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元聖王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 17 · 漢字 1,461字 · 朗読 5.8分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1元聖王が即位する

元聖王立。諱敬信,奈勿王十二世孫。母,朴氏繼烏夫人;妃,金氏,神述角干之女。初,惠恭王末年,叛臣跋扈,宣德時爲上大等,首唱除君側之惡。敬信預之,平亂有功,洎宣德即位,即爲上大等。及宣德薨,無子。群臣議後,欲立王之族子周元。周元宅於京北二十里,會大雨,閼川水漲,周元不得渡。或曰:「即人君大位,固非人謀,今日暴雨,天其或者不欲立周元乎?今上大等敬信,前王之弟,德望素高,有人君之體。」於是,衆議翕然,立之繼位。既而雨止,國人皆呼萬歳。二月,追封高祖大阿飡法宣爲玄聖大王,曾祖伊飡義寬爲神英大王,祖伊飡魏文爲興平大王,考一吉飡孝讓爲明德大王,母朴氏爲昭文太后,立子仁謙爲王太子。毀聖德大王、開聖大王二廟,以始祖大王、太宗大王、文武大王及祖興平大王、考明德大王爲五廟。

元聖王が即位した。諱は敬信、奈勿王の十二世の孫である。母は朴氏の継烏夫人、妃は金氏で神述角干の娘である。

はじめ、恵恭王の末年に叛いた臣が跋扈したとき、宣徳はそのとき上大等であり、君の側の悪を除くことを首めに唱えた。敬信はこれに加わり、乱を平らげた功があったので、宣徳が即位すると、すぐに上大等となった。

宣徳が薨じて子がなかったので、群臣は後を議して、王の族子である周元を立てようとした。周元の宅は都の北二十里にあったが、ちょうど大雨が降って閼川の水が漲り、周元は渡ることができなかった。ある者が言った。「君主の大位に即くことは、もとより人の謀るところではない。今日の暴雨は、天がもしや周元を立てようとしないのではないか。いま上大等の敬信は、前の王の弟であり、徳望はもとより高く、君主の体がある。」

そこで衆の議が一つになり、彼を立てて位を継がせた。やがて雨が止むと、国人はみな万歳を呼んだ。

二月、高祖の大阿飡の法宣を玄聖大王と、曽祖の伊飡の義寛を神英大王と、祖の伊飡の魏文を興平大王と、考の一吉飡の孝譲を明徳大王と追封し、母の朴氏を昭文太后とし、子の仁謙を立てて王太子とした。聖徳大王と開聖大王の二つの廟を毀し、始祖大王・太宗大王・文武大王および祖の興平大王、考の明徳大王を五廟とした。

2元年 — 爵を一級上げる

增文武百官爵一級。拜伊飡兵部令忠廉爲上大等,伊飡悌恭爲侍中。悌恭免,伊飡世強爲侍中。三月,出前妃具足王后於外宮,賜租三萬四千石。浿江鎭進赤烏。改摠管爲都督。

文武百官の爵を一級上げた。伊飡で兵部令の忠廉を上大等とし、伊飡の悌恭を侍中とした。悌恭が免じられたので、伊飡の世強を侍中とした。

三月、前の王妃の具足王后を外の宮に出し、租三万四千石を賜った。浿江鎮が赤い烏を献じた。摠管を都督と改めた。

3二年 — 徳宗が詔書を下す

二年,夏四月,國東雨雹,桑麥皆傷。遣金元全入唐,進奉方物。德宗下詔書曰:「勅新羅王金敬信。金元全至,省表及所進奉具悉。卿俗敦信義,志秉貞純,夙奉邦家,克遵聲敎。撫兹藩服,皆禀儒風,禮法興行,封部寧乂,而竭誠向闕,述職無虧。累遣使臣,聿修貢獻,雖溟渤遐廣,道路悠長,贄幣往來,率循舊典,忠効益著,嘉歎良深。朕君臨萬方,作人父母,自中及外,合軌同文,期致太和,共躋仁壽。卿宜保安封内,勤恤蒼生,永作藩臣,以寧海裔。今賜卿羅錦綾綵等三十匹,衣一副,銀榼一口,至宜領之;妃錦綵綾羅等二十匹,押金線繡羅裙衣一副,銀椀一;大宰相一人,衣一副,銀椀一;次宰相二人,各衣一副,銀椀各一。卿宜領受分給。夏中盛熱,卿比平安好,宰相已下,並存問之。

