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推古天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 134 · 漢字 7,713字 · 朗読 30.9分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1推古天皇

豊御食炊屋姫天皇,天國排開廣庭天皇(之)中女也,橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女,姿色端麗,進止軌制。年十八歳,立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歳,渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歳,當于泊瀬部天皇五年十一月,天皇爲大臣馬子宿禰見殺,嗣位既空。羣臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女,以將令踐祚。皇后辭譲之。百寮上表勸進至于三,乃從之,因以奉天皇(之)璽印。

豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのてんのう)は、天國排開廣庭天皇の中の女で、橘豊日天皇の同じ母の妹です。幼いときは額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と申しました。姿も色も端しく麗しく、進み止まるに軌しい制がありました。

年十八歳のとき、渟中倉太玉敷天皇の皇后に立てられました。三十四歳のとき、渟中倉太珠敷天皇が崩じました。

三十九歳、泊瀬部天皇の五年十一月に當たって、天皇が大臣馬子宿禰に殺され、嗣ぐ位がすでに空きました。羣臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后、額田部皇女に請って、踐祚させようとしました。皇后はこれを辭り譲りました。百寮が表を上って勸め進めること三たびに至って、そこでこれに從いました。それによって天皇の璽印を奉りました。

2位に即く

冬十二月壬申朔己卯,皇后即天皇位於豐浦宫。

冬十二月壬申の朔の己卯の日、皇后が豐浦宫で天皇の位に即きました。

3法興寺の刹の柱

春正月壬寅朔丙辰,以佛舍利置于法興寺刹柱礎中。丁巳,建刹柱。

春正月壬寅の朔の丙辰の日、佛の舍利を法興寺の刹の柱の礎の中に置きました。丁巳の日、刹の柱を建てました。

4廐户皇子を皇太子とする

夏四月庚午朔己卯,立廐户豐聰耳皇子爲皇太子,仍録攝政,以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也,母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后懷姙開胎之日,巡行禁中,監察諸司。至于馬官,乃當廐户,而不勞忽産之。生而能言,有聖智。及壯,一聞十人訴,以勿失能辨,兼知未然。且習内教於高麗僧慧慈,學外典於博士覺哿,並悉達矣。父天皇愛之,令居宫南上殿,故稱其名謂上宫廐户豐聰耳太子。

夏四月庚午の朔の己卯の日、廐户豐聰耳皇子を立てて皇太子とし、そのまま攝政に録して、萬機をことごとく委ねました。

橘豐日天皇の第二子で、母の皇后は穴穗部間人皇女と申します。皇后が姙を懷んで胎を開く日、禁中を巡り行って諸々の司を監し察しました。馬の官に至って、ちょうど廐の户に當たり、勞まずに忽ちこれを産みました。

生まれながらよく言い、聖なる智がありました。壯になると、一たび十人の訴えを聞いて失わずによく辨え、あわせて未だ然らざることも知りました。

また内の教えを高麗の僧、慧慈に習い、外の典を博士、覺哿に學んで、あわせてことごとく達しました。

父の天皇が愛して、宫の南の上の殿に居らせました。それゆえその名を稱えて、上宫廐户豐聰耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのたいし)と申します。

5先の天皇を改め葬る

秋九月,改葬橘豐日天皇於河内磯長陵。

秋九月、橘豐日天皇を河内の磯長の陵に改め葬りました。

6四天王寺を造る

是歳,始造四天王寺於難波荒陵。是年也,太歳癸丑。

この歳、初めて四天王寺を難波の荒陵に造りました。この年は太歳癸丑です。

7三寶を興せ

春二月丙寅朔,詔皇太子及大臣,令興隆三寶。是時,諸臣、連等各爲君親之恩,競造佛舍,即是謂寺焉。

春二月丙寅の朔の日、皇太子と大臣に詔して、三寶を興し隆らせました。このとき、諸々の臣・連たちはそれぞれ君と親の恩のために、競って佛舍を造りました。すなわちこれを寺と申します。

8沈水の木

夏四月,沈水漂著於淡路嶋,其大一圍。嶋人不知沈水,以交薪燒於竃,其烟氣遠薫,則異以獻之。

夏四月、沈水が淡路嶋に漂い著きました。その大きさは一圍りでした。嶋の人は沈水であることを知らず、薪に交えて竃で燒きました。その烟の氣が遠くまで薫りましたので、異しんでこれを獻りました。

9慧慈が歸化する

五月戊午朔丁卯,高麗僧慧慈歸化,則皇太子師之。

五月戊午の朔の丁卯の日、高麗の僧、慧慈が歸化しましたので、皇太子がこれを師としました。

10慧聰が來る

是歳,百濟僧慧聰來之。此兩僧弘演佛教,並爲三寶之棟梁。

この歳、百濟の僧、慧聰が來ました。この兩僧は佛教を弘め演べて、あわせて三寶の棟梁となりました。

11將軍たちが還る

秋七月,將軍等至自筑紫。

秋七月、將軍たちが筑紫から至りました。

12法興寺が成る

冬十一月,法興寺造竟,則以大臣男善德臣拜寺司。是日,慧慈、慧聰二僧始住於法興寺。

冬十一月、法興寺の造りが竟わりましたので、大臣の男、善德臣を寺司に拜しました。この日、慧慈・慧聰の二人の僧が初めて法興寺に住みました。

13王子阿佐が來る

夏四月丁丑朔,百濟王遣王子阿佐朝貢。

夏四月丁丑の朔の日、百濟の王が王子、阿佐を遣わして朝貢しました。

14磐金を新羅に遣わす

冬十一月癸酉朔甲子,遣吉士磐金於新羅。

冬十一月癸酉の朔の甲子の日、吉士磐金(きしのいわかね)を新羅に遣わしました。

15鵲を獻る

夏四月,難波吉士磐金至自新羅,而獻鵲二隻,乃俾養於難波社,因以巢枝而産之。

夏四月、難波吉士磐金が新羅から至って、鵲二隻を獻りました。そこで難波の社で養わせましたところ、枝に巢をかけて雛を産みました。

16新羅が孔雀を貢る

秋八月己亥朔,新羅貢孔雀一隻。

秋八月己亥の朔の日、新羅が孔雀一隻を貢りました。

17白い鹿

冬十月戊戌朔丁未,越國獻白鹿一頭。

冬十月戊戌の朔の丁未の日、越國が白い鹿一頭を獻りました。

18地が動く

夏四月乙未朔辛酉,地動,舍屋悉破,則令四方俾祭地震神。

夏四月乙未の朔の辛酉の日、地が動いて舍屋がことごとく破れました。そこで四方に令して地震の神を祭らせました。

19百濟が駱駝を貢る

秋九月癸亥朔,百濟貢駱駝一匹、驢一匹、羊二頭、白雉一隻。

秋九月癸亥の朔の日、百濟が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白い雉一隻を貢りました。

20新羅と任那が戰う

春二月,新羅與任那相攻,天皇欲救任那。

春二月、新羅と任那が相い攻めました。天皇は任那を救おうと思われました。

21新羅が六つの城を割く

是歳,命境部臣爲大將軍,以穗積臣爲副將軍,則將萬餘衆,爲任那撃新羅。於是,直指新羅,以泛海往之,乃到于新羅,攻五城而拔。於是,新羅王惶之,擧白旗到于將軍之麾下,而立割多多羅、素奈羅、弗知鬼、委陀、南加羅、阿羅々六城以請服。時,將軍共議曰:「新羅知罪服之,強撃不可。」則奏上。爰天皇更遣難波吉師神於新羅,復遣難波吉士木蓮子於任那,並檢校事状。爰新羅、任那(王)二國遣使貢調,仍奏表之曰:「天上有神,地有天皇。除是二神,何亦有畏乎?自今以後,不有相攻,且不乾舩柂,毎歳必朝。」則遣使以召還將軍。(將軍)等至自新羅,即新羅亦侵任那。

この歳、境部臣に命じて大將軍とし、穗積臣を副將軍として、萬餘の衆を將い、任那のために新羅を撃たせました。

そこで直ちに新羅を指して、海に泛んで往きました。そして新羅に到り、五つの城を攻めて拔きました。

そこで新羅の王は惶れて、白い旗を擧げて將軍の麾の下に到り、多多羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々の六つの城を立ち割いて、服することを請いました。

そのとき將軍たちは共に議って申しました。「新羅は罪を知って服している。強いて撃つべきではない。」そして奏し上げました。

そこで天皇は更に難波吉師神(なにわのきしかみ)を新羅に遣わし、重ねて難波吉士木蓮子を任那に遣わして、あわせて事の状を檢め校べさせました。

そこで新羅と任那の二つの國が使を遣わして調を貢り、そして表を奏して申しました。「天の上に神があり、地に天皇があります。この二つの神を除いて、何をまた畏れることがありましょうか。今から後は相い攻めることなく、また舩の柂を乾かすことなく、毎歳必ず朝りましょう。」

