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皇極天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 58 · 漢字 5,434字 · 朗読 21.7分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1皇極天皇

天豐財重日足姫天皇。渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彦人大兄皇子孫,茅渟王女也。母曰吉備姫王。天皇順考古道而爲政也。息長足日廣額天皇二年,立爲皇后。十三年十月,息長足日廣額天皇崩。

天豐財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのてんのう)は、渟中倉太珠敷天皇の曾孫であり、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の孫、茅渟王(ちぬのおう)の娘です。母は吉備姫王(きびつひめのおう)といいます。

天皇は古い道に順い考えて政をされました。息長足日廣額天皇の二年に、立てられて皇后となりました。十三年十月、息長足日廣額天皇が崩れました。

夾注 1

重日,此云伊柯之比。

重日は、伊柯之比(いかしひ)と読みます。

2位に即く

春正月丁巳朔辛未。皇后即天皇位,以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿自執國政,威勝於父。由是盜賊恐懾,路不拾遺。乙酉。百濟使人大仁阿曇連比羅夫,從筑紫國乘驛馬來言:「百濟國聞天皇崩,奉遣予使。臣随予使,共到筑紫,而臣望仕於葬,故先獨來也。然其國者,今大亂矣。」

春正月丁巳の朔の辛未の日、皇后が天皇の位に即かれ、蘇我臣蝦夷を大臣とすることは前のとおりでした。

大臣の子の入鹿(いるか)が自ら国の政を執って、威は父にも勝りました。これによって盗賊は恐れ懾いて、路に落ちたものを拾いませんでした。

乙酉の日、百濟の使人の大仁の阿曇連比羅夫(あずみのむらじひらぶ)が、筑紫國から驛馬に乗って来て言いました。「百濟國は天皇が崩れたと聞いて、弔いの使を奉り遣わしました。臣は弔いの使に随って共に筑紫に到りましたが、臣は葬りにお仕えしたいと望みましたので、先に独りで来ました。ところでその国は、今、大いに乱れております」

夾注 1

更名鞍作。

別の名は鞍作(くらつくり)です。

3百濟と高麗の政変

二月丁亥朔戊子。遣阿曇山背連比羅夫、草壁吉士磐金、倭漢書直縣,遣百濟予使所,問彼消息。予使報言:「百濟國主謂臣言:『塞上恒作惡之,請付還使。』」天朝不許。百濟予傔人等言:「去年十一月,大佐平智積卒。又,百濟使人擲崐崘使於海裏。今年正月,國主母薨。又,弟王子兒翹岐及其母妹女子四人,内佐平岐味、有高名之人册餘,被放於嶋。」壬辰。高麗使人泊難波津。丁未。遣諸大夫於難波郡,檢高麗國所貢金銀等并其獻物。使人貢獻既訖而諮云:「去年六月,弟王子薨。秋九月,大臣伊梨柯須彌殺大王,并殺伊梨渠世斯等百八十餘人,仍以弟王子兒爲王,以己同姓都須流、金流爲大臣。」戊申。饗高麗、百濟於難波郡。詔大臣曰:「以津守連大海可使於高麗;以國勝吉士水鷄可使於百濟;以草壁吉士真跡可使於新羅;以坂本吉士長兄可使於任那。」庚戌。召翹岐,安置於安曇山背連家。辛亥。饗高麗、百濟客。癸丑。高麗使人、百濟使人並罷歸。

二月丁亥の朔の戊子の日、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金(くさかべのきしいわかね)・倭漢書直縣(やまとのあやのふみのあたいあがた)を、百濟の弔いの使のいる所に遣わして、あちらの消息を問わせました。

弔いの使が報じて言いました。「百濟の國主が臣に『塞上(さいじょう)が常に悪いことをするので、どうか還る使に付けてほしい』と言いました」天朝は許しませんでした。

百濟の弔いの使の傔の人たちが言いました。

「去年の十一月、大佐平の智積が卒しました。また百濟の使人が崐崘の使を海の裏に擲ちました。今年の正月、國主の母が薨れました。また弟王子の子の翹岐とその母の妹や女子四人、内佐平の岐味、高い名のある人四十余人が、嶋に放たれました」

壬辰の日、高麗の使人が難波津に泊まりました。

丁未の日、諸々の大夫を難波の郡に遣わして、高麗國が貢った金銀など、あわせてその献り物を檢べさせました。

使人は貢り献ることを終えて、諮って言いました。「去年の六月、弟王子が薨れました。秋九月、大臣の伊梨柯須彌が大王を殺し、あわせて伊梨渠世斯たち百八十余人を殺しました。そして弟王子の子を王とし、自分と同じ姓の都須流と金流を大臣としました」

戊申の日、高麗と百濟を難波の郡で饗しました。

大臣に詔されました。「津守連大海(つもりのむらじおおあま)を高麗に使わせ、國勝吉士水鷄(くにかつのきしくいな)を百濟に使わせ、草壁吉士真跡(くさかべのきしまあと)を新羅に使わせ、坂本吉士長兄(さかもとのきしながえ)を任那に使わせよ」

庚戌の日、翹岐を召して、安曇山背連の家に安置しました。

辛亥の日、高麗と百濟の客を饗しました。

癸丑の日、高麗の使人と百濟の使人が、並んで罷り帰りました。

夾注 1

水鷄,此云倶比那

水鷄は、倶比那(くいな)と読みます。

4新羅の使

三月丙辰朔戊午。無雲而雨。辛酉。新羅遣賀騰極使與予喪使。庚午。新羅使人罷歸。是月,霖雨。

三月丙辰の朔の戊午の日、雲がないのに雨が降りました。辛酉の日、新羅が位に騰られたことを賀する使と、弔いの使を遣わしました。庚午の日、新羅の使人が罷り帰りました。この月、霖雨が降りました。

5翹岐に馬を賜う

夏四月丙戌朔癸巳。大使翹岐將其從者拜朝。乙未。蘇我大臣於畝傍家喚百濟翹岐等,親對語話,仍賜良馬一匹、鐵廿廷,唯不喚塞上。是月,霖雨。

夏四月丙戌の朔の癸巳の日、大使の翹岐がその従う者を率いて朝廷に拝しました。

乙未の日、蘇我大臣が畝傍の家で百濟の翹岐たちを喚んで、自ら対して語り話し、そして良い馬一匹と鐵二十廷を賜いました。ただ塞上だけは喚びませんでした。

この月、霖雨が降りました。

6翹岐の子が死ぬ

五月乙卯朔己未。於河内國依網屯倉前,召翹岐等,令觀射獵。庚午。百濟國調使船與吉士船倶泊于難波津。壬申。百濟使人進調,吉士服命。乙亥。翹岐從者一人死去。丙子。翹岐兒死去。是時,翹岐與妻畏忌兒死,果不臨喪。凡百濟、新羅風俗,有死亡者,雖父母、兄弟、夫婦、姉妹,永不自看。以此而觀,無慈之甚,豈别禽獸。丁丑。熟稻始見。戊寅。翹岐將其妻子移於百濟大井家,乃遣人葬兒於石川。

五月乙卯の朔の己未の日、河内國の依網(よさみ)の屯倉の前で翹岐たちを召して、射ることと獵ることを観させました。

庚午の日、百濟國の調の使の船と吉士の船が、ともに難波津に泊まりました。壬申の日、百濟の使人が調を進り、吉士が命を復し申しました。

乙亥の日、翹岐の従う者の一人が死に去りました。丙子の日、翹岐の子が死に去りました。

このとき翹岐と妻は、子が死んだことを畏れ忌んで、はたして喪に臨みませんでした。おおよそ百濟と新羅の風俗では、死に亡せた者があると、父母・兄弟・夫婦・姉妹であっても、永く自らは看ません。これによって観ると、慈しみのないことが甚しく、どうして禽や獸と別ちましょうか。

