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斉明天皇齊明天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 70 · 漢字 4,809字 · 朗読 19.2分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1斉明天皇

天豐財重日足姬天皇,初適於橘豐日天皇之孫高向王,而生漢皇子。後適於息長足日廣額天皇,而生二男一女。

天豊財重日足姫天皇は、はじめ橘豊日天皇の孫である高向王に嫁ぎ、漢皇子を生みました。のちに息長足日広額天皇に嫁ぎ、二男一女を生みました。

2皇后となる

二年,立為皇后。見息長足日廣額天皇紀。

二年、皇后に立てられました。息長足日広額天皇の紀に見えます。

3先の天皇が崩じる

十三年,冬十月,息長足日廣額天皇崩。

十三年、冬十月、息長足日広額天皇が崩じました。

4位に即く

明年,正月,皇后即天皇位。

翌年の正月、皇后が天皇の位に即きました。

5位を譲る

改元四年,六月,讓位於天萬豐日天皇。稱天豐財重日足姬天皇曰皇祖母尊。

改元四年の六月、位を天万豊日天皇に譲りました。天豊財重日足姫天皇を称して皇祖母尊と申しました。

6孝徳天皇が崩じる

天萬豐日天皇,後五年十月,崩。

天万豊日天皇は、のち五年の十月に崩じました。

7再び位に即く

春正月壬申朔甲戌,皇祖母尊即天皇位於飛鳥板蓋宮。

春正月壬申の朔の甲戌の日、皇祖母尊が飛鳥板蓋宮で天皇の位に即きました。

8龍に乗る者

夏五月庚午朔,空中有乘龍者。貌似唐人,著青油笠,而自葛城嶺馳隱膽駒山。及至午時,從於住吉松嶺之上,西向馳去。

夏五月庚午の朔、空中に龍に乗る者がありました。姿は唐人に似て、青い油笠をかぶり、葛城の嶺から駆けて膽駒山に隠れました。午の時になると、住吉の松の嶺の上から、西に向かって駆け去りました。

9蝦夷と百済の使者をもてなす

秋七月己巳朔己卯,於難波朝饗北蝦夷九十九人,東蝦夷九十五人。并設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人,津刈蝦夷六人,冠各二階。

秋七月己巳の朔の己卯の日、難波の朝廷で北の蝦夷九十九人、東の蝦夷九十五人をもてなしました。あわせて百済の調を奉る使者百五十人の席を設けました。

それから柵で養った蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、位をそれぞれ二階ずつ授けました。

夾注 2

北,越。

北は越です。

東,陸奧。

東は陸奥です。

10河辺臣が帰る

八月戊戌朔,河邊臣麻呂等自大唐還。

八月戊戌の朔、河辺臣麻呂たちが大唐から帰りました。

11宮の造営をやめる

冬十月丁酉朔己酉,於小墾田造起宮闕,擬將瓦覆。又於深山廣谷,擬造宮殿之材,朽濫者多。遂止弗作。

冬十月丁酉の朔の己酉の日、小墾田に宮殿を起こし造り、瓦で覆おうとしました。また深い山や広い谷で宮殿を造る材木を用意しようとしましたが、朽ちて傷んだものが多くありました。そこでやめて造りませんでした。

12板蓋宮が焼ける

是冬,災飛鳥板蓋宮。故遷居飛鳥川原宮。

この冬、飛鳥板蓋宮が焼けました。そのため飛鳥川原宮に移って住みました。

13三国が調を奉る

是歲,高麗、百濟、新羅,並遣使進調。蝦夷、隼人率眾內屬,詣闕朝獻。新羅別以及飡彌武為質,以十二人為才伎者。彌武遇疾而死。是年也,太歲乙卯。

この年、高麗・百済・新羅がそろって使者を遣わし、調を奉りました。蝦夷と隼人が衆を率いて内に服し、宮に参って朝し、貢ぎました。

新羅は別に及飡の弥武を質とし、十二人を才伎としました。弥武は病にかかって死にました。

この年は太歳乙卯です。

夾注 1

百濟大使西部達率余宜受,副使東部恩率調信仁,凡一百餘人。

百済の大使は西部の達率余宜受、副使は東部の恩率調信仁、全部で百余人です。

14高麗が調を奉る

秋八月癸巳朔庚子,高麗遣達沙等進調。

秋八月癸巳の朔の庚子の日、高麗が達沙たちを遣わし、調を奉りました。

夾注 1

大使達沙,副使伊利之,總八十一人。

大使は達沙、副使は伊利之、あわせて八十一人です。

15高麗に使者を遣わす

九月,遣高麗大使膳臣葉積,副使坂合部連磐鍬,大判官犬上君白麻呂,中判官河內書首,小判官大藏衣縫造麻呂。

九月、高麗に大使の膳臣葉積、副使の坂合部連磐鍬、大判官の犬上君白麻呂、中判官の河内書首、小判官の大蔵衣縫造麻呂を遣わしました。

夾注 1

闕名。

名が欠けています。

16狂心の渠

是歲,於飛鳥岡本,更定宮地。時高麗、百濟、新羅並遣使進調。為張紺幕於此宮地而饗焉。遂起宮室。天皇乃遷,號曰後飛鳥岡本宮。於田身嶺冠以周垣。復於嶺上兩槻樹邊起觀,號為兩槻宮,亦曰天宮。時好興事,迺使水工穿渠,自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石,順流控引於宮東山,累石為垣。時人謗曰:「狂心渠。損費,功夫三萬餘矣。費損,造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣。山椒埋矣。」又謗曰:「作石山丘,隨作自破。」又作,吉野宮。西海使佐伯連栲繩、小山下難波吉士國勝等,自百濟還,獻鸚鵡一隻。災,岡本宮。

この年、飛鳥の岡本に改めて宮の地を定めました。そのとき高麗・百済・新羅がそろって使者を遣わし、調を奉りました。この宮の地に紺の幕を張ってもてなしました。

ついに宮室を起こしました。天皇はそこに移り、名づけて後飛鳥岡本宮といいました。

田身の嶺に周囲の垣をめぐらしました。さらに嶺の上の二本の槻の木のそばに楼を起こし、名を両槻宮といい、また天宮ともいいました。

そのころ事を起こすのを好み、水工に命じて渠を掘らせ、香山の西から石上山まで通じさせました。舟二百隻で石上山の石を載せ、流れに従って宮の東の山に引き寄せ、石を積んで垣としました。

