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温祚王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 34 · 漢字 1,744字 · 朗読 7.0分

三国史記(三国時代の正史) 百済本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1温祚が慰礼城に都する

百濟始祖溫祚王,其父,鄒牟,或云朱蒙。自北扶餘逃難,至卒本扶餘。扶餘王無子,只有三女子,見朱蒙,知非常人,以第二女妻之。未幾,扶餘王薨,朱蒙嗣位。生二子,長曰沸流,次曰溫祚。及朱蒙在北扶餘所生子,來為太子。沸流、溫祚,恐為太子所不容,遂與烏干、馬黎等十臣南行,百姓從之者,多。遂至漢山,登負兒嶽,望可居之地,沸流欲居於海濱。十臣諫曰:「惟此河南之地,北帶漢水,東據高岳,南望沃澤,西阻大海。其天險地利,難得之勢,作都於斯,不亦宜乎?」沸流不聽,分其民,歸彌鄒忽以居之。溫祚都河南慰禮城,以十臣為輔翼,國號十濟,是前漢成帝鴻嘉三年也。沸流以彌鄒,土濕水鹹,不得安居,歸見慰禮,都邑鼎定,人民安泰,遂慙悔而死,其臣民皆歸於慰禮。

百済の始祖の温祚王は、その父が鄒牟で、朱蒙ともいう。北扶余から難を逃れて卒本扶余に至った。扶余王に子がなく、ただ三人の娘があったが、朱蒙を見て常ならぬ人だと知り、第二の娘を妻として与えた。いくらもたたず扶余王が亡くなり、朱蒙が位を嗣いだ。

子を二人生み、長を沸流、次を温祚といった。朱蒙が北扶余にいたときに生んだ子が来て太子となったので、沸流と温祚は太子に容れられないことを恐れ、ついに烏干・馬黎ら十人の臣とともに南に行くと、百姓で従う者が多かった。

ついに漢山に至って負児嶽に登り、居るに足る地を望んだが、沸流は海の浜に居ようとした。十人の臣が諫めて言った。「ただこの河南の地は、北は漢水を帯び、東は高い岳に拠り、南は沃えた澤を望み、西は大海に阻まれています。その天の険と地の利は得がたい勢です。ここに都をつくるのが、また宜しいのではありませんか。」

沸流は聴かず、その民を分けて弥鄒忽に帰ってそこに居た。温祚は河南の慰礼城に都し、十人の臣を輔けと翼とし、国の号を十済とした。これが前漢の成帝の鴻嘉三年である。

沸流は弥鄒が土が湿り水が鹹くて安んじて居られなかったので、帰って慰礼を見ると、都と邑は鼎のように定まり、人民は安らかに泰らかであった。ついに慙じ悔いて死に、その臣と民はみな慰礼に帰した。

夾注 1

或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」

朱蒙が卒本に到り、越郡の女を娶って二人の子を生んだ、ともいう。

2国の号を百済と改める

後以來時百姓樂從,改號百濟。其世系與高句麗,同出扶餘,故以扶餘為氏。

後に、来たとき百姓が楽んで従ったことから、号を百済と改めた。その世系は高句麗とともに扶余から出たので、扶余を氏とした。

夾注 1

一云:始祖沸流王,其父優台,北扶餘王解扶婁庶孫。母召西奴,卒本人延陁勃之女,始歸于優台,生子二人,長曰沸流,次曰溫祚。優台死,寡居于卒本。後朱蒙不容於扶餘,以前漢建昭二年,春二月,南奔至卒本,立都號高句麗,娶召西奴為妃。其於開基創業,頗有内助,故朱蒙寵接之特厚,待沸流等如己子。及朱蒙在扶餘所生禮氏子孺留來,立之爲太子,以至嗣位焉。於是,沸流謂弟溫祚曰:「始,大王避扶餘之難,逃歸至此,我母氏傾家財,助成邦業,其勤勞多矣。及大王厭世,國家屬於孺留,吾等徒在此,鬱鬱如疣贅,不如奉母氏,南遊卜地,別立國都。」遂與第弟率黨類,渡浿、帶二水,至彌鄒忽以居之。《北史》及《隋書》皆云:「東明之後有仇台,篤於仁信。初立國于帶方故地,漢遼東太守公孫度以女妻之,遂為東夷强國。」未知孰是。