丁丑の日、熟した稲が初めて見えました。

戊寅の日、翹岐はその妻子を率いて百濟の大井の家に移りました。そして人を遣わして子を石川に葬りました。

夾注 1

盖吉士前奉使於百濟乎

おそらく吉士が先に百濟へ使として奉られていたのでしょうか。

7大きな旱

六月乙酉朔庚子。微雨。是月,大旱。

六月乙酉の朔の庚子の日、微かな雨が降りました。この月、大いに旱りました。

8雨を祈る

秋七月甲寅朔壬戌。客星入月。乙亥。饗百濟使人大佐平智積等於朝。乃命健兒相撲於翹岐前。智積等宴畢,而退拜翹岐門。丙子。蘇我臣人鹿豎者獲白雀子。是日,同時有人以白雀納籠而送蘇我大臣。戊寅。羣臣相謂之曰:「随村々祝部所教,或殺牛馬祭諸社神,或頻移市,或禱河伯,既無所効。」蘇我大臣報曰:「可於寺々轉讀大乘經典,悔過如佛所說,敬而祈雨。」庚辰。於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像,屈請衆僧讀《大雲經》等。于時,蘇我大臣手執香鑪,燒香發願。辛巳。微雨。壬午。不能祈雨,故停讀經。

秋七月甲寅の朔の壬戌の日、客星が月に入りました。

乙亥の日、百濟の使人の大佐平の智積たちを朝廷で饗しました。そして健やかな児に命じて、翹岐の前で相撲わせました。智積たちは宴を終えて退き、翹岐の門に拝しました。

丙子の日、蘇我臣入鹿の豎者が白い雀の子を獲ました。この日、同じときにある人が白い雀を籠に納めて蘇我大臣に送りました。

戊寅の日、群臣が相たがいに言いました。「村々の祝部が教えるとおりに、あるいは牛や馬を殺して諸々の社の神に祭り、あるいは頻りに市を移し、あるいは河伯に禱りましたが、すでに効くところがありません」

蘇我大臣が報じて言いました。「寺々で大乘の經典を轉じ読み、佛が説かれたとおりに過ちを悔いて、敬んで雨を祈るのがよいでしょう」

庚辰の日、大きな寺の南の庭に佛と菩薩の像、それに四天王の像を嚴かに飾り、衆僧を屈め請うて『大雲經』などを読ませました。そのとき蘇我大臣は手に香鑪を執り、香を焼いて願を発しました。

辛巳の日、微かな雨が降りました。壬午の日、雨を祈ることができないので、經を読むのを停めました。

夾注 1

或本云:百濟使人大佐平智積及兒達率,闕名,恩率軍善

ある本には、百濟の使人の大佐平智積と子の達率 — 名が闕けています — 、そして恩率軍善といいます。

9天皇が祈って雨が降る

八月甲申朔。天皇幸南淵河上,跪拜四方,仰天而祈,即雷大雨,遂雨五日,傳潤天下。於是,天下百姓倶稱萬歳,曰:「至德天皇。」己丑。百濟使參官等罷歸,仍賜大舶與同船三艘。是日,夜半雷鳴於西南角而風雨,參官等所乘船舶觸岸而破。丙申。以小德授百濟質達率長福,中客以下授位一級,賜物各有差。戊戌。以船賜百濟參官等發遣。己亥。高麗使人罷歸。己酉。百濟、新羅使人罷歸。

八月甲申の朔、天皇は南淵(みなぶち)の河の上に幸かれて、四方に跪き拝み、天を仰いで祈られました。すると雷が鳴って大雨が降り、ついに五日雨が降って、あまねく天下を潤しました。

そこで天下の百姓は、ともに万歳を称えて言いました。「至徳の天皇さまです」

己丑の日、百濟の使の參官たちが罷り帰りました。そこで大きな舶と同じ船三艘を賜いました。この日、夜半に西南の角で雷が鳴って風雨になり、參官たちが乗った船舶が岸に触れて破れました。

丙申の日、小德を百濟の質の達率長福に授け、中客より下には位一級を授けて、物を賜うことにそれぞれ差がありました。

戊戌の日、船を百濟の參官たちに賜って発ち遣わしました。己亥の日、高麗の使人が罷り帰りました。己酉の日、百濟と新羅の使人が罷り帰りました。

夾注 2

或本云:五日連雨,九穀登熟

ある本には、五日続いて雨が降り、九つの穀が登り熟したといいます。

同般母慮紀舟

同じ船は、母慮紀舟(もろきぶね)といいます。

10大きな寺と宫室

九月癸丑朔乙卯。天皇詔大臣曰:「朕思欲起造大寺,宜發近江與越之丁。」復課諸國使造船舶。辛未。皇天詔大臣曰:「起是月限十二月以來,欲營宫室。可於國々取殿屋材,然東限遠江,西限安藝,發造宫丁。」癸酉。越邊蝦夷、數千内附。

九月癸丑の朔の乙卯の日、天皇が大臣に詔されました。「朕は大きな寺を起し造りたいと思う。近江と越の丁を発すのがよい」さらに諸々の国に課して船舶を造らせました。

辛未の日、天皇が大臣に詔されました。「この月から十二月までを限りとして、宫室を営みたい。国々で殿屋の材を取らせ、東は遠江を限り、西は安藝を限って、宫を造る丁を発せ」

癸酉の日、越の辺りの蝦夷が数千人、内に附きました。

夾注 1

百濟寺大

百濟大寺です。

11地が震れる

冬十月癸未朔庚寅。地震而雨。辛卯。地震。是夜,地震而風。甲午。饗蝦夷於朝。丁酉。蘇我大臣設蝦夷於家,而躬慰問。是日,新羅予使船與賀騰極使船泊于壹藝嶋。丙午。夜中,地震。是月,行夏令,無雲而雨。

冬十月癸未の朔の庚寅の日、地が震れて雨が降りました。辛卯の日、地が震れました。この夜、地が震れて風が吹きました。

甲午の日、蝦夷を朝廷で饗しました。丁酉の日、蘇我大臣が蝦夷を家で設けて、躬ら慰め問いました。

この日、新羅の弔いの使の船と、位に騰られたことを賀する使の船が、壹藝嶋(いきのしま)に泊まりました。

丙午の日、夜中に地が震れました。この月、夏の令を行って、雲がないのに雨が降りました。

12雷と暖かさ

十一月壬子朔癸丑。大雨雷。丙辰。夜半雷一鳴於西北角。己未。雷五鳴於西北角。庚申。天暖如春氣。辛酉。雨下。壬戌。天暖如春氣。甲子。雷一鳴於北方而風發。丁卯。天皇御新嘗。是曰,皇子、大臣各自新嘗。

十一月壬子の朔の癸丑の日、大雨と雷がありました。丙辰の日、夜半に雷が一度西北の角で鳴りました。己未の日、雷が五度西北の角で鳴りました。庚申の日、天が春の気のように暖かでした。辛酉の日、雨が下りました。壬戌の日、天が春の気のように暖かでした。甲子の日、雷が一度北の方で鳴って風が発ちました。

