比多等。奏曰。高麗與新羅。通和并勢。謀滅臣國與任那。故謹求請救兵。先攻不意。軍之多少隨天皇勅。詔曰。今百濟王。安羅王。加羅王。與日本府臣等。倶遣使奏状聞訖。亦宜共任那。并心一力。猶尚若茲。必蒙上天擁護之福。亦頼可畏天皇之靈也。
五月戊辰の朔の乙亥の日、百済・加羅・安羅が、中部の徳率である木州今敦、河内部の阿斯比多らを遣わして奏して申しました。
「高麗と新羅が通じ和して勢いを并せ、臣の国と任那を滅ぼそうと謀っています。ですから謹んで救いの兵を求め請います。先に不意を攻めたく存じます。軍の多少は天皇の勅に随います。」
詔して申されました。「今、百済王・安羅王・加羅王が、日本府の臣らと共に使いを遣わして奏した状を聞き終えた。また宜しく任那と共に、心を并せ力を一つにせよ。なおこのようであれば、必ず上天が擁い護る福を蒙り、また可畏き天皇の靈に頼るであろう。」
59仏教が伝わる
冬十月。百濟聖明王遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰■三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒■斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰。西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰。我國家之王天下者。恒以天地社稷百八十神。春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃神。恐致國神之怒。
冬十月、百済の聖明王が、西部の姫氏の達率である怒■斯致契らを遣わして、釋迦仏の金銅像一躯、幡盖若干、經論若干卷を献じました。
別に表を上って、流し通わせ禮い拜む功徳を讃えて申しました。
「この法は諸々の法の中で最も殊れ勝れております。解り難く入り難く、周公や孔子もなお知ることができませんでした。この法は能く無量無邊の福徳と果報を生じ、ついには無上の菩提を成し辨えさせます。
譬えれば、人が隨意の寶を懷いて、須い用いるところに逐って、ことごとく情に依るようなものです。この妙なる法の寶もまた復びそのとおりで、祈り願うことが情に依って、乏しいところがありません。
またそもそも遠く天竺から、ここに三韓に至るまで、教えに依って奉じ持ち、尊び敬わない者はありません。これによって百済の王、臣の明が、謹んで陪臣の怒■斯致契を遣わして、帝国に奉り伝え、畿内に流し通わせます。仏が『我が法は東に流れるであろう』と記されたところを果たすものです。」
この日、天皇は聞き終えて歓び喜び踊り躍り、使者に詔して申されました。「朕は昔から今まで、まだかつてこのように微妙な法を聞き得たことがない。けれども朕は自ら決しない。」
そこで群臣に歴て問われました。「西の蕃が献じた仏の相貌は端しく嚴かで、まったくかつて看たことがない。禮うべきか、そうでないか。」
蘇我大臣稻目宿禰が奏して申しました。「西の蕃の諸々の国は、一つにみなこれを禮います。豐秋日本(とよあきつやまと)が、どうして独り背きましょうか。」
物部大連尾輿と中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)が同じく奏して申しました。「我が国家の天下に王たる者は、恒に天地社稷の百八十神を、春夏秋冬に祭り拜むことを事としてきました。今まさに改めて蕃の神を拜みますと、国の神の怒りを致すことを恐れます。」
夾注 1
更名聖王。
別の名は聖王です。
60仏像を水に棄てる
天皇曰。宜付情願人稻目宿禰。試令禮拜。大臣跪受而忻悦安置小墾田家。懃脩出世業爲因。淨捨向原家爲寺。於後國行疫氣。民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰。昔日不須臣計致斯病死。今不遠而復。必當有慶。宜早投弃。懃求後福。天皇曰。依奏。有司乃以佛像流弃難波堀江。復縱火於伽藍。燒燼更無餘。於是天無風雲忽炎大殿。
天皇が申されました。「情に願う人である稻目宿禰に付けて、試みに禮い拜ませよ。」
大臣は跪いて受け、忻び悦んで小墾田の家に安置しました。懃ろに世を出る業を脩めて因とし、向原(むかはら)の家を淨く捨てて寺としました。
その後、国に疫の気が行われ、民が夭く残なわれるに至り、久しくなるほどいよいよ多くなって、治し療すことができませんでした。
物部大連尾輿と中臣連鎌子が同じく奏して申しました。「昔日、臣の計を須いられなかったので、この病による死を致したのです。今、遠くへ行かないうちに復されれば、必ずまさに慶びがあるでしょう。宜しく早く投げ弃てて、懃ろに後の福を求められますように。」
天皇が申されました。「奏のとおりにせよ。」
有司はそこで仏像を難波の堀江に流し弃て、復び伽藍に火を縦って、燒き燼して更に余るものがないようにしました。すると天に風も雲もないのに、忽ちに大殿が炎えました。
61百済が漢城と平壌を棄てる
是歳。百濟棄漢城與平壤。新羅因此入居漢城。今新羅之牛頭方。尼彌方也。
この年、百済が漢城と平壌を棄てました。新羅はこれによって漢城に入り居りました。今の新羅の牛頭方・尼彌方です。
夾注 1
地名未詳。
地の名は詳らかではありません。
62再び軍兵を乞う
十四年春正月甲子朔乙亥。百濟遣上部徳率科野次酒。杆率禮塞敦等、乞軍兵。
十四年の春正月甲子の朔の乙亥の日、百済が上部の徳率である科野次酒、杆率の禮塞敦らを遣わして、軍兵を乞いました。
63使いが罷り帰る
正月戊寅。百濟使人中部徳率木■今敦。河内部阿斯比多等罷歸。
正月戊寅の日、百済の使いの人である中部の徳率木■今敦、河内部の阿斯比多らが罷り帰りました。
64吉野寺の樟の像
夏五月戊辰朔。河内國言。泉郡茅渟海中有梵音。震響若雷聲。光彩晃曜如日色。天皇心異之。遣溝邊直入海求訪。是月。溝邊直入海果見樟木浮海玲瓏。遂取而獻。天皇命畫工造佛像二躯。今吉野寺放光樟像也。
夏五月戊辰の朔の日、河内国が申しました。「泉郡の茅渟(ちぬ)の海の中から梵音がして、震い響くことが雷の声のようであり、光彩が晃き曜いて日の色のようです。」
天皇は心にこれを異としまして、溝邊直(みぞべのあたい)を遣わして海に入って求め訪ねさせました。
この月、溝邊直が海に入りますと、果たして樟の木が海に浮かんで玲瓏としているのを見ました。ついに取って献じました。天皇は畫工に命じて仏像二躯を造らせました。今の吉野寺の光を放つ樟の像です。
夾注 1
此但曰直不書名字。蓋是傳寫誤失矣。
