いにしえの文 › 三国史記(三国時代の正史) › 高句麗本紀

東川王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 15 · 漢字 1,082字 · 朗読 4.3分

三国史記(三国時代の正史) 高句麗本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1東川王が即位する

東川王,諱憂位居,少名郊彘,山上王之子。母酒桶村人,入為山上小后,史失其族姓。前王十七年,立為太子,至是嗣位。王性寬仁,王后欲試王心,候王出遊,使人截王路馬鬣。王還曰:「馬無鬣可憐!」又令侍者進食時,陽覆羹於王衣,亦不怒。

東川王は諱を憂位居といい、幼いころの名は郊彘で、山上王の子である。母は酒桶村の人で、山上王の小后となったが、史書にはその族姓が伝わっていない。先の王の十七年に立てられて太子となり、このときに至って位を継いだ。

王は性が寛やかで仁であった。王后は王の心を試そうとして、王が出て遊ぶ折をうかがい、人を遣わして王の乗る馬のたてがみを切らせた。王は帰って言った。「馬にたてがみがないとは、かわいそうなことだ。」また侍者に、食事を差し上げるときにわざと羹を王の衣にこぼさせたが、それでも怒らなかった。

夾注 1

或云東襄。

東襄ともいう。

2二年 — 于氏を王太后に封じる

二年,春二月,王如卒本,祀始祖廟。大赦。三月,封于氏為王太后。

二年春二月、王は卒本に行き、始祖の廟を祀って大赦を行った。三月、于氏を封じて王太后とした。

3四年 — 明臨於漱を国相とする

四年,秋七月,國相高優婁卒,以于台明臨於漱為國相。

四年秋七月、国相の高優婁が死んだので、于台の明臨於漱を国相とした。

4八年 — 于氏が亡くなり遺言を残す

八年,魏遣使和親。秋九月,太后于氏薨。太后臨終遺言曰:「妾失行,將何面目見國壤於地下?若群臣不忍擠於溝壑,則請葬我於山上王陵之側。」遂葬之如其言。巫者曰:「國壤降於予曰:『昨見于氏歸于山上,不勝憤恚,遂與之戰。退而思之,顔厚不忍見國人。爾告於朝,遮我以物。』」是用植松七重於陵前。

八年、魏が使いを遣わして和親した。

秋九月、太后の于氏が亡くなった。太后は臨終に遺言して言った。「わたしは行いを失った。これからどの面目で地下の国襄にお会いできよう。もし群臣がわたしを溝や谷に突き落とすのに忍びないというなら、どうかわたしを山上王の陵のそばに葬ってほしい。」そこでその言葉のとおりに葬った。

巫がこう言った。「国襄がわたしに降りてこう言われました。『昨日、于氏が山上王のもとに嫁ぐのを見て、憤りに堪えられず、とうとう彼と戦った。退いて思えば、面の皮が厚くて国の人々に会わせる顔がない。おまえは朝廷に告げて、何かでわたしを遮ってくれ。』」そこで陵の前に松を七重に植えた。

