敏達天皇
1敏達天皇
渟中倉太珠敷天皇。天國排開廣庭天皇第二子也。母曰石姫皇后。天皇不信佛法而愛文史。廿九年立爲皇太子。卅二年四月。天國排開廣庭天皇崩。
渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのてんのう)は、天國排開廣庭天皇の第二子です。母は石姫皇后と申します。
天皇は佛法を信じず、文史を愛されました。二十九年に皇太子に立てられました。三十二年四月、天國排開廣庭天皇が崩じました。
夾注 1
石姫皇后。武小廣國押盾天皇女也。
石姫皇后は、武小廣國押盾天皇の娘です。
2位に即く
元年夏四月壬申朔甲戌。皇太子即天皇位。尊皇后曰皇太后。
元年の夏四月壬申の朔の甲戌の日、皇太子が天皇の位に即きました。皇后を尊んで皇太后と申しました。
3百濟大井
是月。宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連。如故。以蘇我馬子宿禰爲大臣。
この月、百濟大井(くだらのおおい)に宮しました。物部弓削守屋大連を大連とし、もとのままでした。蘇我馬子宿禰を大臣としました。
4高麗の使人を検める
五月壬寅朔。天皇問皇子與大臣曰。高麗使人今何在。大臣奉對曰。在於相樂舘。天皇聞之。傷惻極甚。愀然而歎曰。悲哉。此使人等。名既奏聞於先考天皇矣。乃遣郡臣於相樂舘。検録所獻調物。令送京師。
五月壬寅の朔の日、天皇が皇子と大臣に問われました。「高麗の使人は今どこにいるのか。」
大臣が奉って答えました。「相樂の舘におります。」
天皇はこれを聞いて、傷み惻れることが極めて甚しく、愀然として歎かれました。「悲しいことだ。この使人たちの名は、すでに先の天皇に奏し聞こえているものだ。」
そこで郡臣を相樂の舘に遣わして、獻った調の物を検め録し、京師に送らせました。
5王辰爾が高麗の表疏を読む
丙辰。天皇執高麗表疏授於大臣。召聚諸史令讀解之。是時諸史於三日内皆不能讀。爰有船史祖王辰爾。能奉讀釋。由是天皇與大臣倶爲讃美曰。勤乎辰爾。懿哉辰爾。汝若不愛於學。誰能讀解。宜從今始近侍殿中。既而詔東西諸史曰。汝等所習之業何故不就。汝等雖衆不及辰爾。又高麗上表疏書于烏羽。字随羽黒既無識者。辰爾乃蒸羽於飯氣。以帛印羽。悉冩其字。朝庭悉之異。
丙辰の日、天皇が高麗の表疏を執って大臣に授けました。諸々の史を召し聚めて読み解かせました。このとき諸々の史は三日の内に皆読むことができませんでした。
そこに船史の祖、王辰爾(おうしんに)がいて、よく奉って読み釋くことができました。
これによって天皇と大臣はともに讃め美めて申しました。「勤めたことだ、辰爾よ。懿しいことだ、辰爾よ。お前がもし学を愛さなかったなら、誰がよく読み解くことができたであろうか。今から始めて殿中に近く侍るがよい。」
やがて東西の諸々の史に詔して申しました。「お前たちが習った業は、どうして成らなかったのか。お前たちは衆いけれども辰爾に及ばない。」
また高麗が上った表疏は烏の羽に書かれていて、字が羽の黒さに随って、すでに識る者がありませんでした。辰爾はそこで羽を飯の氣に蒸し、帛で羽を印して、その字をことごとく冩しました。朝庭はみなこれを異しみました。
6高麗の大使が殺される
六月。高麗大使謂副使等曰。磯城嶋天皇時。汝等違吾所議。被欺於他。妄分國調。輙與微者。豈非汝等過歟。其若我國王聞。必誅汝等。副使等自相謂之曰。若吾等至國時。大使顯■吾過。是下祥事也。思欲偸殺而斷其口。是夕謀泄。大使知之裝束衣帯獨自潜行。立舘中庭不知所計。時有賊一人。以杖出來打大使頭而退。次有賊一人。直向大使打頭與手而退。大使尚黙然立地而拭面血。更有賊一人執刀急來刺大使腹而退。是時。大使恐伏地拜。後有賊一人。既殺而去。明旦領客東漢坂上直子麻呂等推問其由。副使等乃作矯詐曰。天皇賜妻於大使。大使違勅不受。無禮茲甚。是以臣等爲天皇殺焉。有司以禮收葬。
六月、高麗の大使が副使たちに申しました。「磯城嶋天皇の時、お前たちは私が議ったところに違い、他に欺かれて、妄りに國の調を分け、たやすく微しい者に與えた。どうしてお前たちの過ちでないことがあろうか。もし我が國の王が聞けば、必ずお前たちを誅するであろう。」
副使たちは互いに申しました。「もし我々が國に至ったとき、大使が我々の過ちを顯せば、これは祥くないことだ。ひそかに殺してその口を断とうと思う。」
この夕べに謀りごとが洩れました。大使はこれを知り、衣帯を装い束ねて、独りひそかに行き、舘の中庭に立って計るところを知りませんでした。