そのとき人々がそしって言いました。「狂心の渠だ。損じ費えた人夫は三万余りだ。垣を造るために損じ費えた人夫は七万余りだ。宮の材木は腐った。山の頂は埋まった。」

またそしって言いました。「石の山や丘を造っても、造るたびにおのずから崩れる。」

また吉野宮を造りました。

西海の使者、佐伯連栲縄と小山下の難波吉士国勝たちが百済から帰り、鸚鵡一羽を献じました。

岡本宮が焼けました。

夾注 3

田身,山名。此云大務。

田身は山の名です。大務と読みます。

若據未成之時,作此謗乎。

おそらくまだ出来上がらないときに、このそしりを作ったのでしょうか。

闕位階級。

位の階級が欠けています。

17覩貨邏の人が漂着する

秋七月丁亥朔己丑,覩貨邏國男二人、女四人,漂泊于筑紫,言:「臣等初漂泊于海見嶋。」乃以驛召。辛丑,作須彌山像於飛鳥寺西,且設盂蘭瓮會。暮,饗覩貨邏人。

秋七月丁亥の朔の己丑の日、覩貨邏国の男二人、女四人が筑紫に漂着して言いました。「わたくしたちは、はじめ海見嶋に漂着しました。」そこで駅馬で召しました。

辛丑の日、須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、また盂蘭盆の会を設けました。夕方、覩貨邏の人をもてなしました。

夾注 1

或本云,墮羅人。

ある本には墮羅の人といいます。

18有間皇子が狂を装う

九月,有間皇子性黠陽狂,云云。往牟婁溫湯,偽療病來,讚國體勢曰:「纔觀彼地,病自蠲消。」云云。天皇聞悅,思欲往觀。

九月、有間皇子は性質が賢く、いつわって狂を装いました。云々。

牟婁の温湯に行き、いつわって病を治して帰り、その国のありさまをほめて言いました。「ただあの地を見るだけで、病はおのずから消えます。」云々。

天皇は聞いて喜び、行って見たいと思いました。

19新羅が送るのを承知しない

是歲,使使於新羅曰:「欲將沙門智達、間人連御廄、依網連稚兒等,付汝國使,令送到大唐。」新羅不肯聽送。由是沙門智達等還歸。西海使小花下阿曇連頰垂、小山下津臣傴僂,自百濟還,獻駱駝一箇、驢二箇。石見國言:「白狐見。」

この年、新羅に使者を遣わして言いました。「沙門の智達、間人連御厩、依網連稚児たちを、そちらの国の使者に付けて、大唐へ送り届けさせたい。」

新羅は承知せず、送りませんでした。これによって沙門の智達たちは帰ってきました。

西海の使者、小花下の阿曇連頰垂と小山下の津臣傴僂が百済から帰り、駱駝一頭と驢二頭を献じました。

石見国が言いました。「白い狐が見えました。」

夾注 1

傴僂,此云俱豆磨。

傴僂は俱豆磨と読みます。

20左大臣が薨じる

春正月甲申朔丙申,左大臣巨勢德太臣薨。

春正月甲申の朔の丙申の日、左大臣の巨勢徳太臣が薨じました。

21蝦夷を討つ

夏四月,阿倍臣,率船師一百八十艘伐蝦夷。齶田、渟代二郡蝦夷,望怖乞降。於是勒軍陳船於齶田浦。齶田蝦夷恩荷進而誓曰:「不為官軍故持弓矢,但奴等性食肉故持。若為官軍,以儲弓矢,齶田浦神知矣。將清白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上,定渟代、津輕二郡郡領。遂於有間濱召聚渡嶋蝦夷等,大饗而歸。

夏四月、阿倍臣が船師百八十艘を率いて蝦夷を討ちました。齶田・渟代の二郡の蝦夷は、これを望み見て恐れ、降伏を乞いました。

そこで軍を整え、齶田の浦に船を並べました。

齶田の蝦夷の恩荷が進み出て誓って言いました。「官軍を防ぐために弓矢を持っているのではありません。ただわたくしたちは性として肉を食べるので持っているのです。もし官軍を防ぐために弓矢を備えたのなら、齶田の浦の神がご存じでしょう。清く白い心で官の朝廷にお仕えいたします。」

それから恩荷に小乙上を授け、渟代・津軽の二郡の郡領を定めました。ついに有間の浜で渡嶋の蝦夷たちを召し集め、大いにもてなして帰りました。

夾注 1

闕名。

名が欠けています。

22建王が薨じる

五月,皇孫建王,年八歲薨。今城谷上,起殯而收。天皇本以皇孫有順而器重之,故不忍哀傷慟極甚。詔群臣曰:「萬歲千秋之後,要合葬於朕陵。」迺作歌曰:

五月、皇孫の建王が年八歳で薨じました。今城の谷の上に殯を起こして納めました。

天皇はもとより皇孫が素直であるとして、器として重んじていました。そのため哀しみに耐えられず、嘆き悲しむことがはなはだしくありました。

群臣に詔して言いました。「万歳千秋ののちには、かならず朕の陵に合葬せよ。」

そこで歌を作りました。

23歌 — 天皇

今城なる小丘が上に雲だにも著くし立たば何か歎かむ

「今城なる小丘が上に雲だにも著くし立たば何か歎かむ」

— この底本はこの歌を万葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其一。

その一です。

24歌 — 天皇

射ゆ鹿豬を認ぐ川上の若草の若く在きと吾が思は無くに

「射ゆ鹿豬を認ぐ川上の若草の若く在きと吾が思は無くに」

— この底本はこの歌を万葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其二。

その二です。

25歌 — 天皇

飛鳥川漲らひつつ行水の間も無くも思ほゆるかも

「飛鳥川漲らひつつ行水の間も無くも思ほゆるかも」

— この底本はこの歌を万葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其三。

その三です。

26折々に名を呼んで泣く

天皇時時唱而悲哭。

天皇は折々に名を呼んで悲しみ泣きました。

27蝦夷に位を授ける

秋七月辛巳朔甲申,蝦夷二百餘詣闕朝獻。饗賜贍給,有加於常。仍授柵養蝦夷二人位一階,渟代郡大領沙尼具那小乙下,少領宇婆左建武,勇建者二人位一階。別賜沙尼具那等鮹旗二十頭、鼓二面、弓矢二具、鎧二領。授津輕郡大領馬武大乙上,少領青蒜小乙下,勇建者二人位一階。別賜馬武等鮹旗二十頭、鼓二面、弓矢二具、鎧二領。授都岐沙羅柵造位二階,判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙尼具那,檢覆蝦夷戶口與虜戶口。

