いにしえの文 › 日本書紀(日本の編年史) › 人代

天智天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 97 · 漢字 5,441字 · 朗読 21.8分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1天智天皇

天命開別天皇,息長足日廣額天皇太子也。母曰天豐財重日足姬天皇。天豐財重日足姬天皇四年,讓位於天萬豐日天皇。立天皇為皇太子。

天命開別天皇は、息長足日広額天皇の太子です。母は天豊財重日足姫天皇といいます。

天豊財重日足姫天皇の四年、位を天万豊日天皇に譲り、天皇を立てて皇太子としました。

2孝徳天皇が崩じる

天萬豐日天皇後五年,十月,崩。

天万豊日天皇は、のち五年の十月に崩じました。

3斉明天皇が位に即く

明年,皇祖母尊即天皇位。

翌年、皇祖母尊が天皇の位に即きました。

4喪のうちに政を執る

七年,七月丁巳,崩。皇太子素服稱制。是月,蘇將軍與突厥王子契苾加力等,水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮,稍聽水表之軍政。

七年の七月丁巳の日、崩じました。皇太子は素服のまま称制しました。

この月、蘇将軍と突厥の王子の契苾加力たちが、水陸の二路から高麗の城下に至りました。皇太子は長津宮に移り住み、少しずつ海の外の軍政を聴きました。

5百済を救うために遣わす

八月,遣前將軍大花下阿曇比邏夫連、小花下河邊百枝臣等,後將軍大花下阿倍引田比邏夫臣、大山上物部連熊、大山上守君大石等,救於百濟。仍送兵杖、五榖。

八月、前将軍の大花下阿曇比邏夫連と小花下河辺百枝臣たち、後将軍の大花下阿倍引田比邏夫臣と大山上物部連熊、大山上守君大石たちを遣わし、百済を救わせました。あわせて兵杖と五穀を送りました。

夾注 1

或本,續此末云:「別使大山下狹井連檳榔、小山下秦造田來津,守護百濟。」

ある本には、この末に続けて「別に大山下の狹井連檳榔と小山下の秦造田来津を使いとし、百済を守護させた」といいます。

6豊璋を百済に送る

九月,皇太子御長津宮,以織冠授於百濟王子豐璋。復以多臣蔣敷之妹,妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔、小山下秦造田來津,率軍五千餘,衛送於本鄉。於是,豐璋入國之時,福信迎來,稽首奉國朝政,皆悉委焉。

九月、皇太子が長津宮にあって、織冠を百済の王子豊璋に授けました。さらに多臣蔣敷の妹を妻とさせました。

そして大山下の狹井連檳榔と小山下の秦造田来津を遣わし、軍五千余を率いて本郷まで護り送らせました。

そこで豊璋が国に入ったとき、福信が迎えに来て、頭を垂れ、国の朝政を奉じてことごとく委ねました。

7高麗が唐軍を防ぐ

十二月,高麗言:「惟十二月,於高麗國寒極浿凍。故唐軍雲車、衝輣,鼓鉦吼然。高麗士卒膽勇雄壯。故更取唐二壘,唯有二塞。亦備夜取之計,唐兵抱膝而哭。銳鈍力竭,而不能拔。」噬臍之恥,非此而何?釋道顯云:「言春秋之志,正起于高麗,而先聲百濟。百濟近侵甚苦急,故爾也。」

十二月、高麗が言いました。

「この十二月、高麗国は寒さが極まって浿水が凍りました。そのため唐の軍は雲車と衝輣で、鼓と鉦を吼えるように鳴らしました。高麗の士卒は胆も勇も雄々しく壮んでした。そのためさらに唐の塁二つを取り、残るは二つの塞だけとなりました。また夜に取る計を備えますと、唐の兵は膝を抱えて哭きました。鋭さは鈍り力は尽きて、抜くことができませんでした。」

臍を噬む恥とは、これでなくて何でしょうか。

沙門道顕が言いました。「春秋の志はまさに高麗に起こったが、まず百済に声をあげたのだ。百済が近く侵してはなはだ苦しく急であったから、そうしたのである。」

8滅びる兆し

是歲,播磨國司岸田臣麻呂等獻寶劍言:「於狹夜郡人禾田穴內獲焉。」又,日本救高麗將軍等,泊于百濟加巴利濱而然火焉。灰變為孔,有細響,如鳴鏑。或曰:「高麗、百濟終亡之徵乎。」

この年、播磨の国司の岸田臣麻呂たちが宝剣を献じて言いました。「狹夜郡の人の禾田の穴の中で得ました。」

また、日本が高麗を救いに行った将軍たちが、百済の加巴利の浜に泊まって火を焚きました。灰が変じて孔となり、細い響きがして、鳴鏑のようでした。

ある人は言いました。「高麗と百済がついに亡びる徴しでしょうか。」

9福信に物を賜わる

春正月辛卯朔丁巳,賜百濟佐平鬼室福信矢十萬枝、絲五百斤、綿一千斤、布一千端、韋一千張、稻種三千斛。

春正月辛卯の朔の丁巳の日、百済の佐平鬼室福信に矢十万枝、糸五百斤、綿一千斤、布一千端、韋一千張、稲種三千斛を賜わりました。

10疏留城に拠る

三月庚寅朔癸巳,賜百濟王布三百端。是月,唐人、新羅人伐高麗。高麗乞救國家。仍遣軍將,據疏留城。由是,唐人不得略其南堺,新羅不獲輸其西壘。

三月庚寅の朔の癸巳の日、百済王に布三百端を賜わりました。

この月、唐人と新羅人が高麗を討ちました。高麗は国家に救いを乞いました。そこで軍将を遣わし、疏留城に拠りました。これによって唐人はその南の境を略することができず、新羅はその西の塁へ輸ることができませんでした。

11鼠が馬の尾に子を産む

夏四月,鼠產於馬尾。釋道顯占曰:「北國之人將附南國。蓋高麗破,而屬日本乎。」

夏四月、鼠が馬の尾に子を産みました。沙門道顕が占って言いました。「北の国の人が南の国に附くであろう。おそらく高麗が破れて日本に属するのであろうか。」

12豊璋が位を継ぐ

五月,大將軍大錦中阿曇比邏夫連等,率船師一百七十艘,送豐璋等於百濟國,宣敕,以豐璋等使繼其位。又予金策於福信,而撫其背,褒賜爵祿。于時,豐璋等與福信稽首受敕,眾為流涕。

