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高麗

新唐書 東夷伝(新唐書に記された東夷の記録) 新唐書 東夷傳 · 欧陽脩・宋祁 · 1060年(北宋・嘉祐5年) · 段落 27 · 漢字 6,621字 · 朗読 26.5分

新唐書 東夷伝(新唐書に記された東夷の記録) 全一巻 旧唐書を百年後に書き改めた東夷伝。太宗の三つの計略と安市城の全容がより生々しく、新羅の条には骨品と和白、そして張保皋・鄭年の話に「誰が東夷に人がいないと言うのか」という賛が付けられた。日本の条は天皇の系譜を初めて備えて記した。

1鴨淥水と平壌

高麗,本扶餘別種也。地東跨海距新羅,南亦跨海距百濟,西北度遼水與營州接,北靺鞨。其君居平壤城,亦謂長安城,漢樂浪郡也,去京師五千里而贏,隨山屈繚爲郛,南涯浿水,王築宮其左。又有國內城、漢城,號別都。水有大遼、少遼:大遼出靺鞨西南山,南曆安市城;少遼出遼山西,亦南流,有梁水出塞外,西行與之合。有馬訾水出靺鞨之白山,色若鴨頭,號鴨淥水,曆國內城西,與鹽難水合,又西南至安市,入於海。而平壤在鴨淥東南,以巨艫濟人,因恃以爲塹。

高麗はもともと扶余の別種である。地は東に海を越えて新羅に至り、南もまた海を越えて百済に至り、西北は遼水を渡って営州と接し、北は靺鞨である。その君は平壌城に住む。長安城ともいい、漢の楽浪郡で、京師から五千里あまりである。山の勢いに従って曲がりくねらせて城郭を巡らせ、南は浿水に臨み、王はその左に宮を築いた。また国内城と漢城があって、別都と呼ぶ。川には大遼と少遼がある。大遼は靺鞨の西南の山から出て、南へ安市城を過ぎる。少遼は遼山の西から出て、やはり南へ流れ、塞の外から出た梁水が西へ流れてこれと合わさる。馬訾水があり、靺鞨の白山から出る。色が鴨の頭のようなので鴨淥水と呼び、国内城の西を過ぎて塩難水と合わさり、また西南へ安市に至って海に入る。平壌は鴨淥の東南にあり、大きな船で人を渡すので、これを恃んで堀としている。

2十二の官

官凡十二級:曰大對廬,或曰吐捽;曰鬱折,主圖簿者;曰太大使者;曰帛衣頭大兄,所謂帛衣者,先人也,秉國政,三歲一易,善職則否,凡代日,有不服則相攻,王爲閉宮守,勝者聽爲之;曰大使者;曰大兄;曰上位使者;曰諸兄;曰小使者;曰過節;曰先人;曰古鄒大加。其州縣六十。大城置傉薩一,比都督;餘城置處閭近支,亦號道使,比刺史。有參佐,分幹。有大模達,比衛將軍;末客,比中郎將。

官は全部で十二級ある。大対廬という。吐捽ともいう。鬱折という。図と簿をつかさどる者である。太大使者という。帛衣頭大兄という。いわゆる帛衣とは先人のことで、国政を握り、三年に一度交替するが、職をよく務めればそのままである。交替の日に服さない者があれば互いに攻め合い、王は宮を閉ざして守り、勝った者をこれに就かせる。大使者という。大兄という。上位使者という。諸兄という。小使者という。過節という。先人という。古鄒大加という。その州県は六十ある。大きな城には傉薩を一人置き、都督に比される。残りの城には処閭近支を置き、道使とも呼び、刺史に比される。参佐があって、事を分けてつかさどる。大模達があり、衛将軍に比される。末客は、中郎将に比される。

3五つの部

分五部:曰內部,即漢桂婁部也,亦號黃部;曰北部,即絕奴部也,或號後部;曰東部,即順奴部也,或號左部;曰南部,即灌奴部也,亦號前部;曰西部,即消奴部也。

五つの部に分かれる。内部という。すなわち漢のときの桂婁部で、黄部ともいう。北部という。すなわち絶奴部で、後部ともいう。東部という。すなわち順奴部で、左部ともいう。南部という。すなわち灌奴部で、前部ともいう。西部という。すなわち消奴部である。

4風俗と局堂

王服五采,以白羅制冠,革帶皆金扣。大臣青羅冠,次絳羅,珥兩鳥羽,金銀雜扣,衫筒袖,褲大口,白韋帶,黃革履。庶人衣褐,戴弁。女子首巾幗。俗喜弈、投壺、蹴鞠。食用籩、豆、簠、簋、罍、洗。居依山谷,以草茨屋,惟王宮、官府、佛廬以瓦。窶民盛冬作長坑,煴火以取暖。其治,峭法以繩下,故少犯。叛者叢炬灼體,乃斬之,籍入其家。降、敗、殺人及剽劫者斬,盜者十倍取償,殺牛馬者沒爲奴婢,故道不掇遺。婚娶不用幣,有受者恥之。服父母喪三年,兄弟逾月除。俗多淫祠,禮靈星及日、箕子、可汗等神。國左有大穴曰神隧,每十月,王皆自祭。人喜學,至窮里廝家,亦相矜勉,衢側悉構嚴屋,號局堂,子弟未婚者曹處,誦經習射。

王は五つの彩りの衣を着て、白い羅で冠を作り、革の帯にはみな金の留め具をつける。大臣は青い羅の冠、その次は絳の羅の冠で、二つの鳥の羽を挿し、金と銀を混ぜた留め具をつけ、筒袖の衫に口の大きな袴、白い韋の帯、黄色い革の履である。庶民は褐の衣を着て弁をかぶり、女は頭に巾幗をかぶる。風俗は碁・投壺・蹴鞠を好む。食事には籩・豆・簠・簋・罍・洗を用いる。住まいは山の谷に寄り、草で屋根を葺き、ただ王宮と官府と仏堂だけが瓦を用いる。貧しい民は真冬に長い坑を作り、火を燃やして暖を取る。その政治は峻しい法で下の者を取り締まるので、犯す者が少ない。叛いた者は、松明を集めて体を焼いた後に斬り、その家を没収する。降った者、敗れた者、人を殺した者や剽り劫かした者は斬り、盗んだ者は十倍にして償わせ、牛や馬を殺した者は没して奴婢とするので、道に落ちているものを拾わない。婚姻に幣は用いず、受け取る者があれば恥とする。父母の喪は三年を服し、兄弟は月を越えれば除く。風俗には淫祠が多く、霊星および日、箕子、可汗などの神を礼する。国の左に大きな穴があって神隧という。十月ごとに、王はみな自ら祭る。人々は学ぶことを好み、貧しい里の下働きの家に至るまで互いに慎んで励み、道の傍らにはどこも頑丈な家を構えて局堂と呼び、まだ婚していない子弟が群れて住み、経を誦み、射を習う。

5栄留王と和親

隋末,其王高元死,異母弟建武嗣。武德初,再遣使入朝。高祖下書脩好,約高麗人在中國者護送,中國人在高麗者敕遣還。於是建武悉搜亡命歸有司,且萬人。後三年,遣使者拜爲上柱國、遼東郡王、高麗王。命道士以像法往,爲講《老子》。建武大悅,率國人共聽之,日數千人。帝謂左右曰:「名實須相副。高麗雖臣于隋,而終拒煬帝,何臣之爲?朕務安人,何必受其臣?」裴矩、溫彥博諫曰:「遼東本箕子國,魏晉時故封內,不可不臣。中國與夷狄,猶太陽於列星,不可以降。」乃止。明年,新羅、百濟上書,言建武閉道,使不得朝,且數侵入。有詔散騎侍郎硃子奢持節諭和,建武謝罪,乃請與二國平。太宗已禽突厥頡利,建武遣使者賀,并上封域圖。帝詔廣州司馬長孫師臨瘞隋士戰胔,毀高麗所立京觀。建武懼,乃築長城千里,東北首扶餘,西南屬之海。久之,遣太子桓權入朝獻方物,帝厚賜齎,詔使者陳大德持節答勞,且觀亹。

