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巻一卷一

筆苑雑記(筆の苑の雑記) 筆苑雜記 · 徐居正(ソ・ゴジョン) · 1487年(朝鮮・成宗18年) · 段落 98 · 漢字 13,622字 · 朗読 54.5分

筆苑雑記(筆の苑の雑記) 本文 徐居正が暇な折に筆の進むまま書き留め、1487年に義城で板に刻んだ雑記。朝鮮の開国から成宗の代までの百年のあいだの朝廷と在野の話177段落が収められている。傘で漏る屋根を遮った柳寛、子どもの召使いが文書に小便をしても怒らなかった黄喜、虎を射ておきながら何の獣か分からなかった崔潤徳、一晩で蔵書閣の書を読み尽くした成侃のように、人の姿がそのまま残り、世祖の前で四柱の数が五十一万八千四百しかないので禄命の書は信じられないと申し上げた箇所、山水の説と諡号の法を論じた箇所のように、著者自身の考えを明らかにした文章も併せてある。中国の使者の人柄を一人ずつ採点し、『三国史記』について「信じて伝えられる書ではない」と言った箇所もここにある。彭召・表沿沫・曹偉の序文三つと李世佐の跋文を併せて訳した。

1我が東方の年数は中国と同じである

嘗考。自唐堯元年甲辰。至洪武元年戊申。摠三千七百八十五年。自檀君元年戊辰。至我太祖元年壬申。亦三千七百八十五年。吾東方歷年之數。大槩與中國相同。帝堯作而檀君興。周武立而箕子封。漢定天下而衛滿來平壤。宋太祖將興而高麗太祖已起。我太祖開國亦與太祖高皇帝同時。

かつて考えてみると、唐の堯帝元年の甲辰から洪武元年の戊申までが合わせて三千七百八十五年であり、檀君元年の戊辰から我が太祖元年の壬申までもまた三千七百八十五年である。我が東方の経てきた年数は、おおむね中国と相同じである。堯帝が立つと檀君が興り、周の武王が立つと箕子が封を受け、漢が天下を定めると衛満が平壌に来た。宋の太祖が興ろうとするときには高麗の太祖がすでに起こっており、我が太祖が国を開かれたのもまた明の太祖高皇帝と同じ時である。

2檀君が千年を生きたという話は信じられない

古記云。檀君與堯同日而立。歷虞夏至商武丁八年乙未。入阿斯達山爲神。享年一千四十有八。當時文籍不傳。其眞僞不得而考。至今傳襲。以古記爲說。居正以爲當堯之時。人文昭宣。至于夏商。世漸澆薄。人君享國久長者不過四五十年。人壽。上壽白年。中壽六七十年。下壽四五十年。安有檀君獨壽千百年以享一國乎。知其說之誣也。又云。檀君生子扶婁。是爲東扶餘王。至禹會諸侯於塗山。檀君遣扶婁朝焉。其說無據。若檀君享國久長。扶婁往會塗山。則雖我國文籍不備。中國之書豈無一語及之乎。檀氏相傳享國之數。千四十八年者。無疑矣。權文忠公近詩曰。聞說鴻荒日。檀君降樹邊。世傳不知幾。歷年曾過千。蓋言其傳世歷年之久也。

『古記』に「檀君は堯帝と同じ日に立ち、虞・夏を経て商の武丁八年の乙未に阿斯達山に入って神となった。享けた年は一千四十八年である」とある。当時の文籍が伝わらないため、その真偽を考えることができないのに、今に至るまで受け継がれ、『古記』を説の根拠としている。居正はこう考える。堯帝の時には人文が明らかに行き渡っていたが、夏・商に至って世は次第に薄くなった。君主が国を享けたのは長くても四、五十年を越えず、人の寿命は上寿が百年、中寿が六、七十年、下寿が四、五十年である。どうして檀君だけが独り千百年を生きて一国を享けたことがあろうか。その説が偽りであることが分かる。また「檀君が子の扶婁を生み、これが東扶余王となった。禹が塗山に諸侯を集めたとき、檀君は扶婁を遣わして朝せしめた」とあるが、その説には根拠がない。もし檀君が長く国を享け、扶婁が塗山の会に行ったのであれば、たとえ我が国の文籍が備わっていなくとも、中国の書にどうして一言も触れたものがないであろうか。檀氏が相伝えて国を享けた年数が一千四十八年であるというのは、疑う余地がない。文忠公権近の詩に「聞くところによれば遥かな昔、檀君が樹のかたわらに降りたという。世を伝えたのが幾代かは知らぬが、経てきた年はかつて千を越えた」とある。おおよそその世を伝え年を経たことの久しさを言ったものである。

3箕子が平壌に都した八百七十八年

箕子封朝鮮。在周武己卯。至後王準。漢高祖丙午。衛滿侵之。浮海而南。其都平壤者八百七十八年也。準移都金馬郡。是謂馬韓。歷四郡二府之時。至百濟溫祚王二十六年戊辰而亡。亦百四十餘年矣。金富軾三國史。但書百濟王襲馬韓取之。不明言箕氏世係。當時亦必無可考者矣。

箕子が朝鮮に封じられたのは周の武王の己卯の年である。後に準王に至り、漢の高祖の丙午の年に衛満が侵したので、海に浮かんで南へ去った。平壌に都したのは八百七十八年である。準王が金馬郡に都を移したので、これを馬韓という。四郡・二府の時を経て、百済の温祚王二十六年の戊辰に亡んだので、これもまた百四十余年である。金富軾の『三国史記』には、ただ百済王が馬韓を襲って取ったと記すだけで、箕氏の世系を明らかに言っていない。当時もきっと考えるべきものがなかったのである。

4涵虚子の言のうち根拠のないもの

按天運紹統。涵虛子曰。朝鮮在安東國之東。古肅愼氏之地。武王封箕子爲諸侯。以奉殷祀。爲中國藩邦。自周亡至後漢千餘年。爲公孫康所簒。箕子之統緖失傳焉。又云。箕子率中國五千人入朝鮮。其詩書禮樂醫巫陰陽卜筮之流。百工技藝。皆從而往焉。故曰半萬殷人渡遼水者是也。今考公孫康所簒者無據。其曰半萬殷人渡遼水者。又不知出於何書也。

『天運紹統』を見ると、涵虚子が「朝鮮は安東国の東にあり、古の肅愼氏の地である。武王が箕子を封じて諸侯とし、殷の祭祀を奉らせ、中国の藩邦とした。周が亡んだ後、後漢までの千余年のうちに公孫康に簒われ、箕子の系統は伝わることを失った」と言っている。また「箕子が中国の人五千を率いて朝鮮に入ったので、詩・書・礼・楽と、医術・巫・陰陽・卜筮の類、あらゆる職人の技芸がみな従って行った。それゆえ半万の殷人が遼水を渡ったという」とも言っている。いま考えてみると、公孫康に簒われたということには根拠がなく、半万の殷人が遼水を渡ったという話も、どの書から出たものか分からない。

5箕子が八条の教えで教化したこと

涵虛子又曰。箕子至朝鮮。言語不能通。譯而亦知之。敎以詩書。使知中國禮樂之制。父子君臣之道始行。五常之禮始備。敎以百工技藝。醫巫陰陽卜筮之術始有焉。以禮義田蠶。制八條之敎而化之。逾年而民自化。相殺者以財償。相傷者以穀償。盜者男沒爲奴。女子爲婢。不三年人皆向化。崇尙信義而篤儒術。釀成中國之風。可謂聖化。敎以勿尙兵鬪。謂一日之亂。十年不定生民塗炭。不能安其業。故以德服强暴。隣國皆慕其義而相親之。爲中國之蕃邦。故歷代親信於中國。受封爵。朝貢不絶。禮義之道不缺。衣冠制度。悉同乎中國各代之制。故曰。詩書禮樂之邦仁義之國也。而箕子始之也。居正以爲。涵虛子論與漢書畧同。深悉我東國風俗。歷代諸史及國朝渾一誌所論。紕繆無據。皆出於所聞之誤耳。

涵虚子はまた言う。「箕子が朝鮮に至ると言葉が通じず、通訳してようやく分かった。詩と書を教えて中国の礼楽の制度を知らせたので、父子・君臣の道が初めて行われ、五常の礼が初めて備わった。あらゆる職人の技芸を教えたので、医術・巫・陰陽・卜筮の術が初めて生まれた。礼義と、田を耕し蚕を飼うこととをもって八条の教えを作って教化したところ、一年を越えると民は自ら教化された。互いに殺した者は財物で償い、互いに傷つけた者は穀物で償い、盗んだ者は男は没して奴とし、女は婢とした。三年とたたずに人はみな教化に向かい、信義を尊び儒術を篤くして、中国の風を醸し成した。聖人の教化と言うに足る。兵と闘いを尊ぶなと教え、『一日の乱れは十年たっても定まらず、民は塗炭に落ちて生業を安んじることができない』と言った。それゆえ徳によって強暴な者を服させたので、隣国はみなその義を慕って互いに親しんだ。中国の藩邦となったので、歴代、中国と親しく信じ合い、封爵を受け、朝貢が絶えず、礼義の道は欠けることがなく、衣冠の制度はことごとく中国歴代の制と同じであった。それゆえ詩・書・礼・楽の邦、仁義の国というのであって、箕子がそれを始めたのである」と。居正はこう考える。涵虚子の論は『漢書』とおおよそ同じで、我が東国の風俗を深く知っている。歴代の諸史および国朝の『混一誌』で論じたところは誤って根拠がなく、みな聞いたことの誤りから出たものにすぎない。

6我が分野が燕と同じだと言われた世宗の憂い

我國分野。古人擬以燕都。己巳年間。彗星出燕分。日官奏云。於本國不干。世宗深以爲憂曰。我國同燕之分。安得爲不干乎。己巳秋正統皇帝陷北庭我世宗上賓。與燕同分之說。庶幾近之。

我が国の分野を、古人は燕の都に比べた。己巳の年のころ、彗星が燕の分野に現れたので、日官が「本国には関わりがございません」と奏した。世宗は深く憂えて「我が国は燕と分野が同じであるのに、どうして関わりがないことがあろうか」と言われた。己巳の年の秋、正統帝が北の庭で捕らえられ、世宗が崩御された。燕と分野が同じであるという説は、ほぼ近いようである。

7漢陽の明堂はどこか

沸流溫祚登負兒岳。相可居之地。沸流都彌鄒忽。溫祚都慰禮城。後溫祚移都南漢山城。卽今廣州。又移都北漢山城。卽今漢陽。其所卜明堂。未知何地也。以漢陽爲李氏都者。見於道詵圖讖。是以高麗建南京于漢陽。種李樹擇李姓以尹。王亦歲一巡幸。埋龍鳳帳壓之。居正嘗考高麗史。漢陽明堂。但書曰壬坐丙向之原。不明言其地。今考景福昌德兩宮正殿。皆壬坐丙向。臆意高麗所卜。要不外此兩宮之基耳。近有術士崔揚善。以承文院古基爲正明堂。或者又以宗廟樂天亭爲大地者。皆淺見無稽之說也。

沸流と温祚が負兒岳に登って住むに適した地を見さだめ、沸流は彌鄒忽に都し、温祚は慰礼城に都した。後に温祚が南漢山城に都を移したのが、すなわち今の広州であり、また北漢山城に移したのが、すなわち今の漢陽である。その占い定めた明堂がどの地であるかは分からない。漢陽を李氏の都とすることは道詵の図讖に見える。それゆえ高麗は漢陽に南京を置き、李の木を植え、李姓の者を選んで府尹とし、王もまた年に一度巡幸して、竜と鳳の帳を埋めて押さえた。居正がかつて『高麗史』を考えたところ、漢陽の明堂については、ただ「壬坐丙向の原」と記すだけで、その地を明らかに言っていない。いま景福宮・昌徳宮の両宮の正殿を考えると、いずれも壬坐丙向である。推し量るに、高麗が占い定めたところは、要するにこの両宮の敷地を外れることはあるまい。近ごろ術士の崔揚善が承文院の旧地を正しい明堂とし、ある者はまた宗廟の楽天亭を大いなる地とするが、みな浅い見識で根拠のない説である。

8道詵の生まれと鷗の林

道詵百濟人。初詵母爲處子。出遊川澤上。得一美大瓜啖之。忽覺有娠。及生兒。父母以爲不祥。而棄之川上。時方冱寒。羣鷗數千來集。上下承覆之。不死十數日。父母異以收養之。及長出家。入山修鍊。有天仙下降。授天文地理陰陽之祕。又入唐。學一行法。世傳圖讖。皆詵所著也。近得唐本星曜一帙。有曰高麗國師賦。而議論精微。非詵不能爲也。然其所與議論者耶律楚財。時之相距甚遠。是可疑也。安知高麗國師者。密傳詵術。不傳於東方而傳於中國乎。今靈巖縣道岬寺。有詵碑。亦有鷗林。

道詵は百済の人である。初め、道詵の母が処女であったとき、川や沼のほとりに出て遊び、大きくて立派な瓜を一つ得て食べたところ、ふと身ごもったことに気づいた。子を生むと、父母は不吉だとして川のほとりに捨てた。時はまさに厳しい寒さであったが、鷗が数千羽集まってきて上下から受け覆ってやり、十数日たっても死ななかった。父母は不思議に思って引き取って育てた。成長して家を出、山に入って修練したところ、天の仙人が降りてきて天文・地理・陰陽の秘訣を授けた。また唐に入って一行の法を学んだ。世に伝わる図讖はみな道詵が著したものである。近ごろ唐本の『星曜』一帙を得たが、そのうちに「高麗国師賦」というものがあり、議論が精密で微妙であって、道詵でなければ作れないものである。しかし彼とともに議論した者が耶律楚材であって、時代の隔たりが非常に遠く、これが疑わしい。高麗国師という者が道詵の術を密かに伝えられ、東方には伝えずに中国に伝えたのではないと、どうして分かろうか。いま霊巖県の道岬寺に道詵の碑があり、また鷗の林がある。

9我が東国の筆法は金生が第一である

我東國筆法。金生爲第一。姚學士克一僧坦然靈業亞之。皆法右軍。李奎報嘗評論。以崔忠獻爲神品第一。坦然爲第二。柳紳爲第三。阿附權貴非公論也。自元以來。學字者皆法趙孟頫焉。先生平生手跡。遍滿四海。其流傳東國我所得見者。不下數百本。墨跡如新。所不得閱者不知其幾。散在天下者又不知其幾。自趙距今尙遠。吾東方在一偏隅。得見趙跡猶多。自唐距晉亦不遠。文皇以天下之大。求右軍眞跡。遣蕭異。間關崎區。勞然後得何耶。己巳年間倪學士謙。奉使來曰。趙公筆法。中國罕見。蓋嘆我國之多有也。竊謂。高麗忠宣王入元朝。構萬卷堂。日與當世名儒六七人。從容談論。趙公其一也。我國文儒如李先生齊賢。侍從亦多。王之東還。文籍書畫。馱載萬籤。趙之手跡滿於東方。蓋由是也。吾東方人得趙公筆法精神者。杏村李嵒一人而已。

我が東国の筆法は金生が第一であり、学士の姚克一と、僧の坦然・霊業がこれに次ぐ。みな王羲之を手本とした。李奎報がかつて評論して、崔忠献を神品第一、坦然を第二、柳紳を第三としたが、権勢のある者に阿ったものであって、公正な議論ではない。元以来、字を学ぶ者はみな趙孟頫を手本とする。先生の生涯の手跡は四海にあまねく満ちている。東国に流れ伝わって私が見たものだけでも数百本を下らず、墨の跡は新しいもののようである。見ることのできなかったものがどれほどあるか分からず、天下に散らばっているものもまたどれほどあるか分からない。趙孟頫から今まではなお遠いのに、我が東方は片隅にありながら、趙氏の跡を見ることがむしろ多い。唐から晋までもまた遠くないのに、唐の文皇帝が天下の大をもって王羲之の真跡を求め、蕭翼を遣わして険しい道を苦労させたのちにようやく得たのはなぜか。己巳の年のころ、学士の倪謙が使いとして来て「趙公の筆法は中国でもまれに見るものだ」と言ったが、おおよそ我が国に多くあることを感嘆したのである。ひそかに思うに、高麗の忠宣王が元の朝廷に入って万巻堂を建て、日々当代の名儒六、七人と静かに談論したが、趙公はその一人であった。我が国の文儒で李斉賢先生のような者も、侍従することが多かった。王が東に帰るとき、文籍と書画を万籤も積み載せた。趙氏の手跡が東方に満ちているのは、おおよそこのためである。我が東方の人で趙公の筆法と精神を得た者は、杏村の李嵒ただ一人である。

10二人の中国人が王羲之の書と思った金生の書

金生新羅元聖王時人。以能書聞。宋崇寧中。高麗學士洪瓘入宋。翰林待詔楊球李革奉帝勅書圖簇。瓘以金生行草一卷示之。二人大駭曰。不圖今日得見右軍眞跡。瓘曰。此乃新羅人金生書也。二人笑曰。天下除右軍。焉有妙筆如此哉。瓘卞之終不信。近見趙學士子昂昌林寺碑跋尾曰。右唐新羅僧金生所書其國昌林寺碑。字畫深有典刑。雖唐人名刻。未能遠過之也。古語云。何地不生木。信然。觀趙學士此跋。金生筆法之冠絶古今知也。

