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宣徳王宣德王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 7 · 漢字 354字 · 朗読 1.4分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1宣徳王が即位する

宣德王立。姓金氏,諱良相,奈勿王十世孫也。父,海飡孝芳;母,金氏四炤夫人,聖德王之女也;妃,具足夫人,角干良品之女也。大赦。追封父爲開聖大王,尊母金氏爲貞懿太后,妻爲王妃。拜伊飡敬信爲上大等,阿飡義恭爲侍中。改御龍省奉御爲卿,又改卿爲監。

宣徳王が即位した。姓は金氏、諱は良相で、奈勿王の十世の孫である。父は海飡の孝芳、母は金氏の四炤夫人で聖徳王の娘であり、王妃は具足夫人で角干の良品の娘である。

大赦を行った。父を開聖大王と追封し、母の金氏を尊んで貞懿太后とし、妻を王妃とした。伊飡の敬信を上大等とし、阿飡の義恭を侍中とした。御竜省の奉御を卿と改め、また卿を監と改めた。

夾注 1

一云義恭阿飡之女。

阿飡の義恭の娘ともいう。

2二年 — 浿江の南の州郡を安撫する

二年,春二月,親祀神宮。秋七月,發使安撫浿江南州郡。

二年春二月、みずから神宮を祭った。秋七月、使者を発して浿江の南の州郡を安撫させた。

3三年 — 民を浿江鎮に移す

三年,春閏正月,遣使入唐朝貢。二月,王巡幸漢山州,移民戸於浿江鎭。秋七月,大閲於始林之原。

三年春閏正月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。二月、王は漢山州に行幸し、民を浿江鎮に移した。秋七月、始林の野で大いに閲した。

4四年 — 体信を大谷鎮の軍主とする

四年,春正月,以阿飡體信爲大谷鎭軍主。二月,京都雪三尺。

四年春正月、阿飡の体信を大谷鎮の軍主とした。二月、都に雪が三尺降った。

5五年 — 位を譲ろうとする

五年,夏四月,王欲遜位。群臣三上表諫,乃止。

五年夏四月、王が位を譲ろうとしたが、群臣が三たび表を上して諫めたので、やめた。

6六年 — 宣徳王が薨じる

六年,春正月,唐德宗遣戸部郞中蓋塤,持節冊命,王爲檢校太尉鷄林州刺史寧海軍使新羅王。是月,王寢疾彌留。乃下詔曰:「寡人本惟菲薄,無心大寶,難逃推戴,作其即位。居位以來,年不順成,民用窮困,此皆德不符民望,政未合天心。常欲禪讓,退居于外,群官百辟,每以誠止,未果如意,因循至今。忽遘疾疹,不寤不興。死生有命,顧復何恨?死後,依佛制燒火,散骨東海!」至十三日薨,諡曰宣德。

六年春正月、唐の徳宗は戸部郎中の蓋勲を遣わし、節を持って冊命させ、王を検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王とした。

この月、王は病んで臥し、久しく癒えなかったので、そこで詔を下して言った。

「寡人はもとよりただ微かな者で、大きな位に心はなかったが、推し奉られることを逃れがたく、即位することになった。位にあって以来、年は順調に実らず、民は困窮している。これはみな徳が民の望みに合わず、政が天の心に合わないためである。常に位を譲って外に退いて住もうとしたが、諸官と官人が常に誠をもって諫めるので、意のままに果たせず、ためらって今日に至った。にわかに病に遭い、覚めることも起きることもできない。死ぬことと生きることには命があるのだから、顧みて何の恨みがあろうか。死んだ後は仏の法のとおりに火で焼き、骨を東海に散らせ。」

十三日に至って薨じた。諡を宣徳といった。

7三国史記 巻第九

三國史記第九卷

三国史記 巻第九。