こうもいう。始祖は沸流王で、その父の優台は北扶余王の解扶婁の庶孫である。母の召西奴は卒本の人の延陁勃の娘で、はじめ優台に嫁いで子を二人生み、長を沸流、次を温祚といった。優台が死に、卒本で寡で居た。後に朱蒙が扶余に容れられず、前漢の建昭二年、春二月に南に奔って卒本に至り、都を立てて高句麗と号し、召西奴を娶って妃とした。彼女は基を開き業を創めるにあたってかなり内から助けたので、朱蒙は寵み接けることがとりわけ厚く、沸流らを己の子のように待った。朱蒙が扶余にいたとき礼氏から生まれた子の孺留が来ると、これを立てて太子とし、位を嗣ぐに至った。そこで沸流は弟の温祚に言った。「はじめ大王が扶余の難を避けて逃げ帰りここに至られたとき、わが母氏は家の財を傾けて邦の業を成すのを助けられ、その勤めと労は多かった。大王が世を厭われて、国家は孺留に属した。われらがいたずらにここにあっては、鬱々として疣や贅のようだ。母氏を奉じて南に遊び地を卜して、別に国の都を立てるに越したことはない。」ついに弟とともに党類を率いて浿と帯の二つの水を渡り、弥鄒忽に至ってそこに居た。『北史』と『隋書』にはいずれも「東明の後に仇台があり、仁と信に篤かった。はじめ帯方の故の地に国を立て、漢の遼東太守の公孫度が娘を妻として与え、ついに東夷の強国となった」とある。どれが是であるかはわからない。

3元年 — 東明王の廟を立てる

元年,夏五月,立東明王廟。

元年夏五月、東明王の廟を立てた。

4二年 — 乙音を右輔とする

二年,春正月,王謂群臣曰:「靺鞨連我北境,其人勇而多詐,宜繕兵積穀,為拒守之計。」三月,王以族父乙音,有智識膽力,拜為右輔,委以兵馬之事。

二年春正月、王は群臣に言った。「靺鞨がわが北の境に連なっている。その人は勇ましくて詐りが多い。よろしく兵を繕い穀を積んで、拒ぎ守る計としなさい。」

三月、王は父に当たる族の乙音に智と識と胆力があるとして、拝して右輔とし、兵馬の事を委ねた。

5三年 — 靺鞨を大いに破る

三年,秋九月,靺鞨侵北境,王帥勁兵,急擊大敗之,賊生還者十一二。冬十月,雷。桃李華。

三年秋九月、靺鞨が北の境を侵したので、王は勁い兵を率いて急に撃ち大いにこれを破り、賊で生きて還った者は十のうち一、二であった。冬十月、雷が鳴った。桃と李が花を咲かせた。

6四年 — 楽浪と好を修める

四年,春夏,旱,饑,疫。秋八月,遣使樂浪修好。

四年の春と夏、旱となり、飢え、疫病がはやった。秋八月、使者を楽浪に遣わして好を修めた。

7五年 — 神しき鹿を獲る

五年,冬十月,巡撫北邊,獵獲神鹿。

五年冬十月、北の辺を巡り撫でる途中、狩りをして神しき鹿を獲た。

8六年 — 日食がある

六年,秋七月辛未晦,日有食之。

六年秋七月の晦の辛未、日食があった。

9八年 — 楽浪と和を失う

八年,春二月,靺鞨賊兵三千來圍慰禮城,王閉城門不出。經旬,賊糧盡而歸。王簡銳卒,追及大斧峴,一戰克之,殺虜五百餘人。秋七月,築馬首城,竪甁山柵。樂浪太守使告曰:「頃者,聘問結好,意同一家,今逼我疆,造立城柵,或者其有蠶食之謀乎?若不渝舊好,隳城破柵,則無所猜疑。苟或不然,請一戰以決勝負。」王報曰:「設險守國,古今常道,豈敢以此,有渝於和好?宜若執事之所不疑也。若執事恃强出師,則小國亦有以待之耳。」由是,與樂浪失和。

八年春二月、靺鞨の賊の兵三千が来て慰礼城を囲んだが、王は城門を閉じて出なかった。十日を経て賊は糧が尽きて帰ったので、王は鋭い卒を簡んで大斧峴まで追いつき、一たび戦ってこれに克ち、五百余人を殺し虜にした。