金生は新羅の元聖王の時の人で、書に巧みであることで名高かった。宋の崇寧年間、高麗の学士洪瓘が宋に入ったとき、翰林待詔の楊球と李革が皇帝の勅命を受けて絵の軸に書を書いていた。洪瓘が金生の行草一巻を見せると、二人は大いに驚いて「今日、王羲之の真跡を見ることができるとは思わなかった」と言った。洪瓘が「これは新羅の人、金生の書です」と言うと、二人は笑って「天下に王羲之を除いて、どうしてこれほど妙なる筆があろうか」と言った。洪瓘が説き明かしたが、ついに信じなかった。近ごろ学士趙子昂の昌林寺碑の跋を見たところ「右は唐の新羅の僧金生が書いた、その国の昌林寺の碑である。字の画に深く法度があり、たとえ唐人の名高い刻であっても、遠く超えることはできない」とあった。古い言葉に「どの地にも木が生えぬことがあろうか」とあるが、まことにそうである。趙学士のこの跋を見れば、金生の筆法が古今に冠絶していることが分かる。

11地中の鬼もすでに密かに斬ることを議している

崔文昌侯致遠入唐登第。從高騈伐黃巢。其檄巢曰。非特天下之人皆思顯戮。抑亦地中之鬼已議陰誅。巢讀至於此。不覺下牀。因此名聞天下。今桂苑筆耕多有不解處。恐當時氣習如此。或東方文體未能如古也。新羅之文。傳於今者絶無。只有元曉薛聰所著一二篇而已。予嘗見新羅獻唐織錦五言古詩。高句麗乙支文德贈于仲文五言四句。皆精到。當時能文之士。不爲不多矣。而今無所傳於萬一惜哉。

文昌侯の崔致遠は唐に入って及第し、高騈に従って黄巣を討った。その黄巣を責めた檄文に「天下の人がみな公然と誅することを思うだけでなく、地中の鬼もすでに密かに斬ることを議している」とあり、黄巣はここまで読んで思わず寝台から降りた。これによって名が天下に知られた。いま『桂苑筆耕』には解しがたいところが多いが、おそらく当時の気風がそうであったか、あるいは東方の文体が古えに及ばなかったのであろう。新羅の文で今に伝わるものは全くなく、ただ元暁と薛聰が著した一、二篇があるだけである。私はかつて新羅が唐に献じた「織錦」の五言古詩と、高句麗の乙支文徳が于仲文に贈った五言四句を見たが、いずれも精密で行き届いていた。当時、文に巧みな士が少なくなかったはずであるのに、いまは万分の一も伝わるものがない。惜しいことである。

12十二で唐に入り二十八で帰った人

唐學士顧雲送崔致遠還鄕詩。有十二乘舟渡海來。文章感動中華國之語。又有贈言者曰。巫峽重峯之歲。絲入中華。銀河列宿之年。錦還東國。蓋十二而入唐。二十八而東還也。東還之後。其遭遇設施。未有所考。或云時適世亂。隱於伽倻山海印寺。與緇流遊燕。公所築瀛洲等三山。紅流洞鳳下石。書巖遺跡。至今宛然。不知所終。世稱仙去。按唐僖宗十二年乙巳。新羅憲康王十一年。致遠自唐捧帝詔還。越十年甲寅眞聖王八年。致遠進時務十餘條。王嘉納之。時後百濟甄萱。據完山叛。已三年矣。越二十五年戊寅高麗太祖王建立。越十年丁亥甄萱入新羅弑王。則致遠年方七十。不至衰耗。而其出處無所考。可疑也。

唐の学士顧雲が崔致遠を故郷に送るとき作った詩に「十二で舟に乗って海を渡って来て、文章が中華の国を感動させた」という言葉がある。また言葉を贈った者が「巫峡の重なる峰の年に、糸となって中華に入り、銀河の星宿の年に、錦となって東国に帰る」と言ったが、おおよそ十二で唐に入り、二十八で東に帰ったのである。東に帰った後、その出会いと施したことについては考えるべきものがない。ある者は「ちょうど世が乱れていたので、伽倻山の海印寺に隠れて僧たちと遊んだ」と言う。公が築いた瀛洲など三つの山と、紅流洞の鳳下石、書巖の遺跡は今もはっきりと残っているが、終わった所を知らないので、世に仙となって去ったと言う。考えてみると、唐の僖宗十二年の乙巳は新羅の憲康王十一年であり、崔致遠は唐から皇帝の詔を奉じて帰った。十年を経て甲寅の年、真聖王八年に、崔致遠は時務十余条を奉った。王はこれを嘉んで受け入れた。このとき後百済の甄萱が完山を占めて叛いてすでに三年であった。二十五年を経て戊寅の年に高麗の太祖王建が立ち、十年を経て丁亥の年に甄萱が新羅に入って王を殺した。そのとき崔致遠の年はまさに七十であり、衰え尽きる年ではないのに、その出処を考える手立てがない。疑わしいことである。

13事大の表と牋は精密で切実であるべきだ

事大表牋。要須精切。高麗時。遼人欲過鴨綠江爲界。朴參政寅亮脩陳情表。立語用事。明白懇切。遼帝寢其議。我太祖高皇帝二十九年賀正。淸城君鄭擢撰表。光山君金若恒撰牋。西城君鄭摠吉昌君權近潤色之。帝怒表牋語涉戲侮。徵摠若恒近詰責。近蒙宥以還。摠等被留不還。高麗知製誥崔甫淳嘗撰賀金帝登極表云。五馬渡江。表晉帝之開新主。六龍馭極。符羲易之見大人。時金主兄弟爭國。惡其觸實。勅曰引用晉元事不當。崔由是得譴。崔之表辭。非不工也。而觸帝之怒。則由用事不切也。

事大の表と牋は、必ず精密で切実でなければならない。高麗の時、遼の人が鴨緑江を越えて境としようとしたので、参政の朴寅亮が陳情表を作ったが、言葉の立て方と典故の使い方が明白で懇切であったので、遼の帝はその議をやめた。我が太祖高皇帝の二十九年の賀正に、清城君の鄭擢が表を作り、光山君の金若恒が牋を作り、西城君の鄭摠と吉昌君の権近が潤色した。帝は表と牋の言葉が戯れ侮るところに触れると怒り、鄭摠・金若恒・権近を召して責めた。権近は赦しを得て帰ったが、鄭摠らは留められて帰れなかった。高麗の知製誥の崔甫淳はかつて金の帝の登極を祝う表を作って「五馬が江を渡り、晋の帝が新しい主を開かれたことを表し、六龍が極を馭して、羲易に大人を見るのに符合します」と書いた。このとき金の主の兄弟が国を争っていたので、事実に触れることを憎み、勅して「晋の元帝の事を引用したのは当たらない」と言い、崔甫淳はこれによって譴めを受けた。崔甫淳の表の言葉は巧みでなかったわけではないが、帝の怒りに触れたのは、典故の使い方が切実でなかったことによるのである。

14金富軾が鄭知常を害したという世の言葉

世傳。金富軾妬才忌能。害鄭知常。今考麗史。知常墮妙淸術中。羽翼悉去而。自全實難。非富軾所得私貸。且本傳及諸書。無一語及枉害。而世之所傳如是何耶。近考金台鉉東國文鑑註曰。金鄭於文字間積不平。然則當時已有是言矣。

世に、金富軾が才を妬み能ある者を忌んで鄭知常を害したと伝えられている。いま『高麗史』を考えると、鄭知常は妙清の術中に落ちて羽翼がすべて去り、自ら全うすることは実に難しく、金富軾が私に赦せるところではなかった。また本伝および諸書に、曲げて害したという言葉は一言もないのに、世に伝わるところがこのようであるのはなぜか。近ごろ金台鉉の『東国文鑑』の註を考えたところ「金氏と鄭氏は文字の間に不平を積んだ」とあった。そうであれば、当時すでにこの言葉があったのである。

15宋の祐神館の女仙像

金富軾入宋。詣祐神館。見一堂設女仙像。館伴王黼曰。此貴國之神。公等知之乎。遂言曰。古有帝室之女。不夫而孕。爲人所疑。乃泛海。抵辰韓生子。爲海東始主。帝女爲地仙長在仙桃山。此其像也。今考之。新羅高句麗百濟之初。無此帝女事。但東明之出。有柳花事。恐中國誤認有此說也。

金富軾が宋に入り、祐神館に至って、一つの堂に女仙の像が祀られているのを見た。館伴の王黼が「これは貴国の神ですが、公たちはご存じですか」と言い、ついで「昔、帝室の娘があって、夫なしに身ごもり、人に疑われたので海に浮かび、辰韓に至って子を生んだ。その子が海東の始めの主となり、帝の娘は地仙となって永く仙桃山にいる。これがその像である」と言った。いま考えてみると、新羅・高句麗・百済の初めにこのような帝の娘の事はなく、ただ東明が生まれたところに柳花の事があるので、おそらく中国が誤って認めてこの説が生じたのであろう。

16崔瑩が死に臨んで言った言葉

高麗季。人心皆歸我太祖。而牧隱李先生穡稍存形跡。然撰桓王碑在太祖潛邸之時。用周邦雖舊其命維新之語何耶。崔都統瑩臨死語曰。李廣平常言判三司事當爲國主。廣平都統皆當國大臣。而尙有是言。天命人心之歸我太祖。不待戊辰而可知矣。

高麗の末、人心はみな我が太祖に帰していたが、牧隠の李穡先生はいくぶん形跡を保っていた。しかし桓王の碑文を作ったのは太祖が潜邸におられた時なのに、「周は旧き邦なりといえども、その命はこれ新たなり」という言葉を用いたのはなぜか。都統の崔瑩は死に臨んで「李広平は常に、判三司事こそ国の主となるべきだと言っていた」と言った。広平と都統はいずれも国を担う大臣であったのに、なおこのような言葉があったのであるから、天命と人心が我が太祖に帰したことは、戊辰の年を待たずして知ることができる。

17燕王を見て天下は定まらぬと言われた太宗

我太宗之朝京師也。太宗文皇帝以燕王在藩邸。太宗過謁。文皇帝與言大悅。寵遇款至。及太宗還國。我朝士大夫問太宗曰。天下其大定乎。時高皇倦勤。建文爲太子。太宗曰。我觀燕王。天日之表。龍鳳之姿。恢廓大度。非久爲藩王者也。天下之定未可知也。未幾文皇帝以燕王有天下。人皆服太宗先見之明。文皇帝登極。眷祐我太宗異常數。每語國人曰。朕嘗見汝國主。眞天人也。

我が太宗が京師に朝されたとき、太宗文皇帝は燕王として藩邸におられた。太宗が立ち寄ってお会いになると、文皇帝は語り合って大いに喜び、寵愛と待遇が至って厚かった。太宗が国に帰られると、我が朝の士大夫が太宗に「天下は大いに定まるでしょうか」と尋ねた。このとき高皇帝は政務に倦み、建文が太子であった。太宗は「私が燕王を見るに、天日のような容貌、竜鳳のような姿で、度量が広く大きく、長く藩王でいる者ではない。天下が定まるかどうかは分からない」と言われた。ほどなくして明の文皇帝が燕王として天下を得たので、人々はみな太宗の先を見る明らかさに感服した。明の文皇帝は登極すると、我が太宗を顧み助けられることが並々でなく、常に国の人に「朕はかつてお前たちの国の主を見たが、まことに天の人である」と言われた。

18駿馬を選び人材を見分けること

我國進貢馬。太宗親御揀閱。有一馬。班在下列。命置於首圉。人皆怪之。旣進。文皇見之勅曰。朝鮮國王愛我。首進之馬甚良。然後知聖神所見畧同太宗敎延편臣曰。擇駿馬。辨人才。予當不讓於古人。

我が国から馬を進貢するとき、太宗が自ら選び検められた。一頭の馬が下の列にあったのを、第一の馬屋に置くよう命じられたので、人々はみな怪しんだ。献じた後、明の文皇帝がこれを見て勅して「朝鮮国王は私を愛して、第一に進めた馬が甚だ良い」と言われた。その後になって、聖なる神妙な方々の見るところがおおよそ同じであることが分かった。太宗は朝廷の臣に「駿馬を選び、人材を見分けることは、私は古人に譲るまい」と言われた。〔底本のこの位置にハングルの「편」の一字が混じっているが、何の字か判じられないので資料のままに置いた。〕

19百遍読み、さらに百遍読まれた世宗

世宗天性好學。其未出閤。每讀書必百遍。於左傳楚詞。又加百遍。嘗違豫。亦不輟讀。病漸劇。太宗命中官。猝至其所。盡搜書帙而來。獨歐蘇手簡一卷。遺在屛障間。世宗讀千百遍。及卽位日。御經筵無書不讀。緝煕時敏之功。高出百王。嘗語近臣曰。讀書有益。如寫字製作。人君不必留意也。晩年倦勤不視朝。然於文學之事。尤所軫慮。命儒臣分局。撰次諸書。曰高麗史。曰治平要覽。曰兵要。曰諺文。曰韻書。曰五禮儀。曰四書五經音解。同時撰修皆經睿裁成書。一日御覽可數十卷。其可謂天行健純亦不已也。

世宗は生まれつき学を好まれた。まだ宮の外におられたとき、書を読めば必ず百遍を読み、『左伝』と『楚辞』にはさらに百遍を加えられた。かつて体を損なわれたときも読むことをやめられなかった。病が次第に重くなると、太宗は内官に命じて急にその所に至り、書物をすべて捜し出して来させたが、ただ欧陽修と蘇軾の手紙一巻が屏風の間に残っていて、世宗はこれを千遍百遍読まれた。即位の日に至り、経筵に臨んで読まれない書はなく、明らかさを継いで時に励まれた功は百王より高く抜きんでていた。かつて近臣に「書を読むことは有益だが、字を書き文を作るような事は、君主がわざわざ心を留めるべきものではない」と言われた。晩年には政務に倦んで朝を見られなかったが、文学の事にはいよいよ心を寄せられた。儒臣に命じて局を分け、諸書を編ませられたが、『高麗史』『治平要覧』『兵要』『諺文』『韻書』『五礼儀』『四書五経音解』である。同じ時に編み修めたものはみな聖上の裁決を経て書となったので、一日に御覧になるものが数十巻にのぼった。天の運行が健やかで、その純一さもまたやまぬ、と言うに足る。

20朴堧と蔣英実 — 時に応じて生まれた人たち

世宗始制雅樂。朴中樞堧贊成之。每坐臥。手於心胷之間。爲戛擊形。嘯於口吻之中。爲律呂聲。積十餘年乃成。世宗深倚重之。世宗又制自擊漏。簡儀臺欽敬閣仰釜日晷。制作極爲精緻。皆出於宸衷。雖百工匠。無能副上意者。惟護軍蔣英實仰承睿智。運奇騁巧。無不沕合。上甚重之。人皆曰。堙與英實。皆爲我世宗制作之盛。應期而生也。

世宗が初めて雅楽を作られたとき、中枢の朴堧がこれを助けた。座っていても臥していても、胸のあたりで手で打つ形をし、唇の間で口笛を吹いて律呂の音を出すことを十余年積み重ね、ついに成し遂げた。世宗は深く彼を頼り重んじられた。世宗はまた自撃漏・簡儀台・欽敬閣・仰釜日晷を作られたが、その制作は極めて精緻であって、いずれも聖上の御心から出たものである。あらゆる職人であっても上の意に副うことのできる者はいなかったが、ただ護軍の蔣英実だけが聖上の智慧を仰ぎ承け、奇を運び巧を馳せて、ぴたりと合わないことがなかったので、上は甚だこれを重んじられた。人々はみな「朴堧と蔣英実は、いずれも我が世宗の制作の盛んなることのために、時に応じて生まれたのだ」と言った。

21思政殿訓義 — 今にも昔にもなかった精密さ

世宗嘗留意於溫公資治通鑑。患其箋釋未盡句讀不明。命儒臣博採群書。隨事夾註。以便觀覽。於是據胡三省音注及源委釋文集覽等書。删潤之。有未盡處。旁採他書以補。且文學回互艱深處。輒註本史全句。或書句字於句下。以便句讀。以至字釋翻音。莫不詳備。皆取睿裁。名之曰思政殿訓義。綱目通鑑亦如是。其訓義之精。今古所無。近見今皇朝所撰綱目通鑑輯覽。頗有疏漏處。又不夾註於句下。以附於每卷之末。觀覽亦不便。臣妄意當以我朝訓義爲第一。且訓義之成。在正統丙辰。而輯覽之成在近日。當中國輯覽之時。見我國訓義。則必歎賞不暇矣。

世宗はかつて司馬温公の『資治通鑑』に心を寄せられたが、その箋釈が尽くされておらず句読が明らかでないことを憂えられ、儒臣に命じて諸書を広く採り、事に従って夾註を付け、見やすくさせられた。そこで胡三省の音注および『源委』『釈文』『集覧』などの書に拠って削り潤し、尽くされていないところは傍らに他の書を採って補い、また文意が入り組んで難しく深いところは、すぐに本史の句全体を註に出すか、句の字を句の下に書いて句読を便にし、字の解釈や音の反切に至るまで、詳しく備えないことがなかった。いずれも聖上の裁決を受け、これを『思政殿訓義』と名づけた。『綱目』『通鑑』もこのように行ったので、その訓義の精密さは今にも昔にもなかったものである。近ごろ今の皇朝が編んだ『綱目通鑑輯覧』を見たが、かなり粗く漏れたところがあり、また句の下に夾註を付けず、各巻の末に付けているので、見るにも便でない。臣は妄りに思うに、まさしく我が朝の訓義を第一とすべきである。また訓義が成ったのは正統丙辰の年で、『輯覧』が成ったのは近ごろである。中国で『輯覧』を作るとき我が国の訓義を見ていたなら、必ず感嘆し称えるのに暇がなかったであろう。

22庚子字と甲寅字 — 活字の由来

太宗始作鑄字。模樣有未盡善。歲庚子世宗命李蕆。以中國善書字樣改鑄。比舊尤精。是謂庚子字。甲寅世宗命爲善陰陽字樣改鑄。極爲精緻。是謂甲寅字。庚子字小而甲寅字大。其所印書冊極好。世宗末年。用瑢所書樣及姜希顏所書字樣改鑄。其所印書冊。漸不如舊。今則銅字盡爲工匠所盜。而兼用木字。字之大小生熟不同。行列不齊。視舊印冊本。迥然不侔矣。