5十年 — 呉の使者を斬って首を送る

十年,春二月,吳王孫權,遣使者胡衛通和。王留其使,至秋七月,斬之,傳首於魏。

十年春二月、呉王の孫権が使者の胡衛を遣わして和を通じようとした。王はその使いを留め置き、秋七月になってこれを斬り、首を魏に送った。

6十一年 — 年号を改めたことを祝う

十一年,遣使如魏,賀改年號。是景初元年也。

十一年、使いを魏に遣わして、年号を改めたことを祝った。これが景初元年である。

7十二年 — 司馬懿を助ける

十二年,魏太傅司馬宣王率衆,討公孫淵。王遣主簿大加,將兵千人助之。

十二年、魏の太傅司馬宣王が衆を率いて公孫淵を討った。王は主簿と大加を遣わし、兵一千人を率いてこれを助けさせた。

8十六年 — 西安平を襲う

十六年,王遣將,襲破遼東西安平。

十六年、王は将を遣わし、遼東の西安平を襲って破った。

9十七年 — 然弗を王太子とする

十七年,春正月,立王子然弗為王太子,赦國內。

十七年春正月、王子の然弗を立てて王太子とし、国内を赦した。

10十九年 — 新羅の北の境を侵す

十九年,春三月,東海人獻美女,王納之後宮。冬十月,出師侵新羅北邊。

十九年春三月、東海の人が美女を献じたので、王はこれを後宮に入れた。冬十月、兵を出して新羅の北の境を侵した。

11二十年 — 毋丘倹が丸都城を落とす

二十年,秋八月,魏遣幽州刺史毋丘儉,將萬人,出玄來侵。王將步騎二萬人,逆戰於沸流水上,敗之,斬首三千餘級。又引兵再戰於梁貊之谷,又敗之,斬獲三千餘人。王謂諸將曰:「魏之大兵,反不如我之小兵。毋丘儉者魏之名將,今日命在我掌握之中乎。」乃領鐵騎五千,進而擊之。儉為方陣,決死而戰,我軍大潰,死者一萬八千餘人。王以一千餘騎,奔鴨渌原。冬十月,儉攻陷丸都城,屠之。乃遣將軍王頎,追王。王奔南沃沮,至于竹嶺,軍士分散殆盡,唯東部密友獨在側,謂王曰:「今追兵甚迫,勢不可脫。臣請決死而禦之,王可遯矣。」遂募死士,與之赴敵力戰。王?間行?脫而去,依山谷,聚散卒自衛,謂曰:「若有能取密友者,厚賞之。」下部劉屋句前對曰:「臣試往焉。

二十年秋八月、魏が幽州刺史の毋丘倹を遣わし、一万人を率いて玄菟から出て侵してきた。王は歩兵と騎兵二万人を率いて沸流水のほとりで迎え戦ってこれを破り、三千余級の首を斬った。また兵を率いて梁貊の谷で二度目の戦いをし、またこれを破って、三千余人を斬り捕らえた。

王は諸将に言った。「魏の大軍が、かえってわが小勢に及ばない。毋丘倹という者は魏の名将だが、今日はその命がわたしの手の内にあるわけだ。」そこで鉄騎五千を率い、進んでこれを撃った。

倹は方陣を作り、死を決して戦ったので、高句麗の軍は大いに崩れ、死んだ者は一万八千余人であった。王は一千余騎で鴨淥原に逃れた。

冬十月、倹は丸都城を攻め落とし、これを屠った。そして将軍の王頎を遣わして王を追わせた。

王は南沃沮に逃れ、竹嶺まで来たが、軍士は散り散りになってほとんど尽き、ただ東部の密友だけが独りそばにいた。密友は王に言った。「いま追う兵がはなはだ迫っており、勢いからして逃れられません。臣が死を決して防ぐことをお願いします。王はお逃れください。」

そして死士を募り、ともに敵に向かって力戦した。王は間道を通って抜け出て去り、山谷に身を寄せ、散った兵を集めて自ら守りながら言った。「もし密友を連れ戻せる者があれば、厚く賞を与える。」

下部の劉屋句が前に出て答えた。「臣が試しに行ってまいります。」

12二十年 — 紐由が魏の将を刺す

」遂於戰地,見密友伏地,乃負而至。王枕之以股,久而乃蘇。王間行轉輾,至南沃沮,魏軍追不止。王計窮勢屈,不知所為。東部人紐由進曰:「勢甚危迫,不可徒死。臣有愚計,請以飲食往犒魏軍,因伺隙刺殺彼將。若臣計得成,則王可奮擊決勝矣。」王曰:「諾。」紐由入魏軍詐降曰:「寡君獲罪於大國,逃至海濱,措躬無地,將以請降於陣前,歸死司寇,先遣小臣,致不腆之物,為從者羞。」魏將聞之,將受其降。紐由隱刀食器,進前,拔刀刺魏將胸,與之俱死,魏軍遂亂。王分軍為三道,急擊之,魏軍擾亂不能陳,遂自樂浪而退。王復國論功,以密友、紐由為第一,賜密友巨谷、靑木谷,賜屋句鴨淥、杜訥河原以為食邑。追贈紐由為九使者,又以其子多優為大使者。