そのとき賊が一人いて、杖を持って出て来て大使の頭を打って退きました。次に賊が一人いて、直ちに大使に向かって頭と手を打って退きました。大使はなお黙然として地に立ち、面の血を拭いました。さらに賊が一人いて、刀を執って急ぎ来て大使の腹を刺して退きました。
このとき大使は恐れて地に伏して拜みました。後に賊が一人いて、ついに殺して去りました。
明くる朝、客を領る東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうえのあたいこまろ)たちがその由を推し問いました。副使たちはそこで矯り詐りを作って申しました。「天皇が大使に妻を賜わりましたのに、大使は勅に違って受けませんでした。無禮なことがこれほど甚しかったのです。これによって臣たちは天皇のために殺したのです。」
有司は禮をもって收めて葬りました。
7高麗の使人が歸る
秋七月。高麗使人罷歸。是年也太歳壬辰。
秋七月、高麗の使人が罷り歸りました。この年は太歳壬辰です。
8高麗の使人の船が破れる
二年夏五月丙寅朔戊辰。高麗使人泊于越海之岸。破船溺死者衆。朝庭猜頻迷路。不饗放還。仍勅吉備海部直難波送高麗使。
二年の夏五月丙寅の朔の戊辰の日、高麗の使人が越の海の岸に泊りました。船が破れて溺れ死ぬ者が多くありました。
朝庭は頻りに路に迷うことを猜しんで、饗せずに放ち歸しました。そこで吉備海部直難波(きびのあまべのあたいなにわ)に勅して高麗の使を送らせました。
9難波が二人を海に擲つ
秋七月乙丑朔。於越海岸。難波與高麗使等相議。以送使難波船人大嶋首磐日。狹丘首間狹。令乘高麗使船。以高麗二人令乘送使船。如此互乘以備奸志。倶時發船至數里許。逆使難波乃恐畏波浪。執高麗二人擲入於海。
秋七月乙丑の朔の日、越の海の岸で、難波と高麗の使たちが互いに議りました。送る使の難波の船人、大嶋首磐日(おおしまのおびといわひ)と狹丘首間狹(さおかのおびとまさ)を高麗の使の船に乗らせ、高麗の人二人を送る使の船に乗らせました。このように互いに乗り合って、奸しい志に備えたのです。
ともに船を發して数里ばかり至りました。送る使の難波はそこで波浪を恐れ畏れて、高麗の人二人を執って海に擲ち入れました。
10難波が偽って奏す
八月甲午朔丁未。送使難波還來。復命曰。海裏鯨魚大有遮囓船與楫櫂。難波等恐魚呑船不得入海。天皇聞之。識其謾語駈使於官不放還國。
八月甲午の朔の丁未の日、送る使の難波が還り來て、命を復して申しました。「海の裏に鯨魚が大きくいて、船と楫櫂を遮り囓みました。難波たちは魚が船を呑むことを恐れて、海に入ることができませんでした。」
天皇はこれを聞いて、その謾りの語であることを識り、官に駈い使って、放って國に歸らせませんでした。
11高麗の使人が再び来る
三年夏五月庚申朔甲子。高麗使人泊于越海之岸。
三年の夏五月庚申の朔の甲子の日、高麗の使人が越の海の岸に泊りました。
12難波の罪を数える
秋七月己未朔戊寅。高麗使人入京奏曰。臣等去年相逐送使罷歸於國。臣等先至臣蕃。臣蕃即准使人之禮。禮饗大嶋首磐日等。高麗國王別以厚禮禮之。既而送使之船至今末到。故更謹遣使人并磐日等。請問臣使不來之意。天皇聞即數難波罪曰。欺誑朝庭。一也。溺殺隣使。二也。以茲大罪不合放還。以斷其罪。
秋七月己未の朔の戊寅の日、高麗の使人が京に入って奏して申しました。
「臣たちは去年、送る使に相い逐って國に罷り歸りました。臣たちが先に臣の蕃に至りました。臣の蕃はすぐに使人の禮に准えて、大嶋首磐日たちを禮して饗しました。高麗の國王は別に厚い禮をもってこれを禮しました。
やがて、送る使の船が今に至るまで到りません。それゆえ更に謹んで使人と磐日たちを遣わし、臣の使が來ない意を請い問うのです。」
天皇は聞いて、すぐに難波の罪を数えて申しました。「朝庭を欺き誑かしたこと、一つである。隣の使を溺らせ殺したこと、二つである。」この大きな罪によって放ち歸すことは合わないとして、その罪を断ちました。
13白猪の屯倉を増す
冬十月戊子朔丙申。遣蘇我馬子大臣於吉備國増益白猪屯倉與田部。即以田部名籍授于白猪史膽津。
冬十月戊子の朔の丙申の日、蘇我馬子大臣を吉備國に遣わして、白猪の屯倉と田部を増し益しました。そして田部の名籍を白猪史膽津(しらいのふびといつ)に授けました。
14津史
戊戌。詔。船史王辰爾弟牛賜姓爲津史。
戊戌の日、詔しました。「船史王辰爾の弟、牛に姓を賜わって津史とせよ。」
15新羅が調を進める
十一月。新羅遣使進調。