丁卯の日、天皇が新嘗を御されました。この日、皇子と大臣が各々自ら新嘗をしました。

13先の帝を葬る

十二月壬午朔。天暖如春氣。甲申。雷五鳴於晝,二鳴於夜。甲午。初發息長足曰廣額天皇喪。是日,小德巨勢臣德大代大派皇子而誄;次,小德粟田臣細目代輕皇子而誄;次,小德大伴連馬飼代大臣而誄。乙未。息長山田公奉誄日嗣。辛丑。雷三鳴於東北角。庚寅。雷二鳴於東而風雨。壬寅。葬息長足日廣額天皇于滑谷崗。是日,天皇遷移於小墾田宫。甲辰。雷一鳴於夜,其聲若裂。辛亥。天暖如春氣。是歳。蘇我大臣蝦夷立己祖廟於葛城高宫,而爲八佾之儛,遂作歌曰:

十二月壬午の朔、天が春の気のように暖かでした。甲申の日、雷が昼に五度、夜に二度鳴りました。

甲午の日、初めて息長足日廣額天皇の喪を発しました。この日、小德の巨勢臣德太(こせのおみとこ)が大派皇子に代わって誄し、次に小德の粟田臣細目(あわたのおみほそめ)が輕皇子(かるのみこ)に代わって誄し、次に小德の大伴連馬飼(おおとものむらじうまかい)が大臣に代わって誄しました。

乙未の日、息長山田公(おきながのやまだのきみ)が日嗣を誄し奉りました。

辛丑の日、雷が三度東北の角で鳴りました。庚寅の日、雷が二度東で鳴って風雨になりました。

壬寅の日、息長足日廣額天皇を滑谷崗(なめはざまのおか)に葬りました。この日、天皇は小墾田宫(おはりだのみや)に遷り移られました。

甲辰の日、雷が夜に一度鳴って、その声は裂けるようでした。辛亥の日、天が春の気のように暖かでした。

この歳、蘇我大臣蝦夷が自分の祖の廟を葛城の高宫に立てて、八佾の儛をしました。そしてついに歌を作りました。

夾注 1

或本云:遷於東宫南庭之權宫

ある本には、東宫の南の庭の權宫に遷ったといいます。

14歌 — 蘇我蝦夷

「野麻騰能。飫斯能毗稜栖鳴。倭施羅務騰。阿庸比阤豆矩梨。擧始豆矩羅符母。」

「野麻騰能。飫斯能毗稜栖鳴。倭施羅務騰。阿庸比阤豆矩梨。擧始豆矩羅符母。」

— 音を写したものですから、意味に移しかえません。

15双つの墓をあらかじめ造る

又盡發擧國之民并百八十部曲,預造雙墓於今來。一曰大陵,爲大臣墓;一曰小陵,爲入鹿臣墓。望死之後勿使勞人,更悉聚上宫乳部之民,役使塋垗所。於是,上宫大娘姫王發憤而歎曰:「蘇我臣專擅國政,多行無禮。天無二日,國無二王,何由任意悉役封民。自茲結恨,遂取倶亡。」是年也,太歳壬寅。

また国を挙げての民、あわせて百八十の部曲をことごとく発して、あらかじめ今來(いまき)に双つの墓を造りました。一つを大陵(おおみささぎ)といって大臣の墓とし、一つを小陵(こみささぎ)といって入鹿臣の墓としました。死んだ後に人を労わせないようにと望んだのです。

さらに上宫(かみつみや)の乳部の民をことごとく聚めて、塋や垗を造る所で役い使いました。

そこで上宫の大娘姫王(おおいらつめのひめみこ)が憤りを発して歎いて言いました。「蘇我臣は国の政を専ら擅にして、無礼なことを多く行っている。天に二つの日はなく、国に二人の王はないのに、どうして任意に封じた民をことごとく役うのか」

これより恨みを結んで、ついに共に亡びることになりました。

この年は太歳壬寅です。

夾注 1

乳部,此云美父

乳部は、美父(みぶ)と読みます。

16五色の大きな雲

春正月壬子朔旦。五色大雲滿覆於天,而闕於寅;一色青霧周起於地。辛酉。大風。

春正月壬子の朔の旦、五色の大きな雲が天を満たし覆いましたが、寅の方だけが闕けていました。一色の青い霧が地からあまねく起りました。辛酉の日、大風が吹きました。

17巫たち

二月辛己朔庚子。桃花始見。乙巳。雹傷草木花葉。是月,風雷雨冰,行冬令。國内巫覡等折取枝葉,縣挂木綿,伺候大臣渡橋之時,爭陳神語入微之説,其巫甚多,不可悉聽。

二月辛巳の朔の庚子の日、桃の花が初めて見えました。乙巳の日、雹が降って草や木の花と葉を傷めました。

この月、風と雷と雨と冰があって、冬の令を行いました。国内の巫覡たちは枝や葉を折り取り、木綿を縣け挂けて、大臣が橋を渡る時を伺い候って、争って神の語だといって微に入る説を陳べました。その巫はたいへん多く、ことごとく聴くことはできませんでした。

18百濟の客館に火が出る

三月辛亥朔癸亥。灾難波百濟客舘堂與民家屋。乙亥。霜傷草木花葉。是月,風雷雨冰,行冬令。

三月辛亥の朔の癸亥の日、難波の百濟の客館の堂と民の家の屋に火災がありました。乙亥の日、霜が降って草や木の花と葉を傷めました。この月、風と雷と雨と冰があって、冬の令を行いました。

19板盖宫に移る

夏四月庚辰朔丙戌。大風而雨。丁亥。風起天寒。己亥。西風而雹。天寒,人着綿袍三領。庚子。筑紫大宰馳驛奏曰:「百濟國主兒翹岐弟王子共調使來。」丁未。自權宫移幸飛鳥板盖新宫。甲辰。近江國言:「雹下,其大徑一寸。」

夏四月庚辰の朔の丙戌の日、大風が吹いて雨が降りました。丁亥の日、風が起って天が寒くなりました。己亥の日、西風が吹いて雹が降りました。天が寒く、人は綿の袍を三領着ました。

庚子の日、筑紫の大宰が驛を馳せて奏しました。「百濟の國主の子の翹岐の弟王子が、調の使と共に来ました」

丁未の日、權宫から飛鳥の板盖の新しい宫に移り幸かれました。甲辰の日、近江國が言いました。「雹が下り、その大きさは径一寸です」

20月が蝕ける

五月庚戌朔乙丑。月有蝕之。

五月庚戌の朔の乙丑の日、月に蝕がありました。

21高麗と百濟の使

六月己卯朔辛卯。筑紫大宰馳驛奏曰:「高麗遣使來朝。」羣卿聞而相謂之曰:「高麗自己亥年不朝,而今年朝也。」辛丑。百濟進調船泊于難波津。

六月己卯の朔の辛卯の日、筑紫の大宰が驛を馳せて奏しました。「高麗が使を遣わして来朝します」

群卿が聞いて相たがいに言いました。「高麗は己亥の年から朝さなかったのに、今年は朝するのだ」

辛丑の日、百濟の調を進る船が難波津に泊まりました。

22調が例に満たない

秋七月己酉朔辛亥。遣數大夫於難波郡,檢百濟國調與獻物。於是大夫問調使曰:「所進國調欠少前例,送大臣物不改去年所還之色,送羣卿物亦全不將來,皆違前例,其状何也。」大使達率自斯、副使恩率軍善倶答諮曰:「即今可備。」自斯,質達率武子之子也。是月。茨田池水大臰,小虫覆水,其虫口黑而身白。