秋七月辛巳の朔の甲申の日、蝦夷二百余人が宮に参って朝し、貢ぎました。もてなし、豊かに賜わることが、いつもより厚くありました。

それから柵で養った蝦夷二人に位一階を授け、渟代郡の大領の沙尼具那に小乙下、少領の宇婆左に建武、勇猛な者二人に位一階を授けました。別に沙尼具那たちに鮹の旗二十本、鼓二面、弓矢二具、鎧二領を賜わりました。

津軽郡の大領の馬武に大乙上、少領の青蒜に小乙下、勇猛な者二人に位一階を授けました。別に馬武たちに鮹の旗二十本、鼓二面、弓矢二具、鎧二領を賜わりました。

都岐沙羅の柵造に位二階、判官に位一階を授けました。渟足の柵造の大伴君稲積に小乙下を授けました。

また渟代郡の大領の沙尼具那に詔して、蝦夷の戸口と虜の戸口を調べ改めさせました。

夾注 2

或所,云授位二階,使檢戶口。

あるところには、位二階を授けて戸口を調べさせたといいます。

闕名。

名が欠けています。

28智通と智達が唐に行く

是月,沙門智通、智達奉敕乘新羅船往大唐國,受無性眾生義於玄奘法師所。

この月、沙門の智通と智達が勅を奉じて新羅の船に乗り、大唐国へ行き、玄奘法師のもとで無性衆生の義を受けました。

29紀の温湯に行く

冬十月庚戌朔甲子,幸紀溫湯。天皇憶皇孫建王,愴爾悲泣,乃口號曰:

冬十月庚戌の朔の甲子の日、紀の温湯に行きました。天皇は皇孫の建王を思い出し、悲しんで泣き、そこで口ずさんで言いました。

30歌 — 天皇

山越えて海渡るとも面白き今城內は忘らゆましじ

「山越えて海渡るとも面白き今城內は忘らゆましじ」

— この底本はこの歌を万葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其一。

その一です。

31歌 — 天皇

水門の潮下り海下り後も暗に置きてか行かむ

「水門の潮下り海下り後も暗に置きてか行かむ」

— この底本はこの歌を万葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其二。

その二です。

32歌 — 天皇

愛しき吾が若子を置きて行かむ

「愛しき吾が若子を置きて行かむ」

— この底本はこの歌を万葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其三。

その三です。

33この歌を伝えよ

詔秦大藏造萬里,曰:「傳斯歌,勿令忘於世。」

秦大蔵造万里に詔して言いました。「この歌を伝えて、世に忘れられないようにせよ。」

34有間皇子が死ぬ

十一月庚辰朔壬午,留守官蘇我赤兄臣,語有間皇子曰:「天皇所治政事有三失矣。大起倉庫,積聚民財,一也。長穿渠水,損費公糧,二也。於舟載石,運積為丘,三也。」有間皇子乃知赤兄之善己,而欣然報答之曰:「吾,年始可用兵時矣。」甲申,有間皇子向赤兄家,登樓而謀。夾膝自斷。於是知相之不祥,俱盟而止。皇子歸而宿之。是夜半,赤兄遣物部朴井連鮪,率造宮丁,圍有間皇子於市經家。便遣驛使,奏天皇所。戊子,捉有間皇子與守君大石、坂合部連藥、鹽屋連鯯魚,送紀溫湯。舍人新田部米麻呂從焉。於是,皇太子親問有間皇子曰:「何故謀反?」答曰:「天與赤兄知,吾全不解。」庚寅,遣丹比小澤連國襲,絞有間皇子於藤白坂。是日,斬鹽屋連鯯魚、舍人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連鯯魚臨誅,言:「願令右手作國寶器。」流守君大石於上毛野國,坂合部藥於尾張國。或本云:有間皇子與蘇我臣赤兄、鹽屋連小戈、守君大石、坂合部連藥,取短籍卜謀反之事。

十一月庚辰の朔の壬午の日、留守の官の蘇我赤兄臣が有間皇子に語って言いました。

「天皇の治める政事に三つの失があります。倉庫を大きく起こして民の財を積み集めるのが一つ、渠の水を長く掘って公の糧を損じ費えるのが二つ、舟に石を載せて運び積んで丘とするのが三つです。」

有間皇子はそこで赤兄が自分に好意を寄せていると知り、喜んで答えて言いました。「わたしは、年がはじめて兵を用いうる時になった。」

甲申の日、有間皇子は赤兄の家へ行き、楼に登って謀りました。そのとき膝を挟む几の脚がおのずから折れました。そこで相が不吉であると知り、ともに盟って取りやめました。

皇子は帰って宿りました。この夜半、赤兄は物部朴井連鮪を遣わし、宮を造る丁を率いて有間皇子を市経の家で囲みました。そして駅使を遣わし、天皇のもとに奏しました。

戊子の日、有間皇子と守君大石、坂合部連薬、塩屋連鯯魚を捕らえ、紀の温湯へ送りました。舎人の新田部米麻呂がこれに従いました。

そこで皇太子が自ら有間皇子に問いました。「何ゆえに謀反したのか。」

答えて言いました。「天と赤兄が知るのみで、わたしはまったく解しません。」

庚寅の日、丹比小沢連国襲を遣わし、有間皇子を藤白坂で絞めました。この日、塩屋連鯯魚と舎人の新田部連米麻呂を藤白坂で斬りました。

塩屋連鯯魚は誅に臨んで言いました。「願わくは右手で国の宝の器を作らせてください。」

守君大石を上毛野国に流し、坂合部薬を尾張国に流しました。

ある本には、有間皇子と蘇我臣赤兄、塩屋連小戈、守君大石、坂合部連薬が短い籍を取って謀反の事を占ったといいます。

35別に伝える話

或本云:有間皇子曰:「先燔宮室,以五百人,一日兩夜邀牟婁津,疾以船師斷淡路國,使如牢圄,其事易成。」或人諫曰:「不可也。所計既然而無德矣。方今皇子年始十九,未及成人。可至成人而得其德。」他日,有間皇子與一判事謀反之時,皇子案机之腳,無故自斷。其謨不止,遂被誅戮也。

ある本にはこう伝えます。

有間皇子が言いました。「まず宮室を焼き、五百人で一日二夜のあいだ牟婁の津を迎え塞ぎ、すばやく船師で淡路国を断ち、牢のようにしてしまえば、その事は成しやすい。」

ある人が諫めて言いました。「いけません。計ったところはそのとおりですが、徳がありません。いま皇子は年がはじめて十九で、まだ成人に及びません。成人に至ってその徳を得られましょう。」