そして使を遣わして將軍を召し還しました。將軍たちが新羅から至ると、すぐに新羅はまた任那を侵しました。

夾注 1

並闕名

あわせて名が闕けています。

22斑鳩に宫室を興す

春二月,皇太子初興宫室于斑鳩。

春二月、皇太子が初めて斑鳩に宫室を興しました。

23任那を救え

三月甲申朔戊子,遣大伴連囓于高麗,遺坂本臣糠手于百濟,以詔之曰:「急救任那。」

三月甲申の朔の戊子の日、大伴連囓を高麗に遣わし、坂本臣糠手を百濟に遣わして、詔して申しました。「急ぎ任那を救え。」

24耳梨の行宫

夏五月,天皇居于耳梨行宫。是時大雨,河水漂蕩,滿于宫庭。

夏五月、天皇が耳梨の行宫に居られました。このとき大雨が降り、河の水が漂い蕩れて、宫の庭に滿ちました。

25新羅の間諜

秋九月辛巳朔戊子,新羅之間諜者迦摩多到對馬,則捕以貢之,流于上野。

秋九月辛巳の朔の戊子の日、新羅の間諜である迦摩多(かまた)が對馬に到りましたので、捕えて貢りました。上野に流しました。

26新羅を征つことを議る

冬十一月庚辰朔甲申,議政新羅。

冬十一月庚辰の朔の甲申の日、新羅を征つ政を議りました。

27來目皇子を將軍とする

春二月己酉朔,來目皇子爲撃新羅將軍,授諸神部及國造、伴造等,并軍衆二萬五千人。

春二月己酉の朔の日、來目皇子を新羅を撃つ將軍とし、諸々の神部と國造・伴造たち、あわせて軍衆二萬五千人を授けました。

28筑紫に到る

夏四月戊申朔,將軍來目皇子到于筑紫,乃進屯嶋郡,而聚舩舶,運軍粮。

夏四月戊申の朔の日、將軍の來目皇子が筑紫に到り、進んで嶋郡に屯して、舩舶を聚め、軍の粮を運びました。

29來目皇子が病む

六月丁未朔己酉,大伴連囓、坂本臣糠手共至自百濟。是時,來目皇子臥病,以不果征討。

六月丁未の朔の己酉の日、大伴連囓と坂本臣糠手が共に百濟から至りました。このとき來目皇子は病に臥して、征討を果たせませんでした。

30觀勒が暦と天文の書を貢る

冬十月,百濟僧觀勒來之,仍貢暦本及天文地理書,并遁甲方術之書也。是時,選書生三四人,以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳習暦法,大友村主高聰學天文遁甲,山背臣日並立學方術,皆學以成業。

冬十月、百濟の僧、觀勒が來ました。そして暦の本と天文地理の書、あわせて遁甲方術の書を貢りました。

このとき書生三四人を選んで、觀勒に學び習わせました。陽胡史の祖、玉陳(たまふる)は暦法を習い、大友村主高聰(おおとものすぐりたかさと)は天文と遁甲を學び、山背臣日並立(やましろのおみひたて)は方術を學んで、みな學んで業を成しました。

31高麗の僧が來る

閏十月乙亥朔己丑,高麗僧僧隆、雲聰共來歸。

閏十月乙亥の朔の己丑の日、高麗の僧、僧隆と雲聰が共に來歸しました。

32來目皇子が薨じる

春二月癸酉朔丙子,來目皇子薨於筑紫,仍驛使以奏上。爰天皇聞之大驚,則召皇太子、蘇我大臣,謂之曰:「征新羅大將軍來目皇子薨之,其臨大事而不遂矣,甚悲乎!」仍殯于周芳娑婆,乃遣土師連猪手令掌殯事。故猪手連之孫曰娑婆連,其是之縁也。後葬於河内埴生山崗上。

春二月癸酉の朔の丙子の日、來目皇子が筑紫で薨じました。そこで驛の使をもって奏し上げました。

そこで天皇はこれを聞いて大いに驚き、皇太子と蘇我大臣を召してこれに申しました。「新羅を征つ大將軍、來目皇子が薨じた。大事に臨んで遂げられなかったのだ。甚しく悲しいことだ。」

そして周芳の娑婆に殯し、土師連猪手(はじのむらじいのて)を遣わして殯の事を掌らせました。それゆえ猪手連の孫を娑婆連と申すのは、これが縁なのです。後に河内の埴生山の崗の上に葬りました。

33當麻皇子を將軍とする

夏四月壬申朔,更以來目皇子之兄當麻皇子爲征新羅將軍。

夏四月壬申の朔の日、更に來目皇子の兄、當麻皇子を新羅を征つ將軍としました。

34當麻皇子が返る

秋七月辛丑朔癸卯,當麻皇子自難波發舩。丙午,當麻皇子到播磨。時,從妻舍人姫王薨於赤石,仍葬于赤石檜笠岡上,乃當麻皇子返之,遂不征討。

秋七月辛丑の朔の癸卯の日、當麻皇子が難波から舩を發しました。丙午の日、當麻皇子が播磨に到りました。そのとき、從った妻の舍人姫王が赤石で薨じました。そこで赤石の檜笠岡の上に葬りました。そして當麻皇子は返って、ついに征討しませんでした。

35小墾田宫に遷る

冬十月己巳朔壬申,遷于小墾田宫。

冬十月己巳の朔の壬申の日、小墾田宫に遷りました。

36蜂岡寺

十一月己亥朔,皇太子謂諸大夫曰:「我有尊佛像,誰得是像,以恭拜?」時,秦造河勝進曰:「臣拜之。」便受佛像,因以造蜂岡寺。

十一月己亥の朔の日、皇太子が諸々の大夫に申しました。「私に尊い佛像がある。誰がこの像を得て、恭しく拜むか。」

そのとき秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)が進んで申しました。「臣がこれを拜みます。」そしてすぐに佛像を受け、それによって蜂岡寺を造りました。

37楯と旗を作る

是月,皇太子請于天皇,以作大楯及靫,又繪于旗幟。

この月、皇太子が天皇に請って、大きな楯と靫を作り、また旗幟に繪を描きました。

夾注 1

靫。此云由岐

靫は、ゆきと読みます。

38冠位十二階

十二月戊辰朔壬申,始行冠位。大德、小德、大仁、小仁、大禮、小禮、大信、小信、大義、小義、大智、小智,并十二階。並以當色絁縫之,頂撮總如嚢,而著縁焉。唯元日著髻華。

十二月戊辰の朔の壬申の日、初めて冠位を行いました。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、あわせて十二の階です。

あわせて、その色に當たる絁で縫い、頂で撮め總べて嚢のようにして、縁を著けました。ただ元日にのみ髻華を著けました。

夾注 1

髻華、此云于孺

髻華は、うずと読みます。

39冠位を賜わる

春正月戊戌朔,始賜冠位於諸臣,各有差。

春正月戊戌の朔の日、初めて諸々の臣に冠位を賜わり、それぞれ差がありました。

40憲法十七條を作る

夏四月丙寅朔戊辰,皇太子親肇作憲法十七條。

夏四月丙寅の朔の戊辰の日、皇太子が親ら肇めて憲法十七條を作りました。

41憲法第一條 — 和

一曰:以和爲貴,無忤爲宗。人皆有黨,亦少達者。是以或不順君父,乍違于隣里。然上和下睦,諧於論事,則事理自通,何事不成?

一に申します。和を貴び、忤うことのないのを宗とせよ。

人にはみな黨があり、また達した者は少ない。それゆえ或る者は君や父に順わず、隣里と違ってしまう。しかし上が和し下が睦んで、事を論じるのに諧うなら、事の理は自ら通じ、どのような事が成らないであろうか。

42憲法第二條 — 三寶

二曰:篤敬三寶。三寶者,佛法僧也,則四生之終歸,萬國之極宗。何世何人,非貴是法?人鮮尤惡,能教從之。其不歸三寶,何以直枉?

二に申します。三寶を篤く敬え。

三寶とは佛・法・僧です。すなわち四生の終に歸するところ、萬國の極まる宗です。どの世のどの人が、この法を貴ばないであろうか。

人で尤も惡しい者は鮮く、よく教えればこれに從う。三寶に歸さずして、何によって枉がったものを直そうか。

43憲法第三條 — 詔を謹め

三曰:承詔必謹。君則天之,臣則地之。天覆地載,四時順行,万氣得通。地欲覆天,則致壞耳。是以君言臣承,上行下靡。故承詔必慎,不謹自敗。

三に申します。詔を承ったならば必ず謹め。

君はすなわち天であり、臣はすなわち地である。天が覆い地が載せて、四時が順に行き、万の氣が通ることを得る。地が天を覆おうとすれば、ただ壞れを致すだけである。

それゆえ君が言えば臣が承け、上が行えば下が靡く。だから詔を承ったならば必ず慎め。謹まなければ自ら敗れる。

44憲法第四條 — 禮を本に

四曰:羣卿百寮,以禮爲本。其治民之本,要在乎禮。上不禮而下非齊,下無禮以必有罪。是以羣臣有禮,位次不亂,百姓有禮,國家自治。

四に申します。羣卿百寮は、禮を本とせよ。

民を治める本は、要するに禮にある。上が禮なくして下は齊わず、下が禮なければ必ず罪がある。

それゆえ羣臣に禮があれば位の次が亂れず、百姓に禮があれば國家は自ら治まる。

45憲法第五條 — 訴訟を明らかに

五曰:絶餮棄欲,明辨訴訟。其百姓之訟,一日千事。一日尚爾,况乎累歳?須治訟者,得利爲常,見賄聽讞。便有財之訟,如石投水,乏者之訴,似水投石。是以貧民則不知所由,臣道亦於焉闕。

五に申します。餮を絶ち欲を棄てて、訴訟を明らかに辨えよ。

百姓の訟えは、一日に千の事がある。一日でさえそうであるのに、まして歳を累ねればどうであろうか。

訟えを治める者が利を得ることを常とし、賄を見て讞きを聽いてやる。そうなれば、財ある者の訟えは石を水に投げるようであり、乏しい者の訴えは水を石に投げるようである。

それゆえ貧しい民は由るところを知らず、臣の道もまたここに闕けるのである。

46憲法第六條 — 惡を懲らし善を勸めよ

六曰:懲惡勸善,古之良典。是以無匿人善,見惡必匡。其諂詐者,則爲覆國家之利器,爲絶人民之鋒釰。亦佞媚者,對上則好説下過,逢下則誹謗上失。其如此人,皆無忠於君,無仁於民,是大亂之本也。

