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舒明天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 54 · 漢字 3,361字 · 朗読 13.4分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1舒明天皇

息長足日廣額天皇,渟中倉太珠敷天皇孫,彥人大兄皇子之子也。母曰糠手姬皇女。

息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのてんのう)は、渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのてんのう)の孫であり、彥人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ)の子です。母は糠手姬皇女(ぬかでひめのひめみこ)といいます。

2太子が薨れる

豐御食炊屋姬天皇二十九年,皇太子豐聰耳尊薨,而未立皇太子。

豐御食炊屋姬天皇(とよみけかしきやひめのてんのう)の二十九年、皇太子の豐聰耳尊(とよとみみのみこと)が薨れて、まだ皇太子を立てていませんでした。

3嗣ぐ位が定まらない

以三十六年,三月,天皇崩。九月,葬禮畢之。嗣位未定。

三十六年の三月、天皇が崩れました。九月に葬りの礼を終えました。嗣ぐ位はまだ定まっていませんでした。

4大臣が群臣に問う

當是時,蘇我蝦夷臣為大臣,獨欲定嗣位,顧畏群臣不從,則與阿倍麻呂臣議,而聚群臣,饗於大臣家。食訖將散,大臣令阿倍臣,語群臣曰:「今天皇既崩無嗣。若急不計,畏有亂乎。今以詎王為嗣。天皇臥病之日,詔田村皇子曰:『天下大任,本非輙言。爾田村皇子,慎以察之,不可緩。』次詔山背大兄王曰:『汝獨莫諠讙。必從群言,慎以勿違。』則是天皇遺言焉。今,誰為天皇?」時群臣嘿之無答。亦問之。非答。強且問之。於是,大伴鯨連進曰:「既從天皇遺命耳,更不可待群言。」阿倍臣則問曰:「何謂也?開其意。」對曰:「天皇曷思歟,詔田村皇子,曰:『天下大任也,不可緩。』因此而言,皇位既定。誰人異言?」時采女臣摩禮志、高向臣宇摩、中臣連彌氣、難波吉士身刺,四臣曰:「隨大伴連言,更無異。」許勢臣大摩呂、佐伯連東人、紀臣鹽手,三人進曰:「山背大兄王,是宜為天皇。」唯蘇我倉摩呂臣,獨曰:「臣也當時不得便言。更思之後啟。」爰大臣知群臣不和,而不能成事,退之。先是,大臣獨問境部摩理勢臣曰:「今天皇崩,無嗣。誰為天皇?」對曰:「舉山背大兄為天皇。」

このときにあたって、蘇我蝦夷臣(そがのえみしのおみ)が大臣となり、独りで嗣ぐ位を定めようとしました。しかし群臣が従わないのではないかと顧み畏れて、阿倍麻呂臣(あべのまろのおみ)と議り、群臣を聚めて大臣の家で饗しました。

食べ終えて散ろうとするとき、大臣は阿倍臣に命じて、群臣に語らせました。

「今、天皇はすでに崩れて嗣ぐ者がありません。もし急いで計らなければ、乱れがあるのではないかと畏れます。今、どの王を嗣ぎといたしましょうか。

天皇が病に臥せられた日、田村皇子(たむらのみこ)に詔して『天下の大任は、もとより軽々しく言うものではない。おまえ田村皇子は、慎んで察し、緩めてはならない』と仰せられました。次に山背大兄王(やましろのおおえのおう)に詔して『おまえは独りで諠しく言ってはならない。必ず群れの言に従い、慎んで違えてはならない』と仰せられました。これがすなわち天皇の遺言です。今、誰が天皇となるのでしょうか」

そのとき群臣は黙って答えませんでした。また問いましたが答えません。強いてまた問いました。

そこで大伴鯨連(おおとものくじらのむらじ)が進み出て言いました。「すでに天皇の遺命に従うだけのことで、あらためて群れの言を待つことはありません」

阿倍臣がすぐに問いました。「どういう意味か。その意を開いて見せよ」

答えて言いました。「天皇は何を思われたのでしょうか。田村皇子に詔して『天下の大任であるから緩めてはならない』と仰せられました。これによって言えば、皇の位はすでに定まっています。誰が異なることを言いましょうか」

そのとき采女臣摩禮志(うねめのおみまれし)・高向臣宇摩(たかむこのおみうま)・中臣連彌氣(なかとみのむらじみけ)・難波吉士身刺(なにわのきしむざし)の四人の臣が言いました。「大伴連の言うとおりで、異なるところはありません」

許勢臣大摩呂(こせのおみおおまろ)・佐伯連東人(さえきのむらじあずまひと)・紀臣鹽手(きのおみしおて)の三人が進み出て言いました。「山背大兄王が天皇となるべきです」

