百済百濟
1八つの大姓
百濟,扶餘別種也。直京師東六千里而贏,濱海之陽,西界越州,南倭,北高麗,皆逾海乃至,其東,新羅也。王居東、西二城,官有內臣佐平者宣納號令,內頭佐平主帑聚,內法佐平主禮,衛士佐平典衛兵,朝廷佐平主獄,兵官佐平掌外兵。有六方,方統十郡。大姓有八:沙氏,燕氏,軬氏,解氏,貞氏,國氏,木氏,䒤氏。其法:反逆者誅,籍其家;殺人者,輸奴婢三贖罪;吏受賕及盜,三倍償,錮終身。俗與高麗同。有三島,生黃漆,六月刺取沈,色若金。王服大袖紫袍,青錦褲,素皮帶,烏革履,烏羅冠飾以金花。群臣絳衣,飾冠以銀花。禁民衣絳紫。有文籍,紀時月如華人。
百済は扶余の別種である。京師からまっすぐ東へ六千里あまり、海の南の岸に臨む。西の境は越州、南は倭、北は高麗で、いずれも海を越えてようやく至り、その東は新羅である。王は東・西の二つの城に住む。官には内臣佐平があって号令の出納をつかさどり、内頭佐平は蔵をつかさどり、内法佐平は礼をつかさどり、衛士佐平は護衛の兵をつかさどり、朝廷佐平は獄をつかさどり、兵官佐平は外の兵をつかさどる。六つの方があり、方ごとに十の郡を統べる。大姓は八つで、沙氏・燕氏・軬氏・解氏・貞氏・国氏・木氏・䒤氏である。その法は、反逆した者は殺してその家を没収し、人を殺した者は奴婢三人を出して罪を償い、役人で賄賂を受けたり盗みをした者は三倍にして償わせ、終身にわたって官に就くことを禁じる。風俗は高麗と同じである。三つの島があって黄漆が採れる。六月に傷をつけて樹液を採ると、色が金のようである。王は袖の大きな紫の袍に青錦の袴、素皮の帯、黒革の履をつけ、烏羅の冠を金の花で飾る。臣下たちは絳の衣を着て、冠を銀の花で飾る。民には絳と紫の衣を禁じている。文籍があり、年月を記すことは中国の人と同じである。
2武王の朝貢
武德四年,王扶餘璋始遣使獻果下馬,自是數朝貢。高祖冊爲帶方郡王、百濟王。後五年,獻明光鎧,且訟高麗梗貢道。太宗貞觀初,詔使者平其怨。又與新羅世仇,數相侵,帝賜璽書曰:「新羅,朕蕃臣,王之鄰國。聞數相侵暴,朕已詔高麗、新羅申和,王宜忘前怨,識朕本懷。」璋奉表謝,然兵亦不止。再遣使朝,上鐵甲雕斧,帝優勞之,賜帛段三千。十五年,璋死,使者素服奉表曰:「君外臣百濟王扶餘璋卒。」帝爲舉哀玄武門,贈光祿大夫,賻賜甚厚。命祠部郎中鄭文表冊其子義慈爲柱國,紹王。
武徳四年、王の扶余璋が初めて使者を遣わして果下馬を献じ、これより何度も朝貢したので、高祖は帯方郡王・百済王に冊立した。五年の後、明光鎧を献じ、あわせて高麗が朝貢の道を塞いでいると訴えた。太宗の貞観の初め、詔して使者にその怨みを和解させた。また新羅と代々の仇で、何度も互いに侵したので、帝は璽書を賜って言った。「新羅は朕の蕃臣であり、王の隣国である。何度も互いに侵し暴れていると聞いたが、朕はすでに高麗と新羅に詔して和を結ばせた。王は前の怨みを忘れ、朕の本心を知るがよい。」璋は表を奉って謝ったが、兵もまたやまなかった。再び使者を遣わして朝し、鉄の甲と彫りを施した斧を献じたので、帝は厚くこれをねぎらい、帛三千段を賜った。十五年、璋が死ぬと、使者が素服で表を奉って「君の外臣である百済王の扶余璋が卒しました」と言った。帝は玄武門で哀を挙げ、光禄大夫を贈り、賻を甚だ厚く賜った。祠部郎中の鄭文表に命じて、その子の義慈を柱国に冊し、王位を継がせた。