五月、大将軍の大錦中阿曇比邏夫連たちが、船師百七十艘を率い、豊璋たちを百済国に送りました。勅を宣べて、豊璋たちにその位を継がせました。

また金策を福信に与え、その背を撫でて、爵と禄を褒めて賜わりました。このとき豊璋たちと福信は頭を垂れて勅を受け、人々は涕を流しました。

13百済が調を奉る

六月己未朔丙戌,百濟遣達率萬智等,進調獻物。

六月己未の朔の丙戌の日、百済が達率の万智たちを遣わし、調を奉り、物を献じました。

14避城に移る

冬十二月丙戌朔,百濟王豐璋,其臣佐平福信等,與狹井連、朴市田來津議曰:「此州柔者,遠隔田畝,土地磽确,非農桑之地,是拒戰之場。此焉久處,民可飢饉。今可遷於避城。避城者,西北帶以古連旦涇之水,東南據深泥巨堰之防。繚以周田,決渠降雨。華實之毛則三韓之上腴焉。衣食之源則二儀之隩區矣。雖曰地卑,豈不遷歟?」於是,朴市田來津獨進而諫曰:「避城與敵所在之間,一夜可行,相近茲甚。若有不虞,其悔難及者矣。夫飢者後也,亡者先也。今敵所以不妄來者,州柔設置山險,盡為防禦,山峻高而谿隘,守易而攻難之故也。若處卑地,何以固居,而不搖動及今日乎。」遂不聽諫,而都避城。

冬十二月丙戌の朔、百済王の豊璋と、その臣の佐平福信たちが、狹井連と朴市田来津と議して言いました。

「この州柔は田畝から遠く隔たり、土地は磽确で、農桑の地ではなく、拒ぎ戦う場です。ここに久しく処れば、民は飢饉となりましょう。

いま避城に移るのがよい。避城は西北に古連旦涇の水を帯び、東南に深い泥の巨きな堰の防ぎに拠っています。周りをめぐるのは田で、渠を決けば雨の降ったようです。花と実の豊かさは三韓の上の腴です。衣食の源は天地の隩まった区です。地が卑いとはいえ、どうして移らないでいられましょうか。」

そこで朴市田来津が独り進み出て諫めて言いました。

「避城と敵のいる所との間は、一夜で行ける近さで、互いの近いことがはなはだしいのです。もし思わぬ事があれば、その悔いは及びがたいでしょう。

そもそも飢えは後の事、亡びは先の事です。いま敵がみだりに来ないのは、州柔が山の険を設け、ことごとく防禦となし、山が峻しく高く谿が隘いので、守りやすく攻めにくいからです。もし卑い地に処れば、何によって固く居り、今日まで搖れ動かずにいられましょうか。」

ついに諫めを聴かず、避城に都しました。

夾注 1

闕名。

名が欠けています。

15船と兵器を備える

是歲,為救百濟,修繕兵甲,備具船舶,儲設軍糧。是年也,太歲壬戌。

この年、百済を救うため、兵甲を修め繕い、船舶を備え具え、軍糧を儲え設けました。この年は太歳壬戌です。

16ふたたび州柔に帰る

春二月乙酉朔丙戌,百濟遣達率金受等進調。新羅人燒燔百濟南畔四州,并取安德等要地。於是,避城去賊近,故勢不能居。乃還居於州柔。如田來津之所計。是月,佐平福信上送唐俘續守言等。

春二月乙酉の朔の丙戌の日、百済が達率の金受たちを遣わし、調を奉りました。

新羅人が百済の南の境の四州を焼き、あわせて安徳などの要地を取りました。

そこで避城は賊に近いので、勢い居ることができませんでした。そこで州柔に帰り住みました。田来津が計ったとおりでした。

この月、佐平福信が唐の俘の続守言たちを上り送りました。

17新羅を討つ

三月,遣前將軍上毛野君稚子、間人連大蓋,中將軍巨勢神前臣譯語、三輪君根麻呂,後將軍阿倍引田臣比邏夫、大宅臣鎌柄,率二萬七千人,打新羅。

三月、前将軍の上毛野君稚子と間人連大蓋、中将軍の巨勢神前臣訳語と三輪君根麻呂、後将軍の阿倍引田臣比邏夫と大宅臣鎌柄を遣わし、二万七千人を率いて新羅を討ちました。

18糺解が福信の罪を言う

夏五月癸丑朔,犬上君,馳告兵事於高麗而還。見糺解於石城。糺解仍語福信之罪。

夏五月癸丑の朔、犬上君が軍のことを高麗に馳せ告げて帰りました。糺解に石城で会いました。糺解はそこで福信の罪を語りました。

夾注 1

闕名。

名が欠けています。

19福信が死ぬ

六月,前將軍上毛野君稚子等取新羅沙鼻、岐奴江二城。百濟王豐璋,嫌福信有謀反心,以革穿掌而縛。時難自決,不知所為。乃問諸臣曰:「福信之罪,既如此焉。可斬以不?」於是達率德執得曰:「此惡逆人,不合放捨。」福信即唾於執得,曰:「腐狗癡奴!」王勒健兒,斬而醢首。

六月、前将軍の上毛野君稚子たちが新羅の沙鼻・岐奴江の二城を取りました。

百済王の豊璋は、福信に謀反の心があると嫌い、革で掌を穿って縛りました。そのとき自分では決しがたく、どうしてよいかわかりませんでした。そこで諸臣に問いました。「福信の罪は、すでにこのとおりである。斬るべきか否か。」

そこで達率の徳執得が言いました。「この悪逆の人は、放ち捨てるべきではありません。」

福信はすぐに執得に唾して言いました。「腐った狗、癡かな奴め。」

王は健児に命じて斬り、首を醢にしました。

20白村江の戦い

秋八月壬午朔甲午,新羅以百濟王斬己良將,謀直入國先取州柔。於是百濟知賊所計,謂諸將曰:「今聞:『大日本國之救將廬原君臣,率健兒萬餘,正當越海而至。』願諸將軍等應預圖之。我欲自往待饗白村。」戊戌,賊將至於州柔,繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘,陣烈於白村江。戊申,日本船師初至者與大唐船師合戰。日本不利而退,大唐堅陣而守。己酉,日本諸將與百濟王,不觀氣象,而相謂之曰:「我等爭先,彼應自退。」更率日本亂伍中軍之卒,進打大唐堅陣之軍。大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際,官軍敗績。赴水溺死者眾。艫舳不得迴旋。朴市田來津仰天而誓,切齒而嗔,殺數十人,於焉戰死。是時,百濟王豐璋與數人,乘船逃去高麗。

秋八月壬午の朔の甲午の日、新羅は百済王が自分の良い将を斬ったので、まっすぐ国に入り、まず州柔を取ろうと謀りました。

そこで百済は賊の計るところを知り、諸将に言いました。「いま聞くところでは『大日本国の救いの将、廬原君臣が、健児一万余を率い、まさに海を越えて至る』という。願わくは諸将軍たちはあらかじめこれを図られよ。わたしは自分で行って白村で待ち、もてなそうと思う。」

戊戌の日、賊将が州柔に至り、その王城を囲みました。大唐の軍将は戦船百七十艘を率い、白村江に陣を列べました。

戊申の日、日本の船師で初めに至った者が、大唐の船師と合戦しました。日本は利あらずして退き、大唐は陣を堅くして守りました。

己酉の日、日本の諸将と百済王は、気象を観ずに、互いに言いました。「われらが先を争えば、彼らはおのずから退くであろう。」

さらに日本の伍の乱れた中軍の卒を率い、進んで大唐の堅い陣の軍を打ちました。

大唐はすぐに左右から船を挟んでめぐり戦いました。たちまちのうちに官軍は敗績しました。水に赴いて溺れ死ぬ者が多くありました。艫と舳をめぐらすこともできませんでした。

朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を切って嗔り、数十人を殺して、そこで戦死しました。

このとき、百済王の豊璋は数人とともに船に乗って高麗へ逃げ去りました。

21百済という名が絶える

九月辛亥朔丁巳,百濟州柔城,始降於唐。是時,國人相謂之曰:「州柔降矣,事無奈何。百濟之名,絕于今日。丘墓之所,豈能復往。但可往於弖禮城,會日本軍將等,相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等,令知去國之心。辛酉,發途於牟弖。癸亥,至弖禮。甲戌,日本船師及佐平余自信、達率木素貴子、谷那晉首、憶禮福留并國民等至於弖禮城。明日,發船始向日本。

九月辛亥の朔の丁巳の日、百済の州柔城が、はじめて唐に降りました。

このとき、国人は互いに言いました。

「州柔が降った。事はどうしようもない。百済の名は、今日で絶える。丘墓のある所に、どうして再び往けようか。ただ弖礼城に往き、日本の軍将たちに会って、事の機の要るところを相談するほかはない。」

ついにもと枕服岐城にいた妻子たちに教え、国を去る心を知らせました。

辛酉の日、牟弖から途に発ちました。癸亥の日、弖礼に至りました。甲戌の日、日本の船師と佐平の余自信、達率の木素貴子、谷那晋首、憶礼福留、あわせて国民たちが弖礼城に至りました。

明くる日、船を発し、はじめて日本に向かいました。

22冠位二十六階

春二月已卯朔丁亥,天皇命大皇弟,宜增換冠位階名及氏上、民部、家部等事。其冠有二十六階。大織、小織、大縫、小縫、大紫、小紫、大錦上、大錦中、大錦下、小錦上、小錦中、小錦下、大山上、大山中、大山下、小山上、小山中、小山下、大乙上、大乙中、大乙下、小乙上、小乙中、小乙下、大建、小建,是為二十六階焉。改前花曰錦,從錦至乙,加十階。又加換前初位一階,為大建、小建二階。以此為異,餘並依前。其大氏之氏上賜大刀,小氏之氏上賜小刀,其伴造等之氏上賜干楯、弓矢。亦定其民部、家部。

春二月己卯の朔の丁亥の日、天皇が大皇弟に命じ、冠位の階の名および氏上・民部・家部などのことを増し換えさせました。

その冠に二十六階があります。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、これが二十六階です。

前の花を改めて錦といい、錦から乙まで十階を加えました。また前の初位一階を加え換えて、大建・小建の二階としました。これを異なるものとし、残りはあわせて前のとおりとしました。

その大氏の氏上に大刀を賜わり、小氏の氏上に小刀を賜わり、その伴造たちの氏上に干楯と弓矢を賜わりました。またその民部・家部を定めました。

23善光王が難波に住む

三月,以百濟王善光王等居于難波。有星殞于京北。是春,地震。

三月、百済王の善光王たちを難波に住まわせました。星が京の北に殞ちました。この春、地が震いました。

24劉仁願が使者を遣わす

夏五月戊申朔甲子,百濟鎮將劉仁願,遣朝散大夫郭務悰等,進表函與獻物。是月,大紫蘇我連大臣,薨。

夏五月戊申の朔の甲子の日、百済の鎮将の劉仁願が、朝散大夫の郭務悰たちを遣わし、表函と献上の物を進めました。

この月、大紫の蘇我連大臣が薨じました。

夾注 1

或本,大臣薨注五月。

ある本には、大臣が薨じたことを五月に注しています。

25嶋皇祖母命が薨じる

六月,嶋皇祖母命薨。

六月、嶋皇祖母命が薨じました。

26蓋金が死ぬ

冬十月乙亥朔,宣發遣郭務悰等敕。是日,中臣內臣遣沙門智祥,賜物於郭務悰。戊寅,饗賜郭務悰等。是月,高麗大臣蓋金,終於其國。遺言於兒等曰:「汝等兄弟,和如魚水,勿爭爵位。若不如是,必為鄰咲。」

冬十月乙亥の朔、郭務悰たちを発遣する勅を宣べました。この日、中臣内臣が沙門の智祥を遣わし、郭務悰に物を賜わりました。戊寅の日、郭務悰たちをもてなし賜わりました。

この月、高麗の大臣の蓋金が、その国で終わりました。児たちに遺言して言いました。「お前たち兄弟は、魚と水のように和し、爵位を争うな。もしそうしなければ、かならず隣の笑いものとなるだろう。」

27郭務悰が帰る

十二月甲戌朔乙酉,郭務悰等罷歸。是月,淡海國言:「坂田郡人小竹田史身之豬槽水中,忽然稻生。身取而收,日日致富。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端,一宿之間,稻生而穗。其旦垂穎而熟。明日之夜,更生一穗。新婦出庭,兩箇鑰匙自天落前。婦取而與殷,殷得始富。」

十二月甲戌の朔の乙酉の日、郭務悰たちが帰って行きました。

この月、淡海国が言いました。

「坂田郡の人の小竹田史身の豬の槽の水の中に、たちまち稲が生えました。身が取って収め、日々に富みました。

栗太郡の人の磐城村主殷の新婦の床席の頭の端に、一夜のうちに稲が生えて穂となりました。その朝には穎を垂れて熟しました。明くる日の夜、さらに一穂が生えました。新婦が庭に出ますと、二つの鑰匙が天から前に落ちました。婦が取って殷に与えると、殷は得てはじめて富みました。」

28水城を築く

是歲,於對馬嶋、壹岐嶋、筑紫國等,置防與烽。又於筑紫,築大堤貯水,名曰水城。

この年、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国などに防と烽を置きました。また筑紫に大きな堤を築いて水を貯え、名づけて水城といいました。

29百済の人を近江に住まわせる

春二月癸酉朔丁酉,間人大后薨。是月,勘校百濟國官位階級。仍以佐平福信之功,授鬼室集斯小錦下。復以百濟百姓男女四百餘人,居于近江國神前郡。

春二月癸酉の朔の丁酉の日、間人大后が薨じました。

この月、百済国の官位の階級を勘え校べました。そこで佐平福信の功により、鬼室集斯に小錦下を授けました。

さらに百済の百姓の男女四百余人を、近江国神前郡に住まわせました。

夾注 1

其本位達率。

その本の位は達率です。

30田を給う

三月癸卯朔,為間人大后,度三百三十人。是月,給神前郡百濟人田。

三月癸卯の朔、間人大后のために、三百三十人を度しました。

この月、神前郡の百済の人に田を給いました。

31百済の人が城を築く

秋八月,遣達率答㶱春初,築城於長門國。遣達率憶禮福留、達率四比福夫於筑紫國,築大野及椽二城。耽羅遣使來潮。

秋八月、達率の答㶱春初を遣わし、長門国に城を築きました。達率の憶礼福留と達率の四比福夫を筑紫国に遣わし、大野と椽の二城を築きました。

耽羅が使者を遣わして来朝しました。

32劉徳高が来る

九月庚午朔壬辰,唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等。

九月庚午の朔の壬辰の日、唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高たちを遣わしました。

夾注 1

等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍朝散大夫柱國郭務悰。凡二百五十四人。七月二十八日,至于對馬。九月二十日,至于筑紫。二十二日,進表函焉。