秋七月己酉の朔の辛亥の日、数人の大夫を難波の郡に遣わして、百濟國の調と献り物を檢べさせました。

そこで大夫が調の使に問いました。「進った国の調は前の例に欠け少なく、大臣に送る物は去年還したものと色を改めておらず、群卿に送る物はまったく持って来ていない。みな前の例に違っているが、その状はどうしたことか」

大使の達率自斯と副使の恩率軍善が、ともに答え諮して言いました。「すぐに今、備えます」

自斯は、質の達率武子の子です。

この月、茨田(まむた)の池の水がひどく臰くなって、小さな虫が水を覆いました。その虫は口が黒く身が白いものでした。

23池の水が藍色に変わる

八月戊申朔壬戌。茨田池水變如藍汁,死虫覆水。溝瀆之流亦復凝結,厚三四寸。大小魚臰如夏爛死,由是不中喫焉。

八月戊申の朔の壬戌の日、茨田の池の水が藍の汁のように変わり、死んだ虫が水を覆いました。溝や瀆の流れもまた凝り結んで、厚さは三、四寸でした。大きな魚も小さな魚も、夏に爛れ死んだように臰くなって、それで喫べるのに中りませんでした。

24皇祖母命が薨れる

九月丁丑朔壬午。葬息長足日廣額天皇于押坂陵。丁亥。吉備嶋皇祖母命薨。癸巳。詔土師娑婆連猪手,視皇祖母命喪。天皇自皇祖母命卧病,及至發喪,不避床側,視養無倦。乙未。葬皇祖母命于檀弓㟵。是日,大雨而雹。丙午。罷造皇祖母命墓役,仍賜臣、連、伴造帛布各有差。是月。茨田池水漸々變成白色,亦無臰氣。

九月丁丑の朔の壬午の日、息長足日廣額天皇を押坂(おしさか)の陵に葬りました。

丁亥の日、吉備嶋皇祖母命(きびしまのすめみおやのみこと)が薨れました。

癸巳の日、土師娑婆連猪手(はじのさばのむらじいのて)に詔して、皇祖母命の喪を視させました。天皇は皇祖母命が病に臥せたときから喪を発するに至るまで、床の側を避けず、視て養うことに倦むことがありませんでした。

乙未の日、皇祖母命を檀弓㟵(まゆみのおか)に葬りました。この日、大雨が降って雹が降りました。

丙午の日、皇祖母命の墓を造る役を罷めて、そして臣・連・伴造に帛と布を賜うことに、それぞれ差がありました。

この月、茨田の池の水はだんだん白い色に変わり、また臰い気もなくなりました。

夾注 1

或本云:呼廣額天皇爲高市天皇也

ある本には、廣額天皇を高市天皇と呼ぶといいます。

25入鹿が紫の冠を受ける

冬十月丁未朔己酉。饗賜羣臣伴造於朝堂庭,而議授位之事。遂詔國司:「如前所勅,更無改換,宜之厥任,慎爾所治。」壬子。蘇我大臣蝦、緣病不朝,私授紫冠於子入鹿,擬大臣位。復呼其弟曰,物部大臣。大臣之祖母物部弓削大連之妹,故因母財取威於世。戊午。蘇我臣入鹿獨謀將廢上宫王等,而立古人大兄爲天皇。于時有童謠曰:

冬十月丁未の朔の己酉の日、群臣と伴造を朝堂の庭で饗し賜って、位を授ける事を議りました。そしてついに國司に詔されました。「前に勅したとおりで、あらためて改め換えることはない。その任に之いて、慎んでおまえの治めるところを行え」

壬子の日、蘇我大臣蝦夷は病によって朝さず、私かに紫の冠を子の入鹿に授けて、大臣の位に擬えました。さらにその弟を呼んで物部大臣といいました。大臣の祖母は物部弓削大連(もののべのゆげのおおむらじ)の妹でした。そこで母の財によって世に威を取ったのです。

戊午の日、蘇我臣入鹿が独りで、上宫の王たちを廢して古人大兄(ふるひとのおおえ)を立てて天皇としようと謀りました。そのとき童の謠がありました。

26歌 — 童の謠

「伊波能杯你。古佐屢渠梅野倶。渠梅多你母。多礙底騰衰囉栖。歌麻之之能烏膩。」

「伊波能杯你。古佐屢渠梅野倶。渠梅多你母。多礙底騰衰囉栖。歌麻之之能烏膩。」

— 音を写したものですから、意味に移しかえません。

夾注 1

蘇我臣入鹿深忌上宫王等威名振於天下,獨謨僣立。

蘇我臣入鹿は、上宫の王たちの威と名が天下に振るうことを深く忌んで、独りで僣って立てようと謨りました。

27池の水が清くなる

是月。茨田池水還清。

この月、茨田の池の水はもとのように清くなりました。

28山背大兄が追われる

十一月丙子朔。蘇我臣入鹿遣小德巨勢德太臣、大仁土師娑婆連,掩山背大兄王等於斑鳩。於是奴三成與數十舎人出而拒戰,土師娑婆連中箭而死。軍衆恐退。軍中之人相謂之曰:「一人當千,謂三成歟。」山背大兄仍取馬骨投置内寢,遂率其妃并子弟等,得間逃出,隱膽駒山。三輪文屋君、舎人田目連及其女菟田諸石、伊勢阿部堅經從焉。巨勢德太臣等燒斑鳩宫,灰中見骨,誤謂王死,解圍退去。由是,山背大兄王等四五日間淹留於山,不得喫飯。三輪文屋君進而勸曰:「請移向於深草屯倉,從茲乘馬,詣東國以乳部爲本興師還戰,其勝必矣。」山背大兄王等對曰:「如卿所道,其勝必然。但吾情冀十年不役百姓,以一身之故豈煩勞萬民?又於後世不欲民言:『由吾之故喪己父母。』豈其戰勝之後方言丈夫哉?夫損身固國,不亦丈夫者歟。

十一月丙子の朔、蘇我臣入鹿が小德の巨勢德太臣(こせのとこたのおみ)と大仁の土師娑婆連を遣わして、山背大兄王たちを斑鳩で掩わせました。

そこで奴の三成(みなり)と数十人の舎人が出て拒み戦い、土師娑婆連は箭に中って死にました。軍の衆は恐れて退きました。

軍の中の人が相たがいに言いました。「一人で千に当たるとは、三成のことであろうか」

山背大兄はそこで馬の骨を取って内の寝所に投げ置き、ついにその妃と子や弟たちを率いて、間を得て逃げ出し、膽駒山(いこまやま)に隠れました。三輪文屋君(みわのふみやのきみ)、舎人の田目連(ためのむらじ)とその娘の菟田諸石(うだのもろし)、伊勢阿部堅經(いせのあべのかたぶ)が従いました。

巨勢德太臣たちは斑鳩宫を焼き、灰の中に骨を見て、誤って王が死んだと思い、囲みを解いて退き去りました。

これによって山背大兄王たちは、四、五日の間、山に淹り留まって、飯を喫べることができませんでした。

三輪文屋君が進み出て勧めました。「どうか深草の屯倉に移り向かわれ、ここから馬に乗って東國に詣り、乳部を本として師を興し、還って戦われれば、その勝ちは必定です」

山背大兄王たちが答えて言いました。

「卿が言うとおり、その勝ちは必ずそうなろう。ただ私の情は、十年の間、百姓を役わないことを冀っている。一身のために、どうして万民を煩わせ労わせようか。また後の世に民が『私のために自分の父母を喪った』と言うことを望まない。どうしてその戦に勝った後に、はじめて丈夫と言えようか。そもそも身を損して国を固くするのも、また丈夫ではないか」