別の日、有間皇子が一人の判事と謀反を謀ったとき、皇子が寄りかかった机の脚が、わけもなくおのずから折れました。その謀をやめなかったので、ついに誅殺されました。

36百済が滅びる兆し

是歲,越國守阿倍引田臣比羅夫討肅慎,獻生羆二、羆皮七十枚。沙門智踰造指南車。出雲國言:「於北海濱魚死而積。厚三尺許,其大如鮐,雀啄、針鱗。鱗長數寸。俗曰:『雀入於海,化而為魚。名曰雀魚。』」或本云:至庚申年七月,百濟遣使奏言:「大唐、新羅并力伐我。既以義慈王、王后、太子為虜而去。」由是國家以兵士甲卒陣西北畔,繕修城柵。斷塞山川之兆也。又西海使小花下阿曇連頰垂自百濟還言:「百濟伐新羅還時,馬自行道於寺金堂,晝夜勿息。唯食草時止。」或本云:至庚申年,為敵所滅之應也。

この年、越国の守の阿倍引田臣比羅夫が肅慎を討ち、生きた羆二頭と羆の皮七十枚を献じました。沙門の智踰が指南車を造りました。

出雲国が言いました。「北の海辺に魚が死んで積もりました。厚さは三尺ほどで、その大きさは鮐のようで、雀のような嘴、針のような鱗です。鱗の長さは数寸です。世間では『雀が海に入り、変じて魚になった。名を雀魚という』といいます。」

ある本にはこう伝えます。庚申の年の七月になって、百済が使者を遣わして奏して言いました。「大唐と新羅が力を合わせてわが国を討ちました。すでに義慈王と王后、太子を虜として連れ去りました。」

これによって国家は兵士と甲卒を西北の境に陣取らせ、城と柵を修め直しました。山や川を断ち塞ぐ兆しでした。

また西海の使者、小花下の阿曇連頰垂が百済から帰って言いました。「百済が新羅を討って帰るとき、馬がおのずから寺の金堂を昼夜休まずめぐりました。ただ草を食べるときだけ止まりました。」

ある本には、庚申の年になって敵に滅ぼされたことに応じたものだといいます。

37温湯から帰る

春正月己卯朔辛巳,天皇至自紀溫湯。

春正月己卯の朔の辛巳の日、天皇が紀の温湯から帰り着きました。

38吉野と近江

三月戊寅朔,天皇幸吉野而肆宴焉。庚辰,天皇幸近江之平浦。丁亥,吐火羅人共妻舍衛婦人來。甲午,甘檮丘東之川上,造須彌山,而饗陸奧與越蝦夷。

三月戊寅の朔、天皇が吉野に行って宴を張りました。庚辰の日、天皇が近江の平の浦に行きました。

丁亥の日、吐火羅の人が妻の舍衛の婦人とともに来ました。

甲午の日、甘檮丘の東の川上に須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷をもてなしました。

夾注 2

平,此云毘羅。

平は毘羅と読みます。

檮,此云柯之。川上,此云箇播羅。

檮は柯之と読みます。川上は箇播羅と読みます。

39蝦夷の国を討つ

是月,遣阿倍臣,率船師一百八十艘,討蝦夷國。阿倍臣,簡集飽田、渟代二郡蝦夷二百四十一人,其虜三十一人,津輕郡蝦夷一百二十人,其虜四人,膽振鉏蝦夷二十人於一所,而大饗賜祿。即以船一隻與五色綵帛,祭彼地神。至肉入籠時,問菟蝦夷膽鹿嶋、菟穗名,二人進曰:「可以後方羊蹄為政所焉。」隨膽鹿嶋等語,遂置郡領而歸。授道奧與越國司位各二階,郡領與主政各一階。或本云:阿倍引田臣比羅夫與肅慎戰而歸,獻虜四十九人。

この月、阿倍臣を遣わし、船師百八十艘を率いて蝦夷の国を討たせました。

阿倍臣は、飽田・渟代の二郡の蝦夷二百四十一人とその虜三十一人、津軽郡の蝦夷百二十人とその虜四人、膽振鉏の蝦夷二十人を一か所に集め、大いにもてなして禄を賜わりました。そして船一隻と五色の綵帛で、その地の神を祭りました。

肉入籠に至ったとき、問菟の蝦夷の膽鹿嶋と菟穂名の二人に問うと、進み出て言いました。「後方羊蹄を政所とするのがよいでしょう。」

膽鹿嶋たちの言葉に従い、ついに郡領を置いて帰りました。

道奥と越の国司に位をそれぞれ二階、郡領と主政にそれぞれ一階を授けました。

ある本には、阿倍引田臣比羅夫が肅慎と戦って帰り、虜四十九人を献じたといいます。

夾注 3

闕名。

名が欠けています。

膽振鉏,此云伊浮梨娑陛。

膽振鉏は伊浮梨娑陛と読みます。

肉入籠,此云之之梨姑。問菟,此云塗毘宇。菟穗名,此云宇保那。後方羊蹄,此云斯梨蔽之。政所,蓋蝦夷郡乎。

肉入籠は之之梨姑と読みます。問菟は塗毘宇と読みます。菟穂名は宇保那と読みます。後方羊蹄は斯梨蔽之と読みます。政所は、おそらく蝦夷の郡でしょうか。

40唐国に使者を遣わす

秋七月丙子朔戊寅,遣小錦下坂合部連石布、大仙下津守連吉祥,使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。『伊吉連博德書』曰:同天皇之世,小錦下坂合部石布連、大山下津守吉祥連等二船,奉使吳唐之路。以己未年七月三日,發自難波三津之浦。

秋七月丙子の朔の戊寅の日、小錦下の坂合部連石布と大仙下の津守連吉祥を唐国に使者として遣わしました。あわせて道奥の蝦夷の男女二人を唐の天子に見せました。

『伊吉連博徳書』に言います。

同じ天皇の世に、小錦下の坂合部石布連と大山下の津守吉祥連たちの二船が、使いを奉じて呉・唐の路に向かいました。己未の年の七月三日、難波の三津の浦から出発しました。

41筑紫から出発する

八月十一日,發自筑紫大津之浦。

八月十一日、筑紫の大津の浦から出発しました。

42漂流する

九月十三日,行到百濟南畔之嶋。嶋名毋分明。以十四日,寅時,二船相從,放出大海。十五日,日入之時,石布連船,橫遭逆風,飄到南海之嶋。嶋名爾加委。仍為嶋人所滅。便東漢長直阿利麻、坂合部連稻積等五人,盜乘嶋人之船,逃到括州。州縣官人送到洛陽之京。十六日,夜半之時,吉祥連船,行到越州會稽縣須岸山。東北風,風太急。二十三日,行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留著彼處。

