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大武神王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 19 · 漢字 2,014字 · 朗読 8.1分

三国史記(三国時代の正史) 高句麗本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1大武神王が即位する

大武神王立。諱無恤,琉璃王第三子。生而聰慧,壯而雄傑,有大略。琉璃王在位三十三年甲戌,立爲太子,時年十一歳。至是即位。母,松氏,多勿國王松讓女也。

大武神王が即位した。諱は無恤、瑠璃王の第三子である。生まれつき聡く賢く、成長すると雄々しく優れ、大きな略があった。瑠璃王の在位三十三年甲戌に立てられて太子となり、そのとき年は十一であったが、このときに至って即位した。母は松氏で、多勿国王の松譲の娘である。

夾注 1

或云大解朱留王。

大解朱留王ともいう。

2二年 — 百済の民が投じて来る

二年,春正月,京都震。大赦。百濟民一千餘戸來投。

二年春正月、都で地が震えた。大赦を行った。百済の民一千余戸が来て投じた。

3三年 — 頭一つに体が二つの烏

三年,春三月,立東明王廟。秋九月,王田骨句川,得神馬。名駏䮫。冬十月,扶餘王帶素遣使送赤烏,一頭二身。初,扶餘人得此烏獻之王,或曰:「烏者黑也,今變而為赤,又一頭二身,幷二國之徵也,王其兼高句麗乎?」帶素喜送之,兼示或者之言。王與群臣議答曰:「黑者,北方之色,今變而為南方之色,又赤烏瑞物也,君得而不有之,以送於我,兩國存亡,未可知也。」帶素聞之,驚悔。

三年春三月、東明王の廟を立てた。

秋九月、王は骨句川で狩りをして霊しい馬を得、名を駏䮫とした。

冬十月、扶余王の帯素が使者を遣わして赤い烏を送ったが、頭が一つで体が二つであった。はじめ、扶余の人がこの烏を得て王に献じると、ある者が言った。「烏は黒いものですが、いま変わって赤くなり、また頭一つに体が二つです。二つの国を併せる兆しです。王は高句麗を併せられるのでしょう。」帯素は喜んで送り、あわせてある者の言葉を伝えた。

王は群臣と議して答えた。「黒は北方の色であるのに、いま変わって南方の色となった。また赤い烏はめでたい物であるのに、あなたは得ておきながらそれを持たず、わたしに送った。二つの国の存亡は、まだわからない。」帯素はこれを聞いて驚き悔やんだ。

4四年 — 負鼎氏と怪由と麻盧を得る

四年,冬十二月,王出師,伐扶餘,次沸流水上,望見水涯,若有女人,舁鼎游戯。就見之,只有鼎。使之炊,不待火自熱,因得作食,飽一軍。忽有一壯夫曰:「是鼎吾家物也,我妹失之,王今得之,請負以從。」遂賜姓負鼎氏。抵理勿林宿,夜聞金聲。向明,使人尋之,得金璽兵物等,曰:「天賜也。」拜受之。上道有一人,身長九尺許,面白而目有光。拜王曰:「臣是北溟人怪由。竊聞大王北伐扶餘,臣請從行,取扶餘王頭。」王悅許之。又有人曰:「臣赤谷人麻盧,請以長矛為導。」王又許之。

四年冬十二月、王は軍を出して扶余を伐ち、沸流水のほとりに宿った。水際を望み見ると、女が鼎を担いで遊んでいるようであった。近づいて見ると、ただ鼎だけがあった。それで飯を炊かせると、火を待たずにひとりでに熱くなり、これで飯を作って一軍を満腹にさせた。

ふいに一人の壮んな男がいて言った。「この鼎はわが家の物です。わたしの妹が失ったのを、王がいま得られたのですから、担いでお従いすることをお願いします。」ついに負鼎氏という姓を賜った。

理勿林に着いて宿ると、夜に金の音が聞こえた。明け方になって人に探させ、金の璽や兵器などを得て言った。「天の賜りものだ。」拝して受けた。

道に上ると、一人の人がいて、身の丈は九尺ばかり、顔は白く目に光があった。王に拝して言った。「臣は北溟の人の怪由です。ひそかに聞けば大王は北に扶余を伐たれるとのこと。臣はお供して、扶余王の頭を取ることをお願いします。」王は喜んで許した。

