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閔中王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 5 · 漢字 191字 · 朗読 0.8分

三国史記(三国時代の正史) 高句麗本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1閔中王が即位する

閔中王,諱解邑朱,大武神王之弟也。大武神王薨,大子太子幼少,不克卽政。於是,國人推戴以立之。冬十一月,大赦。

閔中王は諱が解邑朱で、大武神王の弟である。大武神王が薨じたとき、太子が幼くて政を執ることができなかった。そこで国の人々が推し戴いて立てた。冬十一月、大赦を行った。

2二年 — 倉を開いて分け与える

二年,春三月,宴群臣。夏五月,國東大水,民饑,發倉賑給。

二年春三月、群臣に宴を設けた。夏五月、国の東で大水が出て民が飢えたので、倉を開いて分け与えた。

3三年 — 彗星が南に現れる

三年,秋七月,王東狩,獲白獐。冬十一月,星孛于南,二十日而滅。十二月,京都無雪。

三年秋七月、王は東で狩りをして白い獐を得た。冬十一月、彗星が南に現れ、二十日で消えた。十二月、都に雪が降らなかった。

4四年 — 石窟に葬れと言う

四年,夏四月,王田於閔中原。秋七月,又田,見石窟,顧謂左右曰:「吾死,必葬於此,不須更作陵墓。」九月,東海人高朱利獻鯨魚目,夜有光。冬十月,蠶支落部大家戴升等一萬餘家,詣樂浪投漢。

四年夏四月、王は閔中原で狩りをした。秋七月、また狩りをして石窟を見、左右の者を顧みて言った。「わたしが死んだら、必ずここに葬れ。あらためて陵墓を造る必要はない。」

九月、東海の人の高朱利が鯨の目を献じたが、夜に光を放った。冬十月、蠶支落部の大家の戴升ら一万余戸が、楽浪に赴いて漢に投じた。

夾注 1

《後漢書》云:「大加戴升等萬餘口。」

『後漢書』には「大加の戴升ら万余口」とある。

5五年 — 石窟に葬る

五年,王薨。王后及群臣,重違遺命,乃葬於石窟,號為閔中王。

五年、王が薨じた。王后と群臣は遺命に背きがたく、そこで石窟に葬り、閔中王と号した。