九月十三日、百済の南の境の嶋に着きました。嶋の名は明らかではありません。

十四日の寅の時、二船が互いに従って大海へ出ました。

十五日の日の入るころ、石布連の船が横から逆風に遭い、南海の嶋に漂い着きました。嶋の名は爾加委です。そして嶋の人に滅ぼされました。

そこで東漢長直阿利麻と坂合部連稲積たち五人が、嶋の人の船を盗んで乗り、括州へ逃げ着きました。州県の官人が洛陽の京へ送りました。

十六日の夜半、吉祥連の船が越州会稽県の須岸山に着きました。東北の風が吹き、風がはなはだ急でした。二十三日、餘姚県に着きました。乗ってきた大船と諸々の調度の物はその地に留め置きました。

43唐の天子が問う

潤十月一日,行到越州之底。十月十五日,乘驛入京。二十九日,馳到東京。天子在東京。三十日,天子相見問訊之:「日本國天皇,平安以不?」使人謹答:「天地合德,自得平安。」天子問曰:「執事卿等,好在以不?」使人謹答:「天皇憐重,亦得好在。」天子問曰:「國內平不?」使人謹答:「治稱天地,萬民無事。」天子問曰:「此等蝦夷國有何方?」使人謹答:「國有東北。」天子問曰:「蝦夷幾種?」使人謹答:「類有三種。遠者名都加留,次者麤蝦夷,近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。每歲,入貢本國之朝。」天子問曰:「其國有五榖?」使人謹答:「無之。食肉存活。」天子問曰:「國有屋舍?」使人謹答:「無之。深山之中,止住樹本。」天子重曰:「朕見蝦夷身面之異,極理喜怪。使人遠來辛苦。退在館裏,後更相見。」

閏十月一日、越州の底に着きました。十月十五日、駅に乗って京に入りました。二十九日、東京に馳せ着きました。天子は東京にいました。

三十日、天子が会って問いました。「日本国の天皇は、平安であるか。」

使人は謹んで答えました。「天地が徳を合わせ、おのずから平安を得ております。」

天子が問いました。「執事の卿たちは、よく在るか。」

使人は謹んで答えました。「天皇が憐れみ重んじ、やはりよく在ることを得ております。」

天子が問いました。「国内は平らかであるか。」

使人は謹んで答えました。「治めることが天地に適い、万民に事がありません。」

天子が問いました。「この蝦夷の国はどの方にあるか。」

使人は謹んで答えました。「国は東北にあります。」

天子が問いました。「蝦夷は幾種あるか。」

使人は謹んで答えました。「類は三種あります。遠いものは名を都加留、次は麤蝦夷、近いものは名を熟蝦夷といいます。いまこれは熟蝦夷です。毎年、本国の朝廷に入って貢ぎます。」

天子が問いました。「その国に五穀はあるか。」

使人は謹んで答えました。「ありません。肉を食べて生きております。」

天子が問いました。「国に屋舎はあるか。」

使人は謹んで答えました。「ありません。深い山の中、木の根もとに止まり住んでおります。」

天子は重ねて言いました。「朕は蝦夷の身と面の異なるのを見て、理を極めて怪しさを喜ぶ。使人は遠く来て辛苦であろう。退いて館にあれ。のちにまた会おう。」

44倭の客が最も勝れていた

十一月一日,朝有冬至之會。會日亦覲。所朝諸蕃之中,倭客最勝。後由出火之亂,棄而不復檢。十二月三日,韓智興傔人西漢大麻呂,枉讒我客。客等獲罪唐朝,已決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博德奏。因即免罪。事了之後敕旨:「國家,來年必有海東之政。汝等倭客,不得東歸。」遂逗西京,幽置別處。閉戶防禁,不許東西。困苦經年。『難波吉士男人書』曰:向大唐大使,觸嶋而覆。副使親覲天子,奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一、弓三、箭八十獻于天子。庚寅,詔群臣:「於京內諸寺,勸講盂蘭盆經,使報七世父母。」

十一月一日の朝、朝廷に冬至の会がありました。会の日にもまた拝謁しました。朝した諸蕃の中で、倭の客が最も勝れていました。のちに火の出た乱れによって、捨て置かれて改めて調べられませんでした。

十二月三日、韓智興の傔人の西漢大麻呂が、わが客を枉げて讒言しました。客たちは唐の朝廷で罪を得て、すでに流罪と決まりました。先に智興を三千里の外に流しました。客の中に伊吉連博徳がいて奏しました。これによってすぐに罪を免れました。

事が終わったのちに勅旨がありました。「国家は、来年かならず海東の政がある。汝ら倭の客は、東へ帰ることはできない。」ついに西京に留め、別の所に幽閉しました。戸を閉ざして防ぎ禁じ、東西へ出ることを許しませんでした。苦しみに困じて年を越しました。

『難波吉士男人書』に言います。大唐に向かった大使は、嶋に触れて覆りました。副使は自ら天子に拝謁し、蝦夷を奉じて見せました。そこで蝦夷が白鹿の皮一枚、弓三、箭八十を天子に献じました。

庚寅の日、群臣に詔しました。「京内の諸寺で、盂蘭盆経を講ずるよう勧め、七世の父母に報いさせよ。」

45羆の皮の値

是歲,命出雲國造,修嚴神之宮。狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去。又狗嚙置死人手臂於言屋社。又高麗使人持羆皮一枚,稱其價曰:「綿六十斤。」市司咲而避去。高麗畫師子麻呂,設同姓賓於私家日,借官羆皮七十枚,而為賓席。客等羞怪而退。

この年、出雲国造に命じて、厳神の宮を修めさせました。

狐が友郡の役丁の持っていた葛の末を噛み切って去りました。また犬が死人の手の腕を噛んで言屋の社に置きました。

また高麗の使人が羆の皮一枚を持ち、その値を称して言いました。「綿六十斤です。」市司は笑って避け去りました。

高麗の画師の子麻呂が、同姓の賓客を私の家でもてなした日、官の羆の皮七十枚を借りて賓の席としました。客たちは羞じ怪しんで退きました。

夾注 2

闕名。

名が欠けています。

言屋,此云伊浮瑘。天子崩兆。

言屋は伊浮瑘と読みます。天子が崩じる兆しです。

46高麗の使者が来る

春正月壬寅朔,高麗使人乙相賀取文等一百餘,泊于筑紫。

春正月壬寅の朔、高麗の使人の乙相賀取文たち百余人が筑紫に泊まりました。

47肅慎を討つ

三月,遣阿倍臣,率船二百艘,伐肅慎國。阿倍臣以陸奧蝦夷,令乘己船,到大河側。於是渡嶋蝦夷一千餘,屯聚海畔,向河而營。營中二人進而急叫曰:「肅慎船師多來將殺我等之故,願欲濟河而仕官矣。」阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷,問賊隱所與其船數。兩箇蝦夷便指隱所曰:「船二十餘艘。」即遣使喚。而不肯來。阿倍臣乃積綵帛、兵、鐵等於海畔,而令貪嗜。肅慎乃陳船師,繫羽於木,舉而為旗。齊棹近來,停於淺處。從一船裏,出二老翁,迴行,熟視所積綵帛等物。便換著單衫,各提布一端,乘船還去。俄而老翁更來,脫置換衫,并置提布,乘船而退。阿倍臣遣數船使喚,不肯來,復於弊賂辨嶋。食頃乞和。遂不肯聽。據己柵戰。于時,能登臣馬身龍為敵被殺。猶戰未倦之間,賊破殺己妻子。