隋の末、その王の高元が死に、異母弟の建武が嗣いだ。武徳の初め、二度使者を遣わして入朝した。高祖は書を下して好を修め、中国にいる高麗の人は護送し、高麗にいる中国の人は勅して帰らせることを約した。そこで建武は亡命していた者をことごとく探して役所に帰し、ほぼ一万人であった。三年の後、使者を遣わして上柱国・遼東郡王・高麗王に拝し、道士に命じて像法を持って行かせ、『老子』を講じさせた。建武は大いに悦び、国の人を率いてともにこれを聴き、日に数千人であった。帝は左右に言った。「名と実は相かなうべきである。高麗は隋に臣としたが、ついに煬帝を拒んだ。何の臣であろうか。朕は人を安んずることに務めるだけである。どうしてその臣たることを受ける必要があろうか。」裴矩と温彦博が諫めて言った。「遼東はもともと箕子の国であり、魏・晋のときの旧い封域の内です。臣としないわけにはいきません。中国と夷狄は、太陽と列なる星のようなものです。降ろすことはできません。」そこでやめた。翌年、新羅と百済が書を上り、建武が道を閉ざして朝することができないようにし、しかも何度も侵入してくると言った。詔して散騎侍郎の朱子奢に節を持たせて和を諭させたので、建武は罪を謝し、二国と和平することを請うた。太宗がすでに突厥の頡利を捕らえると、建武は使者を遣わして賀し、あわせて封域の図を上った。帝は詔して広州司馬の長孫師に、隋の兵士の戦いの骸を埋め、高麗が立てた京観を毀させた。建武は懼れ、そこで長城千里を築き、東北は扶余に始まり、西南は海に属した。久しくして、太子の桓権を遣わして入朝させ方物を献じたので、帝は厚く賜り、詔して使者の陳大徳に節を持たせて答礼にねぎらわせ、あわせて形勢を観させた。

6陳大徳の偵察

大德入其國,厚餉官守,悉得其纖曲。見華人流客者,爲道親戚存亡,人人垂涕,故所至士女夾道觀。建武盛陳兵見使者。大德還奏,帝悅。大德又言:「聞高昌滅,其大對廬三至館,有加禮焉。」帝曰:「高麗地止四郡,我發卒數萬攻遼東,諸城必救,我以舟師自東萊帆海趨平壤,固易。然天下甫平,不欲勞人耳。」

大徳はその国に入り、守りの官人たちに厚く贈ったので、細かいところまでことごとく知ることができた。流れ着いて客となっている華人を見ると、親戚の生死を語ってやったので、人々は涕を垂れ、それゆえ行く先々で男女が道を挟んで見物した。建武は兵を盛んに並べて使者に会った。大徳が帰って奏すると、帝は悦んだ。大徳はまた「高昌が滅んだと聞くと、その大対廬が三度館に来て、礼を加えました」と言った。帝は言った。「高麗は地が四郡にとどまる。私が兵数万を発して遼東を攻めれば、諸城は必ず救いに来るであろう。私が舟師をもって東萊から海を渡って平壌に向かえば、まことに易しい。しかし天下は平らいだばかりで、人を労らせたくないだけである。」

7蓋蘇文の政変

有蓋蘇文者,或號蓋金,姓泉氏,自云生水中以惑衆。性忍暴。父爲東部大人、大對廬,死。蓋蘇文當嗣,國人惡之,不得立。頓首謝衆,請攝職,有不可,雖廢無悔。衆哀之,遂嗣位。殘凶不道,諸大臣與建武議誅之,蓋蘇文覺,悉召諸部,紿雲大閱兵,列饌具請大臣臨視,賓至盡殺之,凡百餘人。馳入宮殺建武,殘其屍投諸溝。更立建武弟之子藏爲王,自爲莫離支,專國,猶唐兵部尚書、中書令職云。貌魁秀,美須髯,冠服皆飾以金,佩五刀,左右莫敢仰視。使貴人伏諸地,踐以升馬。出入陳兵,長呼禁切,行人畏竄,至投坑穀。

蓋蘇文という者があり、蓋金とも呼ばれ、姓は泉氏である。自ら水の中から生まれたと言って衆を惑わした。性質は残忍で荒々しかった。父が東部大人・大対廬であって死んだ。蓋蘇文が嗣ぐべきであったが、国の人が憎んで立つことができなかった。そこで頭を地につけて衆に謝し、職を摂ることを請い、だめなら廃されても悔いはないと言った。衆は哀れみ、ついに位を嗣いだ。残忍で凶悪、人の道に外れていたので、諸大臣は建武と議ってこれを誅そうとした。蓋蘇文は覚り、諸部をことごとく召し、大いに兵を閲すると偽って、饌を並べて大臣たちを請いて臨み観させ、賓が至るとみな殺した。全部で百余人であった。馳せて宮に入って建武を殺し、その屍をばらばらにして溝に投げ入れた。改めて建武の弟の子の蔵を立てて王とし、自ら莫離支となって国を独占した。唐の兵部尚書と中書令の職のようなものだという。容貌は大きく秀でており、鬚と髯は美しく、冠と服はみな金で飾り、五つの刀を佩びたので、左右の者は敢えて仰ぎ見なかった。貴人を地に伏させ、これを踏んで馬に乗った。出入りには兵を並べ、長く呼んで厳しく止めたので、行く人は畏れて逃げ、坑や谷に身を投げるまでであった。

8喪に乗じて伐たない

帝聞建武爲下所殺,惻然遣使者持節弔祭。或勸帝可遂討之,帝不欲因喪伐罪,乃拜藏爲遼東郡王、高麗王。帝曰:「蓋蘇文殺君攘國,朕取之易耳,不願勞人,若何?」司空房玄齡曰:「陛下士勇而力有餘,戢不用,所謂'止戈爲武'者。」司徒長孫無忌曰:「高麗無一介告難,宜賜書安尉之,隱其患,撫其存,彼當聽命。」帝曰:「善。」

帝は建武が下の者に殺されたと聞き、惻れんで使者を遣わし、節を持たせて弔い祭らせた。ある者がこの機に討ってよいと勧めたが、帝は喪に乗じて罪を伐つことを望まず、そこで蔵を遼東郡王・高麗王に拝した。帝は言った。「蓋蘇文は君を殺して国を奪った。朕がこれを取るのは易しい。ただ人を労らせたくないのだが、どうであろうか。」司空の房玄齢が「陛下の士は勇ましく力も余っておりますのに、収めて用いられません。いわゆる〈戈を止めるを武とする〉というものです」と言い、司徒の長孫無忌は「高麗から一人も難を告げてまいりません。書を賜って安んじ慰め、その患いを包み、残った者を撫でられれば、彼らは命を聴くでしょう」と言った。帝は「よい」と言った。

9三つの計略

會新羅遣使者上書言:「高麗、百濟聯和,將見討。謹歸命天子。」帝問:「若何而免?」使者曰:「計窮矣,惟陛下哀憐!」帝曰:「我以偏兵率契丹、靺鞨入遼東,而國可紓一歲,一策也。我以絳袍丹幟數千賜而國,至,建以陣,二國見,謂我師至,必走,二策也。百濟恃海,不修戎械,我以舟師數萬襲之;而國女君,故爲鄰侮,我以宗室主而國,待安則自守之,三策也。使者計孰取?」使者不能對。於是遣司農丞相里玄獎以璽書讓高麗,且使止勿攻。使未至,而蓋蘇文已取新羅二城。玄獎諭帝旨,答曰:「往隋見侵,新羅乘邅奪我地五百里,今非盡反地,兵不止。」玄獎曰:「往事烏足論邪?遼東故中國郡縣,天子且不取,高麗焉得違詔?」不從。玄獎還奏,帝曰:「莫離支殺君,虐用其下如擭阱,怨痛溢道,我出師無名哉?」諫議大夫褚遂良曰:「陛下之兵度遼而克固善,萬分一不得逞,且再用師,再用師,安危不可億。」兵部尚書李勣曰:「不然。

