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天武天皇上

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 23 · 漢字 5,099字 · 朗読 20.4分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1天武天皇

天渟中原瀛真人天皇,天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子,生而有岐嶷之姿。及壯,雄拔神武,能天文、遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女,為正妃。天命開別天皇元年,立為東宮。

天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのてんのう)は、天命開別天皇(あめみことひらかすわけのてんのう)の同母の弟です。幼いころは大海人皇子(おおあまのみこ)といいました。

生まれつき岐嶷(きぎょく)とした姿がありました。壮年になると、雄々しく抜きんでて神のように武く、天文と遁甲に能くありました。天命開別天皇の娘の菟野皇女(うののひめみこ)を納れて正妃としました。天命開別天皇の元年に、東宮に立てられました。

夾注 1

渟中,此云農難。

渟中は、農難(ぬな)と読みます。

2吉野に入る

冬十月庚辰,天皇臥病,以痛之甚矣。於是,遣蘇賀臣安麻侶,召東宮,引入大殿。時安摩侶素東宮所好,密顧東宮曰:「有意而言矣。」東宮於茲,疑有隱謀而慎之。天皇敕東宮,授鴻業。乃辭讓之曰:「臣之不幸,元有多病。何能保社稷?願陛下舉天下附皇后,仍立大友皇子宜為儲君。臣今日出家,為陛下欲修功德。」天皇聽之。即日,出家法服。因以收私兵器,悉納於司。壬午,入吉野宮。時左大臣蘇賀赤兄臣、右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等送之,自菟道返焉。或曰:「虎著翼放之。」是夕,御嶋宮。癸未,至吉野而居之。是時,聚諸舍人,謂之曰:「我今入道修行,故隨欲修道者留之。若仕欲成名者,還仕於司。」然无退者。更聚舍人,而詔如前。是以舍人等,半留半退。

冬十月の庚辰の日、天皇は病に臥して、痛みが甚しくありました。

そこで蘇賀臣安麻侶(そがのおみやすまろ)を遣わして東宮を召し、大殿に引き入れました。そのとき安摩侶はもとより東宮の好むところの者でしたので、密かに東宮を顧みて言いました。「お考えのあるままに申されますように」

東宮はここで、隠れた謀があるかと疑って慎みました。

天皇は東宮に敕して、鴻業を授けようとしました。そこで辞し譲って言いました。「臣は不幸にして、もとより病が多くあります。どうして社稷を保てましょうか。願わくは陛下は天下を挙げて皇后に附けられ、そのうえで大友皇子(おおとものみこ)を立てて儲君とされますように。臣は今日出家して、陛下のために功徳を修めたいと思います」

天皇はこれを聴き入れました。その日に出家して法服を着ました。これによって私の兵器を収めて、ことごとく司に納めました。

壬午の日、吉野宮に入りました。そのとき左大臣の蘇賀赤兄臣(そがのあかえのおみ)、右大臣の中臣金連(なかとみのかねのむらじ)、および大納言の蘇賀果安臣(そがのはたやすのおみ)らが送って、菟道(うじ)から返りました。

ある人が言いました。「虎に翼を著けて放った」

この夕べ、嶋宮(しまのみや)に御しました。癸未の日、吉野に至って居りました。

このとき、諸の舍人(とねり)を聚めて言いました。「私は今、道に入って修行する。だから道を修めたいと思う者は留まれ。もし仕えて名を成したいと思う者は、還って司に仕えよ」

しかし退く者はありませんでした。更に舍人を聚めて、前のように詔しました。そこで舍人たちは、半ばが留まり半ばが退きました。

3天智天皇が崩る

十二月,天命開別天皇崩。

十二月、天命開別天皇が崩りました。

4郭務悰に喪を告げる

春三月壬辰朔己酉,遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫,告天皇喪於郭務悰等。於是郭務悰等咸著喪服,三遍舉哀,向東稽首。壬子,郭務悰等再拜,進書函與信物。

春三月の壬辰が朔の己酉の日、内小七位の阿曇連稻敷(あずみのむらじいなしき)を筑紫に遣わして、天皇の喪を郭務悰(かくむそう)らに告げました。

そこで郭務悰らは皆喪服を著て、三たび哀を挙げ、東に向かって稽首しました。

壬子の日、郭務悰らは再拜して、書函と信物を進めました。

5反乱の兆し

夏五月辛卯朔壬寅,以甲、冑、弓矢賜郭務悰等。是日,賜郭務悰等物,總合絁一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤。戊午,高麗遣前部富加抃等進調。庚申,郭務悰等罷歸。是月,朴井連雄君奏天皇曰:「臣以有私事,獨至美濃。時朝庭宣美濃、尾張兩國司曰:『為造山陵,豫差定人夫。』則人別令執兵。臣以為:『非為山陵,必有事矣。』若不早避,當有危歟!」或有人奏曰:「自近江京至于倭京,處處置侯。亦命菟道守橋者,遮皇大弟宮舍人運私糧事。」天皇惡之,因令問察,以知事已實。於是詔曰:「朕所以讓位遁世者,獨治病全身,永終百年。然今不獲已,應承禍。何默亡身耶!」

夏五月の辛卯が朔の壬寅の日、甲と冑と弓矢を郭務悰らに賜りました。

この日、郭務悰らに賜った物は、合わせて絁一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤でした。

戊午の日、高麗が前部の富加抃(ふかべん)らを遣わして調を進めました。庚申の日、郭務悰らは罷り歸りました。

この月、朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)が天皇に奏して言いました。

「臣は私の事があって、独り美濃に至りました。そのとき朝庭が美濃と尾張の両国の司に宣して、『山陵を造るために、あらかじめ人夫を差し定めよ』と言いました。そして人ごとに兵を執らせました。臣が思いますに、『山陵のためではなく、必ず事があるのだ』と。もし早く避けなければ、きっと危ういことがありましょう」

また、ある人が奏して言いました。「近江の京から倭の京まで、処々に侯を置いています。また菟道の橋を守る者に命じて、皇大弟の宮の舍人が私の糧を運ぶことを遮らせています」

天皇はこれを惡んで、それによって問い察べさせ、事がすでに実であることを知りました。

そこで詔して言いました。「朕が位を譲って世を遁れたのは、独り病を治して身を全くし、永く百年を終えようとしたからである。しかし今はやむを得ず、禍を承けることになった。どうして默って身を亡ぼそうか」

