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阿達羅尼師今

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 20 · 漢字 428字 · 朗読 1.7分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1阿達羅尼師今が即位する

阿達羅尼師今立,逸聖長子也。身長七尺,豐準有奇相。母,朴氏,支所禮王之女;妃,朴氏內禮夫人。祗摩王之女也。

阿達羅尼師今が即位した。逸聖の長子である。身の丈は七尺、鼻筋が高くて人と違った姿であった。母は朴氏で支所礼王の娘、妃は朴氏の内礼夫人で祇摩王の娘である。

2元年 — 継元に政を委ねる

元年,三月,以繼元爲伊飡,委軍國政事。

元年三月、継元を伊飡として軍事と国の政を委ねた。

3二年 — 始祖の廟に祭る

二年,春正月,親祀始祖廟。大赦。以興宣爲一吉飡。

二年春正月、自ら始祖の廟に祭りを行い、大赦を行った。興宣を一吉飡とした。

4三年 — 鶏立嶺の道を開く

三年,夏四月,隕霜。開雞立嶺路。

三年夏四月、霜が降りた。鶏立嶺の道を開いた。

5四年 — 二つの県を置く

四年,春二月,始置甘勿、馬山二縣。三月,巡幸長嶺鎭,勞戍卒,各賜征袍。

四年春二月、はじめて甘勿・馬山の二つの県を置いた。三月、長嶺鎮に出向いて守りの兵をいたわり、それぞれに軍衣を与えた。

6五年 — 竹嶺を開き、倭人が来る

五年,春三月,開竹嶺。倭人來聘。

五年春三月、竹嶺の道を開いた。倭人が使いとして来た。

7七年 — 閼川があふれる

七年,夏四月,暴雨。閼川水溢,漂流人家,金城北門自毁。

七年夏四月、激しい雨が降った。閼川の水があふれて人家が流され、金城の北門がおのずから崩れた。

8八年 — いなごと魚

八年,秋七月,蝗害穀。海魚多出死。

八年秋七月、いなごが穀物を害した。海の魚が多く打ち上がって死んだ。

9九年 — 沙道城に出向く

九年,巡幸沙道城,勞戍卒。

九年、沙道城に出向いて守りの兵をいたわった。

10十一年 — 龍が現れる

十一年,春二月,龍見京都。

十一年春二月、龍が都に現れた。

11十二年 — 吉宣が百済に逃げ込む

十二年,冬十月,阿飡吉宣謀叛,發覺,懼誅亡入百濟。王移書求之,百濟不許,王怒出師伐之。百濟嬰城守不出,我軍粮盡乃歸。

十二年冬十月、阿飡の吉宣が反逆を企てて露見すると、死を恐れて百済に逃げ込んだ。王が書を送って引き渡しを求めたが、百済は聞き入れなかった。王は怒って兵を出して討った。百済は城にこもって守り、出てこなかったので、新羅の軍は食糧が尽きてそのまま帰った。

12十三年 — 日食

十三年,春正月辛亥朔,日有食之。

十三年春正月辛亥の朔に日食があった。

13十四年 — 百済が和を乞う

十四年,秋七月,百濟襲破國西二城,虜獲民口一千而去。八月,命一吉飡興宣,領兵二萬伐之,王又率騎八千,自漢水臨之,百濟大懼,還其所掠男女,乞和。

十四年秋七月、百済が国の西の二つの城を襲って破り、民一千をとらえて去った。八月、一吉飡の興宣に命じて兵二万を率いて討たせ、王も騎兵八千を率いて漢水の方から臨んだ。百済は大いに恐れ、奪った男女を返して和を乞うた。

14十五年 — 継元が亡くなる

十五年,夏四月,伊飡繼元卒,以興宣爲伊飡。

十五年夏四月、伊飡の継元が亡くなったので、興宣を伊飡とした。

15十七年 — 百済が国境を荒らす

十七年,春二月,重修始祖廟。秋七月,京師地震,霜雹害穀。冬十月,百濟寇邊。

十七年春二月、始祖の廟を建て直した。秋七月、都で地が揺れ、霜と雹が穀物を害した。冬十月、百済が国境を荒らした。

16十八年 — 穀物が乏しくなる

十八年春,穀貴,民飢。

十八年春、穀物が乏しくなって民が飢えた。

17十九年 — 大きな疫病

十九年,春正月,以仇道爲波珍飡,仇須兮爲一吉飡。二月,有事始祖廟。京都大疫。

十九年春正月、仇道を波珍飡、仇須兮を一吉飡とした。二月、始祖の廟で祭りがあった。都に大きな疫病が流行した。

18二十年 — 倭の女王卑弥呼が使いを送る

二十年,夏五月,倭女王卑彌乎遣使來聘。

二十年夏五月、倭の女王卑弥呼が使いを送ってきた。

19二十一年 — 土の雨と干ばつ

二十一年,春正月,雨王土。二月,旱。井泉竭。

二十一年春正月、土の雨が降った。二月、干ばつで井戸や泉が枯れた。

20三十一年 — 王が亡くなる

三十一年,春三月,王薨。

三十一年春三月、王が亡くなった。