夾注 1

或本云:以巨勢德太臣、倭馬飼首爲將軍

ある本には、巨勢德太臣と倭馬飼首(やまとのうまかいのおびと)を将軍としたといいます。

29山背大兄が自ら死ぬ

」有人遥見上宫王等於山中,還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼,速發軍旅,述王所在於高向臣國押曰:「速可向山,求捉彼王。」國押報曰:「僕守天皇宫,不敢出外。」入鹿即將自徃。于時古人大兄皇子喘息而來問:「向何處?」入鹿具説所由。古人皇子曰:「鼠伏穴而生,失穴而死。」入鹿由是止行,遣軍將等求於膽駒,竟不能覓。於是山背大兄王等自山還入斑鳩寺,軍將等即以兵圍寺。於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍將等曰:「吾起兵伐入鹿者,其勝定之,然由一身之故不欲殘害百姓,是以吾之一身賜於入鹿,終與子弟妃妾一時自經倶死也。」于時五色幡蓋、種種伎樂照灼於空,臨垂於寺,衆人仰觀稱嘆,遂指示於入鹿。其幡蓋等變爲黑雲,由是入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等捴被亡於入鹿,而嗔罵曰:「噫!入鹿極甚愚癡,專行暴惡,你之身命不亦殆乎。」時人説前謡之應曰:「以『伊波能杯你』而喻上宫,以『古佐屢』而喻林臣,以『渠梅野倶』而喻燒上宫,以『渠梅柂你母陁礙底騰褒羅栖柯麻之之能鳴膩』而喻山背王之頭髮班雜毛似山羊。又棄捨其宫匿深山相也。」

ある人が遥かに上宫の王たちを山の中に見て、還って蘇我臣入鹿に言いました。

入鹿は聞いて大いに懼れ、速やかに軍旅を発し、王のいる所を高向臣國押(たかむこのおみくにおし)に述べて言いました。「速やかに山に向かって、あの王を求め捉えよ」

國押が報じて言いました。「僕は天皇の宫を守っておりますので、敢えて外に出ることはできません」

入鹿はすぐに自ら行こうとしました。

そのとき古人大兄皇子が喘ぎ息をして来て問いました。「どこへ向かうのか」

入鹿はその由るところをつぶさに説きました。

古人皇子が言いました。「鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ」

入鹿はこれによって行くのを止め、軍の将たちを遣わして膽駒で求めさせましたが、ついに覓すことができませんでした。

そこで山背大兄王たちは山から還って斑鳩寺に入りました。軍の将たちはすぐに兵で寺を囲みました。

そこで山背大兄王は三輪文屋君に、軍の将たちに言わせました。「私が兵を起して入鹿を伐てば、その勝ちは定まっている。しかし一身のために百姓を残い害うことは望まない。だから私のこの一身を入鹿に賜る」

そしてついに子や弟、妃や妾と共に、一時に自ら経れて、みな死にました。

そのとき五色の幡と蓋、種々の伎樂が空に照り灼いて、寺に臨み垂れました。衆の人は仰ぎ観て称え嘆き、ついに入鹿に指し示しました。その幡や蓋などは変じて黒い雲となりました。これによって入鹿は見ることができませんでした。

蘇我大臣蝦夷は、山背大兄王たちがすべて入鹿に亡ぼされたと聞いて、嗔り罵って言いました。「ああ、入鹿は極めて甚しく愚かで癡く、専ら暴く悪いことを行っている。おまえの身の命もまた殆いのではないか」

そのときの人は、先の謠が応じたことをこう説きました。「『伊波能杯你』で上宫を喻え、『古佐屢』で林臣(はやしのおみ)を喻え、『渠梅野倶』で上宫を焼くことを喻え、『渠梅柂你母陁礙底騰褒羅栖柯麻之之能鳴膩』で山背王の頭の髪が斑じり雑じって山羊に似ていることを喻えたのだ。また、その宫を棄て捨てて深い山に匿れる相である」

夾注 1

林臣入鹿也

林臣は入鹿です。

30餘豐が蜜蜂を放ち養う

是歳。百濟太子餘豐以蜜蜂房四枚放養於三輪山,而終不蕃息。

この歳、百濟の太子の餘豐が、蜜蜂の房四枚を三輪山に放ち養いましたが、ついに蕃り息えませんでした。

31中臣鎌子が中大兄に会う

春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯,再三固辭不就,稱疾退居三嶋。于時,輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子,故詣彼宫而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸、容止難犯,乃使寵妃寵阿倍氏淨掃别殿,高鋪新蓐,靡不具給,敬重特異。中臣鎌子連便感所遇,而語舎人曰:「殊奉恩澤,過前所望,誰能不使王天下耶。」舎人便以所語陳於皇子,皇子大悦。中臣鎌子連爲人忠正,有匡濟心,乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序,挾𨶳𨵦社稷之權。歴試接於王宗之中,而求可立功名哲主,便附心於中大兄,疏然未獲展其幽抱。偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶,而候皮鞋隨毱脱落,取置掌中,前跪恭奉。中大兄對跪敬執,自茲相善,倶述所懷,既無所匿。後恐他嫌頻接,而倶手把黄卷,自學周孔之教於南淵先生所,遂於路上徃還之間並肩潜圖,無不相協。

春正月乙亥の朔、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)を神祗伯に拝しましたが、再三固く辞して就かず、疾と称して三嶋に退き居りました。

そのとき輕皇子は脚を患って朝さなかったのです。中臣鎌子連はかつて輕皇子と善くしていましたので、その宫に詣って侍り宿ろうとしました。

輕皇子は、中臣鎌子連の意気が高く逸れ、容止が犯しがたいことを深く識って、そこで寵める妃の阿倍氏に別の殿を淨く掃かせ、新しい蓐を高く鋪いて、具え給わないものはありませんでした。敬い重んじることが特に異なっていました。

中臣鎌子連はその遇われように感じて、舎人に語って言いました。「殊なる恩澤を奉り、前に望んだところを過ぎている。誰がこの方に天下に王たらせないでいられようか」

舎人はすぐにその語ったところを皇子に陳べ、皇子は大いに悦びました。

中臣鎌子連は、人となりが忠しく正しく、匡し濟う心がありました。そこで蘇我臣入鹿が君臣と長幼の序を失い、社稷を𨶳い𨵦う権を挟んでいることを憤りました。王宗の中を歴て試み接して、功と名を立てるに可き哲い主を求めました。

そこで中大兄に心を附けましたが、疏々しくてまだその幽い抱きを展べられませんでした。

たまたま中大兄が法興寺の槻の樹の下で毱を打つ侶に預っていたとき、皮の鞋が毱に随って脱げ落ちるのを候って、取って掌の中に置きました。前に跪いて恭しく奉りました。中大兄は対して跪いて敬んで執りました。

これより相たがいに善くして、ともに懐くところを述べ、すでに匿すところがありませんでした。

後に他人が頻りに接することを嫌うのを恐れて、ともに手に黄の卷を把り、南淵先生のところで自ら周公と孔子の教えを学びました。そしてついに路の上を往き還る間に、肩を並べて潜かに図って、相たがいに協わないことはありませんでした。

