巻二卷二
1三つの場での首席はあっても、三つの場での末位はない
權翼平於庚午鄕會。殿三試皆居魁。金郡守秀光亦於鄕會殿三試皆居尾。時人笑曰。三場壯元。古今多有。三場爲尾。天下必無。
翼平公権擥は庚午の年の郷試・会試・殿試の三つの試で、いずれも首位を占めた。郡守の金秀光も郷試・会試・殿試の三つの試で、いずれも末位を占めた。当時の人は笑って「三つの場で首席となるのは今も昔も多くあるが、三つの場で末位となるのは天下に必ずあるまい」と言った。
2和凝が范質に衣と鉢を伝えた古い事
申高靈叔舟中己未科第三丁卯覆試第四。居正亦中甲子科第三丁丑覆試第四。謁高靈。笑謂居正曰。以子之才。何屈第四乎。居正曰。和凝之後有范質。金坵之前。豈無金仁鏡乎。申大笑。以予不才。非敢擬和范。但大言耳。昔和魯公凝中第十三。後知貢擧謂范魯公質曰。君文合居第一。暫屈十三者。用傳老夫衣鉢耳。高麗金貞肅仁鏡領貢擧。擢金坵爲第二。擧魯公傳鉢故事及之。貞肅亦明王朝。第二名也。
高霊の申叔舟は己未の年の科で第三、丁卯の年の覆試で第四であった。居正もまた甲子の年の科で第三、丁丑の年の覆試で第四であった。高霊にお目にかかると、笑って私に「あなたの才で、どうして第四に屈したのか」と言った。私は「和凝の後に范質があったのですから、金坵の前にどうして金仁鏡がなかったでしょうか」と言うと、申は大いに笑った。私は才がないのに敢えて和凝や范質に比べたのではなく、ただ大言を吐いただけである。昔、魯公の和凝が第十三で及第したが、後に貢挙を預かったとき、魯公の范質に「君の文はまさしく第一にあるべきだが、しばらく第十三に屈したのは、この老夫の衣と鉢を伝えるためにすぎない」と言った。高麗の貞肅公金仁鏡が貢挙を預かり、金坵を第二に抜いて、魯公が鉢を伝えた古い事を挙げてこれに触れた。貞肅もまた明宗の朝の第二の人であった。
3恩門と恩殿 — 君が自ら取った門生
世宗末年。尤重儒士。親策得人。最後曰。登俊試得十三人。臣居正獲居第三。世祖召臣等于內殿。若曰。古有座主門生之號。今是科予親策之。予當爲恩門。宜號是殿曰恩殿。臣等俯伏拜謝。越數日。兩殿坐思政殿。臣等獻爵。一如門生座主之例。寵恩優渥。吾東方前古所無之盛事也。
世宗は末年にいよいよ儒士を重んじられ、自ら策問して人を得られた。最も後には登俊試といって十三人を得たが、臣居正は第三を占めた。世祖が臣らを内殿に召され、「昔から座主・門生の呼び名がある。今回の科は私が自ら策問したのであるから、私がまさしく恩門となろう。この殿を恩殿と呼ぶがよい」と仰せられた。臣らはひれ伏して拝し謝した。数日を越えて、両殿が思政殿に座られ、臣らが盃を献じたのは、ひとえに門生が座主にまみえる例と同じであった。寵と恩が厚く、我が東方に昔からなかった盛んな事である。
4中国の使臣たちの器を量る — 高閏の軽薄さ
中朝使臣前後來者。皆文章節義之士。自陸顒端木孝思祝孟獻以下。皆可數。自居正所及見。世宗末年倪侍講謙司馬給事恂偕來。倪通而和。馬簡而正。才名馬不及倪。操行倪不及馬。陳吏部純李司正寬繼來。陳之節行。仰若山斗。李則風儀雋朗。處事在陳範圍之內。不露圭角。亦可人也。後有陳侍講鑑高太常閏。陳之文章亞於倪。而操行則同。高之文章不及於陳。而操行則愈下。初陳高二使渡鴨綠江。國家遣宣慰使遺節衣。不受。高作送衣不受詩。語甚倨傲。其作成均館記。有天理未嘗泯滅之語。詩亦有豺獺報本之辭。及跋陽村應制詩則曰。到朝鮮恨無物足以駭人觀聽。其傲視東方甚矣。題太平館樓詩自批曰。極盡豪華之氣。一以淸高爲主。成均館唱酬詩板尾自筆大書曰。詩不成者四人。後當足之。蓋譏我國宰相有不成詩者也。嘗書眞草數帖曰。義之之字。千金難得。學者宜寶藏之。其輕薄至此。時居正執事於館下。每見高作。勃然變色。或手裂擲地。同列皆笑。一日高倩承文院博士郭義卿書行錄。僕竊見之。首書思親詞一首。次書送衣不受詩。次書却妓詩。次書謁宣聖詩。記其餘覽物興懷之作。皆諱不書。僕曰。此虜將還中國。以此爲釣名之資。人之無狀至此哉。一日殿下至鞍馬。僕語同列曰。鞍馬非橐中之物。此輩必却之。如却之。高必作詩。卿等第觀之。俄而高作却鞍馬詩曰。漢文旣是輕千里。祖逖無心著一鞭。同列大笑。僕大怒曰。豈朝鮮寡弱。無一人分別是非。敢詐如是。將行。殿下贐好劍。閏作詩謝。皇華集旣成。閏初見喜。例讀至謝劍詩。憤然失色。其飾詐失使臣體如是。陳給事嘉猷寬平正大。觀其氣象。知其爲大人君子。文章亦平淡。張給事寧。其文章可伯仲於陳。而言行頗有强作處。然亦君子人也。金舍人湜工於七言四韻。筆法畫格亦高妙。但節行掃地。張舍人珹有溫雅氣象。而無奇節。姜行人浩有寬大之量。而少文雅。祈戶部順篤實有節行。文詞亦醇正。其陳張兩給事之儔乎。張行人瑾文章操行不及祈。而在其範圍之內耳。
中国の朝廷の使臣で前後に来た者は、みな文章と節義の士であった。陸顒・端木孝思・祝孟献以下、みな数えるに足る。私が見たところから言えば、世宗の末年に侍講の倪謙と給事の司馬恂がともに来た。倪は通じて和やかであり、司馬は簡にして正しかった。才と名は司馬が倪に及ばず、操と行いは倪が司馬に及ばなかった。吏部の陳純と司正の李寛が相継いで来た。陳の節と行いは仰ぐこと山斗のようであり、李は風采が秀でて明るく、事の処し方が陳の範囲の内にあって、角を露わにしなかったので、これもまた好ましい人であった。後に侍講の陳鑑と太常の高閏が来た。陳の文章は倪に次ぎ、操と行いは同じであった。高の文章は陳に及ばず、操と行いはさらに下であった。初め陳・高の二使が鴨緑江を渡るとき、国から宣慰使を遣わして季節の衣を贈ったが、受けなかった。高は「衣を送られたが受けなかった」という詩を作ったが、言葉が甚だ倨傲であった。彼が作った「成均館記」には「天の理はいまだかつて泯び滅びたことがない」という言葉があり、詩にも「豺や獺も本に報いる」という言葉があった。陽村の応制詩に跋を書いては「朝鮮に至って、人の見聞きを驚かすに足る物のないのが恨めしい」と書いたので、東方を傲り見ることが甚だしかった。太平館の楼に詩を書いて自ら批して「豪華の気を極め尽くしつつ、ひとえに清高を主とした」と言った。成均館で唱和した詩板の末には、自ら大書して「詩を成せなかった者が四人ある。後にまさしく補うべきである」と書いたので、おおよそ我が国の宰相のうちに詩を成せない者があることを嘲ったのである。かつて楷書と草書を数帖書いて与え「王羲之の字は千金でも得がたい。学ぶ者はまさしく宝として蔵するがよい」と言ったので、その軽薄さはここに至った。そのとき私は館の下で事を執っていたが、高の作ったものを見るたびに勃然として顔色を変え、あるいは手で裂いて地に投げたので、同列はみな笑った。ある日、高が承文院博士の郭義卿に行録を書かせたので、私が密かに見たところ、首に「思親詞」一首を書き、次に「衣を送られたが受けなかった」詩を、次に「妓を却けた」詩を、次に「宣聖にまみえた」詩を書き、その他、物を見て感懐を起こした作はすべて隠して書いていなかった。私は「この虜はやがて中国に帰り、これで名を釣る資としようとするのだ。人の形なきことがここに至るのか」と言った。ある日、殿下が鞍を置いた馬を遣わされた。私は同列に「鞍を置いた馬は袋に入れる物ではないから、この輩は必ずこれを却けるであろう。却ければ高は必ず詩を作るから、卿らはまあ見ていてくれ」と言った。やがて高は「鞍馬を却けた」詩を作って「漢の文帝はもとより千里の馬を軽んじ、祖逖は一鞭を当てる心もなかった」と言ったので、同列は大いに笑った。私は大いに怒って「どうして朝鮮が寡く弱いからといって、一人も是非を分別する者がないと思い、敢えてこのように偽るのか」と言った。立とうとするとき、殿下が旅の贈りに良い剣を賜ったので、閏は詩を作って謝した。『皇華集』が成ると、閏は初め見て喜んだが、順に読んで「剣を謝す」詩に至ると、憤然として顔色を失った。その偽りを飾って使臣の体を失うことがこのようであった。給事の陳嘉猷は寛く平らかで正しく大きく、その気象を見れば大人君子であることが分かり、文章もまた平淡であった。給事の張寧は、その文章は陳と伯仲するに足るが、言葉と行いにかなり無理に作ったところがあった。しかしこれもまた君子らしい人であった。舎人の金湜は七言四韻に巧みで、筆法と画の格も高く妙であったが、ただ節と行いが地を掃いたようであった。舎人の張珹は温かく雅やかな気象があったが、奇なる節がなかった。行人の姜浩は寛く大きな度量があったが、文雅が少なかった。戸部の祈順は篤実で節と行いがあり、文も醇正であったので、陳・張の二給事の連れではなかろうか。行人の張瑾は文章と操と行いが祈順に及ばないが、その範囲の内にあったにすぎない。
5『遼海編』 — 盧雍と呉節が我が賢者を抑えすぎた
近得見遼海編。乃翰林侍講倪謙奉使我邦所作。附以我國諸賢酬酢贈別之作。如僕之不才。姓名亦在其中。布政司參議盧雍序之曰。初侍講到朝鮮。其國擇文學之臣。以爲館伴。公假顏色俯就之。其人操筆。面肆矜眩者。公乃發舒。其奇思如湧泉。信筆立就。殊不經意。而辭旨超逸。睥睨驅馭。旁若無人。擧國始皆駭愕歎仰無已。今考其詩。館伴則鄭文成公。麟趾也。面肆矜眩。豈公所爲耶。翰林侍講吳節跋之曰。曁公至國。其國廣擇素能詩文者。以司館伴。先生才思敏捷。若水湧山出。肆筆揮洒。頃刻而就。國人或聚首稱歎。斂縮不敢出所長。惟鄭麟趾申叔舟成三問三人。稍知警策。間能屬和。先生亦屢加奬進也。惜乎盧吳二子之尊崇侍講。而屈抑我東賢者太甚。今讀侍講遼海全編。只是平平之詩文耳。未見有洞盪發越奇偉橫絶之辭。如侍講雪霽登樓賦雖佳。而申文忠公叔舟次韻賦。文從字順。翩翩有楚聲。亦可以伯仲侍講矣。何可易之哉。盧吳二子之言。實非公論也。
近ごろ『遼海編』を見ることができたが、すなわち翰林侍講の倪謙が我が国に使命を奉じて来て作ったもので、我が国の諸々の賢者が酬い交わし別れに贈った作を付けたものである。私のような才のない者の姓名もその中にあった。布政司参議の盧雍が序を書いて「初め侍講が朝鮮に至ると、その国は文学の臣を選んで館伴とした。公が顔色を貸して身を屈めてこれに接したところ、その人が筆を取り、面で放恣に誇り眩かしたので、公はそこで押し広げ、その奇なる思いが湧く泉のようであって、筆を信じて即座に仕上げた。さほど意を用いなかったのに、辞の旨が超え抜けており、睥睨して駆り馭して、傍らに人がないかのようであった。国を挙げて初めてみな驚き愕き、感嘆し仰ぐことをやめなかった」と書いた。いまその詩を考えると、館伴はすなわち文成公鄭麟趾である。「面で放恣に誇り眩かす」ことが、どうして公のするところであろうか。翰林侍講の呉節が跋を書いて「公がその国に至ると、その国は普段から詩文に能ある者を広く選んで館伴を司らせた。先生の才と思いは敏捷で、水が湧き山が出るようであって、筆を放って揮い洒ぎ、わずかの間に仕上げたので、国の人は頭を集めて称え嘆き、縮まって敢えてその長じたところを出せなかった。ただ鄭麟趾・申叔舟・成三問の三人だけが少しは警策を知って、折々は和すことができたので、先生もたびたび励まし進めた」と書いた。惜しいことである、盧と呉の二子が侍講を尊び崇めながら、我が東方の賢者を抑えつけることが甚だしすぎる。いま侍講の『遼海』全編を読んでみると、ただ平々の詩文であるだけで、洞け盪いて発し越え、奇で偉く横に絶する辞は見られない。侍講の「雪が霽れて楼に登る」賦はたしかに佳いが、文忠公申叔舟が次韻した賦は、文が従い字が順って、翩翩として楚の声があるので、これもまた侍講と伯仲するに足る。どうして軽んじることができようか。盧と呉の二子の言葉は、まことに公の議論ではない。
6周尺を定める — 我が国の尺は中国と同じ
昔人於法度之器。必用周尺而校定。尺式自古爲難。子朱子取司馬文正公家石刻本尺法。載之家禮。然家禮板本。行於世者不一。而周尺長短皆不同。亦難爲據。世宗時。許文敬公稠求得陳友諒子陳理家廟神主式。假作尺本。又於議郞姜天霔家。得紙本周尺。乃其父判三司事姜碩第有元院使金剛所藏象牙尺所傳也。面書云神主尺定式。以今官尺。去二寸五分。用七寸五分。卽與家禮附註潘時擧所云周尺。當今省尺七寸五分。弱之。語同二本。相較不差。於是始定尺制。凡士大夫家廟神主。與天文漏器道路里數射場步法。據此以爲定式。後司譯院事趙忠佐赴京。買得新造神主來。復以此尺較之。寸分相合。今我國所用周尺。與中國同。無疑矣。