ちょうど新羅が使者を遣わして書を上った。「高麗と百済が和を結び、まさに討たれようとしております。謹んで天子に命をお預けします。」帝は「どうすれば免れるか」と問うた。使者は「計は窮まりました。ただ陛下の哀れみを願うばかりです」と言った。帝は言った。「私が一隊の兵で契丹・靺鞨を率いて遼東に入れば、おまえの国は一年を延ばせる。これが一つの計である。私が絳の袍と丹の旗数千をおまえの国に賜り、着いたらそれを陣に立てさせれば、二国はそれを見て我が師が来たと思い、必ず走る。これが二つの計である。百済は海を恃んで武器を修めていないから、私が舟師数万でこれを襲う。おまえの国は女が君であるから、隣に侮られる。私が宗室の者をおまえの国の主とし、安らかになるのを待って自ら守らせる。これが三つの計である。使者はどの計を取るか。」使者は答えることができなかった。そこで司農丞の相里玄奨を遣わし、璽書をもって高麗を責め、あわせて攻めるのをやめさせた。使いが至る前に、蓋蘇文はすでに新羅の二城を取っていた。玄奨が帝の旨を諭すと、答えて言った。「さきに隋に侵されたとき、新羅は難に乗じて我が地五百里を奪った。いま地をすべて返さないなら、兵はやまない。」玄奨は「過ぎたことをどうして論ずるに足ろうか。遼東はもと中国の郡県で、天子すら取られないのに、高麗がどうして詔に違えるのか」と言ったが、従わなかった。玄奨が帰って奏すると、帝は「莫離支は君を殺し、その下の者を罠にかけるように虐げて、怨みと痛みが道に溢れている。私が師を出すのに名がないであろうか」と言った。諫議大夫の褚遂良は「陛下の兵が遼を渡って克てばまことによろしいですが、万に一つ思うようにならず、また師を用いることになれば、また師を用いれば、安危は推し量れません」と言った。兵部尚書の李勣が言った。「そうではありません。

10李勣の反論

曩薛延陀盜邊,陛下欲追擊,魏徵苦諫而止。向若擊之,一馬不生返。後復畔擾,至今爲恨。」帝曰:「誠然。但一慮之失而尤之,後誰爲我計者?」新羅數請援,乃下吳船四百柁輸糧,詔營州都督張儉等發幽、營兵及契丹、奚、靺鞨等出討。會遼溢,師還。莫離支懼,遣使者內金,帝不納。使者又言:「莫離支遣官五十入宿衛。」帝怒責使者曰:「而等委質高武,而不伏節死義,又爲逆子謀,不可赦。」悉下之獄。

さきに薛延陀が辺を盗んだとき、陛下は追い撃とうとされましたが、魏徴が苦しく諫めてお止めになりました。あのとき撃っていれば、馬一頭も生きて返らなかったでしょう。後に再び叛いて騒ぎ、今に至るまで恨みとなっております。」帝は「まことにそうだ。ただ一度の思慮の失いを咎めるだけなら、後に誰が私のために計を立てようか」と言った。新羅が何度も援けを請うたので、そこで呉の船四百艘を下して糧を運ばせ、詔して営州都督の張倹たちに幽州・営州の兵および契丹・奚・靺鞨などを発して出て討たせた。ちょうど遼水が溢れたので、師は帰った。莫離支は懼れ、使者を遣わして金を納れたが、帝は受けなかった。使者はまた「莫離支が官五十人を入れて宿衛させます」と言った。帝は怒って使者を責め、「おまえたちはみな高武に身を委ねておきながら、節に伏して義に死ぬこともせず、さらに逆らう子のために謀っている。赦すことはできない」と言い、ことごとく獄に下した。

夾注 1

高武

高武は、前に出てきた建武である。底本はこの一か所だけ別の名で記している。本文に挟み込むと、帝が自分の言葉を自ら注釈する形になるので、脇注に移した。― 訳者

11親征を決める

於是帝欲自將討之,召長安耆老勞曰:「遼東故中國地,而莫離支賊殺其主,朕將自行經略之,故與父老約:子若孫從我行者,我能拊循之,毋庸恤也。」即厚賜布粟。群臣皆勸帝毋行,帝曰:「吾知之矣,去本而就末,舍高以取下,釋近而之遠,三者爲不祥,伐高麗是也。然蓋蘇文弑君,又戮大臣以逞,一國之人延頸待救,議者顧未亮耳。」於是北輸粟營州,東儲粟古大人城。帝幸洛陽,乃以張亮爲平壤道行軍大總管,常何、左難當副之,冉仁德、劉英行、張文幹、龐孝泰、程名振爲總管,帥江、吳、京、洛募兵凡四萬,吳艘五百,泛海趨平壤。以李勣爲遼東道行軍大總管,江夏王道宗副之,張士貴、張儉、執失思力、契苾何力、阿史那彌射、薑德本、曲智盛、吳黑闥爲行軍總管隸之,帥騎士六萬趨遼東。詔曰:「朕所過,營頓毋飭,食毋豐怪,水可涉者勿作橋樑,行在非近州縣不得令學生、耆老迎謁。朕昔提戈撥亂,無盈月儲,猶所響風靡。今幸家給人足,只恐勞於轉餉,故驅牛羊以飼軍。且朕必勝有五:以我大擊彼小,以我順討彼逆,以我安乘彼亂,以我逸敵彼勞,以我悅當彼怨,渠憂不克邪!」又發契丹、奚、新羅、百濟諸君長兵悉會。

そこで帝は自ら率いてこれを討とうとし、長安の年老いた者たちを召してねぎらって言った。「遼東はもと中国の地であるのに、莫離支が賊としてその主を殺した。朕は自ら行ってこれを経略しようと思う。それゆえ父老たちと約束する。子や孫で私に従って行く者は、私がよく労り撫でるから、心配しなくてよい。」すぐに布と粟を厚く賜った。群臣はみな帝が行かないよう勧めたが、帝は言った。「私も分かっている。本を去って末に就き、高いものを捨てて低いものを取り、近いものを放って遠くへ行く、この三つは不祥である。高麗を伐つのはそれである。しかし蓋蘇文は君を弑し、さらに大臣を戮して思いのままにし、一国の人は首を延ばして救いを待っている。議する者が、まだそれを見通していないだけである。」そこで北は営州に粟を運び、東は古大人城に粟を貯えた。帝は洛陽に行幸し、そこで張亮を平壌道行軍大総管とし、常何・左難当を副とし、冉仁徳・劉英行・張文幹・龐孝泰・程名振を総管として、江・呉・京・洛で募った兵あわせて四万と呉の船五百艘で、海に浮かんで平壌へ向かわせた。李勣を遼東道行軍大総管とし、江夏王道宗を副とし、張士貴・張倹・執失思力・契苾何力・阿史那弥射・姜徳本・曲智盛・呉黒闥を行軍総管としてこれに属させ、騎士六万を率いて遼東へ向かわせた。詔して言った。「朕が通るところでは、営や宿を飾るな。食は豊かにも珍しくもするな。歩いて渡れる水に橋を架けるな。行在所の近くの州県でなければ、学生や年老いた者に迎えて謁させるな。朕が昔、戈を提げて乱を払ったときは一月分の貯えもなかったのに、それでも向かうところは風に靡くようであった。いまは幸いに家ごとに足り、人ごとに足りている。ただ糧を運ぶ労が心配なので、牛と羊を駆って軍に食わせる。それに朕が必ず勝つ理由が五つある。我が大をもって彼の小を撃ち、我が順をもって彼の逆を討ち、我が安をもって彼の乱に乗じ、我が逸をもって彼の労に当たり、我が悦をもって彼の怨に当たる。どうして克てないことを憂えようか。」また契丹・奚・新羅・百済の諸君長の兵を発して、ことごとく会わせた。

12定州から遼東へ

十九年二月,帝自洛陽次定州,謂左右曰:「今天下大定,唯遼東未賓,後嗣因士馬盛強,謀臣導以征討,喪亂方始,朕故自取之,不遺後世憂也。」帝坐城門,過兵,人人撫慰,疾病者親視之,敕州縣治療,士大悅。長孫無忌白奏:「天下符魚悉從,而宮官止十人,天下以爲輕神器。」帝曰:「士度遼十萬,皆去家室。朕以十人從,尚恧其多,公止勿言!」帝身屬橐房,結兩箙於鞍。四月,勣績濟遼水,高麗皆嬰城守。帝大饗士,帳幽州之南,詔長孫無忌誓師,乃引而東。