ここではただ直と申して名字を書いていません。おそらく伝え寫すうちに誤って失ったのでしょう。
65医博士と暦博士を遣わす
六月。遣内臣使於百濟。仍賜良馬二疋。同船二隻。弓五十張。箭五十具。勅云。所請軍者。隨王所須。別勅醫博士。易博士。暦博士等。宜依番上下。今上件色人正當相代年月。宜付還使相代。又卜書。暦本種種藥物可付送。
六月、内臣(うちのおみ)を百済に使いさせました。そして良い馬二疋、同じ船二隻、弓五十張、箭五十具を賜りました。
勅して申されました。「請うた軍は、王が須いるところに随おう。」
別に勅して申されました。「医博士・易博士・暦博士らは、宜しく番に依って上り下りさせよ。今、上に件べた色の人たちが、まさに相い代わる年月に当たっているから、宜しく還る使いに付けて相い代えよ。また卜の書、暦の本、種々の藥物を付け送るがよい。」
夾注 1
闕名。
名が闕けています。
66船史
秋七月辛酉朔甲子。幸樟勾宮。蘇我大臣稻目宿禰奉勅遣王辰爾數録船賦。即以王辰爾爲船長。因賜姓爲船史。今般連之先也。
秋七月辛酉の朔の甲子の日、樟勾宮(くすまがりのみや)に行幸されました。
蘇我大臣稻目宿禰が勅を奉じて王辰爾を遣わし、船の賦を数え録させました。すぐに王辰爾を船の長とし、これによって姓を賜って船史(ふねのふびと)としました。今の般連(ふねのむらじ)の先祖です。
67新羅と高麗が共に謀る
八月辛卯朔丁酉。百濟遺上部奈率科野新羅。下部固徳■休帶山等上表曰。去年臣等同議、遣内臣徳率次酒。任那大夫等。奏海表諸彌移居之事。伏待恩詔如春草之仰甘雨也。今年忽聞。新羅與狛國通謀云。百濟與任那頻詣日本。意謂是乞軍兵伐我國歟。事若實者。國之敗亡可企踵而待。庶先日本兵未發之間。伐取安羅絶日本路。其謀若是。臣等聞茲深懷危即遣疾使輕舟。馳表以聞。伏願。天慈速遣前軍後軍。相續來救。逮于秋節以固海表彌移居也。若遲晩者噬臍無及矣。所遣軍衆來到臣國。衣糧之費。臣當充給。來到任那亦復如是。若不堪給。臣必助充令無乏少。別的臣敬受天勅。來撫臣蕃。夙夜乾乾勤修庶務。由是海表諸蕃皆稱其善。謂當萬歳肅清海表。不幸云亡。深用追痛。今任那之事誰可修治。伏願天慈速遣其代。以鎭任那。又復海表諸國、甚乏弓馬。自古迄今。受之天皇。以禦強敵。伏願天慈多■弓馬。
八月辛卯の朔の丁酉の日、百済が上部の奈率である科野新羅、下部の固徳である■休帶山らを遣わして、表を上って申しました。
「去年、臣らが同じく議って、内臣の徳率である次酒、任那の大夫らを遣わして、海の表の諸々の彌移居の事を奏しました。伏して恩の詔を待つことは、春の草が甘い雨を仰ぐようでした。
今年、忽ちに聞きますに、新羅が狛国と通じ謀って『百済と任那が頻りに日本に詣っている。意うに、これは軍兵を乞って我が国を伐とうとするのであろうか。事がもし実であれば、国の敗れ亡びることは踵を企てて待つばかりである。願わくは先に日本の兵がまだ発たない間に、安羅を伐ち取って日本の路を絶とう』と申したとのことです。
その謀りがこのようですから、臣らはこれを聞いて深く危うさを懷き、すぐに疾い使いに軽い舟を遣わして、表を馳せてお聞かせ申し上げます。
伏してお願い申し上げます。天の慈しみによって速やかに前の軍と後の軍を遣わされ、相い続いて来り救われ、秋の節に逮んで海の表の彌移居を固めてください。もし遅く晩くなれば、臍を噬んでも及びません。
遣わされる軍の衆が臣の国に来り到れば、衣と糧の費えは、臣がまさに充て給します。任那に来り到っても、また復びそのとおりです。もし給するに堪えなければ、臣が必ず助け充てて、乏しく少ないことがないようにいたします。
別に、的臣が敬んで天の勅を受け、臣の蕃を撫でに来て、夙に夜に乾々として、懃ろに庶務を修めました。これによって海の表の諸々の蕃はみなその善さを称え、まさに万歳にわたって海の表を肅め清めるであろうと申しました。不幸にも亡せましたので、深く追い痛みます。今、任那の事は誰が修め治められましょうか。伏してお願い申し上げます。天の慈しみによって速やかにその代わりを遣わし、任那を鎭めさせてください。
また復び海の表の諸々の国は、甚だ弓と馬が乏しいのです。古より今に至るまで、これを天皇から受けて、強い敵を禦いできました。伏してお願い申し上げます。天の慈しみによって弓と馬を多く賜りますように。」
68餘昌が高麗と戦う
冬十月庚寅朔己酉。百濟王子餘昌悉發國中兵。向高麗國。築百合野塞眠食軍士。是夕觀覽。鉅野墳腴。平原濔■。人跡罕見。犬聲蔑聞。俄而脩忽之際。聞鼓吹之聲。餘昌乃大驚打鼓相應。通夜固守。凌晨起見。曠野之中覆如青山。旌旗充滿。會明有着頚鎧者一騎挿鐃者二騎。珥豹尾者二騎并五騎。連轡到來問曰。小兒等言。於吾野中客人有在。何得不迎禮也。今欲早知。與吾可以禮問答者姓名年位。餘昌對曰。姓是同姓。位是杆率。年廿九矣。百濟反問。亦如前法而對答焉。遂乃立標而合戰。於是。百濟以鉾。刺堕高麗勇士於馬斬首。仍刺擧頭於鉾末。還入示衆。高麗軍將憤怒益甚。是時百濟歡叫之聲可裂天地。復其偏將打鼓疾闘。追却高麗王於東聖山之上。
冬十月庚寅の朔の己酉の日、百済の王子である餘昌が国の中の兵をことごとく発して、高麗国に向かいました。百合野に塞を築いて、軍士を眠らせ食わせました。
この夕べに観め覽ますと、鉅きな野は墳え腴え、平らかな原は濔く広がっているのに、人の跡は罕に見え、犬の声も聞こえませんでした。
やがて脩忽の際に、鼓と吹の声が聞こえました。餘昌はそこで大いに驚き、鼓を打って相い応じ、夜を通して固く守りました。
晨を凌いで起きて見ますと、曠い野の中が覆われて青い山のようで、旌旗が充ち満ちていました。
明るくなりますと、頚の鎧を着けた者一騎、鐃を挿した者二騎、豹の尾を珥に着けた者二騎、あわせて五騎が、轡を連ねて到り来て問いました。「小兒らが『吾らの野の中に客人がいる』と言った。どうして迎えて禮をしないのか。今、早く知りたい。吾らと禮をもって問い答えられる者の姓名と年と位は何か。」
餘昌が対えて申しました。「姓はすなわち同じ姓である。位は杆率である。年は二十九である。」
百済が反って問いますと、やはり前の法のように対え答えました。
ついに標を立てて合い戦いました。そこで百済は鉾で高麗の勇士を馬から刺し堕として、首を斬りました。そしてその頭を鉾の末に刺し擧げて、還り入って衆に示しました。高麗の軍の将は憤り怒ることがいよいよ甚しくなりました。
このとき百済の歓び叫ぶ声は、天地を裂くほどでした。復びその偏将が鼓を打って疾く闘い、高麗の王を東聖山の上に追い却けました。
夾注 2
明王子。威徳王也。
明王の子で、威徳王です。