昔の人は法度の器には必ず周尺を用いて較べ定めた。尺の式は昔から難しかった。朱子が司馬温公の家の石刻本の尺法を取って『家礼』に載せた。しかし『家礼』の板本で世に行われているものは一つでなく、周尺の長短もみな同じでないので、これもまた拠りどころとしがたい。世宗の時、文敬公許稠が陳友諒の子である陳理の家廟の神主の式を求め得て、尺の本を仮に作った。また議郎の姜天霔の家で、紙に写した周尺を得たが、すなわちその父の判三司事姜碩の家に、元の院使金剛が蔵していた象牙の尺が伝わったものであった。表に「神主尺定式」と書き「今の官尺で二寸五分を去り、七寸五分を用いる」とあったが、すなわち『家礼』の附註で潘時挙が言った「周尺は今の省尺で七寸五分に少し足りない」という言葉と同じであった。二つの本を較べると違わなかった。そこで初めて尺の制を定めた。およそ士大夫の家廟の神主と、天文の漏器、道路の里数、射場の歩法を、すべてこれに拠って定式とした。後に司訳院事の趙忠佐が京に赴き、新しく作った神主を買って来たので、改めてこの尺で較べたところ、寸と分が互いに合った。いま我が国で用いる周尺が中国と同じであることは、疑いがない。
7高麗が求めた地図を陳秀公が焼いてしまう
夢溪筆談。煕寧中高麗入貢。所經州縣。悉要地圖。所至皆造送。山川道路。形勢險易。無不備載。至楊州。牒州取地圖。是時丞相陳秀公守楊。紿使者欲盡見兩浙所供圖。倣其規模供造。及圖至。都聚而焚之。具以事聞。按高麗爲遼所阻。不通於宋已久。神宗煕寧四年。高麗文宗二十五年辛亥。遣民部侍郞金悌。由登州入貢于宋。恐此時事也。
『夢渓筆談』に「熙寧年間に高麗が入貢し、通る州県ごとにみな地図を要求したので、至る所でみな作って送った。山川と道路、地勢の険しさ易しさが、備わって載せられないものはなかった。楊州に至って牒を送り、州の地図を求めた。このとき丞相の陳秀公が楊州を守っていたが、使者を騙して、両浙から供えられた図をすべて見て、その規模に倣って作って供えようと言った。図が至ると、すべて集めて焼き、そのことを備えて奏聞した」とある。考えてみると、高麗は遼に阻まれて宋と通じないことがすでに久しかった。神宗の熙寧四年、すなわち高麗の文宗二十五年の辛亥に、民部侍郎の金悌を遣わして登州を経て宋に入貢したので、おそらくこのときの事であろう。
8宮門を開ける時が変わる
高麗時。當直丞宣至五更詣紫門。中官出則丞宣問上體仍請鑰。紫城諸門及羅城諸門盡開。本朝開國以後。五更三點罷漏。則宮城門及外城門盡開。自睿宗朝。平明時始開宮門。
高麗の時は、当直の承宣が五更に紫門に赴き、中官が出てくると承宣が上の玉体を尋ね、ついで鍵を請うて、紫城の諸門と羅城の諸門をすべて開けた。本朝の開国以後は、五更三点に罷漏を打つと、宮城の門と外城の門をすべて開けた。睿宗の朝からは、夜が明けるときに初めて宮門を開けた。
9台諫は百官がみな出てから出る
舊例。几大小朝會。文武二班分東西入。監察各一人立班後。糾察朝儀不如法者。本朝東西班每列各有臺官。東西相向立。蓋依中朝制也。且舊制臺諫官入班。吏各一人具袍笏。隨出隨入。及退班。臺諫於勤政門外永濟橋南。以次北向西上立。待百官皆出。乃出。蓋不欲混於庶僚也。
旧い例では、およそ大小の朝会に文・武の二班が東と西に分かれて入り、監察が各一人、班の後ろに立って、朝の儀が法どおりでないものを糾察した。本朝では東班と西班の列ごとにそれぞれ台官があって、東と西に向かい合って立つが、おおよそ中国の朝廷の制に依ったものである。また旧い制度では、台諫の官が班に入るとき、吏が各一人、袍と笏を具えて、従って出、従って入った。班から退くとき、台諫は勤政門の外の永済橋の南に、順に北を向いて西を上にして立ち、百官がみな出るのを待ってから出た。おおよそ諸々の僚属と混じることを欲しなかったのである。
10箚子の法 — 良い法にも弊がないことはない
唐宋奏事。皆用箚子。居正之長憲府也。始建議立箚子之法。蓋懼言辭出納之際有遺失。且防後世近侍中官用事之漸。法初立。人皆以爲萬世可行之良法也。近來爲臺諫者。不識大體。小得過失。則深文羅織。極口詆壞。箚子之設。適足以害人而已。天下未有法立而無弊者也。
唐と宋では事を奏するときはみな箚子を用いた。居正が憲府の長であったとき、初めて議を立てて箚子の法を定めた。おおよそ言葉が出入りする際に遺し失うことがあることを恐れ、また後世に近侍の中官が事を執る兆しを防ごうとしたのである。法が初めて立ったとき、人々はみな万世に行うに足る良い法だと言った。近ごろ台諫となる者が大体を知らず、小さな過失があれば文を深く織り上げ、口を尽くしてそしり壊すので、箚子を設けたことが、ちょうど人を害するに足るだけのものとなっている。天下に法が立って弊のないものはない。
11「我が郎舎には人があると言えよう」
散騎以下舊屬門下省。鄭公煕啓爲知門下府事。嘗與人賭博於都堂。諸省郞不行迎候禮。鄭公不坐而還。時趙文忠公浚爲首相。將赴衙。吏以不坐告。文忠笑曰。吾郞舍可謂有人矣。
散騎以下は昔は門下省に属していた。鄭熙啓公が知門下府事となり、かつて都堂で人と博打をしたので、諸省の郎官が迎え候う礼を行わなかった。鄭公は座らずに帰った。そのとき文忠公趙浚が首相であったが、役所に出ようとすると、吏が座らなかったことを告げた。文忠は笑って「我が郎舎には人があると言えよう」と言った。
12「大人」と呼ばれるのが嫌で斯文の会を避ける
斯文古風。於文酒會。三館士執大鍾。滿酌呼先生。自高官。下逮卑職。皆然。其與會者。雖達官貴人。若不於紅紙上題名。則不呼曰先生。而曰大人。其風始於高麗。今或有不題名紅紙者。則故避斯文之會。蓋惡聞大人之聲耳。
斯文の古い風では、文と酒の会で三館の士が大きな盃を取り、満たして注いで「先生」と呼んだが、高い官から低い職に至るまでみなそうであった。その会に加わった者は、たとえ高い官の貴い人であっても、もし紅紙に名を挙げていなければ「先生」と呼ばず「大人」と言った。その風は高麗から始まった。いまも、紅紙に名を挙げられなかった者があれば、わざと斯文の会を避けるが、おおよそ「大人」という声を聞くのを嫌うだけである。
13芸文応教は高麗にもあった
開國以來。擇文士將典文衡者。爲藝文應敎。以他官兼之。俾專文翰。自設集賢殿以後。以殿一員帶之。及罷集賢殿設藝文館。應敎一員亦實職本館員。隨例遷轉。不擇人授之。文翰之責不專。業亦不精。嘗聞驪興府院君閔公霽仕高麗。有寄銓曹詩曰。藝文應敎非吾分。三字華銜也不妨。則藝文應敎非始於國初。自高麗有之矣。三字則知製敎也。
開国以来、文士のうちからやがて文衡を預かる者を選んで芸文応教とし、他の官で兼ねさせて、文翰をもっぱら預からせた。集賢殿を設けてからは、集賢殿の一員がこれを帯びた。集賢殿を廃して芸文館を設けるに至ると、応教一員も本館の実職の官員となって、例に従って遷り転じ、人を選んで授けなくなったので、文翰の責がもっぱらにならず、学業もまた精しくなくなった。かつて聞いたところでは、驪興府院君の閔霽公が高麗で仕えていたとき、銓曹に寄せた詩があって「芸文応教は我が分ではないが、三字の華やかな肩書もまた差し支えない」とあったという。とすれば芸文応教は国初に始まったものではなく、高麗からあったのである。三字とは知製教である。
14諡が法度を失った
謚法古人所重。今但委之太常。新進後學不諳事體。加謚無法。如洪順孫。與於靖難功臣之後功最下。卒官僉知中樞秩又卑。乃以勳特加謚。太常謚襄武。蓋取因事有功爲襄。克定禍亂爲武。嗚呼其不知事體之甚也。克定禍亂之武。乃人君之武。其可施之於人臣乎。況旣曰因事有功。則其功可知矣。又加克定禍亂何耶。又如崔寧城恒。太常謚曰文靖。蓋取道德博聞爲文。恭已鮮言爲靖。旣曰道德博聞。則恭已鮮言。道德中之末事耳。曰文曰靖。不亦倒乎。如李中樞崇之。太常謚曰麥厲。蓋謚法無麥字。必夸字之誤耳。此類甚多。不可勝記。
諡の法は昔の人が重んじたものであるのに、いまはただ太常に委ねているので、新しく出てきた後の学ぶ者が事の体を知らず、諡を加えるのに法度がない。洪順孫のような者は、靖難功臣の後に加わって功が最も低く、死んだときの官は僉知中枢で品も低かったのに、勲功であるとして特別に諡を加え、太常が「襄武」とした。おおよそ「事によって功があるのを襄といい、禍乱を克ち定めるのを武という」から取ったのである。ああ、事の体を知らないことが甚だしい。禍乱を克ち定める武は、すなわち君主の武であるのに、それを臣に用いることができようか。まして、すでに「事によって功がある」と言ったのであれば、その功は知れたものであるのに、さらに「禍乱を克ち定めた」を加えたのはなぜか。また寧城の崔恒のような方に、太常は「文靖」と諡した。おおよそ「道徳があって広く聞くのを文といい、身を恭しくして言葉が少ないのを靖という」から取ったのである。すでに「道徳があって広く聞いた」と言ったのであれば、身を恭しくして言葉が少ないことは、道徳のうちの末の事にすぎない。文といい靖というのは、やはり逆ではないか。中枢の李崇之のような方に、太常は「麥厲」と諡したが、おおよそ諡法に麥の字はないので、必ず夸の字の誤りであろう。この類は甚だ多く、すべてを記すことはできない。
15「玄い花が白い羽に落ちた」 — 史書にない安市城
李文靖公穡貞觀吟曰。謂是囊中一物耳。那知玄花落白羽。玄花言其目。白羽言其箭。世傳。唐宗伐高麗至安巿城。箭中其目而還。考唐書通鑑。皆不載。但柳公權小說。太宗初見延壽惠眞。率渤海軍。布陣四十里。有懼色。亦未有言其中傷者。居正意以謂。當時雖有此事。史官必爲中國諱。毋怪乎其不書也。但金富軾三國,史亦不載。未知牧老何從得此。
文靖公李穡の「貞観吟」に「袋の中の一物にすぎないと思っていたのに、玄い花が白い羽に落ちることをどうして知っていたろうか」とある。玄い花はその目を言い、白い羽はその矢を言う。世に「唐の太宗が高句麗を討って安市城に至り、矢がその目に中って帰った」と伝えられている。『唐書』と『資治通鑑』を考えると、どちらにも載っていない。ただ柳公権の小説に「太宗が初め、延寿と恵真が渤海の兵を率いて四十里に陣を布いたのを見て、畏れる色があった」とあるだけで、彼が中って傷ついたという言葉はない。居正はこう考える。そのときたしかにこの事があったとしても、史官は必ず中国のためにこれを諱んだであろうから、書かれていないのは怪しむに足りない。ただ金富軾の『三国史記』にも載っていないので、牧隠の老人がどこからこれを得たのかは分からない。
16清州の洪水 — 両先生を放させた天の変
高麗恭讓朝。尹彝李初之變。牧隱李文靖公陽村權文忠公。皆逮繫淸州獄。鞫問甚峻。事匹測。一日黎明天乃雨。未及日中。山崩水湧。壞城門漲入。屋舍皆沒。問事官漂溺。攀鴨脚樹僅免。事聞釋不問。文靖文忠由是得全。初玉川君劉敞聞兩公被誣逮獄。語人曰。兩先生乃天挺生之人。必有天變。其言卒驗。有人題詩曰。流言不幸及周公。忽有嘉禾起大風。聞道西原洪水漲。是知天道古今同。
高麗の恭譲王の朝に、尹彝・李初の変で、牧隠の文靖公李穡と陽村の文忠公権近がどちらも清州の獄に捕らえられ繋がれた。鞠問が甚だ峻しく、事は測りがたかった。ある日、黎明に天が雨を降らせたが、日中に及ばないうちに山が崩れ水が湧き、城門を壊して溢れ入り、家々がみな没した。事を問っていた官が流され溺れ、銀杏の木に取りついてやっと免れた。事が聞こえて放されて問われなかったので、文靖と文忠はこれによって全うすることができた。初め、玉川君の劉敞が、両公が誣られて獄に繋がれたと聞き、人々に「両先生は天が抜きんでて生んだ人であるから、必ず天の変があるだろう」と言ったが、その言葉はついに験れた。ある人が詩を題して「流れる言葉が不幸にも周公に及ぶと、たちまち嘉い禾に大風が起こった。聞くところ西原に洪水が溢れたという、これによって天の道が今も昔も同じであることが分かる」と言った。
17李穡が昌を立てようとした事をめぐって
麗季戊辰。僞主辛禑遜于江華。朝議欲立王氏。侍中曹敏修德李仁任薦拔之恩。謀立仁任族孫李琳女謹妃之子昌。恐諸將違己。以李穡名儒。欲藉其言。密問於穡。穡亦曰。當立前王之子。遂定議立昌。後臺諫論穡罪。不立王氏而立昌。是万世不忠罪惡之魁。後有史臣趙璞。論曰。晉元帝。顯著小吏牛金所生。王導輩實贊襄之。元帝雖假名。非帝不能鎭服人心。成中興之業。穡立昌之議。蓋亦如是。不可以是而全罪穡也。璞之言未知是否。然前史取之。而今删去。後之尙論之士。不可不知。