三月、阿倍臣を遣わし、船二百艘を率いて肅慎国を討たせました。

阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せ、大河の側に着きました。

そこで渡嶋の蝦夷千余人が海辺に屯し集まり、河に向かって営みました。営の中から二人が進み出て急いで叫びました。「肅慎の船師が多く来てわたくしたちを殺そうとしていますので、願わくは河を渡って官に仕えたいのです。」

阿倍臣は船を遣わして二人の蝦夷を喚び寄せ、賊の隠れた所とその船の数を問いました。二人の蝦夷はすぐに隠れた所を指して言いました。「船は二十余艘です。」

そこで使者を遣わして喚びましたが、来ようとしませんでした。

阿倍臣はそこで綵帛・兵・鉄などを海辺に積み、欲しがらせました。

肅慎はそこで船師を並べ、羽を木に繫いで挙げ、旗としました。棹を揃えて近づいて来て、浅い所に停まりました。

一つの船の中から老翁二人が出て、めぐり歩き、積んである綵帛などの物をよく見ました。そして単衫に着替え、それぞれ布一端を提げ、船に乗って帰って行きました。

やがて老翁がまた来て、着替えた衫を脱いで置き、あわせて提げていた布を置き、船に乗って退きました。

阿倍臣は数隻の船を遣わして喚びましたが、来ようとせず、また弊賂辨の嶋へ行きました。食事ほどの間に和を乞いました。ついに聴き入れず、自分の柵に拠って戦いました。

このとき、能登臣馬身龍が敵に殺されました。なお戦いが倦まないあいだに、賊は自分の妻子を打ち殺しました。

夾注 2

闕名。

名が欠けています。

弊賂辨,渡嶋之別也。

弊賂辨は渡嶋の別です。

48漏剋を造る

夏五月辛丑朔戊申,高麗使人乙相賀取文等,到難波館。是月,有司奉敕,造一百高座、一百納袈裟,設仁王般若之會。又皇太子初造漏剋,使民知時。又阿倍引田臣,獻夷五十餘。又於石上池邊作須彌山。高如廟塔,以饗肅慎四十七人。又舉國百姓無故持兵,往還於道。

夏五月辛丑の朔の戊申の日、高麗の使人の乙相賀取文たちが難波の館に着きました。

この月、有司が勅を奉じて、高座百、納袈裟百を造り、仁王般若の会を設けました。

また皇太子がはじめて漏剋を造り、民に時を知らせました。

また阿倍引田臣が夷五十余人を献じました。

また石上の池の辺に須弥山を造りました。高さは廟塔のようでした。これで肅慎四十七人をもてなしました。

また国を挙げて百姓がわけもなく兵を持ち、道を往き還りしました。

夾注 2

闕名。

名が欠けています。

國老言:「百濟國失所之相乎。」

国の老人が言いました。「百済国が所を失う相でしょうか。」

49百済が滅びる

秋七月庚子朔乙卯,高麗使人乙相賀取文等罷歸。又覩貨羅人乾豆波斯達阿欲歸本土,求請送使曰:「願後朝於大國。所以留妻為表。」乃與數十人入于西海之路。高麗沙門道顯『日本世記』曰:七月,云云。春秋智借大將軍蘇定方之手,使擊百濟,亡之。或曰:「百濟自亡。由君大夫人妖女之無道,擅奪國柄,誅殺賢良故,召斯禍矣。可不慎歟,可不慎歟。」其注云:「新羅春秋智,不得願於內臣蓋金。故亦使於唐,捨俗衣冠,請媚於天子,投禍於鄰國,而構斯意行者也。」『伊吉連博德書』云:庚申年八月,百濟已平之後,九月十二日,放客本國。十九日,發自西京。

秋七月庚子の朔の乙卯の日、高麗の使人の乙相賀取文たちが帰って行きました。

また覩貨羅の人の乾豆波斯達阿が本土に帰ろうとして、送る使者を求めて請い、言いました。「願わくはのちに大国に朝しましょう。そのために妻を留めて表とします。」そこで数十人とともに西海の路に入りました。

高麗の沙門道顕の『日本世記』に言います。

七月、云々。春秋智が大将軍蘇定方の手を借りて百済を撃たせ、これを亡ぼしました。

ある人は言いました。「百済はおのずから亡びた。君の大夫人である妖女が無道で、国の権柄をほしいままに奪い、賢良な者を誅殺したために、この禍を招いたのだ。慎まないでいられようか、慎まないでいられようか。」

その注に言います。「新羅の春秋智は、内臣の蓋金に願うところを得られなかった。そこで唐に使いし、俗の衣冠を捨てて天子に媚びることを請い、隣国に禍を投じて、この意を構えて行った者である。」

『伊吉連博徳書』に言います。庚申の年の八月、百済が平らげられたのちの九月十二日、客を本国へ放ちました。十九日、西京から出発しました。

50阿利麻たちに会う

十月十六日,還到東京,始得相見阿利麻等五人。

十月十六日、東京に帰り着き、はじめて阿利麻たち五人と会うことができました。

51百済の王と太子を献ずる

十一月一日,為將軍蘇定方等所捉百濟王以下太子隆等諸王子十三人,大佐平沙宅千福、國辨成以下三十七人,并五十許人。奉進朝堂。急引趍向天子。天子恩敕見前放著。十九日,賜勞。二十四日,發自東京。

十一月一日、将軍蘇定方たちに捕らえられた百済王以下、太子隆たち諸王子十三人、大佐平の沙宅千福、国辨成以下三十七人、あわせて五十人ほどを朝堂に奉り進めました。急いで引いて天子の方へ向かわせました。天子は恩ある勅により、前に放って置かせました。

