武王
1武王が即位する
武王,諱璋,法王之子。風儀英偉,志氣豪傑。法王卽位,翌年薨,子嗣位。
武王は名を璋といい、法王の子である。風采と挙措は英偉で、志と気は豪傑であった。法王が即位した翌年に亡くなったので、子が位を継いだ。
2三年 — 貴山と箒項が死ぬ
三年,秋八月,王出兵,圍新羅阿莫山城。羅王眞平遣精騎數千,拒戰之,我兵失利而還。新羅築小陁、畏石、泉山、甕岑四城,侵逼我疆境。王怒,令佐平解讎,帥步騎四萬,進攻其四城。新羅將軍乾品、武殷,帥衆拒戰。解讎不利,引軍退於泉山西大澤中,伏兵以待之。武殷乘勝,領甲卒一千,追至大澤,伏兵發急擊之。武殷墜馬,士卒驚駭,不知所為。武殷子貴山大言曰:「吾嘗受敎於師,曰:『士當軍,無退。』豈敢奔退,以墜師敎乎?」以馬授父,卽與小將箒項,揮戈力鬪以死。餘兵見此益奮,我軍敗績,解讎僅免,單馬以歸。
三年秋八月、王は兵を出して新羅の阿莫山城を囲んだ。新羅王の真平が精騎数千を遣わして防ぎ戦ったので、百済の兵は不利となって帰った。
新羅が小陁・畏石・泉山・甕岑の四城を築いて百済の疆境に迫ったので、王は怒り、佐平の解讎に命じて歩兵と騎兵四万を率いてその四城を攻めさせた。新羅の将軍の乾品と武殷が衆を率いて防ぎ戦った。解讎は不利となると軍を引いて泉山の西の大きな沢の中に退き、兵を伏せて待った。
武殷は勝ちに乗じて甲兵一千を率い、大きな沢まで追ってきたので、伏兵が起こって急に撃った。武殷は馬から落ち、士卒は驚いてどうすべきか分からなかった。
武殷の子の貴山が大声で言った。「わたしはかつて師から教えを受け、『士が軍に臨んでは退くことがあってはならない』と言われた。どうして敢えて逃げ退いて師の教えを落とすことができようか。」そして馬を父に渡し、ただちに小将の箒項とともに戈を振るって力戦して死んだ。
残った兵はこれを見ていよいよ奮い立ち、百済の軍は敗れ、解讎はやっと免れて、ただ一騎で帰った。
夾注 1
一名母山城
新羅の阿莫山城は、一名、母山城である。
3六年 — 角山城を築く
六年,春二月,築角山城。秋八月,新羅侵東鄙。
六年春二月、角山城を築いた。秋八月、新羅が東の辺りを侵した。
4七年 — 土の雨が降り昼が暗い
七年,春三月,王都雨土,晝暗。夏四月,大旱,年饑。
七年春三月、王都に土の雨が降り、昼が暗かった。夏四月、大いに旱があり、その年は飢饉となった。
5八年 — 高句麗を討つことを請う
八年,春三月,遣扞率燕文進,入隋朝貢。又遣佐平王孝隣入貢,兼請討高句麗。煬帝許之,令覘高句麗動靜。夏五月,高句麗來攻松山城,不下,移襲石頭城,虜男女三千而歸。
八年春三月、扞率の燕文進を遣わして隋に入り朝貢させた。また佐平の王孝隣を遣わして入貢させ、あわせて高句麗を討つことを請うと、煬帝はこれを許し、高句麗の動静を窺わせた。
夏五月、高句麗が松山城を攻めに来たが落とせず、移って石頭城を襲い、男女三千を捕らえて帰った。
6九年 — 裴淸が南の路を通る
九年,春三月,遣使入隋朝貢。隋文林郞裴淸奉使倭國,經我國南路。
九年春三月、使者を遣わして隋に入り朝貢させた。隋の文林郎の裴淸が倭国に使いして、百済の南の路を通った。
7十二年 — 椵岑城を滅ぼす
十二年,春二月,遣使入隋朝貢。隋煬帝將征高句麗,王使國智牟入請軍期。帝悅,厚加賞錫,遣尚書起部郞席律來,與王相謀。秋八月,築赤嵒城。冬十月,圍新羅椵岑城,殺城主讚德,滅其城。