高麗の末、戊辰の年に、偽りの主である辛禑が江華に退いた。朝廷の議は王氏を立てようとしたが、侍中の曹敏修が、李仁任が抜いてくれた恩を徳とし、李仁任の族の孫である李琳の娘、謹妃の子の昌を立てようとした。諸将が自分に逆らうことを恐れ、李穡が名高い儒者であるので、その言葉を借りようとして、密かに李穡に問うた。李穡も「まさしく前の王の子を立てるべきである」と言ったので、ついに議を定めて昌を立てた。後に台諫が李穡の罪を論じて「王氏を立てずに昌を立てたのであるから、これは万世の不忠の罪悪の首である」と言った。後に史臣の趙璞が論じて「晋の元帝は、顕らかに小吏の牛金の生んだ子であるのに、王導の輩が実にこれを賛け成した。元帝はたしかに名を借りたのであるが、元帝でなければ人心を鎮め服させ、中興の業を成すことはできなかった。李穡が昌を立てようとした議も、おおよそこれと同じであるから、これによって李穡をすべて罪とすることはできない」と言った。趙璞の言葉が是か非かは分からない。しかし前の史書はこれを取ったのに、いま削り去られたのであるから、後に昔を論ずる士が知らないわけにはいかない。
18琉球の使いが見た三つの壮んな事
近日琉球使之還也。語人曰。我到朝鮮。見三壯事。曰慶會樓。石柱龍文纏繞。殊特奇絶。一壯也。曰押班宰相。長髥雪白。風彩凝俊。有老成之德。二壯也。蓋指蓬原鄭領相昌孫也。曰對客官。深杯大爵。酬酢無算。可飮一石。三壯也。蓋指成均司成李叔文也。
近ごろ琉球の使いが帰るとき、人々に「私は朝鮮に至って三つの壮んな事を見た」と言った。一つは「慶会楼の石の柱に竜の紋が巻きつき絡んでいて、際立って奇で秀でている。これが第一の壮んな事である」と言った。一つは「班を率いる宰相が、長い髭が雪のように白く、風采が凝って俊く、老いて成った徳がある。これが第二の壮んな事である」と言ったが、おおよそ蓬原府院君の領議政鄭昌孫を指したのである。一つは「客を迎える官が、深い盃と大きな爵で酬い交わすことを数知らずして、一石は飲めそうである。これが第三の壮んな事である」と言ったが、おおよそ成均司成の李叔文を指したのである。
19召使いを使って夫を獄から出した許氏
朝官姓吳者。坐贓當死。讞部三覆啓已判。明日當刑。妻許氏出祕計。命一奴服婦人服。以帽裹頭。詣獄吏。告罪人吳某之妻許某。聞良人明當就戮。願一相訣。獄吏哀而許之。就一隙地。哭泣爲夫婦永訣之狀。奴預携刀鉅。隨手截去鎖杻。轉加身上。尋以室人服加主人。擠出獄門日。許氏告別辭去。別置駿馬於外。旋卽騎走。有頃。獄卒入視。非罪人乃奴也。追捕不及。世宗義其奴。免之。
呉という姓の朝官が、贓罪によって死ぬことになった。讞を預かる部が三たび覆して奏し、判決がすでに下って、翌日に刑を受けるところであった。妻の許氏が秘めた計を出し、一人の召使いに女の衣を着せ、帽で頭を包ませて獄吏のところに赴かせ「罪人の呉某の妻、許某でございます。夫が明日死ぬと聞きまして、一度だけ別れを交わしたいと存じます」と告げさせた。獄吏は哀れんでこれを許し、空いた所に赴かせたので、哭き泣いて夫婦が永く別れる姿を作った。召使いはあらかじめ刀と鋸を携えて行き、手の進むままに錠と枷を切って自分の身に移してはめ、ついで妻の衣を主人に着せて獄門の外に押し出し「許氏が別れを告げて参ります」と言った。外に別に駿馬を置いておいたので、すぐに乗って走り去った。しばらくして獄卒が入って見ると、罪人ではなく召使いであった。追って捕らえようとしたが及ばなかった。世宗はその召使いを義として、これを免された。
20「朝に道を聞けば」 — 申氏と崔氏の夫人
有士族申氏女新寡。勳臣姓趙者。年踰七十求婚。申首鼠不決。趙有侄子爲駙馬新貴者。遣人解申曰。古人云朝聞道夕死可也。今君朝爲宰相妻。暮爲寡婦。亦不害爲令名。申稍識文理然之。及婚夕。趙忽發淋疾。如廁者再。重以喘疾。申於窓隙。覘其衰老遁去。明日訴于臺。臺官劾趙以勳相。强娶士族。失朝廷體。趙曰。申初聞朝聞道夕死之語許之。非强娶也。臺官劾申。申曰。駙馬儘有是語。妾初聞之。謂婦人守節不二。寧有意以大聖人之言爲奪節乎。臺官直申而非趙。趙落職。明年申適一老樞。物議紛然。予嘗見高麗仁宗朝平章事崔瓘。年八十餘。閱少時卜算。嘆曰。平生所歷。一如前定。但晩生貴子。是虛語耳。未幾隣有一達官家將納壻。壻暴死不果。瓘遣女奴求婚。父母不能決。一日閨中從容語女曰。以家閥女。嫁與微官而偕老。寧一日作宰相妻乎。女率爾曰可矣。遂婚有娠。越七月而瓘卒。生子曰洪胤。終身守節。洪胤擢明王癸巳乙科第一。官至平章事。一主司馬。四開禮闈。母夫人康强享福。如申氏者。崔夫人之罪人也。
士族の申氏の娘が新たに寡となったが、趙という姓の勲臣が、年が七十を越えて婚を求めた。申氏が首鼠して決しないでいると、趙に駙馬となって新たに貴くなった甥があって、人を遣わして申氏を説いて「古人は『朝に道を聞けば夕に死すとも可なり』と言いました。いまあなたが朝に宰相の妻となり、夕に寡婦となっても、やはり良い名となるのに差し支えありません」と言わせた。申氏は少しは文の理を解したので、それもそうだと思った。婚姻の夕になると、趙はふと淋の病が起こって厠に二度行き、そこに喘の病まで重なった。申氏は窓の隙からその衰え老いたさまを覗いて逃げ去った。翌日、台に訴え出ると、台官は趙を弾劾して「勲臣の宰相として士族を強いて娶り、朝廷の体を失った」と言った。趙は「申氏が初め『朝に道を聞けば夕に死すとも可なり』という言葉を聞いて許したのであって、強いて娶ったのではありません」と言った。台官が申氏を弾劾すると、申氏は「駙馬がまことにそのような言葉を言い、妾が初めてそれを聞きました。婦人は節を守って二つに仕えないものでありますのに、どうして大いなる聖人の言葉によって節を奪う意がございましたでしょうか」と言った。台官は申氏を是とし趙を非として、趙は職を失った。翌年、申氏が一人の老いた中枢に嫁いだので、世の議はやかましかった。私はかつて、高麗の仁宗の朝の平章事崔瓘が、年八十余りで若いときの卜占を取り出して見て嘆き「生涯経てきたものがひとえに前に定まったとおりであるのに、ただ晩年に貴い子を生むということだけが虚しい言葉である」と言ったのを見た。ほどなく隣に一人の達官の家が婿を迎えようとしたが、婿が急に死んで果たせなかった。崔瓘が女の召使いを遣わして婚を求めたので、父母は決することができなかった。ある日、閨の中で静かに娘に「家柄のある家の娘として、低い官の者に嫁いでともに老いるのと、一日でも宰相の妻となるのと、どちらがよいか」と言うと、娘はさらりと「よろしゅうございます」と言った。ついに婚して身ごもったが、七月を越えて崔瓘は死んだ。子を生んだのが崔洪胤である。身を終えるまで節を守った。洪胤は明宗の癸巳の年の乙科第一に抜かれ、官は平章事に至り、一度は司馬試を主宰し、四度は礼闈を開き、母の夫人は健やかに福を享けた。申氏のような者は、崔夫人の罪人である。
21「卿はくれぐれも無理に事を知ったふりをするな」
近有一奴容貌酷類女。奴自髫齕雌服。年踰四十。出入士大夫家門。事頗露。臺諫請論如法。世祖以事涉曖眛貸之。顧謂臣居正曰。於卿意如何。居正對曰。臣少閱江湖記問。江淮間一比丘尼善針繡。有良家。遣女兒師事之。忽覺有娠。爺孃詰責之。女曰與比丘日相寢處。如有人道之感。乃此至於斯。良家訴縣官覈之。審視比丘。則陰陽二道俱闕。縣官將貸之。有老嫠曰。法用鹽水。浸陽根之上。以黃狗舐之。陽道逆出。縣官試之果然。縣官判曰。在天之道。曰陰與陽。在人之道。曰男與女。今此比丘非男非女。亂人道之正。乃誅之。江淮人皆快。蓋天下事理無窮如是。世祖笑曰。卿愼勿强曉事。
近ごろ一人の召使いがあって、顔の姿が酷く女に似ていた。召使いは幼いころから女の衣を着て、年が四十を越えるまで士大夫の家の門に出入りしていたが、事がかなり露わになった。台諫が法どおりに論ずることを請うたが、世祖は事が曖昧に触れるとしてこれを赦された。臣居正を顧みて「卿の考えではどうか」と問われた。居正は答えて「臣が若いとき江湖の記聞を読みましたが、江淮の間に一人の比丘尼があって、針と繡に巧みでありました。良家が娘を遣わして師として仕えさせましたが、ふと身ごもったことに気づきました。父母が詰め責めると、娘は『比丘尼と日々ともに寝起きしておりましたが、人の道を感じたようなことがあって、これに至りました』と言いました。良家が県官に訴え出て調べさせたところ、比丘尼を審らかに見ると、陰と陽の二つの道がどちらも欠けておりました。県官が放そうとすると、一人の老いた寡婦が『法に塩水を用いるものがございます。陽根のところを浸して黄色い犬に舐めさせれば、陽道が逆に出てまいります』と言いました。県官が試すと果たしてそのとおりでした。県官は判じて『天にある道は陰と陽といい、人にある道は男と女という。いまこの比丘は男でもなく女でもなく、人の道の正しきを乱した』と言い、ついにこれを誅したので、江淮の人はみな快としました。おおよそ天下の事理は、このように限りがないのでございます」と申し上げた。世祖は笑って「卿はくれぐれも無理に事を知ったふりをするな」と言われた。
22慶州の老婆が得た珠
慶州府有一村媼獨居。夜忽大震俄霽。庭中有一物。爛然光彩炯目。就視之。明珠團圓如鷄子大。置之房中。每夜光如燈燭。纖毫可鑑。媼知非常物。隣有一惡少濃誘袖去。詿曰納府。後六年媼訴府。朝廷遣官效問。惡少曰前府尹鄭發時納府。鄭不服。竟不得。鄕人曰惡少素窮乏。自得珠後。日就饒富。恐是珠使也。
慶州府に一人の田舎の老婆が独りで住んでいた。夜、ふと大きく雷が鳴って、やがて晴れた。庭の中に一つの物があって、爛々とした光彩が目に輝いた。近寄って見ると、明るい珠が円くて大きさが鶏の卵ほどであった。部屋の中に置くと、夜ごとに光が灯火のようで、細い毛筋も映して見られるほどであった。老婆はただの物でないことを知った。隣に一人の悪い若者があって、濃やかに誘って袖に入れて持ち去り「府に納めた」と偽った。六年の後、老婆が府に訴え出たので、朝廷は官を遣わして問い調べさせた。悪い若者は「前の府尹の鄭発のときに府に納めました」と言ったが、鄭が認めなかったので、ついに得られなかった。郷の人は「悪い若者はもとは窮乏していたが、珠を得てから日々に豊かになったのであるから、おそらくこの珠のせいであろう」と言った。
23猫と蛇の塚
近有一僧。行乞閭閻。到忠州村舍。作寒乞聲。闃無人跡。久之聞婦人號哭聲。徊徨佇立。有老嫠。出語僧曰。老嫠夫妻與女三人同居。今日食頃間。夫與女。同時俱斃。蒼黃顚倒。岡知攸措。願師哀憐。僧入視。一堂之內。老父幼女貓蛇。四者狼藉同死。僧訊其由。嫠曰女兒忽患指腫。俄頃大如脛。腰腹亦如甕。卽死。蓋猫兒捕蛇。啗其尾遺其頭。蛇螫女兒至此。父怒猫欲殺。猫懼隱於架上。父怒未霽。作捕狀。猫猝飛下扼父喉。却不得劍猫而斃。父亦死。言未訖。痛哭幾絶。僧曰今四者三生罪業如是。若不脩冥福。劫劫難離。燒二屍灰之。收猫蛇作一塚。人稱曰猫蛇塚云。
近ごろ一人の僧が里を巡って乞いながら、忠州の村の家に至り「寒さに乞う声」を出したが、しんとして人の跡がなかった。しばらくして婦人の号哭する声が聞こえたので、うろうろと佇んでいると、一人の老いた寡婦が出てきて僧に「老いた寡婦が夫と娘と三人でともに住んでおりましたが、今日、飯一膳の間に夫と娘が同時にともに死にました。慌てて倒れ、どうすべきかも分かりません。師よ、どうか哀れんでくださいませ」と言った。僧が入って見ると、一つの堂の内に、老いた父と幼い娘と猫と蛇の四つが、乱れ散ってともに死んでいた。僧がその理由を尋ねると、寡婦は「娘が突然、指の腫れる病になったのですが、わずかの間に脛ほどに大きくなり、腰と腹も甕のようになって、すぐに死にました。おおよそ猫が蛇を捕らえ、その尾を食べて頭を遺したのですが、蛇が娘を螫してこの様になったのです。父が猫に怒って殺そうとすると、猫は畏れて棚の上に隠れました。父の怒りが解けず、捕らえる仕草をしたところ、猫が突然飛び下りて父の喉を絞め、かえって逃れられずに剣にかかって斃れ、父も死にました」と言った。言葉が終わる前に、痛哭して息も絶えそうであった。僧は「いま四つのものが三生の罪業がこのようでありますから、もし冥福を修めなければ、劫々に離れがたいでしょう」と言った。二つの屍を焼いて灰にし、猫と蛇を収めて一つの塚を作ったので、人々は「猫と蛇の塚」と称したという。
24白い衣を尊ぶのは陽の中の陰である