ただ蘇我倉摩呂臣(そがのくらまろのおみ)だけが独りで言いました。「臣は今すぐには言えません。あらためて思ってから啟します」

そこで大臣は、群臣が和さず事を成せないことを知って、退きました。

これより先、大臣は独りで境部摩理勢臣(さかいべのまりせのおみ)に問いました。「今、天皇が崩れて嗣ぐ者がない。誰が天皇となるのか」

答えて言いました。「山背大兄を挙げて天皇となさいませ」

夾注 1

更名雄當。

別の名は雄當(おまさ)です。

5山背大兄が意を問う

是時,山背大兄居於斑鳩宮,漏聆是議,即遣三國王、櫻井臣和慈古二人,密謂大臣曰:「傳聞之,叔父以田村皇子欲為天皇。我聞此言,立思矣,居思矣,未得其理。願分明欲知叔父之意。」於是,大臣得山背大兄之告,而不能獨對。則喚阿倍臣、中臣連、紀臣、河邊臣、高向臣、采女臣、大伴連、許勢臣等,仍曲舉山背大兄之語。既而便且,謂大夫等曰:「汝大夫等共詣於斑鳩宮,當啟山背大兄王曰:『賤臣何之獨輙定嗣位?唯舉天皇之遺詔,以告于群臣。群臣並言:『如遺言,田村皇子自當嗣位。更詎異言。』是群卿言也,特非臣心。但雖有臣私意,而惶之不得傳啟,乃面日親啟焉。』」爰群大夫等,受大臣之言,共詣于斑鳩宮,使三國王、櫻井臣,以大臣之辭啟於山背大兄。時大兄王使傳問群大夫等曰:「天皇遺詔奈之何?」對曰:「臣等不知其深。唯得大臣語狀稱:『天皇臥病之日,詔田村皇子曰:「非輕輙言來國政。

このとき山背大兄は斑鳩宮(いかるがのみや)にいて、この議を漏れ聆き、すぐに三國王(みくにのおう)と櫻井臣和慈古(さくらいのおみわじこ)の二人を遣わして、密かに大臣に言わせました。

「伝え聞きますに、叔父は田村皇子を天皇にしようとしているとのことです。私はこの言を聞いて、立っても思い、居ても思いましたが、その理を得られません。願わくは叔父の意を分明に知りたいのです」

そこで大臣は山背大兄の告げを得て、独りでは答えられませんでした。そこで阿倍臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣たちを喚んで、山背大兄の語をつぶさに挙げて聞かせました。

やがてすぐに大夫たちに言いました。

「おまえたち大夫は、共に斑鳩宮に詣って、山背大兄王に啟すべきである。『賤しい臣がどうして独りで軽々しく嗣ぐ位を定めましょうか。ただ天皇の遺詔を挙げて、群臣に告げただけです。群臣は並んで「遺言のとおり田村皇子が自ら位を嗣ぐべきである。あらためて何の異なる言がありましょうか」と言いました。これは群卿の言であって、特に臣の心ではありません。ただ臣に私の意があっても、惶れて伝え啟すことができませんので、お目にかかる日に自ら啟します』と」

そこで群れの大夫たちは大臣の言を受けて、共に斑鳩宮に詣りました。三國王と櫻井臣に、大臣の辞をもって山背大兄に啟させました。

そのとき大兄王は伝えて群れの大夫たちに問いました。「天皇の遺詔はどのようであったのか」

答えて言いました。「臣らはその深いところを知りません。ただ大臣の語を得ますに『天皇が病に臥せられた日、田村皇子に詔して「国の政を軽々しく言うものではない。

6遺詔をめぐって争う

是以爾田村皇子慎以言之,不可緩。」次詔大兄王曰:「汝肝稚,而勿諠言,必宜從群臣言。」是乃近侍諸女王及采女等悉知之,且大王所察。』」於是,大兄王且令問之曰:「是遺詔也,專誰人聆焉?」答曰:「臣等不知其密。」既而更亦,令告群大夫等曰:「愛之叔父勞思,非一介之使,遣重臣等而教覺。是大恩也。然今群卿所噵天皇遺命者,小小違我之所聆。吾聞天皇臥病,而馳上之,侍于門下。時中臣連彌氣,自禁省出之曰:『天皇命以喚之。』則參進向于閤門。亦栗隈采女黑女,迎於庭中,引入大殿。於是,近習者栗下女王為首,女孺鮪女等八人并數十人,侍於天皇之側,且田村皇子在焉。時天皇沈病,不能覩我。乃栗下女王奏曰:『所喚山背大兄王參赴。』即天皇起臨之詔曰:『朕以寡薄,久勞大業。今曆運將終,以病不可諱。故汝本為朕之心腹,愛寵之情,不可為比。其國家大基,是非朕世,自本務之。汝雖肝稚,慎以言。