夾注 1

謂宛舎人爲駈使也。

舎人を宛てて駈い使う者としたことをいいます。

32蘇我倉山田の娘

於是,中臣鎌子連議曰:「謀大事者,不如有輔。請納蘇我倉山田麻呂長女爲妃而成婚姻之昵,然後陳説欲與計事,成功之路莫近於兹。」中大兄聞而大悦,曲從所議。中臣鎌子連即自徃媒要訖,而長女所期之夜被偷於挨。由是,倉山田臣憂惶,仰臥不知所爲。少女恠父憂色,就而問曰:「憂悔何也?」父陳其由。少女曰:「願勿爲憂,以我奉進亦復不晩。」父便大悦,遂進其女,奉以赤心,更無所忌。中臣鎌子連擧佐伯連子麻呂、葛木稚犬養連網田於中大兄曰:「云々。」

そこで中臣鎌子連が議って言いました。「大きな事を謀る者は、輔けがあるに越したことはありません。どうか蘇我倉山田麻呂(そがのくらやまだのまろ)の長女を納れて妃とし、婚姻の昵しみを成して、その後に説を陳べて共に事を計りたいのです。功を成す路は、これより近いものはありません」

中大兄は聞いて大いに悦び、議ったところに曲げて従いました。

中臣鎌子連はすぐに自ら行って媒を要め終えました。ところが長女は期した夜に、族の者に偷まれてしまいました。

これによって倉山田臣は憂え惶れ、仰ぎ臥してどうしてよいか分かりませんでした。

少女は父の憂える色を恠しんで、就いて問いました。「何を憂え悔いておられるのですか」

父はその由るところを陳べました。

少女が言いました。「どうか憂えないでください。私を奉り進らせても、また遅くはありません」

父はすぐに大いに悦び、ついにその娘を進らせました。赤い心で奉って、あらためて忌むところはありませんでした。

中臣鎌子連は、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛木稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)を中大兄に挙げて言いました。「云々」

夾注 1

挨,謂身狹臣也

族の者とは、身狹臣(むさのおみ)をいいます。

33雪の中の菌

三月。休留産子於豐浦大臣大津宅倉。倭國言:頃者菟田郡人押坂直將一童子欣遊雪上,登菟田山,便見紫菌挺雪而生,高六寸餘,滿四町許。乃使童子採取還示隣家,捴言不知,且疑毒物。於是押坂直與童子煮而食之,大有氣味。明日徃見,都不在焉。押坂直與童子由喫菌羹,無病而壽。或人云:「盖俗不知芝草,而妄言菌乎。」

三月、休留が豐浦大臣の大津の宅の倉で子を産みました。

倭國が言いました。

「このごろ菟田郡の人の押坂直(おさかのあたい)が、一人の童子を連れて雪の上で遊ぶことを欣んで、菟田山に登りました。そこで紫の菌が雪を挺いて生えているのを見ました。高さは六寸余り、四町ほどに満ちていました。

そこで童子に採り取らせて還り、隣の家に示しましたが、みな知らないと言い、また毒の物かと疑いました。

そこで押坂直と童子が煮て食べたところ、大いに気味がありました。翌日行って見ると、まったくありませんでした。

押坂直と童子は、菌の羹を喫べたことによって、病なく寿を保ちました」

ある人が言いました。「おそらく俗が芝草を知らずに、妄りに菌と言ったのでしょうか」

夾注 2

休留,茅鴟也

休留は、茅鴟(ふくろう)です。

闕名

名が闕けています。

34猿の歌

夏六月癸卯朔。大伴馬飼連獻百合花,其莖長八尺,其本異而末連。乙巳。志紀上郡言,有人於三輪山見猿晝睡,竊執其臂,不害其身。猿猶合眼歌曰:

夏六月癸卯の朔、大伴馬飼連が百合の花を献りました。その茎の長さは八尺、その本は異なるのに末は連なっていました。

乙巳の日、志紀上郡(しきのかみのこおり)が言いました。「ある人が三輪山で猿が昼寝をしているのを見て、竊かにその臂を執りましたが、その身を害いはしませんでした。猿はそれでも眼を合わせたまま歌いました」

35歌 — 猿

「武舸都烏爾。陁底屢制囉我。你古泥擧曾。倭我底烏騰羅毎。拖我佐基泥。作基泥曾母野。倭我底騰羅須謀野。」

「武舸都烏爾。陁底屢制囉我。你古泥擧曾。倭我底烏騰羅毎。拖我佐基泥。作基泥曾母野。倭我底騰羅須謀野。」

— 音を写したものですから、意味に移しかえません。

36一つの茎に二つの萼

其人驚恠猿歌,放捨而去。此是經歴數年,上宫王等爲蘇我鞍作圍於膽馰山之兆也。戊申。於劔池蓮中有一莖二萼者。豐浦大臣妄推曰:「是蘇我臣將榮之瑞也。」即以金墨書而獻大法興寺丈六佛。

その人は猿の歌を驚き恠しんで、放し捨てて去りました。これは数年を経歴てから、上宫の王たちが蘇我鞍作に膽馰山で囲まれることの兆でした。

戊申の日、劔の池の蓮の中に、一つの茎に二つの萼のあるものがありました。

豐浦大臣は妄りに推して言いました。「これは蘇我臣がまさに栄えようとする瑞である」そして金の墨で書いて、大法興寺の丈六の佛に献りました。

37歌三首

是月。國内巫覡等折取枝葉懸掛木綿,伺大臣渡橋之時爭陳神語入微之説,其巫甚多,不可具聽。老人等曰:「移風之兆也。」于時有謠歌三首:

この月、国内の巫覡たちが枝や葉を折り取って木綿を懸け掛け、大臣が橋を渡る時を伺って、争って神の語だといって微に入る説を陳べました。その巫はたいへん多く、具さに聴くことはできませんでした。

老いた人たちが言いました。「風が移る兆である」

そのとき謠う歌が三首ありました。

38その一

其一曰:

その一にいいました。

39歌 — 一

「波魯波魯你渠騰曾枳舉喻屢。之麻能野父播羅。」

「波魯波魯你渠騰曾枳舉喻屢。之麻能野父播羅。」

— 音を写したものですから、意味に移しかえません。

40その二

其二曰:

その二にいいました。

41歌 — 二

「烏智可拖能。阿娑努能枳枳始騰余謀佐儒。倭例播禰始柯騰。比騰曾騰余謀須。」

「烏智可拖能。阿娑努能枳枳始騰余謀佐儒。倭例播禰始柯騰。比騰曾騰余謀須。」

— 音を写したものですから、意味に移しかえません。

42その三

其三曰:

その三にいいました。

43歌 — 三

「烏磨野始你。倭例烏比岐例底。制始比騰能。於謀提母始羅孺。伊弊母始羅孺母也。」

「烏磨野始你。倭例烏比岐例底。制始比騰能。於謀提母始羅孺。伊弊母始羅孺母也。」

— 音を写したものですから、意味に移しかえません。

44常世の神

秋七月。東國不盡河邊人,大生部多勸祭虫於村里之人曰:「此者常世神也,祭此神者致富與壽。」巫覡等遂詐託於神語曰:「祭常世神者,貧人致富,老人還少。」由是加勸捨民家財寶,陳酒陳菜、六畜於路側,而使呼曰:「新富入來。」都鄙之人取常世虫置於清座,歌儛求福。棄捨珍財,都無所益,損費極甚。於是葛野秦造河勝惡民所惑,打大生部多,其巫覡等恐休其勸祭。時人便作歌曰:

秋七月、東國の不盡(ふじ)の河の辺りの人、大生部多(おおふべのお)が、村里の人に虫を祭ることを勧めて言いました。「これは常世の神である。この神を祭る者は、富と寿を致す」

巫覡たちはついに詐って神の語に託して言いました。「常世の神を祭れば、貧しい人は富を致し、老いた人は少さに還る」

これによっていよいよ勧めて、民に家の財や宝を捨てさせ、酒を陳べ、菜と六畜を路の側に陳べて、呼ばせました。「新しい富が入って来る」

都と鄙の人は、常世の虫を取って清い座に置き、歌い儛って福を求めました。珍しい財を棄て捨てても、まったく益するところはなく、損い費うことばかりが極めて甚しいものでした。

そこで葛野秦造河勝(かどののはたのみやつこかわかつ)が、民の惑わされることを悪んで、大生部多を打ちました。その巫覡たちは恐れて、その祭りを勧めることを休めました。

そのときの人は、すぐに歌を作りました。

45歌 — そのときの人々

「禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳舉曳倶屢。騰舉預能柯微乎。宇智岐多麻須母。」

「禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳舉曳倶屢。騰舉預能柯微乎。宇智岐多麻須母。」

— 音を写したものですから、意味に移しかえません。

46その虫

此虫者常生於橘樹,或生於曼椒。其長四寸餘,其大如頭指許,其色緑而有黑點,其貌全似養蠶。

この虫は常に橘の樹に生え、あるいは曼椒に生えます。その長さは四寸余り、その大きさは頭の指ほど、その色は緑で黒い点があり、その貌はまったく養う蠶に似ています。

夾注 1

曼椒,此云褒曾紀

曼椒は、褒曾紀(ほそき)と読みます。

47蘇我氏が家を城のように造る

冬十一月。蘇我大臣蝦夷兒入鹿臣雙起家於甘檮崗。呼大臣家曰「宫門」,入鹿家曰「谷宫門」。呼男女曰「王子」。家外作城柵,門傍作兵庫。毎門置盛水舟一,木鈎數十以備火灾。恒使力人持兵守家。大臣使長直於大丹穗山造桙削寺,更起家於畝傍山東,穿池爲城,起庫儲箭。恒將五十兵士繞身出入,名健人曰「東方儐從者」。氏氏人等入侍其門,名曰「祖子孺者」,漢直等全侍二門。

冬十一月、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣が、甘檮崗(あまかしのおか)に家を双べて起しました。大臣の家を「宫門(みかど)」と呼び、入鹿の家を「谷宫門(はさまのみかど)」と呼びました。男と女を「王子(みこ)」と呼びました。

家の外に城と柵を作り、門の傍らに兵の庫を作りました。門ごとに水を盛った舟一つと木の鈎数十を置いて、火災に備えました。常に力のある人に兵を持たせて家を守らせました。

大臣は長直(ながのあたい)に大丹穗山(おにほやま)で桙削寺(ほこのきでら)を造らせ、さらに畝傍山の東に家を起して、池を穿って城とし、庫を起して箭を儲えました。

常に五十人の兵士を率いて身を繞らせて出入りし、健やかな人を「東方の儐い従う者」と名づけました。氏々の人たちがその門に入って侍るのを、名づけて「祖子孺者(おやこわらわ)」といいました。漢直(あやのあたい)たちがまったく二つの門に侍りました。

夾注 1

谷,此云波佐麻

谷は、波佐麻(はさま)と読みます。

48猴の声

春正月。或於阜嶺,或於河邊,或於宫寺之間,遥見有物而聽猴吟。或一十許,或廿許。就而視之,物便不見,尚聞鳴嘯之響,不能獲覩其身。時人曰:「此是伊勢大神之使也。」

春正月、あるいは阜の嶺で、あるいは河の辺りで、あるいは宫と寺の間で、遥かに何かがあって猴の吟く声が聴こえました。あるいは十ほど、あるいは二十ほどでした。就いて視ると物はすぐに見えず、なお鳴き嘯く響きは聞こえるのに、その身を覩ることはできませんでした。

そのときの人が言いました。「これは伊勢の大神の使である」

夾注 1

舊本云:是歳移京於難波,而板蓋宫爲墟之兆也。

旧い本には、この歳に京を難波に移して、板蓋宫が墟となることの兆だといいます。

49鞍作得志の針

夏四月戊戌朔。高麗學問僧等言:「同學鞍作得志,以虎爲友,學取其術;或使枯山變爲青山,或使黄地變爲白水,種々奇術不可殫究。又虎授其針曰:『慎矣慎矣,勿令人知。以此治之,病無不俞。』果如所言,治無不差。得志恒以其針隱置柱中。於後虎折其柱,取針走去。高麗國知得志欲歸之意,與毒殺之。」

夏四月戊戌の朔、高麗で学問していた僧たちが言いました。

「同じく学んでいた鞍作得志が、虎を友として、その術を学び取りました。あるいは枯れた山を青い山に変えさせ、あるいは黄の地を白い水に変えさせ、種々の奇しい術は殫く究めることができませんでした。

また虎はその針を授けて言いました。『慎め、慎め。人に知らせてはならない。これで治せば、俞らない病はない』はたして言ったとおりで、治して差らないものはありませんでした。

得志は常にその針を柱の中に隠し置いていました。後に虎がその柱を折って、針を取って走り去りました。

高麗國は得志が帰りたいと思う意を知って、毒を与えて殺しました」

50乙巳の変 — 三韓の表文

六月丁酉朔甲辰。中大兄蜜謂倉山田麻呂臣曰:「三韓進調之日,必將使卿讀唱其表。」遂陳欲斬入鹿之謀。麻呂臣奉許焉。戊申。天皇御大極殿,古人大兄侍焉。中臣鎌子連知蘇我入鹿臣爲人多疑,畫夜持劔,而教俳優方便令解。入鹿臣咲而解劒入侍于座。倉山田麻呂臣進而讀唱三韓表文。於是中大兄戒衞門府,一時倶鎖十二通門,勿使徃來。召聚衞門府於一所,將給禄。時中大兄即自執長槍,隱於殿側。中臣鎌子連等持弓矢而爲助衞,使海犬養連勝麻呂授箱中兩劔於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰:「努力努力,急須應斬。」子麻呂等以水送飯,恐而反吐。中臣鎌子連嘖而使勵。倉山田麻呂臣恐唱表文將盡而子麻呂等不來,流汗浹身,亂聲動手。鞍作臣恠而問曰:「何故掉戰。」山田麻呂對曰:「恐近天皇,不覺流汗。」中大兄見子麻呂等畏入鹿威,便旋不進,便曰:「咄嗟。

六月丁酉の朔の甲辰の日、中大兄が蜜かに倉山田麻呂臣に言いました。「三韓が調を進る日に、必ず卿にその表を読み唱えさせよう」そしてついに入鹿を斬ろうという謀を陳べました。麻呂臣は奉り許しました。

戊申の日、天皇が大極殿に御されました。古人大兄が侍りました。

中臣鎌子連は、蘇我入鹿臣の人となりが疑いが多く、昼も夜も劔を持っていることを知って、俳優に方便を教えて解かせました。入鹿臣は咲って劒を解き、入って座に侍りました。