嘗觀嬴蟲錄曰。高麗人好白衣。道詵曰東方屬木。宜尙靑。而尙白。是金剋木不可也。居正曰陽中有陰。陰中有陽。東方屬靑而尙白。是陽中之陰也。以此推之。西方屬金尙白。而西域人面皆靑。北方屬水尙黑。而人面皆紫。南方屬火尙赤。而人面皆烏。陰陽之義也。
かつて『嬴虫録』を見たところ「高麗の人は白い衣を好む。道詵は『東方は木に属するのであるから、まさしく青を尊ぶべきなのに、白を尊んでいる。これは金が木を剋つことであって、よくない』と言った」とあった。居正はこう考える。陽の中に陰があり、陰の中に陽がある。東方は青に属しながら白を尊ぶので、これは陽の中の陰である。これによって推してみれば、西方は金に属して白を尊ぶのに、西域の人の顔はみな青く、北方は水に属して黒を尊ぶのに、人の顔はみな紫であり、南方は火に属して赤を尊ぶのに、人の顔はみな黒い。陰陽の義である。
25女の巫は多く男の巫は少ない
有女巫能爲鬼神語。試往事百中。問將來百不一中。少時狂斐數十輩直抵巫家。呼試之。巫口噤不開。蓋男子陽也。鬼神陰也。陰伏於陽。理之必然。且男巫少而女巫多。是其驗也。
鬼神の言葉を語ることのできる女の巫があった。過ぎた事をためしに問えば百度すべて中てたが、来たるべき事を問えば百に一つも中てられなかった。若くて狂ったように騒ぐ輩が数十人、まっすぐ巫の家に至って呼んで試したところ、巫は口が噤んで開かなかった。おおよそ男子は陽であり、鬼神は陰であるから、陰が陽に伏すのは理において必ずそうなのである。また男の巫は少なく女の巫が多いことが、その験である。
26迎烏と細烏 — 大内家の祖であろうか
日本國大內殿。以其先世出自我國。向慕之誠。異於尋常予嘗遍考前史。未知出處。但新羅殊異傳云。東海濱有人。夫曰迎烏。妻曰細烏。一日迎烏採藻海濱。忽漂至日本國。小島爲主。細烏尋其夫。又漂至其國。立爲妃。是時新羅日月無光。日者奏曰。迎烏細烏。日月之精。今去日本。故有斯怪。王遣使求二人。迎烏曰。我到此天也。乃以細烏所織綃。付送使者曰。以此祭天可矣。遂名祭天所曰迎日。仍置縣。是斯羅阿達王四年也。我國人之爲王於日本者。止此耳。但未知其說之是非也。大內之先。恐或出此。
日本国の大内殿は、その先代が東方から出たとして、慕う誠が普通とは異なっていた。私はかつて前の史書をあまねく考えたが、その出たところを知ることができなかった。ただ『新羅殊異伝』に次のようにある。東海の浜に人があって、夫を迎烏といい、妻を細烏といった。ある日、迎烏が海辺で藻を採っていたところ、ふと日本国に流れ着いて小さい島の主となった。細烏がその夫を尋ねて、やはりその国に流れ着き、立てられて妃となった。このとき新羅の日と月が光を失ったので、日官が「迎烏と細烏は日と月の精でありますが、いま日本に去ったので、このような怪しいことがあるのです」と奏した。王が使いを遣わして二人を求めたところ、迎烏は「私がここに至ったのは天の意である」と言い、細烏が織った絹を使者に託して送り「これで天を祭ればよいであろう」と言った。ついに天を祭った所を迎日と名づけ、そのまま県を置いた。これは斯羅の阿達王四年の事である。東方の人で日本において王となった者は、これだけである。ただ、その話が是か非かは分からない。大内の先代は、もしやここから出たのかもしれない。
27王安石は奸臣伝か列伝か — 『宋史』が来る
世宗朝。宋史不到本國。世宗屢陳請。未蒙欽賜。一日集賢諸先生論宋朝人物。居正亦在末席。或曰。作宋史。王安石合在何傳。諸先生皆曰。合在奸臣傳。有一二駁者曰。安石作新法亂天下。是誠小人。然安石文章節義。多有可稱者。而原其心未嘗不在於憂國憂民。其誤天下正者。迂闊執拗耳。不可齒列於秦檜蔡京之儔也。合在列傳。柳誠源力主是議。未幾宋史來。安石果在列傳。誠源喜曰。昔朱子綱目之未到我國也。益齋李先生高麗讀資治武后紀。喟然而嘆。作詩一聯云。那將周餘分。續我唐日月。後得綱目。朱子果黜周而尊唐。益齋先生頗亦自負。誠源雖不敢竊比益老。當受諸君降幡。
世宗の朝に『宋史』が我が国に届いていなかった。世宗はたびたび請われたが、賜りを蒙ることができなかった。ある日、集賢殿の諸先生が宋の朝廷の人物を論じていて、居正も末席にいた。ある者が「『宋史』を作ったとすれば、王安石はまさしくどの伝にあるべきか」と言うと、諸先生はみな「まさしく奸臣伝にあるべきである」と言った。一、二人が反駁して「王安石が新しい法を作って天下を乱したのであるから、これはまことに小人である。しかし王安石の文章と節義には称えるに足るものが多く、その心を尋ねれば、国を憂え民を憂えることにあったことがなかったわけではない。天下を誤ったのは、世事に疎く頑固であったにすぎないので、秦檜や蔡京の輩と並べることはできない。まさしく列伝にあるべきである」と言った。柳誠源がこの議を力を尽くして主張した。ほどなく『宋史』が来たところ、王安石は果たして列伝にあった。柳誠源は喜んで「昔、朱子の『綱目』が我が国に届いていなかったとき、益斎の李先生が高麗で『資治通鑑』の武后紀を読み、喟然と嘆いて詩一聯を作り『どうして周の余った分を取って、我が唐の日と月に継ごうか』と言った。後に『綱目』を得たところ、朱子は果たして周を退けて唐を尊んでいた。益斎先生はかなり自ら負うところがあった。私はたしかに敢えて益斎の老人に比べることはできないが、まさしく諸君の降参の旗は受けてよいであろう」と言った。
28高麗の使いが自国の世系を分けられなかった
宋煕寧中。高麗遣使入宋。神宗命曾鞏。撰高麗世次紀。以王氏高麗。上接朱蒙。高句麗已失世系矣。鞏請帝令臣畢仲行因話從容問高麗世次於使臣。若或未對。卽論歸本國討尋記錄。向後使人來附何如。於是問之。麗使則未能分別高句麗高麗世系而白之。深可恨也。今考麗史。煕寧三年。高麗使吏部尙書金悌。入貢于宋。今此使臣意金悌也。
宋の熙寧年間に高麗が使いを遣わして宋に入った。神宗が曾鞏に命じて「高麗世次記」を作らせたが、王氏の高麗を上は朱蒙に継いだので、高句麗はすでに世系を失ったことになる。曾鞏は帝に請い、臣の畢仲行に言いつけて、話のついでに静かに高麗の世次を使臣に問わせ、もし答えられなければ、本国に帰って記録を探し求めさせ、後から来る使いに託して来させるのはどうかと言った。そこで問うたが、高麗の使いは高句麗と高麗の世系を分別して申し述べることができなかったので、甚だ恨めしいことである。いま高麗の歴史を考えると、熙寧三年に高麗が吏部尚書の金悌を使いとして宋に入貢したというので、今回のこの使臣はおそらく金悌であろう。
29陵寝に碑を立てないのは顕陵から
太祖健元陵碑。文忠公權近所製。太宗獻陵碑。文肅公卞季良所製。世宗英陵碑。文成公鄭麟趾所製。及文宗顯陵。依三陵例。將豎碑。功已就緖。獻議者以謂。自古人君行事之跡。備載國史。不必如士大夫立神道碑。請罷。從之。後日英陵之遷驪州。亦埋碑不用。國朝陵寢不立碑。自顯陵始。
太祖の健元陵の碑は文忠公権近が作り、太宗の献陵の碑は文肅公卞季良が作り、世宗の英陵の碑は文成公鄭麟趾が作った。文宗の顕陵に至って、三つの陵の例に従ってやがて碑を立てようとし、事がすでに緒についたが、議を出した者が「昔から君主の行われた事の跡は国史に備わって載るので、士大夫のように神道碑を立てる必要はありません」と言ってやめることを請うたので、これに従われた。後の日、英陵を驪州に遷すときも、碑を埋めて用いなかった。国朝の陵寝に碑を立てないのは、顕陵から始まった。
30中国で板に刻まれたものが必ずしも良いわけではない
崔致遠所著桂苑筆耕。載文獻通攷。以今觀之。致遠文章。詭奇澁僻。不足動天下。近有人得唐本一集而來。乃我國僧懶翁所著。翁本不學。後有精進之功。能解文字。所著語錄。詩句亦生疏。今皆刊板。行于中國。中國之人之繡梓者。不必盡善也。居正近赴京。有書生邵鎭者。以傭書爲業。誦李陶隱詩數首。問得之何處。曰。汝國宰相李邊所贈。鄭文成公嘗語曾赴京見一儒士云。汝國牧隱集最好。可與黃蘇頡頑。問得之何處。曰。汝國譯官金自安所贈。
崔致遠が著した『桂苑筆耕』が『文献通考』に載っている。いま見るに、崔致遠の文章は詭しく奇で渋く偏っていて、天下を動かすには足りない。近ごろある人が唐本一集を得て来たが、すなわち我が国の僧、懶翁が著したものであった。懶翁はもともと学ばなかったが、後に精進の功があって文字を解することができた。著した語録の詩句もまた生硬である。いまそれがみな板に刻まれて中国に行われている。中国の人が梓に刻んだものが、必ずしもみな良いわけではない。居正は近ごろ京に赴いたが、邵鎮という書生があって、書き写しを傭われることを業としながら、李陶隠の詩数首を暗誦していた。どこで得たのかと問うと「あなたの国の宰相、李辺が贈ってくれたものだ」と言った。文成公鄭麟趾がかつて語ったところでは、京に赴いたとき一人の儒士に会ったところ「あなたの国の牧隠集が最も良く、黄庭堅・蘇軾と競うに足る」と言うので、どこで得たのかと問うと「あなたの国の訳官、金自安が贈ってくれたものだ」と言ったという。
31『三国史記』は信じて伝えるべき書ではない
我國自箕子受周封。興八條之敎。行井田法。當其時。豈無史官。而載籍不傳。新羅高句麗百濟。三國鼎峙。亦無史可傳。金富軾作三國史。掇拾通鑑三國誌南北史隋唐書爲傳記表志。已非傳信之書。至於記事。每引所出之書。尤非作史之體。又如侵伐會盟等事。以一事而疊書於三國紀。文不稍變。亦不足取。
我が国は箕子が周の封を受けてから、八条の教えを興し、井田の法を行った。その時にどうして史官がなかったであろうか。しかし載せられた書は伝わらない。新羅・高句麗・百済の三国が鼎の足のように立ったが、やはり伝えるに足る史書がない。金富軾が『三国史記』を作るにあたって、『資治通鑑』『三国志』『南北史』『隋書』『唐書』を拾い集めて伝記と表と志を作ったので、すでに信じて伝えるべき書ではない。事を記すにあたっては、常に出てきた書を引いてくるので、いよいよ史書を作る体ではない。また侵し伐ち会盟するような事を、一つの事であるのに三国の紀に重ねて記しながら、文を少しも変えていないので、これもまた取るに足りない。
32高麗の世系の竜孫の話には根拠がない
金寬毅閔漬論高麗世系曰。龍孫曰唐貴姓者。皆誕妄無實。顯宗朝。黃周亮撰太祖以下七代實錄。無一言及此。寬毅漬生於數百載之後。能知周亮所不著載于冊。是尤可疑。若如是說。麗祖舍曾祖不祖。而反祖曾祖母之父。且父爲考。而女爲妣。天下寧有是理。知其說之誣也。然後之撰麗史者。取之附外紀。何耶。
金寛毅と閔漬が高麗の世系を論じて「竜の孫である」と言い「唐の貴い姓である」と言ったのは、いずれも誕妄で実がない。顕宗の朝に黄周亮が太祖以下七代の実録を作ったが、一言もこれに触れたものがない。金寛毅と閔漬は数百年の後に生まれて、黄周亮が冊に載せなかったことを知ることができたというのであるから、これがいよいよ疑わしい。もしその話のとおりであれば、高麗の太祖が曽祖を祖とせず、かえって曽祖母の父を祖としたことになり、また父を考とし娘を妣としたことになるのであるから、天下にどうしてこのような理があろうか。その話が偽りであることが分かる。それなのに、後に高麗の歴史を作った者がこれを取って外紀に付けたのはなぜか。
33高麗の歴史は幾度始められたか
高麗本史長編。成於本朝金宗瑞鄭麟趾。嘗見鄭摠序云。恭愍朝。李齊賢撰史略。止於肅宗。李仁復李穡撰金鏡錄。止於靖宗。史畧雖不見全書。齊賢之論行于世。金鏡錄不見其書。疑其書之未成也。我本朝開國之初。命鄭道傳鄭摠撰高麗史。鄭摠爲之序。然不見其書。疑其書之未成。抑雖成而有未盡處。不之傳耳。
『高麗本史』の長編は、本朝の金宗瑞・鄭麟趾によって成った。かつて鄭摠の序を見たところ「恭愍王の朝に李斉賢が『史略』を作ったが、肅宗で止まり、李仁復・李穡が『金鏡録』を作ったが、靖宗で止まった」とあった。『史略』はたしかに全書を見てはいないが、李斉賢の論は世に行われており、『金鏡録』はその書を見ないので、その書が成らなかったのではないかと疑われる。我が本朝の開国の初めに、鄭道伝・鄭摠に命じて『高麗史』を作らせ、鄭摠がその序を作ったが、その書を見ないので、その書が成らなかったのではないかと疑われる。あるいは、たしかに成ったけれども尽くされていないところがあって、伝わらないだけなのであろう。
34魚孝瞻の家の法 — 地を選ばずに葬る