秋七月、馬首城を築き、瓶山の柵を竪てた。楽浪太守が人を使って告げた。「このごろ聘い問うて好を結び、意は一家と同じであったのに、いまわが疆を逼って城と柵を造り立てている。あるいは蠶が食むような謀りがあるのか。もし旧い好を渝えず、城を隳し柵を破るなら、猜み疑うところはない。かりにそうでないなら、一たび戦って勝ち負けを決することを請う。」

王は報じて言った。「険を設けて国を守るのは古今の常の道である。どうしてあえてこれによって和と好を渝えようか。よろしく執事の疑わぬところであろう。もし執事が強きを恃んで師を出すなら、小さな国にもまたこれを待つところがあるだけだ。」

これによって楽浪と和を失った。

10十年 — 昆弥川で敗れる

十年,秋九月,王出獵,獲神鹿,以送馬韓。冬十月,靺鞨寇北境。王遣兵二百,拒戰於昆彌川上。我軍敗績,依靑木山自保。王親帥精騎一百,出烽峴,救之。賊見之,卽退。

十年秋九月、王は狩りに出て神しき鹿を獲て、馬韓に送った。

冬十月、靺鞨が北の境を寇したので、王は兵二百を遣わして昆弥川のほとりで拒み戦った。百済の軍は敗れて、青木山に依ってみずから保った。王はみずから精い騎百を率いて烽峴に出てこれを救うと、賊はこれを見てすぐに退いた。

11十一年 — 禿山と狗川に柵を設ける

十一年,夏四月,樂浪使靺鞨襲破甁山柵,殺掠一百餘人。秋七月,設禿山、狗川兩柵,以塞樂浪之路。

十一年夏四月、楽浪が靺鞨を使って瓶山の柵を襲い破り、百余人を殺し掠めた。秋七月、禿山と狗川の二つの柵を設けて、楽浪への路を塞いだ。

12十三年 — 漢山の下に都を移す

十三年,春二月,王都老嫗化爲男。五虎入城。王母薨,年六十一歲。夏五月,王謂臣下曰:「國家東有樂浪,北有靺鞨。侵軼疆境,少有寧日。況今妖祥屢見,國母棄養,勢不自安,必將遷國。予昨出巡,觀漢水之南,土壤膏腴。宜都於彼,以圖久安之計。」秋七月,就漢山下,立柵,移慰禮城民戶。八月,遣使馬韓,告遷都。遂畵定疆場,北至浿河,南限熊川,西窮大海,東極走壤。九月,立城闕。

十三年春二月、王都の老いた嫗が化して男となった。虎五匹が城に入った。王の母が亡くなった。年は六十一歳であった。

夏五月、王は臣下に言った。「国家は東に楽浪があり、北に靺鞨があって、疆の境を侵すので、寧い日が少ない。ましていま妖しい祥が幾度も現れ、国の母が養を棄てられた。勢はみずから安んじられない。必ず国を遷さねばならぬ。わたしが昨日巡りに出て漢水の南を観たところ、土壤が膏え腴えていた。よろしくあちらに都して、久しく安んずる計を図ろう。」