六に申します。惡を懲らし善を勸めるのは、古の良い典である。

それゆえ人の善を匿すことなく、惡を見れば必ず匡せ。

諂い詐る者は、すなわち國家の利を覆す器となり、人民を絶つ鋒の釰となる。

また佞り媚びる者は、上に對すれば下の過ちを説くことを好み、下に逢えば上の失を誹り謗る。このような人はみな君に忠がなく、民に仁がない。これは大いなる亂れの本である。

47憲法第七條 — 人それぞれの任

七曰:人各有任,掌宜不濫。其賢哲任官,頌音則起,姦者有官,禍亂則繁。世少生知,尅念作聖。事無大少,得人必治,時無急緩,遇賢自寛。因此國家永久,社稷勿危。故古聖王,爲官以求人,爲人不求官。

七に申します。人にはそれぞれ任があり、掌るところが濫れないようにせよ。

賢く哲い者が官に任ずれば頌える音が起こり、姦しい者が官を有てば禍と亂れが繁る。

世に生まれながら知る者は少なく、念を尅めて聖となる。事に大小はなく、人を得れば必ず治まり、時に急緩はなく、賢を遇えば自ら寛やかになる。これによって國家は永く久しく、社稷は危うくならない。

だから古の聖なる王は、官のために人を求め、人のために官を求めなかった。

48憲法第八條 — 早く朝り晏く退け

八曰:羣卿百寮,早朝晏退。公事靡監,終日難盡。是以遲朝不逯于急,早退必事不盡。

八に申します。羣卿百寮は、早く朝り、晏く退け。

公の事は監る暇がなく、終日かけても盡くし難い。それゆえ遲く朝れば急なことに逯ばず、早く退けば必ず事が盡くせない。

49憲法第九條 — 信

九曰:信是義本,毎事有信。其善惡成敗,要在于信。羣臣共信,何事不成?羣臣無信,萬事悉敗。

九に申します。信はこれ義の本である。事ごとに信があるようにせよ。

善惡や成敗は、要するに信にある。羣臣が共に信じれば、どのような事が成らないであろうか。羣臣に信がなければ、萬事はことごとく敗れる。

50憲法第十條 — 怒りを絶て

十曰:絶忿棄瞋,不怒人違。人皆有心,心各有執。彼是則我非,我是則彼非。我必非聖,彼必非愚,共是凡夫耳。是非之理,詎能可定?相共賢愚,如鐶无端。是以彼人雖瞋,還恐我失,我獨雖得,從衆同舉。

十に申します。忿りを絶ち瞋りを棄てて、人が違うことに怒るな。

人にはみな心があり、心にはそれぞれ執るところがある。彼が是ならば我は非、我が是ならば彼は非である。我も必ず聖ではなく、彼も必ず愚ではない。共に凡夫であるにすぎない。

是非の理を、誰がよく定められようか。相い共に賢であり愚であって、鐶のように端がない。

それゆえ彼の人が瞋ったとしても、かえって我が失を恐れ、我が独り得たところがあっても、衆に從って同じく舉え。

51憲法第十一條 — 功と過

十一曰:明察功過,賞罸必當。日者賞不在功,罸不在罪。執事羣卿,宜明賞罸。

十一に申します。功と過を明らかに察して、賞罸を必ず當てよ。

日ごろ、賞が功にあらず、罸が罪にない。事を執る羣卿は、まさに賞罸を明らかにせよ。

52憲法第十二條 — 百姓から斂るな

十二曰:國司、國造,勿斂百姓。國非二君,民無兩主。率土兆民,以王爲主。所任官司,皆是王臣。何敢與公,賦斂百姓?

十二に申します。國司・國造は、百姓から斂ることをするな。

國に二人の君はなく、民に兩りの主はない。率土の兆民は、王を主とする。任ずるところの官司は、みな王の臣である。どうして敢えて公とともに、百姓に賦り斂ることをしようか。

53憲法第十三條 — 職を同じく知れ

十三曰:諸任官者,同知職掌。或病或使,有闕於事。然得知之日,和如曾識。其以非與聞,勿防公務。

十三に申します。諸々の官に任ずる者は、職の掌るところを同じく知れ。

或いは病み、或いは使に出て、事に闕けるところがある。しかし知ることを得た日には、曾て識っていたかのように和せよ。知らなかったということで、公務を防げてはならない。

54憲法第十四條 — 嫉むな

十四曰:羣臣百寮,無有嫉妬。我既嫉人,人亦嫉我。嫉妬之患,不知其極。所以智勝於己則不悦,才優於己則嫉妬。是以五百之(後)乃令遇賢,千載以難待一聖。其不得賢聖,何以治國?

十四に申します。羣臣百寮は、嫉み妬むことがあってはならない。

我がすでに人を嫉めば、人もまた我を嫉む。嫉み妬みの患いは、その極まりを知らない。

それゆえ智が己より勝れば悦ばず、才が己より優れば嫉み妬む。それゆえ五百年の後にようやく賢に遇わせ、千載をかけても一人の聖を待ち難い。賢と聖を得なければ、何によって國を治めようか。

55憲法第十五條 — 私に背いて公に向かえ

十五曰:背私向公,是臣之道矣。凡(夫)人有私必有恨,有憾必非同。非同則以私妨公,憾起則違制、害法。故初章云「上下和諧」,其亦是情歟?

十五に申します。私に背いて公に向かうのが、臣の道である。

およそ人に私があれば必ず恨みがあり、憾みがあれば必ず同じくしない。同じくしなければ私をもって公を妨げ、憾みが起これば制に違い、法を害する。

だから初めの章に「上下が和し諧え」と申したのも、またこの情なのであろうか。

56憲法第十六條 — 時をもって民を使え

十六曰:使民以時,古之良典(也)。故冬月有間,以可使民。從春至秋,農桑之節,不可使民。其不農何食?不桑何服?

十六に申します。時をもって民を使うのが、古の良い典である。

だから冬の月は間があるので、民を使ってよい。春から秋に至るまでは農と桑の節であるから、民を使ってはならない。農らなければ何を食い、桑まなければ何を服よう。

57憲法第十七條 — 独りで断ずるな

十七曰:夫事不可獨断,必與衆宜論。少事是輕,不可必衆。唯逯論大事,若疑有失,故與衆相辨,辭則得理。

十七に申します。そもそも事は独りで断ずることができない。必ず衆とまさに論ぜよ。

少しの事は輕いので、必ず衆とするまでもない。ただ大事を論ずるに逯んでは、もし失があるかと疑うならば、衆と相い辨えよ。そうすれば辭はすなわち理を得る。

58朝の禮を改める

秋九月,改朝禮。因以詔之曰:「凡出入宫門,以兩手押地,兩脚跪之。越梱則立行。」

秋九月、朝の禮を改めました。それによって詔して申しました。「およそ宫の門を出入りするときは、兩の手を地に押し、兩の脚で跪け。梱を越えたならば立って行け。」

59畫師を定める

是月,始定黄書畫師、山背畫師。

この月、初めて黄書畫師(きぶみのえし)と山背畫師(やましろのえし)を定めました。

60丈六佛像を造り始める

夏四月辛酉朔,天皇詔皇太子、大臣及諸王、諸臣,共同發誓願,以始造銅繍丈六佛像各一軀,乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時,高麗國大興王聞日本國天皇造佛像,貢上黄金三百兩。

夏四月辛酉の朔の日、天皇が皇太子・大臣および諸々の王・諸々の臣に詔して、共に同じく誓願を發し、銅と繍の丈六佛像をそれぞれ一軀造り始めました。そして鞍作鳥(くらつくりのとり)に命じて佛を造る工としました。

このとき、高麗國の大興王が、日本國の天皇が佛像を造ると聞いて、黄金三百兩を貢り上げました。

61褶を著させる

閏七月己未朔,皇太子命諸王、諸臣,俾著褶。

閏七月己未の朔の日、皇太子が諸々の王・諸々の臣に命じて、褶を著させました。

62斑鳩宫

冬十月,皇太子居斑鳩宫。

冬十月、皇太子が斑鳩宫に居られました。

63丈六佛像が成る

夏四月乙酉朔壬辰,銅繍丈六佛像並造竟。是日也,丈六銅像坐於元興寺金堂。時,佛像高於金堂户,以不得納堂。於是,諸工人等議曰:「破堂户而納之。」然鞍作鳥之秀工,以不壞户得入堂。即日設齋。於是,會集人衆不可勝數。自是年初,毎寺四月八日、七月十五日設齊。

夏四月乙酉の朔の壬辰の日、銅と繍の丈六佛像があわせて造り竟わりました。この日、丈六の銅の像が元興寺の金堂に坐しました。

そのとき、佛像が金堂の户より高くて、堂に納めることができませんでした。そこで諸々の工人たちが議って申しました。「堂の户を破って納めよう。」

しかし鞍作鳥の秀れた工によって、户を壞さずに堂に入れることができました。

その日に齋を設けました。そこで會い集まった人の衆は数え切れませんでした。この年の初めから、寺ごとに四月八日と七月十五日に齊を設けました。

64鞍作鳥に賞を賜わる

五月甲寅朔戊午,勅鞍作鳥曰:「朕欲興隆内典,方將建佛刹,肇求舍利。時,汝祖父司馬達等便獻舍利。又於國無僧尼,於是,汝父多須那爲橘豐日天皇出家,恭敬佛法。又汝姨嶋女,初出家爲諸尼導者,以修行釋教。今朕爲造丈六佛,以求好佛像,汝之所獻佛本,則合朕心。又造佛像既訖,不得入堂,諸工人不能計,以將破堂户,然汝不破户而得入,此皆汝之功也。」即賜大仁位,因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥以此田爲天皇作金剛寺,是今謂南淵坂田尼寺。