太宗が初めて鋳字を作られたが、その形はすべて良いとは言えなかった。庚子の年、世宗が李蕆に命じて中国のよく書かれた字様に改めて鋳させたところ、旧いものよりいっそう精密であった。これを庚子字という。甲寅の年、世宗が命じて『為善陰騭』の字様に改めて鋳させたところ、極めて精緻であった。これを甲寅字という。庚子字は小さく甲寅字は大きいので、それで印した書冊は極めて良かった。世宗の末年、安平大君の李瑢が書いた様と姜希顔が書いた字様に改めて鋳させたが、それで印した書冊は次第に旧いものに及ばなくなった。今では銅の活字は職人たちにすべて盗まれてしまい、木の活字を兼ね用いているので、字の大小も熟れ具合も同じでなく、行の列が揃わず、昔印した書本に比べるとまるで違っている。

23集賢殿と白い鵲、そして枯れた柳

世宗勵精文治。高出萬古。歲庚子始置集賢殿。選文士十人充之。後增三十員。又改二十員。十人帶經筵。十人帶書筵。專任文翰。討論今古。朝夕論思。文章之士。彬彬輩出。得人甚盛。集賢殿南有大柳。歲己巳庚午間。有白鵲來巢。子皆白。數年間布列顯要皆出於集賢。如鄭領相麟趾李左相思哲鄭領相昌孫李領院季甸安領院止金判書銚金參判墩金判樞鉤金判樞末申領相叔舟權左相擥朴參贊仲孫崔領相恒金判書淡李判樞石亨尹議政子雲魚判樞孝瞻盧參判叔同梁判書誠之成判書任李判書克堪李府尹鳴謙金判書禮蒙盧領府思愼韓西平繼禧洪贊成應李參贊承召李參判坡李判書苪趙府尹瑾姜府尹希顏姜判書希孟崔府尹善復朴參判捷。雖以居正之無狀。亦獲列其間。又如朴仲林朴彭年河緯地成三問李塏柳誠源。一時顯隆。歲癸酉甲戌柳盡枯。或戱誠源曰。禍必自柳始。誠源敗。言果驗。集賢殿尋罷。

世宗は文治に精を励まれ、万古に高く抜きんでていた。庚子の年に初めて集賢殿を置き、文士十人を選んでこれに充てられ、後に三十員に増やし、また二十員に改められた。十人は経筵を帯び、十人は書筵を帯びて、もっぱら文翰を任され、古今を討論し、朝夕に論じ思ったので、文章の士が次々と盛んに輩出し、人を得ることが甚だ盛んであった。集賢殿の南に大きな柳があったが、己巳・庚午の年のころ、白い鵲が来て巣を作り、雛はみな白かった。数年のうちに要職に列した者はみな集賢殿から出た。領相の鄭麟趾、左相の李思哲、領相の鄭昌孫、領院の李季甸、領院の安止、判書の金銚、参判の金墩、判枢の金鉤、判枢の金末、領相の申叔舟、左相の権擥、参賛の朴仲孫、領相の崔恒、判書の金淡、判枢の李石亨、議政の尹子雲、判枢の魚孝瞻、参判の盧叔同、判書の梁誠之、判書の成任、判書の李克堪、府尹の李鳴謙、判書の金礼蒙、領府の盧思愼、西平の韓継禧、賛成の洪応、参賛の李承召、参判の李坡、判書の李苪、府尹の趙瑾、府尹の姜希顔、判書の姜希孟、府尹の崔善復、参判の朴捷といった人々である。取るに足らぬ居正でさえ、その間に列することができた。また朴仲林・朴彭年・河緯地・成三問・李塏・柳誠源のような者も一時に顕れ栄えた。癸酉・甲戌の年に柳がすべて枯れたので、ある者が柳誠源に戯れて「禍は必ず柳から始まるであろう」と言ったが、柳誠源が敗れたので、その言葉は果たして験れた。集賢殿はほどなく廃された。

24山に遊んで書を読むことを許した賜暇読書

世宗設集賢殿。聚文學之士。培養數十年。人材輩出。尙慮朝衙夕直。不專意講讀。選年少有才行者數人。許暇遊山讀書。官給供具。肆意於經史百子天文地理醫藥卜筮。淹貫該博。無所不通。將爲大用之地。前有辛文僖碩祖權承旨採南直殿秀文。後有申文忠公叔舟。餘皆名士也。文宗朝。洪南陽應李韓山坡。雖以居正之無似。亦獲是選。眞一時盛事。

世宗は集賢殿を設けて文学の士を集め、数十年培われたので人材が次々と輩出した。それでも朝に役所に出、夕に宿直して、講読に意を専らにできないことを憂えられ、年若くて才と行いのある者数人を選んで暇を許し、山に遊んで書を読むことを許し、官から供えものを給された。経史・百家・天文・地理・医薬・卜筮に思いのままに当たらせ、広く貫き通じないところがないようにして、やがて大いに用いる地としようとされた。前には文僖公の辛碩祖、承旨の権採、直殿の南秀文があり、後には文忠公の申叔舟があって、残りもみな名の知れた士である。文宗の朝には南陽の洪応、韓山の李坡、そして取るに足らぬ居正でさえこの選びにあずかった。まことに一時の盛んな事である。

25洞庭橘の盆に書かれた文宗の書

文宗之爲世子。幸喜雨亭。以洞庭橘一盤賜近臣。御書盤面曰。栴檀便宜鼻。脂膏偏宜口。最愛洞庭橘。香鼻又甘口。字畫動龍蛇。光燭日月。予嘗臨其字藏之。眞天下之至寶也。

文宗が世子であられたとき、喜雨亭に行かれ、洞庭橘を一盆、近臣に賜い、盆の面に自ら「栴檀は鼻に適い、脂膏は口に適う。最も愛するは洞庭の橘、鼻に香り、また口に甘い」と書かれた。字の画は竜と蛇を動かし、光は日月を照らすようであったので、私はかつてその字を模して蔵している。まことに天下の至宝である。

26無情と有情 — 文宗の朱の筆

文宗睿藻精到。集賢殿嘗製棘城祭文以進。文宗賜覽。以朱筆抹之。御書數語。其畧曰。無情之謂陰陽。有情之謂鬼神。無情則不可與語。有情則可以理曉。且曰。水火養人。而有時乎殺人。鬼神生人。而有時乎傷人。天語渾成。非詞臣儒士所能到。

文宗の文才は精密で行き届いていた。集賢殿がかつて棘城の祭文を作って奉ったところ、文宗は御覧になって朱の筆で消し、数語を自ら書かれた。その大略に「情のないものを陰陽といい、情のあるものを鬼神という。情がなければともに語ることができず、情があれば理によって悟らせることができる」と言われ、また「水と火は人を養うが、時に人を殺し、鬼神は人を生むが、時に人を傷つける」と言われた。天の御言葉が渾然と成っていて、詞臣や儒士の及びうるところではなかった。

27死者を生き返らせると言った妖しい僧

宋仁宗崩。英宗皇帝悲慕。有妄議者曰。能神術使死者復生。英宗命試其術無效。乃曰。太宗與仁宗。宴臨白玉闌干賞牧丹。無意復來人間。英宗知誕妄。不深罪。我世宗初喪。有妖僧來獻是策。試於他屍無效。虛僞無理文。宗亦不之罪。

宋の仁宗が崩じると英宗皇帝は悲しみ慕われたが、妄りに論ずる者があって「神妙な術で死者を生き返らせることができる」と言った。英宗がその術を試させたが効がなく、そこでその者は「太宗と仁宗が白玉の欄干に臨んで宴し、牡丹を賞しておられ、再び人間に来るお気持ちがありません」と言った。英宗は誕妄であることを知ったが、深く罪されなかった。我が世宗の初めの喪のときにも、妖しい僧が来てこの策を献じた。他の屍に試したが効がなく、虚偽で理のない文であったが、文宗もまたこれを罪されなかった。

28譲寧大君が世祖に申し上げた言葉

世祖天縱豪邁。平時議論。慨然慕唐太宗。而薄漢高祖。一日上從容與讓寧大君禔。論古今帝王。而謂唐宗不可及。讓寧對曰。殿下遠過唐宗。上改容曰。惡是何言。叔父之言過矣。讓寧曰。太宗以一微事而殺張薀古。殿下必不爲也。況我殿下家法之正。非太宗之所及也。上微笑。又語及征蒲州江野人事。讓寧曰。古人云千鈞之弩。不爲鼷鼠發機。願殿下留意焉。讓寧所見亦奇。

世祖は天から授かった豪邁さをもって、平時の議論では慨然と唐の太宗を慕われ、漢の高祖を軽く見られた。ある日、上が静かに譲寧大君の李禔と古今の帝王を論じ、唐の太宗には及べないと言われた。譲寧は答えて「殿下は唐の太宗を遥かに越えておられます」と言った。上は顔色を改めて「ああ、それは何という言葉ですか。叔父上の言葉は過ぎています」と言われた。譲寧は「太宗は一つのささいな事で張薀古を殺しましたが、殿下は必ずそのようなことはなさいません。まして我が殿下の家法の正しさは、太宗の及ぶところではありません」と言った。上はほほ笑まれた。また蒲州江の野人を征する事に話が及ぶと、譲寧は「古人は『千鈞の弩は、小鼠のために機を発しない』と言いました。殿下にお心に留めていただきたく存じます」と言った。譲寧の見るところもまた奇である。

29君主は仏に拝すべきか

世祖嘗從容語臣曰。汝儒者。自古人君。於佛可拜否。爾毋隱焉。臣對曰。昔宋太祖幸相國寺。佛像前燒香。問當拜與否。僧贊寧曰。拜在佛不拜過去佛。太祖笑而不拜。然則人君不拜佛正也。拜佛權也。上大笑。臣又曰。太宗朝。中朝宦官黃儼。持濟州銅佛而來。使太宗先拜佛而後行禮。太宗欲不拜。河崙等請曰。黃儼兇險喜生事。宜從權先拜佛。太宗曰。彼佛若自中國來。則當敬皇帝之命拜之。今此佛自我國濟州而來。何拜之有。羣臣無人陳此者。予以謂不拜可也。竟不拜。儼屈遂行禮。大聖人所見各同。世祖又笑之。

世祖がかつて静かに臣に「お前は儒者である。昔から君主は仏に拝することができるか。お前は隠すな」と言われた。臣は答えて「昔、宋の太祖が相国寺に行かれ、仏像の前で香を焚きながら拝すべきかどうかを問われたところ、僧の賛寧が『現在の仏は過去の仏に拝しません』と申し、太祖は笑って拝されませんでした。そうであれば、君主が仏に拝さないのが正であり、拝するのは権であります」と申し上げると、上は大いに笑われた。臣はまた「太宗の朝に、中国の朝廷の宦官黄儼が済州の銅の仏を持って来て、太宗にまず仏に拝してから礼を行わせようとしました。太宗が拝すまいとされると、河崙らが『黄儼は凶険で事を起こすのを好みますから、まさしく権に従ってまず仏に拝されますように』と請いました。太宗は『あの仏がもし中国から来たのであれば、まさに皇帝の命を敬って拝するであろうが、いまこの仏は我が国の済州から来たのであるから、何の拝することがあろうか』と言われ、群臣のうちにこれを申し上げる者はありませんでした。臣は拝さないのが正しいと存じます」と申し上げた。ついに拝されず、黄儼が屈してついに礼を行った。大いなる聖人の見られるところは、それぞれ同じである。世祖はまた笑われた。

30倹しくあられた世祖

世祖聖性恭儉。嘗入內殿。見御紺色木綿虎裘。穿靑草鞋。笠纓用純木。携竹杖。雖漢文澣濯。亦不如是其儉素也。

世祖は御性質が恭しく倹しかった。かつて内殿に入ってお目にかかったところ、紺色の木綿の虎皮の上着をお召しになり、青い草履をはき、笠の紐には飾りのない木を用い、竹の杖を携えておられた。漢の文帝が洗い晒しのものを着たというが、これほど倹素ではなかったであろう。

31申政丞と具政丞 — 一日罰の酒を飲んだ両相

申高靈叔舟爲領相。具綾城致寬新拜右相。世祖急召兩相于內殿。上曰。今日有問於卿等。能對則已。不能對則罰不可辭。卿等自度何如。兩相拜謝曰。庶幾謹飭無罰。俄而上呼申政丞。申卽對。上曰予呼新政丞。子失對。罰一大爵。又呼曰具政丞。具卽對。上曰予呼舊政丞。子失對也。罰一大爵。上又呼曰具政丞。申卽對。上曰予呼姓子失對也。罰之。又呼曰申政丞。具卽對。上曰予呼姓子失對也。罰之。上又呼曰申政丞。申具皆不對。又呼曰具政丞。具申皆不對。上曰人君有召人。臣。不對非禮也。亦罰之。如是終日。兩相飮罰極醉上大笑。

高霊の申叔舟が領相となり、綾城の具致寛が新たに右相に任じられた。世祖が急いで両相を内殿に召し、上は「今日、卿らに問うことがある。答えられればそれでよいが、答えられなければ罰を辞することはできない。卿らは自ら考えてどうか」と言われた。両相は拝して謝し「謹んで慎み、罰のないようにいたしたく存じます」と言った。やがて上が「申政丞」と呼ばれると、申叔舟がすぐに答えた。上は「私は新政丞を呼んだのに、そなたが誤って答えた」と言われ、大杯一つで罰された。また「具政丞」と呼ばれると、具致寛がすぐに答えた。上は「私は旧政丞を呼んだのに、そなたが誤って答えた」と言われ、大杯一つで罰された。上がまた「具政丞」と呼ばれると、申叔舟がすぐに答えた。上は「私は姓を呼んだのに、そなたが誤って答えた」と言われ、これを罰された。また「申政丞」と呼ばれると、具致寛がすぐに答えた。上は「私は姓を呼んだのに、そなたが誤って答えた」と言われ、これを罰された。上がまた「申政丞」と呼ばれると、申叔舟も具致寛もどちらも答えなかった。また「具政丞」と呼ばれると、具致寛も申叔舟もどちらも答えなかった。上は「君主が人を呼ぶのに臣が答えないのは礼ではない」と言われ、これもまた罰された。このように一日を終えたので、両相は罰の酒を飲んで酷く酔い、上は大いに笑われた。

32魚孝瞻は淳厚、尹士芬は猜険

魚判樞孝瞻唇厚。世祖嘗戱曰。魚孝瞻淳厚。尹議政士芬顋醓。朴文憲元亨對曰。尹士芬猜險。上大笑。

判中枢の魚孝瞻は唇が厚かった。世祖がかつて戯れて「魚孝瞻は淳厚である」と言われたところ、議政の尹士芬は頬が赤かったので、文憲公の朴元亨が「尹士芬は猜険です」と答えた。上は大いに笑われた。

夾注 1

音による言葉遊びである。「淳厚」は唇の厚いこと〔唇厚〕と音が同じで、「猜険」は前に述べた頬の赤いこと〔顋醓〕と音が似ている。 ― 訳者

33四柱は五十一万八千四百しかないのに人は億兆である

世祖於陰陽地理之書。無不淹貫。洞見是非而睿斷之。嘗謂臣居正曰。祿命之書。儒者窮理之一事。汝知之乎。臣對曰粗嘗涉獵。上曰汝作假令一書。臣退而裒集諸書。撮其大要。分門類聚。先之以凡例。次之以吉凶神殺。終之以吉凶論斷。以進。上曰予非崇信祿命之書。欲作假令使宮中之人不煩指授。開卷自明耳。且謂臣曰。卿意謂祿命何如。臣對曰。甲己之年正月丙寅。甲巳之日生時甲子。以六十位類推之。其數極於七百二十而盡。以七百二十之年。加七百二十之日時。則命之四柱極於五十一萬八千四百。而無復加矣。天下盛時。戶口至有千五六百萬。則億兆林林之衆。豈止五十一万八千四百而已哉。今於閭巷間。固有四柱皆同。禍福全不相似。以耳目所見。常有편二。則耳目之所不接者。安知非千百者乎。且千里不同風。百里不同俗。四柱則中國四海荒服之人無不同也。而中國則有公侯伯子男卿士大夫吏胥庶人之分。爵位科第之高下。皆一一有辨。四海荒服之俗。或同禽獸。無貴賤之分。是何囿於五十一万八千四百之人命。而其不同若是其紛紛耶。祿命之書不足信也。或曰。如李淳風李虛中邵堯夫徐子平。發無不中。則安可盡得而非之乎。臣意以謂。有明鏡於此。物來照之。姸媸自見。於李淳風邵堯夫輩。心本虛靈。如鏡之明。事至物來。吉凶禍福自燭難逃耳。非如後世術士徒守古人之糟粕。以五十一万八千四百之人命。惟斷天下億兆之人命也。臣以謂祿命之書不可信也。上笑曰。汝言是也。