十二年春二月、使者を遣わして隋に入り朝貢させた。隋の煬帝が高句麗を征そうとしたので、王は國智牟を遣わして出兵の時期を問わせた。帝は喜んで賞賜を厚く加え、尚書起部郎の席律を遣わして王と相談させた。
秋八月、赤嵒城を築いた。冬十月、新羅の椵岑城を囲んで城主の讚徳を殺し、その城を滅ぼした。
8十三年 — 両方に足をかける
十三年,隋六軍度遼,王嚴兵於境,聲言助隋,實持兩端。夏四月,震宮南門。五月,大水,漂沒人家。
十三年、隋の六軍が遼水を渡ったので、王は国境に兵を厳しく備え、隋を助けると声高に言ったが、実は両方に足をかけていた。夏四月、宮の南門に雷が落ちた。五月、大水が出て、人の家が流され水に浸かった。
9十七年 — 母山城を攻める
十七年,冬十月,命達率芍奇領兵八千,攻新羅母山城。十一月,王都地震。
十七年冬十月、達率の芍奇に命じて兵八千を率いて新羅の母山城を攻めさせた。十一月、王都に地震があった。
10十九年 — 椵岑城を失う
十九年,新羅將軍邊品等,來攻椵岑城,復之,奚論戰死。
十九年、新羅の将軍の邊品らが椵岑城を攻めに来てこれを取り返し、奚論が戦死した。
11二十二年 — 果下馬を献じる
二十二年,冬十月,遣使入唐,獻果下馬。
二十二年冬十月、使者を遣わして唐に入り、果下馬を献じた。
12二十四年 — 勒弩県を侵す
二十四年,秋,遣兵侵新羅勒弩縣。
二十四年秋、兵を遣わして新羅の勒弩県を侵した。
13二十五年 — 六城を取る
二十五年,春正月,遣大臣入唐朝貢。高祖嘉其誠款,遣使就冊為帶方郡王公百濟王。秋七月,遣使入唐朝貢。冬十月,攻新羅速含、櫻岑、歧岑、烽岑、旗懸、冗柵等六城,取之。
二十五年春正月、大臣を遣わして唐に入り朝貢させた。高祖はその誠意を嘉として、使者を遣わして冊し、帶方郡王百済王とした。秋七月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。冬十月、新羅の速含・櫻岑・歧岑・烽岑・旗懸・冗柵など六城を攻めて取った。
14二十六年 — 唐に朝貢する
二十六年,冬十一月,遣使入唐朝貢。
二十六年冬十一月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
15二十七年 — 明光鎧を献じる
二十七年,遣使入唐,獻明光鎧,因訟高句麗梗道路,不許來朝上國。高祖遣散騎常侍朱子奢來,詔諭我及高句麗,平其怨。秋八月,遣兵,攻新羅主在城,執城主東所,殺之。冬十二月,遣使入唐朝貢。
二十七年、使者を遣わして唐に入り明光鎧を献じ、それにつけて高句麗が道を塞いで上国に来朝することを許さないと訴えた。高祖は散騎常侍の朱子奢を遣わし、詔して百済と高句麗を諭し、その怨みを和らげた。
秋八月、兵を遣わして新羅の主在城を攻め、城主の東所を捕らえて殺した。冬十二月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
16二十八年 — 太宗が和を諭す
二十八年,秋七月,王命將軍沙乞,拔新羅西鄙二城,虜男女三百餘口。王欲復新羅侵奪地分,大擧兵,出屯於熊津。羅王眞平聞之,遣使告急於唐。王聞之,乃止。秋八月,遣王姪福信,入唐朝貢,太宗謂與新羅世讎,數相侵伐,賜王璽書曰:「王世為君長,撫有東蕃,海隅遐曠,風濤艱阻,忠款之至,職貢相尋,尚想嘉猷,甚以欣慰。朕祗承寵命,君臨區宇,思弘正道,愛育黎元,舟車所通,風雨所及,期之遂性,咸使乂安。新羅王金眞平,朕之蕃臣,王之鄰國,每聞遣師,征討不息。阻兵安忍,殊乖所望。朕已對王姪福信及高句麗新羅使人,具勑通和,咸許輯睦。王必須忘彼前怨,識朕本懷,共篤鄰情,卽停兵革。」王因遣使,奉表陳謝。雖外稱順命,內實相仇如故。