「たち」とは、右戎衛郎将上柱国の百済の禰軍と、朝散大夫柱国の郭務悰をいいます。全部で二百五十四人です。七月二十八日に対馬に至り、九月二十日に筑紫に至りました。二十二日、表函を進めました。

33菟道で大いに閲する

冬十月己亥朔己酉,大閱于菟道。

冬十月己亥の朔の己酉の日、菟道で大いに閲しました。

34劉徳高をもてなす

十一月己巳朔辛巳,饗賜劉德高等。

十一月己巳の朔の辛巳の日、劉徳高たちをもてなし賜わりました。

35劉徳高が帰る

十二月戊戌朔辛亥,賜物於劉德高等。是月,劉德高等罷歸。

十二月戊戌の朔の辛亥の日、劉徳高たちに物を賜わりました。この月、劉徳高たちが帰って行きました。

36大唐に使者を遣わす

是歲,遣小錦守君大石等於大唐,云云。

この年、小錦の守君大石たちを大唐に遣わしました。云々。

夾注 1

等謂,小山坂合部連石積、大乙吉士岐彌、吉士針間。蓋送唐使人乎。

「たち」とは、小山の坂合部連石積、大乙の吉士岐弥、吉士針間をいいます。おそらく唐の使人を送ったのでしょうか。

37高麗と耽羅が貢ぐ

春正月戊辰朔戊寅,高麗遣前部能婁等進調。是日,耽羅遣王子姑如等貢獻。

春正月戊辰の朔の戊寅の日、高麗が前部の能婁たちを遣わし、調を奉りました。この日、耽羅が王子の姑如たちを遣わして貢ぎ献じました。

38病を見舞う

三月,皇太子親往於佐伯子麻呂連家,問其所患,慨歎元從之功。

三月、皇太子が自ら佐伯子麻呂連の家に行き、その患うところを問い、はじめから従った功を慨いて歎きました。

39能婁が帰る

夏六月乙未朔戊戌,高麗前部能婁等罷歸。

夏六月乙未の朔の戊戌の日、高麗の前部能婁たちが帰って行きました。

40大水

秋七月,大水。

秋七月、大水がありました。

41租調を返す

是秋,復租調。

この秋、租と調を返しました。

42高麗が調を奉る

冬十月甲午朔己未,高麗遣臣乙相奄𨛃等進調。

冬十月甲午の朔の己未の日、高麗が臣の乙相奄𨛃たちを遣わし、調を奉りました。

夾注 1

大使臣乙相奄𨛃、副使達相遁、二位玄武若光等。

大使は臣の乙相奄𨛃、副使は達相遁、二位の玄武若光たちです。

43百済の人を東国に住まわせる

是冬,京都之鼠向近江移。以百濟男女二千餘人居于東國。凡不擇緇素,起癸亥年至于三歲,並賜官食。倭漢沙門智由,獻指南車。

この冬、京都の鼠が近江に向かって移りました。百済の男女二千余人を東国に住まわせました。およそ緇素を択ばず、癸亥の年から三年にわたって、あわせて官の食を賜わりました。

倭漢の沙門の智由が指南車を献じました。

44二人の天皇を合葬する

春二月壬辰朔戊午,合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女,於小市岡上陵。是日,以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗、百濟、新羅,皆奉哀於御路。皇太子謂群臣曰:「我奉皇太后天皇之所敕,憂恤萬民之故,不起石槨之役。所冀永代以為鏡誡焉。」

春二月壬辰の朔の戊午の日、天豊財重日足姫天皇と間人皇女を、小市の岡の上の陵に合葬しました。この日、皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬りました。

高麗・百済・新羅は、みな御路で哀を奉りました。

皇太子が群臣に言いました。「わたしは皇太后天皇の勅されたところを奉じ、万民を憂え恤れむゆえに、石槨の役を起こさない。願わくは永く代々、鏡とし誡めとしてほしい。」

45近江に都を移す

三月辛酉朔己卯,遷都于近江。是時,天下百姓不願遷都,諷諫者多,童謠亦眾。日日夜夜,失火處多。

三月辛酉の朔の己卯の日、都を近江に移しました。

このとき、天下の百姓は都を移すことを願わず、諷して諫める者が多く、童謡もまた多くありました。日々夜々、火を失する所が多くありました。

46白い鷰

六月,葛野郡獻白鷰。

六月、葛野郡が白い鷰を献じました。

47耽羅が貢ぐ

秋七月己未朔己巳,耽羅遣佐平椽磨等貢獻。

秋七月己未の朔の己巳の日、耽羅が佐平の椽磨たちを遣わして貢ぎ献じました。

48倭の京に行く

八月,皇太子幸倭京。

八月、皇太子が倭の京に行きました。

49男生が大唐に走る

冬十月,高麗大兄男生,出城巡國。於是城內二弟聞側助士大夫之惡言,拒而勿入。由是男生奔入大唐,謀滅其國。

冬十月、高麗の大兄男生が城を出て国を巡りました。そこで城内の二人の弟が、側で助ける士大夫の悪しき言葉を聞き、拒んで入れませんでした。これによって男生は大唐に走り入り、その国を滅ぼすことを謀りました。

50城を築く

十一月丁巳朔乙丑,百濟鎮將劉仁願,遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等,送大山下境部連石積等於筑紫都督府。己巳,司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博德、大乙下笠臣諸石,為送使。是月,築倭國高安城、讚吉國山田郡屋嶋城、對馬國金田城。