秋七月、漢山の下に就いて柵を立て、慰礼城の民の戸を移した。

八月、使者を馬韓に遣わして都を遷すことを告げた。ついに疆場を画り定め、北は浿河に至り、南は熊川を限りとし、西は大海に窮まり、東は走壤を極めとした。

九月、城と闕を立てた。

13十四年 — 漢山に都を移す

十四年,春正月,來遷漢山都。二月,王巡撫部落,務勸農事。秋七月,築城漢江西北,分漢城民。

十四年春正月、漢山の都に遷って来た。二月、王は部落を巡り撫でて、農の事を勧めることに務めた。秋七月、漢江の西北に城を築き、漢城の民を分けた。

14十五年 — 新しい宮室を作る

十五年,春正月,作新宮室,儉而不陋,華而不侈。

十五年春正月、新しい宮室を作ったが、倹やかであっても陋しくなく、華やかであっても侈らなかった。

15十七年 — 楽浪が慰礼城を焼く

十七年,春,樂浪來侵,焚慰禮城。夏四月,立廟以祀國母。

十七年春、楽浪が侵しに来て慰礼城を焼いた。夏四月、廟を立てて国の母を祀った。

16十八年 — 素牟を虜にする

十八年,冬十月,靺鞨掩至,王帥兵,逆戰於七重河,虜獲酋長素牟,送馬韓,其餘賊盡坑之。十一月,王欲襲樂浪牛頭山城,至臼谷,遇大雪,乃還。

十八年冬十月、靺鞨が掩い至ったので、王は兵を率いて七重河で迎え戦い、酋長の素牟を虜にして馬韓に送り、その余りの賊はことごとく坑にした。

十一月、王は楽浪の牛頭山城を襲おうとして臼谷に至ったが、大雪に遇ってそのまま還った。

17二十年 — みずから天と地を祀る

二十年,春二月,王設大壇,親祠祀天地,異鳥五來翔。

二十年春二月、王は大きな壇を設けてみずから天と地を祠り祀ると、異しき鳥が五羽飛んで来た。

18二十二年 — 斧峴の東で靺鞨を破る

二十二年,秋八月,築石頭、高木二城。九月,王帥騎兵一千,獵斧峴東,遇靺鞨賊,一戰破之,虜獲生口,分賜將士。

二十二年秋八月、石頭と高木の二城を築いた。九月、王は騎兵一千を率いて斧峴の東で狩りをしていたとき、靺鞨の賊に遇い、一たび戦ってこれを破り、虜えた生口を将士に分け賜った。

19二十四年 — 熊川の柵を壊す

二十四年,秋七月,王作熊川柵。馬韓王遣使責讓曰:「王初渡河,無所容足,吾割東北一百里之地,安之,其待王不為不厚。宜思有以報之,今以國完民聚,謂莫與我敵,大設城池,侵犯我封疆,其如義何?」王慙,遂壞其柵。

二十四年秋七月、王が熊川に柵を作ると、馬韓王が使者を遣わして責め譲めて言った。「王がはじめ河を渡って足を容れるところもなかったとき、わたしが東北の百里の地を割いてこれを安んじた。王を待つことが厚くなかったわけではない。よろしくこれに報いることを思うべきであるのに、いま国が完く民が聚まったとして、われと敵する者はないと言い、城と池を大いに設けてわが封の疆を侵し犯す。その義においてどうなのか。」

王は慙じて、ついにその柵を壊した。

20二十五年 — 辰韓と馬韓を併せる心を持つ

二十五年,春二月,王宮井水暴溢。漢城人家馬生牛,一首二身。日者曰:「井水暴溢者,大王勃興之兆也,牛一首二身者,大王并鄰國之應也。」王聞之喜,遂有幷吞辰、馬之心。

二十五年春二月、王宮の井の水が暴かに溢れた。漢城の人の家の馬が牛を生んだが、一つの首に二つの身であった。

日者が言った。「井の水が暴かに溢れたのは、大王が勃り興る兆です。牛が一つの首に二つの身であるのは、大王が隣の国を併せる応えです。」

王はこれを聞いて喜び、ついに辰韓と馬韓を併せ呑む心を持った。

21二十六年 — 馬韓を襲う

二十六年,秋七月,王曰:「馬韓漸弱,上下離心,其勢不能久。儻爲他所并,則脣亡齒寒,悔不可及。不如先人而取之,以免後艱。」冬十月,王出師,陽言田獵,潛襲馬韓,遂幷其國邑,唯圓山、錦峴二城固守不下。

二十六年秋七月、王が言った。「馬韓は次第に弱まり、上と下が心を離しているので、その勢は久しくもつまい。もし他の者に併せられれば、唇が亡んで歯が寒いことになり、悔いても及ばぬ。人に先んじてこれを取り、後の艱を免れるに越したことはない。」