6東国に入る

六月辛酉朔壬午,詔村國連男依、和珥部臣君手、身毛君廣,曰:「今聞:『近江朝庭之臣等,為朕謀害。』是以汝等三人急往美濃國,告安八磨郡湯沐令多臣品治,宣示機要,而先發當郡兵。仍經國司等,差發諸軍,急塞不破道。朕今發路。」甲申,將入東。時有一臣奏曰:「近江群臣元有謀心,必造天下。則道路難通。何無一人兵,徒手入東。臣恐事不就矣。」天皇從之,思欲返召男依等。即遣大分君惠尺、黃書造大伴、逢臣志摩于留守司高坂王,而令乞驛鈴。因以謂惠尺等曰:「若不得鈴,迺志摩還而復奏。惠尺馳之往於近江,喚高市皇子、大津皇子,逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司,舉東宮之命,乞驛鈴於高坂王。然不聽矣。時惠尺往近江。志摩乃還之,復奏曰:「不得鈴也。」是日,發途入東國。事急不待駕而行之。儵遇縣犬養連大伴鞍馬,因以御駕。乃皇后載輿從之。逮于津振川,車駕始至,便乘焉。

六月の辛酉が朔の壬午の日、村國連男依(むらくにのむらじおより)、和珥部臣君手(わにべのおみきみて)、身毛君廣(むげのきみひろ)に詔して言いました。

「今聞くところでは、『近江の朝庭の臣たちが、朕を害そうと謀っている』という。そこでお前たち三人は急ぎ美濃国に往き、安八磨郡(あはちまのこおり)の湯沐令(ゆのうながし)の多臣品治(おおのおみほむち)に告げて、機要を宣べ示し、まずその郡の兵を発せ。そのうえで国司らを経て、諸の軍を差し発し、急ぎ不破の道を塞げ。朕は今、路を発つ」

甲申の日、東に入ろうとしました。そのとき一人の臣が奏して言いました。「近江の群臣はもとより謀る心があり、必ず天下を造ない損じましょう。すると道路は通りにくくなります。どうして一人の兵もなく、徒手で東に入られるのですか。臣は事が就らないのを恐れます」

天皇はこれに従って、男依らを返し召そうと思いました。そこで大分君惠尺(おおきだのきみえさか)、黃書造大伴(きぶみのみやつこおおとも)、逢臣志摩(おうのおみしま)を留守司の高坂王(たかさかのおおきみ)のもとに遣わして、驛鈴を乞わせました。

そこで惠尺らに言いました。「もし鈴を得られなければ、志摩は還って復た奏せよ。惠尺は馳せて近江に往き、高市皇子(たけちのみこ)、大津皇子(おおつのみこ)を喚んで、伊勢で逢え」

やがて惠尺らは留守司に至り、東宮の命を挙げて、高坂王に驛鈴を乞いました。しかし聴き入れられませんでした。

そのとき惠尺は近江に往きました。志摩はそこで還って、復た奏して言いました。「鈴を得られませんでした」

この日、途を発って東国に入りました。事が急で、駕を待たずに行きました。たまたま縣犬養連大伴(あがたのいぬかいのむらじおおとも)の鞍馬に遇って、それに御しました。そこで皇后は輿に載って従いました。

津振川(つぶりがわ)に逮んで、車駕が始めて至ったので、それに乗りました。

7従う者たち

是時元從者草壁皇子、忍壁皇子及舍人朴井連雄君、縣犬養連大伴、佐伯連大目、大伴連友國、稚櫻部臣五百瀨、書首根摩呂、書直智德、山背直小林、山背部小田、安斗連智德、調首淡海之類,二十有餘人,女孺十有餘人也。即日,到菟田吾城。大伴連馬來田、黃書造大伴從吉野宮追至。於此時,屯田司舍人土師連馬手供從駕者食。過甘羅村,有獵者二十餘人。大伴朴本連大國,為獵者之首。則悉喚令從駕。亦徵美濃王,乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹,遇於菟田郡家頭。仍皆棄米,而令乘步者。到大野以日落也,山暗不能進行,則壞取當邑家籬為燭。及夜半,到隱郡,焚隱驛家。因唱邑中曰:「天皇入東國。故人夫諸參赴。」然一人不肯來矣。將及橫河,有黑雲,廣十餘丈經天。時天皇異之,則舉燭親秉式,占曰:「天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟。」即急行到伊賀郡,焚伊賀驛家。

このとき、もとから従った者は、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)、および舍人の朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)、縣犬養連大伴(あがたのいぬかいのむらじおおとも)、佐伯連大目(さえきのむらじおおめ)、大伴連友國(おおとものむらじともくに)、稚櫻部臣五百瀨(わかさくらべのおみいおせ)、書首根摩呂(ふみのおびとねまろ)、書直智德(ふみのあたいちとこ)、山背直小林(やましろのあたいおばやし)、山背部小田(やましろべのおだ)、安斗連智德(あとのむらじちとこ)、調首淡海(つきのおびとおうみ)といった二十余人で、女孺(にょじゅ)が十余人でした。

その日に菟田(うだ)の吾城(あき)に到りました。大伴連馬來田(おおとものむらじまくた)、黃書造大伴(きぶみのみやつこおおとも)が吉野宮から追って至りました。

このとき、屯田司の舍人である土師連馬手(はじのむらじうまて)が、駕に従う者たちに食を供えました。

甘羅村(かんらのむら)を過ぎたとき、獵者が二十余人いました。大伴朴本連大國(おおとものえのもとのむらじおおくに)が獵者の首でした。そこで、ことごとく喚んで駕に従わせました。

また美濃王(みののおおきみ)を徵すと、そこで参り赴いて従いました。

湯沐の米を運ぶ伊勢国の駄五十匹を、菟田郡の家の前で遇いました。そこで皆米を棄てて、歩く者を乗らせました。

大野に到ったときには日が落ちていました。山が暗くて進み行けないので、その邑の家の籬を壞り取って燭としました。

夜半に及んで、隱郡(なばりのこおり)に到り、隱の驛家を焚きました。それによって邑の中に唱えました。「天皇が東国に入られる。だから人夫たちは皆参り赴け」しかし一人も来ようとしませんでした。