十一月丁巳の朔の乙丑の日、百済の鎮将の劉仁願が、熊津都督府熊山県令上柱国の司馬法聰たちを遣わし、大山下の境部連石積たちを筑紫都督府に送りました。

己巳の日、司馬法聰たちが帰って行きました。小山下の伊吉連博徳と大乙下の笠臣諸石を、送る使いとしました。

この月、倭国の高安城、讚吉国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築きました。

51椽磨に物を賜わる

閏十一月丁亥朔丁酉,以錦十四匹、纈十九匹、緋二十四匹、紺布二十四端、桃染布五十八端、斧二十六、釤六十四、刀子六十二枚,賜椽磨等。

閏十一月丁亥の朔の丁酉の日、錦十四匹、纈十九匹、緋二十四匹、紺布二十四端、桃染布五十八端、斧二十六、釤六十四、刀子六十二枚を、椽磨たちに賜わりました。

52位に即く

春正月丙戌朔戊子,皇太子即天皇位。壬辰,宴群臣於內裏。戊申,送使博德等服命。

春正月丙戌の朔の戊子の日、皇太子が天皇の位に即きました。壬辰の日、群臣に内裏で宴しました。戊申の日、送る使いの博徳たちが命を奏しました。

夾注 1

或本云:六年歲次丁卯三月,即位。

ある本には、六年、歳次丁卯の三月に即位したといいます。

53皇后と諸々の妃

二月丙辰朔戊寅,立古人大兄皇子女倭姬王為皇后。遂納四嬪。有,蘇我山田石川麻呂大臣女,曰遠智娘。生一男二女。其一曰,大田皇女。其二曰,鸕野皇女。及有天下,居于飛鳥淨御原宮,後移宮于藤原。其三曰,建皇子。啞不能語。其一曰,建皇子。其二曰,大田皇女。其三曰,鸕野皇女。生,大田皇女與娑羅羅皇女。次有,遠智娘弟,曰姪娘。生,御名部皇女與阿陪皇女。阿陪皇女及有天下,居于藤原宮,後移都乃樂。次有,阿倍倉梯麻呂大臣女,曰橘娘。生,飛鳥皇女與新田部皇女。次有,蘇我赤兄大臣女,曰常陸娘。生,山邊皇女。又有,宮人生男女者四人。有,忍海造小龍女,曰色夫古娘。生一男二女。其一曰,大江皇女。其二曰,川嶋皇子。其三曰,泉皇女。又有,栗隈首德萬女,曰黑媛娘。生,水主皇女。又有,越道君伊羅都賣。生,施基皇子。又有,伊賀采女宅子娘。生,伊賀皇子。後字曰,大友皇子。

二月丙辰の朔の戊寅の日、古人大兄皇子の女の倭姫王を立てて皇后としました。ついで四人の嬪を納れました。

蘇我山田石川麻呂大臣の女があり、遠智娘といいます。一男二女を生みました。その一は大田皇女、その二は鸕野皇女で、天下を保つにあたって飛鳥浄御原宮に居り、のちに宮を藤原に移しました。その三は建皇子で、啞で語ることができませんでした。

次に遠智娘の妹があり、姪娘といいます。御名部皇女と阿陪皇女を生みました。阿陪皇女は天下を保つにあたって藤原宮に居り、のちに都を乃楽に移しました。

次に阿倍倉梯麻呂大臣の女があり、橘娘といいます。飛鳥皇女と新田部皇女を生みました。

次に蘇我赤兄大臣の女があり、常陸娘といいます。山辺皇女を生みました。

また宮人で男女を生んだ者が四人あります。忍海造小龍の女があり、色夫古娘といいます。一男二女を生みました。その一は大江皇女、その二は川嶋皇子、その三は泉皇女です。

また栗隈首徳万の女があり、黒媛娘といいます。水主皇女を生みました。

また越道君伊羅都売があり、施基皇子を生みました。

また伊賀の采女の宅子娘があり、伊賀皇子を生みました。のちに字を大友皇子といいました。

夾注 4

或本云,美濃津子娘。

ある本には、美濃津子娘といいます。

或本云:遠智娘生一男二女。

ある本には、遠智娘が一男二女を生んだといいます。

或本云:蘇我山田麻呂大臣女,曰茅渟娘。

ある本には、蘇我山田麻呂大臣の女で、茅渟娘というといいます。

或本云:名姪娘曰,櫻井娘。

ある本には、姪娘の名を櫻井娘というといいます。

54百済が調を奉る

夏四月乙卯朔庚申,百濟遣末都師父等進調。庚午,末都師父等罷歸。

夏四月乙卯の朔の庚申の日、百済が末都師父たちを遣わし、調を奉りました。庚午の日、末都師父たちが帰って行きました。

55蒲生野で猟をする

五月五日,天皇縱獦於蒲生野。于時大皇弟、諸王、內臣及群臣,皆悉從焉。

五月五日、天皇が蒲生野で猟をしました。このとき大皇弟、諸王、内臣および群臣が、みなことごとく従いました。

56伊勢王の兄弟が薨じる

六月,伊勢王與其弟王,接日而薨。

六月、伊勢王とその弟王が、日を接いで薨じました。

夾注 1

未詳官位。

官位は詳らかではありません。

57高麗の使者が来る

秋七月,高麗從越之路遣使進調。風浪高,故不得歸。以栗前王拜筑紫率。于時,近江國講武,又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下,諸魚覆水而至。又饗蝦夷。又命舍人等,為宴於所所。時人曰:「天皇天命將及乎!」

秋七月、高麗が越の路から使者を遣わし、調を奉りました。風も浪も高かったので、帰ることができませんでした。

栗前王を筑紫率に任じました。

このとき、近江国で武を講じ、また牧を多く置いて馬を放ちました。また越国が燃える土と燃える水を献じました。また浜の台の下に、諸々の魚が水を覆って至りました。また蝦夷をもてなしました。また舎人たちに命じて、所々で宴をさせました。

当時の人は言いました。「天皇の天命が尽きようとしているのだろうか。」

58金庾信に船を賜わる

秋九月壬午朔癸巳,新羅遣沙㖨級飡金東嚴等進調。丁未,中臣內臣使沙門法辨、秦筆,賜新羅上臣大角干庾信船一隻,付東嚴等。庚戌,使布勢臣耳麻呂,賜新羅王輸御調船一隻,付東嚴等。

秋九月壬午の朔の癸巳の日、新羅が沙㖨の級飡金東厳たちを遣わし、調を奉りました。

丁未の日、中臣内臣が沙門の法辨と秦筆を使いとし、新羅の上臣大角干の庾信に船一隻を賜わり、東厳たちに付けました。

庚戌の日、布勢臣耳麻呂を使いとし、新羅王に御調を輸る船一隻を賜わり、東厳たちに付けました。

59高麗が滅びる

冬十月,大唐大將軍英公,打滅高麗。高麗仲牟王初建國時,欲治千歲也。母夫人云:「若善治國,可得也。但當有七百年之治也。」今此國亡者,當在七百年之末也。

冬十月、大唐の大将軍の英公が、高麗を打ち滅ぼしました。

高麗の仲牟王がはじめて国を建てたとき、千歳を治めようとしました。母の夫人が言いました。「もし善く国を治めれば、得られましょう。ただし七百年の治めがあるにとどまるでしょう。」