二十八年秋七月、王は将軍の沙乞に命じて新羅の西の辺りの二城を取り、男女三百余人を捕らえさせた。
王は新羅に侵し奪われた地を取り返そうとして大いに兵を起こし、熊津に出て屯した。新羅王の真平がこれを聞いて、使者を遣わして唐に急を告げた。王はこれを聞いて、そこでやめた。
秋八月、王の甥の福信を遣わして唐に入り朝貢させると、太宗は新羅と代々の仇となってたびたび互いに侵し伐っていることを言い、王に璽書を賜わって言った。
「王は代々君長となって東の藩を撫して保ち、海の隅は遠く広く、風と波は難しく阻むのに、忠誠の至りによって職貢が相次いだ。その美しい心を思うと、甚だ喜ばしく慰められる。
朕は謹んで寵命を承けて全土に君臨し、正しい道を弘め、民を愛し育てることを思い、舟や車の通う所、風や雨の及ぶ所ごとに、その性を遂げさせ、ことごとく安らかにさせようと期している。
新羅王の金真平は朕の藩臣であり、王の隣国であるのに、聞くたびに軍を遣わして征討をやめないという。兵を頼んで残忍さを安んじているのは、望むところとはなはだ違う。朕はすでに王の甥の福信と高句麗・新羅の使者に対して、具さに勅して和を通じさせ、ことごとく睦むことを許した。王は必ずあの前の怨みを忘れ、朕の本意を知って、ともに隣の情を篤くし、ただちに戦いをやめなさい。」
王はこれによって使者を遣わし、表を奉って謝した。外では命に従うと称したが、内では実際に互いを仇とすることが以前のままであった。
17二十九年 — 椵岑城を攻めてやめる
二十九年,春二月,遣兵攻新羅椵岑城,不克而還。
二十九年春二月、兵を遣わして新羅の椵岑城を攻めたが、勝てずに帰った。
18三十年 — 唐に朝貢する
三十年,秋九月,遣使入唐朝貢。
三十年秋九月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
19三十一年 — 泗沘の宮を改修する
三十一年,春二月,重修泗沘之宮。王幸熊津城。夏旱,停泗沘之役。秋七月,王至自熊津。
三十一年春二月、泗沘の宮を改修した。王は熊津城に行幸した。夏に旱があったので、泗沘の工事をやめた。秋七月、王が熊津から帰った。
20三十二年 — 唐に朝貢する
三十二年,秋九月,遣使入唐朝貢。
三十二年秋九月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
21三十三年 — 義慈を太子とする
三十三年,春正月,封元子義慈為太子。二月,改築馬川城。秋七月,發兵伐新羅,不利。王田于生草之原。冬十二月,遣使入唐朝貢。
三十三年春正月、長子の義慈を封じて太子とした。二月、馬川城を改築した。秋七月、兵を出して新羅を伐ったが、勝てなかった。王は生草の原で狩りをした。冬十二月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
22三十四年 — 西谷城を取る
三十四年,秋八月,遣將攻新羅西谷城,十三日拔之。
三十四年秋八月、将を遣わして新羅の西谷城を攻め、十三日でこれを取った。
23三十五年 — 王興寺が落成する
三十五年,春二月,王興寺成。其寺臨水,彩飾壯麗。王每乘舟,入寺行香。三月,穿池於宮南,引水二十餘里,四岸植以楊柳,水中築島嶼,擬方丈仙山。