そしてついに戦場で、密友が地に伏しているのを見つけ、負って帰ってきた。王は自分の股に彼の頭を枕させ、しばらくしてようやく蘇った。

王は間道をたどって転々と移り、南沃沮に至ったが、魏の軍は追うのをやめなかった。王は計が尽き勢いが屈して、どうすべきかわからなかった。

東部の人紐由が進み出て言った。「勢いはたいへん危うく差し迫っており、ただ死ぬわけにはいきません。臣に愚かな計があります。飲み食いの物を持って行って魏の軍をねぎらい、そのすきをうかがって彼らの将を刺し殺すことをお願いします。もし臣の計が成れば、王は奮い立って撃ち、勝ちを決することができましょう。」

王は言った。「そうせよ。」

紐由は魏の軍に入り、偽って降るといって言った。「わが君は大国に罪を得て、海辺まで逃れ、身の置き所もありません。これから陣の前で降伏を請い、司寇に死を委ねようとしています。まず小臣を遣わして、粗末な物を差し上げ、お供の方々のお肴にしていただくのです。」

魏の将はこれを聞いて、その降伏を受けようとした。紐由は食器に刀を隠しておき、前に進んで刀を抜き、魏の将の胸を刺して、ともに死んだ。魏の軍はたちまち乱れた。

王は軍を三手に分けて急に撃った。魏の軍は乱れて陣を組むことができず、ついに楽浪の方から退いた。

王は国を取り戻して功を論じ、密友と紐由を第一とした。密友には巨谷と青木谷を、屋句には鴨淥と杜訥河原を賜って食邑とさせた。紐由には九使者を追贈し、またその子の多優を大使者とした。

13二十年 — 得来が食を断って死ぬ

是役也,魏將到肅愼南界,刻石紀功,又到丸都山,銘不耐城而歸。初,其臣得來,見王侵叛中國,數諫,王不從。得來嘆曰:「立見此地,將生蓬蒿。」遂不食而死。毋丘儉令諸軍,不壞其墓,不伐其樹,得其妻子,皆放遣之。

この役では、魏の将が肅愼の南の境まで来て石に刻んで功を記し、また丸都山まで来て不耐城と銘して帰った。

はじめ、その臣の得来は、王が中国を侵し叛くのを見て、たびたび諫めたが、王は従わなかった。得来は嘆いて言った。「じきにこの地に蓬や蒿が生えるのを見ることになろう。」そしてついに食を断って死んだ。

毋丘倹は諸軍に命じて、その墓を壊さず、その木を伐らせなかった。またその妻子を手に入れると、みな放して帰らせた。

夾注 1

《括地志》云:「不耐城卽國內城也,城累石為之。」此卽丸都山與國內城相接。《梁書》:「以司馬懿討公孫淵,王遣將,襲西安平,毋丘儉來侵。」《通鑑》:「以得來諫王,為王位宮時事。」誤也。

『括地志』には「不耐城はすなわち国内城である。城は石を積んで造った」とある。これはつまり丸都山と国内城とが互いに接しているということである。『梁書』には「司馬懿が公孫淵を討ったとき、王が将を遣わして西安平を襲い、毋丘倹が侵してきた」とある。『通鑑』には「得来が王を諫めたのを、王位宮のときの事である」としているが、これは誤りである。

14二十一年 — 平壌城を築く

二十一年,春二月,王以丸都城經亂,不可復都,築平壤城,移民及廟社。平壤者本仙人王儉之宅也。或云王之都王儉。

二十一年春二月、王は丸都城が乱を経て再び都とすることができないとして、平壌城を築き、民と廟社を移した。平壌はもともと仙人王倹の宅である。あるいは王の都の王倹ともいう。

15二十二年 — 東川王が亡くなり柴原と名づける

二十二年,春二月,新羅遣使結和。秋九月,王薨。葬於柴原,號曰東川王。國人懷其恩德,莫不哀傷。近臣欲自殺以殉者衆,嗣王以為非禮,禁之。至葬日,至墓自死者甚多。國人伐柴,以覆其屍,遂名其地曰柴原。

二十二年春二月、新羅が使いを遣わして和を結んだ。

秋九月、王が亡くなった。柴原に葬り、東川王と号した。国の人々はその恩徳を慕い、哀しみ痛まない者はなかった。近臣で自ら死んで殉じようとする者が多かったが、位を継いだ王は礼ではないとしてこれを禁じた。葬りの日になると、墓に行って自ら死ぬ者がはなはだ多かった。国の人々は柴を伐ってその屍を覆ったので、ついにその地を柴原と名づけた。