またある人が言った。「臣は赤谷の人の麻盧です。長い矛をもって導きとなることをお願いします。」王はまた許した。

5五年 — 扶余王を斬り霧の中を帰る

五年,春二月,王進軍於扶餘國南,其地多泥塗,王使擇平地為營,解鞍休卒,無恐懼之態。扶餘王擧國出戰。欲掩其不備,策馬以前,陷濘不能進退。王於是揮怪由。怪由拔劍號吼擊之,萬軍披靡,不能支。直進執扶餘王,斬頭。扶餘人,旣失其王,氣折,而猶不自屈,圍數重。王以糧盡士饑,憂懼不知所為。乃乞靈於天,忽大霧咫尺不辨人物七日。王令作草偶人,執兵立營內外,為疑兵。從間道潛軍夜出。失骨句川神馬,沸流源大鼎。至利勿林,兵飢不興,得野獸以給食。王旣至國,乃會群臣飲至曰:「孤以不德,輕伐扶餘。雖殺其王,未滅其國,而又多失我軍資,此孤之過也。」遂親吊死問疾,以存慰百姓。是以國人感王德義,皆許殺身於國事矣。三月,神馬駏䮫將扶餘馬百匹,俱至鶴盤嶺下車廻谷。

五年春二月、王は扶余国の南に軍を進めたが、その地は泥が多かった。王は平らな地を選んで陣営とし、鞍を解いて兵を休ませ、恐れる様子がなかった。

扶余王は国を挙げて出て戦い、備えのない隙を突こうとして馬に鞭打って前に出たが、泥に陥って進むも退くもできなくなった。王はそこで怪由に合図した。怪由は剣を抜き、吼え叫んで撃ちかかると、万の軍はなびき倒れて支えられなかった。まっすぐ進んで扶余王を捕らえ、頭を斬った。

扶余の人はすでにその王を失って気が折れたが、なお自ら屈せず、幾重にも囲んだ。王は糧が尽き兵が飢えたので、憂え恐れてどうすべきかわからなかった。そこで天に霊しさを乞うと、たちまち大霧がかかり、七日間、すぐ近くでも人や物を見分けられなかった。王は草で人形を作らせ、兵器を持たせて陣営の内外に立てて偽の兵とし、脇道から軍をひそかに夜に出した。

骨句川の霊しい馬と、沸流の源の大きな鼎を失った。利勿林に至ると兵が飢えて立てなかったので、野の獣を得て食べさせた。

王は国に帰り着くと、群臣を集めて飲み、言った。「わたしは徳がないのに軽々しく扶余を伐った。その王を殺したとはいえ、その国を滅ぼせず、またわが軍の資を多く失った。これはわたしの過ちである。」ついに自ら死者を弔い病者を見舞って、百姓を慰め安んじた。これによって国の人は王の徳と義に感じ、みな国の事に身を捧げることを誓った。

三月、霊しい馬の駏䮫が扶余の馬百匹を率いて、ともに鶴盤嶺の下の車廻谷に至った。

6五年 — 曷思王が立ち絡氏の姓を賜る

夏四月,扶餘王帶素弟,至曷思水濱,立國稱王,是扶餘王金蛙季子,史失其名。初,帶素之見殺也,知國之將亡,與從者百餘人,至鴨渌谷,見海頭王出獵,遂殺之,取其百姓,至此始都,是為曷思王。秋七月,扶餘王從弟,謂國人曰:「我先王身亡國滅,民無所依,王弟逃竄,都於曷思,吾亦不肖,無以興復。」乃與萬餘人來投。王封為王,安置掾那部。以其背有絡文,賜姓絡氏。冬十月,怪由卒。初疾革,王親臨存問。怪由言:「臣北溟微賤之人,屢蒙厚恩。雖死猶生,不敢忘報。」王善其言,又以有大功勞,葬於北溟山陽,命有司以時祀之。

夏四月、扶余王の帯素の弟が曷思水のほとりに至って国を立て、王と称した。これは扶余王の金蛙の末子であるが、史はその名を失っている。はじめ、帯素が殺されると、国が亡びることを知り、従う者百余人とともに鴨緑谷に至り、海頭王が狩りに出ているのを見てついに殺し、その百姓を取って、ここに至って初めて都した。これが曷思王である。

秋七月、扶余王の従弟が国の人に言った。「わが先王は身が亡び国が滅び、民は依るところがない。王の弟は逃げて曷思に都した。わたしもまた不肖で、再び興すことができない。」そこで一万余人とともに来て投じた。王は封じて王とし、掾那部に安んじて置いた。その背に網目の文があったので、絡氏という姓を賜った。