鐃字未詳。
鐃の字は詳らかではありません。
69皇太子を立てる
十五年春正月戊子朔甲午。立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子。
十五年の春正月戊子の朔の甲午の日、皇子の渟中倉太珠敷尊を立てて皇太子としました。
70兵一千を遣わす
丙申。百濟遣中部木州施徳文次。前部施徳曰佐分屋等於筑紫。諮内臣佐伯連等曰。徳率次酒。杆率塞敦等以去年閏月四日到來云。臣等以今年正月到。如此■而未審。來不也。又軍數幾何。願聞若干預治營壁。別諮。方奉聞可畏天皇之詔。來詣筑紫看送賜軍。聞之歡喜無能比者。此年之役甚危於前。願遣賜軍使逮正月。於是内臣奉勅而答報曰。即令遣助軍數一千。馬一百疋。船四十隻。
丙申の日、百済が中部の木州の施徳である文次、前部の施徳である曰佐分屋らを筑紫に遣わして、内臣の佐伯連(さえきのむらじ)らに諮って申しました。
「徳率の次酒、杆率の塞敦らが、去年の閏月四日に到り来て『臣らは今年の正月に到る』と申しました。このように申しましたが、来るのか来ないのか、まだ審らかにできません。また軍の数はいくらでしょうか。願わくは若干かを聞いて、予め営と壁を治めたく存じます。」
別に諮って申しました。「まさに可畏き天皇の詔を奉り聞いて、筑紫に来り詣って、遣わし賜る軍を看ることになりました。これを聞いて歓び喜ぶことに比べられるものがありません。この年の役は、前よりも甚だ危うくあります。願わくは遣わし賜る軍が正月に逮びますように。」
そこで内臣は勅を奉じて答え報えて申しました。「すぐに助けの軍の数一千、馬一百疋、船四十隻を遣わさせよう。」
夾注 1
臣等者。謂内臣也。
「臣ら」と申すのは、内臣を指します。
71諸々の博士を代えて貢る
二月。百濟遣下部杆率將軍三貴。上部奈率物部烏等乞救兵。仍貢徳率東城子莫古。代前番奈率東城子言。五經博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇慧等九人代僧道深等七人。別奉勅貢易博士施徳王道良。暦博士固徳王保孫。醫博士奈率王有悛陀。採藥師施徳潘量豊。固徳丁有陀。樂人施徳三斤。季徳己麻次。季徳進奴。對徳進陀。皆依請代之。
二月、百済が下部の杆率である将軍三貴、上部の奈率である物部烏らを遣わして、救いの兵を乞いました。
そして徳率の東城子莫古を貢って、前の番の奈率東城子言に代えさせ、五經博士の王柳貴で固徳の馬丁安に代えさせ、僧の曇慧ら九人で僧の道深ら七人に代えさせました。
別に勅を奉じて、易博士の施徳王道良、暦博士の固徳王保孫、医博士の奈率王有悛陀、採藥師の施徳潘量豊と固徳丁有陀、樂人の施徳三斤・季徳己麻次・季徳進奴・對徳進陀を貢りました。いずれも請いのとおりに代えさせました。
72使いが罷り帰る
三月丁亥朔。百濟使人中部木州施徳文次等罷歸。
三月丁亥の朔の日、百済の使いの人である中部の木州の施徳文次らが罷り帰りました。
73内臣が百済へ赴く
夏五月丙戌朔戊子。内臣率舟師詣于百濟。
夏五月丙戌の朔の戊子の日、内臣が舟師を率いて百済に詣りました。
74函山城を攻める
冬十二月。百濟遣下部杆率■斯干奴上表曰。百濟王臣明及在安羅諸倭臣等。任那諸國旱岐等奏。以斯羅無道。不畏天皇與狛同心欲殘滅海北彌移居。臣等共議遣有至臣等仰乞軍士。征伐斯羅。而天皇遣有至臣帥軍以六月至來。臣等深用歡喜。以十二月九日遣攻斯羅。臣先遣東方領物部莫哥武連。領其方軍士攻函山城。有至臣所將來民竹斯物部莫奇委沙奇能射火箭。蒙天皇威靈。以月九日西時焚城拔之。故遣單使馳船奏聞。別奏。若但斯羅者。有至臣所將軍士亦可足矣。今狛與斯羅。同心戮力。難可成功。伏願速遣竹斯嶋上諸軍士。來助臣國。又助任那。則事可成。又奏。臣別遣軍士萬人助任那。并以奏聞。今事方急。單船遣奏。但奉好錦二疋。■■一領。斧三百口。及所獲城民男二。女五。輕薄追用悚懼。餘昌謀伐新羅。耆老諌曰。天未與。懼禍及。餘昌曰。老矣何怯也。我事大國。
冬十二月、百済が下部の杆率である■斯干奴を遣わして、表を上って申しました。
「百済の王、臣の明と、安羅にいる諸々の倭の臣ら、任那の諸々の国の旱岐らが奏します。
斯羅が道なく、天皇を畏れず、狛と心を同じくして、海の北の彌移居を残ない滅ぼそうとしています。臣らは共に議って、有至臣(ありしのおみ)らを遣わし、仰いで軍士を乞い、斯羅を征め伐つことを請いました。
そこで天皇が有至臣を遣わされ、軍を帥いて六月に至り来ました。臣らは深く歓び喜びました。十二月九日に遣わして斯羅を攻めました。
臣は先に東方の領である物部莫哥武連(もののべのまかむのむらじ)を遣わして、その方の軍士を領いて函山城を攻めさせました。有至臣が将い来た民である竹斯の物部莫奇委沙奇(もののべのまかいさかのきみ)が、火の箭を射ました。天皇の威と靈を蒙って、月の九日の西の時に城を焚いてこれを拔きました。ですから単りの使いを遣わして船を馳せ、奏し聞かせます。
別に奏します。もしただ斯羅だけであれば、有至臣が将いた軍士でもまた足りるでしょう。今、狛と斯羅が心を同じくし力を戮せていますので、功を成すことは難しいのです。伏してお願い申し上げます。速やかに竹斯の嶋の上の諸々の軍士を遣わされ、来て臣の国を助け、また任那を助けてくだされば、事は成るでしょう。
また奏します。臣は別に軍士一万人を遣わして任那を助けます。あわせてお聞かせ申し上げます。今、事はまさに急ですので、単りの船で遣わして奏します。ただ好い錦二疋、文様のある席一領、斧三百口、および獲た城の民の男二人、女五人を奉ります。軽く薄くて、追い用いるには悚れ懼れます。」
餘昌が新羅を伐つことを謀りますと、耆き老いた者が諌めて申しました。「天がまだ与えていません。禍が及ぶことを懼れます。」
餘昌が申しました。「老いたな。どうして怯えるのか。我らは大国に事えているのだから
75聖明王が死ぬ
有何懼也。遂入新羅國築久陀牟羅塞。其父明王憂慮。餘昌長苦行陣久廢眠食。父慈多闕。子孝希成。乃自徃迎慰勞。新羅聞明王親來。悉發國中兵斷道撃破。是時新羅謂佐知村飼馬奴苦都曰。苦都賎奴也。明王名主也。今使賎奴殺名主。冀傅後世莫忘於口。已而苦都乃獲明王。再拜曰。請斬王首。明王對曰。王頭不合受奴手。苦都曰。我國法違背所盟。雖曰國王當受奴手。明王仰天大憩涕泣。許諾曰。寡人毎念。常痛入骨髄。願計不可苟活。乃延首受斬。苦都斬首而殺。堀坎而埋。餘昌遂見圍繞。欲出不得。士卒遑駭不知所圖。有能射人筑紫國造。進而彎弓占擬。射落新羅騎卒最勇壯者。發箭之利通所乘鞍前後橋。及其被甲領會也。
何を懼れることがあろうか。」