十一月、新羅が使を遣わして調を進めました。
16廣姫を皇后とする
四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男。二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女。
四年の春正月丙辰の朔の甲子の日、息長眞手王(おきながのまてのおおきみ)の娘、廣姫を立てて皇后としました。この方が一男二女を生みました。その一は押坂彦人大兄皇子、その二は逆登皇女、その三は菟道磯津貝皇女です。
夾注 1
更名麻呂古皇子。
別の名は麻呂古皇子(まろこのみこ)です。
17夫人たち
是月。立一夫人。春日臣仲君女曰老女子夫人。生三男。一女。其一曰難波皇子。其二曰春日皇子。其三曰桑田皇女。其四曰大派皇子。次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生太姫皇女。與糠手姫皇女。
この月、一人の夫人を立てました。春日臣仲君の娘で、老女子夫人(おみなごのふじん)と申します。三男一女を生みました。その一は難波皇子、その二は春日皇子、その三は桑田皇女、その四は大派皇子です。
次に采女、伊勢大鹿首小熊の娘は菟名子夫人(うなこのふじん)と申します。太姫皇女と糠手姫皇女を生みました。
夾注 3
更名藥君娘也。
別の名は藥君娘(くすりのきみのいらつめ)です。
更名櫻井皇女。
別の名は櫻井皇女(さくらいのひめみこ)です。
更名田村皇女。
別の名は田村皇女(たむらのひめみこ)です。
18馬子が還る
二月壬辰朔。馬子宿禰大臣還于京師。復命屯倉之事。
二月壬辰の朔の日、馬子宿禰大臣が京師に還って、屯倉の事を復し命しました。
19任那の事を懈るな
乙丑。百濟遣使進調。多益恒歳。天皇以新羅未建任那。詔皇子與大臣曰。莫懶懈於任那之事。
乙丑の日、百濟が使を遣わして調を進めました。常の歳よりも多くありました。天皇は新羅がまだ任那を建てていないとして、皇子と大臣に詔しました。「任那の事に懶り懈ることがあってはならない。」
20三つの國に使を遣わす
夏四月乙酉朔庚寅。遣吉士金子使於新羅。吉士木蓮子使於任那。吉士譯語彦使於百濟。
夏四月乙酉の朔の庚寅の日、吉士金子(きしのかねこ)を新羅に使として遣わし、吉士木蓮子(きしのいたび)を任那に使として遣わし、吉士譯語彦(きしのおさひこ)を百濟に使として遣わしました。
21新羅が四つの邑の調を進める
六月。新羅遣使進調多。益常例。并進多多羅。須奈羅。和陀。發鬼四邑之調。
六月、新羅が使を遣わして調を進めたものが多く、常の例よりも益していました。あわせて多多羅・須奈羅・和陀・發鬼の四つの邑の調を進めました。
22譯語田宮
是歳。命卜者占海部王家地與絲井王家地。卜便襲吉。遂營宮於譯語田。是謂幸玉宮。
この歳、卜する者に命じて、海部王の家の地と絲井王の家の地を占わせました。卜はいずれも吉と出ました。ついに譯語田(おさだ)に宮を營みました。これを幸玉宮(さきたまのみや)と申します。
23皇后が薨じる
冬十一月。皇后廣姫薨。
冬十一月、皇后廣姫が薨じました。
24豐御食炊屋姫を皇后とする
五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后。是生二男。五女。。其一曰菟道貝鮹皇女。是嫁於東宮聖徳。其二曰竹田皇子。其三曰小墾田皇女。是嫁於彦人大兄皇子。其四曰■■守皇女。其五曰尾張皇子。其六曰田眼皇女。是嫁於息長足日廣額天皇。其七曰櫻井弓張皇女。
五年の春三月己卯の朔の戊子の日、有司が皇后を立てることを請いました。詔して豐御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)を立てて皇后としました。
この方が二男五女を生みました。その一は菟道貝鮹皇女で、この方は東宮聖徳に嫁ぎました。その二は竹田皇子、その三は小墾田皇女で、この方は彦人大兄皇子に嫁ぎました。その四はうもり皇女、その五は尾張皇子、その六は田眼皇女で、この方は息長足日廣額天皇に嫁ぎました。その七は櫻井弓張皇女です。
夾注 2
更名菟道磯津貝皇女也。
別の名は菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)です。
更名輕守皇女。
別の名は輕守皇女(かるもりのひめみこ)です。
25日祀部を置く
六年春二月甲辰朔。詔。置日祀部。私部。