冬十月、怪由が亡くなった。病が重くなったはじめ、王が自ら臨んで見舞うと、怪由が言った。「臣は北溟の微賤な人ですが、たびたび厚い恩を受けました。死んでもなお生きているようで、あえて報いを忘れません。」王はその言葉を善しとし、また大きな功労があるとして、北溟山の南に葬り、担当の役所に命じて時ごとに祀らせた。

7八年 — 乙豆智を右輔とする

八年,春二月,拜乙豆智,為右輔,委以軍國之事。

八年春二月、乙豆智を右輔とし、軍と国の事を委ねた。

8九年 — 蓋馬国と句茶国

九年,冬十月,王親征蓋馬國,殺其王,慰安百姓,母禁虜掠,但以其地為郡縣。十二月,句茶國王,聞蓋馬滅,懼害及己,擧國來降。由是拓地浸廣。

九年冬十月、王は自ら蓋馬国を征してその王を殺し、百姓を慰め安んじ、捕らえ掠めることを禁じて、ただその地を郡県とした。

十二月、句茶国の王が蓋馬が滅びたと聞き、害が自分に及ぶことを恐れ、国を挙げて来て降った。これによって、拓いた地は次第に広くなった。

9十年 — 左輔と右輔を置く

十年,春正月,拜乙豆智,為左輔,松屋句為右輔。

十年春正月、乙豆智を左輔とし、松屋句を右輔とした。

10十一年 — 尉那巌城を固く守る

十一年,秋七月,漢遼東太守將兵來伐。王會群臣,問戰守之計。右輔松屋句曰:「臣聞恃德者昌,恃力者亡。今中國荒儉,盜賊蜂起,而兵出無名,此非君臣定策,必是邊將規利,擅侵吾邦。逆天違人,師必無功,憑險出奇,破之必矣。」左輔乙豆智曰:「小敵之强,大敵之禽也。臣度大王之兵,孰與漢兵之多,可以謀伐,不可力勝。」王曰:「謀伐若何?」對曰:「今漢兵遠鬪,其鋒不可當也。大王閉城自固,待其師老,出而擊之,可也。」王然之,入尉那巖城,固守數旬,漢兵圍不解。王以力盡兵疲,謂豆智曰:「勢不能守,為之奈何?」豆智曰:「漢人謂我巖石之地,無水泉,是以長圍,以待吾人之困。宜取池中鯉魚,包以氷水草,兼旨酒若干,致犒漢軍。」王從之,貽書曰:「寡人愚昧,獲罪於上國,致令將軍帥百萬之軍,暴露弊境。

十一年秋七月、漢の遼東太守が兵を率いて伐ちに来た。王は群臣を集め、戦う計と守る計を問うた。

右輔の松屋句が言った。「臣が聞くところでは、徳を頼みにする者は栄え、力を頼みにする者は亡びます。いま中国は不作と乏しさに苦しんで盗賊が蜂のように起こっているのに、兵を出すのに名がありません。これは君と臣が定めた策ではなく、必ず辺りの将が利を図って勝手にわが邦を侵しているのです。天に逆らい人に背いたのですから、その軍には必ず功がありません。険しい地に拠って奇を出せば、破ることは確かです。」

左輔の乙豆智が言った。「小さい敵が強ければ、大きい敵に捕らえられます。臣が量るに、大王の兵は漢の兵の多さと比べてどうでしょうか。謀で伐つことはできますが、力で勝つことはできません。」

王が言った。「謀で伐つとはどのようなものか。」

答えた。「いま漢の兵は遠くから来て戦っており、その鋒先には当たれません。大王が城を閉ざして自ら固め、その軍が疲れるのを待ってから出て撃つのがよろしいでしょう。」

王はそのとおりと思い、尉那巌城に入って固く守ること数十日であったが、漢の兵は囲みを解かなかった。王は力が尽き兵が疲れたので、豆智に言った。「勢いとして守れない。どうすればよいか。」

豆智が言った。「漢の人はわれらを岩と石の地で水も泉もないと思い、そのために長く囲んで、わが人が困るのを待っています。まさに池の中の鯉を取って水草に包み、あわせて旨い酒を幾らか添えて、漢の軍をもてなし労うべきです。」