橫河(よこかわ)に及ぼうとしたとき、黑い雲があって、広さ十余丈で天を経りました。

そのとき天皇はこれを異しんで、燭を挙げて親ら式を秉り、占って言いました。「天下が両つに分かれる祥である。しかし朕はついに天下を得るであろうか」

そこで急ぎ行って伊賀郡に到り、伊賀の驛家を焚きました。

8伊勢に至る

逮于伊賀中山,而當國郡司等,率數百眾歸焉。會明,至莿荻野,暫停駕而進食。到積殖山口,高市皇子自鹿深越以遇之。民直大火、赤染造德足、大藏直廣隅、坂上直國麻呂、古市黑麻呂、竹田大德、膽香瓦臣安倍從焉。越大山,至伊勢鈴鹿。爰國司守三宅連石床、介三輪君子首及湯沐令田中臣足麻呂、高田首新家等參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍,塞鈴鹿山道。到川曲坂下,而日暮也。以皇后疲之,暫留輿而息。然夜曀欲雨,不得淹息而進行。於是寒之雷雨已甚。從駕者衣裳濕,以不堪寒。乃到三重郡家,焚屋一間,而令熅寒者。是夜半,鈴鹿關司遣使奏言:「山郡王、石川王,並來歸之。故置關焉。」天皇便使路直益人徵。丙戌旦,於朝明郡跡太川邊,望拜天照大神。是時,益人到之奏曰:「所置關者非山部王、石川王。是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺、難波吉士三綱、駒田勝忍人、山邊君安摩呂、小墾田豬手、埿部胝枳、大分君稚臣、根連金身、漆部友背之輩從之。

伊賀の中山に逮んだとき、その国の郡司らが、数百の眾を率いて歸り附きました。

明け方になって、莿荻野(たらの)に至り、しばらく駕を停めて食を進めました。

積殖(つげ)の山口に到ったとき、高市皇子が鹿深(かふか)から越えて来て遇いました。民直大火(たみのあたいおおひ)、赤染造德足(あかそめのみやつことことり)、大藏直廣隅(おおくらのあたいひろすみ)、坂上直國麻呂(さかのうえのあたいくにまろ)、古市黑麻呂(ふるいちのくろまろ)、竹田大德(たけだのだいとこ)、膽香瓦臣安倍(いかごのおみあべ)が従いました。

大山を越えて、伊勢の鈴鹿に至りました。そこで国司の守の三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)、介の三輪君子首(みわのきみこびと)、および湯沐令の田中臣足麻呂(たなかのおみたりまろ)、高田首新家(たかたのおびとにいのみ)らが鈴鹿郡で参り遇いました。そこでまた五百の軍を発して、鈴鹿山の道を塞ぎました。

川曲(かわわ)の坂下に到ったとき、日が暮れました。皇后が疲れたので、しばらく輿を留めて息みました。しかし夜が曀って雨が降りそうでしたので、長く息むことができずに進み行きました。

そこで寒さと雷雨がすでに甚しくありました。駕に従う者の衣裳が濕って、寒さに堪えられませんでした。そこで三重郡の家に到り、屋を一間焚いて、寒い者を熅めさせました。

この夜半、鈴鹿關の司が使を遣わして奏して言いました。「山郡王(やまべのおおきみ)、石川王(いしかわのおおきみ)が、並びに来て歸り附きました。それゆえ關を置きました」

天皇はそこで路直益人(みちのあたいますひと)を使わして徵させました。

丙戌の日の旦、朝明郡(あさけのこおり)の跡太川(とおがわ)の邊で、天照大神を望み拜みました。

このとき、益人が到って奏して言いました。「關を置いた者は、山部王、石川王ではありません。大津皇子です」

そこで益人に随って参り来ました。大分君惠尺(おおきだのきみえさか)、難波吉士三綱(なにわのきしみつな)、駒田勝忍人(こまだのすぐりおしひと)、山邊君安摩呂(やまべのきみやすまろ)、小墾田豬手(おはりだのいのて)、埿部胝枳(はしべのひき)、大分君稚臣(おおきだのきみわかおみ)、根連金身(ねのむらじかねみ)、漆部友背(ぬりべのともせ)の輩が従いました。

9近江朝が驚く

天皇大喜,將及郡家,男依乘驛來奏曰:「發美濃師三千人,得塞不破道。」於是天皇美雄依之務,既到郡家,先遣高市皇子於不破,令監軍事。遣山背部小田、安斗連阿加布,發東海軍。又遣稚櫻部臣五百瀨、土師連馬手,發東山軍。是日,天皇宿于桑名郡家,即停以不進。是時,近江朝聞大皇弟入東國,其群臣悉愕,京內震動。或遁欲入東國,或退將匿山澤。爰大友皇子謂群臣曰:「將何計?」一臣進曰:「遲謀將後。不如,急聚驍騎,乘跡而逐之。」皇子不從。則以韋那公磐鍬、書直藥、忍坂直大摩侶,遣于東國;以穗積臣百足及弟五百枝、物部首日向,遣于倭京;且遣佐伯連男於筑紫,遣樟使主磐手於吉備國,並悉令興兵。仍謂男與磐手曰:「其筑紫大宰栗隈王與吉備國守當摩公廣嶋二人,元有隸大皇弟。疑有反歟。若有不服色,即殺之。」於是,磐手到吉備國,授符之日,紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。

天皇は大いに喜びました。郡の家に及ぼうとしたとき、男依が驛に乗って来て奏して言いました。「美濃の師三千人を発して、不破の道を塞ぐことができました」

そこで天皇は雄依の務めを美しとしました。すでに郡の家に到って、まず高市皇子を不破に遣わして、軍事を監させました。

山背部小田、安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)を遣わして、東海の軍を発させました。また稚櫻部臣五百瀨、土師連馬手を遣わして、東山の軍を発させました。

この日、天皇は桑名郡の家に宿り、そこで停まって進みませんでした。

このとき、近江朝は大皇弟が東国に入ったと聞いて、その群臣はことごとく愕き、京の内が震え動きました。ある者は遁れて東国に入ろうとし、ある者は退いて山や澤に匿れようとしました。

そこで大友皇子が群臣に言いました。「どのような計を立てようか」

一人の臣が進んで言いました。「謀が遲ければ後れます。急ぎ驍しい騎を聚めて、跡に乗って逐うのに及びません」

皇子は従いませんでした。そこで韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)、書直藥(ふみのあたいくすり)、忍坂直大摩侶(おさかのあたいおおまろ)を東国に遣わし、穗積臣百足(ほづみのおみももたり)とその弟の五百枝(いおえ)、物部首日向(もののべのおびとひむか)を倭の京に遣わしました。また佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を筑紫に遣わし、樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備国に遣わして、並びにことごとく兵を興させました。

そこで男と磐手に言いました。「あの筑紫の大宰の栗隈王(くりくまのおおきみ)と吉備国の守の當摩公廣嶋(たぎまのきみひろしま)の二人は、もとより大皇弟に隸いていた者である。反くことがあるかと疑われる。もし服わない色があれば、すぐに殺せ」