いまこの国が亡びたのは、まさに七百年の末にあたります。

夾注 1

若或本,有不可得也。

ある本には、得られないという言葉があります。

60新羅王に物を賜わる

十一月辛巳朔,賜新羅王絹五十匹、綿五百斤、韋一百枚,付金東嚴等。賜東嚴等物,各有差。乙酉,遣小山下道守臣麻呂、吉士小鮪於新羅。是日,金東嚴等罷歸。

十一月辛巳の朔、新羅王に絹五十匹、綿五百斤、韋百枚を賜わり、金東厳たちに付けました。東厳たちに物を賜わるのは、それぞれ差がありました。

乙酉の日、小山下の道守臣麻呂と吉士小鮪を新羅に遣わしました。この日、金東厳たちが帰って行きました。

61道行が剣を盗む

是歲,沙門道行盜草薙劍,逃向新羅。而中路風雨,芒迷而歸。

この年、沙門の道行が草薙剣を盗み、新羅へ逃げ向かいました。しかし途中で風雨に遭い、おぼろに迷って帰ってきました。

62赤兄を筑紫率とする

春正月庚辰朔戊子,以蘇我赤兄臣拜筑紫率。

春正月庚辰の朔の戊子の日、蘇我赤兄臣を筑紫率に任じました。

63耽羅が貢ぐ

三月己卯朔己丑,耽羅遣王子久麻伎等貢獻。丙申,賜耽羅王五榖種。是日,王子久麻伎等罷歸。

三月己卯の朔の己丑の日、耽羅が王子の久麻伎たちを遣わして貢ぎ献じました。丙申の日、耽羅王に五穀の種を賜わりました。この日、王子の久麻伎たちが帰って行きました。

64山科野で猟をする

夏五月戊寅朔壬午,天皇縱獦於山科野。大皇弟、藤原內大臣及群臣,皆悉從焉。

夏五月戊寅の朔の壬午の日、天皇が山科野で猟をしました。大皇弟、藤原内大臣および群臣が、みなことごとく従いました。

65城の修築をやめる

秋八月丁未朔己酉,天皇登高安嶺,議欲修城。仍恤民疲,止而不作。時人感而歎曰:「寔乃仁愛之德,不亦寬乎。」云云。是秋,霹礰於藤原內大臣家。

秋八月丁未の朔の己酉の日、天皇が高安の嶺に登り、城を修めることを議ろうとしました。しかし民の疲れを恤れみ、やめて造りませんでした。

当時の人は感じて歎いて言いました。「まことに仁愛の徳は、なんと寛やかではないか。」云々。

この秋、藤原内大臣の家に霹礰が落ちました。

66新羅が調を奉る

九月丁丑朔丁亥,新羅遣沙飡督儒等進調。

九月丁丑の朔の丁亥の日、新羅が沙飡の督儒たちを遣わし、調を奉りました。

67鎌足が薨じる

冬十月丙午朔乙卯,天皇幸藤原內大臣家,親問所患。而憂悴極甚。乃詔曰:「天道輔仁,何乃虛說!積善餘慶,猶是無徵!若有所須,便可以聞。」對曰:「臣既不敏,當復何言。但其葬事,宜用輕易。生則無務於軍國,死則何敢重難。」云云。時賢聞而歎曰:「此之一言,竊比於往哲之善言矣。大樹將軍之辭賞,詎可同年而語哉。」庚申,天皇遣東宮大皇弟於藤原內大臣家,授大織冠與大臣位。仍賜姓為藤原氏。自此以後,通曰藤原內大臣。辛酉,藤原內大臣薨。『日本世記』曰:內大臣,春秋五十薨于私第。遷殯於山南。天何不淑,不憖遺耆。嗚呼哀哉。碑曰:春秋五十有六而薨。甲子,天皇幸藤原內大臣家。命大錦上蘇我赤兄臣,奉宣恩詔,仍賜金香鑪。

冬十月丙午の朔の乙卯の日、天皇が藤原内大臣の家に行き、自ら患うところを問いました。しかし憂え憔れることがはなはだしくありました。

そこで詔して言いました。「天道は仁を輔けるというのに、どうして虚しい説なのか。善を積めば余慶があるというのに、なお徴しがない。もし望むところがあれば、すぐに聞かせてほしい。」

答えて言いました。「臣はすでに敏からず、さらに何を申し上げましょう。ただその葬りの事は、軽く易しくなさいますように。生きて軍国に務めたことがないのに、死んでどうして重く難しくいたしましょうか。」云々。

当時の賢者は聞いて歎いて言いました。「この一言は、ひそかに往古の哲人の善言に比べられる。大樹将軍が賞を辞したことなど、どうして同じ年に並べて語れようか。」

庚申の日、天皇が東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣わし、大織冠と大臣の位を授けました。あわせて姓を賜わって藤原氏としました。これより後は、通じて藤原内大臣といいます。

辛酉の日、藤原内大臣が薨じました。

『日本世記』に言います。内大臣は、春秋五十で私第に薨じました。殯を山の南に遷しました。天はなんと淑からず、耆いた人を遺すことを憖らないのか。ああ哀しいことです。碑には、春秋五十六で薨じたといいます。

甲子の日、天皇が藤原内大臣の家に行きました。大錦上の蘇我赤兄臣に命じて恩詔を奉り宣べさせ、あわせて金の香鑪を賜わりました。

68大蔵が焼ける

十二月,災大藏。

十二月、大蔵が焼けました。

69高安城を修める

是冬,修高安城,收畿內之田稅。于時,災斑鳩寺。

この冬、高安城を修め、畿内の田の税を収めました。このとき、斑鳩寺が焼けました。

70百済の人を蒲生郡に遷す

是歲,遣小錦中河內直鯨等,使於大唐。又以佐平余自信、佐平鬼室集斯等男女七百餘人,遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。

この年、小錦中の河内直鯨たちを大唐に使いとして遣わしました。また佐平の余自信、佐平の鬼室集斯たち男女七百余人を、近江国蒲生郡に遷し住まわせました。また大唐が郭務悰たち二千余人を遣わしました。

71朝廷の礼儀を宣べる

春正月乙亥朔辛巳,詔士大夫等,大射宮門內。戊子,宣朝廷之禮儀與行路之相避。復禁斷誣妄、妖偽。

春正月乙亥の朔の辛巳の日、士大夫たちに詔して、宮門の内で大いに射させました。

戊子の日、朝廷の礼儀と、道で互いに避ける法を宣べました。さらに誣妄と妖偽を禁じ断ちました。

72戸籍を造る

二月,造戶籍,斷盜賊與浮浪。于時,天皇幸蒲生郡匱迮野,而觀宮地。又修高安城,積榖與鹽。又築長門城一、筑紫城二。

二月、戸籍を造り、盗賊と浮浪を断ちました。

このとき、天皇が蒲生郡の匱迮野に行き、宮の地を観ました。また高安城を修め、穀と塩を積みました。また長門に城一つ、筑紫に城二つを築きました。

73諸神に幣帛を班つ

三月甲戌朔壬午,於山御井傍,敷諸神座,而班幣帛。中臣金連宣祝詞。

三月甲戌の朔の壬午の日、山の御井のそばに諸神の座を敷き、幣帛を班ちました。中臣金連が祝詞を宣べました。

74法隆寺が焼ける

夏四月癸卯朔壬申,夜半之後,災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。

夏四月癸卯の朔の壬申の日、夜半の後、法隆寺が焼けました。一屋も残りませんでした。大雨が降り、雷が震いました。

75童謡

五月,童謠曰:

五月、童謡がありました。

76歌 — 童謡

于知波志能,都梅能阿素弭爾,伊提麻栖古,多麻提能伊鞞能,野鞞古能度珥,伊提麻志能,俱伊播阿羅珥茹,伊提麻西古,多麻提能鞞能,野鞞古能度珥。

「うちはしの つめのあそびに いでませこ たまでのいへの やへこのとに いでましの くいはあらにぞ いでませこ たまでのいへの やへこのとに(于知波志能,都梅能阿素弭爾,伊提麻栖古,多麻提能伊鞞能,野鞞古能度珥,伊提麻志能,俱伊播阿羅珥茹,伊提麻西古,多麻提能鞞能,野鞞古能度珥)」