二年夏四月、国の東に雹が降り、桑と麦がみな傷んだ。金元全を遣わして唐に入り、その地の産物を進め奉った。徳宗は詔書を下して言った。

「新羅王の金敬信に勅する。金元全が至り、表と進め奉った物とを省て具に知った。卿は俗が信義を篤くし、志は貞と純を秉って、早くから邦家を奉じ、声と教えをよく遵ってきた。この藩服を撫するに、みな儒の風を禀け、礼法が興って行われ、封部は寧らかに乂まり、しかも誠を竭くして闕に向かい、職を述べるに虧けるところがなかった。

たびたび使臣を遣わして貢献を修めてきたが、溟渤は遥かに広く、道路は悠かに長いのに、贄と幣の往来は旧い典に率い循ってきた。忠の効がいよいよ著れ、嘉んで歎ずることはまことに深い。

朕は万方に君臨して人の父母となったのであるから、中より外に及ぶまで軌を合わせ文を同じくし、太和を致して、ともに仁と寿に躋ることを期している。卿はよろしく封の内を保ち安んじ、蒼生を勤めて恤み、永く藩の臣となって、海の裔を寧らかにせよ。

いま卿に羅・錦・綾・綵など三十匹、衣一副、銀の榼一口を賜る。至ればよろしくこれを領けよ。妃には錦・綵・綾・羅など二十匹、金の線を押して繍った羅の裙と衣一副、銀の椀一つを賜る。大宰相一人に衣一副と銀の椀一つ、次の宰相二人にそれぞれ衣一副と銀の椀一つずつを賜る。卿はよろしく領け受けて分け給えよ。夏の中の盛んな熱のなか、卿は近ごろ平安で好いか。宰相以下も、あわせて存問する。

4二年 — 武烏が兵法を献じる

遣書指不多及。」秋七月,旱。九月,王都民饑,出粟三萬三千二百四十石以賑給之。冬十月,又出粟三萬三千石以給之。大舍武烏,獻《兵法》十五卷、《花鈴圖》二卷,授以屈押縣令。

書を遣わすが、指すところを多くは及ばせない。」

秋七月、旱があった。九月、王都の民が飢えたので、粟三万三千二百四十石を出して賑わし給した。冬十月、また粟三万三千石を出して給した。

大舎の武烏が『兵法』十五巻と『花鈴図』二巻を献じたので、屈押県令を授けた。

夾注 1

一作屈岬縣。

屈押県は、屈岬県とも書く。

5三年 — 蝗が穀を害する

三年,春二月,京都地震。親祀神宮。大赦。夏五月,太白晝見。秋七月,蝗害穀。八月辛巳朔,日有食之。

三年春二月、都に地震があった。みずから神宮を祭った。大赦を行った。夏五月、太白が昼に見えた。秋七月、蝗が穀を害した。八月の朔の辛巳に日食があった。

6四年 — 読書三品で人を選ぶ

四年,春,始定讀書三品以出身。讀《春秋左氏傳》若《禮記》若《文選》,而能通其義,兼明《論語》、《孝經》者爲上;讀《曲禮》、《論語》、《孝經》者爲中;讀《曲禮》、《孝經》者爲下。若博通五經、三史、諸子百家書者,超擢用之。前祇以弓箭選人,至是改之。秋,國西旱蝗,多盜賊,王發使安撫之。