十九年二月、帝は洛陽から定州に次し、左右に言った。「いま天下は大いに定まったが、ただ遼東だけが服していない。後の嗣が士馬の盛んで強いことに頼り、謀臣が征討へ導けば、喪乱がそこから始まる。朕はそれゆえ自らこれを取り、後の世に憂いを遺さないのである。」帝は城門に坐して、通る兵を人ごとに撫で慰め、病んだ者は親しく見て、州県に勅して治療させたので、士は大いに悦んだ。長孫無忌が奏して言った。「天下の符魚はことごとく従っておりますのに、宮官は十人にとどまります。天下は神器を軽んじていると思うでしょう。」帝は「士は十万が遼を渡り、みな家室を離れている。朕は十人を従えてさえ、なお多いのを恥じている。公はもう言うな」と言った。帝は自ら箭筒を身につけ、二つの箙を鞍に結んだ。四月、李勣が遼水を渡ると、高麗はみな城に籠って守った。帝は士を大いに饗し、幽州の南に帳を張り、詔して長孫無忌に師の前で誓わせ、そのうえで率いて東へ向かった。

13遼東城の陥落

勣攻蓋牟城,拔之,得戶二萬,糧十萬石,以其地爲蓋州。程名振攻沙卑城,夜入其西,城潰,虜其口八千,遊兵鴨淥上。勣遂圍遼東城。帝次遼澤,詔瘞隋戰士露骼。高麗發新城、國內城騎四萬救遼東。道宗率張乂君逆戰,君乂卻。道宗以騎馳之,虜兵辟易,奪其梁,收散卒,高以望,見高麗陣囂,急擊破之,斬首千餘級,誅君乂以徇。帝度遼水,徹杠彴,堅士心。營馬首山,身到城下,見士填塹,分負之,重者馬上持之'群臣震懼,爭挾塊以進。城有硃蒙祠,祠有鎖甲、銛矛,妄言前燕世天所降。方圍急,飾美女以婦神,誣言硃蒙悅,城必完。勣列拋車,飛大石過三百步,所當輒潰,虜積木爲樓,結絙罔,不能拒。以沖車撞陴屋,碎之。時百濟上金旐鎧,又以玄金爲山五文鎧,士被以從。帝與勣會,甲光炫日。會南風急,士縱火焚西南,熛延城中,屋幾盡,人死于燎者萬餘。衆登陴,虜蒙盾以拒,士舉長矛舂之,藺石如雨,城遂潰,獲勝兵萬,戶四萬,糧五十萬石。以其地爲遼州。初,帝自太子所屬行在,舍置一烽,約下遼東舉烽,是日傳燎入塞。

勣は蓋牟城を攻めてこれを抜き、戸二万と糧十万石を得て、その地を蓋州とした。程名振は沙卑城を攻め、夜にその西から入ると城は潰え、その人口八千を捕らえ、遊兵が鴨淥の上まで至った。勣はついに遼東城を囲んだ。帝は遼沢に次し、詔して隋の戦士の露わな骸を埋めた。高麗は新城・国内城の騎四万を発して遼東を救った。道宗が張君乂を率いて迎え戦ったが、君乂は退いた。道宗が騎で馳せてこれを撃つと、敵の兵は退いて散ったので、その橋を奪い、散った卒を収め、高いところに上って望み、高麗の陣が騒がしいのを見て急に撃ち破り、千余級を斬り、君乂を誅して見せしめとした。帝が遼水を渡ると、丸木の橋を撤して士の心を固め、馬首山に営した。自ら城の下に至り、士が塹を埋めるのを見て、荷を分けて背負い、重いものは馬の上で持ったので、群臣は震え懼れ、争って土の塊を抱えて進んだ。城に朱蒙の祠があり、祠には鎖の甲と鋭い矛があって、前燕の世に天が降したものだと妄りに言っていた。囲みが急になると、美女を飾って神の妻とし、朱蒙が悦んだから城は必ず完うすると偽って言った。勣は抛車を並べ、大きな石を三百歩越えて飛ばしたので、当たるところはたちまち潰えた。敵は木を積んで楼を作り、太縄で網を結んだが、拒ぐことができなかった。沖車で陴の上の屋を撞いて砕いた。そのとき百済が金の旐の鎧を献じ、また黒い金で山の五文の鎧を作って献じたので、士はそれを被って従った。帝が勣と会うと、甲の光が日に輝いた。ちょうど南の風が急であったので、士は火を放って西南を焼いた。火の粉は城の中まで延び、家はほとんど尽き、焼けて死んだ人は一万余りであった。衆が陴に登ると、敵は盾をかぶって拒んだが、士は長い矛を挙げてこれを搗き、投げる石が雨のようであったので、城はついに潰えた。精兵一万、戸四万、糧五十万石を獲て、その地を遼州とした。初め、帝は太子のいるところから行在所まで、宿ごとに烽を一つ置き、遼東を下したら烽を挙げる約束をしていたが、この日、燎を伝えて塞の内まで入れた。

14白崖城の降伏

進攻白崖城,城負山有厓水,險甚。帝壁西北。虜酋孫伐音陰丐降,然城中不能一。帝賜幟曰:「若降,建於堞以信。」俄而舉幟,城人皆以唐兵登矣,乃降。初,伐音中悔,帝怒,約以虜口畀諸將。及是,李勣曰:「士奮而先,貪虜獲也。今城危拔,不可許降以孤士心。」帝曰:「將軍言是也。然縱兵殺戮,略人妻孥,朕不忍。將軍麾下有功者,朕能以庫物賞之,庶因將軍贖一城乎。」獲男女凡萬、兵二千。以其地爲岩州,拜伐音爲刺史。莫離支以加屍人七百戍蓋牟,勣俘之。請自效,帝曰:「而家加屍,乃爲我戰,將盡戮矣。夷一姓求一人力,不可。」稟而縱之。

進んで白崖城を攻めた。城は山を背にし、崖の下に水があって、甚だ険しい。帝は西北に壁を構えた。敵の酋長の孫伐音がこっそり降ることを乞うたが、城の中は一つにまとまらなかった。帝は旗を賜って「降るなら、これを陴に立てて信とせよ」と言った。やがて旗が挙がると、城の人はみな唐の兵が登ったと思い、そこで降った。初め、伐音が途中で悔いたとき、帝は怒り、捕らえた人と物を諸将に与えると約していた。ここに至って李勣は「士が奮って先に進むのは、捕らえ獲ることを貪るからです。いま城は危うくて抜けようとしておりますのに、降伏を許して士の心を孤にしてはなりません」と言った。帝は言った。「将軍の言は正しい。しかし兵を放って殺戮させ、人の妻子を略めることは、朕には忍びない。将軍の麾下で功のある者には、朕が庫の物で賞することができる。将軍から城一つを贖わせてもらえないだろうか。」男女あわせて一万、兵二千を獲て、その地を岩州とし、伐音を刺史に拝した。莫離支は加屍の人七百をもって蓋牟を戍らせていたが、勣がこれを俘にした。彼らが自ら力を尽くしたいと請うと、帝は「おまえたちの家は加屍にある。それで私のために戦えば、みな戮されてしまうだろう。一つの姓を滅ぼして一人の力を求めるのは、してはならないことだ」と言い、糧を与えて放して帰した。

15駐蹕山に陣を張る

次安市。於是高麗北部傉薩高延壽、南部傉薩高惠真引兵及靺鞨衆十五萬來援。帝曰:「彼若勒兵連安市而壁,據高山,取城中粟食之,縱靺鞨略吾牛馬,攻之不可下,此上策也。拔城夜去,中策也。與吾爭鋒,則禽矣。」有大對廬爲延壽計曰:「吾聞中國亂,豪雄並奮,秦王神武,敵無堅,戰無前,遂定天下,南面而帝,北狄、西戎罔不臣。今掃地而來,謀臣重將皆在,其鋒不可校。今莫若頓兵曠日,陰遣奇兵絕其餉道,不旬月糧盡,欲戰不得,歸則無路,乃可取也。」延壽不從,引軍距安市四十里而屯。帝曰:「虜墮吾策中矣。」命左衛大將軍阿史那社爾以突厥千騎嘗之,虜常以靺鞨銳兵居前,社爾兵接而北。延壽曰:「唐易與耳。」進一舍,倚麓而陣。帝詔延壽曰:「我以爾有強臣賊殺其主,來問罪,即交戰,非我意。」延壽謂然,按甲俟。帝夜召諸將,使李勣率步騎萬五千陣西嶺當賊,長孫無忌、牛進達精兵萬人出虜背狹穀,帝以騎四千偃幟趨虜北山上,令諸軍曰:「聞鼓聲而縱。