ついに新羅国に入って久陀牟羅の塞を築きました。
その父の明王は憂え慮りました。餘昌が長く陣を行うことに苦しみ、久しく眠りと食を廢していました。父の慈しみに闕けるところが多く、子の孝が成ることは希であると思い、そこで自ら往って迎え慰め勞いました。
新羅は明王が親ら来ると聞いて、国の中の兵をことごとく発し、道を断って撃ち破りました。
このとき新羅が佐知村の馬を飼う奴である苦都に申しました。「苦都は賎しい奴である。明王は名ある主である。今、賎しい奴に名ある主を殺させて、後の世に傅わって口から忘れられないことを冀う。」
やがて苦都は明王を獲て、再び拝して申しました。「どうか王の首を斬らせてください。」
明王が対えて申しました。「王の頭は、奴の手に受けるのが合わない。」
苦都が申しました。「我が国の法では、盟ったところに違い背けば、たとえ国の王と申しても、まさに奴の手に受けるべきです。」
明王は天を仰いで大いに憩き、涕き泣いて、許し諾って申しました。「寡人が念うたびに、常に痛みが骨髄に入っていた。計るに、苟しくも活きることはできない。」そして首を延べて斬られるのを受けました。
苦都は首を斬って殺し、坎を堀って埋めました。
餘昌はついに圍み繞られ、出ようとしても出られませんでした。士卒は遑え駭いて、図るところを知りませんでした。
よく射る人がいて、筑紫国造と申しました。進んで弓を彎き、占い擬えて、新羅の騎卒のうち最も勇ましく壯きい者を射落としました。発った箭の利さは、乗っていた鞍の前と後の橋を通り、その被ていた甲の領にまで及びました。
夾注 3
更名谷智。
別の名は谷智です。
一本云。明王乘踞胡床。解授佩刀於谷知令斬。
ある本には、明王が胡床に乗り踞って、佩いた刀を解いて谷知に授け、斬らせたと申します。
一本云。新羅留理明王頭骨。而以禮送餘骨於百濟。今新羅王埋明王骨於北廳階下。名此廳曰都堂。
ある本には、新羅が明王の頭の骨を留め理めて、余りの骨を禮をもって百済に送ったと申します。今、新羅の王は明王の骨を北廳の階の下に埋め、この廳を名づけて都堂と申します。
76鞍橋君
復續發箭如雨。彌■不懈。射却圍軍。由是餘昌及諸將等得從間道逃歸。餘昌讃國造射却圍軍。尊而名曰鞍橋君。於是新羅將等具知百済疲盡。遂欲謀滅無餘。有一將云。不可。日本天皇以任那事。屡責吾國。况復謀滅百濟官家。必招後患。故止之。
復び続いて箭を雨のように発ち、いよいよ懈りませんでしたので、圍んだ軍を射却けました。これによって餘昌と諸々の将らは、間の道を従って逃げ帰ることができました。
餘昌は国造が圍んだ軍を射却けたことを讃えて、尊んで名づけて鞍橋君(くらじのきみ)と申しました。
そこで新羅の将らは、百済が疲れ尽きたことをすべて知り、ついに滅ぼして余すところがないようにしようと思いました。
一人の将がいて申しました。「なりません。日本の天皇は任那の事で、しばしば吾が国を責められました。まして復び百済の官家を滅ぼすことを謀れば、必ず後の患いを招くでしょう。」ですからこれを止めました。
夾注 1
鞍橋。此云矩羅賦。
鞍橋は「くらじ」と読みます。
77王子惠が来る
十六年春二月。百濟王子餘昌遣王子惠奏曰。聖明王爲賊見殺。天皇聞而傷恨。廼遣使者迎津慰問。於是許勢臣問王子惠曰。爲當欲留此間。爲當欲向本郷。惠答曰。依憑天皇之徳。冀報考王之讎。若垂哀憐多賜兵革。雪垢復讎。臣之願也。臣之去留敢不唯命是從。俄而蘇我臣問訊曰。聖王妙達天道地理。名流四表八方。意謂。永保安寧。統領海西蕃國。千年萬歳奉事天皇。豈圖一旦眇然昇遐。與水無歸即安玄室。何痛之酷。何悲之哀。凡在含情誰不傷悼。當復何咎致茲禍也。今復何術用鎭國家。惠報答之曰。臣禀性愚蒙不知大計。何况禍福所倚。國家存亡者乎。蘇我卿曰。昔在天皇大泊瀬之世。汝國爲高麗所逼。危甚累卵。於是天皇命神祇伯。敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰。屈請建邦之神。徃救將亡之主。必當國家謐靖。人物乂安。由是請神徃救。所以社稷安寧。原夫建邦神者。天地株判之代。草木言語之時。自天降來造立國家之神也。頃聞。汝國輟而不祀。方今悛悔前過。脩理神宮奉祭神靈國可昌盛。汝當莫忘。
十六年の春二月、百済の王子である餘昌が王子の惠を遣わして奏して申しました。「聖明王が賊に殺されました。」
天皇は聞いて傷み恨まれました。そこで使者を遣わして津に迎え、慰め問わせました。
そこで許勢臣が王子惠に問いました。「ここに留まりたいのか、それとも本の郷に向かいたいのか。」
惠が答えて申しました。「天皇の徳に依り憑んで、考である王の讎を報いたいと冀います。もし哀れみ憐れみを垂れて兵革を多く賜り、垢を雪ぎ讎を復させてくださるのが、臣の願いです。臣の去るか留まるかは、敢えてただ命に従うばかりです。」
やがて蘇我臣が問い訊ねて申しました。
「聖王は天の道と地の理に妙しく達して、名が四表八方に流れました。意うに、永く安寧を保ち、海の西の蕃国を統べ領いて、千年万歳にわたって天皇に奉り事えられるであろうと存じました。どうして一旦、眇然として昇り遐り、水と共に帰ることなく、すぐに玄き室に安らわれようとは図りましたでしょうか。何と痛みの酷いことでしょう。何と悲しみの哀しいことでしょう。およそ情を含む者であれば、誰が傷み悼まないでしょうか。まさに復びどのような咎がこの禍を致したのでしょうか。今、復びどのような術で国家を鎭められましょうか。」
惠が報え答えて申しました。「臣は禀けた性が愚かに蒙くて、大きな計を知りません。まして禍と福の倚るところ、国家の存亡のことなどはなおさらです。」
蘇我卿が申しました。
「昔、天皇大泊瀬の世にあって、汝の国が高麗に逼られ、危うさが累ねた卵より甚しかった。そこで天皇が神祇伯に命じて、敬んで神祇から策を受けさせた。祝う者はそこで神の語に託して報えて申した。『建邦の神を屈め請うて、亡びようとする主を往って救わせれば、必ずまさに国家は謐まり靖まり、人も物も乂まり安んじるであろう。』これによって神を請うて往って救わせたので、社稷は安寧となった。
そもそも建邦の神とは、天地が株れ判れた代、草木が言語した時に、天から降り来て国家を造り立てた神である。
頃ごろ聞くに、汝の国が輟めて祀らないという。まさに今、前の過ちを悛め悔いて、神宮を脩め理め、神靈を奉り祭れば、国は昌え盛んになるであろう。汝はまさに忘れるな。」
夾注 2
王子惠者。威徳王之弟也。
王子惠は、威徳王の弟です。
十五年爲新羅所殺。故今奏之。
十五年に新羅に殺されました。ですから今これを奏したのです。
78白猪の屯倉