魚文孝公嘗辨論山家地理之說。上疏極陳。明白正大。英陵問鄭文成公麟趾曰。孝瞻之論則然矣。其父母之窆葬。能不用此法乎。麟趾曰。嘗奉使到咸安。見孝瞻葬父於家園之側。似非惑於地理者也。然龍虎龜雀左右前後之神。無處不在。文成之論。雖言孝瞻之得。而亦未必不泥於山家法。後文孝葬母。與先君同域。及文孝卒。子世謙世恭葬於廣津瀕。亦不擇地。家法如此。
文孝公魚孝瞻がかつて山家地理の説を弁じ論じ、上疏して極めて申し述べたが、明白で正しく大きかった。英陵が文成公鄭麟趾に「孝瞻の論はそうであるが、その父母の墓はこの法を用いないでいられるか」と問われた。鄭麟趾は「かつて使命を奉じて咸安に至って見ましたところ、孝瞻は父を家の園の側に葬っておりましたので、地理に惑わされた者ではないようです。しかし青竜・白虎・玄武・朱雀の左右と前後の神は、ない所がございません」と言った。文成の論は、たしかに孝瞻の得たところを言ったものではあるが、やはり山家の法に拘らなかったとは言えない。後に文孝が母を葬るとき、先の父と同じ域にし、文孝が死ぬと、子の世謙・世恭が広津の水辺に葬って、やはり地を選ばなかったので、家の法はこのようであった。
35「孔子の賛」という画 — 無理に事を知ったふり
少日。與同學二三人遊山寺。見一畫佛。題其上曰。孔子贊吳道子畫蘇軾書。或曰古畫必妙。盍袖而去。或有强料事者曰。孔子周人也。漢明帝時。佛法始入中國。謂孔子贊佛無理。且吳道子唐人也。安有吳道子畫而孔子贊乎。蘇軾生於千百載之後。安得與孔子同時。而書所著之贊乎。必後世好事者所爲也。予等皆年少。不料事信之。後於一貴公子家見此畫。乃稱古今第一。而爲畫譜之首。矛審視之。則所謂孔子贊者。乃列子所言孔子曰西方有大聖人。名曰佛。不言而信無爲而化之說也。蘇軾取而書之。前日强料事者之言。可付之一笑。後世不知本末而强解事者。皆此類也。
若い日、ともに学んだ二、三人と山の寺に遊びに行き、一つの仏の画を見たが、その上に「孔子の賛、呉道子の画、蘇軾の書」と題されていた。ある者が「古い画であるから必ず妙であろう。どうして袖に入れて持ち去らないのか」と言った。ある、無理に事を推し量る者があって「孔子は周の人である。漢の明帝のときに仏法が初めて中国に入ったのであるから、孔子が仏を賛したというのは理がない。また呉道子は唐の人であるのに、どうして呉道子の画に孔子の賛があろうか。蘇軾は千百年の後に生まれたのに、どうして孔子と同じ時にあって、その作った賛を書けようか。必ず後世の事を好む者がしたことである」と言った。我々はみな年が若く、事を推し量れずにその言葉を信じた。後に、ある貴公子の家でこの画を見たところ、すなわち古今の第一と称されて画譜の首になっていた。細かに見てみると、いわゆる「孔子の賛」というのは、すなわち『列子』に載った「孔子が『西方に大いなる聖人がある。名は仏という。言わずして信じられ、為すことなくして化する』と言った」という言葉であった。蘇軾がこれを取って書いたのであるから、先の日に無理に事を推し量った者の言葉は、一笑に付すに足る。後世に本末を知らずに無理に事を知ったふりをする者は、みなこの類である。
36紅紙に名を挙げられなかったのが欠け
南議政智黃議政守身。皆爲首相。功名富貴。當代無比。常曰男子不於紅紙上題名。餘不足觀。以此爲自欠耳。
議政の南智と議政の黄守身は、どちらも首相となり、功名と富貴は当代に比べる者がなかった。常に「男子が紅紙の上に名を挙げられなければ、残りは見るに足りない」と言って、これを自ら欠けたこととしたにすぎない。
37「庚寿も叔父でございます」 — 古えの直き人
偰提學循性淳直。學問深邃。循之祖遜。元朝名進士。元季避亂來高麗。有三子。曰長壽。曰眉壽。曰庚壽。皆以文名顯稱。循入侍經筵。世宗問曰。卿之叔父幾人。循曰。長壽叔眉壽叔庚壽叔。上曰庚壽莫是卿父。循低聲曰唯唯。上笑曰。循眞古之遺直也。
提学の偰循は性質が淳く直く、学問が深かった。偰循の祖父の偰遜は元の朝廷の名高い進士であったが、元の末に乱を避けて高麗に来た。子が三人あって、長寿・眉寿・庚寿といい、みな文で名が顕れた。偰循が経筵に入ってお仕えしたとき、世宗が「卿の叔父は何人か」と問われた。偰循は「長寿叔父、眉寿叔父、庚寿叔父でございます」と言った。上は「庚寿はそなたの父ではないか」と言われたので、偰循は低い声で「はい、はい」と言った。上は笑って「循はまことに古えの遺された直き人である」と言われた。
38「老いた賊がもう私の術中に落ちた」
許恭簡公誠性執。嘗爲吏曹判書。奉公守正。關節不到。嫉人干請。有請必反其意。有一朝官。例遷當補外寄。請官南道。乃授平安道邊郡。一文士請爲文官華職。乃授外敎授。興德寺僧一雲。權詐多智計。欲住斷俗寺。誣訴曰。聞西道永明寺山水之勝。欲往一住。若住斷俗。吾事去矣。數日批下雲住斷俗。雲大笑曰。老賊已墮吾術中。
恭簡公許誠は性質が頑固であった。かつて吏曹判書となり、公を奉じ正しさを守ったので、取り計らいの頼みが届かなかった。人が頼み込むのを憎み、請われることがあれば必ずその意と逆にした。ある朝官が、例によって遷る時になって外の席に補されることになり、南の道の官を請うと、すぐに平安道の辺の郡を与えた。ある文士が文官の華やかな職を請うと、すぐに外の教授を与えた。興徳寺の僧、一雲は権謀と偽りが多く計も多かったが、断俗寺に住みたいと思って、偽って「聞くところ西道の永明寺の山水が秀でているとのことですから、行って一度住みたく存じます。もし断俗寺に住むことになれば、私の事は終わりでございます」と訴えた。数日して批が下り、一雲を断俗寺に住まわせたので、一雲は大いに笑って「老いた賊がもう私の術中に落ちた」と言った。
39「書を学ぶ紙がいくらかかるというのか」
權文景公軫有兒子。學書費紙。夫人曰。紙價甚高。恐不能繼。文景曰惡是何言。有不肖子弟。靑樓沽酒。曰費萬錢。或耽於博奕游畋狗馬花卉。破壞家業者甚多。學書之紙。其費幾何。卿母多談。
文景公権軫に子があって、書を学ぶのに紙を多く費やした。夫人が「紙の値が甚だ高いので、続けられなくなるのではないかと心配でございます」と言うと、文景は「ああ、それは何という言葉か。不肖な子弟があって、青楼で酒を買い、一日に万銭を費やすこともあり、あるいは博打や狩り、犬や馬や花に耽って家の業を壊す者が甚だ多い。書を学ぶ紙が、その費えがいくらになろうか。夫人は言葉が多い」と言った。
40朱子は四十六日に疏を数十上った
梁文襄公誠之在集賢殿。屢封章論時事。諸君曰若不切時務。不必陳瀆如此。文襄曰。朱晦菴在宋光宗時。立朝四十六日。疏數十上。予侍從踰十年。疏未數十上。君何云爾也。
文襄公梁誠之が集賢殿にあって、たびたび封章によって時事を論じた。諸々の者が「もし時務に切実でないのであれば、このように煩わしく申し述べる必要はない」と言うと、文襄は「朱晦庵は宋の光宗の時に、朝に立って四十六日のうちに疏を数十上った。私は侍従して十年を越えるのに、疏が数十に及んでいない。君はどうしてそのように言うのか」と言った。
41「硯の水を持ってこい、辛碩祖」 — 孫を庇った度量
辛武節公有定嘗遇倭賊。賊將跪而斬之。武節見賊兩脚間腎囊嚲下。猝以手拉之。賊踣地。抽劍斬之。時稱猛將。後杖鉞鎭邊。以武烈著稱。然性大急。見人不可。必極口怒罵而後止。孫文僖公碩祖每曰。鑑祖性急。佩韋自警。嘗修史春秋館。與一下僚。同事筆硯。下僚悤遽間顧吏高聲語曰。辛碩祖將硯水來。旋卽慙赧低頭不能仰視。文僖遽前執手曰。我輩少時失言於先生長者前。豈止此耶。卽呼酒來。滿酌對飮。人服其弘量。
武節公辛有定がかつて倭の賊に遭い、賊が跪かせて斬ろうとした。武節は賊の両脚の間に陰嚢が垂れ下がっているのを見て、突然に手で引っぱったので、賊は地に倒れた。剣を抜いて斬ったので、当時、猛き将と称された。後に鉞を執って辺を鎮め、武と烈で名が顕れた。しかし性質が甚だ急で、人の正しくないのを見れば、必ず口を尽くして怒り罵ってからでなければやまなかった。孫の文僖公辛碩祖は常に「私の性質は急である」と言って、なめし皮を佩びて自ら戒めた。かつて春秋館で史書を修め、一人の下の僚属と筆と硯をともに用いた。僚属が忙しい間に吏を顧みて大きな声で「辛碩祖、硯の水を持ってこい」と言い、すぐに恥じて顔を赤らめ、頭を垂れて仰ぎ見ることができなかった。文僖はすぐに進み出て手を取り「我々も若いとき、先生や年長の方の前で言葉を誤ったことが、どうしてこれだけであろうか」と言い、すぐに酒を持ってこさせて、満たして注ぎ向かい合って飲んだので、人々はその広い度量に感服した。
42「私の子であれば何の憂いがあろうか」
黃襄平公孝源爲義禁府提調時。有人訴一文士妻與家奴通生一兒。方推劾。士妻不服。有具鎭撫者。掌鞫問。告襄平曰。士妻固諱。然觀氣勢似是黃孝源之兒。襄平曰。若是吾兒。吾復何憂。大笑烘堂。
襄平公黄孝源が義禁府の提調であったとき、ある者が、一人の文士の妻が家の召使いと通じて子一人を生んだと訴え出たので、ちょうど追い調べているところであった。文士の妻は認めなかった。具という姓の鎮撫が鞠問を預かっていたが、襄平に「士の妻は固く隠しておりますが、気勢を見ますと、どうやら黄孝源の子のようです」と告げた。襄平は「もし私の子であれば、私はまた何を憂えようか」と言ったので、堂いっぱいに大笑いとなった。
43孤竹の郷に住めばみな清い節なのか
居正嘗在集賢殿。與李文簡公承召同坐。有同僚柳誠源。請作海州李牧使挽章。柳曰。李卽雙梅學士之後。文簡曰。此是雙梅之後。何無馨德也。柳應聲曰。人居孤竹之鄕。盡有淸節乎。蓋海州別號孤竹。文簡之父母居海州。
居正がかつて集賢殿にあって、文簡公李承召とともに座っていた。同僚の柳誠源が、海州の李牧使の挽章を作ってくれるよう請い「李はすなわち双梅学士の後である」と言った。文簡が「この人が双梅の後であるのに、どうして馨しい徳がないのか」と言うと、柳誠源は声に応じて「人が孤竹の郷に住めば、みな清い節があるのでしょうか」と言った。おおよそ海州の別の名が孤竹であり、文簡の父母が海州に住んでいたからである。
44「これがいわゆる鶂鶂と鳴く鳥の肉でございますか」
李貞靖公邊性峭直。爲吏曹參議。每詮注。多駁長官所爲。因與之不愜。一日外官有贈鮮魚美肉者。不受。聞長官已受。其日謁長官。饋以美肉。貞靖擧箸曰。此所謂鶂鶂之肉乎。長官深銜之。
貞靖公李辺は性質が峭しく直かった。吏曹参議となり、官を擬するたびに長官のすることを多く反駁したので、彼と仲が良くなかった。ある日、外の官のうちに新鮮な魚と良い肉を贈った者があったが、受けなかった。長官がすでに受けたと聞き、その日、長官にお目にかかりに行くと、良い肉を饗された。貞靖は箸を取って「これがいわゆる鶂鶂と鳴く鳥の肉でございますか」と言ったので、長官は深く心に含んだ。
45「許丞は長い間、耳が遠かった」
李文簡公承召爲禮曹判書。一郞官日飮無何。公務多闕。同列有欲黜者。文簡笑曰。許丞多時耳聾重聽。長官不忍絶之。今郞官雖長醉。然醒時亦多。又何廢爲。
文簡公李承召が礼曹判書となったが、一人の郎官が日々飲んでやむことがなく、公務を多く欠いた。同列のうちに追い出そうとする者があったので、文簡は笑って「許丞は長い間、耳が遠くてよく聞こえなかったが、長官は忍びなくて切らなかった。いま郎官はたしかに長く酔っているが、醒めているときもまた多いのであるから、またどうしてやめさせようか」と言った。
46黄い牛に乗って通った趙云矻
趙碩澗云矻。自少奇偉卓犖。不與世低昂。麗李見世亂。托靑盲不仕。入本朝。尹鷄林江陵二府。未幾托病卜居廣州之古垣村。韜晦不見。一日左相上洛金公士衡歷訪。欲勸之一仕。碩澗穿闊袖布衫。頂葦笠。長楫不交一語。上洛曰。崛强是老。故態如之何。命駕而還。碩澗日騎牛往來鄭金廣津二院。施濟行旅。嘗自吟曰。騎黃牛傍靑山。麤麤乎其身彩。一疋布也不直。
碩澗の趙云矻は若いときから奇で偉く抜きんでていて、世と高下をともにしなかった。高麗の末に世が乱れるのを見て、目が見えないと託けて仕えなかった。本朝に入って鶏林と江陵の二つの府の府尹となったが、ほどなく病に託けて広州の古垣村に住む所を定め、跡を隠して現れなかった。ある日、左相の上洛の金士衡公が通りがかりに訪ねて来て、一度仕えることを勧めようとした。碩澗は広い袖の布の単衣を着て葦の笠をかぶり、長く揖するばかりで一言も交わさなかった。上洛は「崛強なこの老人の昔のままの姿をどうしようか」と言い、車を命じて帰った。碩澗は日々牛に乗って鄭金院と広津院の二つの院を往き来し、旅する人を助け渡してやった。かつて自ら吟じて「黄い牛に乗って青い山を傍らにする、粗く粗いこの身の彩りよ。一疋の布にも値しない」と言った。