世祖は陰陽・地理の書に通じていないものがなく、是非を見通して明らかに断ぜられた。かつて臣居正に「禄命の書は、儒者が理を究める一つの事である。お前はこれを知っているか」と言われたので、臣が「おおよそ渉猟いたしました」と答えると、上は「お前は假令一書を作れ」と言われた。臣は退いて諸書を集め、その要点を摘み、門を分けて類ごとに集め、まず凡例を置き、次に吉凶の神殺を、終わりに吉凶の論断を置いて奉った。上は「私は禄命の書を崇め信じているのではない。假令を作って、宮中の人が煩わしく教えを受けずとも、巻を開けば自ら明らかになるようにしたいだけである」と言われ、また臣に「卿の考えでは禄命はどうか」と問われた。臣は答えて「甲・己の年は正月が丙寅であり、甲・己の日は生まれた時が甲子でありますから、六十位で推してゆけば、その数は七百二十で尽きます。七百二十の年に七百二十の日と時を加えれば、命の四柱は五十一万八千四百で尽きて、それ以上加えるものがありません。天下が盛んなとき、戸口は千五、六百万に至りますから、億兆のおびただしい衆が、どうして五十一万八千四百に止まりましょうか。いま里巷の間にも、四柱がまったく同じでありながら禍福が全く似ていない者が実際にあります。目と耳で見たものだけでも常に一人二人〔底本のこの位置にハングルの「편」の一字が混じっているが、何の字か判じられないので資料のままに置いた〕がありますから、目と耳の届かないところに千人百人といないと、どうして分かりましょうか。また千里で風が同じでなく、百里で風俗が同じでないのに、四柱は中国も四海荒服の人も同じでないことがありません。ところが中国には公・侯・伯・子・男と、卿・士大夫・吏胥・庶人の分かれがあって、爵位と科挙の高下がみな一つ一つ弁別があり、四海荒服の風俗は、あるいは禽獣と同じで貴賤の分かれがありません。これはどうして、五十一万八千四百の人の命に囲われていながら、その同じでないことがこのように紛々としているのでしょうか。禄命の書は信じるに足りません」と申し上げた。ある者は「李淳風・李虚中・邵堯夫・徐子平のような者は、言えば中らないことがなかったのであるから、どうしてことごとく非とすることができようか」と言う。臣はこう考えます。ここに明らかな鏡があって、物が来て照らされれば美醜が自ら現れるように、李淳風・邵堯夫らは心が本より虚にして霊であり、鏡の明らかさのようであったので、事が至り物が来れば、吉凶禍福が自ら照らされて逃れにくかっただけであります。後世の術士がただ古人の糟粕を守り、五十一万八千四百の人の命によって、天下億兆の人の命をひたすら断ずるのとは同じではありません。臣は禄命の書は信じられないと存じます。上は笑って「お前の言葉が正しい」と言われた。

34自ら「睿宗」と書かれたこと

睿宗初政。銳意圖治。未幾玉體漸乖。嘗手寫冊背曰睿宗。又曰。死得此諡足矣。不數月上賓。羣臣上諡曰睿宗。果合聖意。嗚呼悲哉。

睿宗は初めて政をされるとき、意を鋭くして治を図られたが、ほどなくして玉体が次第に損なわれた。かつて自ら書物の背に「睿宗」と書かれ、また「死んでこの諡を得られれば十分である」と言われた。数か月とたたずに崩じられ、群臣が諡を奉って睿宗としたので、果たして聖上の意に合った。ああ、悲しいことである。

35徳を積んで八十五を享けた権溥

菊齋權文正公溥。壬戌年壬子月己未日己巳時生。卜者曰。命限不永。先文淸公坦曰。若積德少可延長。嘗聞天寶山僧。積德之目。有三。曰行不中道。曰浴不流水。曰食不擇精。汝宜勉之。菊齋終身佩服。造次必於是。終享壽八十五。位至極品。一家九封君。福祿之盛今古罕比。人皆曰積德之效。予嘗觀益齋先生文菊齋碑曰。戊子己未虛拱壬巳之祿。互衝發之。蓋贊其造化之妙也。卜者謂之不永。亦不可知。

菊斎の文正公権溥は、壬戌の年、壬子の月、己未の日、己巳の時に生まれた。占う者が「命の限りは長くない」と言ったので、父の文清公権坦が「徳を積めば少しは延ばすことができる。かつて天宝山の僧に聞いたところ、徳を積む条目は三つあって、道の中央を歩かないこと、流れる水で浴びないこと、食べるときに精げたものを選ばないことだという。お前はよく努めよ」と言った。菊斎は終身これを心に佩び、わずかの間もこれを離れなかった。ついに寿を八十五まで享け、位は極品に至り、一家から九人の封君が出たので、福禄の盛んなことは今も昔も比べるものがまれであった。人々はみな「徳を積んだ効験である」と言った。私はかつて益斎先生が作った菊斎の碑文を見たが「戊子と己未が壬と巳の禄を空しく抱き、互いに衝いて発する」とあった。おおよそその造化の妙を讃えたものである。占う者が長くないと言ったことも、分からないものである。

36鄭夢周の三つの過ちというもの

圃隱鄭文忠公。平生有志節。人無間言。或戱曰。人言子有三失。知之乎。文忠曰。試言之。或曰人言子於朋友讌飮。先入後罷。飮酒太遲。文忠曰誠有之。少在鄕曲。得一盆濁醪。思欲與親戚朋友一懽。今旣富貴。座上客常滿。樽中酒不空。吾豈悻悻然哉。或曰人言子於色不得淡然。文忠笑曰。好色人之常情。孔子亦曰。如好好色。則孔子非不知好色也。或曰人言子於唐物貿易。不得無心。文忠變色曰。老夫家貧。子女寔繁。婚姻之禮。例用唐物吾不能免俗耳。況貿遷有無。聖人之遺制。吾何嫌乎哉。或曰前言戲耳。

圃隠の文忠公鄭夢周は生涯、志と節があって、人に謗る言葉がなかった。ある者が戯れて「人はあなたに三つの過ちがあると言うが、それをご存じか」と言うと、文忠は「ためしに言ってみよ」と言った。その者が「人は『あなたは友と宴飲するとき、先に入って後に散じるので、酒を飲むのがあまりに遅い』と言います」と言うと、文忠は「まことにそのとおりだ。若いころ田舎にいたときは、濁り酒一甕を得れば、親戚や友とともに一度楽しみたいと思った。いまはすでに富貴となって、座に客が常に満ち、甕に酒が尽きないのに、私がどうして邪険にできようか」と言った。その者が「人は『あなたは色に淡然としていられない』と言います」と言うと、文忠は笑って「色を好むのは人の常の情である。孔子も『好い色を好むようにせよ』と言われたのであるから、孔子も色を好むことを知らなかったのではない」と言った。その者が「人は『あなたは唐の品の貿易に無心でいられない』と言います」と言うと、文忠は顔色を変えて「この老夫は家が貧しく、子女は実に多い。婚姻の礼には例によって唐の品を用いるので、私は俗を免れられないだけである。まして有るものと無いものを移し替えることは聖人の遺した制度であるから、私が何を憚ろうか」と言った。その者は「先の言葉は戯れただけでございます」と言った。

37争わずに代価を払ってやった権近

權文忠公近常赴京師道遇雨。假郵吏笠帽。旣還之。訟公不還。責其直。公不較而與之。後有一郵吏。冒認氈衫之失。責其直。公又欲與之。使臣孛羅知其誣。鞫郵吏。乃曰此人前不較而與直。故敢爾。非失也。孛羅罰其人。

文忠公権近がかつて京師に赴く道で雨に遭い、駅吏の笠と帽を借りて被り、後に返した。ところがその駅吏が、公が返さなかったと訴え出てその代価を責めたので、公は争わずにこれを与えた。後に一人の駅吏が氈衫を失ったと偽って認め、その代価を責めたので、公はまた与えようとした。使臣の孛羅がそれが偽りであることを知り、駅吏を取り調べたところ「この人は以前も争わずに代価を与えたので、それで敢えてこうしたまでで、失ったのではありません」と言った。孛羅はその者を罰した。

38弓を取ったことがないのに一矢で中てた権近

權文忠公嘗謫居忠州。癸酉春太祖幸鷄龍山。召赴行在。一日太祖賜銀盤一面于扈從諸宰樞。爭射賭之。武臣以次皆不中。文忠平生一不操弓。是日一箭中之。得銀盤。人皆曰。射以觀德。此之謂也。

文忠公権近はかつて忠州に流されて暮らしていた。癸酉の年の春、太祖が鶏竜山に行かれ、召して行在所に参らせられた。ある日、太祖が銀の盆一枚を扈従の諸宰枢に賜り、争って射て賭けさせられた。武臣たちは順に誰も中てられなかったが、文忠は生涯一度も弓を取ったことがないのに、この日は一矢で中てて銀の盆を得た。人々はみな「射によって徳を見るとは、これを言うのだ」と言った。

39片方は白く片方は黒い鄭道伝の靴

鄭三峯道傳嘗赴早衙。穿靴一白一黑。及公坐。胥吏以告。三峯俯視一笑。竟不易。及衙罷。騎馬而行。笑謂傔從曰。爾毋怪乎。吾靴之黑白也。左者見白不見黑。右者見黑不見白。亦何傷乎。其不外飾如此。

三峰の鄭道伝がかつて早朝に役所に出るとき、靴を片方は白、片方は黒のものを履いていた。公の席に着くと、胥吏がそれを申し上げたが、三峰は見下ろして一度笑うだけで、ついに履き替えなかった。役所が退けると、馬に乗って行きながら、笑って従者に「お前は私の靴の黒白を怪しむな。左にいる者は白だけを見て黒を見ず、右にいる者は黒だけを見て白を見ないのだから、何の差し支えがあろうか」と言った。彼が外を飾らないことはこのようであった。

40「中に主とするところのない主」と言った李穡の言葉

李文靖公穡朝京師。太祖高皇帝引見與語曰。汝之漢語似納哈出。穡貌不揚。帝曰此翁堪畫。及穡東還。語人曰。今皇帝中無所主之主也。人皆以穡言爲失。今觀大明有天下百有餘年。列聖相承。持盈守成。一遵高皇帝遺制。不得變更。其規模制度。遠過漢唐。曾謂中無所主之主乎。然穡大儒也。不知高皇帝之爲大聖人。焉得爲智乎。臆意以謂。高皇帝初定天下。駕馭英雄。恢拓邊疆。留神軫慮於創造大業。其視穡豎儒如嬰兒啼笑於坐側而不加之意也。穡之意亦以爲。高皇在位未久。天下之事。未可知也。而待外人。簡傲侮慢如是也。是以有此言。高皇以光武之待馬援者而待穡。必無此言矣。

文靖公李穡が京師に朝したところ、太祖高皇帝が召し見て語り「お前の漢語は納哈出に似ている」と言われた。李穡は容貌が立派でなかったので、帝は「この翁は画くに堪える」と言われた。李穡が東に帰って人々に「今の皇帝は中に主とするところのない主である」と言ったので、人々はみな李穡の言葉を誤りとした。いま見るに、大明が天下を得てから百余年、列聖が相継いで、満ちたるを持ち成りたるを守り、ひとえに高皇帝の遺した制度に従って改めることができないので、その規模と制度は漢・唐を遥かに越えている。どうして中に主とするところのない主と言えようか。しかし李穡は大儒である。高皇帝が大いなる聖人であることを知らなかったのであるから、どうして智と言えようか。推し量るに、高皇帝は初めて天下を定め、英雄を馭し、辺疆を広げ、大いなる業を創り起こすことに心を用い思いを巡らしていたので、李穡のような一介の儒者を、幼い子が傍らで泣いたり笑ったりするように見て、意を向けられなかったのであろう。李穡の思いもまた「高皇帝は位に即いて久しくなく、天下の事は分からないのに、外の人を待遇することがこのように粗略で傲り侮っている」と考えて、この言葉を言ったのであろう。高皇帝が、光武帝が馬援を待遇したように李穡を待遇していたなら、必ずこの言葉はなかったであろう。

41一度見てすべて暗記した趙庸

趙文貞公庸學問精邃。尤深於性理之學。長國學二十餘年。誨人不倦。作成有效。凡文章操紙立就。詞理精到。性聰敏。一覽輒記。少時聞一書生得元朝文選策問祕之。文貞求見。生不許。他日更往求之。則生爲借三日。文貞一覽盡記。如約而還。一日文貞與生同在黌舍。誦策三四道。不差一字。生以謂偶熟此而已。亂抽諸策令誦之。亦如此。生曰。如公者。雖張巡不能及也。

文貞公趙庸は学問が精密で深く、とくに性理の学に深かった。国学を二十余年預かり、人を教えるのに倦まなかったので、成し遂げたものに効験があった。およそ文章は紙を取れば即座に仕上げ、言葉と理が精密で行き届いていた。性質が聡明で、一度見ればすぐに記憶した。若いとき、ある書生が元の朝廷の『文選』の策問を手に入れて秘しているという話を聞き、文貞が見ることを請うたが、書生は許さなかった。別の日に再び行って請うと、書生は三日の間貸してくれた。文貞は一度見てすべて暗記し、約束どおりに返した。ある日、文貞が書生とともに学舎にいて、策問三、四篇を暗誦したが、一字も違わなかった。書生は「たまたまこれだけを習い覚えたのだろう」と思い、諸々の策問を無作為に抜き出して誦させたが、やはり同じであった。書生は「公のような方は、たとえ張巡でも及ばないであろう」と言った。

42笛の音でおられると分かった孟思誠

孟文貞公思誠淸簡端重。在相府持大體。公年庚子。嘗因戱托癸卯契。一日在上前。上問公年有幾。文貞對以庚子。朝退。契中以非同庚出之。一時傳笑。文貞性解音律。常執一笛。日弄三四聲。關門不接賓客。有稟事者。令人開門引接。夏則坐松陰。冬則坐房內蒲茵。左右無他物。稟事者去。旋卽關門。稟事者到洞口。聞笛聲則知公之必在。

文貞公孟思誠は清らかで簡素、端正で重々しく、相府にあって大体を保っていた。公の年は庚子の生まれであるが、かつて戯れに癸卯生まれの契に加わった。ある日、上の御前にあったとき、上が公の年はいくつかとお尋ねになったので、文貞は庚子の生まれと答えた。朝から退くと、契の者たちが同年ではないとして彼を出したので、一時、伝え聞いて笑った。文貞は性質が音律を解したので、常に笛一つを手に持ち、日々三、四声を弄んだ。門を閉ざして客を迎えず、申し上げる事のある者が来れば、人に言いつけて門を開けて迎え入れさせた。夏は松の陰に座り、冬は部屋の中の蒲の敷物に座ったが、左右に他の物はなかった。申し上げる事のある者が去れば、すぐに門を閉ざした。申し上げる事のある者は、村の入口に至って笛の音を聞けば、公が必ずおられると分かった。

43南山の麓に池を掘って蓮を植えた権弘

權文順公弘早以文翰著名。尤工於篆隷。位至極品。享年八十七。嘗卜宅南山陲。鑿雙池種蓮。幅巾藜杖。逍遙自適。洒然若神仙。其書獻陵碑篆成均館碑甚好。嘗世宗朝上書請立箕子祠碑。言頗得體。

文順公権弘は早くから文翰で名高く、とくに篆書と隷書に巧みであった。位は極品に至り、年は八十七を享けた。かつて南山の麓に家の地を定め、池二つを掘って蓮を植え、幅巾をかぶり藜の杖をついて逍遥し自ら足り、さっぱりとして神仙のようであった。彼が書いた献陵の碑の篆書と成均館の碑は甚だ良い。かつて世宗の朝に書を奉って箕子の祠の碑を立てることを請うたが、その言葉はかなり体を得ていた。

44陶器の破片で地に詩を書いた朴安信

朴貞肅公安信器度寬偉。嘗與孟文貞公思誠同在臺。論事忤旨當誅。文貞面有黑色。蒼黃罔措。貞肅顏色自若。作詩一絶。有恐君留殺諫臣名之句。無紙筆。以磁尖畫地成字。瞋目語獄吏曰。當以是上聞。否則我爲厲鬼。爾屬無焦類矣。太宗聞而霽威赦之。後貞肅奉使日本還遇海賊。賊抽刃攔入船上。抄掠行具。人皆搖手不得。貞肅踞胡床不動。從容指揮。賊畏不敢近。一行賴以安全。

貞肅公朴安信は器量が寛く大きかった。かつて文貞公孟思誠とともに台にあって事を論じ、上の意に逆らって誅されることになった。文貞は顔色が黒ずみ、慌てて手の施しようがなかったが、貞肅は顔色が平然として絶句一首を作り、そのうちに「君に諫める臣を殺したという名が残ることを恐れる」という句があった。紙も筆もなかったので、陶器の破片の先で地に引いて字を成し、目を見張って獄吏に「まさしくこれを上に申し上げよ。さもなければ私が厲鬼となって、お前たちの類を根絶やしにしてやる」と言った。太宗が聞かれて威を収め、これを赦された。後に貞肅が使いとして日本に行き、帰る途中で海賊に遭った。賊が刃を抜いて船の上に乗り込み、荷物を奪い取ったので、人々はみな手を振るばかりでどうにもできなかった。貞肅だけは胡床に腰かけて動かず、静かに指揮したので、賊は畏れて敢えて近寄らず、一行はこれによって無事であった。

45傘で雨を防ぎながら「傘のない家はどうするのか」

柳文貞公寬公廉方正。雖位極人臣。茅屋一間。布衣芒鞋。淡如也。公退之暇。敎誨不倦。摳衣者坌集。有來內謁。顧之而已。不問姓名。公之第在興仁門外。時開史局于金輪寺。寺在城內。公領脩史。嘗以軟帽杖屨而行。不煩輿馬。或携童冠。嘯咏往還。人服其雅重。寺今已廢。嘗霖雨經月。屋漏如麻。公手傘庇雨。顧夫人曰。無傘之家。何以能堪。夫人曰。無傘者必有備。公笑。

文貞公柳寛は公正で清廉、方正であって、位は臣として極まっていたが、茅屋一間に布の衣と藁の履で淡々としていた。役所から退いた暇には教えることを倦まなかったので、衣の裾をかかげて学びに来る者が群れ集まった。奥に会いに来る者があっても、顧みるだけで名を問わなかった。公の家は興仁門の外にあったが、当時、史局は金輪寺に開かれており、寺は城内にあった。公が史書の編纂を預かり、常に軟らかい帽をかぶって杖と履で通い、輿や馬を煩わさず、時には子どもや若者を連れて、口笛を吹き詩を吟じながら往き来したので、人々はその雅やかで重々しいさまに感服した。寺は今はもう廃れている。かつて長雨が月を越え、屋根が麻のように漏れた。公は自ら傘を手にして雨を防ぎながら、夫人を顧みて「傘のない家はどうして堪えられようか」と言うと、夫人は「傘のない者には必ず備えがございます」と言った。公は笑った。