そこで磐手は吉備国に到り、符を授ける日に、廣嶋を紿いて刀を解かせました。磐手はそこで刀を拔いて殺しました。

10栗隈王が断る

男至筑紫。時栗隈王承符對曰:「筑紫國者,元戍邊賊之難也。其峻城深隍,臨海守者,豈為內賊耶?今畏命而發軍,則國空矣。若不意之外,有倉卒之事,頓社稷傾之。然後雖百殺臣,何益焉?豈敢背德耶?輙不動兵者,其是緣也。」時栗隈王二子三野王、武家王佩劍立于側而無退。於是男按劍欲進,還恐見亡。故不能成事,而空還之。東方驛使磐鍬等將及不破,磐鍬獨疑山中有兵,以後之緩行。時伏兵自山出,遮藥等之後。磐鍬見之,知藥等見捕,則返逃走,僅得脫。當是時,大伴連馬來田、弟吹負並見時否,以稱病退於倭家。然知其登嗣位者,必所居吉野大皇弟矣。是以馬來田先從天皇。唯吹負留謂:「立名于一時,欲寧艱難。」即招一二族及諸豪傑,僅得數十人。丁亥,高市皇子遣使於桑名郡家以奏言:「遠居御所,行政不便。宜御近處。」即日,天皇留皇后,而入不破。比及郡家,尾張國司守小子部連鉏鉤率二萬眾歸之。

男は筑紫に至りました。そのとき栗隈王は符を承けて対えて言いました。

「筑紫国は、もとより邊の賊の難を戍る所です。その峻しい城と深い隍で海に臨んで守るのは、どうして内の賊のためでしょうか。今、命を畏れて軍を発せば、国は空になります。もし意いの外に倉卒の事があれば、たちまち社稷が傾きます。その後に臣を百たび殺したとしても、何の益がありましょうか。どうして敢えて德に背きましょうか。たやすく兵を動かさないのは、それがその緣です」

そのとき栗隈王の二人の子、三野王(みののおおきみ)、武家王(たけいへのおおきみ)が劍を佩いて側に立ち、退きませんでした。

そこで男は劍を按えて進もうとしましたが、かえって亡われるのを恐れました。それゆえ事を成すことができず、空しく還りました。

東方の驛使の磐鍬らが不破に及ぼうとしたとき、磐鍬は独り山の中に兵があるかと疑って、後れて緩く行きました。そのとき伏せていた兵が山から出て、藥らの後を遮りました。磐鍬はこれを見て、藥らが捕られたと知り、そこで返って逃げ走り、僅かに脱れることができました。

このときに当たって、大伴連馬來田と弟の吹負(ふけい)は、並びに時でないことを見て、病と称して倭の家に退きました。しかしその嗣の位に登る者は、必ず吉野に居る大皇弟であると知っていました。

そのため馬來田はまず天皇に従いました。ただ吹負だけは留まって言いました。「一時に名を立てて、艱難を寧んじたい」そこで一二の族と諸の豪傑を招いて、僅かに数十人を得ました。

丁亥の日、高市皇子が使を桑名郡の家に遣わして奏して言いました。「御所が遠くにあっては、政を行うのに便ではありません。近い処に御されますように」

その日に、天皇は皇后を留めて、不破に入りました。郡の家に及ぶころ、尾張国司の守の小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が二万の眾を率いて歸り附きました。

11高市皇子が軍事を預かる

天皇即美之,分其軍,塞處處道也。到于野上,高市皇子自和蹔參迎,以便奏言:「昨夜,自近江朝驛使馳至。因以伏兵而捕者,則書直藥、忍坂直大麻呂也。問何所往,答曰:『為所居吉野大皇弟,而遣發東國軍韋那公磐鍬之徒也。然磐鍬見兵起,乃逃還之。』」既而天皇謂高市皇子曰:「其近江朝,左右大臣及智謀群臣共定議。今朕無與計事者,唯有幼少孺子耳。奈之何?」皇子攘臂按劍奏言:「近江群臣雖多,何敢逆天皇之靈哉。天皇雖獨,則臣高市賴神祇之靈,請天皇之命,引率諸將而征討。豈有距乎?」爰天皇譽之,攜手撫背曰:「慎,不可怠。」因賜鞍馬,悉授軍事。皇子則還和蹔。天皇於茲,行宮興野上而居焉。此夜,雷電雨甚。天皇祈之曰:「天地神祇扶朕者,雷雨息矣。」言訖即雷雨止之。戊子,天皇往於和蹔,檢校軍事而還。己丑,天皇往和蹔,命高市皇子,號令軍眾。天皇亦還于野上而居之。是日,大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之,謂一二漢直等曰:「我詐稱高市皇子,率數十騎,自飛鳥寺北路出之臨營。

天皇はすぐにこれを美しとして、その軍を分けて、処々の道を塞ぎました。

野上(のがみ)に到ったとき、高市皇子が和蹔(わざみ)から参り迎えて、そこで奏して言いました。

「昨夜、近江朝から驛使が馳せ至りました。それによって兵を伏せて捕らえた者は、書直藥と忍坂直大麻呂でした。どこへ往くのかと問うと、答えて言いました。『吉野に居る大皇弟のために、東国の軍を遣わし発しに行く韋那公磐鍬の徒である。しかし磐鍬は兵が起こるのを見て、そこで逃げ還った』と」

やがて天皇は高市皇子に言いました。「あの近江朝には、左右の大臣と智と謀のある群臣が共に議を定めている。今、朕には共に事を計る者がなく、ただ幼い孺子があるだけである。どうしたものか」

皇子は臂を攘げ劍を按えて奏して言いました。「近江の群臣は多いとはいえ、どうして敢えて天皇の靈に逆らえましょうか。天皇は独りであられても、臣高市が神祇の靈に賴み、天皇の命を請けて、諸の將を引き率いて征ち討ちます。どうして距むことがありましょうか」

そこで天皇は譽めて、手を攜り背を撫でて言いました。「慎んで、怠ってはならない」

それによって鞍馬を賜り、軍事をことごとく授けました。皇子はそこで和蹔に還りました。

天皇はここで、行宮を野上に興して居りました。この夜、雷電と雨が甚しくありました。天皇は祈って言いました。「天地の神祇が朕を扶けるのなら、雷雨は息むであろう」言い終わると、すぐに雷雨は止みました。