ですからおまえ田村皇子は、慎んで言い、緩めてはならない」と仰せられ、次に大兄王に詔して「おまえは肝が稚いから、諠しく言ってはならない。必ず群臣の言に従うべきである」と仰せられました。これはすなわち近く侍る諸々の女王や采女たちがことごとく知っていることであり、また大王のお察しのとおりです』とのことでした」

そこで大兄王はまた問わせました。「この遺詔は、もっぱら誰が聆いたのか」

答えて言いました。「臣らはその密かなところを知りません」

やがてあらためてまた、群れの大夫たちに告げさせました。

「愛しい叔父が労しく思って、一介の使ではなく重い臣たちを遣わして教え覚らせてくださったのは、大きな恩です。しかし今、群卿の言う天皇の遺命は、私が聆いたところと少しばかり違います。

私は天皇が病に臥せられたと聞いて、馳せ上って門の下に侍りました。そのとき中臣連彌氣が禁省の中から出てきて『天皇が命じてお喚びです』と言いました。すぐに進んで閤門に向かいました。また栗隈采女黑女(くりくまのうねめくろめ)が庭の中で迎えて、大殿に引き入れました。

そこには近く習え侍る者として栗下女王(くりしたのひめみこ)を首とし、女孺の鮪女(しびめ)たち八人、あわせて数十人が天皇の側に侍っていて、また田村皇子がいました。

そのとき天皇は病に沈んで、私を覩ることができませんでした。そこで栗下女王が奏して『お喚びの山背大兄王が参り赴きました』と申しました。

すぐに天皇は起って臨み、詔されました。『朕は寡く薄い身で、久しく大業に労してきた。今、暦運は終ろうとし、病は諱むことができない。そこでおまえはもとより朕の心腹であって、愛み寵む情は比べるものがなかった。あの国家の大きな基は、朕の世だけのことではなく、もとより務めるべきものである。おまえは肝が稚いけれども、慎んで言え』

7山背大兄が退く

』乃當時侍之近習者,悉知焉。故我蒙是大恩,而一則以懼,一即以悲,踊躍歡喜,不知所如。仍以為:『社稷宗廟,重事也。我眇少以不賢,何敢當焉。』當事時,思欲語叔父及群卿等,然未有可噵之時,於今非言耳。我曾將訊叔父之病,向京而居豐浦寺。是日,天皇遣八口采女鮪女,詔之曰:『汝叔父大臣常為汝愁言,百歲之後,嗣位非當汝乎?故慎以自愛矣。』既分明有是事,何疑也?然我豈餮天下,唯顯聆事耳,則天神地祇共証之。是以冀正欲知天皇之遺敕,亦大臣所遣群卿者,從來如嚴茅取中事,而奏請人等也。故能宜白叔父。」既而,泊瀨仲王別喚中臣連、河邊臣,謂之曰:「我等父子,並自蘇我出之,天下所知,是以如高山恃之。願嗣位勿輙言。」則令三國王、櫻井臣,副群卿而遣之曰:「欲聞還言。」時大臣,遣紀臣、大伴連,謂三國王、櫻井臣曰:「先日言訖,更無異矣。然臣敢之輕誰王也,重誰王也?」於是數日之後,山背大兄亦遣櫻井臣,告大臣曰:「先日之事,陳聞耳。

そのとき侍っていた近く習える者たちは、ことごとく知っています。ですから私はこの大きな恩を蒙って、一つには懼れ、一つには悲しみ、踊り躍って歓び喜び、どうしてよいか分かりませんでした。

そこで思いました。『社稷と宗廟は重い事である。私は眇く少なく賢くないのに、どうして敢えて当たれようか』と。そのとき叔父や群卿たちに語ろうと思いましたが、まだ言うべき時がなく、今まで言わなかっただけです。

私はかつて叔父の病を訊ねようとして、京に向かって豐浦寺(とゆらでら)に居ました。この日、天皇は八口采女鮪女(やくちのうねめしびめ)を遣わして詔されました。『おまえの叔父の大臣は、常におまえのために愁えて、百歳の後の嗣ぐ位はおまえでなければ誰であろうかと言っている。だから慎んで自らを愛め』と。

すでに分明にこういう事があったのですから、何を疑いましょうか。しかし私がどうして天下を餮りましょうか。ただ聆いた事を顕すだけで、それは天の神も地の神も共に証されます。

ですから願わくは天皇の遺敕を正しく知りたいのです。また大臣が遣わした群卿は、従来、嚴かな茅から中のものを取るように奏し請う人たちです。ですからよく叔父に申し上げてください」

やがて泊瀨仲王(はつせのなかつおう)が別に中臣連と河邊臣を喚んで言いました。「我ら父子が並んで蘇我から出たことは、天下の知るところだ。だから高い山のように恃んでいる。願わくは嗣ぐ位を軽々しく言わないでほしい」