46蒿冠の夢と至極の孝誠

成文景公石磷少有倜儻奇節。嘗爲楊伯顏幕下禦倭。失律當刑。公假寐。有人告曰。公著蒿冠無憂也。公自解曰。蒿冠以蒿裹頭。不祥莫甚。竟貸死除名。後爲首相曰。吾夢蒿冠者高官也。早年與四五同僚在政房。辛旽負手傍觀。指文景曰。終必大顯。福德非諸君所及。卒如其言。老賊亦復具眼。公年六十。慈氏亦年踰七十。病革。瞑目不言者數日。藥餌無效。公焚香祈禱。哀號幾絶。俄而慈氏曰。是何聲也。侍者驚喜曰。祈禱聲也。慈氏曰。天遣人賜几杖曰。有子至誠如此。可扶而起。病尋愈。人皆嘆文景孝誠之篤。

文景公成石璘は若いときから倜儻として奇なる節があった。かつて楊伯顔の幕下となって倭を防いだが、軍律を失って刑を受けることになった。公がうたた寝をしていると、ある人が「公は蒿冠(よもぎの冠)をかぶることになるから憂えるな」と言った。公は自ら「蒿冠はよもぎで頭を包むのであるから、不吉なことこれより甚だしいものはない」と解いたが、ついに死を免れて名を削られるだけであった。後に首相となって「私の夢の蒿冠は、高官のことだったのだ」と言った。若い頃、四、五人の同僚とともに政房にいたとき、辛旽が後ろ手を組んで傍らから見ていて、文景を指して「ついに必ず大いに顕れるであろう。福徳は諸君の及ぶところではない」と言ったが、ついにその言葉のとおりであった。老いた賊もまた眼を具えていたのである。公の年が六十のとき、母も七十を越えていたが、病が重くなり、目を閉じて物を言わないことが数日になり、薬も効がなかった。公は香を焚いて祈り、悲しく呼ばわって息も絶えそうであった。やがて母が「これは何の声か」と言ったので、侍っていた者が驚き喜んで「お祈りの声でございます」と言った。母は「天が人を遣わして几と杖を授け『子の至誠がこのようであるから、扶けて起こしてよい』と言った」と言った。病はほどなく癒えたので、人々はみな文景の孝誠の篤いことに感嘆した。

47強い弓を密かに手なずけた河敬復

河襄靖公敬復晉州人。母夢鼈入懷中。因有娠生。小字王八。自幼膂力過人。補甲士宿衛。直禁門。時適冬至。上林苑熨養梅花數盆。將進置於禁門之側。公折一長條。揷兜牟上。掌者大驚叱之。公曰。吾家籬邊繫牛馬者此樹。折爲薪樵者也。有何所貴。不小屈。人皆笑其麤猛。而大其氣。以武能擢拔大顯。嘗出鎭東北面。有野人以三百斤强弓請公彎之者。公爲置酒歡飮。且語曰。此弓制作甚妙。急呼弓手。依樣制造。潛令人爆之。筋力少解。從容引滿。野人叩頭下拜。

襄靖公河敬復は晋州の人である。母が鼈が懐に入る夢を見て身ごもって生んだので、幼いときの名は王八であった。幼いころから膂力が人に勝れていたので、甲士に補されて宿衛し、禁門を守った。ちょうど冬至の日であったので、上林苑で梅の花を数鉢あたため育て、やがて献じようとして禁門の側に置いていた。公が長い枝を一本折って兜の上に挿したので、管理する者が大いに驚いて叱った。公は「我が家の垣のそばで牛や馬を繋ぐのがこの木で、折って薪にするものだ。何の貴いことがあろうか」と言って、少しも屈しなかった。人々はみなその粗く猛なるさまを笑ったが、その気概は大きなものとし、武によって抜擢されて大いに顕れた。かつて東北面に出て鎮めたとき、ある野人が三百斤の強い弓を持ってきて、公にこれを引いてみることを請うた。公は酒の席を設けて楽しく飲みながら「この弓は作りが甚だ妙である」と言い、急いで弓を作る者を呼んでその形どおりに作らせ、密かに人に言いつけて火であぶらせたので、筋の力が少し緩んだ。静かに引いて満月のようにしたので、野人は頭を垂れて拝した。

48「耕すことは奴にお問いください」 — 卞季良の頑固

卞文肅公季良性固執。宣德年間賀白雉表詞中。有惟玆白雉之語。文肅曰玆字宜中行。諸公曰不屬上何謂中行。文肅固執之。諸公曰宜取旨。世宗是諸公之議。文肅復啓曰。耕當問奴。織當問婢。殿下爲國。若鷹犬宜問文孝宗輩。至於詞命。當依任老臣。不可輕許他議。世宗不得已從之。

文肅公卞季良は性質が頑固であった。宣徳年間、白い雉を祝う表の言葉のうちに「惟玆白雉(ただこの白き雉)」という句があった。文肅が「玆の字はまさしく行の中に置くべきである」と言うと、諸公は「上に属していないのに、どうして行の中と言うのか」と言った。文肅が頑として主張したので、諸公は「上の御意を仰ごう」と言った。世宗が諸公の議を是とされると、文肅は改めて「耕すことは奴に問い、織ることは婢に問うべきです。殿下が国を治められるにあたり、鷹や犬のことはまさしく文孝宗の輩にお問いになり、辞命に至っては、まさしく老いた臣にお任せになって、軽々しく他の議をお許しになってはなりません」と申し上げた。世宗はやむなくその言葉に従われた。

49虎を射ておきながら何の獣か分からなかった崔潤徳

崔貞烈公潤德生而母卒。父雲海鎭邊不能擧。托養于同隣楊水尺家。稍長膂力絶人。挽强射堅。時隨水尺出獵。所獲實多。一日牧山中。有大蟲瞥出林莽。諸畜犇散。公驟騎一發一箭斃之。來報水尺曰。有物斑紋。其大顒然。是何物。吾已射殪之。水尺往見。乃一大虎也。水尺異之。家君出鎭合蒲。水尺以公往謁。譽公不已。家君曰當試之。及與校獵。公左右馳射。發無不中。觀者嘖嘖稱美。家君笑曰。兒手雖敏。而尙未識軌範。兒今所爲乃山虞技耳。不可謂之長技。仍敎射禦之方。遂爲名將。

貞烈公崔潤徳は生まれるとともに母を失った。父の崔雲海は辺を鎮めていて育てることができず、隣の楊水尺の家に託して養わせた。少し成長すると膂力が人に絶して、強い弓を引き堅いものを射た。時おり水尺に従って狩りに出ると、獲るものが実に多かった。ある日、山中で家畜を放していると、大きな獣が草むらからふと出てきて、諸々の家畜が走り散った。公は馬を駆けさせて一矢で斃し、来て水尺に「斑の紋があって、大きさが抜きんでた物がいたので、何の物かと思って私がもう射殺した」と言った。水尺が行って見ると、大きな虎一頭であった。水尺はこれを不思議に思った。父が合浦に出て鎮めていたとき、水尺が公を連れて行ってお目にかかり、公を褒めてやめなかった。父は「まさしく試してみよう」と言ってともに狩りをしたところ、公は左右に馬を駆けながら射て、放った矢は中らないものがなく、見る者は舌を鳴らして褒めた。父は笑って「子の手は敏いが、まだ規範を知らない。子が今やっているのは山番の技にすぎず、優れた技とは言えない」と言い、ついで射ることと馬を馭することの法を教えたので、ついに名将となった。

50童僕が小便をしても怒らなかった黄喜

黃翼成公喜度量寬洪。有大臣之體。居相位三十年。享年九十。論決國事。務從寬大。平居淡如。雖兒孫僮僕羅列左右啼號戱噱。畧不可禁。或有挽胡批頰者。亦從其所爲。嘗引僚佐議事。方濡筆書牘。有童奴溺其上。公無怒色。但以手拭之而已。其德量如此。嘗謫在南原七年。閉門端坐不接賓客。手執韻書一帙。凝神注目而已。後雖年高。於字書音義偏傍點畫。百不一失。

翼成公黄喜は度量が寛く広く、大臣の体があった。相の位に三十年あり、年は九十を享けた。国事を論じ決するときは、寛く大きなものに従うことに努めた。普段は淡々としていて、子や孫、召使いたちが左右に並んで泣き叫び戯れ笑っても、少しも禁じず、あるいは髭を引っぱり頬を打つ者があっても、その為すままにさせた。かつて僚佐を招いて事を議し、筆を濡らして文書を書いていたところ、童僕がその上に小便をした。公は怒る色もなく、ただ手で拭くだけであった。その徳と度量はこのようであった。かつて南原に流されていた七年の間、門を閉じて端座し、客を迎えず、手に韻書一帙を取って、精神を凝らして目を注ぐだけであった。後に年が高くなっても、字の音と義、偏と旁、点と画について、百に一つも誤ることがなかった。

51「山水は良いが品官は甚だ悪い」

河文孝公演讌居常著烏紗帽。去軟角。焚香靜坐。終日唫哦。爲詩奇僻近古。筆法遒勁得體。嘗言。少時在春坊。作詩手寫之。河浩亭嘆曰。河文學作而河文學寫。亦一人間寶玩也。文孝嘗按慶尙道。南政丞智爲亞使。公甚器重。不以僚佐待之。嘗行至晉州。文孝嘆山川雲物之勝。公晉人也。南改容曰。山水雖勝。而品官甚惡。文孝大笑。人服其雅量。後與南同升黃閣。

文孝公河演は、閑かに暮らすときは常に烏紗帽をかぶって軟角を外し、香を焚いて静かに座り、一日中吟じていた。詩を作れば奇で癖があって古えに近く、筆法は強く引き締まって体を得ていた。かつて「若いとき春坊にいて、詩を作って自ら書いたところ、河浩亭が感嘆して『河文学が作って河文学が書いた。これもまた人間の一つの宝玩である』と言った」と語った。文孝がかつて慶尚道を按察したとき、政丞の南智が亜使となったが、公は甚だ器として重んじ、僚佐として待遇しなかった。かつて晋州に至って、文孝が山川と景物の勝れていることを感嘆した。公は晋州の人であったが、南智は顔色を改めて「山水は勝れておりますが、品官は甚だ悪いのです」と言ったので、文孝は大いに笑った。人々はその雅量に感服した。後に南智とともに黄閣に上った。

52「痩せ鷹宰相」と呼ばれた許稠

許文敬公稠簡嚴方正。公廉淸謹。動慕聖賢。每鷄鳴盥櫛。冠帶正坐。雖終日不見惰容。矻矻常以國事爲念。言不及私。論議國政。自信獨守。不與人軒輊。時稱賢宰相。家法亦嚴。子弟有過。必告祠堂罰之。奴婢有罪。按律治之。公自幼銷瘦如削。肩背傴僂。嘗判禮曹。定上下服色儀制。截然有分。巿井輕薄子深疾之。號曰瘦鷹宰相。蓋鷹肥則颺去。瘦則思搏禽也。

文敬公許稠は簡にして厳、方正であり、公正・清廉で清らかに慎み、動けば聖賢を慕った。鶏が鳴くごとに顔を洗い髪をとかし、冠と帯を整えて正しく座り、一日中、怠った様子を見せなかった。たゆまず常に国事を念とし、言葉が私事に及ばず、国政を論議するときは自ら信じて独り守り、人と高下を争わなかったので、当時、賢い宰相と称された。家法もまた厳しく、子弟に過ちがあれば必ず祠堂に告げて罰し、奴婢に罪があれば律に照らして治めた。公は幼いころから削いだように痩せ、肩と背が曲がっていた。かつて礼曹を預かり、上下の服の色と儀制を定めてはっきりと分けたので、市井の軽薄な者らが深く憎んで「痩せ鷹宰相」と呼んだ。おおよそ鷹は肥えれば飛び去り、痩せれば鳥を搏つことを思うからである。

53あの一対の鳩は雌と雄が並んでいるのに

金孝襄公孝誠莊襄公南秀之子也。莊襄與妻吉氏異居。孝襄年四五歲。有奴抱立桑樹下。忽有雙鳩來集。孝襄曰。瞻彼雙鳩。雌雄並行。吾父母各在東西何耶。仍泣下奴異之。告吉氏亦泣。鄕閭皆異之。公事母至孝。公年五十七。而吉氏卒。廬墓喪祭。一出至誠。物論多之。

孝襄公金孝誠は荘襄公金南秀の子である。荘襄が妻の吉氏と別れて住んでいたとき、孝襄が四、五歳のころ、召使いが抱いて桑の木の下に立っていると、ふと鳩が一対来てとまった。孝襄は「あの一対の鳩を見ると、雌と雄が並んで行くのに、我が父母はそれぞれ東と西におられるのはなぜか」と言い、ついで涙を流した。召使いが不思議に思って吉氏に告げると、吉氏も泣き、郷里の人々もみな不思議に思った。公は母に仕えて至って孝であった。公の年が五十七のとき吉氏が亡くなったので、廬墓と喪祭をひとえに至誠から行ったので、世の評が立派なこととした。

54詩と画と書の三絶、姜希顔

姜戴敏公碩德性好古。風流文雅。近代無比。作詩最高古。書畫亦妙絶。諡之曰敏宜矣。諡法好古不怠曰敏。此元朝學士趙文敏之敏也。世之人以公不於紅紙上題名輕之。甚非也。子府尹希顏字景愚。畫詩書三絶。獨步一時。詩似韋柳。畫似劉郭。書兼王趙。爲人有才有德。眞大人君子也。不大厥施。惜哉。

戴敏公姜碩徳は性質が古えを好み、風流と文雅が近代に比べるものがなかった。詩を作れば最も高く古雅であり、書と画もまた妙に秀でていた。諡を敏としたのは当たっている。諡法に「古えを好んで怠らないのを敏という」とあり、これは元の学士趙文敏の敏である。世の人が、公が紅牌に名を挙げなかったとして軽んじるのは、甚だ誤りである。子の府尹希顔は字が景愚で、画と詩と書の三つが秀でて一時代に独り歩いた。詩は韋応物・柳宗元のようで、画は劉松年・郭熙のようで、書は王羲之と趙孟頫を兼ねていた。人柄は才があり徳があって、まことに大人君子であったが、その施しを大きくできなかった。惜しいことである。

55腐っても家の者に味わわせなかった清廉

趙中樞吾倅陜川。暑月鱸魚山積。雖腐爛不許家小得嘗。人皆服其廉。或曰與其腐爛棄之於地。寧使家小得嘗。況不以此傷廉乎。趙家至貧。其爲禮曹正郞。避方賃屋。桂玉不繼。同僚有以白粒三斗問之者。不受。後於公座誇之。人或有譏其矜作。然平居。關節不到。後退老村莊。室如懸磬。無絲毫干請於人。眞廉謹篤信君子也。

中枢の趙吾が陜川の長官となったとき、暑い月に鱸が山のように積まれても、腐り爛れようとも家の者が味わうことを許さなかったので、人々はみなその清廉に感服した。ある者は「腐り爛れて地に捨てるよりは、むしろ家の者に味わわせたほうがよい。まして、これで清廉を損なうわけでもないのに」と言う。趙の家は至って貧しかった。彼が礼曹正郎であったとき、借家に住んで薪も米も続かなかった。同僚のうちに白米三斗を送った者があったが、受け取らず、後に公の席でそのことを誇ったので、ある者はその誇ることをそしりもした。しかし普段は取り計らいの頼みが届かず、後に田舎の家に退いて老いたときには、家は磬を懸けたように空っぽで、毛筋ほども人に願い出ることがなかった。まことに清廉で慎み、篤く信のある君子であった。

56「この公はもしや盗だったのではないか」

權安肅公蹲聰明過人。明達吏體。嘗爲讞部。決獄如神。有二盜殺一家三人。情跡稍存。贓證未白。前後官吏首鼠未決。幾四五年。一日安肅前二盜而語曰。爾輩情跡甚明。敢不服。我有一語。爾無遁情。爾輩初議爲盜。如是如是。中爲作賊。如是如是。終始本末俱陳之。如是如是。爾敢隱乎哉。盜相顧吐舌曰。此公莫是曾爲盜者耶。何悉我情跡如是。遂服。

安肅公権蹲は聡明さが人に勝れ、吏の体に明らかに通じていた。かつて讞を預かり、獄を決することが神のようであった。二人の盗が一家の三人を殺したが、情と跡は少し残っていても、盗品と証拠が明らかにならず、前後の官吏が首鼠して決しないまま、ほぼ四、五年になった。ある日、安肅が二人の盗を前にして「お前たちの情と跡は甚だ明らかであるのに、よくも服さないものだ。私に一言がある。お前たちは情を隠すな。お前たちが初めに盗みを議ったのはこれこれであり、途中で賊をなしたのはこれこれであり、初めから終わりまでの本末をすべて並べて言えばこれこれである。お前が隠すことができようか」と言った。盗たちは互いに顧みて舌を出し「この公はもしや、かつて盗であった者ではないか。どうして我々の情と跡をこれほど悉く知っているのか」と言って、ついに自白した。