秋七月己卯朔壬午。遣蘇我大臣稻目宿禰。穗積磐弓臣等。使于吉備五郡置白猪屯倉。
秋七月己卯の朔の壬午の日、蘇我大臣稻目宿禰、穗積磐弓臣(ほづみのいわゆみのおみ)らを遣わして吉備の五つの郡に使いさせ、白猪(しらい)の屯倉を置きました。
79餘昌が出家しようとする
八月。百濟餘昌謂諸臣等曰。少子今願奉爲考王出家脩道。諸臣百姓報言。今君王欲得出家修道者。且奉教也。嗟夫前慮不定。後有大患。誰之過歟。夫百濟國者。高麗。新羅之所爭欲滅。自始開國迄于是歳。今此國宗將授何國。要須道理分明應教。縱使能用耆老之言。豈至於此。請悛前過無勞出俗。如欲果願。須度國民。餘昌對曰。諾。即就圖於臣下。臣下遂用相議。爲度百人。多造幡盖種種攻徳云云。
八月、百済の餘昌が諸々の臣らに申しました。「少子である私は、今、考である王のために出家して道を脩めたいと願う。」
諸々の臣と百姓が報えて申しました。
「今、君王が出家して道を修めることを得ようとお望みですから、また教えを奉ります。ああ、前の慮りが定まらず、後に大きな患いがあるのは、誰の過ちでしょうか。
そもそも百済国は、高麗と新羅が争って滅ぼそうとするところです。初めて国を開いた時から、この歳に至りました。今、この国の宗を、まさにどの国に授けようとなさるのですか。須く道理を分明にして、まさに教えてくださるべきです。たとえ耆い老いた者の言をよく用いられていたなら、どうしてここに至ったでしょうか。どうか前の過ちを悛めて、俗を出ることに勞されませんように。もし願いを果たそうとお思いなら、須く国の民を度させてください。」
餘昌が対えて申しました。「諾。」
すぐに臣下に就いて図りました。臣下はついに相い議って、百人を度させ、幡や盖、種々の功徳を多く造ったとのことです。
80王子惠が罷り帰る
十七年春正月。百濟王子惠請罷。仍賜兵仗。良馬甚多。亦頻賞祿。衆所欽歎。於是遣阿倍臣。佐伯連。播磨直。率筑紫國舟師。衛送達國。別遣筑紫火君率勇士一千衛送彌■。因令守津路要害之地焉。
十七年の春正月、百済の王子惠が罷ることを請いました。そして兵仗や良い馬を甚だ多く賜り、また頻りに賞と祿を与えましたので、衆が欽い歎くところとなりました。
そこで阿倍臣、佐伯連、播磨直を遣わして、筑紫国の舟師を率いて、国に至るまで衛り送らせました。別に筑紫の火君(ひのきみ)を遣わして勇士一千を率い、彌■(みて)まで衛り送らせ、それによって津の路の要害の地を守らせました。
夾注 2
百濟本記云。筑紫君兒。火中君弟。
百済本記に、筑紫君の子で、火中君の弟と申します。
彌□津名
彌■は津の名です。
81兒嶋の屯倉
秋七月甲戌朔己卯。遣蘇我大臣稻目宿禰等於備前兒嶋郡置屯倉。以葛城山田直瑞子爲田令。
秋七月甲戌の朔の己卯の日、蘇我大臣稻目宿禰らを備前の兒嶋郡に遣わして屯倉を置きました。葛城山田直瑞子(かずらきのやまだのあたいみずこ)を田令(たづかい)としました。
夾注 1
田令。此云陀豆歌毘。
田令は「たづかい」と読みます。
82韓人の屯倉
冬十月。遣蘇我大臣稻目宿禰等。於倭國高市郡置韓人大身狹屯倉。高麗人小身狹屯倉。紀國置海部屯倉。
冬十月、蘇我大臣稻目宿禰らを遣わして、倭国高市郡に韓人(からひと)の大身狹(おおむさ)の屯倉と、高麗人の小身狹(おむさ)の屯倉を置き、紀国に海部(あまべ)の屯倉を置きました。
夾注 2
言韓人者。百濟也。
韓人と申すのは、百済です。
一本云。以處處韓人爲大身狹屯倉田部。高麗人爲小身狹屯倉田部。是即以韓人。高麗人爲田部。故因爲屯倉之號也。
ある本には、処々の韓人を大身狹の屯倉の田部とし、高麗人を小身狹の屯倉の田部としたと申します。これはすなわち韓人と高麗人を田部としたので、それによって屯倉の号としたのです。
83威徳王が即位する
十八年春三月庚子朔。百濟王子餘昌嗣立。是爲威徳王。
十八年の春三月庚子の朔の日、百済の王子である餘昌が位を嗣いで立ちました。これが威徳王です。
84新羅の使いが申す
廿一年秋九月。新羅遣彌至己知奈末獻調賦。饗賜邁常。奈末喜歡而罷曰。調賦使者國家之所貴重。而私議之所輕賎。行李者百姓之所懸命。而選用之所卑下。王政之弊。未必不由此也。請差良家子爲使者。不可以卑賎爲使。
二十一年の秋九月、新羅が彌至己知奈末を遣わして調と賦を献じました。饗し賜ることを常よりも邁れたものにしました。
奈末は喜び歓んで、罷るときに申しました。「調と賦を献じる使者は、国家が貴び重んじるところでありながら、私の議では軽く賎しむところです。行李は百姓の命が懸かるところでありながら、選び用いるところでは卑しく下されています。王の政の弊えは、必ずこれに由らないとは申せません。どうか良い家の子を差して使者とし、卑しく賎しい者を使いとなさいませんように。」
85新羅の使いが恨む
廿二年。新羅遣久禮叱及伐干貢調賦。司賓饗遇禮數減常。及伐干忿恨而罷。
二十二年、新羅が久禮叱及伐干を遣わして調と賦を貢りました。司賓が饗し遇える禮の数を常より減らしました。及伐干は忿り恨んで罷りました。
86新羅が城を築く
是歳。復遣奴■。大舎獻前調賦。於難波大郡序諸蕃。掌客額田部連。葛城直等使列于百濟之下而引導。大舍怒還不入館舍。乘船歸至穴門。於是。脩治穴門舘。大舍問曰。爲誰客造。工匠河内馬飼首押勝欺紿曰。遣問西方無禮使者之所停宿處也。大舍還國告其所言。故新羅築城於阿羅波斯山。以備日本。
この年、復び奴■大舎を遣わして、前の調と賦を献じました。難波の大郡で諸々の蕃の序を定めるとき、客を掌る額田部連(ぬかたべのむらじ)、葛城直らが、百済の下に列ねさせて引き導きました。
大舍は怒って還り、館舍に入らず、船に乗って穴門(あなと)に至りました。
このとき、穴門の舘を脩め治めていました。大舍が問いました。「誰の客のために造るのか。」
工匠の河内馬飼首押勝(かわちのうまかいのおびとおしかつ)が欺き紿いて申しました。「西の方の無禮な使者を問うために遣わされる者が、停まり宿る処である。」
大舍は国に還ってその言ったところを告げました。ですから新羅は阿羅波斯山に城を築いて、日本に備えました。
87新羅が任那を滅ぼす
廿三年春正月。新羅打滅任那官家。
二十三年の春正月、新羅が任那の官家を打ち滅ぼしました。
夾注 1
一本云。廿一年任那滅焉。忽言任那。別言加羅國。安羅國。斯二岐國。多羅國。卒麻國。古嗟國。子他國。散半下國。乞□國。稔禮國。合十國。
ある本には、二十一年に任那が滅びたと申します。惣べて任那と申し、別に申せば加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嗟国・子他国・散半下国・乞■国・稔禮国、あわせて十の国です。