そして三國王と櫻井臣を群卿に副えて遣わし、言いました。「還ってくる言を聞きたい」

そのとき大臣は紀臣と大伴連を遣わして、三國王と櫻井臣に言いました。「先の日に言い終えたので、あらためて異なることはない。しかし臣がどうして敢えて、どの王を軽んじ、どの王を重んじましょうか」

そこで数日の後、山背大兄はまた櫻井臣を遣わして大臣に告げました。「先の日の事は、聆いたことを陳べ申し上げただけです。

夾注 1

嚴茅,此云伊箇之倍虛。

嚴茅は、伊箇之倍虛(いかしほこ)と読みます。

8摩理勢が従わない

寧違叔父哉?」是日,大臣病動,以不能面言於櫻井臣。明日,大臣喚櫻井臣,即遣阿倍臣、中臣連、河邊臣、小墾田臣、大伴連,啟山背大兄言:「自磯城嶋宮御宇天皇之世及近世者,群卿皆賢哲也。唯今臣不賢,而遇當乏人時,誤居群臣上耳。是以不得定基。然是事重也,不能傳噵。故老臣雖勞,面啟之。其唯不誤遺敕者也,非臣私意。」既而大臣傳阿倍臣、中臣連,更問境部臣曰:「誰王為天皇?」對曰:「先是大臣親問之日,僕啟既訖之。今何更亦傳以告耶?」乃大忿而起行之。適是時,蘇我氏諸族等悉集,為嶋大臣造墓,而次于墓所。爰摩理勢臣壞墓所之廬,退蘇我田家而不仕。時大臣慍之,遣身狹君勝牛、錦織首赤豬,而誨曰:「吾知汝言之非,以干支之義,不得害。唯他非汝是,我必忤他從汝。若他是汝非,我當乖汝從他。是以汝遂有不從者,我與汝有瑕,則國亦亂。然乃後生言之,吾二人破國也。

どうして叔父に違いましょうか」

この日、大臣は病が動いて、櫻井臣に面と向かって言うことができませんでした。

翌日、大臣は櫻井臣を喚び、すぐに阿倍臣・中臣連・河邊臣・小墾田臣(おはりだのおみ)・大伴連を遣わして、山背大兄に啟しました。

「磯城嶋宮(しきしまのみや)で天下を治められた天皇の世から近い世まで、群卿は皆賢く哲かでした。ただ今、臣は賢くないのに、ちょうど人の乏しい時に遇って、誤って群臣の上に居るだけです。ですから基を定められません。しかしこの事は重く、伝えて言うことができません。そこで老いた臣は労しくとも、面と向かって啟します。それはただ遺敕を誤らないためであって、臣の私の意ではありません」

やがて大臣は阿倍臣と中臣連を通して、あらためて境部臣に問いました。「どの王が天皇となるのか」

答えて言いました。「先に大臣が自ら問われた日に、僕はすでに啟し終えています。今、どうしてあらためて伝えて告げられるのですか」

そして大いに忿って起って行ってしまいました。

ちょうどこのとき、蘇我氏の諸々の族がことごとく集まって、嶋大臣(しまのおおおみ)のために墓を造り、墓所に次っていました。そこで摩理勢臣は墓所の廬を壊して、蘇我の田の家に退き、仕えませんでした。

そのとき大臣は慍って、身狹君勝牛(むさのきみかつうし)と錦織首赤豬(にしごりのおびとあかい)を遣わして誨しました。

「私はおまえの言が非であることを知っている。しかし干支の義によって害うことはできない。ただ他が非でおまえが是であれば、私は必ず他に忤らっておまえに従おう。もし他が是でおまえが非であれば、私はおまえに乖いて他に従うべきである。