57雪の中の蓮の花 — 二十年前の言葉が成る

甲午春權文景公踶。趙判書克寬。權參判克和。金參判墩俱失志禮闈。抵水原蓮亭。文景曰。吾輩眺矂落魄至此。他日得意。細雨濛濛。雨雪霏霏。明月八簾。荷香滿座。與二三子相與觴詠。亦足賞今日之行矣。諸公抵掌曰。雨旣濛濛。雪不當霏霏。雪旣霏霏。月不當明。荷香又豈雪中得乎。何言之不倫也。文景無以應。是年秋榜。文景居大魁。諸公相繼擢第。壬子文景爲京畿監司諸公會餞。趙執盞言曰。水州雪中荷花。今可賞矣。文景笑曰。欲與君共耳。不數月趙出宰是府。文景巡臨。趙行禮詣就座。適荷花盛開。相目而笑。文景有詩曰。雨雪霏霏月政明。荷香荏苒滿亭淸。當時此說神應祕。二十年前事已成。

甲午の年の春、文景公権踶と判書の趙克寛、参判の権克和、参判の金墩が、みな科挙に志を失って水原の蓮亭に至った。文景が「我々は落胆してここまで来たが、後の日に志を得たら、小雨が降りそそぎ、雪がちらちらと舞い、明るい月が簾に入り、蓮の香りが席に満ちるときに、二、三の方々と酒を酌み詩を吟じるならば、それもまた今日の歩みに賞を与えるに足るであろう」と言った。諸公は手を打って「雨がもう降りそそぐなら、雪が舞ってはならず、雪がもう舞うなら、月が明るくてはならない。蓮の香りを、また雪の中でどうして得られようか。どうして言葉がこれほど筋道に合わないのか」と言ったので、文景は答える言葉がなかった。その年の秋の榜で文景が首席を占め、諸公も次々と及第した。壬子の年、文景が京畿監司となったので、諸公が集まって送別した。趙克寛が盃を取って「水原の雪の中の蓮の花を、いまこそ賞することができましょう」と言うと、文景は笑って「君とともにしたいだけだ」と言った。数か月とたたずに趙克寛がその府の長官として出、文景が巡視して至ると、趙克寛が礼を行って席に進んだが、ちょうど蓮の花が盛んに咲いていた。互いに目で合わせて笑った。文景は詩を作って「雨と雪が舞う中、月はまさしく明るく、蓮の香りがしみ入って亭に満ちて清い。あの時のこの言葉は神が応じて秘めていたのだ、二十年前の事がすでに成った」と言った。

58三人の金と、師の第一である尹祥

金文長公鈞。金文長公末。金大司成泮。皆博通經史。尤邃性理之學。同時選授胄監。誨人不倦。作成有效。人稱曰三金。而泮先逝。兩金皆年踰八耋。官躋一品。俱謚曰文長。諡法博聞多見曰文。誨人不倦曰長。其得此謚宜矣。尹提學祥時爲胄監之長。學問尤精。諸生爭先摳衣。絲分縷柝。耳提面授。終日矻矻不知倦。今之達官聞人。皆公弟子也。國朝以來。爲師範之最。

文長公金鈞と文長公金末、大司成の金泮は、みな経史に広く通じ、とくに性理の学に深かった。同じ時に選ばれて胄監に任じられ、人を教えるのに倦まず、成し遂げたものに効験があったので、人々は「三人の金」と称した。金泮が先に世を去り、二人の金はいずれも年が八十を越え、官は一品に上り、どちらも諡を文長とされた。諡法に「広く聞き多く見るのを文といい、人を教えて倦まないのを長という」とあるので、この諡を得たのは当たっている。提学の尹祥がそのとき胄監の長であったが、学問がいよいよ精密で、諸々の生徒が先を争って学んだ。糸筋を分け、縒りを割くように、耳に近づけ顔を向き合わせて教え、一日中たゆまずして倦むことを知らなかった。今の高位の官や名の知れた人は、みな公の弟子である。国朝以来、師範としては第一である。

59正しさを得て死ぬのは、どうして幸いでないことがあろうか

金文長公末有一女無子。嘗曰。聞開千眼者得陰報。予自筮仕以來五十餘年。未嘗不待學館職。敎誨不倦。卒無嗣。豈非予荒蕪僞學未能德於人耶。將終。沐浴冠帶執笏端坐。家人痛哭。公止之曰。予位至一品。官非不達。年踰八耋。壽非不高。生死常理。得正而死。豈非幸歟。尋卒。

文長公金末には娘が一人あって子がなかった。かつて「聞くところでは、千人の眼を開いてやった者は冥の報いを得るという。私は仕官して以来五十余年、学館の職を預からなかったことがなく、教えることに倦まなかったのに、ついに後を継ぐ子がない。これはどうして、私が荒れた偽りの学問によって人に徳を施すことができなかったのではなかろうか」と言った。世を終えようとするとき、沐浴し冠と帯を整え、笏を取って端座したので、家の人が痛哭した。公はそれを止めて「私の位は一品に至ったのであるから、官が達していないわけではない。年は八十を越えたのであるから、寿が高くないわけではない。死と生は常の理であるから、正しさを得て死ぬのは、どうして幸いでないことがあろうか」と言い、そのまま世を去った。

60宦官の冠を改めるという議を止める

崔先生萬理嘗爲集賢殿副提學。上書極論宦官著軟脚烏紗帽。不合古制。依中朝例著冠。其言曰。自古歷代人主。寵任宦官。權傾天下者甚多。然不能易其冠者。蓋以閽寺之流。不可混於縉紳。駭人觀聽耳。言甚切至。諸宦官側目相視。議遂寢。

崔万理先生がかつて集賢殿副提学となり、書を奉って、宦官が軟角の烏紗帽をかぶるのは古えの制度に合わないので、中国の朝廷の例に従って冠をかぶらせるべきことを力を尽くして論じた。その言葉に「昔から歴代の君主が宦官を寵愛し任せて、権勢が天下を傾けた者は甚だ多い。しかしその冠を変えることができなかったのは、おおよそ門番の類を縉紳と混ぜることができず、人の見聞きするところを驚かせるからである」とあった。言葉が甚だ切実で行き届いていたので、諸々の宦官は横目で互いに見合い、その議はついにやんだ。

61『高麗史節要』の初稿は南秀文の手から出た

柳先生義孫。權先生採。辛文僖碩祖。南先生秀文。同在集賢殿。文章齊名一時。而物論尤推重南先生。高麗史節要初草。大抵皆出於南手也。諸君皆不大達。惜也。

柳義孫先生と権採先生、文僖公の辛碩祖、南秀文先生が、ともに集賢殿にあって、文章で一時代に名を並べたが、世の評は南先生をいよいよ高く推した。『高麗史節要』の初稿は、おおよそすべて南先生の手から出たものである。諸君がみな大いに顕れることができなかったのは、惜しいことである。

62六年鮒を食べず、三年鮑を食べず

奇公虔嘗宰延安府。鮒魚多產。公私徵請輻湊。弊或及民。前此有宰姓金者。喜食鮒魚。邑人嘲之。大書館壁曰。六年何事業。喫盡一池魚。奇欲避謗。六年不食鮒魚。又出牧濟州。濟之有鰒。猶延之有鮒也。三年亦不食。人皆服其執而疑其作也。

奇虔公がかつて延安府の長官となった。鮒が多く獲れたので、公私の求めが集まり寄せ、弊が民に及ぶこともあった。これより前に金姓の長官があって、鮒を食べるのを好んだので、邑の人が嘲って客館の壁に大きく「六年、何の事業をしたのか、ひとつの池の魚を食べ尽くした」と書いた。奇虔は謗りを避けようとして、六年の間、鮒を食べなかった。また済州の牧使として出たが、済州に鮑があるのは、延安に鮒があるのと同じであった。三年の間、やはり食べなかったので、人々はみなその守りに感服しながらも、無理に作ってやっているのではないかと疑った。

63金葵花の下でひれ伏すことを願います

金判書銚早以文學著名。世宗嘗宴群臣。皆酒酣。上曰。今日諸君。各陳平生所願。銚曰。臣願百年之內日侍御榻。進退俯伏於金葵花底而已。群臣皆曰。臣等所願無踰於銚。上笑。

判書の金銚は早くから文学で名が顕れた。世宗がかつて群臣に宴を賜り、みな酒が回ったとき、上が「今日、諸君はそれぞれ生涯の願うところを述べよ」と言われた。金銚は「臣は、百年のうち、日ごとに御座にお仕えし、金葵花の下で進み退き、ひたすらひれ伏すことを願うばかりでございます」と言った。群臣はみな「臣らの願うところも、金銚に越えるものはございません」と言った。上は笑われた。

64盗はやんだが、曲げられた死も多かった

金文節公淡性溫雅淡簡。喜怒不形於色。然善治盜。嘗守忠州安東慶州三邑。人有犯盜情跡。少有可疑。必殺勿饒。盜不入境。民賴以安。然枉殺亦多。公享年不永。刑罰之於人。甚可畏也。

文節公金淡は性質が温かく雅やかで、淡く簡素であり、喜びと怒りを顔色に現さなかった。しかし盗を治めることに巧みであった。かつて忠州・安東・慶州の三つの邑を預かったが、盗みを犯した情と跡のある者は、少しでも疑わしいところがあれば必ず殺して赦さなかった。盗が境内に入れなかったので、民はこれによって安らかであった。しかし曲げて殺された者もまた多かった。公は寿を長く享けられなかった。刑罰を人に加えることは、甚だ畏れるべきことである。

65食べずに生きるより食べて死ぬ — 革靴の盃

李文安公思哲體質豐大。飮食過人。每食一大器飯二蒸鷄一壺酒。患背腫臨絶。醫云宜忌炙肉毒酒。公曰與其不食而生。毋寧食之而死乎。飮酒啗炙如常。卒獲平善。人皆曰享富貴者。飮食亦異於常矣。文安之少也。與諸輩遊三角山僧寺。各佩壺。但無飮器。時權斯文枝穿新制馬皮套鞋。文安先酌飮之。諸公以次飮之。相視大笑曰。皮鞋杯自我作古。不亦可乎。後文安貴顯。語權曰。今日金杯酒味。大不如遊山時皮鞋杯也。

文安公李思哲は体つきが豊かで大きく、飲み食いが人に過ぎていた。食事ごとに大きな器の飯一つに蒸し鶏二羽、酒一壺を取った。背の腫れ物を患って死にそうになると、医者が「焼いた肉と強い酒をお慎みください」と言った。公は「食べずに生きるよりは、むしろ食べて死ぬほうがよくはないか」と言い、酒を飲み焼いた肉を食べることをいつものようにしたが、ついに平らかになった。人々はみな「富貴を享ける者は、飲み食いもまた常と異なる」と言った。文安が若かったとき、何人かの友と三角山の寺に遊びに行った。それぞれ酒壺を携えていたが、飲む器がなかった。そのとき斯文の権枝が新しく作った馬皮の套鞋を履いていたので、文安が先にそれに注いで飲み、諸公も順に飲んだ。互いに見合って大いに笑い「革靴の盃は私から古例となったのだから、これもまたよいではないか」と言った。後に文安が貴く顕れてから、権に「今日の金の盃の酒の味は、山に遊んだときの革靴の盃に大いに及ばない」と言った。

66自分の子を榜から消してしまった鄭甲孫

鄭貞節公甲孫性淸直嚴峻。子弟不敢干以私。嘗爲咸吉道監司。被召如京。及還道見解榜。子烏亦中焉。公奮髥怒罵試官曰。老奴敢狐媚我乎。吾兒烏業未精。豈可僥倖欺君耶。遂鉤去之。竟黜試官。

貞節公鄭甲孫は性質が清く直く、厳しく峻しかったので、子弟は敢えて私事を願い出ることができなかった。かつて咸吉道の監司となり、召しを受けて京に行った。帰る道で郷試の榜を見たところ、子の鄭烏もそこに入っていた。公は髭を振り立てて怒り、試官を罵って「老いた下僕め、よくも私に媚びるものだ。我が子の烏は学業が精しくないのに、どうして僥倖によって君を欺くことができようか」と言い、ついに消してしまった。最後には試官を追い出した。

67幕の隙から落ちた盃 — 「鵝鳥の卵のようなものは何か」

貞節爲大司憲。激濁揚淸。朝綱大振。然寬厚持大體。舊例公會臺諫必連幕而次。或時飮酒捲帳相屬。號曰捲帳飮。若値酒禁臺諫執法不飮。諫院飮醉自如。一日諫官持抔引滿。戲於帳隙示臺長。臺長亦戲以袖拂之。杯從帳隙中而墮。圜轉止於憲長案前。諸臺長惶懼無措。臺吏亦相目未敢猝止。終日在前。臺中恐生事。將仕罷。貞節語吏曰。彼如鵝卵者何物耶。可容水精珠幾顆乎。吏曰可容百顆。貞節曰可從所出隙中擲之。滿座皆服其雅量。諫院相傳。有杯形如鵝卵。可容一升許水精珠。玩禁而設者。

貞節が大司憲となり、濁ったものを洗い清いものを揚げたので、朝廷の綱紀が大いに振るった。しかし寛く厚くして大体を保った。古い例では、公の会合で台と諫は必ず幕を連ねて席を占めた。時に酒を飲むとき、幕をまくり上げて互いに盃を勧めたので、これを「巻帳飲(幕をまくった酒)」と呼んだ。もし酒を禁じるときに当たれば、台は法を守って飲まず、諫院は飲んで酔うのを常としていた。ある日、諫官が盃を取って満たし、戯れて幕の隙から台長に見せたので、台長も戯れに袖で払った。盃は幕の隙を通って落ち、ころころと転がって憲長の机の前で止まった。諸々の台長は恐れ惑って手の施しようがなく、台の吏も互いに目で合わせて敢えてすぐに片づけられず、一日中その前に置かれたままであった。台の中では事が起こることを恐れ、やがて席を閉じようとした。貞節が吏に「あの鵝鳥の卵のようなものは何の物か。水精の珠を幾つ入れられるか」と言うと、吏は「百粒は入ります」と言った。貞節は「出てきた隙を通して投げ返してやれ」と言ったので、満座はみなその雅量に感服した。諫院では「鵝鳥の卵の形をした盃があって、一升ばかりの水精の珠を入れられるので、酒を禁じるときに賞玩するために置いたものである」と相伝えた。

68三爵と定めたのが、かえって酒を勧めたことに

尹文度公淮南集賢秀文皆能文章。而性喜酒。常飮過度。世宗惜其才。命飮酒毋過三爵。自後凡宴會。二公必飮三大椀。名雖三爵而實倍飮於他人。世宗聞而笑曰。予之戒飮。適所以勸飮也。

文度公尹淮と南秀文は、どちらも集賢殿で抜きんでて文に巧みであったが、性質が酒を好んで、常に度を過ごして飲んだ。世宗はその才を惜しまれ、酒を飲むのは三爵を越えるなと命じられた。それからは、およそ宴会があると二公は必ず大きな椀で三つを飲んだので、名は三爵であっても実は人より倍を飲んだ。世宗が聞かれて笑い「私が酒を戒めたのが、ちょうど酒を勧めたことになったわけだ」と言われた。

69「月はどのあたりにあるか」 — 東井にございます

鄭文成公麟趾天資豪邁。胸次豁達。嘗酒酣。尙論古人曰。如我者倘遊聖門。純粹如顏子。篤實如曾子。固不可及。如遊夏之徒。未知何如也。歲庚午翰林侍講倪謙奉使來。文成爲官伴。周旋交際。得儐使體。又與之商礭古今。往復酬唱。侍講敬重之。常夜坐。侍講曰月在何分。公曰在東井。侍講嘆服。及辭別。侍講曰如夜深何。公曰可怕李金吾。侍講曰莫逢王玉汝。相與笑曰。天下未嘗無無對之句。歲丙寅昭憲王后赴山陵。大雨江漲。梓宮不可渡。權厝樂天亭。或云南首。或云北首。議竟未決。文成後至曰。禮在殯南首。不死其親之意。在玄宮北首之。幽之故也。今亦殯宜南首。諸公曰。宰相不可不用讀書人。

文成公鄭麟趾は生まれつきの資質が豪邁で、胸の内が闊達であった。かつて酒が回って古人を論じ「私のような者がもし聖人の門に遊んだなら、純粋さが顔子のようであり篤実さが曽子のようであることは、まことに及べないであろうが、子游・子夏の輩のようであることなら、どうであろうか分からない」と言った。庚午の年、翰林侍講の倪謙が使命を奉じて来たので、文成が官伴となり、あまねく応対して交わり、客を迎える体を得た。また彼とともに古今を量り論じ、往き来して詩を酬い唱えたので、侍講は彼を敬い重んじた。常に夜に座っていたが、侍講が「月はどの分にあるか」と問うと、公は「東井にございます」と言った。侍講は感嘆し服した。別れ際に侍講が「夜が深いのをどうしよう」と言うと、公は「李金吾が怖うございます」と言った。侍講は「王玉汝に逢われませぬように」と言い、互いに笑って「天下に対のない句はないものだ」と言った。丙寅の年、昭憲王后を山陵にお移しするとき、大雨で川が増水して梓宮を渡すことができず、楽天亭に仮にお置きすることになった。ある者は頭を南に向けるべきと言い、ある者は北に向けるべきと言って、議はついに決しなかった。文成が後から至って「礼では、殯において頭を南に向けるのは、その親を死んだ者としない意であり、玄宮で北に向けるのは、幽なる所であるからです。いまもまた殯でありますから、まさしく南に向けるべきです」と言ったので、諸公は「宰相には書を読んだ人を用いないわけにはいかない」と言った。

70「季甸の疏がまた来たな」

侍從封章。始盛於李文烈公季甸。文烈在集賢殿。屢欲封章論事。有一二同列。官居文烈之上。每沮之曰。自古喜論事者。終受禍。況我侍從者。講論德義。啓沃輔道而已。至於諫諍非職也。君勿好事。文烈曰。人各有心。論事之敗之榮。不如含默之恥之深耶。遂率下僚抗疏極陳者。非一再矣。而上官終不署名。物論譏之。每進封章。世宗曰。季甸之疏又來矣。遂有大用之志。尋擢同副承旨。