88新羅を討てという詔
夏六月。詔曰。新羅西羌小醜。逆天無状。違我恩義。破我官家毒害我黎民。誅殘我郡縣。我氣長足姫尊靈聖聰明。周行天下。劬勞群庶。饗育萬民。哀新羅所窮見歸。全新羅王將戮之首授新羅要害之地。崇新羅非次之榮。我氣長足姫尊於新羅何薄。我百姓於新羅何怨。而新羅長戟強弩。凌蹙任那。距牙鈎爪殘虐含靈。刳肝■趾不厭其快。曝骨焚屍不謂其酷。任那族姓百姓以還。窮刀極爼。既屠且膾。豈有率土之賓。謂爲王臣。乍食人之禾飲人之水孰忍聞此而不悼心。况乎太子。大臣處趺萼之親。泣血御冤之寄。當蕃屏之任。摩頂至踵之恩。世受前朝之徳。身當後代之位。而不能瀝膽抽膓。共誅奸逆雪天地之痛酷。報君父之仇讎。則死有恨臣之子道不成。
夏六月、詔して申されました。
「新羅は西の羌の小さく醜いもので、天に逆らって状がない。我が恩と義に違い、我が官家を破り、我が黎民を毒し害し、我が郡と縣を誅し残なった。
我が氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は靈しく聖く聰く明らかで、天下を周く行き、群れる庶を劬れ勞い、万民を饗し育てられた。新羅が窮まって帰ってきたのを哀れんで、戮すべき新羅の王の首を全くされ、新羅に要害の地を授け、新羅に次ならぬ栄を崇められた。
我が氣長足姫尊が新羅に何を薄くされたか。我が百姓が新羅に何を怨んだか。それなのに新羅は長い戟と強い弩で任那を凌ぎ蹙め、牙を距き爪を鈎けて、靈を含むものを残ない虐げた。肝を刳り趾を斬ってもその快さに厭きず、骨を曝し屍を焚いてもその酷さを謂わなかった。
任那の族や姓、百姓以来、刀と爼を極めて、既に屠りまた膾にした。どうして率土の賓として王の臣となったと謂い、人の禾を食い人の水を飲みながら、誰がこれを聞いて心を悼まないでいられようか。
まして太子や大臣は、趺萼のように親しい処にあって、血を泣いて冤を御る寄せを受け、蕃屏の任に当たり、頂を摩り踵に至る恩を受け、世々に前の朝の徳を受け、身は後の代の位に当たっている。それなのに膽を瀝ぎ膓を抽いて、共に奸しく逆らうものを誅し、天地の痛み酷さを雪ぎ、君と父の仇讎を報いることができなければ、死しても臣たる子の道を成さなかった恨みがあるであろう。」
89鞍の薦の事
是月。或有譖馬飼首歌依曰。歌依之妻逢臣讃岐鞍薦有異。熟而熟視。皇后御鞍也。即收廷尉。鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰。虚也。非實。若是實者必被天災。遂因苦問。伏地而死。死未經時。急災於殿。廷尉收縛其子守石與中瀬氷將投火中。咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。守石之母祈請曰。投兒火裏。天災果臻。請付祝人使作神奴。乃依母請許沒神奴。
この月、ある者が馬飼首歌依(うまかいのおびとかより)を譖って申しました。「歌依の妻である逢臣讃岐(おうのおみさぬき)の鞍の薦が異なっています。」
熟く熟く視ますと、皇后の御鞍でした。すぐに廷尉に収めて、鞫し問うことを極めて切にしました。
馬飼首歌依はそこで言を揚げて誓って申しました。「虚です。実ではありません。もしこれが実であれば、必ず天の災いを被るでしょう。」
ついに苦しい問いによって、地に伏して死にました。死んで時を経ないうちに、急に殿に災いがありました。
廷尉はその子の守石と中瀬氷を収め縛って、火の中に投げようとして、咒って申しました。「吾の手で投げるのではない。祝う者の手で投げるのだ。」
咒い終えて火に投げようとしますと、守石の母が祈り請って申しました。「兒を火の裏に投げれば、天の災いが果たして臻るでしょう。どうか祝う人に付けて、神の奴とさせてください。」
そこで母の請いに依って、神の奴として没することを許しました。
夾注 2
守石。名瀬氷。皆名也。
守石と瀬氷は、いずれも名です。
投火爲刑。盖古之制也。
火に投げることを刑としたのは、おそらく古の制でしょう。
90新羅の使いが帰らない
秋七月己巳朔。新羅遣使獻調賦。其使人知新羅滅任那。恥背國恩。不敢請罷。遂留不歸本土。例同國家百姓。今河内國更荒郡■■野邑新羅人之先也。
秋七月己巳の朔の日、新羅が使いを遣わして調と賦を献じました。その使いの人は新羅が任那を滅ぼしたことを知り、国の恩に背いたことを恥じて、敢えて罷ることを請いませんでした。ついに留まって本の土に帰らず、例を国家の百姓と同じにしました。今の河内国更荒郡(さららのこおり)の■■野(うの)の邑の新羅人の先祖です。
91新羅を問いに行く
是月。遣大將軍紀男麻呂宿禰。將兵出■■。副將河邊臣瓊缶出居曾山。而欲問新羅攻任那之状。遂到任那。以薦集部首登弭。遣於百濟。約束軍計。登弭仍宿妻家。落印書。弓箭於路。新羅具知軍計。卒起大兵。尋屬敗亡。乞降歸附。紀男麻呂宿禰取勝旋師入百濟營。令軍中曰。夫勝不忘敗。安必慮危。古之善教也。今處彊畔。豺狼交接。而可輕忽不思變難哉。况復平安之世刀劔不離於身。盖君子之武備不可以已。宜深警戒務崇斯令。士卒皆委心而服事焉。河邊臣瓊缶獨進轉闘。所向皆拔。新羅更擧白旗投兵隆首。河邊臣瓊缶元不曉兵。對擧白旗空爾獨進。新羅闘将曰。將軍河邊臣今欲降矣。乃進軍逆戰。盡鋭■攻破之。前鋒所傷甚衆。倭國造手彦自知難救。棄軍遁逃。新羅闘將手持鈎戟。追至城洫。運戟撃之。手彦因騎駿馬超渡城洫。僅以身兔。闘將臨城洫而歎曰。久須尼自利。
この月、大将軍の紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)を遣わして兵を将いて□□から出させ、副将の河邊臣瓊缶(かわべのおみにへ)を居曾山から出させて、新羅が任那を攻めた状を問おうとしました。
ついに任那に到り、薦集部首登弭(こもつめべのおびととみ)を百済に遣わして、軍の計を約束させました。登弭はそのまま妻の家に宿り、印の書と弓箭を路に落としました。
新羅は軍の計を具さに知り、卒かに大きな兵を起こしました。そのまま敗れ亡びるに属き、降ることを乞って帰り附きました。
紀男麻呂宿禰は勝ちを取って師を旋し、百済の営に入って、軍の中に令して申しました。
「そもそも勝っても敗れることを忘れず、安んじても必ず危うさを慮るのは、古の善い教えである。今、彊の畔に処って、豺や狼が交わり接しているのに、軽々しく忽せにして変や難を思わないでいられようか。まして復び平安な世にも刀劍を身から離さない。おそらく君子の武の備えは、已めることのできないものである。宜しく深く警め戒めて、この令を崇めることに務めよ。」