安市に次した。そこで高麗の北部傉薩の高延寿、南部傉薩の高恵真が、兵および靺鞨の衆十五万を率いて救いに来た。帝は言った。「彼らがもし兵を勒して安市に連なって壁を構え、高い山に拠り、城の中の粟を取って食い、靺鞨を放って我が牛馬を略めるなら、攻めても下すことはできない。これが上の策である。城を抜いて夜に去るのが中の策である。我々と鋒を争うなら、捕らえられるだけである。」ある大対廬が延寿のために計って言った。「私が聞くところでは、中国が乱れて豪雄が並んで奮い立ったとき、秦王は神のような武をもって、敵には堅い者がなく、戦えば前に立つ者がなく、ついに天下を定めて南に面して帝となり、北狄も西戎も臣とならない者はなかったという。いま地を掃うようにして来ており、謀臣も重い将もみなそこにいる。その鋒は較べることができない。いまは兵を頓めて日を費やし、ひそかに奇兵を遣わしてその糧の道を絶つのに越したことはない。十日か一月もたたずに糧が尽き、戦おうとしてもできず、帰ろうにも路がなくなる。そこで取ることができるのだ。」延寿は従わず、軍を率いて安市から四十里のところに屯した。帝は「敵が我が策の中に落ちた」と言い、左衛大将軍の阿史那社爾に命じて突厥の騎千でこれを試させた。敵は常に靺鞨の鋭い兵を前に置くのだが、社爾の兵が接すると退いた。延寿は「唐は相手にしやすい」と言い、一舎進んで山の麓に寄って陣を張った。帝は延寿に詔して「私は、おまえの国に強い臣があってその主を賊として殺したので、罪を問いに来たのだ。すぐに交え戦うのは、私の意ではない」と言った。延寿はそうかと思い、甲を按じて待った。帝は夜に諸将を召し、李勣に歩騎一万五千を率いて西の嶺に陣して賊に当たらせ、長孫無忌と牛進達には精兵一万で敵の背後の狭い谷に出させ、帝は騎四千で旗を伏せて敵の北の山の上へ向かい、諸軍に命じた。「鼓の声を聞いたら、いっせいに討ちかかれ。」

16二万級を斬る

」張幄朝堂,曰:「明日日中,納降虜於此。」是夜,流星墮延壽營。旦日,虜視勣軍少,即戰。帝望無忌軍塵上,命鼓角作,兵幟四合,虜惶惑,將分兵禦之,衆已囂。勣以步槊擊敗之,無忌乘其後,帝自山馳下,虜大亂,斬首二萬級。延壽收餘衆負山自固,無忌、勣合圍之,徹川梁,斷歸路。帝按轡觀虜營壘曰:「高麗傾國來,一麾而破,天贊我也。」下馬再拜,謝況于天。延壽等度勢窮,即舉衆降。入轅門,膝而前,拜手請命。帝曰:「後敢與天子戰乎?」惶汗不得對。帝料酋長三千五百人,悉官之,許內徙,餘衆三萬縱還之,誅靺鞨三千餘人,獲馬牛十萬,明光鎧萬領。高麗震駭,後黃、銀二城自拔去,數百里無舍煙。乃驛報太子,并賜諸臣書曰:「朕自將若此,云何?」因號所幸山爲駐蹕山,圖破陣狀,勒石紀功。拜延壽鴻臚卿,惠真司農卿。候騎獲覘人,帝解其縛,自言不食且三日,命飼之,賜以屩,遣曰:「歸語莫離支,若須軍中進退,可遣人至吾所。」帝每營不作塹壘,謹斥候而已,而士運糧,雖單騎,虜不敢鈔。

朝堂に幄を張らせて「明日の日中に、降った敵をここに納れよう」と言った。この夜、流星が延寿の営に墜ちた。翌朝、敵は勣の軍が少ないのを見て、すぐに戦おうとした。帝は無忌の軍の塵が上がるのを望み、鼓と角を鳴らさせ、兵と旗を四方から合わせたので、敵は惶れ惑い、兵を分けて防ごうとしたが、衆はすでに騒いでいた。勣が歩兵の槊で撃って敗らせ、無忌がその後ろに乗じ、帝が山から馳せ下ると、敵は大いに乱れ、二万級を斬った。延寿は残った衆を収めて山を背に自ら固めたので、無忌と勣が合わせて囲み、川の橋を撤して帰る路を断った。帝は轡を按じて敵の営や壘を観て、「高麗が国を傾けて来たのを、一たび麾して破った。天が私を助けたのだ」と言い、馬を下りて再び拝し、天に謝した。延寿たちは勢いの窮まったことを察し、すぐに衆を挙げて降った。轅門に入り、膝で前に進み、手を拝して命を請うた。帝は「この後も敢えて天子と戦うか」と言った。惶れて汗をかき、答えることができなかった。帝は酋長三千五百人を択んでみな官につけ、内へ移ることを許し、残った衆三万は放して帰し、靺鞨三千余人を誅し、馬と牛十万、明光鎧一万領を獲た。高麗は震え駭き、後に黄・銀の二城が自ら抜け出て去ったので、数百里に炊ぎの煙がなかった。そこで駅で太子に報じ、あわせて諸臣に書を賜って「朕が自ら率いることがこのようであった。どうであるか」と言った。そこで行幸した山を駐蹕山と名づけ、陣を破ったさまを図に描き、石に勒して功を記した。延寿を鴻臚卿、恵真を司農卿に拝した。斥候の騎が覘い見る者を捕らえたので、帝はその縛を解いた。自ら三日も食べていないと言ったので、命じてこれに食わせ、わら靴を賜って遣わし、「帰って莫離支に言え。軍中の進退を知りたければ、人を私のところまで遣わしてよい」と言った。帝は営ごとに塹や壘を作らず、斥候を謹むだけであったが、士が糧を運ぶのに、たとえ単騎であっても、敵は敢えて掠めなかった。

17安市城の攻防

帝與勣議所攻,帝曰:「吾聞安市地險而衆悍,莫離支擊不能下,因與之。建安恃險絕,粟多而士少,若出其不意攻之,不相救矣。建安得,則安市在吾腹中。」勣曰:「不然。積糧遼東,而西擊建安,賊將梗我歸路,不如先攻安市。」帝曰:「善。」遂攻之,未能下。延壽、惠真謀曰:「烏骨城傉薩已耄,朝攻而夕可下。烏骨拔,則平壤舉矣。」群臣亦以張亮軍在沙城,召之一昔至,若取烏骨,度鴨淥,迫其腹心,計之善者。無忌曰:「天子行師不徼幸。安市衆十萬在吾後,不如先破之,乃驅而南,萬全勢也。」乃止。城中見帝旌麾,輒乘陴噪,帝怒。勣請破日男子盡誅。虜聞,故死戰。江夏王道宗築距闉攻東南,虜增陴以守。勣攻其西,撞車所壞,隨輒串柵爲樓。帝聞城中雞彘聲,曰:「圍久,突無黔煙。今雞彘鳴,必殺以饗士,虜且夜出。」詔嚴兵。丙夜,虜數百人縋而下,悉禽之。道宗以樹枚裹土積之,距闉成,迫城不數丈,果毅都尉傅伏愛守之,自高而排其城,城且頹,伏愛私去所部,虜兵得自頹城出,據而塹斷之,積火縈盾固守。帝怒,斬伏愛,敕諸將擊之,三日不克。

