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広開土王廣開土王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 13 · 漢字 520字 · 朗読 2.1分

三国史記(三国時代の正史) 高句麗本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1広開土王が即位する

廣開土王,諱談德,故國壤王之子。生而雄偉,有倜儻之志。故國壤王三年,立為太子。八年,王薨,太子卽位。秋七月,南伐百濟,拔十城。九月,北伐契丹,虜男女五百口,又招諭本國陷沒民口一萬而歸。冬十月,攻陷百濟關彌城。其城四面峭絶,海水環繞,王分軍七道,攻擊二十日,乃拔。

広開土王は諱を談徳といい、故国壌王の子である。生まれながらに雄々しく立派で、物に拘らない大きな志があった。故国壌王の三年に立てられて太子となり、八年に王が亡くなると、太子が即位した。

秋七月、南のかた百済を伐ち、十城を抜いた。九月、北のかた契丹を伐って男女五百口を捕らえ、また本国から捕らわれていた民一万を諭し連れて帰った。

冬十月、百済の関彌城を攻め落とした。その城は四面が切り立って絶え、海水が取り巻いていたので、王は軍を七手に分け、二十日攻めてようやく抜いた。

2二年 — 平壌に九つの寺を創る

二年,秋八月,百濟侵南邊,命將拒之。創九寺於平壤。

二年秋八月、百済が南の境を侵したので、将に命じてこれを防がせた。平壌に九つの寺を創った。

3三年 — 国の南に七城を築く

三年,秋七月,百濟來侵。王率精騎五千,逆擊敗之,餘寇夜走。八月,築國南七城,以備百濟之寇。

三年秋七月、百済が侵してきた。王は精鋭の騎兵五千を率いて迎え撃ち、これを破ったので、残った寇は夜に逃げた。八月、国の南に七城を築いて、百済の寇に備えた。

4四年 — 浿水で大いに破る

四年,秋八月,王與百濟,戰於浿水之上,大敗之,虜獲八千餘級。

四年秋八月、王は百済と浿水のほとりで戦い、大いにこれを破って、八千余級を捕らえた。

5九年 — 燕が新城と南蘇を奪う

九年,春正月,王遣使入燕朝貢。二月,燕王盛,以我王禮慢,自將兵三萬襲之。以驃騎大將軍慕容熙,為前鋒,拔新城、南蘇二城,拓地七百餘里,徙五千餘戶而還。

九年春正月、王は使いを遣わして燕に入り、朝貢した。二月、燕王の盛は、高句麗王の礼が無礼であるとして、自ら兵三万を率いてこれを襲った。驃騎大将軍の慕容熙を前鋒とし、新城と南蘇の二城を抜き、地を七百余里広げ、五千余戸を移して帰った。

6十一年 — 宿軍を攻める

十一年,王遣兵攻宿軍,燕平州刺史慕容歸,棄城走。

十一年、王が兵を遣わして宿軍を攻めると、燕の平州刺史慕容帰は城を捨てて逃げた。

7十三年 — 燕を侵す

十三年,冬十一月,出師侵燕。

十三年冬十一月、兵を出して燕を侵した。

8十四年 — 慕容熙が遼東城を攻める

十四年,春正月,燕王熙來攻遼東城。且陷,熙命將士:「毋得先登,俟剗平其城,朕與皇后,乘轝而入。」由是,城中得嚴備,卒不克而還。

十四年春正月、燕王の熙が遼東城を攻めに来た。落ちようとしたとき、熙は将士に命じた。「先に登ってはならぬ。その城を削り平らげるのを待って、朕が皇后とともに輿に乗って入る。」そのために城中は厳しく備えることができ、ついに勝てずに帰った。

9十五年 — 木底城を攻めて帰る

十五年,秋七月,蝗,旱。冬十二月,燕王熙襲契丹,至陘北,畏契丹之衆,欲還。遂棄輜重,輕兵襲我。燕軍行三千餘里,士馬疲凍,死者屬路。攻我木底城,不克而還。

十五年秋七月、蝗が出て、旱があった。

冬十二月、燕王の熙は契丹を襲おうとして陘北まで至ったが、契丹の衆を恐れて帰ろうとした。そこで輜重を捨て、軽い兵で高句麗を襲った。燕の軍は三千余里を行き、兵も馬も疲れ凍え、死ぬ者が道に続いた。高句麗の木底城を攻めたが、勝てずに帰った。

10十六年 — 宮闕を増し修める

十六年,春二月,增修宮闕。

十六年春二月、宮闕を増し修めた。

11十七年 — 北燕と同族であることを述べ合う

十七年,春三月,遣使北燕,且叙宗族,北燕王雲,遣侍御史李拔報之。雲祖父高和,句麗之支屬,自云高陽氏之苗裔,故以高為氏焉。慕容寶之為太子,雲以武藝,侍東宮,寶子之,賜姓慕容氏。

十七年春三月、使いを北燕に遣わし、あわせて同じ宗族であることを述べ合ったので、北燕王の雲は侍御史の李拔を遣わしてこれに報いた。雲の祖父の高和は高句麗の支族であったが、自ら高陽氏の末裔であると称したので、高を氏とした。慕容宝が太子であったとき、雲は武芸によって東宮に仕えたので、宝は彼を子として、慕容氏の姓を賜った。

12十八年 — 巨連を太子とする

十八年,夏四月,立王子巨連,為太子。秋七月,築國東禿山等六城,移平壤民戶。八月,王南巡。

十八年夏四月、王子の巨連を立てて太子とした。秋七月、国の東に禿山など六城を築き、平壌の民戸を移した。八月、王は南を巡った。

13二十二年 — 広開土王が亡くなる

二十二年,冬十月,王薨。號為廣開土王。

二十二年冬十月、王が亡くなった。広開土王と号した。