五月甲寅の朔の戊午の日、鞍作鳥に勅して申しました。

「朕は内典を興し隆らせようと、まさに佛刹を建てようとして、肇めて舍利を求めた。そのとき、お前の祖父、司馬達等がすぐに舍利を獻った。

また國に僧尼がなかったが、そこでお前の父、多須那が橘豐日天皇のために出家して、佛法を恭しく敬った。またお前の姨、嶋女が初めて出家して諸々の尼の導く者となり、釋の教えを修行した。

今、朕が丈六の佛を造ろうとして好い佛像を求めたとき、お前が獻った佛の本が朕の心に合った。また佛像を造り訖えて堂に入れられず、諸々の工人が計ることができずに堂の户を破ろうとしたのに、お前は户を破らずに入れることができた。これはみなお前の功である。」

そして大仁の位を賜わり、それによって近江國坂田郡の水田二十町を給いました。鳥はこの田で天皇のために金剛寺を作りました。これが今申す南淵の坂田尼寺です。

65勝鬘經を講じる

秋七月,天皇請皇太子令講勝鬘經,三日,説竟之。

秋七月、天皇が皇太子に請って勝鬘經を講じさせましたところ、三日でこれを説き竟えました。

66法華經を講じる

是歳,皇太子亦講法華經於岡本宫。天皇大喜之,播磨國水田百町施于皇太子,因以納于斑鳩寺。

この歳、皇太子はまた岡本宫で法華經を講じました。天皇は大いにこれを喜んで、播磨國の水田百町を皇太子に施しました。それによって斑鳩寺に納めました。

67神祗を祭れ

春二月庚辰朔,定壬生部。戊子,詔曰:「朕聞之,曩者我皇祖天皇等宰世也,跼天蹐地,敦禮神祗,周祠山川,幽通乾坤,是以陰陽開和,造化共調。今當朕世,祭祀祇神,豈有怠乎?故羣臣共爲竭心,宜拜神祗。」甲午,皇太子及大臣率百寮,以祭拜神祗。

春二月庚辰の朔の日、壬生部を定めました。

戊子の日、詔して申しました。「朕が聞くところ、曩に我が皇祖の天皇たちが世を宰めたときは、天に跼み地に蹐み、神祗に禮を敦くし、山川に周く祠って、幽かに乾坤に通じたという。それゆえ陰陽が開き和して、造化が共に調った。今、朕の世に當たって、祇神を祭祀ることにどうして怠りがあろうか。だから羣臣は共に心を竭くして、まさに神祗を拜め。」

甲午の日、皇太子と大臣が百寮を率いて、神祗を祭り拜みました。

68小野妹子を隋に遣わす

秋七月戊申朔庚戌,大禮小野臣妹子遣於大唐,以鞍作福利爲通事。

秋七月戊申の朔の庚戌の日、大禮の小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐に遣わし、鞍作福利を通事としました。

69池を作る

是歳冬,於倭國作高市池、藤原池、肩岡池、菅原池。山背國掘大溝於栗隈。且河内國作户苅池、依網池。亦毎國置屯倉。

この歳の冬、倭國に高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作りました。山背國では栗隈に大きな溝を掘りました。また河内國に户苅池・依網池を作りました。また國ごとに屯倉を置きました。

70裴世清が來る

夏四月,小野臣妹子至自大唐。唐圀號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清、下客十二人,從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成,召大唐客裴世清等,爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。

夏四月、小野臣妹子が大唐から至りました。唐の圀は妹子臣を蘇因高と號びました。

そして大唐の使人、裴世清と下客十二人が妹子臣に從って筑紫に至りました。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客、裴世清たちを召しました。唐の客のために、更に難波の高麗の舘の上に新しい舘を造りました。

71妹子が國書を失う

六月壬寅朔丙辰,客等泊于難波津。是日,以餝舩卅艘迎客等于江口,安置新舘。於是,以中臣宫地連摩呂、大河内直糠手、舩史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰:「臣參還之時,唐帝以書授臣。然經過百濟國之日,百濟人探以掠取,是以不得上。」於是,羣臣議之曰:「夫使人雖死之,不失旨,是使矣。何(矣何)怠之,失大國之書哉?」則坐流刑。時,天皇勅之曰:「妹子雖有失書之罪,輙不可罪。其大國客等聞之,亦不良。」乃赦之不坐也。

六月壬寅の朔の丙辰の日、客たちが難波津に泊りました。この日、餝った舩三十艘で客たちを江の口に迎え、新しい舘に安置しました。そこで中臣宫地連摩呂・大河内直糠手・舩史王平を掌客としました。

そこで妹子臣が奏して申しました。「臣が參り還るとき、唐の帝が書を臣に授けました。しかし百濟國を經過した日に、百濟の人が探って掠め取りました。それゆえ上ることができませんでした。」

そこで羣臣が議って申しました。「そもそも使人は死んでも旨を失わないのが使である。どうして怠って大國の書を失ったのか。」そして流刑に坐せられました。

そのとき天皇が勅して申しました。「妹子には書を失った罪があるが、たやすく罪してはならない。あの大國の客たちがこれを聞けば、やはり良くない。」そしてこれを赦して坐せませんでした。

72隋の國書

秋八月辛丑朔癸卯,唐客入京。是日,遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。壬子,召唐客於朝庭,令奏使旨。時,阿倍鳥臣、物部依網連抱二人爲客之導者也。於是,大唐之國信物置於庭中。時,使主裴世清親持書,兩度再拜,言上使旨而立。其書曰:「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至,具懷。朕欽承寶命,臨仰區宇,思弘德化,覃被含靈,愛育之情,無隔遐迩。知皇介居海表,撫寧民庶,境内安樂,風俗融和,深氣至誠,達脩朝貢。丹款之美,朕有嘉焉。稍暄,比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等,稍宣往意,并送物如別。」時,阿倍臣出進,以受其書而進行。大伴囓連迎出,承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時,皇子、諸王、諸臣悉以金髻華著頭,亦衣服皆用錦、紫、繍、織及五色綾羅。丙辰,饗唐客等於朝。

秋八月辛丑の朔の癸卯の日、唐の客が京に入りました。この日、餝った騎七十五疋を遣わして、唐の客を海石榴市の衢で迎えました。額田部連比羅夫が禮の辭をもって告げました。

壬子の日、唐の客を朝庭に召して、使の旨を奏させました。そのとき阿倍鳥臣と物部依網連抱の二人が客の導く者となりました。

そこで大唐の國の信物を庭の中に置きました。そのとき使の主、裴世清が親ら書を持ち、兩度再拜して、使の旨を言い上げて立ちました。その書に申しました。

「皇帝、倭皇に問う。使人の長吏、大禮蘇因高たちが至って、懷いを具えた。朕は寶命を欽んで承け、區宇に臨み仰いで、德化を弘めて含靈に覃く被らせようと思う。愛み育む情に、遐きと迩きの隔てはない。

皇が海の表に介み居て、民庶を撫め寧んじ、境の内が安く樂しく、風俗が融け和していることを知る。深い氣と至れる誠をもって達り、朝貢を脩めた。丹い款の美しさを、朕は嘉みとする。

稍く暄かになったが、このごろは常のようである。だから鴻臚寺の掌客、裴世清たちを遣わして、稍く往く意を宣べ、あわせて物を別のとおりに送る。」

そのとき阿倍臣が出で進んで、その書を受けて進み行きました。大伴囓連が迎え出て、書を承け、大門の前の机の上に置いて奏しました。事が畢わって退きました。

このとき、皇子・諸々の王・諸々の臣はことごとく金の髻華を頭に著け、また衣服はみな錦・紫・繍・織および五色の綾羅を用いました。

丙辰の日、唐の客たちを朝で饗しました。

夾注 1

一云。服色皆用冠色

一説には、服の色をみな冠の色のとおりにしたと申します。

73東の天皇が西の皇帝に

九月辛末朔乙亥,饗客等於難波大郡。辛巳,唐客裴世清罷歸,則復以小野妹子臣爲大使,吉士雄成爲小使,福利爲通事,副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝,其辭曰:「東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至,久憶方解。季秋薄冷,尊何如?想清悆,此即如常。今遣大禮蘇因高、大禮乎那利等往。謹白不具。」是時,遣於唐國學生倭漢直福因、奈羅譯語惠明、高向漢人玄理、新漢人大圀、學問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隱、新漢人廣濟等,并八人也。

九月辛末の朔の乙亥の日、客たちを難波の大郡で饗しました。

辛巳の日、唐の客、裴世清が罷り歸りました。そこで重ねて小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とし、福利を通事として、唐の客に副えて遣わしました。

そこで天皇が唐の帝に聘を通じました。その辭に申しました。

「東の天皇、敬んで西の皇帝に白す(東天皇敬白西皇帝)。使人の鴻臚寺掌客、裴世清たちが至って、久しい憶いがまさに解けました。季の秋で薄ら冷えますが、尊き御身はいかがでしょうか。清く悆やかであろうと想います。こちらもすなわち常のとおりです。今、大禮蘇因高・大禮乎那利たちを遣わします。謹んで白します、具さならず。」

このとき唐國に遣わした學生は、倭漢直福因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀、學問僧は新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟たちで、あわせて八人です。

74新羅の人が多く來る

是歳,新羅人多化來。

この歳、新羅の人が多く化して來ました。

75百濟の人が漂い著く

夏四月丁酉朔庚子,筑紫大宰奏上言:「百濟僧道欣、惠彌爲首一十人、俗人七十五人,泊于肥後國葦北津。」是時,遣難波吉士德摩呂、舩史龍以問之曰:「何來也?」對曰:「百濟王命以遣於呉國,其國有亂,不(得)入,更返於本郷。忽逢暴風,漂蕩海中,然有大幸而泊于聖帝之邊境,以歡喜。」