冬十月、王は師を出し、偽って田り猟ると言って、ひそかに馬韓を襲い、ついにその国と邑を併せたが、ただ円山と錦峴の二城だけは固く守って下らなかった。

22二十七年 — 馬韓がついに滅びる

二十七年,夏四月,二城降,移其民於漢山之北,馬韓遂滅。秋七月,築大豆山城。

二十七年夏四月、二つの城が降ったので、その民を漢山の北に移し、馬韓はついに滅びた。秋七月、大豆山城を築いた。

23二十八年 — 多婁を太子とする

二十八年,春二月,立元子多婁為太子,委以內外兵事。夏四月,隕霜害麥。

二十八年春二月、元子の多婁を立てて太子とし、内外の兵の事を委ねた。夏四月、霜が降って麦を害した。

24三十一年 — 南部と北部を置く

三十一年,春正月,分國內民戶,為南北部。夏四月,雹。五月,地震。六月,又震。

三十一年春正月、国の内の民の戸を分けて南部と北部とした。夏四月、雹が降った。五月、地が震った。六月、また震った。

25三十三年 — 東部と西部を加え置く

三十三年,春夏大旱。民饑相食,盜賊大起,王撫安之。秋八月,加置東西二部。

三十三年の春と夏、大いに旱となった。民が飢えて互いに食み、盗賊が大いに起こったので、王はこれを撫で安んじた。秋八月、東部と西部の二部を加え置いた。

26三十四年 — 周勤が叛く

三十四年,冬十月,馬韓舊將周勤,據牛谷城叛。王躬帥兵五千,討之,周勤自經。腰斬其尸,幷誅其妻子。

三十四年冬十月、馬韓の旧い将の周勤が牛谷城に拠って叛いた。王はみずから兵五千を率いてこれを討つと、周勤はみずから首を経った。その屍を腰で斬り、あわせてその妻子を誅した。

27三十六年 — 湯井城を築く

三十六年,秋七月,築湯井城,分大豆城民戶,居之。八月,修葺圓山、錦峴二城,築古沙夫里城。

三十六年秋七月、湯井城を築き、大豆城の民の戸を分けてそこに居させた。八月、円山と錦峴の二城を修め葺き、古沙夫里城を築いた。

28三十七年 — 漢水の東北が空く

三十七年,春三月,雹大如雞子,鳥雀遇者死。夏四月,旱,至六月乃雨。漢水東北部落饑荒,亡入高句麗者一千餘戶,浿、帶之間,空無居人。

三十七年春三月、雹が鶏の子ほど大きく、鳥や雀で遇った者は死んだ。夏四月、旱となり、六月になってようやく雨が降った。漢水の東北の部落が飢え荒れて、亡げて高句麗に入った者が千余戸で、浿と帯の間は空しく居る人がなかった。

29三十八年 — 天と地を祀る

三十八年,春二月,王巡撫,東至走壤,北至浿河,五旬而返。三月,發使勸農桑,其以不急之事擾民者,皆除之。冬十月,王築大壇,祀天地。

三十八年春二月、王は巡り撫でて、東は走壤に至り、北は浿河に至り、五十日して返った。

三月、使者を発して農と桑を勧め、急がぬ事で民を擾す者はみな除いた。冬十月、王は大きな壇を築いて天と地を祀った。

30四十年 — 靺鞨が述川城を攻める

四十年,秋九月,靺鞨來攻述川城。冬十一月,又襲斧峴城,殺掠百餘人,王命勁騎二百,拒擊之。

四十年秋九月、靺鞨が述川城を攻めに来た。冬十一月、また斧峴城を襲って百余人を殺し掠めたので、王は勁い騎二百に命じて拒ぎ撃たせた。

31四十一年 — 解婁を右輔とする

四十一年,春正月,右輔乙音卒,拜北部解婁為右輔。解婁,本扶餘人也。神識淵奧,年過七十,膂力不愆,故用之。二月,發漢水東北諸部落人年十五歲以上,修營慰禮城。

四十一年春正月、右輔の乙音が卒したので、北部の解婁を拝して右輔とした。解婁はもともと扶余の人である。神しき識が淵く奥く、年は七十を過ぎても膂の力が愆らなかったので、これを用いた。

二月、漢水の東北の諸部落の人で年十五歳以上を発して、慰礼城を修め営んだ。

32四十三年 — 南沃沮の人が投じて来る

四十三年,秋八月,王田牙山之原五日。九月,鴻鴈百餘集王宮。日者曰:「鴻鴈民之象也,民之象也,將有遠人來投者乎!」冬十月,南沃沮仇頗解等二十餘家,至斧壤納款。王納之,安置漢山之西。

四十三年秋八月、王は牙山の原で五日のあいだ田りをした。

九月、鴻と鴈が百余羽、王宮に集まった。日者が言った。「鴻と鴈は民の象です。やがて遠くの人で来て投ずる者があるでしょう。」

冬十月、南沃沮の仇頗解ら二十余家が斧壤に至って款を納れた。王はこれを納れ、漢山の西に安んじ置いた。

33四十五年 — 地が震って家が倒れる

四十五年,春夏大旱,草木焦枯。冬十月,地震,傾倒人屋。

四十五年の春と夏、大いに旱となって草と木が焦げ枯れた。冬十月、地が震って人の家が傾き倒れた。

34四十六年 — 温祚王が亡くなる

四十六年,春二月,王薨。

四十六年春二月、王が亡くなった。