十九日、労をねぎらって賜わりました。二十四日、東京から出発しました。

52福信が起つ

九月己亥朔癸卯,百濟遣達率沙彌覺從等來奏曰:「今年七月,新羅恃力作勢,不親於鄰。引構唐人,傾覆百濟!君臣總俘,略無噍類!於是,西部恩率鬼室福信赫然發憤,據任射岐山。達率餘自進據中部久麻怒利城。各營一所,誘聚散卒。兵盡前役,故以棓戰。新羅軍破,百濟奪其兵。繼而百濟兵翻銳,唐不敢入。福信等遂鳩集同國,共保王城。國人尊曰:『佐平福信!佐平自進!』唯福信起神武之權,興既亡之國。」

九月己亥の朔の癸卯の日、百済が達率の沙弥覚従たちを遣わし、来て奏して言いました。

「今年の七月、新羅が力を恃んで勢いを作り、隣と親しくしませんでした。唐人を引き入れて百済を傾け覆しました。君臣はすべて俘となり、生き残る者はほとんどありません。

そこで西部の恩率鬼室福信が赫然と憤りを発し、任射岐山に拠りました。達率の餘自進は中部の久麻怒利城に拠りました。それぞれ一か所に営み、散った卒を誘い集めました。

兵は先の役で尽きていたので、棓で戦いました。新羅の軍は破れ、百済はその兵器を奪いました。それから百済の兵はかえって鋭くなり、唐は敢えて入ってきませんでした。

福信たちはついに同国の人を鳩め集め、ともに王城を保ちました。国人は尊んで言いました。『佐平福信よ、佐平自進よ。』ただ福信が神武の権を起こし、すでに亡びた国を興したのです。」

夾注 5

闕名。

名が欠けています。

或本云,逃來告難。

ある本には、逃げて来て難を告げたといいます。

或本云,今年七月十日,大唐蘇定方,率船師軍尾資之津,新羅王春秋智率兵馬軍于怒受利之山。夾擊百濟,相戰三日,陷我王城。同月十三日,始破王城。怒受利山,百濟之東堺也。

ある本にはこう伝えます。今年の七月十日、大唐の蘇定方が船師を率いて尾資の津に軍し、新羅王の春秋智が兵馬を率いて怒受利の山に軍しました。百済を挟み撃ちにして三日戦い、わが王城を陥しました。同月十三日、はじめて王城を破りました。怒受利山は百済の東の境です。

或本云,北任敘利山。

ある本には、北任敘利山といいます。

或本云,都都岐留山。

ある本には、都都岐留山といいます。

53王子豊璋を請う

冬十月,百濟佐平鬼室福信,遣佐平貴智等,來獻唐俘一百餘人。今美濃國不破、片縣二郡唐人等也。又乞師請救。并乞王子餘豐璋曰:「唐人率我蝥賊,來蕩搖我疆場,覆我社稷,俘我君臣。而百濟國遙賴天皇護念,更鳩集以成邦。方今謹願,迎百濟國遣侍天朝王子豐璋,將為國主。」云云。詔曰:「乞師請救,聞之古昔。扶危繼絕,著自恒典。百濟國窮來歸我。『以本邦喪亂,靡依靡告,枕戈嘗膽。必存拯救。』遠來表啟,志有難奪。可分命將軍,百道俱前。雲會雷動,聚集沙㖨,翳其鯨鯢,紓彼倒懸。宜有司具為與之,以禮發遣。」云云。

冬十月、百済の佐平鬼室福信が佐平の貴智たちを遣わし、来て唐の俘百余人を献じました。いまの美濃国不破・片県の二郡の唐人たちです。

また師を乞い救いを請いました。あわせて王子の餘豊璋を乞い、言いました。

「唐人がわが蝥賊を率いて来て、わが疆場を蕩かし揺るがし、わが社稷を覆し、わが君臣を俘としました。しかし百済国は遥かに天皇のお護りに頼り、あらためて鳩め集まって邦をなしました。いまつつしんで願いますのは、百済国が天朝に遣わして侍らせている王子豊璋を迎え、国主といたしたいことです。」云々。

詔して言いました。

「師を乞い救いを請うことは、いにしえにも聞いた。危うきを扶け絶えたるを継ぐことは、恒の典に著れている。百済国は窮して我に帰してきた。『本邦が喪乱し、依るところも告げるところもなく、戈を枕とし胆を嘗めて、かならず拯い救われることを望む』という。遠く来て表啓を奉るその志は、奪いがたい。

まさに将軍たちに分けて命じ、百の道をともに進ませよ。雲のように会し雷のように動いて沙㖨に集まり、その鯨鯢を斃し、あの倒懸の苦しみを紓べよ。有司は具えてこれに与え、礼をもって発遣するがよい。」云々。

夾注 3

或本云,佐平貴智、達率正珍也。

ある本には、佐平の貴智と達率の正珍といいます。

百濟王義慈,其妻恩古,其子隆等,其臣佐平千福、國辨成、孫登等凡五十餘。秋七月十三日,為蘇將軍所捉,而送去於唐國。蓋是無故持兵之徵乎。

百済王の義慈、その妻の恩古、その子の隆たち、その臣の佐平千福、国辨成、孫登たち、全部で五十余人です。秋七月十三日、蘇将軍に捕らえられて唐国へ送り去られました。おそらくこれが、わけもなく兵を持っていた徴しでしょうか。

送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等。其正發遣之時,見于七年。或本云:「天皇立豐璋為王,立塞上為輔,而以禮發遣焉。」

王子豊璋とその妻子、またその叔父の忠勝たちを送りました。その正式に発遣したときは七年に見えます。ある本には「天皇が豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔とし、礼をもって発遣した」といいます。

54難波宮に行く

十二月丁卯朔庚寅,天皇幸于難波宮。天皇方隨福信所乞之意,思幸筑紫,將遣救軍,而初幸斯,備諸軍器。

十二月丁卯の朔の庚寅の日、天皇が難波宮に行きました。天皇はまさに福信の乞う意に従って筑紫に行き、救いの軍を遣わそうとし、まずここに行って諸々の軍器を備えました。

55船が転覆する

是歲,欲為百濟,將伐新羅。乃敕駿河國造船。已訖,挽至續麻郊之時,其船夜中無故艫舳相反。眾知終敗。科野國言:「蠅群向西,飛踰巨坂。大十圍許,高至蒼天。」或知救軍敗績之怪。有童謠曰:

この年、百済のために新羅を討とうとしました。そこで駿河国に勅して船を造らせました。すでに造り終え、続麻郊まで挽いて来たとき、その船が夜中にわけもなく艫と舳が入れ替わりました。人々はついに敗れることを知りました。