四年春、初めて読書の三品を定めて出身させた。『春秋左氏伝』か『礼記』か『文選』を読んでその義に通じ、あわせて『論語』と『孝経』に明らかな者を上とし、『曲礼』『論語』『孝経』を読んだ者を中とし、『曲礼』『孝経』を読んだ者を下とした。もし五経・三史・諸子百家の書に博く通じた者は、級を超えて抜いて用いた。以前はただ弓矢で人を選んでいたが、このときに至って改めた。

秋、国の西が旱となり蝗が出て、盗賊が多かったので、王は使者を発して安撫させた。

7五年 — 毛肖が子玉を遮って言う

五年,春正月甲辰朔,日有食之。漢山州民饑,出粟以賙之。秋七月,隕霜傷穀。九月,以子玉爲楊根縣小守,執事史毛肖駁言:「子玉不以文籍出身,不可委分憂之職。」侍中議云:「雖不以文籍出身,曾入大唐爲學生,不亦可用耶?」王從之。

五年春正月の朔の甲辰に日食があった。漢山州の民が飢えたので、粟を出して救った。秋七月、霜が降って穀を傷めた。

九月、子玉を楊根県の少守としたので、執事史の毛肖が遮って言った。「子玉は文で出身したのではありませんから、県を治める任を委ねることはできません。」

侍中が議して言った。「文で出身したのではないが、かつて唐に入って学生となったのであるから、やはり用いるに足るのではないか。」王はその言に従った。

8史論 — 学んでから仕えるべきである

論曰:「惟學焉然後聞道,惟聞道然後,灼知事之本末。故學而後仕者,其於事也,先本而末自正。譬如擧一綱,萬目從而皆正。不學者反此,不知事有先後、本末之序,但區區弊精神於枝末,或掊斂以爲利,或苛察以相高,雖欲利國安民,而反害之。是故,《學記》之言,終於《務本》,而《書》亦言:『不學牆面,蒞事惟煩。』則執事毛肖一言,可爲萬世之模範者焉。

論じて言う。

ただ学んだ後に道を聞き、ただ道を聞いた後に、事の本と末とを灼かに知る。それゆえ学んで後に仕えた者は、事において本を先にするので、末はおのずから正しくなる。たとえば一つの綱を挙げれば、万の目が従ってみな正しくなるようなものである。

学ばない者はこれと反対で、事に先と後、本と末の序があることを知らず、ただ区々として枝と末に精神を弊らせる。ある者は掊め斂めて利とし、ある者は苛く察して互いに高ぶるので、国を利し民を安んじようとしても、かえってこれを害する。

このゆえに『学記』の言は「務本」で終わっており、『書』にも「学ばなければ牆に面するようで、事に臨めばただ煩わしい」とある。であれば執事の毛肖の一言は、万世の模範となるに足るものである。

9六年 — 碧骨堤を加えて築く

六年,春正月,以宗基爲侍中。增築碧骨堤,徴全州等七州人,興役。熊川州進赤烏。三月,以一吉飡伯魚使北國。大旱。夏四月,太白辰星,聚于東井。五月,出粟賑漢山、熊川二州饑民。

六年春正月、宗基を侍中とした。碧骨堤を加えて築いたが、全州など七つの州の人を徴して役を起こした。熊川州が赤い烏を献じた。

三月、一吉飡の伯魚を北国に使者として遣わした。大いに旱となった。夏四月、太白星と辰星が東井の星座に集まった。五月、粟を出して漢山と熊川の二州の飢えた民を賑恤した。

10七年 — 悌恭が叛く

七年,春正月,王太子卒,諡曰惠忠。伊飡悌恭叛,伏誅。熊川州向省大舍妻,一産三男。冬十月,京都雪三尺,人有凍死。侍中宗基免,大阿飡俊邕爲侍中。十二月,京都地震。内省侍郞金言爲三重阿飡。