六年の春二月甲辰の朔の日、詔して日祀部(ひまつりべ)と私部(きさいちべ)を置きました。
26百濟に宰を遣わす
夏五月癸酉朔丁丑。遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國
夏五月癸酉の朔の丁丑の日、大別王(おおわけのおおきみ)と小黒吉士(おぐろのきし)を遣わして、百濟國の宰としました。
夾注 1
王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。
王人が命を奉って三韓に使となると、自ら稱して宰と申しました。韓に宰となったと言うのは、おそらく古の典なのでしょう。今、使と言うのと同じです。他もみなこれに倣います。大別王は出たところが詳らかではありません。
27百濟が僧と工を獻る
冬十一月庚午朔。百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。
冬十一月庚午の朔の日、百濟國の王が、還る使の大別王たちに付して、經論若干卷とあわせて律師・禪師・比丘尼・咒禁師・造佛工・造寺工の六人を獻りました。ついに難波の大別王の寺に安置しました。
28菟道皇女が解かれる
七年春三月戊辰朔壬申。以菟道皇女侍伊勢祠。即奸池邊皇子。事顯而解。
七年の春三月戊辰の朔の壬申の日、菟道皇女をもって伊勢の祠に侍らせました。ところが池邊皇子と奸れて、事が顯れて解きました。
29新羅が佛像を送る
八年冬十月。新羅遣枳叱政奈末進調。并送佛像。
八年の冬十月、新羅が枳叱政奈末(きしせいなま)を遣わして調を進め、あわせて佛像を送りました。
30調を納めない
九年夏六月。新羅遣安刀奈末。失消奈末進調。不納以還之。
九年の夏六月、新羅が安刀奈末(あんとなま)と失消奈末(しっしょうなま)を遣わして調を進めましたが、納めずにこれを還しました。
31蝦夷が盟う
十年春潤二月。蝦夷數千冦於邊境。由是召其魁帥綾糟等。詔曰。惟爾蝦夷者。大足彦天皇之世合殺者斬。應原者赦。今朕遵彼前例欲誅元惡。於是綾糟等懼然恐懼。乃下泊瀬中流。面三諸岳漱水而盟曰。臣等蝦夷。自今以後子子孫孫。用清明心事奉天闕。臣等若違盟者。天地諸神及天皇靈絶滅臣種矣。
十年の春、閏二月、蝦夷の数千が邊境を冦しました。これによってその魁帥の綾糟(あやかす)たちを召して詔しました。
「ただお前たち蝦夷は、大足彦天皇の世に、殺すに合う者は斬り、原すに應ずる者は赦した。今、朕は彼の前の例に遵って、元の惡しき者を誅そうと思う。」
ここで綾糟たちは懼然として恐れ懼れました。そこで泊瀬の中ほどの流れに下り、三諸の岳に面して水に漱いで盟って申しました。
「臣たち蝦夷は、今から後、子子孫孫、清く明らかな心をもって天の闕にお仕え申します。臣たちがもし盟いに違いましたなら、天地の諸々の神および天皇の靈が、臣たちの種を絶ち滅ぼしてくださいますように。」
夾注 2
魁帥者大毛人也。
魁帥とは大きな毛人です。
古語云。生兒八十綿連連。
古い語に「生める兒八十、綿連連」と申します。
32再び調を納めない
十一年冬十月。新羅遣安刀奈末。失消奈末進調。不納以還之。
十一年の冬十月、新羅が安刀奈末と失消奈末を遣わして調を進めましたが、納めずにこれを還しました。
33日羅を喚ぶ
十二年秋七月丁酉朔。詔曰。屬我先考天皇之世。新羅滅内官家之國。先考天皇謀復任那。不果而崩。不成其志。是以朕當奉助神謀復興任那。今在百濟火葦北國造阿利斯登子。達率日羅賢而有勇。故朕欲與其人相計。乃遣紀國造押勝與吉備海部直羽嶋喚於百濟。
十二年の秋七月丁酉の朔の日、詔しました。
「我が先の天皇の世に、新羅が内官家の國を滅ぼした。先の天皇は任那を復することを謀りながら、果たさずに崩じ、その志を成さなかった。それゆえ朕は、まさに神の謀りを奉け助けて、任那を復し興そうと思う。
今、百濟にいる火葦北國造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこありしとう)の子、達率日羅(にちら)は賢くて勇がある。それゆえ朕は、その人とともに計ろうと思う。」
そこで紀國造押勝(きのくにのみやつこおしかつ)と吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたいはしま)を遣わして、百濟で喚ばせました。
夾注 1
天國排開廣庭天皇廿三年任那爲新羅所滅。故云新羅滅我内官家也。
天國排開廣庭天皇の二十三年に、任那が新羅に滅ぼされました。それゆえ、新羅が我が内官家を滅ぼしたと申したのです。