夏四月丁酉の朔の庚子の日、筑紫の大宰が奏し上げて申しました。「百濟の僧、道欣・惠彌を首めとして一十人、俗人七十五人が、肥後國の葦北津に泊りました。」

このとき難波吉士德摩呂と舩史龍を遣わしてこれに問いました。「何として來たのか。」

對えて申しました。「百濟の王の命で呉國に遣わされましたが、その國に亂れがあって入ることができず、更に本の郷に返りました。忽ちに暴い風に逢って海の中を漂い蕩いました。しかし大きな幸いがあって聖なる帝の邊境に泊りましたので、歡び喜んでおります。」

76十一人が留まる

五月丁卯朔壬午,德摩呂等復奏之,則返德摩呂、龍二人,而副百濟人等送本國。至于對馬,以道人等十一皆請之欲留,乃上表而留之,因令住元興寺。

五月丁卯の朔の壬午の日、德摩呂たちが重ねて奏しました。そこで德摩呂と龍の二人を返して、百濟の人たちに副えて本の國に送らせました。

對馬に至って、道人たち十一人がみな請って留まろうとしました。そこで表を上って留め、それによって元興寺に住まわせました。

77妹子が還る

秋九月,小野臣妹子等至自大唐,唯通事福利不來。

秋九月、小野臣妹子たちが大唐から至りました。ただ通事の福利は來ませんでした。

78曇徴が來る

春三月,高麗王貢上僧曇徴、法定。曇徴知五經,且能作彩色及紙墨,并造碾磑。盖造碾磑,始于是時歟。

春三月、高麗の王が僧の曇徴・法定を貢り上げました。曇徴は五經を知り、また彩色と紙墨をよく作り、あわせて碾磑を造りました。おそらく碾磑を造ったのは、この時に始まったのでしょうか。

79新羅と任那の使人

秋七月,新羅使人沙喙部奈末竹世士,與任那使人喙部大舍首智買,到于筑紫。

秋七月、新羅の使人、沙喙部の奈末竹世士と、任那の使人、喙部の大舍首智買が筑紫に到りました。

80使を召す

九月,遣使召新羅、任那使人。

九月、使を遣わして新羅・任那の使人を召しました。

81二つの國の使人が朝る

冬十月己丑朔丙申,新羅、任那使人臻於京。是日,命額田部連比羅夫爲迎新羅客莊馬之長,以膳臣大伴爲迎任那客莊馬之長,即安置阿斗河邊舘。丁酉,客等拜朝庭。於是,命秦造河勝、土部連菟爲新羅導者,以間人連鹽蓋、阿閇臣大籠爲任那導者,共引以自南門入之,立于庭中。時,大伴咋連、蘇我豐浦蝦夷臣、坂本糠手臣、阿倍鳥子臣,共自位起之,進伏于庭。於是,兩國客等各再拜以奏使旨。乃四大夫起進,啓於大臣。時,大臣自位起,立廳前而聽焉。既而賜禄諸客,各有差。乙巳,饗使人等於朝。以河内漢直贄爲新羅共食者,錦織首久僧爲任那共食者。辛亥,客等禮畢以歸焉。

冬十月己丑の朔の丙申の日、新羅・任那の使人が京に臻りました。この日、額田部連比羅夫に命じて新羅の客を迎える莊馬の長とし、膳臣大伴を任那の客を迎える莊馬の長としました。そして阿斗の河邊の舘に安置しました。

丁酉の日、客たちが朝庭に拜しました。そこで秦造河勝・土部連菟を新羅の導く者とし、間人連鹽蓋・阿閇臣大籠を任那の導く者として、共に引いて南の門から入り、庭の中に立たせました。

そのとき大伴咋連・蘇我豐浦蝦夷臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣が、共に位から起って、進んで庭に伏しました。

そこで兩國の客たちはそれぞれ再拜して使の旨を奏しました。そこで四人の大夫が起って進み、大臣に啓しました。そのとき大臣は位から起って、廳の前に立って聽きました。やがて諸々の客に禄を賜わり、それぞれ差がありました。

乙巳の日、使人たちを朝で饗しました。河内漢直贄を新羅と共に食する者とし、錦織首久僧を任那と共に食する者としました。

辛亥の日、客たちは禮を畢わって歸りました。

82藥獦

夏五月五日,藥獦於兎田野。取鷄鳴時集于藤原池上,以會明乃往之。粟田細目臣爲前部領,額田部比羅夫連爲後部領。是日,諸臣服色皆隨冠色,各著髻華。則大德、小德並用金;大仁、小仁用豹尾;大禮以下用鳥尾。

夏五月五日、兎田野で藥獦をしました。鷄が鳴く時を取って藤原池の上に集まり、明けるのに會って往きました。

粟田細目臣が前の部の領となり、額田部比羅夫連が後の部の領となりました。

この日、諸々の臣の服の色はみな冠の色に隨わせ、それぞれ髻華を著けました。すなわち大德・小德はあわせて金を用い、大仁・小仁は豹の尾を用い、大禮以下は鳥の尾を用いました。

83新羅と任那が朝貢する

秋八月,新羅遣沙喙部奈末北叱智,任那遣習部大舍親智周智,共朝貢。

秋八月、新羅が沙喙部の奈末北叱智を遣わし、任那が習部の大舍親智周智を遣わして、共に朝貢しました。

84宴を設ける

春正月辛巳朔丁亥,置酒宴羣卿。是日,大臣上壽。

春正月辛巳の朔の丁亥の日、酒を置いて羣卿に宴しました。この日、大臣が壽を上りました。

85大臣が歌う

歌曰:

歌って申しました。

86歌 — 蘇我馬子

夜須瀰志斯。和餓於朋耆瀰能。訶勾理摩須。阿摩能椰蘇河礙。異泥多多須。彌蘇羅烏瀰禮麼。豫呂豆余珥。訶勾志茂餓茂。知余珥茂。訶勾志茂餓茂。訶之胡瀰弖。莬伽陪摩都羅武。烏呂餓瀰弖。莬伽倍摩都羅武。宇多豆紀麻都流。

「やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十蔭 出で立たす 御空を見れば 万代に かくしもがも 千代にも かくしもがも 畏みて 仕へ奉らむ をろがみて 仕へ奉らむ 歌づき奉る(夜須瀰志斯。和餓於朋耆瀰能。訶勾理摩須。阿摩能椰蘇河礙。異泥多多須。彌蘇羅烏瀰禮麼。豫呂豆余珥。訶勾志茂餓茂。知余珥茂。訶勾志茂餓茂。訶之胡瀰弖。莬伽陪摩都羅武。烏呂餓瀰弖。莬伽倍摩都羅武。宇多豆紀麻都流)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

87天皇が和する

天皇和曰:

天皇が和して申しました。

88歌 — 天皇

摩蘇餓豫。蘇餓能古羅破。宇摩奈羅麼。譬武伽能古摩。多智奈羅麼。勾禮能摩差比。宇倍之訶茂。蘇餓能古羅烏。於朋枳瀰能。莬伽破須羅志枳。

「真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 宜しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(摩蘇餓豫。蘇餓能古羅破。宇摩奈羅麼。譬武伽能古摩。多智奈羅麼。勾禮能摩差比。宇倍之訶茂。蘇餓能古羅烏。於朋枳瀰能。莬伽破須羅志枳)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

89堅鹽媛を改め葬る

二月辛亥朔庚午,改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵。是日,誄於輕街。第一,阿倍内臣鳥誄天皇之命,則奠靈明器明衣之類萬五千種也。第二,諸皇子等以次第各誄之。第三,中臣宫地連烏摩侶誄大臣之辭。第四,大臣引率八腹臣等,便以境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣。時人云:「摩理勢、烏摩侶二人能誄,唯鳥臣不能誄也。」

二月辛亥の朔の庚午の日、皇太夫人の堅鹽媛を檜隈の大陵に改め葬りました。

この日、輕の街で誄しました。第一に阿倍内臣鳥が天皇の命で誄し、そして靈しき明器・明衣の類一萬五千種を奠りました。第二に諸々の皇子たちが次第に從ってそれぞれ誄しました。第三に中臣宫地連烏摩侶が大臣の辭で誄しました。第四に大臣が八腹臣たちを引き率いて、境部臣摩理勢に氏姓の本を誄させました。

そのとき人々は申しました。「摩理勢と烏摩侶の二人はよく誄したが、ただ鳥臣は誄すことができなかった。」

90再びの藥獦

夏五月五日,藥獦之,集于羽田,以相連參趣於朝。其裝束如莬田之獵。

夏五月五日、藥獦をしました。羽田に集まり、相い連なって朝に參り趣きました。その裝束は莬田の獵のときと同じでした。

91路子工と味摩之

是歳,自百濟國有化來者,其面身皆斑白,若有白癩者乎。惡其異於人,欲棄海中嶋。然其人曰:「若惡臣之斑皮者,白斑牛馬不可畜於國中。亦臣有小才,能構山岳之形。其留臣而用,則爲國有利,何空之棄海嶋耶?」於是,聽其辭以不弃,仍令構須彌山形及呉橋於南庭。時人號其人曰路子工,亦名芝耆摩呂。又百濟人味摩之歸化,曰:「學于呉,得伎樂儛。」則安置櫻井,而集少年令習伎樂儛。於是,眞野首弟子、新漢齊文二人,習之傅其儛。此今大市首、辟田首等祖也。

この歳、百濟國から化して來た者がありました。その面と身はみな斑に白く、白癩のある者のようでした。その人と異なることを惡んで、海の中の嶋に棄てようとしました。

しかしその人が申しました。「もし臣の斑の皮を惡まれるなら、白い斑のある牛馬も國の中に畜うことはできないでしょう。また臣には小さな才があり、山岳の形をよく構えることができます。臣を留めて用いられれば、國に利があります。どうして空しく海の嶋に棄てられるのですか。」