— 音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

77亀を得る

六月,邑中獲龜。背書申字,上黃下玄,長六寸許。

六月、邑の中で亀を得ました。背に申の字が書かれ、上は黄、下は玄く、長さは六寸ほどでした。

78新羅に使者を遣わす

秋九月辛未朔,遣阿曇連頰垂於新羅。

秋九月辛未の朔、阿曇連頰垂を新羅に遣わしました。

79水碓で鉄を冶る

是歲,造水碓而冶鐵。

この年、水碓を造って鉄を冶りました。

80百済の人に位を授ける

春正月己亥朔庚子,大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣,進於殿前,奉賀正事。癸卯,大錦上中臣金連命宣神事。是日,以大友皇子拜太政大臣。以蘇我赤兄臣為左大臣,以中臣金連為右大臣。以蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣為御史大夫。甲辰,東宮太皇弟奉宣,施行冠位、法度之事。大赦天下。丁未,高麗遣上部大相可婁等進調。辛亥,百濟鎮將劉仁願遣李守真等上表。是月,以大錦下授佐平余自信、沙宅紹明。以小錦下授鬼室集斯。以大山下授達率谷那晉首、木素貴子、憶禮福留、答㶱春初、㶱日比子贊波羅金羅金須、鬼室集信。以小山上授達率德頂上、吉大尚、許率母、角服牟。以小山下授餘達率等五十餘人。童謠云:

春正月己亥の朔の庚子の日、大錦上の蘇我赤兄臣と大錦下の巨勢人臣が殿の前に進み、賀正の事を奉りました。

癸卯の日、大錦上の中臣金連が神事を命じ宣べました。

この日、大友皇子を太政大臣に任じ、蘇我赤兄臣を左大臣、中臣金連を右大臣としました。蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣を御史大夫としました。

甲辰の日、東宮太皇弟が命を奉じ、冠位と法度の事を施行し、天下に大赦しました。

丁未の日、高麗が上部大相の可婁たちを遣わし、調を奉りました。

辛亥の日、百済の鎮将の劉仁願が李守真たちを遣わし、表を上りました。

この月、大錦下を佐平の余自信と沙宅紹明に授けました。小錦下を鬼室集斯に授けました。大山下を達率の谷那晋首、木素貴子、憶礼福留、答㶱春初、㶱日比子贊波羅金羅金須、鬼室集信に授けました。小山上を達率の徳頂上、吉大尚、許率母、角福牟に授けました。小山下を残りの達率たち五十余人に授けました。

童謡に言います。

夾注 15

御史,蓋今之大納言乎。

御史は、おそらく今の大納言でしょうか。

或本云,大友皇子宣命。

ある本には、大友皇子が命を宣べたといいます。

法度、冠位之名,具載於新律令。

法度と冠位の名は、新しい律令に具えて載せてあります。

法官大輔。

法官大輔です。

學職頭。

学職頭です。

閑兵法。

兵法に通じています。

閑兵法。

兵法に通じています。

閑兵法。

兵法に通じています。

閑兵法。

兵法に通じています。

解藥。

薬を解します。

解藥。

薬を解します。

解藥。

薬を解します。

解藥。

薬を解します。

明五經。

五経に明らかです。

閑於陰陽。

陰陽に通じています。

81歌 — 童謡

多致播那播,於能我曳多曳多。那例例騰母,陀麻爾農矩騰岐,於野兒弘爾農俱。

「たちばなは おのがえだえだ なれれども たまにぬくとき おやじおにぬく(多致播那播,於能我曳多曳多。那例例騰母,陀麻爾農矩騰岐,於野兒弘爾農俱)」

— 音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

82百済が調を奉る

二月戊辰朔庚寅,百濟遣臺久用善等進調。

二月戊辰の朔の庚寅の日、百済が臺久用善たちを遣わし、調を奉りました。

83水を測る器

三月戊戌朔庚子,黃書造本實,獻水臬。甲寅,常陸國貢中臣部若子。長尺六寸,其生年丙辰至於此歲,十六年也。

三月戊戌の朔の庚子の日、黄書造本実が水臬を献じました。

甲寅の日、常陸国が中臣部若子を貢ぎました。身の長さは一尺六寸で、その生まれた丙辰の年からこの年まで、十六年でした。

84漏剋を新しい台に置く

夏四月丁卯朔辛卯,置漏剋於新臺,始打候時。動鍾鼓,始用漏剋。此漏剋者,天皇為皇太子時,始親所製造也,云云。是月,筑紫言:「八足之鹿,生而即死。」

夏四月丁卯の朔の辛卯の日、漏剋を新しい台に置き、はじめて時を打って知らせました。鐘と鼓を動かし、はじめて漏剋を用いました。

この漏剋は、天皇が皇太子であったとき、はじめて自ら製り造ったものです。云々。

この月、筑紫が言いました。「八本足の鹿が、生まれてすぐに死にました。」

85田儛を奏する

五月丁酉朔辛丑,天皇御西小殿。皇太子、群臣侍宴。於是,再奏田儛。

五月丁酉の朔の辛丑の日、天皇が西の小殿に出ました。皇太子と群臣が宴に侍りました。そこで田儛を二度奏しました。

86百済三部の請い

六月丙寅朔己巳,宣百濟三部使人所請軍事。庚辰,百濟遣羿真子等進調。是月,以栗隈王為筑紫帥。新羅遣使進調。別獻水牛一頭、山雞一隻。

六月丙寅の朔の己巳の日、百済の三部の使人が請うた軍事を宣べました。

庚辰の日、百済が羿真子たちを遣わし、調を奉りました。

この月、栗隈王を筑紫帥としました。新羅が使者を遣わし、調を奉りました。別に水牛一頭、山雞一羽を献じました。

87李守真が帰る

秋七月丙申朔丙午,唐人李守真等,百濟使人等,並罷歸。

秋七月丙申の朔の丙午の日、唐人の李守真たちと百済の使人たちが、あわせて帰って行きました。

88可婁が帰る

八月乙丑朔丁卯,高麗上部大相可婁等罷歸。壬午,饗賜蝦夷。

八月乙丑の朔の丁卯の日、高麗の上部大相可婁たちが帰って行きました。壬午の日、蝦夷をもてなし賜わりました。

89天皇が病む

九月,天皇寢疾不豫。

九月、天皇が病に寝て、不予となりました。

夾注 1

或本云:八月,天皇疾病。

ある本には、八月に天皇が病んだといいます。

90東宮が吉野に入る

冬十月甲子朔庚午,新羅遣沙飡金萬物等進調。辛未,於內裏開百佛眼。是月,天皇遣使,奉袈裟、金鉢、象牙、沉水香、栴檀香及諸珍財於法興寺佛。庚辰,天皇疾病彌留。敕喚東宮,引入臥內,詔曰:「朕疾甚,以後事屬汝。」云云。於是,再拜稱疾固辭,不受曰:「請奉洪業,付屬大后,令大友王,奉宣諸政。臣請願,奉為天皇,出家修道。」天皇許焉。東宮起而再拜,便向於內裏佛殿之南,踞坐胡床,剃除鬢髮,為沙門。於是,天皇遣次田生磐,送袈裟。壬午,東宮見天皇,請之吉野修行佛道。天皇許焉。東宮即入於吉野。大臣等侍送,至菟道而還。