34百濟が惜しむ
冬十月。紀國造押勝等還自百濟。復命於朝曰。百濟國主奉惜日羅不肯聽上。
冬十月、紀國造押勝たちが百濟から還って、朝に復し命して申しました。「百濟國の主は日羅を奉り惜しんで、上ることを聽こうとしませんでした。」
35日羅が来る
是歳。復遣吉備海部直羽嶋召日羅於百濟。羽嶋既之百濟。欲先私見日羅。獨自向家門底。俄而有家裏來韓婦。用韓語言。以汝之根入我根内。即入家去。羽嶋便覺其意随後而入。於是日羅迎來。把手使坐於座。密告之曰。僕竊聞之。百濟國主奉疑天朝。奉遣臣後留而弗還。所以奉惜不肯奉進。宜宣勅時。現嚴猛色催急召焉。羽嶋乃依其計而召日羅。於是百濟國主怖畏天朝不敢違勅。奉遣以日羅。恩率徳爾。余怒。哥奴知。參官。柁師徳率次干徳。水手等若千人。日羅等行到吉備兒嶋屯倉。朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉。復遣大夫等於難波舘使訪日羅。是時日羅被甲乘馬到門底下。乃進廳前進退跪拜歎恨而曰。於桧隈宮御寓天皇之世。我君大伴金村大連奉爲國家使於海表火葦北國造刑部靭部阿利斯登之子。臣達率日羅。聞天皇召恐畏來朝。乃解其甲奉於天皇。
この歳、重ねて吉備海部直羽嶋を遣わして、百濟で日羅を召しました。
羽嶋はすでに百濟に行き、まず私かに日羅に見えようと思って、独りで家の門の底に向かいました。
やがて家の裏から來る韓の婦がいて、韓の語で申しました。「お前の根を私の根の内に入れよ。」そしてすぐ家に入って行きました。
羽嶋はすぐにその意を覺って、後に随って入りました。そこで日羅が迎え來て、手を把って座に坐らせ、密かに告げて申しました。
「僕がひそかに聞きましたところ、百濟國の主は天朝を疑い奉って、臣を遣わし奉った後に留めて還さないのではないかと、それで惜しみ奉って進め奉ることを肯じないのです。勅を宣べるとき、嚴しく猛しい色を現して、急ぎ催して召されるのがよろしいでしょう。」
羽嶋はそこでその計に依って日羅を召しました。
そこで百濟國の主は天朝を怖れ畏れて、敢えて勅に違わず、日羅と恩率徳爾(とくじ)・余怒(よぬ)・哥奴知(かぬち)・參官(さんかん)、柁師の徳率次干徳(じかんとく)、水手たち若干人を遣わし奉りました。
日羅たちが行って吉備の兒嶋の屯倉に到ると、朝庭は大伴糠手子連(おおとものぬかてこのむらじ)を遣わして慰め勞いました。重ねて大夫たちを難波の舘に遣わして、日羅を訪わせました。
このとき日羅は甲を被て馬に乘り、門の底の下に到りました。そして廳の前に進み、進み退きして跪き拜み、歎き恨んで申しました。
「桧隈の宮に御寓しました天皇の世に、我が君、大伴金村大連が、國家のために海の表に使わした火葦北國造刑部靭部阿利斯登の子、臣、達率日羅が、天皇の召しを聞いて恐れ畏れ、朝に參りました。」
そしてその甲を解いて天皇に奉りました。
夾注 1
韓の言葉で「お入りください」を遠回しに言ったものです。羽嶋はすぐにその意を察して、後に従って入りました。― 訳者
36日羅が國の政を奏す
乃營舘於阿斗桑市使住日羅。供給随欲。復遣阿倍目臣物部贄子連。大伴糠手子連。而問國政於日羅。日羅對言。天皇所以治天下政。要須護養黎民。何遽興兵翻將失滅。故今令議者仕奉朝列。臣連。二造。下及百姓。悉皆饒富令無所乏。如此三年。足食足兵。以悦使民。不憚水火。同恤國難。然後多造船舶。毎津列置。使觀客人。令生恐懼。爾乃以能使使於百濟。召其國王。若不來者。召其太佐平王子等來。即自然心生欽伏。後應問罪。又奏言。百濟人謀言。有船三百。欲請筑紫。若其實請。宜陽賜予。然則百濟欲新造國。必先以女人小子載船而至國家。望於此時。壷岐。對馬多置伏兵。候至而殺。莫翻被詐。毎於要害之所。堅築壘塞矣。於是恩率。參官臨罷國時。竊語徳爾等言。計吾過筑紫許。汝等偸殺日羅者。吾具白王。當賜高爵。
そこで阿斗の桑市に舘を營んで日羅を住まわせ、欲するままに供え給いました。
重ねて阿倍目臣(あべのめのおみ)・物部贄子連(もののべのにえこのむらじ)・大伴糠手子連を遣わして、國の政を日羅に問わせました。
日羅が對えて申しました。
「天皇が天下を治める政は、要するに黎民を護り養うことにあります。どうして遽かに兵を興して、かえって失い滅ぼそうとなさるのですか。
それゆえ今、議る者、朝の列に仕え奉る者、臣・連、二造、下は百姓に及ぶまで、ことごとく皆を饒かに富ませて、乏しいところのないようにしてください。このようにして三年すれば、食が足り兵が足りて、悦んで民を使っても、水火を憚らず、ともに國の難を恤うでしょう。