戊子の日、天皇は和蹔に往き、軍事を檢べ校べて還りました。

己丑の日、天皇は和蹔に往き、高市皇子に命じて、軍の眾に號令させました。天皇はまた野上に還って居りました。

この日、大伴連吹負は密かに留守司の坂上直熊毛(さかのうえのあたいくまけ)と議って、一二の漢直(あやのあたい)らに言いました。

「私は詐って高市皇子と称し、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の路から出て營に臨もう。

12飛鳥寺の計略

乃汝內應之。」既而繕兵於百濟家,自南門出之。先秦造熊令犢鼻,而乘馬馳之,俾謂於寺西營中曰:「高市皇子自不破至。軍眾多從。」爰留守司高坂王及興兵使者穗積臣百足等據飛鳥寺西槻下為營。唯百足居小墾田兵庫,運兵於近江。時營中軍眾聞熊叫聲,悉散走。仍大伴連吹負率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和。軍士亦從。乃舉高市皇子之命,喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來,逮于飛鳥寺西槻下。有人曰:「下馬也。」時百足下馬遲之。便取其襟以引墮,射中一箭。因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝、物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚高坂王、稚狹王,而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂、坂上直老、佐味君宿那麻呂等於不破宮,令奏事狀。天皇大喜之。因乃令吹負拜將軍。是時三輪君高市麻呂、鴨君蝦夷等及群豪傑者,如響悉會將軍麾下,乃規襲近江。因以撰眾中之英俊,為別將及軍監。庚寅,初向乃樂。

そこでお前たちは内で応じよ」

やがて百濟の家で兵を繕え、南門から出ました。まず秦造熊(はたのみやつこくま)に犢鼻(ふんどし)だけを着けさせ、馬に乗って馳せさせ、寺の西の營の中に言わせました。「高市皇子が不破から至った。軍の眾が多く従っている」

そこで留守司の高坂王、および兵を興す使者の穗積臣百足らは、飛鳥寺の西の槻の下に據って營としていました。ただ百足だけは小墾田(おはりだ)の兵庫に居て、兵を近江に運んでいました。

そのとき營の中の軍の眾は、熊の叫ぶ声を聞いて、ことごとく散り走りました。

そこで大伴連吹負が数十騎を率いて劇しく来ました。すると熊毛と諸の直らが共に和らぎ連なりました。軍士もまた従いました。

そこで高市皇子の命を挙げて、穗積臣百足を小墾田の兵庫から喚びました。そこで百足は馬に乗って緩く来て、飛鳥寺の西の槻の下に逮びました。

ある人が言いました。「馬から下りよ」そのとき百足は馬から下りるのが遲くありました。そこでその襟を取って引き墮とし、一箭を射て中てました。それによって刀を拔いて斬り殺しました。

そこで穗積臣五百枝、物部首日向を禁めましたが、やがて赦して軍の中に置きました。また高坂王、稚狹王(わかさのおおきみ)を喚んで、軍に従わせました。

やがて大伴連安麻呂(おおとものむらじやすまろ)、坂上直老(さかのうえのあたいおきな)、佐味君宿那麻呂(さみのきみすくなまろ)らを不破宮に遣わして、事の狀を奏させました。天皇は大いに喜びました。それによって吹負を將軍に拜しました。

このとき三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ)、鴨君蝦夷(かものきみえみし)らと群の豪傑たちが、響きのようにことごとく將軍の麾の下に會まりました。そこで近江を襲うことを規りました。それによって眾の中の英れて俊れた者を撰んで、別の將と軍監としました。

庚寅の日、初めて乃樂(なら)に向かいました。

13諸道に進む

秋七月庚寅朔辛卯,天皇遣紀臣阿閉麻呂、多臣品治、三輪君子首、置始連菟,率數萬眾,自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依、書首根麻呂、和珥部臣君手、膽香瓦臣安倍,率數萬眾,自不破出,直入近江。恐其眾與近江師難別,以赤色著衣上。然後別命多臣品治,率三千眾屯于莿荻野,遣田中臣足麻呂,令守倉歷道。時近江命山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等,率數萬眾,將襲不破,而軍于犬上川濱。山部王為蘇賀臣果安、巨勢臣比等見殺。由是亂,以軍不進。乃蘇賀臣果安自犬上返,刺頸而死。是時,近江將軍羽田公矢國,其子大人等,率己族來降。因授斧鉞,拜將軍,即北入越。先是,近江放精兵,忽衝玉倉部邑。則遣出雲臣狛,擊追之。壬辰,將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啟將軍曰:「古京是本營處也,宜固守。」將軍從之。則遣赤麻呂、紀部首子人,令戍古京。於是,赤麻呂等詣古京,而解取道路橋板,作楯,豎於京邊衢以守之。

秋七月の庚寅が朔の辛卯の日、天皇は紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)、多臣品治、三輪君子首、置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣わして、数万の眾を率い、伊勢の大山を越えて倭に向かわせました。

また村國連男依、書首根麻呂、和珥部臣君手、膽香瓦臣安倍を遣わして、数万の眾を率い、不破から出て、直ちに近江に入らせました。その眾が近江の師と別けにくいことを恐れて、赤い色を衣の上に著けました。

その後、別に多臣品治に命じて、三千の眾を率いて莿荻野に屯ませ、田中臣足麻呂を遣わして、倉歷(くらふ)の道を守らせました。

そのとき近江は山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等(こせのおみひと)に命じて、数万の眾を率いて不破を襲わせようとし、犬上川の濱に軍しました。山部王は蘇賀臣果安と巨勢臣比等に殺されました。これによって乱れて、軍は進みませんでした。そこで蘇賀臣果安は犬上から返って、頸を刺して死にました。

このとき、近江の將軍の羽田公矢國(はたのきみやくに)とその子の大人(うし)らが、己の族を率いて来降りました。それによって斧鉞を授けて將軍に拜すると、すぐに北の越に入りました。

これより先、近江は精しい兵を放って、たちまち玉倉部(たまくらべ)の邑を衝きました。そこで出雲臣狛(いずものおみこま)を遣わして、擊ち追わせました。

壬辰の日、將軍吹負は乃樂山の上に屯みました。そのとき荒田尾直赤麻呂(あらたおのあたいあかまろ)が將軍に啟して言いました。「古い京はもともと營する処です。固く守るべきです」

將軍はこれに従いました。そこで赤麻呂、紀部首子人(きべのおびとこひと)を遣わして、古い京を戍らせました。そこで赤麻呂らは古い京に詣って、道路の橋の板を解き取って楯を作り、京の邊の衢に豎てて守りました。