3義慈王の侵攻
義慈事親孝,與兄弟友,時號「海東曾子」。明年,與高麗連和伐新羅,取四十餘城,發兵守之。又謀取棠項城,絕貢道。新羅告急,帝遣司農丞相裏玄獎齎詔書諭解。聞帝新討高麗,乃間取新羅七城;久之,又奪十餘城,因不朝貢。高宗立,乃遣使者來,帝詔義慈曰:「海東三國,開基舊矣,地固犬牙。比者隙爭侵校無寧歲,新羅高城重鎮皆爲王并,歸窮于朕,丐王歸地。昔齊桓一諸侯,尚存亡國,況朕萬方主,可不恤其危邪?王所兼城宜還之,新羅所俘亦畀還王。不如詔者,任王決戰,朕將發契丹諸國,度遼深入。王可思之,無後悔!」
義慈は親に仕えて孝であり、兄弟と友であったので、当時「海東の曾子」と呼ばれた。翌年、高麗と和を結んで新羅を伐ち、四十余りの城を取って兵を出して守らせ、さらに棠項城を取って朝貢の道を絶とうと図った。新羅が急を告げたので、帝は司農丞の相裏玄奨を遣わして詔書を携えさせ、諭して解かせた。帝が新たに高麗を討つと聞くと、その隙に新羅の七城を取り、久しくして、また十余城を奪い、そのまま朝貢しなかった。高宗が立つと、使者を遣わしてきたので、帝は義慈に詔して言った。「海東の三国は、国を開いて久しく、地はまことに犬の歯のように入り組んでいる。このごろは隙を争って侵し合い、安らかな年がない。新羅の高い城と重い鎮はみな王に併せられ、朕に窮状を訴えて、王が地を返すことを乞うている。昔、斉の桓公は一諸侯でありながら、なお亡ぶ国を存続させた。ましてや朕は万方の主である。その危うさを憐れまずにいられようか。王が併せた城は返すべきであり、新羅が捕らえた者もまた王に返させよう。詔のとおりにしないなら、王の決戦に任せるが、朕は契丹など諸国を発して遼水を渡り、深く入らせるであろう。王はよく思って、後で悔いることのないように。」
4熊津の川口が破れる
永徽六年,新羅訴百濟、高麗、靺鞨取北境三十城。顯慶五年,乃詔左衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大總管,率左衛將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將軍龐孝泰發新羅兵討之,自城山濟海。百濟守熊津口,定方縱擊,虜大敗。王師乘潮帆以進,趨真都城一舍止。虜悉衆拒,復破之,斬首萬餘級,拔其城。義慈挾太子隆走北鄙,定方圍之。次子泰自立爲王,率衆固守,義慈孫文思曰:「王、太子固在,叔乃自王,若唐兵解去,如我父子何?」與左右縋而出,民皆從之,泰不能止。定方令士超堞立幟,泰開門降,定方執義慈、隆及小王孝演、酋長五十八人送京師,平其國五部、三十七郡、二百城,戶七十六萬。乃析置熊津、馬韓、東明、金漣、德安五都督府,擢酋渠長治之。命郎將劉仁願守百濟城,左衛郎將王文度爲熊津都督。九月,定方以所俘見,詔釋不誅。義慈病死,贈衛尉卿,許舊臣赴臨,詔葬孫皓、陳叔寶墓左,授隆司稼卿。文度濟海卒,以劉仁軌代之。