その後に船舶を多く造り、津ごとに列ね置いて、客人に觀させ、恐れ懼れを生じさせてください。そうしてから、能ある者を使として百濟に使わし、その國の王を召し、もし來ないならば、その太佐平や王子たちを召して來させてください。すぐに自然と心に欽び伏す思いが生じるでしょう。後に罪を問うのがよろしいでしょう。」
また奏して申しました。
「百濟の人が謀って『船三百あり、筑紫を請いたい』と申しております。もし實に請うたなら、陽りに賜え與えるのがよろしいでしょう。そうすれば、百濟は新しく國を造ろうとして、必ずまず女人と小子を船に載せて至らせるでしょう。この時を望んで、壷岐・對馬に伏兵を多く置き、至るのを候って殺し、かえって詐られることのないようにしてください。要害の所ごとに、堅く壘塞を築いてください。」
そこで恩率と參官が、國に罷る時に臨んで、ひそかに徳爾たちに語って申しました。「私が筑紫を過ぎるあたりで、お前たちがひそかに日羅を殺したならば、私は王に具さに申して、高い爵を賜わらせよう。
夾注 2
二造者。國造。伴造也。
二造とは、國造と伴造です。
舊本以恩率爲一人。以參官爲一人也。
舊い本では、恩率を一人とし、參官を一人としています。
37日羅が死ぬ
身及妻子。垂榮於後。徳爾。余奴皆聽許焉。參官等遂發途於血鹿。於是日羅自桑市村遷難波館。徳爾等畫夜相計將欲殺。時日羅身光有如火焔。由是徳爾等恐而不殺。遂於十二月晦。候失光殺。日羅更蘇生曰。此是我駈使奴等所爲。非新羅也。言畢而死。天皇詔贄子大連。糠手子連。令収葬於小郡西畔丘前。以其妻子。水手等居于石川。於是大伴糠手子連議曰。聚居一處。恐生其變。乃以妻子居于石川百濟村。水手等居于石川大伴村。收縛徳爾等置於下百濟阿田村。遣數大夫推問其事。徳爾等伏罪言。信。是恩率。參官教使爲也。僕等爲人之下不敢違矣。由是下獄復命於朝庭。乃遣使於葦北。悉召日羅眷族。賜徳爾等。任情决罪。是時葦北君等受而皆殺投彌賣嶋。以日羅移葬於葦北。於後海畔者言。恩率之船被風沒海。參官之船漂泊津嶋。乃始得歸。
身と妻子にも、後々まで榮えを垂れさせよう。」
徳爾と余奴はみな聽き許しました。
參官たちはついに血鹿で途に發ちました。そこで日羅は桑市の村から難波の館に遷りました。
徳爾たちは晝夜に相い計って殺そうとしました。そのとき日羅の身の光は火焔のようでした。これによって徳爾たちは恐れて殺せませんでした。
ついに十二月の晦に、光を失うのを候って殺しました。
日羅は更に蘇り生きて申しました。「これは我が駈い使った奴たちのしたことで、新羅ではない。」言い終わって死にました。
天皇は贄子大連と糠手子連に詔して、小郡の西の畔の丘の前に收めて葬らせました。その妻子と水手たちを石川に居らせました。
そこで大伴糠手子連が議って申しました。「一つ處に聚まり居れば、その變が生じるのが恐ろしい。」そこで妻子を石川の百濟の村に居らせ、水手たちを石川の大伴の村に居らせました。
徳爾たちを收め縛って下百濟の阿田の村に置き、数人の大夫を遣わしてその事を推し問わせました。
徳爾たちは罪に伏して申しました。「信に、これは恩率と參官が教え使わせたことです。僕たちは人の下となって、敢えて違えなかったのです。」
これによって獄に下し、朝庭に復し命しました。
そこで使を葦北に遣わし、日羅の眷族をことごとく召して、徳爾たちを賜わり、情のままに罪を决せさせました。このとき葦北君たちは受けて皆殺し、彌賣嶋に投げました。日羅は葦北に移して葬りました。
後に海の畔の者が申しました。「恩率の船は風を被って海に沒み、參官の船は津嶋に漂い泊って、それでようやく歸ることができた。」
夾注 2
屬是時。有新羅使。故云爾也。
このとき、ちょうど新羅の使がいました。それゆえ、そのように申したのです。
彌賣嶋。盖姫嶋也。
彌賣嶋は、おそらく姫嶋でしょう。
38新羅と任那に使を遣わす
十三年春二月癸巳朔庚子。遣難波吉士木蓮子使於新羅。遂之任那。
十三年の春二月癸巳の朔の庚子の日、難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)を新羅に使として遣わし、ついに任那に行かせました。
39彌勒の石像が来る
秋九月。從百濟來鹿深臣有彌勒石像一躯。佐伯連有佛像一躯。
秋九月、百濟から來た鹿深臣(かふかのおみ)が彌勒の石像一躯を持っていて、佐伯連(さえきのむらじ)が佛像一躯を持っていました。