だからおまえがついに従わないことがあれば、私とおまえに瑕があることになり、国もまた乱れる。そうすれば後に生まれる者が『あの二人が国を破った』と言うだろう。

9摩理勢とその子が死ぬ

是後葉之惡名也。汝慎以勿起逆心。」然猶不從,而遂赴于斑鳩,住於泊瀨王宮。於是大臣益怒,乃遣群卿,請于山背大兄曰:「頃者,摩理勢違臣匿於泊瀨王宮。願得摩理勢,欲推其所由。」爰大兄王答曰:「摩理勢素聖皇所好,而暫來耳。豈違叔父之情耶?願勿瑕。」則謂摩理勢曰:「汝不忘先王之恩而來,甚愛矣。然其因汝一人,而天下應亂。亦先王臨沒,謂諸子等曰:『諸惡莫作,諸善奉行。』余承斯言,以為永戒。是以雖有私情,忍以無怨。復我不能違叔父。願自今以後,勿憚改意,從群而無退。」是時,大夫等且誨摩理勢臣之曰:「不可違大兄王之命。」於是摩理勢臣進無所歸。乃泣哭更還之居於家十餘日,泊瀨王忽發病薨。爰摩理勢臣曰:「我生之誰恃矣?」大臣將殺境部臣,而興兵遣之。境部臣聞軍至,率仲子阿椰,出于門,坐胡床而待。時軍至,乃令來目物部伊區比以絞之,父子共死。乃埋同處。唯兄子毛津,逃匿于尼寺瓦舍,即姧一二尼。於是,一尼嫉妒令顯。圍寺將捕。乃出之入畝傍山。因以探山,毛津走無所入,刺頸而死山中。時人歌曰:

これは後の葉の悪い名である。おまえは慎んで逆らう心を起してはならない」

しかしそれでも従わず、ついに斑鳩に赴いて、泊瀨王の宮に住みました。

そこで大臣はいよいよ怒って、群卿を遣わして山背大兄に請いました。「このごろ摩理勢が臣に違って泊瀨王の宮に匿れています。願わくは摩理勢を得て、その由るところを推し問いたいのです」

そこで大兄王が答えました。「摩理勢はもとより聖の皇が好まれた者で、しばらく来ているだけです。どうして叔父の情に違いましょうか。願わくは瑕としないでください」

そして摩理勢に言いました。

「おまえが先の王の恩を忘れずに来たことは、たいへん愛しい。しかしおまえ一人のために、天下が乱れることになるだろう。

また先の王が没するに臨んで、諸々の子たちに『諸々の悪を作すな、諸々の善を奉じて行え』と言われた。私はこの言を承けて、永い戒めとしている。だから私の情はあっても、忍んで怨みはしない。また私は叔父に違うことができない。

願わくはこれから後、意を改めることを憚らず、群れに従って退かないでほしい」

このとき大夫たちもまた摩理勢臣を誨しました。「大兄王の命に違ってはならない」

そこで摩理勢臣は、進んでも帰る所がありませんでした。そこで泣き哭いてあらためて還り、家に居ること十余日で、泊瀨王が忽ち病を発して薨れました。

そこで摩理勢臣は言いました。「私は生きて誰を恃めばよいのか」

大臣は境部臣を殺そうとして、兵を興して遣わしました。境部臣は軍が至ると聞いて、仲の子の阿椰(あや)を率いて門を出て、胡床に坐って待ちました。

そのとき軍が至ると、すぐに來目物部伊區比(くめのもののべのいくひ)に命じて絞らせ、父と子が共に死にました。そして同じ所に埋めました。

ただ長子の毛津(けつ)が尼寺の瓦舍に逃げ匿れて、一人二人の尼を姧しました。そこで一人の尼が嫉み妬んで顕させました。寺を囲んで捕えようとすると、すぐに出て畝傍山(うねびやま)に入りました。

そこで山を探ると、毛津は走っても入る所がなく、頸を刺して山の中で死にました。そのとき人々が歌いました。

10歌 — そのときの人々

畝傍山木立薄けど賴みかも毛津若子の籠らせりけむ

「畝傍山木立薄けど賴みかも毛津若子の籠らせりけむ」

— この底本はこの歌を萬葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を写したものですから、意味に移しかえません。

11位に即く

春正月癸卯朔丙午,大臣及群卿,共以天皇之璽印,獻於田村皇子。則辭之曰:「宗廟,重事矣。寡人不賢,何敢當乎?」群臣伏固請曰:「大王,先朝鍾愛,幽顯屬心。宜纂皇綜,光臨億兆。」即日,即天皇位。

春正月癸卯の朔の丙午の日、大臣と群卿が共に天皇の璽印を田村皇子に献りました。

すると辞して言いました。「宗廟は重い事である。寡人は賢くないのに、どうして敢えて当たれようか」

群臣は伏して固く請いました。「大王は先の朝が愛を鍾められた方であり、幽かなところも顕かなところも心を属けております。皇の綜を纂いで、億兆に光り臨まれるべきです」

その日に、天皇の位に即かれました。

12掖玖に使を遣わす

夏四月辛未朔,遣田部連,於掖玖。是年也,太歲己丑。

夏四月辛未の朔、田部連を掖玖(やく)に遣わしました。この年は太歳己丑です。

夾注 1

闕名。

名が闕けています。

13皇后と子たち

春正月丁卯朔戊寅,立寶皇女為皇后。后生二男一女。一曰,葛城皇子。二曰,間人皇女。三曰,大海皇子。夫人,蘇我嶋大臣女法提郎媛。生,古人皇子。又娶,吉備國蚊屋采女。生,蚊屋皇子。