14吹負が敗れる

癸巳,將軍吹負與近江將大野君果安,戰于乃樂山,為果安所敗。軍卒悉走,將軍吹負僅得脫身。於是果安追至八口,屳山而視京,每街豎楯。疑有伏兵,乃稍引還之。甲午,近江別將田邊小隅,越鹿深山,而卷幟抱鼓,詣于倉歷。以夜半之,銜梅穿城,劇入營中。則畏己卒與足麻侶眾難別,以每人令言:「金。」仍拔刀而毆之,非言「金」乃斬耳。於是,足摩侶眾悉亂之,事忽起,不知所為。唯足摩侶聰知之,獨言:「金。」以僅得免。乙未,小隅亦進,欲襲莿荻野營而忽到。爰,將軍多臣品治遮之,以精兵追擊之。小隅獨免走焉。以後,遂復不來也。丙申,男依等與近江軍戰息長橫河,破之,斬其將境部連藥。戊戌,男依等討近江將秦友足於鳥籠山,斬之。是日,東道將軍紀臣阿閉麻呂等聞倭京將軍大伴連吹負為近江所敗,則分軍以遣置始連菟,率千餘騎而急馳倭京。壬寅,男依等戰于安河濱,大破。則獲社戶臣大口、土師連千嶋。

癸巳の日、將軍吹負は近江の將の大野君果安(おおののきみはたやす)と乃樂山で戦って、果安に敗られました。軍の卒はことごとく走り、將軍吹負は僅かに身を脱れることができました。

そこで果安は追って八口(やぐち)に至り、山に屳って京を視ると、街ごとに楯が豎てられていました。伏せた兵があるかと疑って、そこで稍く引き還しました。

甲午の日、近江の別の將の田邊小隅(たなべのおすみ)が鹿深山を越えて、幟を卷き鼓を抱いて倉歷に詣りました。夜半に梅を銜んで城を穿ち、劇しく營の中に入りました。そこで己の卒と足麻侶の眾を別けにくいことを畏れて、人ごとに「金」と言わせました。そして刀を拔いて毆ち、「金」と言わない者は斬りました。

そこで足摩侶の眾はことごとく乱れました。事が忽ちに起こって、どうすべきか分かりませんでした。ただ足摩侶だけは聰く知って、独り「金」と言って、僅かに免れることができました。

乙未の日、小隅はまた進んで、莿荻野の營を襲おうとして、忽ちに到りました。そこで將軍の多臣品治が遮って、精しい兵で追い擊ちました。小隅は独り免れて走りました。その後、ついに復た来ませんでした。

丙申の日、男依らは近江の軍と息長(おきなが)の橫河で戦って破り、その將の境部連藥(さかいべのむらじくすり)を斬りました。

戊戌の日、男依らは近江の將の秦友足(はたのともたり)を鳥籠山(とこのやま)で討って斬りました。

この日、東道の將軍の紀臣阿閉麻呂らは、倭の京の將軍の大伴連吹負が近江に敗られたと聞いて、そこで軍を分けて置始連菟を遣わし、千余騎を率いて急ぎ倭の京に馳せさせました。

壬寅の日、男依らは安河(やすのかわ)の濱で戦って、大いに破りました。そこで社戶臣大口(こそべのおみおおくち)、土師連千嶋(はじのむらじちしま)を獲ました。

15瀨田の橋

丙午,討栗太軍,追之。辛亥,男依等到瀨田。時大友皇子及群臣等共營於橋西,而大成陣,不見其後。旗幟蔽野,埃塵連天,鉦鼓之聲,聞數十里。列弩亂發,矢下如雨。其將智尊率精兵,以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈,置一長板,設有蹋板度者,乃引板將墮。是以不得進襲。於是,有勇敢士,曰大分君稚臣。則棄長矛以重擐甲,拔刀急蹈板度之。便斷著板綱,以被矢入陣。眾悉亂而散走之,不可禁。時將軍智尊,拔刀斬退者。而不能止。因以斬智尊於橋邊。則大友皇子、左右大臣等僅身免以逃之。男依等即軍于粟津岡下。是日,羽田公矢國、出雲臣狛,合共攻三尾城,降之。壬子,男依等斬近江將犬養連五十君及谷直鹽手於粟津市。於是,大友皇子走無所入,乃還隱山前,以自縊焉。時左右大臣及群臣,皆散亡。唯物部連麻呂且一二舍人從之。初將軍吹負向乃樂至稗田之日,有人曰:「自河內,軍多至。

丙午の日、栗太(くりた)の軍を討って追いました。

辛亥の日、男依らは瀨田に到りました。そのとき大友皇子と群臣らが共に橋の西に營して、大きく陣を成したので、その後が見えませんでした。旗幟が野を蔽い、埃と塵が天に連なり、鉦と鼓の声が数十里に聞こえました。列べた弩が乱れ発って、矢が雨のように下りました。

その將の智尊(ちそん)は精しい兵を率いて、先鋒として距みました。そのうえ橋の中を三丈ほど切り断ち、一枚の長い板を置いて、板を蹈んで度る者があれば、板を引いて墮とすようにしました。そのため進んで襲うことができませんでした。

そこで勇敢な士があり、大分君稚臣といいました。そこで長い矛を棄てて甲を重ねて擐い、刀を拔いて急ぎ板を蹈んで度りました。そして板に著けた綱を断ち、矢を被りながら陣に入りました。

眾はことごとく乱れて散り走り、禁めることができませんでした。そのとき將軍の智尊は刀を拔いて退く者を斬りましたが、止めることができませんでした。それによって智尊を橋の邊で斬りました。

そこで大友皇子と左右の大臣らは、僅かに身を免れて逃げました。男依らはすぐに粟津(あわつ)の岡の下に軍しました。

この日、羽田公矢國、出雲臣狛が合わせて共に三尾城(みおのさし)を攻めて、降らせました。

壬子の日、男依らは近江の將の犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)と谷直鹽手(たにのあたいしおて)を粟津の市で斬りました。

そこで大友皇子は走って入る所がなく、そこで還って山前(やまさき)に隱れて、自ら縊れました。そのとき左右の大臣と群臣は、皆散り亡せました。ただ物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と一二の舍人だけが従いました。