そこでその辭を聽いて弃てず、須彌山の形と呉の橋を南の庭に構えさせました。そのとき人々はその人を號んで路子工(みちこのたくみ)と申し、また名を芝耆摩呂と申しました。

また百濟の人、味摩之が歸化して申しました。「呉で學んで、伎樂の儛を得ました。」

そこで櫻井に安置して、少年を集めて伎樂の儛を習わせました。そこで眞野首弟子と新漢齊文の二人が習って、その儛を傅えました。これが今の大市首・辟田首たちの祖です。

92池と大道

冬十一月,作掖上池、畝傍池、和珥池。又自難波至京置大道。

冬十一月、掖上池・畝傍池・和珥池を作りました。また難波から京まで大きな道を置きました。

93片岡の飢えた者

十二月庚午朔,皇太子遊行於片岡。時,飢者臥道垂,仍問姓名,而不言。皇太子視之,與飲食,即脱衣裳覆飢者而言:「安臥也。」則歌之曰:

十二月庚午の朔の日、皇太子が片岡に遊び行かれました。そのとき飢えた者が道の垂に臥していました。そこで姓名を問いましたが、言いませんでした。

皇太子はこれを視て、飲食を與え、そして衣裳を脱いで飢えた者を覆って申しました。「安らかに臥せ。」そして歌って申しました。

94歌 — 皇太子

斯那提流。箇多烏箇夜摩爾。伊比爾惠弖。許夜勢屡。諸能多比等。阿波禮。於夜那斯爾。那禮奈理鷄迷夜。佐須陀氣能。枳彌波夜(那)祗伊比爾惠弖。許夜勢留。諸能多比等阿波禮。

「斯那照る 片岡山に 飯に飢えて 臥せる その旅人 あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢えて 臥せる その旅人あはれ(斯那提流。箇多烏箇夜摩爾。伊比爾惠弖。許夜勢屡。諸能多比等。阿波禮。於夜那斯爾。那禮奈理鷄迷夜。佐須陀氣能。枳彌波夜那祗伊比爾惠弖。許夜勢留。諸能多比等阿波禮)」

— 音を写したものなので、意味には訳しません。

95飢えた者は聖であった

辛未,皇太子遣使令視飢者。使者還來之曰:「飢者既死。」爰皇太子大悲之,則因以葬埋於當處,墓固封也。數日之後,皇太子召近習(先)者謂之曰:「先日臥于道飢者,其非凡人,(爲)必眞人也。」遣使令視。於是,使者還來之曰:「到於墓所而視之,封埋勿動。乃開以見,屍骨既空,唯衣服疊置棺上。」於是,皇太子復返使者令取其衣,如常且服矣。時人大異之曰:「聖之知聖,其實哉!」逾惶。

辛未の日、皇太子が使を遣わして飢えた者を視させました。使者が還り來て申しました。「飢えた者はすでに死にました。」

そこで皇太子は大いにこれを悲しみ、その處に葬り埋めて、墓を固く封じました。

数日の後、皇太子が近く習える者を召してこれに申しました。「先の日に道に臥していた飢えた者は、凡人ではない。必ず眞人である。」使を遣わして視させました。

そこで使者が還り來て申しました。「墓の所に到ってこれを視ましたが、封じ埋めたものは動いておりませんでした。そこで開いて見ますと、屍と骨はすでに空しく、ただ衣服が疊んで棺の上に置かれておりました。」

そこで皇太子は重ねて使者を返して、その衣を取らせ、常のようにまた服しました。そのとき人々は大いにこれを異しんで申しました。「聖が聖を知るというのは、實のことであった。」いよいよ惶れました。

96藥獦

夏五月五日,藥獦也。

夏五月五日、藥獦をしました。

97犬上君を隋に遣わす

六月丁卯朔己卯,遣犬上君御田鍬、矢田部造於大唐。

六月丁卯の朔の己卯の日、犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)と矢田部造を大唐に遣わしました。

夾注 1

闕名

名が闕けています。

98大臣が病む

秋八月,大臣臥病,爲大臣而男女并一千人出家。

秋八月、大臣が病に臥しました。大臣のために、男女あわせて一千人が出家しました。

99御田鍬が還る

秋九月,犬上君御田鍬、矢田部造至自大唐。百濟使則從犬上君而來朝。

秋九月、犬上君御田鍬と矢田部造が大唐から至りました。百濟の使が犬上君に從って來朝しました。

100慧慈が歸る

十一月己丑朔庚寅,饗百濟客矣。癸卯,高麗僧慧慈歸于國。

十一月己丑の朔の庚寅の日、百濟の客を饗しました。癸卯の日、高麗の僧、慧慈が國に歸りました。

101桃と李が實る

春正月,桃李實之。

春正月、桃と李が實をつけました。

102掖玖の人が來る

三月,掖玖人三口歸化。夏五月,夜勾人七口來之。秋七月,亦掖玖人廿口來之。先後并卅人,皆安置於朴井,未及還皆死焉。

三月、掖玖の人三口が歸化しました。夏五月、夜勾の人七口が來ました。秋七月、また掖玖の人二十口が來ました。先と後をあわせて三十人でした。みな朴井に安置しましたが、還るに及ばずみな死にました。

103新羅が佛像を貢る

秋七月,新羅遣奈末竹世士貢佛像。

秋七月、新羅が奈末竹世士を遣わして佛像を貢りました。

104大きな苽

夏六月,出雲國言,於神户郡有苽,大如缶。

夏六月、出雲國が申しました。「神户郡に苽があり、大きさが缶ほどもあります。」

105五穀がよく登る

是歳,五穀登之。

この歳、五穀がよく登りました。

106高麗が隋を破る

秋八月癸酉朔,高麗遣使貢方物,因以言:「隋煬帝興卅萬衆攻我,返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公、普通二人,及鼓吹、弩、抛石之類十物,并土物駱駝一疋。」

秋八月癸酉の朔の日、高麗が使を遣わして方物を貢りました。それによって申しました。

「隋の煬帝が三十萬の衆を興して我らを攻めましたが、かえって我らに破られました。それゆえ、捕えた俘虜の貞公・普通の二人と、鼓吹・弩・抛石の類十物、あわせて土物の駱駝一疋を貢り獻ります。」

107霹靂の木で舶を造る

是年,遣河邊臣於安藝國令造舶。至山覓舶材,便得好材,以名將伐。時有人曰:「霹靂木也,不可伐。」河邊臣曰:「其雖雷神,豈逆皇命耶?」多祭弊帛,遣人夫令伐,則大雨雷電之。爰河邊臣案劔曰:「雷神無犯人夫,當傷我身。」而仰待之。雖十餘霹靂,不得犯河邊臣,即化少魚以挾樹枝。即取魚焚之,遂修理其舶。

この年、河邊臣を安藝國に遣わして舶を造らせました。山に至って舶の材を覓め、好い材を得て、伐ろうとしました。

そのとき或る人が申しました。「霹靂の木です。伐ってはなりません。」

河邊臣が申しました。「それが雷の神であるとしても、どうして皇の命に逆らうことがあろうか。」

弊帛を多く祭り、人夫を遣わして伐らせました。すると大雨が降り、雷電しました。

そこで河邊臣は劔を案じて申しました。「雷の神よ、人夫を犯すことなく、まさに我が身を傷つけよ。」そして仰いで待ちました。

十餘りの霹靂があったものの、河邊臣を犯すことはできませんでした。そして小さな魚に化して樹の枝に挾まりました。そこで魚を取って焚き、ついにその舶を修め理めました。

夾注 1

闕名

名が闕けています。

108人のような物

夏四月己亥朔壬寅,近江國言,於蒲生河有物,其形如人。

夏四月己亥の朔の壬寅の日、近江國が申しました。「蒲生河に物があり、その形が人のようです。」

109魚でも人でもない物

秋七月,攝津國有漁父,沈罟於堀江,有物入罟,其形如兒,非魚非人,不知所名。

秋七月、攝津國に漁父があり、堀江に罟を沈めましたところ、物が罟に入りました。その形は兒のようで、魚でもなく人でもなく、名づけるところを知りませんでした。

110掖玖の人が流れ來る

秋八月,掖玖人二口流來於伊豆嶋。

秋八月、掖玖の人二口が伊豆嶋に流れ來ました。

111檜隈の陵

冬十月,以砂礫葺檜隈陵上,則域外積土成山,仍每氏科之,建大柱於土山上。時,倭漢坂上直樹柱,勝之太高,故時人號之曰大柱直也。

冬十月、砂礫で檜隈の陵の上を葺き、域の外に土を積んで山を成しました。そして氏ごとに科して、土の山の上に大きな柱を建てさせました。

そのとき倭漢坂上直が樹てた柱が勝れて太く高くありました。それゆえそのときの人々は、これを號んで大柱直(おおはしらのあたい)と申しました。

112赤い氣

十二月庚寅朔,天有赤氣,長一丈餘,形似雉尾。

十二月庚寅の朔の日、天に赤い氣があって、長さが一丈餘り、形は雉の尾に似ていました。

113天皇記と國記を録す

是歳,皇太子、嶋大臣共議之,録天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部并公民等本記。

この歳、皇太子と嶋大臣が共に議って、天皇記および國記、臣・連・伴造・國造・百八十部とあわせて公民たちの本記を録しました。

114皇太子が薨じる

春二月己丑朔癸巳,半夜,廐户豐聰耳皇子命薨于斑鳩宫。是時,諸王、諸臣及天下百姓,悉長老如失愛兒,而鹽酢之味在口不嘗;少幼者如亡慈父母,以哭泣之聲滿於行路。乃耕夫止耜,舂女不杵,皆曰:「日月失輝,天地既崩。自今以後,誰恃哉?」