士卒はみな心を委ねて服い事えました。
河邊臣瓊缶は独り進んで転じ闘い、向かうところはみな拔きました。新羅は更に白い旗を擧げ、兵を投げて首を降しました。
河邊臣瓊缶はもとより兵を曉らなかったので、対して白い旗を擧げ、空しく独り進みました。
新羅の闘う将が申しました。「将軍の河邊臣が今、降ろうとしている。」そこで軍を進めて逆え戦い、鋭い兵を尽くして急に攻め破りました。前の鋒で傷ついた者が甚だ衆くありました。
倭国造手彦(やまとのくにのみやつこてひこ)は自ら救い難いことを知り、軍を棄てて遁げ逃げました。新羅の闘う将が手に鈎のある戟を持って追い、城の洫に至って戟を運らして撃ちました。手彦はそれによって駿い馬に騎って城の洫を超え渡り、僅かに身をもって兔れました。
闘う将は城の洫に臨んで歎いて申しました。「久須尼自利。」
92伊企儺と大葉子
於是。河邊臣遂引兵退急營於野。於是士卒盡相欺蔑。莫有遵承。闘將自就營中悉生虜河邊臣瓊缶等及其隨婦。于時父子夫婦不能相恤。闘將問河邊臣曰。汝命與婦孰與尤愛。答曰。何愛一女以取禍乎。如何不過命也。遂許爲妾。闘將遂於露地奸其婦女。婦女後還。河邊臣欲就談之。婦人甚以慚恨而不隨曰。昔君輕賣妾身。今何面目以相遇。遂不肯言。是婦人者坂本臣女。曰甘美媛。同時所虜調吉士伊企儺。爲人勇烈。終不降服。新羅闘將拔刀欲斬。逼而脱褌。追令以尻臀向日本大號叫曰日本將囓我■■。即號叫曰。新羅王啗我■■。雖被苦逼。尚如前叫■。由是見殺。其子舅子亦抱其父而死。伊企儺辭旨難奪皆如此。由此特爲諸將帥所痛惜。昔妻大葉子亦並見禽。愴然而歌曰。柯羅倶爾能。基能陪爾陀致底。於譜磨故幡。比例甫■須母。耶魔等陛武岐底。或有和曰。柯羅倶爾能。基能陪爾陀陀志。於譜磨故幡。比禮甫羅須彌喩。那爾婆陛武岐底。
そこで河邊臣はついに兵を引いて退き、急いで野に営みました。そこで士卒はみな相い欺き蔑んで、遵い承る者がありませんでした。
闘う将は自ら営の中に就いて、河邊臣瓊缶らとその随っていた婦をことごとく生きたまま虜にしました。このとき、父と子、夫と婦が相い恤むことができませんでした。
闘う将が河邊臣に問いました。「汝の命と婦と、どちらをより愛するか。」
答えて申しました。「どうして一人の女を愛して禍を取ろうか。どうして命に過ぎようか。」
ついに妾とすることを許しました。闘う将はついに露わな地でその婦女を奸しました。
婦女が後に還りますと、河邊臣は就いてこれを談じようとしました。婦人は甚だ慚じ恨んで随わず、申しました。「昔、君は軽々しく妾の身を売りました。今、何の面目で相い遇いましょうか。」ついに言うことを肯じませんでした。
この婦人は坂本臣の娘で、甘美媛(うましひめ)と申します。
同じ時に虜となった調吉士伊企儺(つきのきしいきな)は、人となりが勇ましく烈しく、ついに降り服しませんでした。
新羅の闘う将が刀を拔いて斬ろうとし、逼って褌を脱がせ、追って尻の臀を日本に向けさせ、大きく号び叫ばせました。「日本の将は我が尻を囓め。」
すぐに号び叫びました。「新羅の王が我が尻を啗め。」
苦しく逼られても、なお前のように叫びました。これによって殺されました。その子の舅子(おじこ)もまた、その父を抱いて死にました。
伊企儺の辭と旨を奪い難いことは、みなこのようでした。これによって特に諸々の将や帥が痛み惜しむところとなりました。
その妻の大葉子(おおばこ)もまた、あわせて禽られました。愴然として歌いました。
「からくにの きのへにたちて おほばこは ひれふらすも やまとへむきて(柯羅倶爾能。基能陪爾陀致底。於譜磨故幡。比例甫■須母。耶魔等陛武岐底)」
ある者が和して申しました。
「からくにの きのへにたたし おほばこは ひれふらすみゆ なにはへむきて(柯羅倶爾能。基能陪爾陀陀志。於譜磨故幡。比禮甫羅須彌喩。那爾婆陛武岐底)」
——二つの歌は音を書き写したものなので、意味には訳しません。
夾注 2
此新羅語未詳也
この新羅の語は詳らかではありません。
叫□也
叫ぶという意味です。
93狹手彦が高麗を伐つ
八月。天皇遣大將軍大伴連狹手彦。領兵數萬伐于高麗。狹手彦乃用百濟計。打破高麗。其王踰墻而逃。狹手彦遂乘勝以入宮。盡得珍寶■賂。七織帳。鐵屋還來。以七織帳奉獻於天皇。以甲二領。金餝刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛并其從女吾田子。送於蘇我稻目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以爲妻居輕曲殿。
八月、天皇が大将軍の大伴連狹手彦(おおとものむらじさでひこ)を遣わして、兵数万を領いて高麗を伐たせました。
狹手彦はそこで百済の計を用いて、高麗を打ち破りました。その王は墻を踰えて逃げました。狹手彦はついに勝ちに乗じて宮に入り、珍しい寶と貨賂、七つ織りの帳、鐵の屋をことごとく得て還り来ました。
七つ織りの帳を天皇に奉り献じ、甲二領、金で餝った刀二口、銅に鏤めた鍾三口、五色の幡二竿、美女の媛(ひめ)とあわせてその從の女である吾田子(あたこ)を、蘇我稻目宿禰大臣に送りました。
そこで大臣はついに二人の女を納れて妻とし、輕(かる)の曲殿(まがりどの)に居らせました。
夾注 3
舊本云。鐵屋在高麗西高樓上。織帳張於高麗王内寢。
旧い本には、鐵の屋は高麗の西の高い樓の上にあり、織りの帳は高麗の王の内の寢に張られていたと申します。
媛名也。
媛は名です。
鐵屋在長安寺。是寺不知在何國。一本云。十一年大伴狹手彦連共百濟國駈却高麗王陽香於比津留都。
鐵の屋は長安寺(ちょうあんじ)にあります。この寺がどの国にあるのかは分かりません。ある本には、十一年に大伴狹手彦連が百済国と共に、高麗の王である陽香を比津留都(ひつるつ)で駈り却けたと申します。
94新羅の使いが帰らない
冬十一月。新羅遣使獻并貢調賦。使人悉知國家憤新羅滅任那。不敢請羅。恐致刑戮不歸本土。例同百姓。今攝津國三嶋郡埴廬新羅人之先祖也。
冬十一月、新羅が使いを遣わして、あわせて調と賦を貢りました。使いの人は、国家が新羅が任那を滅ぼしたことを憤っているのをことごとく知り、敢えて罷ることを請いませんでした。刑や戮を致すことを恐れて本の土に帰らず、例を百姓と同じにしました。今の攝津国三嶋郡の埴廬(はにいお)の新羅人の先祖です。
95高麗人が投化する
廿六年夏五月。高麗人頭霧■耶陛等投化於筑紫。置山背國。今畝原。奈羅。山村高麗人之先祖也。
二十六年の夏五月、高麗の人である頭霧■耶陛らが筑紫に投化しました。山背国に置きました。今の畝原(うねはら)・奈羅(なら)・山村の高麗人の先祖です。