侍従が封章を奉ることは、文烈公李季甸から初めて盛んになった。文烈が集賢殿にあって、たびたび封章によって事を論じようとしたが、一、二人の同列が、官が文烈の上にあって、常にこれを阻んで「昔から事を論ずるのを好む者は、ついに禍を受ける。まして我ら侍従する者は、徳と義を講論し、君の心を潤して輔け導くだけであって、諫争に至っては職分ではない。君は事を起こすのを好むな」と言った。文烈は「人にはそれぞれ心がある。事を論じて失敗することが、含み黙る恥の深さに及ばないことがあろうか」と言い、ついに下の僚属を率いて上疏し、極めて申し述べたことが一、二度ではなかった。しかし上官はついに名を署さなかったので、世の評はそれをそしった。封章を奉るたびに世宗は「季甸の疏がまた来たな」と言われ、ついに大いに用いる志を持たれて、ほどなく同副承旨に抜擢された。

71「得るも得ないも、どうして命でないことがあろうか」

權翼平公擥弱齡有大志。博覽强記。才名挺出儕輩。然屢屈場屋。怡然自處。不屑屑於懷。予誦孟郊詩曰。出門卽有礙。誰謂天地寬。郊之落第悲悴困窮者。無所容其身者。今子將無然乎。翼平笑曰。得不得寧非命耶。予知其爲大器。後翼平年三十五。以文擢壯元。四十六入相。爲一代元勳之首。蓋眺矂悲傷。士之常情。而公之大度如是。郊之不遇。豈非局小使然耶。

翼平公権擥は若い年から大きな志があり、広く見て強く記憶し、才と名が同輩に抜きんでていた。しかし科場でたびたび屈しても、悦んで自ら処し、心に留めなかった。私が孟郊の詩を誦えて「門を出れば即ち障りがある、誰が天地を広いと言ったのか」と言い、「孟郊が落第して悲しみ憔れ困窮し、その身を置く所がなかったのに、いま君はそうではないのか」と言った。翼平は笑って「得るも得ないも、どうして命でないことがあろうか」と言ったので、私は彼が大きな器となることを知った。後に翼平は三十五で文によって首席に抜かれ、四十六で相に入り、一代の元勲の首となった。おおよそ失意して悲しむのは士の常の情であるのに、公の度量はこのようであった。孟郊が時に遇わなかったことも、どうして器量が小さくてそうなったのではないと言えようか。

72颶風の中でも平然とし、夜を通して書を読む

申文忠公叔舟嘗奉使日本。回還到我境。不及數里。忽遭颶風。未及艤岸。衆皆蒼黃。公神色自若曰。大丈夫當遠游四方以蕩襟懷。今涉洪濤。見日出之鄕。足爲壯觀。倘乘此風。得泊金陵。飽見山河雲物之盛。亦一快也。時刷還孕婦在舟中。衆曰。自古孕婦於行船大忌。宜投海以穰。公曰。殺人求活。於德不祥。强止之。俄而風定。文忠始登第。選入集賢殿。一日當直入藏書閣。取平昔所未見書讀之。漏已下三鼓。世宗遣小宦覘視。端坐讀書。及四鼓又遣覘之。亦如是。函賜御衣以奬。

文忠公申叔舟がかつて使命を奉じて日本に行き、帰って我が境に至ったが、数里に及ばないところで突然に颶風に遭い、岸に船を着けることができなかった。皆が慌てたが、公は顔色が平然として「大丈夫はまさしく遠く四方に遊んで胸の思いを洗うべきである。いま大波を渡り、日の出る郷を見たのであるから、十分に壮観である。もしこの風に乗って金陵に泊まることができれば、山河と雲物の盛んなさまを飽きるまで見られるのであるから、それもまた一つの快い事である」と言った。そのとき連れ帰る身重の女が船の中にいたので、皆が「昔から身重の女は船の行き来に大いに忌むものです。まさしく海に投げて厄を払うべきです」と言った。公は「人を殺して生きることを求めるのは、徳において不吉である」と言って、強いて止めた。やがて風がおさまった。文忠が初めて及第して集賢殿に選ばれて入った。ある日、宿直していて蔵書閣に入り、普段見たことのない書を取って読んだ。漏刻がすでに三更を告げたので、世宗が小さい宦官を遣わして覗かせられたところ、端座して書を読んでいた。四更になってまた覗かせられたが、やはり同じであった。上は御衣を箱に納めて賜り、これを励まされた。

73「参議は私が思うままに振る舞うと思って加わらぬのか」

具忠烈公致寬性方嚴公正。嘗判吏曹。關節不行。前此長銓曹者。例於除授之際。親執官案。恣行胸臆。亞官以下。袖手傍觀。公嘗憤之。思欲矯其弊。凡進退人物。博採群議。雖小官卑職。未嘗獨薦。又不以私恩貸親舊。嫉人干請。有或干請者。當遷不敍。時居正爲參議。一日在政房。適醉睡。公厲聲曰。參議謂致寬。注擬人物。恣行胸臆。不欲與聞耶。他日有用人之失參議其曰在家不知耶。嘗擬一文士知名者。爲臺官。駁者曰。此子滑稽不可。公曰若然則漢武帝何取於東方朔耶。竟擬臺官。又一文士調外郡敎官。十年不遷。公欲擬縣職。駁者曰。此子迂闊不可。公曰。天道十年必復。安可使人久屈如是。遂擬縣職。果有治效。公之用捨。一出至公如此。

忠烈公具致寛は性質が方正で厳しく、公正であった。かつて吏曹を預かったので、取り計らいの頼みが行われなかった。これより前に銓曹の長であった者は、例によって官を授けるときに自ら官案を取り、胸の思うままに振る舞い、亜官以下は袖に手を入れて傍らから見ているだけであった。公はかつてこれを憤り、その弊を矯めようと考えた。およそ人物を進め退けるにあたって、群議を広く採り、たとえ小さい官や低い職であっても、独りで薦めたことがなかった。また私の恩によって親旧を赦すことをせず、人が頼み込むのを憎み、もし頼み込む者があれば、まさしく遷すべき席であっても用いなかった。そのとき居正は参議であったが、ある日、政房にいて、たまたま酔って眠った。公は声を厲しくして「参議は、致寛が人物を擬するのに胸の思うままに振る舞っていると思って、ともに聞こうとしないのか。後の日に人を用いた過ちがあったら、参議は家にいて知らなかったと言うのか」と言った。かつて名の知れた一人の文士を台官に擬したところ、反駁する者が「この者は滑稽でありますから、なりません」と言った。公は「もしそうであれば、漢の武帝は東方朔から何を取ったのか」と言い、ついに台官に擬した。また一人の文士が外郡の教官に転じて十年遷ることがなかったので、公が県の職に擬そうとしたところ、反駁する者が「この者は世事に疎いので、なりません」と言った。公は「天の道は十年たてば必ず復る。どうして人をこのように長く屈ませておけようか」と言い、ついに県の職に擬したところ、果たして治める効があった。公の用い捨てが、ひとえに至公から出ていたのはこのようであった。

74「我が国の表は精密で切実である」

崔文靖公恒性謙恭簡正。端介無華。平生與人語。先示退損。不自表襮又不立崖岸自異。爲文章。不襲古人畦畛。自出機杼。大放以肆雄豪富瞻。如長江大河。滔滔汩汩。百折逶迤。勢不能止。尤工於騈驪。凡朝廷事大表牋。皆出其手。華人每稱。我國表辭精切。皆公所著也。平居雖隆冬盛暑。整衣冠終日端坐。不設情容。未嘗疾語遽色。天性然也。

文靖公崔恒は性質が謙り恭しく、簡にして正しく、端正で堅く、飾りがなかった。生涯、人と語るときはまず退き譲ることを示し、自らを表に出さず、また崖のように高く構えて独り異なることをしなかった。文章を作れば古人の畦道を襲わず、自ら機を出して大きく放ち、雄々しく豪で豊かに行き渡り、長い川や大きな河が滔々と流れ、百度曲がりくねっても、その勢いを止めることができないようであった。とくに駢儷に巧みであったので、およそ朝廷の事大の表と牋はみなその手から出た。中国の人は常に「我が国の表の言葉は精密で切実である」と称したが、みな公が作ったものである。普段の暮らしでは、たとえ厳冬や盛りの暑さであっても、衣と冠を整えて一日中端座し、くつろいだ様子を作らず、急いで語ったり急な顔色を見せたことがなかった。生まれつきの性質がそうであったのである。

75口訣を定める — 「寧城はまことに天才である」

世祖嘗嘆。東方學者。語音不正。句讀不明。雖有先儒權近鄭夢周口訣。紕繆尙多。腐儒俗士。傳訛承誤。遂命老臣宿儒。分授四書五經。考古證今。參定口訣。又會文儒講同異。上親加睿裁。文靖常在左右。每承顧問。毫分縷析。應對如響。上聽之亹亹不厭。語左右曰。寧城眞天才也。

世祖がかつて「東方の学者は言葉の音が正しくなく、句読が明らかでない。先の儒者である権近・鄭夢周の口訣はあるものの、誤ったところがまだ多いので、腐った儒者や俗な士が誤りを伝え、誤ったものを受け継いでいる」と嘆かれた。ついに老いた臣と熟した儒者に命じて、四書五経を分けて預け、古えを考え今を証して、口訣を量り定めさせられた。また文儒を集めて同異を講論させ、上が自ら明らかな裁決を加えられた。文靖が常に左右にあって、お尋ねを承けるたびに、毛筋のように分け縒りのように割いて、響きのように答えたので、上はたゆまず聞かれて飽きられなかった。左右に「寧城はまことに天才である」と言われた。

76「春秋の時に生まれていたなら叔向・子産の下ではない」

朴文憲公元亨明達事體。諳熟典故。中原使臣陳鑑高閏張寧陳嘉猷之來。皆爲儐。周旋交際。咸中其宜。張奉使嘗語文憲曰。如子之才。生於春秋之時。當不在叔向子產之下矣。

文憲公朴元亨は事の体に明らかに通じ、典故に熟していた。中国の使臣、陳鑑・高閏・張寧・陳嘉猷が来たとき、いずれも儐の役を預かり、あまねく応対して交わることが、すべてその宜しきに適っていた。張が使命を奉じて来たとき、かつて文憲に「あなたのような才が春秋の時に生まれていたなら、まさしく叔向や子産の下にはいなかったでしょう」と言った。

77李施愛の乱 — 刃が垣のように囲んでも平然と

尹文憲公子雲。爲咸吉道體察使。至安邊。聞李施愛殺節度使康孝文。又殺吉州牧使薛丁新。據州以叛。分遣腹心于諸郡。殺守令殆盡。兇徒所在響應。公倍道至咸興。是夕賊又作亂。殺監司申㴐。盡殺公差官吏。尋移兵抵公所。排闥露刃環庭者如墻。公整衣冠端坐。言笑自若。賊懼而退。嘯聚之黨。恣行胸臆。狙詐不測。公在圍中者七日。處之泰然。屹不動心。賊悔悟。或有周旋左右爲公地者。卒全身而還。

文憲公尹子雲が咸吉道の体察使となって安辺に至ったとき、李施愛が節度使の康孝文を殺し、また吉州牧使の薛丁新を殺して州を占めて叛いたことを聞いた。腹心を諸郡に分けて遣わし、守令をほとんど殺し尽くしたので、凶悪な徒が至る所で呼応した。公は道を倍にして咸興に至ったが、その夕、賊がまた乱を起こして監司の申㴐を殺し、公が差した官吏をすべて殺した。ついで兵を移して公のいる所に至り、戸を押し開けて刃を露わにして庭を取り囲んだのは、垣のようであった。公は衣と冠を整えて端座し、語り笑うことを平然としたので、賊は畏れて退いた。嘯いて集まった党は胸の思うままに振る舞い、狙い騙すことが測りがたかったが、公は囲みの中に七日あってなお泰然と処し、屹然として心を動かさなかった。賊は悔い悟り、ある者は左右に立ち回って公のために地を作る者もあって、ついに身を全うして帰った。

78釜を砕いて斤量どおりに分けよ

咸東原禹治嘗爲全羅道監司。有閥閱兄弟爭釜大小訴於官者。咸怒命吏。亟取大小二釜來曰。當擊碎均其斤兩而分之。二人服。訴遂止。

東原君の咸禹治がかつて全羅道の監司となった。閥閲の家の兄弟が釜の大小を争って官に訴え出たことがあった。咸は怒って吏に命じ、急いで大小二つの釜を持って来させて「まさしく打ち砕いてその斤量を均しくして分けてやろう」と言ったので、二人は屈服し、訴えはついにやんだ。

79刃が頭の頂を撫でても顧みなかった洪逸童

洪中樞逸童器宇卓犖。性任天眞。不脩邊幅。善詞賦劇飮。無何醉則用草葉作吹笛聲。悲壯震厲。平居獨撫古琴。有絃無譜。嘗曰。吾之琴得淵明千古不傳之趣。昔伯牙鼓琴。唯子期知之。吾之琴。淵明不生。世無知者。天地間奇男子也。嘗於上前論佛事。世祖佯怒曰。當殺此虜以謝佛氏。命左右取劍來。逸童論辨自若。左右佯以劍撫頂者再。亦不顧視。無懼色。世祖壯之曰。汝能飮乎。逸童曰。樊噲漢士也。項王他主也。巵酒彘肩不敢辭。況聖賜乎。賜酒一銀盆。健倒。上曰頗畏死乎。逸童曰。當死則死。當生則生。敢以生死而易其心乎。上喜賜貂裘一領。慰解之。

中枢の洪逸童は器量が抜きんでて優れ、性質が天真に任せて、身の外を飾らなかった。詞賦に巧みで激しく飲んだ。ほどなく酔うと草の葉で笛の音を出したが、悲しく壮んで震え響いた。普段は独り古い琴を撫でていたが、弦はあっても譜がなかった。かつて「私の琴は淵明の千古に伝わらぬ趣を得ている。昔、伯牙が琴を弾いたとき、ただ鍾子期だけがそれを知ったが、私の琴は淵明が生まれていないので、世に知る者がない」と言った。天地の間の奇なる男子である。かつて上の御前で仏事を論じたので、世祖が怒ったふりをして「まさしくこの奴を殺して仏に謝ろう」と言われ、左右に剣を持って来るよう命じられた。逸童は論じ弁ずることを平然とし、左右がふりをして剣で頭の頂を二度撫でても、やはり顧みず、畏れる色がなかった。世祖は壮としてこれを見て「お前は飲めるか」と言われた。逸童は「樊噲は漢の士であり、項王は他人の主でありましたが、大盃の酒と豚の肩を敢えて辞しませんでした。まして聖上が賜るものであれば」と言った。酒を銀の盆一つ賜ると、勇ましく飲み干した。上が「死ぬのをかなり畏れるか」と言われると、逸童は「死ぬべきときは死に、生きるべきときは生きます。敢えて生死によってその心を変えましょうか」と言った。上は喜んで貂の皮衣一領を賜り、慰めてこれを解かれた。

80「志がありながら施せなかった。惜しいことである」

逸童嘗遊眞寬寺。食餠一器麪三椀飯三鉢豆腐麪九椀。及到山下。有餉之者。食蒸鷄二隻魚羹三椀魚膾一盤酒四十餘觚。觀者壯之。明日世祖聞之。召逸童問曰。信如是能喫乎。逸童拜謝。上曰壯士也。然常時出入。但食餌屑醇酒而已。不喫飯。後到洪州劇飮。尋卒。人疑其爛腹也。有志不施。位不滿能。惜哉。

逸童がかつて真寛寺に遊びに行き、餅一器、麺三椀、飯三鉢、豆腐の麺九椀を食べた。山の下に至ると饗す者があって、蒸し鶏二羽、魚の羹三椀、魚の膾一盆、酒四十余杯を取ったので、見る者は壮とした。翌日、世祖がこれを聞かれ、逸童を召して「まことにそのように食べられるのか」と問われると、逸童は拝して謝した。上は「壮士である」と言われた。しかし普段の出入りのときは、ただ餅の粉と濃い酒だけを取り、飯は食べなかった。後に洪州に至って激しく飲み、ほどなく死んだので、人々は腹が爛れたのではないかと疑った。志がありながら施すことができず、位が能に満たなかった。惜しいことである。

81梅聖兪と尹恕 — 戯れも自ら期した言葉もみな合った

唐末鄭谷以詩鳴於世。時人稱其官爲鄭都官。宋梅聖兪晩年得都官。一日會歐陽永叔家。劉原父戲之曰。聖兪官必至於此。昔有鄭都官。今有梅都官。座客皆驚。而聖兪亦不樂。未幾病卒。居正少與尹恕同游學。恕嘗自言。萬一登第得爲司諫院正言。必休官。男子於紅旌上。書正言二字足矣。諸君勿訝也。恕與居正同登甲子科。庚午辛末年間。始授正言。居正戲曰。可休官矣。恕笑曰。第觀之。未幾病卒。蓋原父戲聖兪。尹恕之自期。果合於言。是何理耶。

唐の末に鄭谷が詩で世に名を挙げたが、当時の人はその官を称して「鄭都官」と言った。宋の梅聖兪が晩年に都官の官を得た。ある日、欧陽永叔の家に集まったとき、劉原父が戯れて「聖兪の官は必ずここに至るであろう。昔は鄭都官があり、今は梅都官がある」と言った。座の客はみな驚き、聖兪も楽しまなかったが、ほどなく病で死んだ。居正は若いとき尹恕とともに学んだ。尹恕がかつて自ら「万一及第して司諫院の正言になれたら、必ず官をやめる。男子が赤い銘旌の上に『正言』の二字を書ければ十分である。諸君は怪しむな」と言った。尹恕は私とともに甲子の年の科に上り、庚午・辛未の間に初めて正言に任じられた。私が戯れて「官をやめなければならないな」と言うと、尹恕は笑って「まあ見ていてくれ」と言った。ほどなく病で死んだ。おおよそ劉原父が聖兪を戯れたことと、尹恕が自ら期したことが、果たして言葉に合ったのであるが、これは何の理であろうか。