春二月己丑の朔の癸巳の日の半夜、廐户豐聰耳皇子命が斑鳩宫で薨じました。

このとき、諸々の王・諸々の臣および天下の百姓は、長老はことごとく愛しい兒を失ったようで、鹽や酢の味が口にあっても嘗め知らず、少く幼い者は慈しい父母を亡くしたようで、哭き泣く聲が行く路に滿ちました。

そして耕す夫は耜を止め、舂く女は杵をつかず、みな申しました。「日月が輝きを失い、天地がすでに崩れた。今から後、誰を恃もうか。」

115慧慈が後を追って死ぬ

是月,葬上宫太子於磯長陵。當是時,高麗僧慧慈聞上宫皇太子薨,以大悲之,爲皇太子請僧而設齋。仍親説經之日,誓願曰:「於日本國有聖人,曰上宫豐聰耳皇子。固天攸縱,以玄聖之德生日本之國,苞貫三統,纂先聖之宕猷,恭敬三寶,救黎元之厄。是實大聖也。今太子既薨之,我雖異國,心在断金。某獨生之,(有)何益矣?我以來年二月五日必死,因以遇上宫太子於淨土,以共化衆生。」於是,慧慈當于期日而死之。是以時人之彼此共言:「其獨非上宫太子之聖,慧慈亦聖也。」

この月、上宫太子を磯長の陵に葬りました。

このときに當たって、高麗の僧、慧慈が上宫皇太子の薨じたことを聞いて、大いにこれを悲しみ、皇太子のために僧を請じて齋を設けました。

そして親ら經を説く日に、誓願して申しました。

「日本國に聖人がおられ、上宫豐聰耳皇子と申しました。まことに天の縱すところで、玄なる聖の德をもって日本の國に生まれ、三統を苞み貫き、先の聖の宕き猷を纂ぎ、三寶を恭しく敬い、黎元の厄を救われました。これはまことに大いなる聖です。

今、太子はすでに薨じられました。私は異國の者ではありますが、心は金を断つほどに一つでした。某が独り生きて、何の益がありましょうか。私は來る年の二月五日に必ず死に、それによって淨土で上宫太子にお遇いし、共に衆生を化そうと思います。」

そこで慧慈はその期の日に當たって死にました。

それゆえそのときの人々は彼此で共に申しました。「独り上宫太子が聖であったのではない。慧慈もまた聖である。」

116新羅が表を上る

是歳,新羅遣奈末伊彌買朝貢,仍以表書奏使旨。凡新羅上表,盖始起于此時歟。

この歳、新羅が奈末伊彌買を遣わして朝貢し、表を書いて使の旨を奏しました。およそ新羅が表を上ったのは、おそらくこの時に始まったのでしょうか。

117大唐と常に往き來せよ

秋七月,新羅遣大使奈末智洗爾、任那遣達率奈末智,並來朝,仍貢佛像一具,及金塔并舍利,且大觀頂幡一具、小幡十二條。即佛像居於葛野秦寺,以餘舍利、金塔、觀頂幡等皆納于四天王寺。是時,大唐學問者僧惠齊、惠光,及醫惠日、福因等,並從智洗爾等來之。於是,惠日等共奏聞曰:「留于唐國學者,皆學以成業,應喚。且其大唐國者,法式備定之珎國也,常須達。」

秋七月、新羅が大使の奈末智洗爾を遣わし、任那が達率の奈末智を遣わして、あわせて來朝しました。そして佛像一具と金の塔、あわせて舍利、また大きな觀頂幡一具・小さな幡十二條を貢りました。

佛像は葛野の秦寺に居え、餘りの舍利・金の塔・觀頂幡などはみな四天王寺に納めました。

このとき、大唐で學問していた僧の惠齊・惠光、および醫の惠日・福因たちが、あわせて智洗爾たちに從って來ました。

そこで惠日たちが共に奏し聞かせて申しました。「唐國に留まって學ぶ者はみな學んで業を成しましたので、まさに喚ぶべきです。またあの大唐國は法式が備わり定まった珎しい國ですから、常に達うべきです。」

118任那が新羅に附く

是歳,新羅伐任那,任那附新羅。於是,天皇將討新羅,謀及大臣,詢于羣卿。田中臣對曰:「不可急討。先察状以知逆,後撃之不晩也。請試遣使,覩其消息。」中臣連國曰:「任那是元我内官家,今新羅人伐而有之。請戒戎旅,征伐新羅,以取任那附百濟。寧非益有于新羅乎?」田中臣曰:「不然。百濟是多反覆之國,道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之,故不可附百濟。」則不果征焉。爰遣吉士磐金於新羅,遣吉士倉下於任那,令問任那之事。時,新羅國主遣八大夫,啓新羅國事於磐金,且啓任那國於倉下,因以約曰:「任那小國,天皇附庸,何新羅輙有之?随常定内官家,願無煩矣。」則遣奈末智洗遲,副於吉士磐金;復以任那人達率奈末遲,副於吉士倉下,仍貢兩國之調。然磐金等末及于還,即年以大德境部臣雄摩侶、小德中臣連國爲大將軍,以小德河邊臣禰受、小德物部依網連乙等、小德波多臣廣庭、小德近江脚身臣飯葢、小德平羣臣宇志、小德大伴連、小德大宅臣軍爲副將軍,率數萬衆以征討新羅。

この歳、新羅が任那を伐ちましたので、任那は新羅に附きました。

そこで天皇は新羅を討とうとして、大臣に謀り、羣卿に詢いました。

田中臣が對えて申しました。「急ぎ討ってはなりません。まず状を察して逆らいを知り、後に撃っても晩くはありません。試みに使を遣わして、その消息を覩られることをお請いします。」

中臣連國が申しました。「任那はもと我が内官家です。今、新羅の人が伐ってこれを有っています。戎旅を戒めて新羅を征伐し、任那を取って百濟に附けられることをお請いします。むしろ新羅に有らせるより益があるのではありませんか。」

田中臣が申しました。「そうではありません。百濟は反り覆ることの多い國で、道路の間でさえなお詐ります。およそ彼らが請うところはみな非です。だから百濟に附けてはなりません。」

そして、ついに征ちませんでした。

そこで吉士磐金を新羅に遣わし、吉士倉下を任那に遣わして、任那の事を問わせました。

そのとき新羅の國主は八人の大夫を遣わして、新羅の國の事を磐金に啓し、また任那の國のことを倉下に啓しました。それによって約して申しました。「任那は小さな國で、天皇の附庸です。どうして新羅がたやすくこれを有ちましょうか。常のとおり内官家と定めますので、願わくは煩われませんように。」

そして奈末智洗遲を吉士磐金に副え、重ねて任那の人、達率奈末遲を吉士倉下に副えて、兩國の調を貢りました。

しかし磐金たちが還るに及ばないうちに、その年に大德の境部臣雄摩侶と小德の中臣連國を大將軍とし、小德の河邊臣禰受・小德の物部依網連乙等・小德の波多臣廣庭・小德の近江脚身臣飯葢・小德の平羣臣宇志・小德の大伴連・小德の大宅臣軍を副將軍として、数萬の衆を率いて新羅を征討させました。

夾注 1

闕名

名が闕けています。

119新羅が服することを請う

時,磐金等共會於津,將發舩,以候風波。於是,舩師滿海多至,兩國使人望瞻之愕然,乃還留焉,更代堪遲大舍爲任那調使而貢上。於是,磐金等相謂之曰:「是軍起之既違前期,是以任那之事今亦不成矣。」則發舩而渡之。唯將軍等始到任那,而議之欲襲新羅。於是,新羅國王聞軍多至,而豫慴之,請服。時,將軍等共議以上表之,天皇聽矣。

そのとき磐金たちは津で共に會い、舩を發しようとして風波を候っていました。

そこに舩師が海に滿ちて多く至りました。兩國の使人は望み瞻て愕然とし、還り留まりました。更に堪遲大舍に代えて任那の調の使として貢り上げました。

そこで磐金たちは相い申しました。「この軍が起こったことは、すでに前の期と違っている。それゆえ任那の事は、今もまた成らないであろう。」そして舩を發して渡りました。

ただ將軍たちは初めて任那に到って、新羅を襲おうと議りました。そこで新羅の國王は軍が多く至ったと聞いて、豫て慴れ、服することを請いました。そのとき將軍たちは共に議って表を上り、天皇は聽き入れました。

120悔やむ

冬十一月,磐金、倉下等至自新羅。時,大臣問其状,對曰:「新羅奉命以驚懼之,則並差專使,因以貢兩國之調。然見舩師至,而朝貢使人更還耳。但調猶貢上。」爰大臣曰:「悔乎,早遣師矣!」時人曰:「是軍事者,境部臣、阿曇連,先多得新羅弊物之故,又勸大臣,是以未待使旨而早征伐耳。」初,磐金等渡新羅之日,比及津,莊舩一艘迎於海浦。磐金問之曰:「是舩者何國迎舩?」對曰:「新羅舩也。」磐金亦曰:「曷無任那之迎舩?」即時更爲任那加一舩。其新羅以迎舩二艘,始于是時歟。自春至秋,霖雨大水,五穀不登焉。

冬十一月、磐金と倉下たちが新羅から至りました。そのとき大臣がその状を問うと、對えて申しました。

「新羅は命を奉って驚き懼れ、あわせて專らの使を差して、それによって兩國の調を貢ろうとしました。しかし舩師が至るのを見て、朝貢の使人はかえって還っただけです。ただ調はやはり貢り上げました。」