夾注 2
闕名字。
名字が闕けています。
闕名字。
名字が闕けています。
40三人の尼と舎利
是歳。蘇我馬子宿禰請其佛像二躯。乃遣鞍部村主司馬達等。池邊直氷田。使於四方、訪覓修行者。於是唯於播磨國得僧還俗者。名高麗惠便。大臣乃以爲師。令度司馬達等女嶋。曰善信尼。又度善信尼弟子二人。其一漢人夜菩之女豐女。名曰禪藏尼。其二錦織壼之女石女。名曰惠善尼。馬子獨依佛法。崇敬三尼。乃以三尼付氷田直與達等令供衣食。經營佛殿於宅東方。安置彌勒石像。屈請三尼大會設斎。此時達等得佛舎利於斎食上。即以舎利獻於馬子宿禰。馬子宿禰試以舎利置鐵質中。振鐵鎚打。其質與鎚悉被摧壌。而舎利不可摧毀。又投舎利於水。舎利随心所願浮沈於水。由是馬子宿禰。池邊氷田。司馬達等。深信佛法修行不懈。馬子宿禰亦於石川宅脩治佛殿。佛法之初自而作。
この歳、蘇我馬子宿禰がその佛像二躯を請いました。そこで鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしばだっと)と池邊直氷田(いけべのあたいひた)を遣わし、四方に使わして修行する者を訪ね覓めさせました。
そこで、ただ播磨國で僧であって還俗した者を得ました。名は高麗の惠便(えべん)です。大臣はそこで師とし、司馬達等の娘、嶋を度させて善信尼(ぜんしんに)と申しました。
また善信尼の弟子二人を度させました。その一は漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘、豐女で、名を禪藏尼(ぜんぞうに)と申し、その二は錦織壼(にしごりのつぶ)の娘、石女で、名を惠善尼(えぜんに)と申しました。
馬子は独り佛法に依って、三人の尼を崇め敬いました。そこで三人の尼を氷田直と達等に付して、衣食を供えさせました。宅の東の方に佛殿を經營み、彌勒の石像を安置して、三人の尼を屈め請じ、大きく會して斎を設けました。
このとき達等は、斎の食の上で佛の舎利を得ました。そしてすぐに舎利を馬子宿禰に獻りました。
馬子宿禰は試みに舎利を鐵の質の中に置き、鐵の鎚を振って打ちました。その質と鎚はことごとく摧け壌れましたが、舎利は摧き毀つことができませんでした。また舎利を水に投げると、舎利は心の願うところに随って水に浮き沈みました。
これによって馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等は深く佛法を信じ、修行して懈りませんでした。馬子宿禰はまた石川の宅に佛殿を脩め治めました。佛法の初めは、ここから起こったのです。
夾注 2
年十一歳。
年は十一歳でした。
壼。此云都苻。
壼は、つぶと読みます。
41塔を起こす
十四年春二月戊子朔壬寅。蘇我大臣馬子宿禰起塔於大野丘北大會設斎。即以達等前所獲舎利藏塔柱頭。
十四年の春二月戊子の朔の壬寅の日、蘇我大臣馬子宿禰が大野の丘の北に塔を起こし、大きく會して斎を設けました。そして達等が前に獲た舎利を塔の柱の頭に藏めました。
42大臣が病む
辛亥。蘇我大臣患疾。問於卜者。卜者對言。祟於父時所祭佛神之心也。大臣即遣子弟奏其占状。詔曰。宜依卜者之言。祭祠父神。大臣奉詔禮拜石像。乞延壽命。是時國行疫疾。民死者衆。
辛亥の日、蘇我大臣が疾を患いました。卜する者に問うと、卜する者が對えて申しました。「父の時に祭った佛神の心の祟りです。」
大臣はすぐに子弟を遣わして、その占いの状を奏しました。詔しました。「卜する者の言に依って、父の神を祭祠るのがよい。」
大臣は詔を奉って石像を禮拜し、壽命を延べることを乞いました。このとき國に疫疾が行われ、民の死ぬ者が多くありました。
43佛法を断て
三月丁巳朔。物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫奏曰。何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下。疫疾流行。國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。詔曰。灼然。宜斷佛法。
三月丁巳の朔の日、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫が奏して申しました。「どうして臣の言を用いることを肯じないのですか。考天皇から陛下に及ぶまで、疫疾が流行して、國の民は絶えそうです。これはひとえに蘇我臣が佛法を興し行ったことによるのではありませんか。」