王はその言葉に従い、書を送って言った。「寡人は愚かで暗く、上国に罪を得て、将軍に百万の軍を率いさせ、みすぼらしい境に身をさらさせることになりました。

11十一年 — 漢の軍が退く

無以將厚意,輒用薄物,致供於左右。」於是,漢將謂城內有水,不可猝拔。乃報曰:「我皇帝不以臣駑,下令出師,問大王之罪。及境踰旬,未得要領,今聞來旨,言順且恭,敢不藉口以報皇帝。」遂引退。

厚い意に報いるものがなく、とりあえず粗末な品をもって左右に供します。」

そこで漢の将は城の中に水があって急には抜けないと思い、そのまま答えた。「わが皇帝は臣が鈍いことを構わず、令を下して軍を出し、大王の罪を問わせられた。境に至って十日を越えても要領を得なかったが、いま送ってこられた意を聞けば言葉は順でまた恭しい。あえてこれを口実として皇帝に報せないわけがない。」ついに軍を引いて退いた。

12十三年 — 買溝谷の人が投じる

十三年,秋七月,買溝谷人尚須,與其弟尉須及堂弟于刀等來投。

十三年秋七月、買溝谷の人の尚須が、その弟の尉須と従弟の于刀らとともに来て投じた。

13十四年 — 雷が鳴り雪が降らない

十四年,冬十一月,有雷。無雪。

十四年冬十一月、雷が鳴った。雪が降らなかった。

14十五年 — 鄒素が仇都らを友とする

十五年,春三月,黜大臣仇都、逸苟、焚求等三人為庶人。此三人為沸流部長,資貪鄙,奪人妻妾、牛馬、財貨,恣其所欲,有不與者卽鞭之,人皆懷忿怨。王聞之,欲殺之,以東明舊臣,不忍致極法,黜退而已。遂使南部使者鄒素,代爲部長。素旣上任,別作大室以處,以仇都等罪人,不令升堂。仇都等詣前,告曰:「吾儕小人,故犯王法,不勝愧悔。願公赦過,以令自新,則死無恨矣。」素引上之,共坐曰:「人不能無過,過而能改,則善莫大焉。」乃與之為友。仇都等感愧,不復為惡。王聞之曰:「素不用威嚴,能以智懲惡,可謂能矣。」賜姓曰大室氏。夏四月,王子好童,遊於沃沮。樂浪王崔理出行,因見之。問曰:「觀君顔色,非常人,豈非北國神王之子乎?」遂同歸,以女妻之。

十五年春三月、大臣の仇都・逸苟・焚求ら三人を退けて庶人とした。この三人は沸流部の長となっていたが、性質が貪り卑しく、人の妻妾や牛馬、財貨を奪うことを思うままにし、与えない者があればすぐ鞭打ったので、人はみな憤りと怨みを抱いた。

王はこれを聞いて殺そうとしたが、東明王の旧い臣であったので、忍びなくて極刑には処さず、退けただけであった。ついに南部の使者である鄒素に、代わって部の長とならせた。

素は任に就くと、別に大きな室を作って住み、仇都らの罪人を堂に上がらせなかった。仇都らは前に進み出て告げた。「われら小人は王の法を犯して、恥と悔いに堪えません。願わくは公が過ちを赦し、自ら新しくさせてくださるなら、死んでも恨みはありません。」

素は引き上げてともに座り、言った。「人は過ちがないわけにはいかない。過ちがあっても改められるなら、善はこれより大きいものはない。」そして彼らと友となった。仇都らは感じ入って恥じ、二度と悪をなさなかった。

王はこれを聞いて言った。「素は威厳を用いず、智によって悪を懲らした。よくやったといえる。」そして大室氏という姓を賜った。

夏四月、王子の好童が沃沮に遊びに行った。楽浪王の崔理が出かけていて、たまたま彼を見た。そして尋ねた。「あなたの顔色を見ると並みの人ではない。もしや北国の神王の子ではないか。」ついにともに帰り、娘を妻として与えた。

15十五年 — 自鳴の鼓と好童の死

後,好童還國潛遣人,告崔氏女曰:「若能入而國武庫,割破鼓角,則我以禮迎,不然則否。」先是,樂浪有鼓角,若有敵兵,則自鳴,故令破之。於是,崔女將利刀,潛入庫中,割鼓面、角口,以報好童。好童勸王襲樂浪。崔理以鼓角不鳴,不備,我兵掩至城下,然後知鼓角皆破。遂殺女子,出降。冬十一月,王子好童自殺。好童,王之次妃曷思王孫女所生也。顔容美麗,王甚愛之,故名好童。元妃恐奪嫡為太子,乃讒於王曰:「好童不以禮待妾,殆欲亂乎。」王曰:「若以他兒憎疾乎?」妃知王不信,恐禍將及,乃涕泣而告曰:「請大王密候,若無此事,妾自伏罪。」於是,大王不能不疑,將罪之。或謂好童曰:「子何不自釋乎?」答曰:「我若釋之,是顯母之惡,貽王之憂,可謂孝乎?」乃伏劍而死。