七年春正月、王太子が卒したので、諡を恵忠といった。伊飡の悌恭が叛き、誅された。熊川州の向省大舎の妻が一度に三人の子を産んだ。

冬十月、都に雪が三尺降り、凍え死んだ者があった。侍中の宗基が免じられたので、大阿飡の俊邕を侍中とした。十二月、都に地震があった。内省侍郎の金言を三重阿飡とした。

11八年 — 金井蘭を唐に献じる

八年,秋七月,遣使入唐,獻美女金井蘭,其女國色身香。八月,封王子義英爲太子。上大等忠廉卒,伊飡世強爲上大等。侍中俊邕病免,伊飡崇斌爲侍中。冬十一月壬子朔,日有食之。

八年秋七月、使者を遣わして唐に入り、美女の金井蘭を献じた。その女は国で一番の美色で、身から香りがした。

八月、王子の義英を封じて太子とした。上大等の忠廉が卒したので、伊飡の世強を上大等とした。侍中の俊邕が病で免じられたので、伊飡の崇斌を侍中とした。冬十一月の朔の壬子に日食があった。

12九年 — 白い雉を献じる

九年,秋八月,大風折木偃禾,奈麻金惱獻白雉。

九年秋八月、大風が吹いて木を折り稲を倒した。奈麻の金惱が白い雉を献じた。

13十年 — 奉恩寺を建てる

十年,春二月,地震。太子義英卒,諡曰憲平。侍中崇斌免,以迊湌彦昇爲侍中。秋七月,始創奉恩寺。漢山州進白烏。起望恩樓於宮西。

十年春二月、地震があった。太子の義英が卒したので、諡を憲平といった。侍中の崇斌が免じられたので、雑飡の彦昇を侍中とした。

秋七月、初めて奉恩寺を建てた。漢山州が白い烏を献じた。宮の西に望恩楼を建てた。

14十一年 — 俊邕を太子とする

十一年,春正月,封惠忠太子之子俊邕爲太子。夏四月,旱,親録囚。至六月乃雨。秋八月,隕霜害穀。

十一年春正月、恵忠太子の子の俊邕を封じて太子とした。夏四月、旱となったので、みずから囚人を省たところ、六月に至ってようやく雨が降った。秋八月、霜が降って穀を害した。

15十二年 — 倉を開いて賑恤する

十二年,春,京都飢疫,王發倉廩賑恤之。夏四月,侍中彦昇爲兵部令,伊飡智原爲侍中。

十二年春、都に飢えと疫があったので、王は倉を開いて賑恤した。夏四月、侍中の彦昇を兵部令とし、伊飡の智原を侍中とした。

16十三年 — 蝗が穀を害する

十三年,秋九月,國東,蝗害穀。大水山崩。侍中智原免,阿飡金三朝爲侍中。

十三年秋九月、国の東で蝗が穀を害した。大水が出て山が崩れた。侍中の智原が免じられたので、阿飡の金三朝を侍中とした。

17十四年 — 元聖王が薨じる

十四年,春三月,宮南樓橋災。望德寺二塔相撃。夏六月,旱。屈自郡石南烏大舍妻,一産三男一女。冬十二月二十九日,王薨。諡曰元聖,以遺命,擧柩燒於奉德寺南。

十四年春三月、宮の南の楼橋に火災があった。望徳寺の二つの塔が互いに打ち合った。

夏六月、旱があった。屈自郡の石南烏大舎の妻が一度に三人の子と一人の娘を産んだ。

冬十二月二十九日、王が薨じた。諡を元聖といい、遺命によって柩を挙げて奉徳寺の南で焼いた。

夾注 1

《唐書》云:「貞元十四年,敬信死。」《通鑑》云:「貞元十六年,敬信死。」以本史考之,《通鑑》誤。

『唐書』には「貞元十四年に敬信が卒した」とあり、『通鑑』には「貞元十六年に敬信が卒した」とあるが、本史によって考えれば『通鑑』が誤りである。