詔しました。「灼かなことだ。佛法を断つのがよい。」
44塔を倒し佛像を棄てる
丙戌。物部弓削守屋大連自詣於寺。踞坐胡床。斫倒其塔縱火燔之。并燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像令棄難波堀江。是日無雲風雨。大連被雨衣。訶責馬子宿禰與從行法侶。令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室。喚馬子宿禰所供善信等尼。由是馬子宿禰不敢違命。惻愴啼泣。喚出尼等付於御室。有司便奪尼等三衣。禁錮楚撻海石榴市亭。天皇思建任那。差坂田耳子王爲使。屬此之時。天皇與大連卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰。不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。
丙戌の日、物部弓削守屋大連は自ら寺に詣り、胡床に踞り坐って、その塔を斫り倒し、火を縱って燔きました。あわせて佛像と佛殿を燒きました。やがて燒け餘った佛像を取って、難波の堀江に棄てさせました。
この日、雲がないのに風雨がありました。大連は雨の衣を被て、馬子宿禰と從い行く法侶たちを訶り責め、毀り辱める心を生じさせました。
そこで佐伯造御室(さえきのみやつこみむろ)を遣わして、馬子宿禰が供えていた善信たちの尼を喚ばせました。これによって馬子宿禰は敢えて命に違わず、惻み愴んで啼き泣き、尼たちを喚び出して御室に付しました。
有司はすぐに尼たちの三衣を奪い、禁め錮めて、海石榴市の亭で楚で撻ちました。
天皇は任那を建てることを思い、坂田耳子王(さかたのみみこのおおきみ)を差して使としました。ちょうどこの時、天皇と大連が卒かに瘡を患いました。それゆえ遣わすことを果たせませんでした。
橘豐日皇子に詔しました。「考天皇の勅に違い背いてはならない。任那の政に勤め修めるのがよい。」
また瘡が發って死ぬ者が國に充ち盈ちました。その瘡を患う者は申しました。「身が燒かれるようだ、打たれるようだ、摧かれるようだ。」そう啼き泣いて死にました。
老いた者も少い者もひそかに相い申しました。「これは佛像を燒いた罪だ。」
夾注 1
更名於閭礙也
別の名は於閭礙(おろがい)です。
45三人の尼を還す
夏六月。馬子宿禰奏曰。臣之疾病至今未愈。不蒙三寶之力難可救治。於是詔馬子宿禰曰。汝可獨行佛法。宜斷餘人。乃以三尼還付馬子宿禰。馬子宿禰受而歡悦。嘆未曾有頂禮三尼。新營精舎。迎入供養。
夏六月、馬子宿禰が奏して申しました。「臣の疾病は今に至るまで癒えません。三寶の力を蒙らなければ、救い治すことは難しいでしょう。」
そこで馬子宿禰に詔しました。「お前は独り佛法を行い、餘の人は断つのがよい。」
そして三人の尼を馬子宿禰に還し付しました。馬子宿禰は受けて歡び悦び、未だ曾てないことだと嘆いて、三人の尼に頂を禮しました。新たに精舎を營み、迎え入れて供養しました。
夾注 1
或本云。物部弓削守屋大連。大三輪逆君。中臣磐余連。倶謀滅佛法欲燒寺塔。并棄佛像。馬子宿禰諍而不從。
或る本には、物部弓削守屋大連・大三輪逆君・中臣磐余連がともに佛法を滅ぼすことを謀り、寺と塔を燒き、あわせて佛像を棄てようとしましたが、馬子宿禰が諍って從わなかったと申します。
46天皇が崩じる
秋八月乙酉朔己亥。天皇病彌留崩于大殿。是時起殯宮於廣瀬。馬子宿禰大臣佩刀而誄。物部弓削守屋大連听然而咲曰。如中獵箭之雀烏焉。次弓削守屋大連手脚搖震而誄。馬子宿禰大臣咲曰。可懸鈴矣。由是二臣微生怨恨。三輪君逆使隼人相距於殯庭。穴穂部皇子欲取天下。發憤稱曰。何故事死王之庭。弗事生王之所也。
秋八月乙酉の朔の己亥の日、天皇の病がいよいよ留まって、大殿で崩じました。
このとき廣瀬に殯宮を起こしました。馬子宿禰大臣が刀を佩いて誄しました。物部弓削守屋大連は听然として咲って申しました。「獵の箭に中った雀や烏のようだ。」
次に弓削守屋大連が手脚を搖り震わせて誄しました。馬子宿禰大臣が咲って申しました。「鈴を懸けるとよかろう。」
これによって二人の臣はひそかに怨み恨む心を生じました。
三輪君逆(みわのきみさかう)は隼人を使って殯の庭を相い距らせました。穴穂部皇子は天下を取ろうとして、憤りを發して稱えました。「どうして死んだ王の庭に事えて、生きた王の所に事えないのか。」
夾注 1
搖震戰慄也。
搖震とは、戰き慄くことです。