後に好童は国に帰り、ひそかに人を遣わして崔氏の娘に告げた。「もしお前の国の武器庫に入って鼓と角笛を切り破ることができれば、わたしは礼をもって迎えよう。そうでなければやめる。」

これより先、楽浪には鼓と角笛があり、敵の兵があればひとりでに鳴ったので、それを破らせたのである。

そこで崔氏の娘は鋭い刀を持ってひそかに庫の中に入り、鼓の面と角笛の口を切って好童に知らせた。好童は王に勧めて楽浪を襲った。崔理は鼓と角笛が鳴らなかったので備えず、高句麗の兵が城の下に忍び寄った後に、鼓と角笛がみな破られていたことを知った。ついに娘を殺し、出て降った。

冬十一月、王子の好童が自ら死んだ。好童は王の次妃である曷思王の孫娘が生んだ子である。顔も姿も美しく、王がたいそう愛したので、名を好童とした。

元の妃は嫡の座を奪われて太子になれないことを恐れ、王に讒言して言った。「好童は礼をもって妾に接しません。おそらく乱そうとしているのでしょう。」

王が言った。「お前は他の子だからといって憎み妬むのか。」

妃は王が信じないことを知り、禍が及ぶのを恐れて、涙を流して申し上げた。「どうか大王がひそかにお窺いください。もしこのような事がなければ、妾が自ら罪を受けます。」

そこで大王は疑わずにいられなくなり、罪に処そうとした。

ある者が好童に言った。「あなたはなぜ自ら明かさないのか。」

答えた。「わたしがもし明かせば、それは母の悪を顕わにし、王に憂いを残すことになる。それを孝といえようか。」そして剣に伏して死んだ。

夾注 1

或云:欲滅樂浪 遂請婚 娶其女 爲子妻 後使歸本國 壞其兵物

一説に、楽浪を滅ぼそうとしてついに婚を請い、その娘を迎えて子の妻とし、後に本国に帰らせてその兵器を壊させた、ともいう。

16史論 — 好童にも罪がないとはいえない

論曰:今王信讒言,殺無辜之愛子,其不仁不足道矣,而好童不得無罪。何則?子之見責於其父也,宜若舜之於瞽叟,小杖則受,大杖則走,期不陷父於不義。好童不知出於此,而死非其所,可謂執於小謹而昧於大義,其公子申生之譬耶?十二月,立王子解憂為太子。遣使入漢朝貢。光武帝復其王號,是建武八年也。

論じて言う。

いま王は讒言を信じて、罪のない愛する子を殺した。その不仁は言うまでもないが、好童にも罪がないとはいえない。なぜか。子が父に責められたときは、まさに舜が瞽叟に対したように、小さな杖は受け、大きな杖は逃げて、父を不義に陥れないようにするべきである。好童はここから出ることを知らず、死ぬべきでない場で死んだ。小さな慎みに囚われて大きな義に暗かったといえよう。あの公子申生に比すべきであろうか。

十二月、王子の解憂を立てて太子とした。使者を遣わして漢に入り朝貢させると、光武帝はその王の号を返した。これが建武八年である。

17二十年 — 楽浪を滅ぼす

二十年,王襲樂浪,滅之。

二十年、王は楽浪を襲って滅ぼした。

18二十四年 — 八月に梅が咲く

二十四年,春三月,京都雨雹。秋七月,隕霜殺穀。八月,梅花發。

二十四年春三月、都に雹が降った。秋七月、霜が降りて穀物を枯らした。八月、梅の花が咲いた。

19二十七年 — 大武神王が亡くなる

二十七年,秋九月,漢光武帝遣兵渡海,伐樂浪,取其地,為郡縣,薩水已南北屬漢。冬十月,王薨。葬於大獸林原,號為大武神王。

二十七年秋九月、漢の光武帝が兵を遣わして海を渡らせ、楽浪を伐ってその地を取り、郡県とした。薩水より南は漢に属した。

冬十月、王が薨じた。大獸林の原に葬り、大武神王と号した。