科野国が言いました。「蠅の群れが西に向かい、巨坂を越えて飛んで行きました。大きさは十囲ほどで、高さは蒼天に届きました。」

ある人は、救いの軍が敗績する怪であると知りました。

童謡がありました。

56歌 — 童謡

摩比邏矩都能俱例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦俱能理歌理鵝

「まひらく つのくれづれ おのへだをらふく のりかりが みわだ とのりかみ をのへだをらふく のりかりが かふしと わよと みをのへだをらふく のりかりが(摩比邏矩都能俱例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦俱能理歌理鵝)」

— 音を書き写したものなので、意味の訳はしません。古くから意味の解けない歌として知られています。

57西へ向かう

春正月丁酉朔壬寅,御船西征,始就于海路。甲辰,御船到于大伯海。時大田姬皇女產女焉。仍名是女曰大伯皇女。庚戌,御船泊于伊豫熟田津石湯行宮。

春正月丁酉の朔の壬寅の日、御船が西を征つため、はじめて海路につきました。

甲辰の日、御船が大伯の海に着きました。そのとき大田姫皇女が女子を産みました。そこでこの女子を名づけて大伯皇女といいました。

庚戌の日、御船が伊予の熟田津の石湯の行宮に泊まりました。

夾注 1

熟田津,此云儞枳柁豆。

熟田津は儞枳柁豆と読みます。

58娜の大津に着く

三月丙申朔庚申,御船還至于娜大津。居于磐瀨行宮。天皇改此,名曰長津。

三月丙申の朔の庚申の日、御船が娜の大津に帰り着きました。磐瀬の行宮に居ました。天皇はこの名を改めて長津といいました。

59糺解を請う

夏四月,百濟福信遣使上表,乞迎其王子糺解。釋道顯『日本世記』曰:百濟福信獻書,祈其君糺解於東朝。或本云:四月,天皇遷居于朝倉宮。

夏四月、百済の福信が使者を遣わして表を上り、その王子の糺解を迎えることを乞いました。

釈道顕の『日本世記』に、百済の福信が書を献じ、その君の糺解を東朝に祈ったといいます。

ある本には、四月、天皇が朝倉宮に移り住んだといいます。

60朝倉宮

五月乙未朔癸卯,天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時,斮除朝倉社木,而作此宮之故,神忿壞殿。亦見宮中鬼火。由是大舍人及諸近侍病死者眾。丁巳,耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。『伊吉連博得書』云:辛酉年,正月二十五日,還到越州。

五月乙未の朔の癸卯の日、天皇が朝倉の橘広庭宮に移り住みました。

このとき、朝倉の社の木を斬り除いてこの宮を造ったために、神が忿って殿を壊しました。また宮の中に鬼火が見えました。これによって大舎人や諸々の近侍の中に、病んで死ぬ者が多くありました。

丁巳の日、耽羅がはじめて王子の阿波伎たちを遣わして貢ぎ献じました。

『伊吉連博得書』に言います。辛酉の年の正月二十五日、越州に帰り着きました。

61耽羅の人に会う

四月一日,從越州上路,東歸。七日,行到檉岸山明。以八日雞鳴之時,順西南風,放船大海。海中迷途,漂蕩辛苦。九日八夜,僅到耽羅之嶋。便即招慰嶋人王子阿波伎等九人,同載客船,擬獻帝朝。

四月一日、越州から路につき、東へ帰りました。七日、檉岸山明に着きました。八日の鶏の鳴くころ、西南の風に従って船を大海に放ちました。海の中で途に迷い、漂い揺られて辛苦しました。九日八夜で、ようやく耽羅の嶋に着きました。そこで嶋の人の王子の阿波伎たち九人を招き慰め、ともに客の船に載せ、帝の朝廷に献じようとしました。

62耽羅がはじめて朝する

五月二十三日,奉進朝倉之朝。耽羅入朝,始於此時。又為智興傔人東漢草直足嶋所讒,使人等不蒙寵命。使人等怨,徹于上天之神,震死足嶋。時人稱曰:「大倭天報之近。」

五月二十三日、朝倉の朝廷に奉り進めました。耽羅が入朝したのは、このときにはじまります。

また智興の傔人の東漢草直足嶋に讒られ、使人たちは寵の命を蒙りませんでした。使人たちが怨み、それが上天の神に徹り、足嶋は震え死にました。当時の人は称して言いました。「大倭の天の報いは近い。」

63伊勢王が薨じる

六月,伊勢王薨。

六月、伊勢王が薨じました。

64天皇が崩じる

秋七月甲午朔丁巳,天皇崩于朝倉宮。

秋七月甲午の朔の丁巳の日、天皇が朝倉宮で崩じました。

65喪が磐瀬宮に着く

八月甲子朔,皇太子奉徙天皇喪,還至磐瀨宮。

八月甲子の朔、皇太子が天皇の喪を奉じて移し、磐瀬宮に帰り着きました。

66鬼が見下ろす

是夕,於朝倉山上有鬼,著大笠,臨視喪儀。眾皆嗟怪。

この夕、朝倉山の上に鬼がいて、大きな笠をかぶり、喪の儀を見下ろしていました。人々は皆、嗟いて怪しみました。

67皇太子が歌う

冬十月癸亥朔己巳,天皇之喪歸就于海。於是皇太子泊於一所,哀慕天皇,乃口號曰:

冬十月癸亥の朔の己巳の日、天皇の喪が海へ帰って行きました。そこで皇太子は一か所に泊まり、天皇を哀しみ慕って、口ずさんで言いました。

68歌 — 皇太子

君が目の戀しきからに泊てて居て斯くや戀ひむも君が目を欲り

「君が目の戀しきからに泊てて居て斯くや戀ひむも君が目を欲り」

— この底本はこの歌を万葉仮名の原文ではなく日本語の読みで載せています。音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

69難波に泊まる

乙酉,天皇之喪,還泊于難波。

乙酉の日、天皇の喪が難波に帰り泊まりました。

70飛鳥川原に殯する

十一月壬辰朔戊戌,以天皇喪殯于飛鳥川原。自此發哀,至于九日。『日本世記』云:十一月,福信所獲唐人續守言等,至于筑紫。或本云:辛酉年,百濟佐平福信所獻唐俘一百六口,居于近江國墾田。庚申年,既云福信獻唐俘。故今存注,其決焉。

十一月壬辰の朔の戊戌の日、天皇の喪を飛鳥の川原に殯しました。これより哀を発し、九日に至りました。

『日本世記』に、十一月、福信が獲た唐人の続守言たちが筑紫に着いたといいます。

ある本には、辛酉の年、百済の佐平福信が献じた唐の俘百六人が近江国の墾田に居たといいます。庚申の年に、すでに福信が唐の俘を献じたといいました。そこでいま注を存して、それを決めておきます。