帝は勣と攻めるところを議り、帝は言った。「私が聞くところでは、安市は地が険しく衆が悍しく、莫離支が撃っても下せなかったので、そのまま彼に与えたという。建安は険しさだけを恃み、粟は多いが士は少ない。もし不意に出てこれを攻めれば、互いに救うことはできない。建安が得られれば、安市は私の腹の中にある。」勣は「そうではありません。糧を遼東に積んでおいて西へ建安を撃てば、賊は我が帰る路を塞ぐでしょう。先に安市を攻めるのに越したことはありません」と言った。帝は「よい」と言い、ついにこれを攻めたが、下すことができなかった。延寿と恵真が謀って「烏骨城の傉薩はすでに耄いております。朝に攻めれば夕には下せます。烏骨が抜ければ、平壌も挙がります」と言い、群臣もまた、張亮の軍が沙城にあるので召せば一晩で至る、烏骨を取って鴨淥を渡り、その腹心を迫るのが良い計だと言った。無忌は「天子の行師は僥倖を求めません。安市の衆十万が我が後ろにおります。先にこれを破り、そのうえで駆って南に向かうのが万全の勢いです」と言った。そこでやめた。城の中では帝の旌や麾を見ると、たちまち陴に乗って喚いたので、帝は怒った。勣が、破った日には男子をことごとく誅することを請うと、敵はそれを聞いて、わざと死を決して戦った。江夏王道宗が距闉(土の山)を築いて東南を攻めると、敵は陴を増して守った。勣がその西を攻め、撞車で壊すたびに、敵はそのつど柵を串ねて楼を作った。帝は城の中の鶏と豚の声を聞いて、「囲んで久しく、竈にも黒い煙がなかった。いま鶏と豚が鳴くのは、必ずこれを殺して士に饗するのであり、敵は夜に出てくるだろう」と言い、詔して兵を厳しくさせた。真夜中、敵の数百人が縄で下りてきたので、ことごとくこれを捕らえた。道宗は樹の枚に土を包んで積み、距闉が成って、城に迫ること数丈もないほどになった。果毅都尉の傅伏愛がこれを守っていたが、距闉が高くなってその城を押し、城が頹れようとしたとき、伏愛は私かに部署を離れた。敵の兵は頹れた城から出ることができ、そこを拠って塹で断ち、火を積み盾を繞らして固く守った。帝は怒って伏愛を斬り、諸将に勅して撃たせたが、三日たっても克てなかった。

18雪の中の帰還

有詔班師,拔遼、蓋二州之人以歸。兵過城下,城中屏息偃旗,酋長登城再拜,帝嘉其守,賜絹百匹。遼州粟尚十萬斛,士取不能盡。帝至渤錯水,阻淖,八十里車騎不通。長孫無忌、楊師道等率萬人斬樵築道,聯車爲梁,帝負薪馬上助役。十月,兵畢度,雪甚,詔屬燎以待濟。始行,士十萬,馬萬匹;逮還,物故裁千余,馬死十八。船師七萬,物故亦數百。詔集戰骸葬柳城,祭乙太牢,帝臨哭,從臣皆流涕。帝總飛騎入臨渝關,皇太子迎道左。初,帝與太子別,御褐袍,曰:「俟見爾乃更。」袍曆二時弗易,至穿穴。群臣請更服,帝曰:「士皆敝衣,吾可新服邪?」及是,太子進潔衣,乃御。遼降口萬四千,當沒爲奴婢,前集幽州,將分賞士。帝以父子夫婦離析,詔有司以布帛贖之,原爲民,列拜歡舞,三日不息。延壽既降,以憂死,獨惠真至長安。

詔して師を班えし、遼・蓋の二州の人を抜いて帰った。兵が城の下を過ぎると、城の中は息を屏め旗を伏せ、酋長は城に登って再び拝した。帝はその守りを嘉し、絹百匹を賜った。遼州の粟はなお十万斛あり、士は取り尽くすことができなかった。帝が渤錯水に至ると、泥濘に阻まれ、八十里にわたって車と騎が通らなかった。長孫無忌と楊師道たちが一万人を率いて樵を斬って道を築き、車を連ねて橋とし、帝は薪を馬の上に負って役を助けた。十月、兵がすべて渡り終わると、雪が甚だしかったので、詔して燎を連ね、渡り終えるのを待たせた。初め発ったとき士は十万、馬は一万匹であったが、帰るに及んで物故した者はわずかに千余りで、馬は十のうち八が死んだ。船師七万のうちも、物故した者はやはり数百であった。詔して戦いの骸を集めて柳城に葬り、太牢をもって祭ったので、帝が臨んで哭すると、従う臣はみな涕を流した。帝は飛騎を総べて臨渝関に入り、皇太子が道の左に迎えた。初め、帝が太子と別れるとき、褐の袍を着て「おまえに会うまでは、これを更えない」と言った。袍は二つの季を経ても更えられず、穴が空くまでになった。群臣が服を更えることを請うと、帝は「士はみな衣が敝れている。私が新しい服を着られようか」と言った。ここに至って太子が潔い衣を進めたので、ようやく着た。遼東の降った人口一万四千は、没して奴婢とされるはずで、あらかじめ幽州に集め、士に分けて賞する手はずであった。帝は父子や夫婦が離れ散ることを憐れみ、担当の役所に詔して布と帛でこれを贖い、もとのように民とさせたので、彼らは列をなして拝し、歓んで舞い、三日たってもやまなかった。延寿は降った後、憂いのために死に、恵真だけが長安に至った。

19二人の美女を返す

明年春,藏遣使者上方物,且謝罪;獻二姝口,帝敕還之,謂使者曰:「色者人所重,然湣其去親戚以傷乃心,我不取也。」初,師還,帝以弓服賜蓋蘇文,受之,不遣使者謝,於是下詔削棄朝貢。

翌年の春、蔵が使者を遣わして方物を上り、あわせて罪を謝し、二人の美しい女を献じたが、帝は勅してこれを返し、使者に言った。「色は人が重んじるものである。しかし、親戚と離れてその心を傷めることを憐れむから、私は取らない。」初め、師が帰るとき、帝は弓と服を蓋蘇文に賜ったが、受け取っておきながら使者を遣わして謝さなかったので、そこで詔を下して朝貢を削り棄てた。

20牛進達と李勣の再征

又明年三月,詔左武衛大將軍牛進達爲青丘道行軍大總管,右武衛將軍李海岸副之,自萊州度海;李勣爲遼東道行軍大總管,右武衛將軍孫貳朗、右屯衛大將軍鄭仁泰副之,率營州都督兵,繇新城道以進。次南蘇、木底,虜兵戰不勝,焚其郛。七月,進達等取石城,進攻積利城,斬級數千,乃皆還。藏遣子莫離支高任武來朝,因謝罪。

また翌年の三月、詔して左武衛大将軍の牛進達を青丘道行軍大総管とし、右武衛将軍の李海岸を副として萊州から海を渡らせ、李勣を遼東道行軍大総管とし、右武衛将軍の孫貳朗、右屯衛大将軍の鄭仁泰を副として、営州都督の兵を率いて新城の道から進ませた。南蘇・木底に次すると、敵の兵は戦ったが勝てなかったので、その外城を焼いた。七月、進達たちは石城を取り、進んで積利城を攻め、数千級を斬って、そこでみな帰った。蔵は子の莫離支である高任武を遣わして来朝させ、ついでに罪を謝した。

21薛万徹と泊灼城

二十二年,詔右武衛大將軍薛萬徹爲青丘道行軍大總管,右衛將軍裴行方副之,自海道入。部將古神感與虜戰曷山,虜潰;虜乘暝襲我舟,伏兵破之。萬徹度鴨淥,次泊灼城,拒四十里而舍。虜懼,皆棄邑居去。大酋所夫孫拒戰,萬徹擊斬之,遂圍城,破其援兵三萬,乃還。帝與長孫無忌計曰:「高麗困吾師之入,戶亡耗,田歲不收,蓋蘇文築城增陴,下饑臥死溝壑,不勝敝矣。明年以三十萬衆,公爲大總管,一舉可滅也。」乃詔劍南大治船,蜀人願輸財江南,計直作舟,舟取縑千二百。巴、蜀大騷,邛、眉、雅三州獠皆反,發隴西、峽內兵二萬擊定之。始,帝決取虜,故詔陝州刺史孫伏伽、萊州刺史李道裕儲糧械於三山浦、烏胡島,越州都督治大艎偶舫以待。會帝崩,乃皆罷。藏遣使者奉慰。