永徽六年、新羅が、百済・高麗・靺鞨が北の境の三十城を取ったと訴えた。顕慶五年、そこで詔して左衛大将軍の蘇定方を神丘道行軍大総管とし、左衛将軍の劉伯英、右武衛将軍の馮士貴、左驍衛将軍の龐孝泰を率い、新羅の兵を発してこれを討たせたので、城山から海を渡った。百済は熊津の川口を守ったが、定方が思いきり攻めかかると、敵は大敗した。王師は潮に乗り帆を張って進み、真都城から一舎のところに止まった。敵は衆をことごとく挙げて拒んだが、またこれを破り、一万余級を斬ってその城を抜いた。義慈は太子の隆を連れて北の辺りへ走り、定方はこれを囲んだ。次の子の泰が自ら立って王となり、衆を率いて固く守ったが、義慈の孫の文思が「王と太子はたしかにおられるのに、叔父が自ら王となった。もし唐の兵が囲みを解いて去れば、我ら父子はどうなるのか」と言い、左右の者とともに縄を垂らして出たので、民もみなこれに従い、泰は止めることができなかった。定方は兵士に城壁を越えて旗を立てさせ、泰は門を開いて降った。定方は義慈と隆、および小王の孝演、酋長五十八人を捕らえて京師に送り、その国の五部・三十七郡・二百城・戸七十六万を平定した。そこで熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都督府を分けて置き、酋渠の長を抜いてこれを治めさせた。郎将の劉仁願に百済城を守らせ、左衛郎将の王文度を熊津都督とした。九月、定方が捕らえた者たちを引見させると、詔して釈し、殺さなかった。義慈は病で死に、衛尉卿を贈られ、旧臣が弔いに赴くことを許され、詔して孫皓・陳叔宝の墓の左に葬られ、隆には司稼卿を授けた。文度は海を渡る途中で卒したので、劉仁軌を代わりとした。
5復興軍と白江
璋從子福信嘗將兵,乃與浮屠道琛據周留城反,迎故王子扶餘豐於倭,立爲王。西部皆應,引兵圍仁願。龍朔元年,仁軌發新羅兵往救,道琛立二壁熊津江,仁軌與新羅兵夾擊之,奔入壁,爭梁墮溺者萬人,新羅兵還。道琛保任孝城,自稱領軍將軍,福信稱霜岑將軍,告仁軌曰:「聞唐與新羅約,破百濟,無老孺皆殺之;畀以國。我與受死,不若戰。」仁軌遣使齎書答說,道琛倨甚,館使者于外,嫚報曰:「使人官小,我,國大將,禮不當見。」徒遣之。仁軌以衆少,乃休軍養威,請合新羅圖之。福信俄殺道琛,并其兵,豐不能制。二年七月,仁願等破之熊津,拔支羅城,夜薄真峴,比明入之,斬首八百級,新羅餉道乃開。仁願請濟師,詔右威衛將軍孫仁師爲熊津道行軍總管,發齊兵七千往。福信顓國,謀殺豐;豐率親信斬福信,與高麗、倭連和。仁願已得齊兵,士氣振,乃與新羅王金法敏率步騎,而遣劉仁軌率舟師,自熊津江偕進,趨周留城。豐衆屯白江口,四遇皆克,火四百艘;豐走不知所在。偽王子扶餘忠勝、忠志率殘衆及倭人請命,諸城皆復。仁願勒軍還,留仁軌代守。
璋の従子の福信は、かつて兵を率いたことがあったが、そこで僧の道琛とともに周留城に拠って背き、もとの王子の扶余豊を倭から迎えて立てて王とした。西部はみな呼応し、兵を引いて仁願を囲んだ。龍朔元年、仁軌が新羅の兵を発して救いに行くと、道琛は熊津江に二つの壁を立てていたので、仁軌は新羅の兵と挟み撃ちにした。敵は走って壁に入ろうとし、橋を争って落ちて溺れた者が一万人であった。新羅の兵が帰ると、道琛は任孝城を保って自ら領軍将軍と称し、福信は霜岑将軍と称して、仁軌に告げた。「聞けば唐は新羅と約束して、百済を破れば老人も子どももみな殺し、国を新羅に与えるという。我らは死を受けるより、戦うほうがよい。」仁軌は使者に書を持たせて答え、説き諭したが、道琛は甚だ傲り、使者を外の館に置き、侮って報じて「使いの人は官が小さい。私は国の大将であり、礼として会うべきではない」と言い、そのまま帰した。