冬十月甲子の朔の庚午の日、新羅が沙飡の金万物たちを遣わし、調を奉りました。

辛未の日、内裏で百体の仏の眼を開きました。

この月、天皇が使者を遣わし、袈裟、金の鉢、象牙、沉水香、栴檀香および諸々の珍しい財を法興寺の仏に奉りました。

庚辰の日、天皇の病がいよいよ長びきました。勅して東宮を喚び、臥所の内に引き入れて詔しました。「朕の病は甚しい。後の事をお前に属す。」云々。

そこで東宮は再拝し、病と称して固く辞し、受けずに言いました。「どうか洪業は大后に付属され、大友王に諸政を奉り宣べさせてください。臣が請い願うのは、天皇のために出家して道を修めることです。」

天皇は許しました。

東宮は起って再拝し、そのまま内裏の仏殿の南に向かい、胡床に踞って坐り、鬢と髪を剃り除いて沙門となりました。

そこで天皇は次田生磐を遣わし、袈裟を送りました。

壬午の日、東宮が天皇にまみえ、吉野へ行って仏道を修めることを請いました。天皇は許しました。東宮はすぐに吉野へ入りました。大臣たちが侍り送り、菟道まで至って帰りました。

91六人が盟う

十一月甲午朔癸卯,對馬國司遣使於筑紫大宰府言:「月生二日,沙門道久、筑紫君薩野馬、韓嶋勝娑婆、布師首磐四人從唐來曰:『唐國使人郭務悰等六百人,送使沙宅孫登等一千四百人,總合二千人,乘船四十七隻,俱泊於比知嶋。相謂之曰:「今吾輩人船數眾。忽然到彼,恐彼防人驚駭射戰。」乃遣道久等,預稍披陳來朝之意。』」丙辰,大友皇子在內裏西殿織佛像前,左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪,先起誓盟曰:「六人同心,奉天皇詔。若有違者,必被天罰!」云云。於是,左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪,隨次而起,泣血誓盟曰:「臣等五人,隨於殿下,奉天皇詔。若有違者,四天王打!天神地祇,亦復誅罰!三十三天,証知此事。子孫當絕,家門必亡!」云云。丁巳,災近江宮。從大藏省第三倉出。壬戌,五臣奉大友皇子,盟天皇前。是日,賜新羅王絹五十匹、絁五十匹、綿一千斤、韋一百枚。

十一月甲午の朔の癸卯の日、対馬の国司が使者を筑紫の大宰府に遣わして言いました。

「月の生まれて二日、沙門の道久、筑紫君薩野馬、韓嶋勝娑婆、布師首磐の四人が唐から来て言いました。『唐国の使人の郭務悰たち六百人、送る使いの沙宅孫登たち千四百人、合わせて二千人が、船四十七隻に乗り、ともに比知嶋に泊まりました。互いに言いました。「いまわれらの人と船は数が多い。突然あちらに着けば、あちらの防人が驚いて射かけ戦うのを恐れる。」そこで道久たちを遣わし、あらかじめ少しずつ来朝の意を披き陳べさせるのです。』」

丙辰の日、大友皇子が内裏の西の殿の織った仏像の前にいました。左大臣の蘇我赤兄臣、右大臣の中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣が侍りました。

大友皇子は手に香鑪を執り、まず起って誓い盟って言いました。「六人は心を同じくして、天皇の詔を奉る。もし違う者があれば、かならず天罰を被るであろう。」云々。

そこで左大臣の蘇我赤兄臣たちが手に香鑪を執り、順に従って起ち、血の涙を流して誓い盟って言いました。「臣ら五人は、殿下に従って天皇の詔を奉る。もし違う者があれば、四天王が打ち、天神地祇がまた誅し罰するであろう。三十三天がこの事を証し知るであろう。子孫はまさに絶え、家門はかならず亡びるであろう。」云々。

丁巳の日、近江宮が焼けました。大蔵省の第三の倉から出ました。

壬戌の日、五人の臣が大友皇子を奉じ、天皇の前で盟いました。

この日、新羅王に絹五十匹、絁五十匹、綿一千斤、韋百枚を賜わりました。

92天皇が崩じる

十二月癸亥朔乙丑,天皇崩于近江宮。癸酉,殯于新宮。于時童謠曰:

十二月癸亥の朔の乙丑の日、天皇が近江宮で崩じました。癸酉の日、新しい宮に殯しました。

このとき童謡がありました。

93歌 — 童謡

美曳之弩能,曳之弩能阿喻,阿喻擧曾播,施麻倍母曳岐,愛俱流之衞,奈疑能母騰,制利能母騰。阿例播俱流之衞

「みえしのの えしののあゆ あゆこそは しまべもえき えくるしゑ なぎのもと せりのもと あれはくるしゑ(美曳之弩能,曳之弩能阿喩,阿喩擧曾播,施麻倍母曳岐,愛俱流之衞,奈疑能母騰,制利能母騰。阿例播俱流之衞)」

— 音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其一。

その一です。

94歌 — 童謡

於彌能古能。野陛能比母騰俱,比騰陛多爾,伊麻拕藤柯禰波,美古能比母騰矩

「おみのこの やへのひもとく ひとへだに いまだとかねば みこのひもとく(於彌能古能。野陛能比母騰俱,比騰陛多爾,伊麻拕藤柯禰波,美古能比母騰矩)」

— 音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其二。

その二です。

95歌 — 童謡

阿箇悟馬能,以喻企波波箇屢。麻矩儒播羅,奈爾能都底擧騰,多拕尼之曳鷄武

「あかごまの いゆきはばかる まくずはら なにのつてごと ただにしゑけむ(阿箇悟馬能,以喩企波波箇屢。麻矩儒播羅,奈爾能都底擧騰,多拕尼之曳鷄武)」

— 音を書き写したものなので、意味の訳はしません。

夾注 1

其三。

その三です。

96金万物が帰る

己卯,新羅進調使沙飡金萬物等罷歸。

己卯の日、新羅の進調使の沙飡金万物たちが帰って行きました。

97八つの鼎が鳴る

是歲,讚岐國山田郡人家,有雞子四足者。又大炊省,有八鼎鳴。或一鼎鳴,或二或三俱鳴,或八俱鳴。

この年、讚岐国山田郡の人の家に、足が四本の雞の子がありました。また大炊省で、八つの鼎が鳴ることがありました。あるときは一つの鼎が鳴り、あるときは二つか三つがともに鳴り、あるときは八つがともに鳴りました。