春正月丁卯の朔の戊寅の日、寶皇女(たからのひめみこ)を立てて皇后としました。后は二人の男と一人の女を生みました。一を葛城皇子(かずらきのみこ)といい、二を間人皇女(はしひとのひめみこ)といい、三を大海皇子(おおあまのみこ)といいます。

夫人は蘇我嶋大臣の娘の法提郎媛(ほてのいらつめ)です。古人皇子(ふるひとのみこ)を生みました。

また吉備國の蚊屋采女(かやのうねめ)を娶って、蚊屋皇子(かやのみこ)を生みました。

夾注 3

近江大津宮御宇天皇。

近江の大津宮で天下を治められた天皇です。

淨御原宮御宇天皇。

淨御原宮で天下を治められた天皇です。

更名,大兄皇子。

別の名は大兄皇子です。

14高麗と百濟が朝貢する

三月丙寅朔,高麗大使宴子拔、小使若德,百濟大使恩率素子、小使德率武德,共朝貢。

三月丙寅の朔、高麗の大使の宴子拔と小使の若德、百濟の大使の恩率素子と小使の德率武德が、共に朝貢しました。

15唐に使を遣わす

秋八月癸巳朔丁酉,以大仁犬上君三田耜、大仁藥師惠日,遣於大唐。庚子,饗高麗、百濟客於朝。

秋八月癸巳の朔の丁酉の日、大仁の犬上君三田耜(いぬかみのきみみたすき)と大仁の藥師惠日(くすしのえにち)を大唐に遣わしました。

庚子の日、高麗と百濟の客を朝廷で饗しました。

16客が帰る

九月癸亥朔丙寅,高麗、百濟客歸于國。是月,田部連等至自掖玖。

九月癸亥の朔の丙寅の日、高麗と百濟の客が国に帰りました。この月、田部連たちが掖玖から至りました。

17岡本宮

冬十月壬辰朔癸卯,天皇遷於飛鳥岡傍。是謂岡本宮。

冬十月壬辰の朔の癸卯の日、天皇は飛鳥岡(あすかのおか)の傍らに遷られました。これを岡本宮といいます。

18三韓の館を修める

是歲,改修理難波大郡及三韓館。

この歳、難波の大郡(おおごり)と三韓の館を改め修め理めました。

19掖玖の人が帰化する

春二月辛卯朔庚子,掖玖人歸化。

春二月辛卯の朔の庚子の日、掖玖の人が帰化しました。

20百濟が王子豐章を質に入れる

三月庚申朔,百濟王義慈,入王子豐章為質。

三月庚申の朔、百濟王の義慈が王子の豐章を入れて質としました。

21有間の溫湯

秋九月丁巳朔乙亥,幸于津國有間溫湯。

秋九月丁巳の朔の乙亥の日、津國の有間(ありま)の溫湯に幸かれました。

22溫湯から還る

冬十二月丙戌朔戊戌,天皇至自溫湯。

冬十二月丙戌の朔の戊戌の日、天皇は溫湯から至られました。

23高表仁が来る

秋八月,大唐遣高表仁,送三田耜。共泊于對馬。是時,學問僧靈雲、僧旻及勝鳥養,新羅送使等,從之。

秋八月、大唐は高表仁を遣わして、三田耜を送らせました。共に對馬に泊まりました。このとき学問僧の靈雲、僧の旻、勝鳥養(すぐりのとりかい)、それに新羅の送りの使たちが従っていました。

24難波で迎える

冬十月辛亥朔甲寅,唐國使人高表仁等,泊于難波津。則遣大伴連馬養,迎於江口。船三十二艘及鼓、吹、旗幟,皆具整飾。便告高表仁等曰:「聞天子所命之使,到于天皇朝。迎之。」時高表仁對曰:「風寒之日,飾整船艘以賜迎之,歡愧也。」於是令難波吉士小槻、大河內直矢伏為導者,到館前也。乃遣伊岐史乙等、難波吉士八牛,引客等入於館。即日,給神酒。

冬十月辛亥の朔の甲寅の日、唐國の使人の高表仁たちが難波津に泊まりました。そこで大伴連馬養(おおとものむらじうまかい)を遣わして、江の口で迎えさせました。船三十二艘と鼓・吹・旗や幟を、みな具え整え飾りました。

そして高表仁たちに告げました。「天子が命じられた使が天皇の朝に到られたと聞きましたので、お迎えします」

そのとき高表仁が答えました。「風の寒い日に船を飾り整えて迎えてくださり、歓ばしくも愧ずかしく存じます」

そこで難波吉士小槻(なにわのきしおつき)と大河內直矢伏(おしこうちのあたいやぶし)を導く者として、館の前に到らせました。そして伊岐史乙等(いきのふびとおと)たちと難波吉士八牛(なにわのきしやうし)を遣わして、客たちを引いて館に入れました。その日に神酒を給いました。