そこで大臣が申しました。「悔やまれることだ。早く師を遣わしてしまった。」

そのときの人々は申しました。「この軍の事は、境部臣と阿曇連が先に新羅の弊物を多く得たゆえに、また大臣に勸めたのだ。それゆえ使の旨を待たずに早く征伐しただけである。」

初め、磐金たちが新羅に渡った日、津に及ぶころ、莊った舩一艘が海の浦で迎えました。磐金が問いました。「この舩はどの國の迎えの舩か。」

對えて申しました。「新羅の舩です。」

磐金はまた申しました。「どうして任那の迎えの舩がないのか。」

そこでそのとき、更に任那のために舩一艘を加えました。あの新羅が迎えの舩を二艘としたのは、この時に始まったのでしょうか。

春から秋に至るまで霖雨で大水となり、五穀が登りませんでした。

121僧正と僧都を置く

夏四月丙午朔戊申,有一僧,執斧毆祖父。時,天皇聞之,召大臣詔之曰:「夫出家者,頓歸三寶,具懐戒法。何無懺忌,輙犯惡逆?今朕聞,有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者,重罪之。」於是,集諸僧尼而推之,則惡逆僧及諸(僧)尼並將罪。於是,百濟觀勒僧表上以言:「夫佛法自西國至于漢,經三百歳,乃傳之至於百濟國,而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲,而貢上佛像及内典,未滿百歳。故當今時,以僧尼未習法律,輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外,僧尼悉赦而勿罪。是大功德也。」天皇乃聽之。戊午,詔曰:「夫道人尚犯法,何以誨俗人?故自今已後,任僧正、僧都,仍應校檢僧尼。」壬戌,以觀勒僧爲僧正,以鞍部德積爲僧都。即日,以阿曇連爲法頭。

夏四月丙午の朔の戊申の日、一人の僧がいて、斧を執って祖父を毆ちました。

そのとき天皇はこれを聞いて、大臣を召して詔しました。「そもそも出家した者は、頓に三寶に歸して、戒法を具えて懐くものである。どうして懺み忌むことなく、たやすく惡逆を犯すのか。今、朕が聞くところ、僧があって祖父を毆ったという。だから諸々の寺の僧尼をことごとく聚めてこれを推し問え。もし事が實であれば、重く罪せよ。」

そこで諸々の僧尼を集めて推しましたところ、惡逆の僧と諸々の僧尼をあわせて罪しようとしました。

そこで百濟の觀勒僧が表を上って申しました。

「そもそも佛法は西の國から漢に至り、三百歳を經て、そして傳わって百濟國に至り、わずかに一百年です。しかるに我が王が日本の天皇の賢く哲いことを聞いて、佛像と内典を貢り上げてから、まだ百歳に滿ちません。

それゆえ今の時に當たっては、僧尼がまだ法律を習っておらず、たやすく惡逆を犯します。それゆえ諸々の僧尼は惶れ懼れて、どうすればよいかを知りません。仰ぎ願わくは、その惡逆の者を除くほかは、僧尼をことごとく赦して罪されませんように。これは大きな功德です。」

天皇はそこでこれを聽き入れました。

戊午の日、詔して申しました。「そもそも道人でさえなお法を犯すのに、何によって俗人を誨えようか。だから今から後は僧正・僧都を任じて、僧尼を校べ檢べるようにせよ。」

壬戌の日、觀勒僧を僧正とし、鞍部德積を僧都としました。その日、阿曇連を法頭としました。

夾注 1

闕名

名が闕けています。

122寺と僧の数

秋九月甲戌朔丙子,校寺及僧尼,具録其寺所造之縁,亦僧尼入道之縁,及度之年月日也。當是時,有寺册六所,僧八百十六人,尼五百六十九人,并一千三百八十五人。

秋九月甲戌の朔の丙子の日、寺と僧尼を校べて、その寺を造った縁、また僧尼が道に入った縁、および度した年月日を具さに録しました。

このときに當たって、寺は四十六所、僧は八百十六人、尼は五百六十九人で、あわせて一千三百八十五人でした。

123葛城縣を請う

冬十月癸卯朔,大臣遣阿曇連、阿倍臣摩侶二臣,令奏天皇曰:「葛城縣者,元臣之本居也,故因其縣爲姓名。是以冀之,常得其縣,以欲爲臣之封縣。」於是,天皇詔曰:「今朕則自蘇何出之,大臣亦爲朕舅也。故大臣之言,夜言矣夜不明,日言矣則日不晩,何辭不用?然今當朕之世,頓失是縣,後君曰:『愚癡婦人臨天下,以頓亡其縣。』豈獨朕不賢耶?大臣亦不忠。是後葉之惡名。」則不聽。

冬十月癸卯の朔の日、大臣が阿曇連と阿倍臣摩侶の二人の臣を遣わして、天皇に奏させました。

「葛城縣はもと臣の本の居るところです。それゆえその縣によって姓名としました。それゆえ冀わくは、常にその縣を得て、臣の封の縣としたいと思います。」

そこで天皇が詔して申しました。

「今、朕は蘇何から出ており、大臣もまた朕の舅である。だから大臣の言は、夜に言えば夜が明けず、日に言えば日が晩れないほどで、どのような辭を用いないことがあろうか。

しかし今、朕の世に當たって頓にこの縣を失えば、後の君が『愚かで癡しい婦人が天下に臨んで、頓にその縣を亡くした』と申すであろう。どうして独り朕が賢くないということだけであろうか。大臣もまた忠でない。これは後の葉への惡しき名である。」

そして聽き入れませんでした。

124惠潅を僧正とする

春正月壬申朔戊寅,高麗王貢僧惠潅,仍任僧正。

春正月壬申の朔の戊寅の日、高麗の王が僧の惠潅を貢りました。そして僧正を任じました。

125桃と李が華く

春正月,桃李華之。三月,寒以霜降。

春正月、桃と李が華きました。三月、寒くて霜が降りました。

126嶋大臣が薨じる

夏五月戊子朔丁未,大臣薨,仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也,性有武略,亦有辨才,以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍,乃庭中開小池,仍興小嶋於池中,故時人曰嶋大臣。

夏五月戊子の朔の丁未の日、大臣が薨じました。そして桃原の墓に葬りました。

大臣は稻目宿禰の子です。性に武略があり、また辨才があって、三寶を恭しく敬いました。飛鳥河の傍に家し、庭の中に小さな池を開き、池の中に小さな嶋を興しました。それゆえそのときの人々は嶋大臣と申しました。

127六月の雪

六月,雪也。

六月、雪が降りました。

128大きな飢え

是歳,自三月至七月霖雨,天下大飢之。老者噉草根而死于道垂,幼者含乳以母子共死。又強盜、竊盜並大起之,不可止。

この歳、三月から七月まで霖雨が降り、天下は大いに飢えました。老いた者は草の根を噉んで道の垂に死に、幼い者は乳を含んで母と子が共に死にました。また強盜と竊盜があわせて大いに起こり、止めることができませんでした。

129狢が人に化する

春二月,陸奥國有狢化人以歌之。

春二月、陸奥國で狢が人に化して歌いました。

130蝿の群れ

夏五月,有蝿聚集,其凝累十丈之浮虚,以越信濃坂,鳴音如雷,則東至上野國而自散。

夏五月、蝿が聚まり集まって、その凝ったものが十丈ばかり虚に浮いて、信濃坂を越えました。鳴く音は雷のようでした。そして東に上野國まで至って、自ずから散りました。

131天皇が病む

春二月戊寅朔甲辰,天皇臥病。

春二月戊寅の朔の甲辰の日、天皇が病に臥しました。

132天皇が崩じる

三月丁未朔戊申,日有蝕盡之。壬子,天皇痛甚之不可諱,則召田村皇子謂之曰:「昇天位而經綸鴻基,馭萬機以亭育黎元,本非輙言,恒之所重。故汝愼以察之,不可輕言。」即日,召山背大兄教之曰:汝肝稚之。若雖心望,而勿諠言,必待羣言以宜從。」癸丑,天皇崩之,即殯於南庭。

三月丁未の朔の戊申の日、日が蝕けて盡きました。

壬子の日、天皇の痛みが甚しく、諱むことができませんでした。そこで田村皇子を召してこれに申しました。「天の位に昇って鴻きな基を經め綸べ、萬機を馭して黎元を亭め育むことは、もとよりたやすく言うことではなく、常に重んずるところである。だからお前は愼んでこれを察し、輕々しく言ってはならない。」

その日、山背大兄を召して教えて申しました。「お前は肝が稚い。もし心に望むところがあっても、諠しく言うことなく、必ず羣の言を待って從うのがよい。」

癸丑の日、天皇が崩じました。そして南の庭に殯しました。

夾注 1

時年七十五

そのとき年は七十五でした。

133雹と旱

夏四月壬午朔辛卯,雹零,大如桃子。壬辰,雹零,大如桃子。自春至夏,旱之。

夏四月壬午の朔の辛卯の日、雹が零り、大きさは桃の子ほどでした。壬辰の日、雹が零り、大きさは桃の子ほどでした。春から夏に至るまで旱りました。

134厚く葬るな

秋九月己巳朔戊子,始起天皇喪禮。是時,羣臣各誄於殯宫。先是,天皇遺詔於羣臣曰:「比年五穀不登,百姓太飢。其爲朕興陵,以勿厚葬,便宜葬于竹田皇子之陵。」壬辰,葬竹田皇子之陵。

秋九月己巳の朔の戊子の日、初めて天皇の喪禮を起こしました。このとき羣臣がそれぞれ殯宫で誄しました。

これより先、天皇は羣臣に遺詔して申しました。「比年、五穀が登らず、百姓がたいそう飢えている。朕のために陵を興して厚く葬ることなく、竹田皇子の陵に葬るのがよい。」

壬辰の日、竹田皇子の陵に葬りました。