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用明天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 10 · 漢字 1,061字 · 朗読 4.2分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1用明天皇

橘豐日天皇。天國排開廣庭天皇第四子也。母曰堅塩媛。天皇信佛法尊神道十四年秋八月。渟中倉太珠敷天皇崩。

橘豐日天皇(たちばなのとよひのてんのう)は、天國排開廣庭天皇の第四子です。母は堅塩媛と申します。天皇は佛法を信じ、神道を尊ばれました。

十四年の秋八月、渟中倉太珠敷天皇が崩じました。

2位に即く

九月甲寅朔戊午。天皇即天皇位。宮於磐余。名曰池邊雙槻宮。以蘇我馬子宿禰爲大臣。物部弓削守屋連爲大連。並如故。

九月甲寅の朔の戊午の日、天皇が天皇の位に即きました。磐余に宮して、名づけて池邊雙槻宮(いけべのなみつきのみや)と申しました。蘇我馬子宿禰を大臣とし、物部弓削守屋連を大連として、いずれももとのままでした。

3酢香手姫皇女

壬申。詔曰。云々。以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀。

壬申の日、詔しました。しかじかです。酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)をもって伊勢神宮に拜させ、日の神の祀を奉らせました。

夾注 1

是皇女自此天皇時逮干炊屋姫天皇之世。奉日神神祀。自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。或本云。卅七年間奉日神祀自退而薨。

この皇女は、この天皇の時から炊屋姫天皇の世に至るまで日の神の祀を奉り、自ら葛城に退いて薨じました。炊屋姫天皇の紀に見えます。或る本には、三十七年の間、日の神の祀を奉り、自ら退いて薨じたと申します。

4皇后と子たち

元年春正月壬子朔。立穴穗部間人皇女爲皇后。是生四男。其一曰廐戸皇子。是皇子初居上宮。後移斑移斑鳩。於豐御食炊屋姫天皇世位居東宮。總攝萬機行天皇事。語見豐御食炊屋姫天皇紀。其二曰來目皇子。其三曰殖栗皇子。其四曰茨田皇子。立蘇我大臣稻目宿禰女石寸名爲嬪。是生田目皇子。葛城直磐村女廣子生一男。一女。男曰麻呂子皇子。此當麻公之先也。女曰酢香手姫皇女。歴三代以奉日神。

元年の春正月壬子の朔の日、穴穗部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后としました。この方が四男を生みました。

その一は廐戸皇子(うまやどのみこ)です。この皇子は初め上宮に居り、後に斑鳩に移りました。豐御食炊屋姫天皇の世に、位が東宮にあって、萬機を總べ攝り、天皇の事を行いました。語は豐御食炊屋姫天皇の紀に見えます。

その二は來目皇子、その三は殖栗皇子、その四は茨田皇子です。

蘇我大臣稻目宿禰の娘、石寸名(いしきな)を立てて嬪としました。この方が田目皇子を生みました。

葛城直磐村の娘、廣子が一男一女を生みました。男は麻呂子皇子で、この方が當麻公の先です。女は酢香手姫皇女で、三代を歴て日の神の祀を奉りました。

夾注 2

更名豐耳聰。聖徳。或名豐聰耳。法大王。或云法主王

別の名は豐耳聰聖徳(とよみみとしょうとく)です。或る名は豐聰耳法大王(とよとみみほうだいおう)、或るいは法主王(ほうしゅおう)と申します。

更名豐浦皇子。

別の名は豐浦皇子(とゆらのみこ)です。

5穴穗部皇子が逆を殺そうとする

夏五月。穴穗部皇子欲奸炊屋姫皇后而自強入於殯宮。寵臣三輪君逆乃喚兵衛。重■宮門。拒而勿入。穴穗部皇子問曰。何人在此。兵衛答曰。三輪君逆在焉。七呼開門。遂不聽入。於是穴穗部皇子謂大臣與大連曰。逆頻無禮矣。於殯庭誄曰。不荒朝庭。淨如鏡面。臣治平奉仕。即是無禮。方今天皇子弟多在。兩大臣侍。誰得恣情專言奉仕又余觀殯内。拒不聽入。自呼開門七廻不應。願欲斬之。兩大臣曰。随命。於是穴穗部皇子陰謀王天下之事。而口詐在於殺逆君。遂與物部守屋大連率兵圍繞磐余池邊。逆君知之。隱於三諸之岳。是日夜半潜自山出。隱於後宮。逆之同姓白堤與横山言逆君在處。穴穗部皇子即遣守屋大連曰。汝應往討逆君并其二子。大連遂率兵去。蘇我馬子宿禰外聞斯計。