初め、將軍吹負が乃樂に向かって稗田(ひえだ)に至った日、ある人が言いました。「河內から、軍が多く至る。

16河內方の戦い

」則遣坂本臣財、長尾直真墨、倉墻直麻呂、民直小鮪、谷直根麻呂,率三百軍士,距於龍田。復遣佐味君少麻呂,率數百人,屯大坂。遣鴨君蝦夷,率數百人,守石手道。是日,坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍知財等來,以悉焚稅倉,皆散亡。仍宿城中。會明,臨見西方,自大津、丹比兩道,軍眾多至,顯見旗幟。有人曰:「近江將壹伎史韓國之師也。」財等自高安城降,以渡衛我河,與韓國戰于河西。財等眾少不能距。先是,遣紀臣大音,令守懼坂道。於是財等退懼坂,而居大音之營。是時,河內國司守來目臣鹽籠,有歸於不破宮之情,以集軍眾。爰韓國到之,密聞其謀,而將殺鹽籠。鹽籠知事漏,乃自死焉。經一日,近江軍當諸道而多至。即並不能相戰,以解退。是日,將軍吹負為近江所敗,以獨率一二騎走之。逮于墨坂,遇逢菟軍至,更還屯金綱井,而招聚散卒。於是,聞近江軍至大坂道,而將軍引軍如西。

」そこで坂本臣財(さかもとのおみたから)、長尾直真墨(ながおのあたいますみ)、倉墻直麻呂(くらかきのあたいまろ)、民直小鮪(たみのあたいおしび)、谷直根麻呂(たにのあたいねまろ)を遣わして、三百の軍士を率いて龍田(たつた)で距ませました。また佐味君少麻呂を遣わして、数百人を率いて大坂に屯ませました。鴨君蝦夷を遣わして、数百人を率いて石手(いわて)の道を守らせました。

この日、坂本臣財らは平石野(ひらいしの)に次りました。そのとき近江の軍が高安城にあると聞いて、そこに登りました。すると近江の軍は財らが来るのを知って、税の倉をことごとく焚いて、皆散り亡せました。そこで城の中に宿りました。

明け方になって西の方を臨み見ると、大津と丹比(たじひ)の両つの道から、軍の眾が多く至って、旗幟が顯らかに見えました。ある人が言いました。「近江の將の壹伎史韓國(いきのふびとからくに)の師です」

財らは高安城から降りて、衛我河(えがのかわ)を渡り、韓國と河の西で戦いました。財らは眾が少なくて距むことができませんでした。

これより先、紀臣大音(きのおみおおと)を遣わして、懼坂(おそさか)の道を守らせていました。そこで財らは懼坂に退いて、大音の營に居りました。

このとき河內国司の守の來目臣鹽籠(くめのおみしおこめ)は、不破宮に歸く情があって、軍の眾を集めていました。そこに韓國が到って、密かにその謀を聞いて、鹽籠を殺そうとしました。鹽籠は事が漏れたことを知って、そこで自ら死にました。

一日を経て、近江の軍が諸の道に当たって多く至りました。そこで並びに相戦うことができず、解いて退きました。

この日、將軍吹負は近江に敗られて、独り一二騎を率いて走りました。墨坂(すみさか)に逮んで、菟の軍が至ったのに遇い、更に還って金綱井(かなつなのい)に屯んで、散った卒を招き聚めました。

そこで近江の軍が大坂の道に至ったと聞いて、將軍は軍を引いて西に如きました。

17箸陵の戦い

到當麻衢,與壹伎史韓國軍戰葦池側。時有勇士來目者,拔刀急馳,直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之,追斬甚多。爰將軍令軍中曰:「其發兵之元意,非殺百姓,是為元兇。故莫妄殺。」於是,韓國離軍獨逃也。將軍遙見之,令來目以俾射。然不中,而遂走得免焉。將軍更還本營。時東師頻多臻。則分軍,各當上中下道而屯之。唯將軍吹負親當中道。於是,近江將犬養連五十君,自中道至之留村屋,而遣別將廬井造鯨,率二百精兵,衝將軍營。當時麾下軍少,以不能距。爰有大井寺奴名德麻呂等五人,從軍。即以德麻呂等為先鋒,以進射之。鯨軍不能進。是日,三輪君高市麻呂、置始連菟當上道,戰于箸陵。大破近江軍,而乘勝兼斷鯨軍之後。鯨軍悉解走,多殺士卒。鯨乘白馬以逃之,馬墮泥田,不能進行。則將軍吹負謂甲斐勇者曰:「其乘白馬者,廬井鯨也。急追以射。」於是甲斐勇者馳追之,比及鯨,鯨急鞭馬,馬能拔以出泥,即馳之得脫。

當麻(たぎま)の衢に到って、壹伎史韓國の軍と葦池(あしのいけ)の側で戦いました。

そのとき勇ましい士があり、來目(くめ)という者でした。刀を拔いて急ぎ馳せ、直ちに軍の中に入りました。騎士が踵を繼いで進みました。すると近江の軍はことごとく走り、追って斬った者が甚だ多くありました。

そこで將軍は軍の中に令して言いました。「兵を発した元の意は、百姓を殺すためではなく、元の兇のためである。だから妄りに殺すな」

そこで韓國は軍を離れて独り逃げました。將軍は遙かにこれを見て、來目に射させました。しかし中らず、ついに走って免れました。

將軍はまた本の營に還りました。そのとき東の師が頻りに多く臻りました。そこで軍を分けて、それぞれ上・中・下の道に当たって屯みました。ただ將軍吹負だけは親ら中の道に当たりました。

そこで近江の將の犬養連五十君は、中の道から至って村屋(むらや)に留まり、別の將の廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)を遣わして、二百の精しい兵を率いて將軍の營を衝かせました。

そのとき麾の下の軍が少なくて、距むことができませんでした。そこに大井寺の奴で德麻呂(とくまろ)という者ら五人が、軍に従っていました。そこで德麻呂らを先鋒として、進んで射させると、鯨の軍は進むことができませんでした。

この日、三輪君高市麻呂、置始連菟が上の道に当たって、箸陵(はしのみささぎ)で戦いました。近江の軍を大いに破り、勝ちに乗じて兼ねて鯨の軍の後を断ちました。鯨の軍はことごとく解け走り、士卒が多く殺されました。

鯨は白い馬に乗って逃げました。馬が泥の田に墮ちて、進み行くことができませんでした。

そこで將軍吹負は甲斐の勇ましい者に言いました。「あの白い馬に乗っている者が、廬井鯨である。急ぎ追って射よ」

そこで甲斐の勇ましい者は馳せ追いました。鯨に及ぼうとしたとき、鯨は急ぎ馬に鞭うち、馬はよく泥から拔け出て、そのまま馳せて脱れることができました。

18三神の教え

將軍亦更還本處而軍之。自此以後,近江軍遂不至。先是軍金綱井之時,高市郡大領高市縣主許梅,儵忽口閉,而不能言也。三日之後,方著神以言:「吾者,高市社所居,名事代主神。又身狹社所居,名生靈神者也。」乃顯之曰:「於神日本磐余彥天皇之陵,奉馬及種種兵器。」便亦言:「吾者,立皇御孫命之前後,以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言:「自西道,軍眾將至之。宜慎也。」言訖則醒矣。故是以便遣許梅,而祭拜御陵,因以奉馬及兵器。又捧幣而禮祭高市、身狹二社之神。然後壹伎史韓國自大坂來。故時人曰:「二社神所教之辭,適是也。」又,村屋神著祝曰:「今自吾社中道,軍眾將至。故宜塞社中道。」故,未經幾日,廬井造鯨軍,自中道至。時人曰:「即神所教之辭是也。」軍政既訖,將軍等舉是三神教言而奏之。即敕登進三神之品以祠焉。辛亥,將軍吹負既定倭地,便越大坂往難波。