二十二年、詔して右武衛大将軍の薛万徹を青丘道行軍大総管とし、右衛将軍の裴行方を副として、海の道から入らせた。部将の古神感が敵と曷山で戦うと、敵は潰えた。敵は暗がりに乗じて我が舟を襲ったが、伏せた兵がこれを破った。万徹は鴨淥を渡り、泊灼城に次し、四十里を隔てて舎した。敵は懼れ、みな邑や住まいを棄てて去った。大きな酋長の所夫孫が拒んで戦ったので、万徹は撃ってこれを斬り、ついに城を囲み、その援けの兵三万を破って、そこで帰った。帝は長孫無忌と計って言った。「高麗は我が師の入ったことに困じ、戸は亡び耗り、田は年ごとに収まらない。蓋蘇文は城を築き陴を増しているが、下の者は飢えて溝や谷に臥して死んでおり、敝れに勝てない。来年、三十万の衆をもって公を大総管とすれば、一挙に滅ぼせるであろう。」そこで剣南に詔して大いに船を造らせたので、蜀の人は財を江南に出し、値を計って舟を作らせたが、舟一つに縑千二百を取られた。巴・蜀は大いに騒ぎ、邛・眉・雅の三州の獠がみな叛いたので、隴西・峡内の兵二万を発してこれを撃って定めた。はじめ、帝は敵を取ると決めていたので、詔して陝州刺史の孫伏伽、萊州刺史の李道裕に糧と器械を三山浦・烏胡島に貯えさせ、越州都督に大きな艎と並べ舫を造って待たせていたが、ちょうど帝が崩じたので、みなやめになった。蔵は使者を遣わして慰めを奉った。

22高宗の代の攻防

永徽五年,藏以靺鞨兵攻契丹,戰新城。大風,矢皆還激,爲契丹所乘,大敗。契丹火野復戰,人死相藉,積屍而塚之。遣使者告捷,高宗爲露布於朝。六年,新羅訴高麗、靺鞨奪三十六城,惟天子哀救。有詔營州都督程名振、左衛中郎將蘇定方率師討之。至新城,敗高麗兵,火外郛及墟落,引還。顯慶三年,復遣名振率薛仁貴攻之,未能克。後二年,天子已平百濟,乃以左驍衛大將軍契苾力何、右武衛大將軍蘇定方、左驍衛將軍劉伯英率諸將出浿江、遼東、平壤道討之。龍朔元年,大募兵,拜置諸將,天子欲自行,蔚州刺史李君球建言:「高麗小丑,何至傾中國事之?有如高麗既滅,必發兵以守,少發則威不振,多發人不安,是天下疲於轉戍。臣謂征之未如勿征,滅之未如勿滅。」亦會武后苦邀,帝乃止。八月,定方破虜兵于浿江,奪馬邑山,遂圍平壤。明年,龐孝泰以嶺南兵壁蛇水,蓋蘇文攻之,舉軍沒;定方解而歸。

永徽五年、蔵は靺鞨の兵をもって契丹を攻め、新城で戦った。大風が吹いて矢がみな跳ね返ってきたので、契丹にその隙を乗じられ、大敗した。契丹が野に火を放って再び戦うと、死んだ人が互いに敷かれるほどで、屍を積んで塚とした。使者を遣わして勝ちを告げたので、高宗は朝廷に露布を掲げた。六年、新羅が、高麗と靺鞨が三十六城を奪ったと訴え、ただ天子の哀れみと救いを願った。詔して営州都督の程名振、左衛中郎将の蘇定方が師を率いてこれを討ち、新城に至って高麗の兵を敗り、外城と村落を焼いて引き返した。顕慶三年、再び名振を遣わして薛仁貴を率いて攻めさせたが、克つことができなかった。二年の後、天子はすでに百済を平らげたので、左驍衛大将軍の契苾何力、右武衛大将軍の蘇定方、左驍衛将軍の劉伯英に諸将を率いさせ、浿江・遼東・平壌の道に出てこれを討たせた。龍朔元年、大いに兵を募り、諸将を拝して置き、天子は自ら行こうとした。蔚州刺史の李君球が建言した。「高麗は小さな醜であるのに、どうして中国を傾けてこれを事とするに至るのでしょうか。たとえ高麗が滅んだとしても、必ず兵を発して守らなければなりません。少なく発せば威が振るわず、多く発せば人が安んじません。これでは天下が戍りを転ずることに疲れます。臣は、これを征つのは征たないに及ばず、これを滅ぼすのは滅ぼさないに及ばないと思います。」ちょうど武后も苦しく止めたので、帝はそこでやめた。八月、定方は敵の兵を浿江で破り、馬邑山を奪い、ついに平壌を囲んだ。翌年、龐孝泰が嶺南の兵で蛇水に壁を構えたが、蓋蘇文がこれを攻め、軍を挙げて没した。定方も囲みを解いて帰った。

23男生が唐に降る

乾封元年,藏遣子男福從天子封泰山,還而蓋蘇文死,子男生代爲莫離支,有弟男建、男產相怨。男生據國內城,遣子獻誠入朝求救,蓋蘇文弟淨土亦請割地降。乃詔契苾何力爲遼東道安撫大使,左金吾衛將軍龐同善、營州都督高偘爲行軍總管,左武衛將軍薛仁貴、左監門將軍李謹行殿而行。九月,同善破高麗兵,男生率師來會。詔拜男生特進、遼東大都督兼平壤道安撫大使,封玄菟郡公。又以李勣爲遼東道行軍大總管兼安撫大使,與契苾何力、龐同善并力。詔獨孤卿云由鴨淥道,郭待封積利道,劉仁願畢列道,金待問海穀道,並爲行軍總管,受勣節度;轉燕、趙食廥遼東。明年正月,勣引道次新城,合諸將謀曰:「新城,賊西鄙,不先圖,餘城未易下。」遂壁西南山臨城,城人縛戍酋出降。勣進拔城十有六。郭待封以舟師濟海,趨平壤。三年二月,勣率仁貴拔扶餘城,它城三十皆納款。

乾封元年、蔵は子の男福を遣わして天子に従って泰山で封をさせたが、帰ると蓋蘇文が死に、子の男生が代わって莫離支となった。弟の男建・男産と互いに怨み合い、男生は国内城に拠り、子の献誠を遣わして入朝させ救いを求め、蓋蘇文の弟の浄土もまた地を割いて降ることを請うた。そこで詔して契苾何力を遼東道安撫大使とし、左金吾衛将軍の龐同善、営州都督の高偘を行軍総管とし、左武衛将軍の薛仁貴、左監門将軍の李謹行を後ろに置いて行かせた。九月、同善が高麗の兵を破ると、男生は師を率いて来て会した。詔して男生に特進・遼東大都督兼平壌道安撫大使を拝し、玄菟郡公に封じた。また李勣を遼東道行軍大総管兼安撫大使とし、契苾何力・龐同善と力を合わせさせた。詔して独孤卿雲は鴨淥の道、郭待封は積利の道、劉仁願は畢列の道、金待問は海谷の道を行き、いずれも行軍総管となって勣の節度を受けさせ、燕・趙の倉の食を遼東に転じた。翌年の正月、勣は道を率いて新城に次し、諸将を合わせて謀って「新城は賊の西の辺りである。先に図らなければ、残りの城も容易には下せない」と言い、ついに西南の山に壁を構えて城に臨むと、城の人は戍りの酋長を縛って出て降った。勣は進んで城十六を抜いた。郭待封は舟師をもって海を渡り、平壌へ向かった。三年二月、勣は仁貴を率いて扶余城を抜くと、ほかの城三十がみな降りを納れた。

24賈言忠の予言

同善、偘守新城,男建遣兵襲之,仁貴救偘,戰金山,不勝。高麗鼓而進,銳甚。仁貴橫擊,大破之,斬首五萬級,拔南蘇、木底、蒼岩三城,引兵略地,與勣會。侍御史賈言忠計事還,帝問軍中云何。對曰:「必克。昔先帝問罪,所以不得志者,虜未有邅也。諺曰:'軍無媒,中道回'。今男生兄弟鬩很,爲我鄉導,虜之情偽,我盡知之,將忠士力,臣故曰必克。且高麗祕記曰:'不及九百年,當有八十大將滅之。'高氏自漢有國,今九百年,勣年八十矣。虜仍薦饑,人相掠賣,地震裂,狼狐入城,蚡穴于門,人心危駭,是行不再舉矣。」