三十五年春二月、王興寺が落成した。その寺は水に臨み、彩りの飾りは壮麗であった。王はいつも舟に乗って寺に入り、香を供えた。
三月、宮の南に池を掘り、水を二十余里から引き入れ、四方の岸に柳を植え、水の中に島を築いて方丈の仙山に擬した。
24三十七年 — 于召が捕らえられる
三十七年,春二月,遣使入唐朝貢。三月,王率左右臣寮,遊燕於泗沘河北浦。兩岸奇巖怪石錯立,間以奇花異草,如畫圖。王飲酒極歡,鼓琴自歌,從者屢舞。時人謂其地為大王浦。夏五月,王命將軍于召,帥甲士五百,往襲新羅獨山城。于召至玉門谷,日暮,解鞍休士。新羅將軍閼川將兵,掩至鏖擊之。于召登大石上,彎弓拒戰,矢盡,為所擒。六月,旱。秋八月,燕群臣於望海樓。
三十七年春二月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
三月、王は左右の臣下を率いて泗沘河の北の浦で遊び宴をした。両岸には珍しい巌と怪しい石が入り混じって立ち、その間に珍しい花と異な草があって、絵のようであった。王は酒を飲んで大いに楽しみ、琴を弾いて自ら歌い、従う者たちはしばしば舞った。当時の人はその地を大王浦といった。
夏五月、王は将軍の于召に命じ、甲兵五百を率いて行って新羅の獨山城を襲わせた。于召は玉門谷に至って日が暮れたので、鞍を解いて兵を休ませた。新羅の将軍の閼川が兵を率いて忍び寄り、一気に攻めかかった。于召は大きな石の上に登り、弓を引いて防ぎ戦ったが、矢が尽きて捕らえられた。
六月、旱があった。秋八月、望海楼で群臣に宴を催した。
25三十八年 — 鉄の甲と彫りの斧を献じる
三十八年,春二月,王都地震。三月,又震。冬十二月,遣使入唐,獻鐵甲雕斧。太宗優勞之,賜錦袍幷彩帛三千段。
三十八年春二月、王都に地震があった。三月、また震えた。冬十二月、使者を遣わして唐に入り、鉄の甲と彫りを施した斧を献じた。太宗は厚く労い、錦の袍とあわせて彩りの絹三千段を賜った。
26三十九年 — 大きな池に舟を浮かべる
三十九年,春三月,王與嬪御泛舟大池。
三十九年春三月、王は嬪御とともに大きな池に舟を浮かべた。
27四十年 — 金の甲と彫りの斧を献じる
四十年,冬十月,又遣使於唐,獻金甲雕斧。
四十年冬十月、また使者を唐に遣わして、金の甲と彫りを施した斧を献じた。
28四十一年 — 子弟を国学に入れることを請う
四十一年,春正月,星孛于西北。二月,遣子弟於唐,請入國學。
四十一年春正月、彗星が西北に現れた。二月、子弟を唐に遣わして国学に入ることを請うた。
29四十二年 — 武王が亡くなる
四十二年,春三月,王薨。諡曰武。使者入唐,素服奉表曰:「君外臣扶餘璋卒。」帝擧哀玄武門,詔曰:「懷遠之道,莫先於寵命,飾終之義,無隔於遐方。故柱國帶方郡公百濟王扶餘璋,棧山航海,遠稟正朔,獻琛奉牘,克固始終,奄致薨殞,追深慜悼。宜加常數,式表哀榮,贈光祿大夫。」賻賜甚厚。
四十二年春三月、王が亡くなった。諡を武といった。使者が唐に入り、白い喪服を着て表を奉って言った。「君の外臣である扶餘璋が卒しました。」
帝は玄武門で哀悼の礼を行い、詔を下した。「遠い者を懐ける道は寵命に先だつものがなく、死を飾る義は遠い地方といって隔てがない。故の柱国帶方郡公百済王の扶餘璋は、山に桟を架け海を渡って遠く正朔を受け、宝を献じ書を奉って始めから終わりまでを固くしたのに、不意に亡くなったので、追って深く悼む。常の数に加えて哀しみと栄えを表すべきであるから、光祿大夫を贈る。」賻の賜りは甚だ厚かった。