96大水と飢え
廿八年。郡國大水。飢。或人相食。轉傍郡穀以相救。
二十八年、郡と国に大水が出て飢え、あるいは人が相い食べました。傍らの郡の穀を転じて相い救いました。
97田部の籍を検め定めよ
卅年春正月辛卯朔。詔曰。量置田部其來尚矣。年甫十餘脱籍兔課者衆。宜遣膽津檢定白猪田部丁籍。
三十年の春正月辛卯の朔の日、詔して申されました。「田部を量り置いてから、その由来は久しい。年がやっと十余りなのに籍を脱して課を兔れる者が衆い。宜しく膽津(いつ)を遣わして、白猪の田部の丁の籍を検め定めよ。」
夾注 1
膽津者。王辰爾之甥也。
膽津は、王辰爾の甥です。
98白猪史
夏四月。膽津檢閲白猪田部丁者。依詔定籍。果成田戸。天皇嘉膽津定籍之功。賜姓爲白猪史。尋拜田令。爲瑞子之副。
夏四月、膽津が白猪の田部の丁を検め閲して、詔に依って籍を定めました。果たして田の戸を成しました。
天皇は膽津が籍を定めた功を嘉みして、姓を賜って白猪史(しらいのふびと)とし、ついで田令を拜けて、瑞子の副としました。
夾注 1
瑞子見上。
瑞子は上に見えます。
99稻目宿禰が薨じる
卅一年春三月甲申朔。蘇我大臣稻目宿禰薨。
三十一年の春三月甲申の朔の日、蘇我大臣稻目宿禰が薨じました。
100高麗の使いが漂着する
夏四月甲申朔乙酉。幸泊瀬柴籬宮。越人江渟臣裾代詣京奏曰。高麗使人辛苦風浪迷失浦津。任水漂流。忽到着岸。郡司隠匿。故臣顯奏。詔曰。朕承帝業若干年。高麗迷路始到越岸。雖苦漂溺。尚全性命。豈非徽猷廣被。至徳魏魏。仁化傍通。洪恩蕩蕩者哉。有司宜於山背國相樂郡。起舘淨治。厚相資養。
夏四月甲申の朔の乙酉の日、泊瀬の柴籬宮(しばかきのみや)に行幸されました。
越の人である江渟臣裾代(えぬのおみすそしろ)が京に詣って奏して申しました。「高麗の使いの人が風と浪に苦しんで浦や津を迷い失い、水に任せて漂い流れ、忽ちに岸に到り着きました。郡司が隠し匿しました。ですから臣が顯して奏します。」
詔して申されました。「朕が帝の業を承けて若干年になるが、高麗が路に迷って初めて越の岸に到った。漂い溺れる苦しみはあったものの、なお性命を全くしたのは、どうして徽しい猷が広く被り、至れる徳が魏しく魏しく、仁の化が傍く通じ、洪きな恩が蕩々としているからでないことがあろうか。有司は宜しく山背国相樂郡に舘を起こして淨く治め、厚く相い資け養え。」
101高麗の使いを迎える
是月。乘輿至自泊瀬柴籬宮。遣東漢氏直糠兒。葛城直難波迎召高麗使人。
この月、乘輿が泊瀬の柴籬宮から至りました。東漢氏直糠兒(やまとのあやうじのあたいぬかご)、葛城直難波(かずらきのあたいなにわ)を遣わして、高麗の使いの人を迎え召させました。
102道君の偽りが露れる
五月。遣膳臣傾子於越饗高麗使。大使審知膳臣是皇華使。乃謂道君曰。汝非天皇果如我疑。汝既伏拜膳臣。倍復足知百姓。而前詐余取調入己。宜速還之。莫煩餝語。膳臣聞之使人探索其調。具爲與之。還京復命。
五月、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)を越に遣わして、高麗の使いを饗させました。
大使は膳臣が皇の華の使いであることを審らかに知り、そこで道君(みちのきみ)に申しました。「汝が天皇でないことは、果たして我が疑ったとおりであった。汝が既に膳臣に伏して拜んだので、いよいよ百姓であることが足るほど知れた。それなのに前に余を詐って調を取り己のものとした。宜しく速やかにこれを還せ。餝る語で煩わすな。」
膳臣はこれを聞いて、人を使ってその調を探し索め、具さにこれを与えました。京に還って命を復しました。
夾注 1
傾子。此云舸陀部古。
傾子は「かたぶこ」と読みます。
103高麗の使いが近江に到る
秋七月壬子朔。高麗使到于近江。
秋七月壬子の朔の日、高麗の使いが近江に到りました。
104高麗の使いを迎え入れる
是月。遣許勢臣猿與吉士赤鳩發自難波津。控引船於狹狹波山。而裝飾船乃徃迎於近江北山。遂引入山背高威舘。則遣東漢坂上直子麻呂。錦部首大石以爲守護。更饗高麗使者於相樂舘。
この月、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きしのあかはと)を遣わして、難波津から発し、船を狹狹波山(ささなみやま)に控き引き、船を装い飾って、そこで近江の北の山に往って迎えました。ついに山背の高威の舘(たかみのむろつみ)に引き入れました。
そして東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうえのあたいこまろ)、錦部首大石(にしごりのおびとおおいし)を遣わして守り護らせました。更に高麗の使者を相樂の舘で饗しました。
105任那が滅びた理由を問う
卅二年春三月戊申朔壬子。遣坂田耳子郎君。使於新羅。問任那滅由。
三十二年の春三月戊申の朔の壬子の日、坂田耳子郎君(さかたのみみこのいらつこのきみ)を新羅に使いさせ、任那が滅びた由を問わせました。
106良い日を待つ
是月。高麗獻物并表未得呈奏。經歴數旬。占待良日。
この月、高麗が献じた物とあわせて表を、まだ呈し奏することができませんでした。数旬を経歴しながら、占って良い日を待ちました。
107太子に任那を託す
夏四月戊寅朔壬辰。天皇寢疾不豫。皇太子向外不在。騨馬召到。引入臥内。執其手詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。汝須打新羅。封建任那。更造夫婦。惟如舊曰。死無恨之。
夏四月戊寅の朔の壬辰の日、天皇が疾に寢て豫からずなりました。皇太子は外に向かっていて、いませんでした。騨馬で召して到りますと、臥せている内に引き入れ、その手を執って詔して申されました。
「朕の疾は甚しい。後の事を汝に属ける。汝は須く新羅を打って、任那を封じ建て、更に夫婦のようになることを、ただ旧い日のようにせよ。そうすれば死んでも恨むことはない。」
108天皇が崩じる
是月。天皇遂崩于内寝。時年若干。
この月、天皇はついに内の寝で崩じました。そのとき年は若干でした。
109殯をする
五月。殯于河内古市。
五月、河内の古市に殯しました。
110新羅の弔いの使い
秋八月丙子朔。新羅遣弔使未叱子失消等奉哀於殯。
秋八月丙子の朔の日、新羅が弔いの使いである未叱子失消らを遣わして、殯で哀しみを奉りました。
111弔いの使いが罷る
是月。未叱子失消等罷。
この月、未叱子失消らが罷りました。
112桧隈坂合陵
九月。葬于桧隈坂合陵。
九月、桧隈の坂合陵(さかあひのみささぎ)に葬りました。