仁軌は衆が少なかったので、軍を休めて威を養い、新羅と合わせて図ることを請うた。福信はやがて道琛を殺してその兵を併せ、豊は制することができなかった。二年七月、仁願たちは熊津で破り、支羅城を抜き、夜に真峴に迫って明け方に入り、八百級を斬ったので、新羅の糧道がここに開けた。仁願が軍を加えることを請うと、詔して右威衛将軍の孫仁師を熊津道行軍総管とし、斉の兵七千を発して行かせた。福信は国を独占し、豊を殺そうと謀ったが、豊は親信の者を率いて福信を斬り、高麗・倭と和を結んだ。仁願は斉の兵を得て士気が振るったので、新羅王の金法敏とともに歩兵と騎兵を率い、劉仁軌には舟師を率いさせ、熊津江からともに進んで周留城へ向かった。豊の衆は白江の川口に屯していたが、四度戦ってみな勝ち、船四百艘を焼いた。豊は走って、どこにいるのか分からない。偽の王子の扶余忠勝・忠志が、残った衆および倭人を率いて命を請い、諸城はみな回復した。仁願は軍を整えて帰り、仁軌を留めて代わりに守らせた。
6白馬の盟い
帝以扶餘隆爲熊津都督,俾歸國,平新羅故憾,招還遺人。麟德二年,與新羅王會熊津城,刑白馬以盟。仁軌爲盟辭曰:「往百濟先王,罔顧逆順,不敦鄰,不睦親,與高麗、倭共侵削新羅,破邑屠城。天子憐百姓無辜,命行人脩好,先王負險恃遐,侮慢弗恭。皇赫斯怒,是伐是夷。但興亡繼絕,王者通制,故立前太子隆爲熊津都督,守其祭祀,附杖新羅,長爲與國,結好除怨,恭天子命,永爲籓服。右威衛將軍魯城縣公仁願,親臨厥盟,有貳其德,興兵動衆,明神監之,百殃是降,子孫不育,社稷無守,世世毋敢犯。」乃作金書鐵契,藏新羅廟中。
帝は扶余隆を熊津都督として国に帰らせ、新羅との古い恨みを解き、残った人々を招いて帰らせた。麟徳二年、新羅王と熊津城で会い、白馬を刑して盟った。仁軌が盟いの辞を作って言った。「さきに百済の先王は、逆と順を顧みず、隣と篤くせず、親と睦まじくせず、高麗・倭とともに新羅を侵し削り、邑を破り城を屠った。天子は百姓の無辜を憐れみ、行人に命じて好を修めさせたが、先王は険を負い遠さを恃んで、侮り慢って恭しくなかった。皇はここに赫と怒り、これを伐ち、これを平らげた。ただし亡びたものを興し、絶えたものを継ぐのは王者の通じた制であるから、前の太子の隆を立てて熊津都督とし、その祭祀を守らせる。新羅に寄りかかり、長く与国となり、好を結んで怨みを除き、天子の命を恭しく奉じて、永く籓服となれ。右威衛将軍・魯城県公の仁願が、親しくその盟いに臨む。その徳に二心を抱き、兵を興し衆を動かすならば、明神がこれを見て、百の災いをこれに降し、子孫は育たず、社稷は守る者がなくなるであろう。世々あえて犯してはならない。」そこで金書鉄契を作り、新羅の廟の中に蔵めた。
7百済が絶える
仁願等還,隆畏衆攜散,亦歸京師。儀鳳時,進帶方郡王,遣歸籓。是時,新羅強,隆不敢入舊國,寄治高麗死。武后又以其孫敬襲王,而其地已爲新羅、渤海靺鞨所分,百濟遂絕。
仁願たちが帰ると、隆は衆が離れ散ることを恐れ、やはり京師に帰った。儀鳳の時、帯方郡王に進められ、籓に帰らせられたが、このとき新羅が強く、隆はあえて旧国に入ることができず、高麗の地に寄って治め、そこで死んだ。武后はまたその孫の敬に王を襲がせたが、その地はすでに新羅と渤海靺鞨に分けられており、百済はついに絶えた。