25高表仁が帰る

春正月己卯朔甲辰,大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂、黑麻呂等,到對馬而還之。

春正月己卯の朔の甲辰の日、大唐の客の高表仁たちが国に帰りました。送りの使の吉士雄摩呂(きしのおまろ)と黑麻呂たちは、對馬まで到って還りました。

26篲星

秋八月,長星見南方。時人曰篲星。

秋八月、長い星が南の方に見えました。そのときの人は篲星(ほうきぼし)と言いました。

27篲星が東に

春三月,篲星迴見于東。

春三月、篲星が迴って東に見えました。

28百濟が朝貢する

夏六月乙丑朔甲戌,百濟遣達率柔等,朝貢。

夏六月乙丑の朔の甲戌の日、百濟が達率の柔たちを遣わして朝貢しました。

29百濟の客を饗する

秋七月乙未朔辛丑,饗百濟客於朝。

秋七月乙未の朔の辛丑の日、百濟の客を朝廷で饗しました。

30一つの茎に二つの花

是月,瑞蓮生於劍池。一莖二花。

この月、瑞しい蓮が劍の池(つるぎのいけ)に生えました。一つの茎に二つの花でした。

31日が蝕ける

春正月壬辰朔,日蝕。

春正月壬辰の朔、日が蝕けました。

32采女の事を裁く

三月,悉劾姧采女者,皆罪之。是時,三輪君小鷦鷯,苦其推鞫,刺頸而死。

三月、采女を姧した者をことごとく劾べて、みな罪としました。このとき三輪君小鷦鷯(みわのきみおさざき)は、その推し鞫べられることを苦しんで、頸を刺して死にました。

33霖雨と大水

夏五月,霖雨大水。

夏五月、霖雨が降って大水になりました。

34岡本宮に火が出る

六月,災岡本宮。天皇遷居田中宮。

六月、岡本宮に火災がありました。天皇は田中宮(たなかのみや)に遷って居られました。

35朝廷に参る刻を定めようとする

秋七月己丑朔,大派王謂豐浦大臣曰:「群卿及百寮,朝參已懈。自今以後,卯始朝之,巳後退之。因以鍾為節。」然大臣不從。

秋七月己丑の朔、大派王(おおまたのおう)が豐浦大臣(とゆらのおおおみ)に言いました。「群卿と百寮が朝廷に参ることは、もう懈っている。今から後は、卯の刻に朝を始め、巳の刻の後に退くようにせよ。それには鍾を節とせよ」

しかし大臣は従いませんでした。

36大きな旱

是歲,大旱,天下飢之。

この歳、大いに旱って、天下が飢えました。

37天の狗

春二月丙辰朔戊寅,大星從東流西,便有音似雷。時人曰:「流星之音。」亦曰:「地雷。」於是僧旻僧曰:「非流星,是天狗也。其吠聲似雷耳。」

春二月丙辰の朔の戊寅の日、大きな星が東から西に流れ、そのとき音があって雷に似ていました。そのときの人は「流れ星の音だ」と言い、また「地の雷だ」と言いました。

そこで僧の旻が言いました。「流れ星ではありません。これは天の狗(いぬ)です。その吠える声が雷に似ているだけです」

38日が蝕ける

三月乙酉朔丙戌,日蝕之。

三月乙酉の朔の丙戌の日、日が蝕けました。

39蝦夷が叛く

是歲,蝦夷叛以不朝。即拜大仁上毛野君形名,為將軍,令討。還為蝦夷見敗,而走入壘,遂為賊所圍。軍眾悉漏城空之,將軍迷,不知所如。

この歳、蝦夷が叛いて朝廷に参りませんでした。そこで大仁の上毛野君形名(かみつけののきみかたな)を将軍に拝して、討たせました。

かえって蝦夷に敗られて、壘に走り入り、ついに賊に囲まれました。軍の衆はことごとく漏れ出て城は空になり、将軍は迷って、どうしてよいか分かりませんでした。

40将軍の妻

時日暮,踰垣欲逃。爰方名君妻歎曰:「慷哉,為蝦夷將見殺。」則謂夫曰:「汝祖等渡蒼海,跨萬里,平水表政,以威武傳於後葉。今汝頓屈先祖之名,必為後世見嗤。」乃酌酒,強之令飲夫,而親佩夫之劍,張十弓,令女人數十,俾鳴弦。既而夫更起之,取仗而進之。蝦夷以為:「軍眾猶多。」而稍引退之。於是散卒更聚,亦振旅焉。擊蝦夷大敗,以悉虜。