倉山田麻呂臣が進んで三韓の表文を読み唱えました。

そこで中大兄は衞門府を戒めて、一時に十二の通る門を倶に鎖して往き来させないようにし、衞門府を一所に召し聚めて、禄を給おうとしました。

そのとき中大兄はすぐに自ら長い槍を執って、殿の側に隠れました。中臣鎌子連たちは弓と矢を持って助け衞りました。

海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に、箱の中の二つの劔を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けさせて言いました。「努力めよ、努力めよ。急いで斬るべきである」

子麻呂たちは水で飯を送りましたが、恐れて反し吐きました。中臣鎌子連は嘖めて励ませました。

倉山田麻呂臣は、表文を唱えるのが尽きようとするのに子麻呂たちが来ないことを恐れて、流れる汗が身を浹し、声が乱れ手が動きました。

鞍作臣が恠しんで問いました。「どういうわけで掉え戦えるのか」

山田麻呂が答えて言いました。「天皇に近いことを恐れて、覚えず汗が流れるのです」

中大兄は、子麻呂たちが入鹿の威を畏れて、旋り廻って進まないのを見て、すぐに言いました。「咄嗟(やあ)」

51入鹿が死ぬ

」即共子麻呂等出其不意,以劔傷割入鹿頭肩。入鹿驚起,子麻呂運手揮劔傷其一脚。入鹿轉就御座叩頭曰:「當居嗣位天之子也,臣不知罪,乞垂審察。」天皇大驚,詔中大兄曰:「不知所作,有何事耶。」中大兄伏地奏曰:「鞍作盡滅天宗,將傾日位,豈以天孫代鞍作乎。」天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂、稚犬養連網田斬入鹿臣。是日雨下,潦水溢庭。以席障子覆鞍作屍。古人大兄見走入私宫,謂於人曰:「韓人殺鞍作臣。吾心痛矣。」即入臥内,杜門不出。中大兄即入法興寺爲城而備,凡諸皇子、諸王、諸卿大夫、臣連、伴造、國造悉皆随侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是漢直等捴聚眷屬、擐甲持兵,將助大臣處設軍陣。中大兄使將軍巨勢德陁臣,以天地開闢、君臣始有説於賊黨,令知所赴。於是高向臣國押謂漢直等曰:「吾等由君大郎應當被戮,大臣亦於今日明日立俟其誅决矣;然則爲誰空戰,盡被刑乎。

そしてすぐに子麻呂たちと共にその不意に出て、劔で入鹿の頭と肩を傷め割きました。

入鹿が驚いて起つと、子麻呂が手を運らせて劔を揮い、その一つの脚を傷めました。

入鹿は転がって御座に就き、頭を叩いて言いました。「嗣ぐ位に居られるべきは天の子です。臣は罪を知りません。どうか審らかなお察しを垂れてください」

天皇は大いに驚いて、中大兄に詔されました。「何をしているのか分からない。何の事があるのか」

中大兄は地に伏して奏しました。「鞍作は天の宗をことごとく滅ぼし、日の位を傾けようとしています。どうして天の孫を鞍作に代えられましょうか」

天皇はすぐに起って殿の中に入られました。

佐伯連子麻呂と稚犬養連網田が入鹿臣を斬りました。この日は雨が下って、潦の水が庭に溢れました。席と障子で鞍作の屍を覆いました。

古人大兄は見て、私かな宫に走り入り、人に言いました。「韓人が鞍作臣を殺した。私の心は痛む」そして臥所に入って門を杜ざし、出て来ませんでした。

中大兄はすぐに法興寺に入って城として備えました。おおよそ諸々の皇子、諸々の王、諸々の卿や大夫、臣・連・伴造・國造が、ことごとく皆従い侍りました。

人を遣わして鞍作臣の屍を大臣の蝦夷に賜いました。

そこで漢直たちはすべて眷屬を聚め、甲を擐き兵を持って、大臣のいる所を助けようとして軍の陣を設けました。

中大兄は将軍の巨勢德陁臣に、天地が開け闢けたことと、君と臣が始めて有るようになったことを賊の黨に説かせて、赴くべきところを知らせました。

そこで高向臣國押が漢直たちに言いました。「我らは君の大郎のために戮されるべきであり、大臣もまた今日明日に立ちながらその誅を俟つことが決まっている。それならば誰のために空しく戦って、ことごとく刑を被るのか。

夾注 2

蘇我臣入鹿更名鞍作。

蘇我臣入鹿は、別の名を鞍作といいます。

謂因韓政而誅

韓の政によって誅したことをいいます。

52『天皇記』と『國記』を焼く

」言畢解釰,投弓捨此而去,賊徒亦随散走。己酉蘇我臣蝦夷等臨誅,悉燒《天皇記》、《國記》、珍寶。船史惠尺即疾取所燒《國記》而奉献中大兄。是日,蘇我臣蝦夷及鞍作屍許葬於墓,復許哭泣。於是或人説第一謡歌曰:

言い終えて釰を解き、弓を投げ、ここを捨てて去りました。賊の徒もまた随って散り走りました。

己酉の日、蘇我臣蝦夷たちは誅に臨んで、『天皇記』『國記』と珍しい宝をことごとく焼きました。船史惠尺(ふねのふびとえさか)がすぐに疾く、焼けている『國記』を取って中大兄に奉り献りました。

この日、蘇我臣蝦夷と鞍作の屍を墓に葬ることを許し、さらに哭き泣くことを許しました。

そこである人が第一の謠う歌を説いて言いました。

53第一の歌の解き

「其歌所謂:『波魯你渠騰曾枳舉喻屢。之麻能野父播羅。』此即宫殿接起於嶋大臣家,而中大兄與中臣鎌子連密圖大義,謀戮入鹿之兆也。」

「その歌にいわゆる『波魯你渠騰曾枳舉喻屢。之麻能野父播羅。』とあるのは、すなわち宫殿が嶋大臣の家に接して起り、中大兄と中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を戮そうと謀ったことの兆である」

54第二の歌の解き

説第二謡歌曰:

第二の謠う歌を説いて言いました。

55第二の歌の解き

「其歌所謂:『烏智可拖能。阿娑努能枳枳始。騰余謀佐儒。倭例播禰始柯騰。比騰曾騰余謀須。』此即上宫王等性順,都無有罪,而爲入鹿見害,雖不自報,天使人誅之兆也。」

「その歌にいわゆる『烏智可拖能。阿娑努能枳枳始。騰余謀佐儒。倭例播禰始柯騰。比騰曾騰余謀須。』とあるのは、すなわち上宫の王たちは性が順しく、まったく罪がないのに入鹿に害われ、自らは報いなかったけれども、天が人を使って誅したことの兆である」

56第三の歌の解き

説第三謡歌曰:

第三の謠う歌を説いて言いました。

57第三の歌の解き

「其歌所謂:『烏磨野始你。倭例烏比岐以例底。制始比騰能。於謀提母始羅孺。伊弊母始羅孺母也。』此即入鹿臣忽於宫中,爲佐伯連子麻呂、稚犬養連網田所斬之兆也。」

「その歌にいわゆる『烏磨野始你。倭例烏比岐以例底。制始比騰能。於謀提母始羅孺。伊弊母始羅孺母也。』とあるのは、すなわち入鹿臣が忽ち宫の中で、佐伯連子麻呂と稚犬養連網田に斬られたことの兆である」

58位を譲る

庚戌。譲位於輕皇子,立中大兄爲皇太子。

庚戌の日、位を輕皇子に譲り、中大兄を立てて皇太子としました。