將軍はまた本の処に還って軍しました。これより後、近江の軍はついに至りませんでした。

これより先、金綱井に軍していたとき、高市郡の大領の高市縣主許梅(たけちのあがたぬしこうめ)が、たちまち口が閉じて、言うことができませんでした。三日の後、ようやく神が著いて言いました。「吾は、高市社に居る、名は事代主神(ことしろぬしのかみ)である。また身狹社(むさのもり)に居る、名は生靈神(いくたまのかみ)である」

そして顯して言いました。「神日本磐余彥天皇(かんやまといわれびこのてんのう)の陵に、馬と種種の兵器を奉れ」

そしてまた言いました。「吾は、皇御孫命(すめみまのみこと)の前と後に立って、不破まで送り奉って還った。今またも官軍の中に立って守護しよう」

また言いました。「西の道から、軍の眾が至るであろう。慎むがよい」

言い終わると、すぐに醒めました。

それゆえ、これによって許梅を遣わして、御陵を祭り拜み、それによって馬と兵器を奉りました。また幣を捧げて高市、身狹の二つの社の神を禮り祭りました。

その後、壹伎史韓國が大坂から来ました。だからそのときの人は言いました。「二つの社の神が教えた辭は、まさにこれである」

また、村屋の神が祝(はふり)に著いて言いました。「今、吾が社の中の道から、軍の眾が至るであろう。だから社の中の道を塞ぐがよい」

それゆえ、幾日も経たないうちに、廬井造鯨の軍が、中の道から至りました。そのときの人は言いました。「まさに神が教えた辭はこれである」

軍の政がすでに終わって、將軍らはこの三つの神の教えた言を挙げて奏しました。そこで敕して三つの神の品を登し進めて祠らせました。

辛亥の日、將軍吹負はすでに倭の地を定めて、そのまま大坂を越えて難波に往きました。

19大友皇子の頭を献る

以餘別將等各自三道進,至于山前,屯河南。即將軍吹負,難波小郡而仰以西諸國司等,令進官鑰、驛鈴、傳印。癸丑,諸將軍等悉會於筱浪,而探捕左右大臣及諸罪人等。乙卯,將軍等向於不破宮。因以捧大友皇子頭,而獻于營前。

余りの別の將らは、それぞれ三つの道から進んで、山前(やまさき)に至り、河の南に屯みました。

そこで將軍吹負は、難波の小郡(おごおり)で、西の諸国の司らに仰せて、官の鑰(かぎ)、驛鈴、傳印を進めさせました。

癸丑の日、諸の將軍らはことごとく筱浪(ささなみ)に會って、左右の大臣と諸の罪人らを探し捕らえました。

乙卯の日、將軍らは不破宮に向かいました。それによって大友皇子の頭を捧げて、營の前に獻りました。

夾注 1

筱,此云佐佐。

筱は、佐佐(ささ)と読みます。

20罪を治める

八月庚申朔甲申,命高市皇子,宣近江群臣犯狀。則重罪八人坐極刑。仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。是日,左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等及子孫,并中臣連金之子、蘇我臣果安之子,悉配流。以餘悉赦之。先是,尾張國司守少子部連鉏鉤,匿山自死之。天皇曰:「鉏鉤,有功者也。無罪何自死,其有隱謀歟?」丙戌,恩敕諸有功勳者,而顯寵賞。

八月の庚申が朔の甲申の日、高市皇子に命じて、近江の群臣の犯した狀を宣べさせました。そこで重い罪の八人が極刑に坐しました。そのうえ右大臣の中臣連金を淺井の田根(たね)で斬りました。

この日、左大臣の蘇我臣赤兄、大納言の巨勢臣比等とその子孫、あわせて中臣連金の子、蘇我臣果安の子を、ことごとく配し流しました。余りはことごとく赦しました。

これより先、尾張国司の守の少子部連鉏鉤が、山に匿れて自ら死にました。天皇は言いました。「鉏鉤は、功のある者である。罪がないのにどうして自ら死んだのか。隱れた謀があったのか」

丙戌の日、諸の功と勳のある者に恩を敕して、寵と賞を顯しました。

21淨御原宮

九月己丑朔丙申,車駕還宿伊勢桑名。丁酉,宿鈴鹿。戊戌,宿阿閉。己亥,宿名張。庚子,詣于倭京,而御嶋宮。癸卯,自嶋宮移岡本宮。是歲,營宮室於岡本宮南。即冬,遷以居焉。是謂飛鳥淨御原宮。

九月の己丑が朔の丙申の日、車駕は還って伊勢の桑名に宿りました。丁酉の日、鈴鹿に宿りました。戊戌の日、阿閉(あへ)に宿りました。己亥の日、名張(なばり)に宿りました。

庚子の日、倭の京に詣って、嶋宮に御しました。癸卯の日、嶋宮から岡本宮に移りました。

この歲、宮室を岡本宮の南に營みました。そして冬に、遷って居りました。これを飛鳥淨御原宮(あすかのきよみはらのみや)といいます。

22新羅の客をもてなす

冬十一月戊子朔辛亥,饗新羅客金押實等於筑紫。即日,賜祿各有差。

冬十一月の戊子が朔の辛亥の日、新羅の客の金押實らを筑紫で饗えました。その日に、祿を賜り、それぞれ差がありました。

23功勳に冠位を加える

十二月戊午朔辛酉,選諸有功勳者,增加冠位。仍賜小山位以上,各有差。壬申,船一隻,賜新羅客。癸未,金押實等罷歸。是月,大紫韋那公高見,薨。

十二月の戊午が朔の辛酉の日、諸の功と勳のある者を選んで、冠位を增し加えました。そのうえ小山位以上に賜り、それぞれ差がありました。

壬申の日、船一隻を新羅の客に賜りました。癸未の日、金押實らは罷り歸りました。

この月、大紫の韋那公高見(いなのきみたかみ)が薨りました。