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故国壌王故國壤王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 7 · 漢字 286字 · 朗読 1.1分

三国史記(三国時代の正史) 高句麗本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1故国壌王が即位する

故國壤王,諱伊連,小獸林王之弟也。小獸林王在位十四年,薨,無嗣,弟伊連卽位。

故国壌王は諱を伊連といい、小獣林王の弟である。小獣林王は位にあること十四年で亡くなり、継ぐ者がなかったので、弟の伊連が即位した。

夾注 1

或云於只支。

於只支ともいう。

2二年 — 遼東と玄菟を陥れる

二年,夏六月,王出兵四萬,襲遼東。先是,燕王垂命帶方王佐,鎭龍城。佐聞我軍襲遼東,遣司馬郝景,將兵救之,我軍擊敗之,遂陷遼東、玄菟,虜男女一萬口而還。冬十月,燕慕容農將兵來侵,復遼東、玄菟二郡。初,幽、冀流民,多來投,農以范陽龐淵,為遼東太守,招撫之。十二月,地震。

二年夏六月、王は兵四万を出して遼東を襲った。これより先、燕王の垂が帯方王の佐に命じて龍城を鎮めさせていたが、佐は高句麗の軍が遼東を襲うと聞き、司馬の郝景を遣わして兵を率いて救わせた。高句麗の軍はこれを撃ち破り、ついに遼東と玄菟を陥れ、男女一万口を捕らえて帰った。

冬十月、燕の慕容農が兵を率いて侵してきて、遼東と玄菟の二郡を取り返した。はじめ幽州と冀州の流民が多く来て身を寄せたので、農は范陽の龐淵を遼東太守として、彼らを招き撫でさせた。

十二月、地震があった。

3三年 — 談徳を太子とする

三年,春正月,立王子談德為太子。秋八月,王發兵,南伐百濟。冬十月,桃李華。牛生馬,八足二尾。

三年春正月、王子の談徳を立てて太子とした。秋八月、王は兵を出して南のかた百済を伐った。冬十月、桃と李が花を咲かせた。牛が馬を生んだが、足が八本で尾が二つであった。

4五年 — 大旱と蝗

五年,夏四月,大旱。秋八月,蝗。

五年夏四月、大いに旱があった。秋八月、蝗が出た。

5六年 — 百済が南の辺りを掠める

六年,春,饑人相食,王發倉賑給。秋九月,百濟來侵,掠南鄙部落而歸。

六年春、飢えて人が互いに食い合ったので、王は倉を開いて施し与えた。秋九月、百済が侵してきて、南の辺りの部落を掠めて帰った。

6七年 — 百済が都押城を破る

七年,秋九月,百濟遣達率眞嘉謨,攻破都押城,虜二百人以歸。

七年秋九月、百済が達率の真嘉謨を遣わして都押城を攻め破り、二百人を捕らえて帰った。

7八年 — 仏法を崇めよと教えを下す

八年,遣使新羅修好,新羅王遣姪實聖為質。三月,下敎:崇信佛法求福。命有司,立國社,修宗廟。夏五月,王薨。葬於故國壤,號為故國壤王。

八年、使いを新羅に遣わして好を修めると、新羅王は甥の実聖を遣わして質とした。

三月、教えを下して、仏法を崇め信じて福を求めさせた。役所に命じて国の社を立て、宗廟を修めさせた。

夏五月、王が亡くなった。故国壌に葬り、故国壌王と号した。