夏五月、穴穗部皇子が炊屋姫皇后を奸そうとして、自ら強いて殯宮に入りました。

寵む臣、三輪君逆がそこで兵衛を喚んで、宮の門を重ねて鎖し、拒んで入れませんでした。

穴穗部皇子が問いました。「何人がここにいるのか。」

兵衛が答えました。「三輪君逆がおります。」

七たび門を開けと呼びましたが、ついに入れませんでした。

そこで穴穗部皇子は大臣と大連に申しました。

「逆は頻りに無禮である。殯の庭で誄して『朝庭を荒らさず、鏡の面のように淨くし、臣が治め平らげてお仕え申します』と申した。これがすなわち無禮である。まさに今、天皇の子弟が多くおり、兩大臣が侍っているのに、誰が情のままに專らお仕え申すと言うことができようか。

また余が殯の内を觀ようとしたのに、拒んで入れることを聽かず、自ら門を開けと七たび呼んでも應じなかった。願わくはこれを斬りたい。」

兩大臣が申しました。「命のままに。」

そこで穴穗部皇子は、ひそかに天下に王たることを謀りながら、口では詐って逆君を殺すことにあると申しました。

ついに物部守屋大連とともに兵を率いて、磐余の池邊を圍み繞りました。

逆君はこれを知って、三諸の岳に隱れました。この日の夜半、ひそかに山から出て、後宮に隱れました。逆と同じ姓の白堤と横山が、逆君のいる處を申しました。

穴穗部皇子はすぐに守屋大連を遣わして申しました。「お前はまさに往って逆君とその二人の子を討つがよい。」

大連はついに兵を率いて去りました。蘇我馬子宿禰は外でこの計を聞いて、

夾注 2

謂炊屋姫皇后之別業。是名海石榴市宮。

炊屋姫皇后の別業を指します。これを海石榴市宮(つばきちのみや)と申します。

或本云。穴穗部皇子與泊瀬部皇子相計而遣守屋大連。

或る本には、穴穗部皇子と泊瀬部皇子が相い計って守屋大連を遣わしたと申します。

6逆が死ぬ

詣皇子所。即逢門底。將之大連所。時諌曰。王者不近刑人。不可自往。皇子不聽而行。馬子宿禰即便隨去。到於磐余而切諌之。皇子乃從諌止。於此處踞坐胡床待大連焉。大連良久而至。率衆報命曰。斬逆等訖。於是馬子宿禰惻然頽歎曰。天下之亂不久矣。大連聞而答曰。汝小臣之所不識也。是年也太歳丙午。

皇子の所に詣り、すぐに門の底で逢いました。大連の所に行こうとしたとき、諌めて申しました。「王は刑する人を近づけません。自ら往かれてはなりません。」

皇子は聽かずに行きました。馬子宿禰はすぐに随って去きました。磐余に到って切に諌めました。皇子はそこで諌めに從って止まりました。この處で胡床に踞り坐って大連を待ちました。