47「伯道に子がない」 — 天の道は知りがたい
李文惠公孟畇學問精深。筆跡高妙。有韓山稼牧風。位至貳公。晩節以非罪蹉趺。且無後。嘗有詩云。自從人道起於人。父子相傳到此身。我罪伊何天不弔。未爲人父鬢絲新。有轗軻不盡之意。人皆曰。伯道無兒。天道未可知於文惠亦然。
文恵公李孟畇は学問が精しく深く、筆跡が高く妙で、韓山の牧隠の風があった。位は貳公に至ったが、晩年に罪なくして躓き、また後を継ぐ子がなかった。かつて詩があって「人の道が人から起こって以来、父と子が相伝えてこの身に至った。我が罪が何であって天が弔わず、人の父となれぬまま鬢の糸が新たに白むのか」と言ったが、思いどおりにならぬ、尽くせぬ意がある。人々はみな「『伯道に子がない』というのであるから、天の道は知りがたいという言葉が、文恵にもまたそうである」と言った。
48「灯の下は暗いという契を結ぼう」
李文景公種善牧隱之子。權摠制踐陽村之子。文景爲摠制妹壻。摠制嘗醉語文景曰。君爲牧隱之子。而文章不足。我是陽村之兒。而文名又不及。君吾兄弟。當作燈下不明契。聞者皆笑。
文景公李種善は牧隠の子であり、総制の権践は陽村の子である。文景が総制の妹の婿となった。総制がかつて酔って文景に「君は牧隠の子でありながら文章が足りず、私は陽村の子でありながら文の名がまた及ばない。君と私の兄弟は、まさしく『灯の下は暗い』という契を結ぶべきだ」と言ったので、聞く者はみな笑った。
49「卿を継ぐ者がみな卿のようであればよいが」
韓文靖公繼禧學問精詣。識見高邁。大爲光陵器遇。爲吏曹判書。從容啓曰。臣待罪銓衡。常開閤迎士大夫品題人物。尙恐不能甄拔賢愚。況今設循資之格。嚴奔競之禁。是使聾瞽卞聲色。乞罷之。上曰使繼卿者皆如卿則可。非卿不可。公之注擬人物。一出至公。不以私恩貸親舊。士大夫有或爲弟子求官者。不甚拒之曰。古人云內擧不廢親子弟尙賢言之者非過。用之者非私。苟以謂膏梁子弟稍存形迹。非知用人大體者。
文靖公韓継禧は学問が精しく進み、識見が高く抜きんでていたので、大いに光陵に器として遇された。吏曹判書となり、静かに「臣は銓衡の職に罪を待ちながら、常に門を開いて士大夫を迎え人物を品評していても、なお賢と愚を選び抜けないのではないかと恐れております。まして、いま循資の格を設け奔競の禁を厳しくするのは、これは耳の聞こえぬ目の見えぬ者に声と色を分けさせるようなものです。どうかおやめくださいますよう」と申し上げた。上は「卿を継ぐ者がみな卿のようであればよいが、卿でなければならない」と言われた。公が人物を擬することがひとえに至公から出ていたので、私の恩によって親旧を赦すことをしなかった。士大夫のうちに、あるいは弟子のために官を求める者があっても、甚だしく拒まず「古人は『内に挙げて親しい子弟を除かない』と言った。賢を尊んで言う者は過ちではなく、用いる者も私ではない」と言った。もし膏梁の子弟であるからといって少しでも形跡を残すのであれば、人を用いる大体を知る者ではない。
50経幄で近く侍る職分は諫争ではない
李文質公苪曰。經幄近侍之職。在於論思獻替。格君心之非而已。至於論國家大政是非人物。則思出其位非其職。近來侍從新進之輩。不識大體。喜論時政得失。或指擿宰相士大夫微過。暴揚於朝。期於廢黜。以自衒鬻。甚不可也。古人以政在臺閣。猶以爲非。若或出於侍從。吾不知其可也。
文質公李苪が言うには「経幄で近く侍る職分は、論じ思い、善きを献じ非なるを替えて、君の心の誤りを正すことにあるだけである。国家の大いなる政の是非や人物を論ずるに至っては、思いがその位を越えたものであって、その職分ではない。近ごろ侍従する新進の輩が大体を知らず、時政の得失を論ずるのを好み、あるいは宰相や士大夫の小さな過ちを摘み出して朝に暴き揚げ、退けることを期して自らを衒い売るので、甚だよくない。古人は政が台閣にあることすら非としたのであるから、まして侍従から出るのであれば、私はそれが可であるとは思えない」とのことである。
51「どうして畜きもののために人を罪しようか」
金文平公守溫。自少好學不倦。博覽廣記。經史子家列莊老佛之書。靡幽不燭。靡頤不探。爲文亦奇偉峻壯。雖官至極品。處之淡然如寒素。常騎馬。瘦骨崢嶸。旬月之間。連喪數馬。或曰何不使掌馬者殷勤豢養。違則嚴加捶楚乎。文平曰安可爲畜物而罪及於人乎。其慈仁如此。
文平公金守温は若いときから学を好んで倦まなかった。広く見て広く記憶し、経・史・子・家から列子・荘子・老子・仏書に至るまで、幽かでも照らさないものがなく、奥深くても探らないものがなかった。文を作ればまた奇で偉く、峻しく壮んであった。官は極品に至ったが、淡々と処して寒素の士のようであった。常に馬に乗ったが、痩せた骨が聳え立つようで、一月のうちに続けて数頭の馬を失った。ある者が「どうして馬を預かる者に懇ろに飼い養わせ、違えれば厳しく笞を加えないのですか」と言うと、文平は「どうして畜きもののために罪を人に及ばせようか」と言った。その慈しみ深く仁であることはこのようであった。
52人物を搏ち撃つことが朋党の始まりである
姜文良公希孟曰。宋朝朋黨之患。起於寇菜公搏擊人物。其流之弊。雖程朱亦不免於黨。今觀年少氣銳新進儒士。日以搏擊人物爲事。弊將何如。
文良公姜希孟が言うには「宋の朝廷の朋党の患いは、寇萊公が人物を搏ち撃ったことから起こった。その流れの弊は、程子・朱子すら党から免れさせなかった。いま年が若く気の鋭い新進の儒士が、日々人物を搏ち撃つことを事としているが、その弊はやがてどうなるであろうか」とのことである。
53蘇東坡と同じ四柱
鄭文成公麟趾本命四柱曰。丙子辛丑戊戌乙卯。蘇東坡四柱曰。丙子辛丑戊午乙卯。其命畧同。而文章聞望。亦畧相同。居正嘗撰文成碑。造化四柱與蘇內翰相同之語。或有笑者曰。撰碑宜述道德。不宜論卜命。予曰。益齋李先生嘗撰菊齋權文正公碑有曰。戊子己未。虛拱壬巳之祿。互衝發之。蓋居正祖益齋。而有是說。或者笑之。
文成公鄭麟趾の本命の四柱は、丙子・辛丑・戊戌・乙卯であり、蘇東坡の四柱は、丙子・辛丑・戊午・乙卯である。その命がおおよそ同じで、文章と名望もまたおおよそ互いに同じである。私はかつて文成の碑を作り「造化の四柱が蘇内翰と互いに同じである」という言葉を入れたところ、ある者が笑って「碑を作るときはまさしく道徳を述べるべきで、卜や命を論ずるのはふさわしくない」と言った。私は「益斎の李先生がかつて菊斎の文正公権溥の碑を作って『戊子と己未が壬と巳の禄を空しく抱き、互いに衝いて発する』と書いた。おおよそ居正は益斎を祖としているので、この言葉があるのだ」と言うと、ある者は笑った。
54「二度罷免されたほうが、一度もなれないよりましではないか」
金文悼公壽寧再爲承旨。皆號職。姜文良公希孟曰。如何再爲承旨。再見罷黜。文悼曰。能再罷。不猶愈於一不爲者乎。蓋誚文良不爲承旨也。
文悼公金寿寧が二度承旨となったが、どちらも罷免された。文良公姜希孟が「どうして二度承旨となって、二度とも退けられるのか」と言うと、文悼は「二度罷免されることができるのは、一度もなれなかった者よりまだましではないか」と言った。おおよそ文良が承旨になれなかったことを皮肉ったのである。
55「乙科の一人を何で取ろうか」
文悼爲癸酉科壯元。丁丑將開重試。文悼語人曰。鄭麟趾之後。豈無鄭麟趾乎。蓋於初重試。皆爲壯元。金有啤睨壯元之志。而終落第。居正戱金曰。李廣爲將。自倚無雙。劉蕡對策。何以不第。金曰。不爲甲科一人。何取乙科一人乎。蓋誚我乙科一人也。
文悼は癸酉の年の科の首席であった。丁丑の年にやがて重試が開かれようとしたとき、文悼は人々に「鄭麟趾の後に、どうして鄭麟趾がいないことがあろうか」と言った。おおよそ初めの試と重試の両方で首席となったので、金は首席を狙う志があったのであるが、ついに落第した。私が金を戯れて「李広が将となって自ら無双であると恃み、劉蕡は策に対えながら、どうして及第しなかったのか」と言うと、金は「甲科の一人になれないのであれば、乙科の一人を何で取ろうか」と言った。おおよそ私が乙科の一人であったことを皮肉ったのである。
56「姜郎は十年のうちに私の座に就くであろう」
黃翼成公之爲相也。姜文景公孟卿爲僚佐。翼成曰。老物閱人多矣。姜郞大器不出十年。當據吾座。後果如其言。
翼成公黄喜が相であったとき、文景公姜孟卿が僚佐であった。翼成は「老いた者が人を見てきたことは多い。姜郎は大きな器であるから、十年とたたずに、まさしく私の座を占めるであろう」と言ったが、後に果たしてその言葉のとおりであった。
57貊国と穢国 — 二つの名はもと一つの国ではないか
高麗史地理志曰。春州本貊國。春州卽今之春川。嘗考書武成曰。華夏蠻貊。罔不率俾。孟子曰。小貉大貉。貉音貊。註曰。貉北方夷狄之國。北方地寒。五穀不生。唯黍生之早熟。當武王之時。箕子未封朝鮮。而已有貊國。孟子之時。箕子子孫尙守朝鮮。安有貊國介於其間哉。高麗地志又曰。溟州本穢國。一云銑國。一云蕊國。溟州卽今之江陵府。嘗考韻會曰。穢貊東夷國名。漢武紀東夷穢君南誾。註曰。穢貊在辰韓之北高句麗沃沮之南。東窮大海。予竊疑。穢貊本爲一國而互稱之也。況春之距江陵不遠。春在嶺西。江在嶺東。地志亦謂。高麗時春屬交地道。江屬東界。分和州溟州爲朔方道。則以溟州爲朔。尤爲可疑。
『高麗史』の地理志に「春州はもと貊国である」とある。春州はすなわち今の春川である。かつて『書経』の「武成」を考えると「華夏と蛮貊が率い従わないものがなかった」とあり、『孟子』に「小貉・大貉」とあるが、貉の音は貊である。註に「貊は北方の夷狄の国である。北方は地が寒いので五穀が生えず、ただ黍だけが生えて早く熟す」とある。武王の時には箕子がまだ朝鮮に封じられていないのに、すでに貊国があり、孟子の時には箕子の子孫がまだ朝鮮を守っていたのであるから、どうして貊国がその間に挟まっていたであろうか。『高麗史』の地理志にまた「溟州はもと穢国である。あるいは銑国といい、あるいは蕊国という」とある。溟州はすなわち今の江陵府である。かつて『韻会』を考えると「穢貊は東夷の国の名である」とあり、『漢書』武帝紀の「東夷の穢君南誾」の註に「穢貊は辰韓の北、高句麗と沃沮の南にあって、東は大海に窮まる」とある。私はひそかに疑う。穢と貊はもと一つの国であって、互いに別に称したのではなかろうか。まして春川は江陵と距離が遠くなく、春川は嶺西にあり江陵は嶺東にある。地理志でも「高麗の時に春川は交州道に属し、江陵は東界に属したが、和州と溟州を分けて朔方道とした」とあるので、溟州を朔方としたのがいよいよ疑わしい。
58弓裔と大封国
資治通鑑後梁紀曰。高麗石窟寺眇僧躬乂。聚衆據開州稱王。號大封國。遣佐良尉金立奇入貢于吳。蓋躬乂卽弓裔。開州卽開城府。大封卽泰封。今之鐵原。石窟寺卽世達寺。今不知在何處。
『資治通鑑』の後梁紀に「高麗の石窟寺の片目の僧、躬乂が衆を集めて開州を占め、王と称して国の号を大封国とした。佐良尉の金立奇を遣わして呉に入貢した」とある。おおよそ躬乂はすなわち弓裔であり、開州はすなわち開城府であり、大封はすなわち泰封であって、今の鉄原である。石窟寺はすなわち世達寺であるが、今はどこにあるのか分からない。
59表と牋で避けるべき字 — 中国では用いない
太祖高皇帝詔頒表箋回避字樣。其傾覆頹敗絶滅夭短等字。意兇可回避。如億載無疆有道生知明哲等字。何以回避乎。近祁戶部順奉使來。予以回避字樣示之曰。中朝亦用之乎。曰無。雖海內諸侯表箋亦不用。此必但行於貴國而已。予意。洪武年間。帝怒金義殺使附胡元。遂歸罪於表詞不切。徵文臣鄭摠金若恒等抵罪。仍頒回避字樣。此出於皇上一時之命。不必行於後世也。
太祖高皇帝が、表と牋で避けるべき字の見本を頒布された。「傾き覆る」「崩れ敗れる」「絶え滅びる」「夭く短い」といった字は、意が凶であるから避けるに足る。しかし「億載無疆」「有道」「生知」「明哲」といった字を、どうして避けようか。近ごろ戸部の祈順が使命を奉じて来たので、私は避けるべき字の見本を示して「中国の朝廷でも用いるのか」と問うた。すると「ない。たとえ海内の諸侯の表や牋でも用いない。これは必ずただあなたの国だけに行われているのであろう」と言った。私の考えでは、洪武年間に帝が、金義が使いを殺して胡元に附いたことを怒り、ついに表の言葉が切実でないということに罪を帰して、文臣の鄭摠・金若恒らを召して罪に至らせ、ついで避けるべき字の見本を頒布したのである。これは皇上の一時の命から出たものであって、後世に行うに足るものではない。