同善と偘が新城を守っていると、男建が兵を遣わしてこれを襲ったので、仁貴が偘を救い、金山で戦ったが、勝てなかった。高麗は鼓を打って進み、鋭いこと甚だしかった。仁貴が横から撃つと大いにこれを破り、五万級を斬り、南蘇・木底・蒼岩の三城を抜き、兵を率いて地を略し、勣と会した。侍御史の賈言忠が事を計って帰ったので、帝は軍中はどうかと問うた。答えて言った。「必ず克ちます。昔、先帝が罪を問われたのに志を得られなかったのは、敵にまだ隙がなかったからです。諺に〈軍に媒がなければ、中道で回る〉と言います。いま男生の兄弟が鬩ぎ合って我らの郷導となり、敵の実情と偽りを我らはことごとく知っており、将は忠で士は力を尽くしています。臣はそれゆえ必ず克つと申すのです。しかも高麗の秘記には〈九百年に及ばぬうちに、八十の大将がこれを滅ぼす〉とあります。高氏は漢のときから国を有ち、いま九百年、勣の年は八十です。敵は重ねて飢え、人が互いを掠めて売り、地は震えて裂け、狼と狐が城に入り、もぐらが門に穴を掘って、人の心は危み駭いております。この行で、二度と挙げることはありません。」

25平壌城が破れる

男建以兵五萬襲扶餘,勣破之薩賀水上,斬首五千級,俘口三萬,器械牛馬稱之。進拔大行城。劉仁願與勣會,後期,召還當誅,赦流姚州。契苾何力會勣軍於鴨淥,拔辱夷城,悉師圍平壤。九月,藏遣男產率首領百人樹素幡降,且請入朝,勣以禮見。而男建猶固守,出戰數北。大將浮屠信誠遣諜約內應。五日,闔啟,兵噪而入,火其門,鬱焰四興,男建窘急,自刺不殊。執藏、男建等,收凡五部百七十六城,戶六十九萬。詔勣便道獻俘昭陵,凱而還。十二月,帝坐含元殿,引見勣等,數俘於廷。以藏素脅制,赦爲司平太常伯,男產司宰少卿;投男建黔州,百濟王扶餘隆嶺外;以獻誠爲司衛卿,信誠爲銀青光祿大夫,男生右衛大將軍,何力行左衛大將軍,勣兼太子太師,仁貴威衛大將軍。剖其地爲都督府者九,州四十二,縣百。復置安東都護府,擢酋豪有功者授都督、刺史、令,與華官參治。仁貴爲都護,總兵鎮之。是歲郊祭,以高麗平,謝成於天。

男建は兵五万で扶余を襲ったが、勣は薩賀水のほとりでこれを破り、五千級を斬り、三万人を俘にし、器械と牛馬もそれに見合った。進んで大行城を抜いた。劉仁願は勣と会する約であったが期に遅れ、召し返されて誅されるところを、赦されて姚州に流された。契苾何力は鴨淥で勣の軍と会し、辱夷城を抜き、師をことごとく挙げて平壌を囲んだ。九月、蔵は男産に首領百人を率いさせ、白い幡を樹てて降り、あわせて入朝を請うたので、勣は礼をもって見えた。それでも男建はなお固く守り、出て戦っては何度も敗れた。大将である僧の信誠が諜を遣わして内応を約し、五日して門の扉が啓かれると、兵は喚いて入り、その門を焼いたので、烟と焔が四方から興った。男建は窘まり急いて自ら刺したが、死にきれなかった。蔵と男建らを執らえ、収めたものは全部で五部・百七十六城・戸六十九万であった。詔して勣に通り道で昭陵に俘を献じさせ、凱して帰らせた。十二月、帝は含元殿に坐して勣らを引見し、庭で俘を数えた。蔵はもともと脅かされ制されていたとして赦し、司平太常伯とし、男産は司宰少卿とし、男建は黔州へ投じ、百済王の扶余隆は嶺の外へ投じた。献誠を司衛卿、信誠を銀青光禄大夫、男生を右衛大将軍、何力を行左衛大将軍とし、勣に太子太師を兼ねさせ、仁貴を威衛大将軍とした。その地を剖いて都督府九つ、州四十二、県百とし、改めて安東都護府を置き、酋豪で功のある者を抜いて都督・刺史・県令を授け、華の官とともに治めさせた。仁貴が都護となり、兵を総べてこれを鎮めた。この年の郊の祭りでは、高麗が平らいだので、成ったことを天に謝した。

26鉗牟岑と安舜

總章二年,徙高麗民三萬于江淮、山南。大長鉗牟岑率衆反,立藏外孫安舜爲主。詔高偘東州道,李謹行燕山道,並爲行軍總管討之,遣司平太常伯楊昉綏納亡餘。舜殺鉗牟岑走新羅。偘徙都護府治遼東州,破叛兵于安市,又敗之泉山,俘新羅援兵二千。李謹行破之於發廬河,再戰,俘馘萬計。於是平壤痍殘不能軍,相率奔新羅,凡四年乃平。始,謹行留妻劉守伐奴城,虜攻之,劉擐甲勒兵守,賊引去。帝嘉之,封燕郡夫人。

総章二年、高麗の民三万を江淮と山南に徙した。大長の鉗牟岑が衆を率いて叛き、蔵の外孫の安舜(安勝)を立てて主とした。詔して高偘を東州道、李謹行を燕山道、いずれも行軍総管としてこれを討たせ、司平太常伯の楊昉を遣わして逃げ残った者を綏め納れさせた。舜は鉗牟岑を殺して新羅へ走った。偘は都護府の治を遼東州に徙し、叛いた兵を安市で破り、また泉山でこれを敗り、新羅の援けの兵二千を俘にした。李謹行は発廬河でこれを破り、再び戦って、俘と馘は万を数えた。そこで平壌の傷み残った者は軍をなすことができず、相次いで新羅へ奔り、全部で四年たってようやく平らいだ。初め、謹行は妻の劉を留めて伐奴城を守らせていたが、敵がこれを攻めると、劉は甲を擐き兵を勒して守ったので、賊は引いて去った。帝はこれを嘉し、燕郡夫人に封じた。

27高氏の終わり

儀鳳二年,授藏遼東都督,封朝鮮郡王,還遼東以安餘民,先編僑內州者皆原遣,徙安東都護府於新城。藏與靺鞨謀反,未及發,召還放邛州,廝其人于河南、隴右,弱窶者留安東。藏以永淳初死,贈衛尉卿,葬頡利墓左,樹碑其阡。舊城往往入新羅,遺人散奔突厥、靺鞨,由是高氏君長皆絕。垂拱中,以藏孫寶元爲朝鮮郡王。聖曆初,進左鷹揚衛大將軍,更封忠誠國王,使統安東舊部,不行。明年,以藏子德武爲安東都督,後稍自國。至元和末,遣使者獻樂工云。

儀鳳二年、蔵に遼東都督を授け、朝鮮郡王に封じて遼東に帰らせ、残った民を安んじさせ、先に内地の州に移って住んでいた者もみなともに遣わし、安東都護府を新城に徙した。蔵は靺鞨と謀叛を図ったが、起こす前に召し返されて邛州に放たれ、その人々は河南・隴右に散らされ、弱く貧しい者だけが安東に留まった。蔵は永淳の初めに死んだので、衛尉卿を贈り、頡利の墓の左に葬り、その墓道に碑を樹てた。旧い城はおりおり新羅に入り、残った人は突厥や靺鞨へ散り奔ったので、これによって高氏の君長はみな絶えた。垂拱年間、蔵の孫の宝元を朝鮮郡王とした。聖暦の初め、左鷹揚衛大将軍に進め、改めて忠誠国王に封じ、安東の旧い部を統べさせたが、赴かなかった。翌年、蔵の子の徳武を安東都督としたので、後に次第に自ら国をなした。元和の末に至って、使者を遣わして楽工を献じたという。