そのとき日が暮れて、垣を踰えて逃げようとしました。

そこで形名君の妻が歎いて言いました。「慷ましいことです。蝦夷に殺されてしまうのですね」

そして夫に言いました。「あなたの祖たちは蒼い海を渡り、万里を跨いで、水の表の政を平らげ、威と武を後の葉に伝えました。今あなたが頓かに先の祖の名を屈めるなら、必ず後の世に嗤われましょう」

そして酒を酌み、強いて夫に飲ませ、自ら夫の剣を佩き、十の弓を張って、女人数十人に弦を鳴らさせました。

やがて夫はあらためて起って、仗を取って進みました。蝦夷は「軍の衆はなお多い」と思って、やや引き退きました。

そこで散っていた卒があらためて聚まり、また旅を振い起しました。蝦夷を撃って大いに敗り、ことごとく虜にしました。

41大風

秋七月丁未朔乙丑,大風之,折木發屋。

秋七月丁未の朔の乙丑の日、大風が吹いて木を折り、屋根を發がしました。

42霖雨

九月,霖雨,桃李華。

九月、霖雨が降って、桃や李が華を咲かせました。

43有間の溫湯宮

冬十月,幸有間溫湯宮。

冬十月、有間の溫湯宮に幸かれました。

44三つの国が朝貢する

是歲,百濟、新羅、任那,並朝貢。

この歳、百濟・新羅・任那が並んで朝貢しました。

45星と風

春正月乙巳朔壬子,車駕還自溫湯。乙卯,新嘗。蓋因幸有間,以闕新嘗歟。丙辰,無雲而雷。丙寅,大風而雨。己巳,長星見西北。時旻師曰:「彗星也。見則飢之。」

春正月乙巳の朔の壬子の日、車駕が溫湯から還られました。

乙卯の日、新嘗(にいなえ)の祭りをしました。おそらく有間に幸かれたために、新嘗を闕かしたのでしょうか。

丙辰の日、雲がないのに雷が鳴りました。丙寅の日、大風が吹いて雨が降りました。己巳の日、長い星が西北に見えました。そのとき旻師が言いました。「彗星です。見えると飢えます」

46百濟川の側に宮と寺

秋七月,詔曰:「今年,造作大宮及大寺。則以百濟川側為宮處。」是以西民造宮,東民作寺。便以書直縣為大匠。

秋七月、詔されました。「今年、大きな宮と大きな寺を造り作れ。百濟川の側を宮の処とせよ」

そこで西の民が宮を造り、東の民が寺を作りました。そして書直縣(ふみのあたいあがた)を大匠としました。

47学問僧が来る

秋九月,大唐學問僧惠隱、惠雲,從新羅送使入京。

秋九月、大唐の学問僧の惠隱と惠雲が、新羅の送りの使に従って京に入りました。

48新羅の客を饗する

冬十一月庚子朔,饗新羅客於朝。因給冠位一級。

冬十一月庚子の朔、新羅の客を朝廷で饗しました。それによって冠位一級を給いました。

49九重の塔

十二月己巳朔壬午,幸于伊豫溫湯宮。是月,於百濟川側建九重塔。

十二月己巳の朔の壬午の日、伊豫の溫湯宮に幸かれました。この月、百濟川の側に九重の塔を建てました。

50星が月に入る

春二月戊辰朔甲戌,星入月。

春二月戊辰の朔の甲戌の日、星が月に入りました。

51廄坂宮

夏四月丁卯朔壬午,天皇至自伊豫,便居廄坂宮。

夏四月丁卯の朔の壬午の日、天皇は伊豫から至られて、廄坂宮(うまやさかのみや)に居られました。

52無量壽經を説く

五月丁酉朔辛丑,大設齋。因以請惠隱僧,令說無量壽經。

五月丁酉の朔の辛丑の日、大きく齋を設けました。それによって惠隱僧を請い、無量壽經を説かせました。

53百濟宮に徙る

冬十月乙丑朔乙亥,大唐學問僧清安、學生高向漢人玄理,傳新羅而至之。仍百濟、新羅朝貢之使共從來之。則各賜爵一級。是月,徙於百濟宮。

冬十月乙丑の朔の乙亥の日、大唐の学問僧の清安と学生の高向漢人玄理(たかむこのあやひとげんり)が、新羅を伝って至りました。そこで百濟と新羅の朝貢の使も共に従って来ました。それで各々に爵一級を賜いました。

この月、百濟宮(くだらのみや)に徙られました。

54百濟の大殯

冬十月己丑朔丁酉,天皇崩于百濟宮。丙午,殯於宮北。是謂百濟大殯。是時東宮開別皇子,年十六而誄之。

冬十月己丑の朔の丁酉の日、天皇は百濟宮で崩れました。丙午の日、宮の北で殯しました。これを百濟の大殯といいます。

このとき東宮の開別皇子(ひらかすわけのみこ)が、年十六で誄をしました。