60漢陽の地を定めるとき — 仁王洞の石の上の朱の書
高麗肅宗時。衛尉丞金謂磾據道詵祕記。請遷都南京云楊州有木覓壤。可立都。王親行相之。又遣崔思諏尹瓘等審視。回奏云。蘆原海村龍山等處。山水不合建都。唯三角山面岳之南。山形水勢。符合古今。請於主幹中心大脉。壬坐丙向。隨形建都。從之。後於壬坐丙向之原。埋龍鳳帳。然則漢陽之爲李氏都。自高麗已知之矣。我太祖之將移都也。先審地於公州鷄龍山之南。董役後卜漢陽何耶。予年九歲十歲時。與國初日者李陽達同里閈。李年八十五六。精神不衰。常語曰。初定漢都時。河崙云。道詵記有漢水入明堂之語。宜建母岳南。必今衍禧宮之基。我云。華岳之南。實是大地。亦不害漢水八明堂之說。衆議不決。我云。道詵祕記曰。西有孔巖。又有丹書石壁。孔巖則於二地皆在西。須覓丹書可決。及得丹書於仁王洞石上。字畫磨滅。漫不可識。然得此定議建都。但不知面岳指何山。非華山。必負兒岳也。
高麗の肅宗の時、衛尉丞の金謂磾が道詵の秘記に拠って南京に都を遷すことを請い「楊州に木覓壤がありますから、都を立てるに足ります」と言った。王は自ら行って見さだめ、また崔思諏・尹瓘らを遣わして見させた。帰って奏するに「蘆原・海村・竜山などの地は、山と水が都を立てるのに合いません。ただ三角山の面岳の南だけが、山の形と水の勢いが今も昔も符合します。主たる幹の中心の大いなる脈に、壬坐丙向で形に従って都を立てることをお請いいたします」と言ったので、これに従った。後に壬坐丙向の原に竜鳳の帳を埋めた。そうであれば、漢陽が李氏の都となることを高麗ですでに知っていたのである。我が太祖がやがて都を遷そうとされたとき、まず公州の鶏竜山の南に地を見さだめ、工事を起こしてから漢陽を占ったのはなぜか。私が九つ、十のとき、国初の日官である李陽達と同じ里に住んでいた。李は年が八十五、六であったが、精神が衰えず、常に語って「初め漢陽の都を定めるとき、河崙は『道詵の記録に、漢水が明堂に入るという言葉があるから、まさしく母岳の南に立てるべきである』と言ったが、それは必ず今の衍禧宮の地である。私は『華岳の南が実に大いなる地であって、漢水が明堂に入るという説にも差し支えない』と言った。衆議が決しないので、私は『道詵の秘記に、西に孔巖があり、また朱の書を記した石の壁があるとある。孔巖は二つの地のどちらからも西にあるから、ぜひ朱の書を探さなければ決せられない』と言った。仁王洞の石の上で朱の書を得たが、字の画が磨り減って、ぼんやりとして読み取れなかった。しかしこれを得て議を定め、都を立てた。ただ面岳がどの山を指すのかは分からないが、華山でなければ必ず負兒岳であろう」と言った。
61我が国に道教がないという言葉は正しくない
或問於予曰。中國則佛敎道敎並行。而道敎尤盛。我國佛敎雖盛。而道敎絶無。若二法並行。國小民貧。將何以堪。予曰。我國家有昭格署磨尼山塹城醮之類。乃道家之一事。中外村巷里落。雖無道服道言之人。士大夫家每歲初祈福。若繕修營造等事。禳災必用盲。瞽五六七人讀經。其所祝者皆星宿眞君之類。供費不貲。謂我國不行道敎。非料事者也。盲瞽祈福禳災。不見於古人。不行於中國。但我國時俗相傳故事耳。
ある者が私に「中国では仏教と道教がともに行われ、しかも道教がいよいよ盛んですが、我が国は仏教はたしかに盛んでも道教は全くありません。もし二つの法がともに行われれば、国は小さく民は貧しいのに、やがてどうして堪えられましょうか」と問うた。私は「我が国に昭格署や摩尼山の塹城醮のようなものがあるが、すなわち道家の一つの事である。京と地方の村や里に、たしかに道服を着て道家の言葉を語る人はいないが、士大夫の家では年ごとに正月に福を祈り、家を繕い営むような事があれば、災いを祓うのに必ず盲の者を用いる。盲の者が五、六、七人、経を読むが、その祈る相手はみな星宿や真君の類であり、供えの費えも少なくない。我が国に道教が行われていないと言うのは、事を推し量る者ではない」と言った。盲の者が福を祈り災いを祓うことは、古人には見えず、中国でも行われていないので、ただ我が国の世俗に相伝えられた古い事であるにすぎない。
62山水の説は信じるに足りない
山水之說。昉於後漢靑烏子。陶侃郭璞踵而成之。唐有楊筠松。宋有胡舜申。皆碌碌小儒。不足語道理者。喜爲山家禍福之說。一以方位山水之美惡。以定子孫吉凶。牽合傅會。瑣屑叢冗。誕妄至甚。然後之人例皆惑於其說。有數年不葬父母者又有屢發祖先墳塋遷葬者。福未得而禍隨之。今山家者流曰。太王之遷岐。有相其山川原濕之語。周公之遷洛。有澗東瀍西之文。三代以前。非無地理之說。執此爲是。然遷岐遷洛。但取民居道里轉輸之便。非局於龍虎龜雀之說。今國中皇上寢園。同在一局。前朝五百年。君上陵寢。亦同一域。公卿士大夫死必三月而葬。其不擇地明甚。然代各有公侯將相。歷年悠長。山水之說。不足信也。
山水の説は後漢の青烏子から始まり、陶侃と郭璞が踵いでこれを成した。唐に楊筠松があり、宋に胡舜申があったが、いずれも碌々たる小さい儒者であって、道理を語るに足る者ではない。山家の禍福の説を好んで、ひとえに方位と山水の美醜によって子孫の吉凶を定めたので、無理に引いて付け合わせ、こまごまと煩わしく、誕妄なことが甚だしい。それなのに後の人は例によってみなその説に惑わされ、数年たっても父母を葬れない者があり、また幾度も祖先の墳墓を掘って遷し葬る者もある。福は得られずに禍が従う。いま山家の輩は「太王が岐に遷ったとき『その山川と原と湿とを見さだめた』という言葉があり、周公が洛に遷ったとき『澗の東、瀍の西』という文があるので、三代以前にも地理の説がなかったわけではない」と言い、これを取って是とする。しかし岐に遷り洛に遷ったのは、ただ民の住まいと道と運び送ることの便を取ったのであって、青竜・白虎・玄武・朱雀の説に囲われたのではない。いま国中の君主の寝園がみな一つの局の内にともにあり、前朝五百年の君主の陵寝もまた一つの域にともにあった。公卿と士大夫は死ねば必ず三月で葬るので、地を選ばないことが甚だ明らかである。それなのに代ごとにそれぞれ公侯や将相があり、経てきた年が長く久しかったのであるから、山水の説は信じるに足りない。
63三公が伝えた犀の帯
自國初。有三公相傳犀帶一腰。傳必門生傳之得人則何如。或失人則爲世所譏。故不輕傳授。至河文孝公演。傳辛文僖公碩祖。文僖位纔正二品而卒。帶遂不傳。
国初から、三公が相伝える犀の帯が一腰あった。伝えるには必ず門生に伝えるのであるが、人を得ればよいけれども、あるいは人を誤れば世の嘲りとなるので、軽々しく伝え授けなかった。文孝公河演に至って文僖公辛碩祖に伝えたが、文僖は位がようやく正二品に至って死んだので、帯はついに伝わらなくなった。
64文衡の衣と鉢を伝える古い事
文章衣鉢相傳。自有故事。權文景公踶主文衡。病劇。物議在鄭文成公麟。趾文景囑安文靖公止而卒。文靖代之。未幾文靖罷。而文成主之。
文章の衣と鉢を相伝えることには、自ずと古い事がある。文景公権踶が文衡を預かっていて病が重くなると、世の議は文成公鄭麟趾にあった。ところが文景が文靖公安止に頼んで死んだので、文靖がこれに代わった。ほどなく文靖が罷免され、文成がこれを預かった。
65「紫蘇湯が新酒に、蒸し鶏が牛の心臓の焼き物に及ぶものか」
金直提學汶聰明過人。博通經史。尤長於史學。資治綱目通鑑皆磊落在腹。人有問歷代故事者。應聲對曰。在某卷第幾張。百不一失。世宗時撰訓義公之功居多。國朝以來。能通史學。以公爲首。世宗眷佑日隆。早卒不大厥施。公性能酒。嘗在集賢殿。與同僚開話。或曰。宋朝諸學士論茶品。以紫蘇湯爲第一。事林廣記禁中佳味。以蒸鷄爲第一。公微笑曰。紫蘇湯何如甕頭新酒。蒸鷄何如牛心炙。滿坐皆笑。
直提学の金汶は聡明さが人に勝れ、経と史に広く通じ、とくに史学に長じていた。『資治通鑑綱目』と『資治通鑑』がどちらも明らかに腹の中にあったので、人が歴代の古い事を問えば、声に応じて「どの巻の何枚目にある」と答え、百に一つも誤らなかった。世宗の時に『訓義』を作るにあたって、公の功が多かった。国朝以来、史学に通じた者としては公を第一とする。世宗の顧みが日に高かったが、早く死んで、その施しを大きくできなかった。公は性質が酒に強かった。かつて集賢殿で同僚と話を交わしていたとき、ある者が「宋の朝廷の諸学士が茶の品を論じて紫蘇湯を第一とし、『事林広記』の宮中の佳い味では蒸し鶏を第一とした」と言った。公はほほ笑んで「紫蘇湯が甕の口の新しい酒に及ぶものか、蒸し鶏が牛の心臓の焼き物に及ぶものか」と言ったので、満座はみな笑った。
66文星と酒星が精を集めて生んだ一人の賢者
尹文度公淮文章冠一時。世宗朝獨對經幄。然性喜酒過量。一日在家。泥酒大臥。世宗遣中使急召。左右扶起上馬。宿醉未醒。人皆懼之。及至上前。從容敷對。畧無醉色。上命草宣制。揮翰如飛。皆合睿旨。上曰眞天才也。時人語曰。文星酒星聚精生此一賢也。
文度公尹淮は文章が一時代の冠であった。世宗の朝に独り経幄で君に対した。しかし性質が酒を好んで量を越した。ある日、家にあって酒に泥のようになって大いに臥していたところ、世宗が中使を遣わして急に召された。左右が扶け起こして馬に乗せたが、宿した酔いがまだ醒めていなかったので、人々はみな恐れた。上の御前に至ると、静かに申し述べ答え、少しも酔った色がなかった。上が宣制の草を取るよう命じられると、筆を揮うことが飛ぶようであって、すべて上の旨に合った。上は「まことに天才である」と言われた。当時の人は「文星と酒星が精を集めて、この一人の賢者を生んだ」と言った。
67書は晩年にいよいよ進む
成文安公任。眞草隷三法皆妙。先恭惠公曰。仲父獨谷文景公以善書鳴一時。觀汝筆跡。似不墮家業。曰書法晩乃益進。嘗書圓覺寺碑。光陵嘉嘆之。近來書法。公最優。
文安公成任は楷書・草書・隷書の三つの法がみな妙であった。亡くなった恭恵公が「仲父の独谷の文景公は書に巧みで一時代に名が挙がったが、お前の筆跡を見ると、家の業を落とさないようである」と言われた。書の法は晩年にいよいよ進んだ。かつて円覚寺の碑を書いたが、光陵が嘉んで感嘆された。近ごろの書の法では、公が最も優れている。
68三上より三中
兪提學孝通能文章。善談恢。嘗在集賢殿。與諸君論作詩功夫。兪曰。古人以詩於三上尤可以屬思。馬上枕上廁上也。予則不然。在三中。諸君曰何耶。曰。閒中醉中月中也。諸君笑曰。君之三中。果優於三上。
提学の兪孝通は文章に能く、滑稽な話が巧みであった。かつて集賢殿で諸々の者と詩を作る功夫を論じていて、兪は「古人は、詩は三つの上でいよいよ思いを寄せるに足ると言った。馬の上、枕の上、厠の上である。私はそうではなく、三つの中にある」と言った。諸々の者が「何か」と問うと「閑かな中、酔いの中、月の中である」と言った。諸々の者は笑って「君の三中は、果たして三上より優れている」と言った。
69鯨飲堂 — 鯨のように飲む人たち
洪威平公允成。早年八相。家極豪富。日招佳賓開讌會。宴品豐潔。費不下萬錢。雖何曾不能過也。威平酒量甚雄。時黃烈成公守身金靖宣公何。酒量與威平相敵。雖終日痛飮。了無醉色。
威平公洪允成は早い年に相となり、家は極めて豪く富んでいた。日々良い客を招いて宴会を開いたので、宴の品が豊かで清らかで、費えが万銭を下らなかった。何曾であってもこれを越えることはできなかったであろう。威平は酒の量が甚だ雄々しかった。当時、烈成公黄守身と靖宣公金何が、酒の量が威平と相敵し、一日中痛飲しても少しも酔った色がなかった。
70「主人が鯨のように飲むのに客がどうして辞そうか」
光陵嘗號威平。曰鯨飮堂。刻圖書賜之。隣有一儒士。亦好飮。嘗投刺內謁云。鯨飮主人鯨飮客。主人鯨飮客何辭。一時傳笑。
光陵がかつて威平を「鯨飲堂」と呼ばれ、図書を刻んでこれを賜った。隣に一人の儒士があって、これもまた酒を好んだ。かつて名札を入れて奥にお目にかかることを請い「鯨のように飲む主人に鯨のように飲む客、主人が鯨のように飲むのに客がどうして辞そうか」と言ったので、一時、伝え聞いて笑った。
71文衡を継ぐ人の心配はするな