大連はやや久しくして至り、衆を率いて命を報じて申しました。「逆たちを斬り訖えました。」

そこで馬子宿禰は惻然として頽れるように歎きました。「天下の亂れは久しくあるまい。」

大連は聞いて答えました。「お前のような小さな臣の識るところではない。」

この年は太歳丙午です。

夾注 4

謂皇子家門也。

皇子の家の門を指します。

行至於池邊也。

行って池邊に至ったのです。

或本云。穴穗部皇子自行射殺。

或る本には、穴穗部皇子が自ら行って射殺したと申します。

此三輪君逆者譯語田天皇之所寵愛悉委内外之事焉。由是炊屋姫皇后與馬子宿禰倶發恨於穴穗部皇子也。

この三輪君逆は、譯語田天皇が寵み愛して、内外の事をことごとく委ねた者です。これによって炊屋姫皇后と馬子宿禰はともに穴穗部皇子に恨みを發したのです。

7佛法をめぐって分かれる

二年夏四月乙巳朔丙午。御新甞於磐余河上。是日天皇得病還入於宮。群臣侍焉。天皇詔群臣曰。朕思欲歸三寶。卿等議之。群臣入朝而議。物部守屋大連與中臣勝海連。違詔議曰。何背國神敬他神也。由來不識若斯事矣。蘇我馬子宿禰大臣曰。可隨詔而奉助。■生異計。於是皇弟皇子引豐國法師入於内裏。物部守屋大連耶睨大怒。是時押坂部史毛屎急來密語大連曰。今群臣圖卿。復將斷路。大連聞之即退於阿都集聚人焉。中臣勝海連於家集衆隨助大連。遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之。俄而知事難濟。歸附彦人皇子於水派宮。舍人迹見赤梼伺勝海連自彦人皇子所退。拔刀而殺大連從阿都家使物部八坂。大市造小坂。

二年の夏四月乙巳の朔の丙午の日、磐余の河上で新甞を御しました。この日、天皇は病を得て宮に還り入りました。群臣が侍りました。

天皇が群臣に詔しました。「朕は三寶に歸したいと思う。卿たちはこれを議れ。」

群臣が朝に入って議りました。物部守屋大連と中臣勝海連は、詔に違って議って申しました。「どうして國の神に背いて他の神を敬うのですか。由來、このような事を識りません。」

蘇我馬子宿禰大臣が申しました。「詔に随って助け奉るべきです。誰が異なる計を生じるでしょうか。」

そこで皇弟皇子が豐國の法師を引いて内裏に入れました。物部守屋大連は睨み耶んで大いに怒りました。

このとき押坂部史毛屎(おしさかべのふびとけくそ)が急ぎ來て、ひそかに大連に語って申しました。「今、群臣が卿を圖っています。また路を断とうとしています。」

大連はこれを聞いて、すぐに阿都に退いて人を集め聚めました。中臣勝海連は家に衆を集めて、随って大連を助けました。

ついに太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って厭いました。やがて事の濟し難いことを知り、水派宮の彦人皇子に歸り附きました。

舍人の迹見赤梼(とみのいちい)は、勝海連が彦人皇子の所から退くのを伺い、刀を拔いて殺しました。

大連は阿都の家から物部八坂・大市造小坂・

夾注 5

皇弟皇子者穴穗部皇子。即天皇庶弟。

皇弟皇子とは穴穗部皇子で、すなわち天皇の庶の弟です。

闕名也。

名が闕けています。

阿都大連之別業所在地名也。

阿都は、大連の別業がある地の名です。

水派。此云美麻多。

水派は、みまたと読みます。

迹見姓也。赤梼名也。赤梼。此云伊知毘。

迹見は姓、赤梼は名です。赤梼は、いちいと読みます。

8多須奈が出家を奏す

漆部造兄。謂馬子大臣曰。吾聞。群臣謀我。我故退焉。馬子大臣。乃使土師八嶋連於大伴毘羅夫連所。具述大連之語。由是毘羅夫連手執弓箭皮楯就槻曲家。不離晝夜守護大臣。天皇之瘡轉盛。將欲終時。鞍部多須奈進而奏曰。臣奉爲天皇出家脩道。又奉造丈六佛像及寺。天皇爲之悲慟。今南淵坂田寺木丈六佛像。挾侍菩薩是也。

漆部造兄(ぬりべのみやつこあに)を使わして、馬子大臣に申しました。「私が聞くところ、群臣が私を圖るという。私はそれゆえ退いたのだ。」

馬子大臣はそこで土師八嶋連(はじのやしまのむらじ)を大伴毘羅夫連の所に使わして、大連の語を具さに述べました。

これによって毘羅夫連は手に弓箭と皮の楯を執って槻曲の家に就き、晝夜を離れず大臣を守護しました。

天皇の瘡はいよいよ盛んになり、終わろうとするとき、鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が進んで奏して申しました。「臣は天皇のために出家して道を脩め、また丈六の佛像と寺を造り奉ります。」

天皇はこれのために悲しみ慟きました。今の南淵の坂田寺の木の丈六佛像と、挾み侍る菩薩がこれです。

夾注 2

槻曲家者。大臣家也。

槻曲の家とは、大臣の家です。

司馬達等子也。

司馬達等の子です。

9天皇が崩じる

癸丑。天皇崩干大殿。

癸丑の日、天皇が大殿で崩じました。

10池上の陵

秋七月甲戌朔甲午。葬干磐余池上陵。

秋七月甲戌の朔の甲午の日、磐余の池上の陵に葬りました。