82権近の『入学図説』と権採の『作聖図』

陽村權文忠公常著入學圖說。依周子太極圖及朱子中庸章句之說。作天人心性合一之圖。廣大該包。精深微妙。擴前聖之未發。開後學於無窮。君子修之吉小人悖之凶之說。則但擧大綱以示學者。其旨深矣。猶子權先生採。亦依圖說及朱子中庸大學章句或問之說。以著天理流行發育之象及學者變化氣質作聖之道。其進德先後之目則引孔曾思孟之說。用功淺深之意則斷以程朱諸子之論。其論天人心性之說。多有所發揚陽村之意焉。於是著作聖圖。

陽村の文忠公権近はかつて『入学図説』を著したが、周子の太極図および朱子の『中庸章句』の説に拠って「天人心性合一之図」を作った。広く大きくすべてを包み、精しく深く微妙であって、先の聖人が明らかにしなかったものを広げ、後の学ぶ者を限りなく開いてくれた。君子が修めれば吉であり小人が背けば凶であるという説は、ただ大綱だけを挙げて学ぶ者に示したのであって、その旨は深い。甥の権採先生もまた『図説』および朱子の『中庸』『大学』の章句と或問の説に拠って、天理が流れ行って発育する姿と、学ぶ者が気質を変化させて聖となる道を著した。徳に進む前後の条目は孔子・曽子・子思・孟子の説を引き、功を用いる浅深の意は程子・朱子ら諸子の論によって断じた。その天人心性を論じた説は、陽村の意を発揚したところが多い。そこで『作聖図』を著した。

83骰子は骰子に意があるのではない

近世好事者。有成佛圖。有從政圖。皆用骰子。權先生採。著作聖圖。其目有十三。曰論圖象。曰論性理。曰論陰陽。曰論造化。曰論氣質。曰論誠敬。曰論資質。曰論功夫淺深。曰論用功作輟。曰論賢智。曰論愚不肖。曰論進德先後。曰摠論。於十三論之中。亦有多少節目。又用骰子。六面書誠敬肆僞四字。但誠再書而肆僞一書。其爲字。皆有分數。擲之以分數多少。爲進修次第。凡人之性。厭學問而樂戲玩。成佛從政之圖之類。亦博奕之流也。徒費曰力。而無所用心。先生之作此圖。初非戲玩設也。欲學者因其所樂而開牖之也。不知者以用骰子近於博奕。故不深究其意。不思之甚矣。夫用骰子。意非在於骰子。以示誠敬肆僞之分耳。誠敬肆僞。乃學者用心之地。因骰子而開示指道於初學。尤爲親切。卽圖而求之。雖愚稚孩童。亦可以知所向方。而進德之序。有條不紊。可與聖賢同歸矣。圖未行而先生卒。今知者蓋鮮。先生之文章。有仲父陽村風。

近ごろ事を好む者たちに「成仏図」があり「従政図」があるが、いずれも骰子を用いる。権採先生が著した「作聖図」は条目が十三あって、図象を論ずる、性理を論ずる、陰陽を論ずる、造化を論ずる、気質を論ずる、誠敬を論ずる、資質を論ずる、功夫の浅深を論ずる、功を用いることの続きと絶えを論ずる、賢と智を論ずる、愚と不肖を論ずる、徳に進む前後を論ずる、そして総論である。十三の論のうちにも、また大小の節目がある。また骰子を用いるが、六つの面に誠・敬・肆・偽の四字を書き、ただ誠は二度書き、肆と偽は一度ずつ書く。その字ごとに分数があって、投げて分数の多少によって進み修める次第とする。およそ人の性は学問を厭い、遊びを楽しむ。「成仏図」「従政図」のようなものも博奕の類であって、ひたすら日と力を費やすだけで、心を用いるところがない。先生がこの図を作ったのは、初めから遊びとして設けたのではなく、学ぶ者がその楽しむものによって開いてやろうとしたのである。知らぬ者は骰子を用いるのが博奕に近いとして、その意を深く究めないので、思わないことが甚だしい。そもそも骰子を用いるのは、意が骰子にあるのではなく、誠・敬・肆・偽の分かれを示そうとするだけである。誠・敬・肆・偽は、すなわち学ぶ者が心を用いる地である。骰子に託して初学の者に開き示し、指し導くのは、いよいよ親切である。図に即して求めれば、たとえ愚かな幼い子であっても、向かうべき方を知ることができ、徳に進む順序が筋道だって乱れないので、聖賢とともに帰することができる。図が行われないまま先生が死んだので、いま知る者はおおよそまれである。先生の文章には、仲父の陽村の風があった。

84『大学衍義輯略』をめぐって分かれた議

李文安公石享嘗因眞德秀大學衍義。删繁就簡。添入麗史之可爲勸戒者。爲一書。名曰大學衍義輯略。請於經筵進講。上嘉納之。公之意以謂。經書時方經進高麗之事。傳聞所及。鑑誡最切。故或删或約或添之。其於觀覽。不無有益。然論者以謂。經以載道。皆聖人之言。德秀之編。皆非苟爲。今盡删去。於義未安。因舊衍義之文。添入麗史。庶幾近之矣。

文安公李石亨がかつて真徳秀の『大学衍義』を取って、繁きを削り簡に就き、高麗の歴史から勧め戒めとなるものを入れて一つの書を作り、『大学衍義輯略』と名づけた。経筵で進んで講ずることを請うと、上は嘉んで受け入れられた。公の意は「経書はいまちょうど進講しており、高麗の事は伝え聞いたところが及ぶものであるから、鑑と戒めが最も切実である。それゆえ削り、約し、入れたのであって、見るにあたって有益でないことはない」というものであった。しかし論ずる者は「経は道を載せたものであるからみな聖人の言であり、徳秀が編んだものもみな苟めに作ったものではないのに、いますべて削り去ったのは、義において落ち着かない。旧い『衍義』の文に従って高麗の歴史を入れたなら、ほぼ近かったであろう」と言った。

85高麗の糊名の法と我が朝の科挙の法

高麗文宗朝。禮部尙書鄭惟產立糊名取士之法。凡赴試諸生。卷首寫姓名本貫四祖糊封。試前數日呈試院。開場前一日午後。主文具題脚於狀。詣紫門實封進呈。上自折封賜覽。各於題上落點。封押而出。主文承奉到試院。翌日黎明折封放題。當直承宣擎奉金印往試院。與主文同坐。於擧子卷封。一一印之。上又遣內侍二員賜酒果。主文亦設筵以慰。間一日當直承宣到試院。開拆放榜。第二場亦如之。第三場至二更放題。餘同儀。間兩日主文各於中選卷子背上。科次貼黃函封。進詣紫門。上坐便殿。承宣二員捧函上前折封。文儒承宣讀過其科次。上下竝依主文之望而放榜焉。其後相襲。大槩如此。至國朝。科擧之法漸備。糊名卷子與高麗同。餘皆不同。其收卷官封彌官査同官枝同官易書等事。皆遵元朝制。兩頭場始於世宗朝。或講經或製述。隨時不同。

高麗の文宗の朝に、礼部尚書の鄭惟産が名を糊で封じて士を取る法を立てた。およそ試験に赴く諸々の生徒は、巻の首に姓名と本貫と四祖を書いて糊で封じ、試験の数日前に試院に出した。場を開く前日の午後に、主文が題の要目を状に具えて紫門に赴き、実封して奉る。上が自ら封を折って御覧になり、それぞれ題の上に点を落とし、封じ押して出される。主文が承り奉じて試院に至り、翌日の黎明に封を折って題を出す。当直の承宣が金印を捧げて試院に行き、主文とともに座して、挙子の巻の封じたところに一つ一つ印を押す。上がまた内侍二員を遣わして酒と果物を賜り、主文もまた席を設けて慰める。一日おいて当直の承宣が試院に至り、封を開いて榜を出す。第二場もこのようにする。第三場は二更に至って題を出し、残りは同じ儀である。二日おいて主文がそれぞれ選に入った巻の背の上に、科の次を黄紙で貼り、函に封じて紫門に赴く。上が便殿に座られ、承宣二員が函を捧げて前で封を折ると、文儒の承宣がその科の次を読み上げる。上下ともに主文の望んだとおりにして榜を出す。その後も相継いで、おおむねこのようであった。我が朝に至って科挙の法が次第に備わった。名を糊で封じた巻は高麗と同じであるが、残りはみな同じでない。収巻官・封彌官・査同官・枝同官・易書などの事は、みな元の制度に遵った。二つの頭場は世宗の朝に始まり、あるいは経を講じ、あるいは製述させ、時に従って同じでなかった。

86文科に日傘、武科に旗 — 武班が悦ばなかった

古者無武科。太宗朝始設焉。故事文武科放榜日。賜牌賜花酒。文武科一等三人。別賜皁蓋。一時榮之。世祖朝文科賜蓋。武科賜旗。遊街之日。癡兒愚婦皆辨其爲文武科也。武班頗不悅。尋罷復舊制。

昔は武科がなかったが、太宗の朝に初めて設けられた。古い事では、文科・武科の榜を出す日に牌と花と酒を賜り、文科・武科の一等三人には別に黒い日傘を賜ったので、一時、栄えとした。世祖の朝に文科には日傘を賜り、武科には旗を賜ったので、街を巡る日に、愚かな子や愚かな女までみな、それが文科か武科かを見分けた。武班はかなり悦ばなかったので、ほどなくやめて旧い制度に戻った。

87三品が文科に赴いたのは権攀から始まった

舊例官至三品者。不赴文科。六品者不赴生員進士試。以堂上官赴試始於權花山攀。宗親極品赴試始於永順君溥。駙馬極品赴試始於世祖朝。事尋罷。

旧い例では、官が三品に至った者は文科に赴かず、六品の者は生員・進士の試に赴かなかった。堂上官として試に赴いたのは花山君権攀から始まり、宗親で極品でありながら試に赴いたのは永順君李溥から始まり、駙馬で極品でありながら試に赴いたのは世祖の朝から始まったが、その事はほどなくやんだ。

88「海東青」を「白高」と読んだ科場

近日場屋。有出賦題曰海東靑。韻府群玉書。有古人詩一句曰。麗句妙於天下白。高才駿似海東靑。有一擧子誤解曰。麗句妙於天下則惟白高。一介才士之駿似海東靑者矣。擧場和之。以白高爲賦。至有成句曰。繫海東之爲靑。同白高之駿才。試官亦取之。多有登第者。聞者縮頸。

近ごろ科場で、賦の題として「海東青」が出されたことがあった。『韻府群玉』という書に古人の詩の一句があって「麗しい句は天下白より妙であり、高い才は海東青のように駿い」とあった。ある挙子がこれを誤って解し「麗しい句が天下に妙なのはただ白高だけであり、一人の才ある士で海東青のように駿い者である」とした。科場はこれに和して「白高」で賦を作り、「海東の青たるに繋ぎ、白高の駿い才と同じ」という句を成した者まであった。試官もこれを取ったので、及第した者が多かった。聞く者は首を縮めた。

89科場の文体がすべて西崑体に変わる

國朝以來。科場文體穩平。自癸酉甲戌以來。一二文士詭奇崛强之文。擢巍科。四五六年之間。文體盡變爲西崑。今國學及科場。擧歐陽公黜劉幾故事。黜其甚者。文體稍稍如舊。然未能盡變也。近於殿策起頭。有一主曰。披沙揀金有大冶之精。執策臨馬有伯樂之明。有一主曰。天開於子。地闢於丑。人生於寅。其浮華不切。

国朝以来、科場の文体は穏やかで平らであったが、癸酉・甲戌の年以来、一、二人の文士が詭しく奇で崛強な文で高い科に抜かれたので、四、五、六年のうちに文体がすべて変わって西崑体となった。いま国学および科場で、欧陽公が劉幾を退けた古い事を挙げて、その甚だしいものを退けたので、文体は少しずつ旧いものに近づいた。しかし、すべてを変えることはできなかった。近ごろ殿試の策の起首に、ある者は「砂を披いて金を揀るのは大いなる冶の精しさがあり、策を執って馬に臨むのは伯楽の明らかさがある」と書き、ある者は「天は子に開き、地は丑に闢け、人は寅に生まれた」と書いたが、その浮いた華やかさは切実でない。

90「茶椀は今日から大きく、酒盃は去年が深かった」

舊例諸科會試。每三場日。禮曹設宴。又別有內賜酒果。諸試官懽飮爲榮。於諸生亦置淡粥淸酒數十盆。以解渴喉。及式例出。而皆罷之。近在試院有一參試官。戲成一句云。座主不飮香醪一盞。何烘其頭。諸生甘吸墨水數升。皆黔其吻。僕亦有句云。茶椀始從今日大。酒杯仍憶去年深。滿座皆笑。

旧い例では、諸々の科の会試のとき、三つの場の日ごとに礼曹が宴を設け、また別に内から酒と果物を賜ったので、諸々の試官は喜んで飲み、栄えとした。諸々の生徒にも薄い粥と清い酒を数十盆置いて、渇いた喉を潤させた。定めの例が出てからはすべてやめられた。近ごろ試院で、ある参試官が戯れて一句を作り「座主は香しい濁り酒一盞も飲めないので、何によってその頭を赤らめようか。諸々の生徒は墨の水を数升も甘く吸うので、みなその唇を黒くしている」と言った。私にも句があって「茶椀は今日から大きくなり、酒盃は去年が深かったことを思い出す」と言ったので、満座はみな笑った。

91二度首席となり、三つの榜に首位だった人たち

河東鄭相國麟趾。魁甲午初榜。又魁丁未覆試。國朝以來一人而已。李延城石亨魁辛酉進士生員及第三榜。三韓以來未之聞也。南司成季英魁生員及第二榜。亦其次也。

河東の鄭相国麟趾は甲午の年の初榜に首席となり、また丁未の年の覆試にも首席となったので、国朝以来ただ一人である。延城の李石亨は辛酉の年の進士・生員と及第の三つの榜すべてに首位であったので、三韓以来聞いたことがない。司成の南季英は生員と及第の二つの榜に首位であったので、これもまたその次である。

92父と子が、兄と弟が相継いで首席となる

父子相繼爲壯元者。權文景公踶。權翼平公攬。兄弟相繼爲壯元者。柳正自濱。柳校理自漢也。

父と子が相継いで首席となったのは、文景公権踶と翼平公権擥であり、兄と弟が相継いで首席となったのは、正の柳自濱と校理の柳自漢である。

93父と子が相継いで相となる

父子相繼入相者。黃翼成公喜。黃成烈公守身。沈議政溫。沈左相澮也。

父と子が相継いで相に入ったのは、翼成公黄喜と成烈公黄守身であり、議政の沈温と左相の沈澮である。

94首席から相に入った人たち

國朝以壯元入相。河東鄭公麟趾。吉昌權公攬。寧城崔公恒。洪南陽應。以前朝壯元入本朝爲相。柳政丞亮。孟政丞思誠也。

国朝で首席から相に入ったのは、河東の鄭麟趾公、吉昌の権擥公、寧城の崔恒公、南陽の洪応である。前朝の首席から本朝に入って相となったのは、柳亮政丞と孟思誠政丞である。

95一つの榜の四人が相継いで相となる

甲寅別試。崔寧城恒爲壯元。曺昌寧錫文爲榜眼。朴延城元亨爲探花。具綾城致寬居丙科。在世祖朝。四人相繼入相。古今所無也。

甲寅の年の別試で、寧城の崔恒が首席となり、昌寧の曹錫文が榜眼となり、延城の朴元亨が探花となり、綾城の具致寛が丙科に入った。世祖の朝に四人が相継いで相に入ったのは、今も昔もなかったことである。

96香を焚いて祈って首席を取る

甲午秋親試。讀卷官河崙等。取擧子三人卷子以進。太宗曰。當依古焚香祝壯元故事。信手抽之。乃權文景公蹈也。

甲午の年の秋の親試で、読巻官の河崙らが挙子三人の巻を選んで奉った。太宗は「まさしく昔、香を焚いて祈って首席を取った古い事に従おう」と言われ、手の進むままに抜かれたところ、すなわち文景公権蹈であった。

97「この榜はすなわち私の門生である」

上喜曰。予悼蹈父近之早逝。今得子爲壯元。聊復自謂。顧語崙等曰。此榜乃予門生。卿等不得爲自家桃李也。崙等終不受禮謁。庚午殿試。讀卷官以權翼平攬擬第四人。榜旣出。

上は喜んで「私は蹈の父である権近が早く世を去ったことを悼んでいたが、いまその子を得て首席とするので、いささか自ら慰めとなる」と言われ、河崙らを顧みて「この榜はすなわち私の門生である。卿らは自分の家の桃や李とすることはできない」と言われた。河崙らはついに礼として謁することを受けなかった。庚午の年の殿試で、読巻官が翼平公権擥を第四の人に擬した。榜がすでに出ると、

98自ら筆を取って第一とされる

文宗曰權攬居幾。左右曰第四。上督令左右進諸卷子。讀至第四曰。此誠壯元也。親札第一。蹈後改名踶。踶父子壯元。皆御賜也。

文宗が「権擥は何番目か」と問われると、左右は「第四でございます」と言った。上は左右を促して諸々の巻を進めさせ、第四に至って読まれると「これこそまことに首席である」と言われ、自ら筆を取って第一とされた。権蹈は後に名を権踶と改めた。権踶父子の首席は、どちらも上が賜ったものである。