權承旨採早以文章鳴世。早歿。金將軍自雄深惜之。朴舍人以昌曰。子無患主文者之無其人。牧隱逝而陽村主之。陽村逝而春亭主之。春亭逝而尹大提學主之。提學逝而權止齋主之。止齋若逝。南秀文必主之。秀文若逝。我亦在。我逝。將軍亦在。何患採之早歿乎。其論文章日就卑下之意。隱然言表。
承旨の権採は早くから文章で世に名を挙げたが、早く死んだ。将軍の金自雄が深くこれを惜しんだところ、舎人の朴以昌が「君は文衡を預かる人がいないことを憂えるな。牧隠が逝って陽村がこれを預かり、陽村が逝って春亭がこれを預かり、春亭が逝って尹大提学がこれを預かり、提学が逝って権止斎がこれを預かった。止斎がもし逝けば南秀文が必ずこれを預かるであろうし、秀文がもし逝けば私もいる。私が逝けば将軍もいる。どうして権採が早く死んだことを憂えようか」と言った。彼が文章が日々低くなってゆくことを論ずる意が、隠然と言葉の外にあった。
72「橘が淮水を渡れば枳になるというが」
古例。吏曹參議必拜二品。居正以吏曹參議。爲謝恩使赴京。假著金帶而行。人皆謂。我必拜二品。我亦以古例自期。及使事訖還到鴨綠江。義州牧判官來迓船上。語我曰。君移拜禮曹參議。我則脫金帶還着銀帶。與主人相目而笑。我醉賦一絶云。曹聞橘渡淮爲枳。未見金過水作銀。滿坐大笑。
旧い例では、吏曹参議は必ず二品に任じられた。私が吏曹参議として謝恩使となって京に赴くとき、金の帯を借りて締めて行った。人々はみな「私が必ず二品に任じられるであろう」と言い、私もまた旧い例によって自ら期した。使いの事を終えて帰り、鴨緑江に至ると、義州牧の判官が船の上に迎えに来て、私に「あなたは礼曹参議に遷し任じられました」と言った。私は金の帯を外して、もとの銀の帯を締めた。主人と互いに目で合わせて笑った。私は酔って絶句一首を作り「橘が淮水を渡れば枳になるとは聞いたが、金が水を過ぎて銀になるとは見たことがない」と言ったので、満座は大いに笑った。
73趙須と柳方善 — 二人の先生の教え
趙司藝須。博極羣書。無所不通。尤長於詩學。中遭家禍。禁錮者三十餘年。世宗惜其才。晩乃進用授司藝。命集賢殿儒士。輪日往復質問。公應對如響。人皆服其該博。尤精於韓文。人有受業者。公不携書帙。合眼低頭。口誦敎之。嘗曰聰明不如多讀。予於羣書。必讀百遍。是以雖老亦不忘耳。爲詩豪贍俊逸。有晩翠亭集數卷。居正之少也。亦摳衣於先生。得見詩藁。嘗其一臠。今稍稍記臆。但先生無後。藁竟不得。同時有主簿柳方善。亦禁廢不用。學問文章與趙相伯仲。而詩句淸絶過之。世宗亦命集賢儒士。往復質問。多所發揚。居正未釋褐時。與吉昌權公攬上黨韓公明澮。受業於先生者四五年。居正之盜竊文名。得至今日。皆先生賜也。
司芸の趙須は諸々の書を広く究めて、通じないところがなく、とくに詩学に長じていた。中ごろ家の禍に遭って、禁錮されたのが三十余年であった。世宗はその才を惜しまれ、晩年になって進め用い、司芸を授けられた。集賢殿の儒士に命じて日を回して往き来して問わせたところ、公は答えることが響きのようであったので、人々はみなその該く広いことに感服した。とくに韓愈の文に精しかった。学びに来る者があれば、公は書物を手に取らず、目を閉じて頭を垂れたまま、口で暗誦して教えた。かつて「聡明さは多く読むことに及ばない。私は諸々の書を必ず百遍読んだ。それゆえ老いても忘れないだけである」と言った。詩を作れば豪く豊かで、俊く抜きんでていた。『晩翠亭集』数巻がある。居正が若かったときも、先生のもとで衣の裾をかかげて学び、詩稿を見てその一片を味わい、いまも少しずつ記憶している。ただ先生に後がなく、稿をついに得られなかった。同じ時に主簿の柳方善があって、これもまた禁じ廃されて用いられなかった。学問と文章は趙と伯仲し、詩句の清く秀でたことは彼を越えた。世宗がまた集賢殿の儒士に命じて往き来して問わせられたので、発揚されたところが多かった。居正がまだ褐を脱がなかったとき、吉昌の権擥公、上党の韓明澮公とともに、先生のもとで四、五年学んだ。居正が文の名を盗み取って今日に至ったのは、すべて先生の賜である。
74詩学が大いに成ったのは二人の先生の力である
本朝開國以後。詞學盡廢。歲戊午始設進士科。中場用詞賦。自此詩學大成。皆二先生訓誨之力也。柳則有泰齋集。行于世。
本朝の開国以後、詞学がすべて廃れた。戊午の年に初めて進士科を設け、中場に詞賦を用いたので、これより詩学が大いに成った。すべて二人の先生が教え諭した力である。柳には『泰斎集』があって、世に行われている。
75「賈島の文章は若い日の事」
金直殿久冏。以能詩著稱。時卞文肅公季良主斯文。金多短之。文肅頗不悅。嘗有詩誚金曰。賈島文章少日事。橫渠學問晩年時。蓋金少爲僧。賈島亦少爲僧。橫渠晩逃佛老。故云耳。一時傳笑。直殿早逝。
直殿の金久冏は詩に能くて名が顕れた。当時、文肅公卞季良が斯文を預かっていたが、金が彼を多くそしったので、文肅はかなり悦ばなかった。かつて詩があって金を皮肉り「賈島の文章は若い日の事であり、横渠の学問は晩年の時である」と言った。おおよそ金が若いとき僧となり、賈島も若いとき僧となり、横渠は晩年に仏と老から逃れたので、そう言ったにすぎない。一時、伝え聞いて笑った。直殿は早く世を去った。
76夜を通して蔵書閣の書を読み尽くした成侃
成修撰侃自幼博覽廣記。無書不讀。經史百家諸子。天文地理醫藥卜筮道經釋敎算法譯語。皆涉獵其徑庭。聞士大夫朋友之家有幽經辟書。亦必求見乃已。予之在集賢殿。侃求見藏書閣中祕書。予曰。內祕書不宜輕示外人。難之。一日獨儤直。忽聞磬咳聲。乃侃也。求見祕書益切。乃許之。終夜張燈。不交一睫。閱之幾盡。後言閣中書籍體制卷帙。亦不少差。後十年侃亦登第入集賢殿。長坐閣中。左右書籍。窮日盡夜。閱盡群書。同列以書淫傳癖譏之。然讀過勞消瘦。成年三十而卒。惜也。
修撰の成侃は幼いときから広く見て広く記憶し、読まない書がなかった。経・史・百家と諸子、天文・地理・医薬・卜筮・道経・釈教・算法・訳語に、みなその小径を渉猟した。士大夫や友の家に幽かな経や珍しい書があると聞けば、やはり必ず求めて見るまではやまなかった。私が集賢殿にいたとき、成侃が蔵書閣の中の秘書を見ることを求めた。私は「内の秘書は外の人に軽々しく見せるものではない」と言って難色を示した。ある日、独りで宿直していると、ふと咳払いの声が聞こえたが、すなわち成侃であった。秘書を見ることを求めるのがいよいよ切実であったので、そこでこれを許した。夜を通して灯を張り、一度もまぶたを合わせずに、ほとんど読み尽くした。後に閣の中の書籍の体裁と巻帙を語ったが、やはり少しも違わなかった。十年の後、成侃も及第して集賢殿に入り、長く閣の中に座って左右の書籍を、日を尽くし夜を尽くして諸々の書を読み尽くしたので、同列は「書に淫し伝に癖がある」と嘲った。しかし読み過ぎて労して痩せ、年三十で死んだ。惜しいことである。
77朱の衣と黒の衣 — 台と諫の礼度
諫院職諫諍。無他聽訟折獄之事。日以飮酒爲事。趙碩磵詩曰。一杯一杯復一杯。大諫醉倒春風前。正謂此也。院中故事。入直官未起寢。院吏隔窓呼曰椽吏拜謁。已起寢。具冠帶而坐。吏輩擧油蜜果案進呈。饌品亦極豐潔。以鵝卵大杯。行數巡而止。齋坐日亦設果案。歡飮終日。如此等事甚多。予拜諫大夫。果案等事已廢。椽吏拜謁如舊。又有薇垣禊飮會。儒士皆慕之。憲府糾察百官公務繁劇。凡事務皆嚴正愼肅。然臺中禮度頗有殊異。與他司不同。曰茶時。曰齊坐。禮度各異。執義出入。臺吏挾腋而行。襲前朝老執義故事也。予再爲大司憲。禮度小小節次。頗裁抑之。然至今未罷者。臺長將罷仕。臺吏一人俯伏大叫曰申時者三。小頃又呼曰都廳封櫃臺長可出。然後臺長以次出。若値禁酒。臺官不飮。諫官歡飮自若。諫官以朱衣爲前驅。臺官以烏衣爲前駈。嘗於禁酒時。朱衣大醉詆烏衣曰。我則日月沈。醉面朱故衣亦朱。汝則如汝臺官酸冷。不飮酒。面長有黑色故衣亦烏。聞者皆笑。
諫院は諫争を職分として、他に訟を聴き獄を決する事がなかったので、日々酒を飲むことを事とした。碩澗の趙云矻の詩に「一杯一杯また一杯、大諫が春風の前に酔い倒れた」とあるのが、まさしくこれを言ったものである。院の中の古い事では、入直の官がまだ寝床から起きていなければ、院の吏が窓の向こうから「掾吏が拝謁いたします」と呼ぶ。すでに起きていれば冠と帯を具えて座るので、吏たちが油蜜果の膳を持ち上げて奉る。饌の品もまた極めて豊かで清らかである。鵝鳥の卵ほどの大きな盃で二、三巡回してやめる。斎坐の日にも果物の膳を設け、一日中喜んで飲む。このような事が甚だ多かった。私が諫大夫に任じられたときは、果物の膳のような事はすでに廃れており、掾吏が拝謁することは昔のままであった。また薇垣の契の酒宴があって、儒士がみなこれを慕った。憲府は百官を糾察して公務が煩わしく忙しいので、すべての事務をみな厳正に慎み厳かに行った。しかし台の中の礼度はかなり際立って、他の官司と同じでなかった。「茶時」といい「斉坐」といって、礼度がそれぞれ異なった。執義が出入りするときは台の吏が脇を抱えて歩いたが、前朝の老執義の古い事を受け継いだものである。私は二度大司憲となって、礼度の細々した手順をかなり裁ち抑えた。しかし今も廃せられていないものがある。台長がやがて仕を罷めようとすると、台の吏の一人がひれ伏して大声で「申時」と三度叫び、しばらくして「都庁が櫃を封じましたので、台長はお出になってよろしゅうございます」と呼んでから、台長が順に出るのである。もし酒を禁じるときに当たれば、台官は飲まず、諫官は喜んで飲むのを常とした。諫官は朱の衣で前を駆らせ、台官は黒の衣で前を駆らせる。かつて酒を禁じるとき、朱の衣が大いに酔って黒の衣をそしり「私は日も月も沈むまで飲んで酔った顔が朱いので、衣も朱い。お前は、お前の台官のように酸く冷たくて酒を飲まないので、顔が長く黒い色があって、衣も黒い」と言ったので、聞く者はみな笑った。
78韓魏公の広い度量 — 年を偽った官
高麗時省。五樞七宰相。數小相遞授職。故官高居閒者居半。七十必致仕。諱年齒不致仕者。物論鄙之。故年雖未滿七十。解組綬乞退者亦多。國朝以來。雖有致仕之法。大小朝官貪祿。冒年仍仕者。滔滔皆是。近日臺中疾其年甚老强從仕者。移文該曹。考年甲欲劾之。予曰。宋韓魏公當國。有朝官年踰七十不致仕者。同列欲劾之。魏公曰。冒年不致仕。過則在彼。苛摘人隱蔽之事。置之罪罟。我輩亦豈得哉。未幾朝官赧愧。致仕而去。魏公弘量大度宜可法也。議遂寢。自此年高者。稍稍致仕。
高麗の時、省には五つの枢と七人の宰相があって、数が少なく互いに代わりながら職を授けた。それゆえ官が高くて閑かに過ごす者が半ばであった。七十になれば必ず官を退き、年を隠して退かない者は、世の議が低く見た。それゆえ年がたとえ七十に満たなくても、印の紐を解いて退くことを乞う者もまた多かった。国朝以来、たしかに致仕の法はあるが、大小の朝官が禄を貪り、年を冒してそのまま仕える者が、滔々とみなそうである。近ごろ台の中で、年が甚だ老いているのに強いて仕を続ける者を憎み、該当の曹に文を送り、年を考えて弾劾しようとした。私は「宋の韓魏公が国を預かっていたとき、朝官のうちに年が七十を越えて致仕しない者があって、同列が弾劾しようとした。魏公は『年を冒して致仕しないのは、咎が彼にある。人が隠し覆った事を苛く摘み出して罪の網に置くことを、我々とてどうして善しとできようか』と言った。ほどなくその朝官は顔を赤らめて恥じ、致仕して去った。魏公の広い度量と大きな器は、まさしく法とするに足る」と言ったので、議はついにやんだ。これより年の高い者が少しずつ致仕した。
79「馬勝」と「車有」 — 将棋盤の戯れ
宰樞有名馬勝。朝官有名車有者。李文安公石亨。金文敬公禮蒙。同里閈。一日相對象戲。居正與宋中樞處寬後至。局已殘。見李有兩馬而勢强。金有一車而勢弱。余曰。其唯馬勝乎。金應聲曰。吾非車有乎。相與大笑。
宰枢のうちに馬勝という名の者があり、朝官のうちに車有という名の者があった。文安公李石亨と文敬公金礼蒙が同じ里に住んでいた。ある日、向かい合って象戯(将棋)を指していたとき、居正が中枢の宋処寛とともに後から至ると、局がすでに残り少なになっていた。見ると、李は馬が二つあって勢いが強く、金は車が一つあって勢いが弱かった。私が「それこそ馬勝ではないか」と言うと、金は声に応じて「私は車有ではないか」と言い、互いに大いに笑った。
夾注 1
名による言葉遊びである。「馬勝」は「馬が勝つ」とも、「車有」は「車がある」とも読める。 ― 訳者