義慈王
1義慈王が立ち、大耶城を取る
義慈王,武王之元子,雄勇有膽決。武王在位三十三年,立為太子。事親以孝,與兄弟以友,時號海東曾子。武王薨,太子嗣位。太宗遣祠部郞中鄭文表,冊命為柱國帶方郡王公百濟王。秋八月,遣使入唐,表謝,兼獻方物。二年,春正月,遣使入唐朝貢。二月,王巡撫州郡。慮囚,除死罪皆原之。秋七月,王親帥兵,侵新羅,下獼猴等四十餘城。八月,遣將軍允忠,領兵一萬,攻新羅大耶城。城主品釋與妻子出降。允忠盡殺之,斬其首,傳之王都,生獲男女一千餘人,分居國西州縣,留兵守其城。王賞允忠功,馬二十匹、穀一千石。
義慈王は武王の長子である。雄々しく勇ましく、胆力と決断があった。武王の在位三十三年に立てられて太子となった。親に孝で仕え、兄弟と友愛で交わったので、当時は海東の曾子と呼ばれた。武王が亡くなって太子が位を継いだ。太宗は祠部郎中の鄭文表を遣わして冊命し、柱国帶方郡王百済王とした。
秋八月、使者を遣わして唐に入り、表で謝し、あわせて土地の産物を献じた。
二年春正月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。二月、王は州と郡を巡って慰撫し、囚人を調べて、死罪を除いてはみな赦した。
秋七月、王は自ら兵を率いて新羅を侵し、獼猴など四十余城を落とした。
八月、将軍の允忠を遣わし、兵一万を率いて新羅の大耶城を攻めさせた。城主の品釋が妻子とともに出て降ったが、允忠はことごとく殺し、その首を斬って王都に送り、男女一千余人を生け捕って国の西の州県に分けて住ませ、兵を留めてその城を守らせた。王は允忠の功を賞して、馬二十匹と穀一千石を与えた。
2三年 — 黨項城を攻めてやめる
三年,春正月,遣使入唐朝貢。冬十一月,王與高句麗和親,謀欲取新羅黨項城,以塞入朝之路。,遂發兵攻之。羅王德曼遣使,請救於唐,王聞之罷兵。
三年春正月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
冬十一月、王は高句麗と和親し、新羅の黨項城を取って入朝の路を塞ごうと謀り、ついに兵を出して攻めた。新羅王の德曼が使者を遣わして唐に救援を請うたので、王はこれを聞いて兵を収めた。
3四年 — 隆を太子とする
四年,春正月,遣使入唐朝貢。太宗遣司農丞相里玄奬,告諭兩國,王奉表陳謝。立王子隆為太子。大赦。秋九月,新羅將軍庾信領兵來侵,取七城。
四年春正月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。太宗は司農丞の相里玄奬を遣わして両国に告げ諭したので、王は表を奉って謝した。王子の隆を立てて太子とし、大赦を行った。
秋九月、新羅の将軍の庾信が兵を率いて侵してきて、七城を取った。
4五年 — 新羅の七城を取る
五年,夏五月,王聞太宗親征高句麗,徵兵新羅。乘其間,襲取新羅七城。新羅遣將軍庾信,來侵。
五年夏五月、王は太宗が自ら高句麗を征して新羅から兵を徴すると聞き、その間に乗じて新羅の七城を襲い取った。新羅は将軍の庾信を遣わして侵してきた。
5七年 — 義直が茂山城の下で敗れる
七年,冬十月,將軍義直,帥步騎三千,進屯新羅茂山城下,分兵攻甘勿、桐岑二城,新羅將軍庾信,親勵士卒,決死而戰,大破之。義直匹馬而還。
七年冬十月、将軍の義直が歩兵と騎兵三千を率いて新羅の茂山城の下に進んで屯し、兵を分けて甘勿・桐岑の二城を攻めた。新羅の将軍の庾信は自ら士卒を励まし、死を決して戦い、大いに破った。義直はただ一騎で帰った。
6八年 — 玉門谷で敗れる
八年,春三月,義直襲取新羅西鄙腰車等一十餘城。夏四月,進軍於玉門谷,新羅將軍庾信逆之,再戰大敗之。
八年春三月、義直が新羅の西の辺りの腰車など十余城を襲い取った。夏四月、軍を玉門谷に進めると、新羅の将軍の庾信が迎え、二度戦って大いに破った。
7九年 — 道薩城の下で敗れる
九年,秋八月,王遣左將殷相,帥精兵七千,攻取新羅石吐等七城,新羅將庾信、陳春、天存、竹旨等,逆擊之,不利,收散卒,屯於道薩城下,再戰,我軍敗北。冬十一月,雷。無氷。
九年秋八月、王は左将の殷相を遣わし、精兵七千を率いて新羅の石吐など七城を攻め取らせた。新羅の将の庾信・陳春・天存・竹旨らが迎え撃って不利となると、散った兵を集めて道薩城の下に屯し、二度目の戦いで百済の軍が敗れた。冬十一月、雷が鳴った。氷が張らなかった。
8十一年 — 高宗が璽書で諭す(前)
十一年,遣使入唐朝貢。使還,高宗降璽書,諭王曰:「海東三國,開基日久,並列疆界,地實犬牙。近代已來,遂構嫌隙,戰爭交起,略無寧歲。遂令三韓之氓,命懸刀俎,築戈肆憤,朝夕相仍。朕代天理物,載深矜憫。去歲,高句麗、新羅等使,並來入朝,朕命釋玆讎怨,更敦款睦。新羅使金法敏奏言:「高句麗、百濟,脣齒相依,竟擧干戈,侵逼交至,大城重鎭,並爲百濟所倂,疆宇日蹙,威力並謝,乞詔百濟,令歸所侵之城。若不奉詔,卽自興兵打取,但得古地,卽請交和。」朕以其言旣順,不可不許。昔,齊桓列土諸侯,尚存亡國,况朕萬國之主,豈可不恤危藩!王所兼新羅之城,並冝還其夲國,新羅所獲百濟俘虜,亦遣還王。然後,解患釋紛,韜戈偃革,百姓獲息肩之願,三蕃無戰爭之勞。
十一年、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。使者が帰るとき、高宗が璽書を下して王に諭した。
「海の東の三国は基を開いてから日が久しく、疆界を並べ列ねて、地はまことに犬の歯のように入り組んでいる。近い代以来、ついに嫌いと隙を結んで戦争が交互に起こり、安らかな年がほとんどない。ついに三韓の民に、命を刀と俎に懸けさせ、戈を構えて憤りを振るうことが朝夕相次いでいる。朕は天に代わって物を治めるにあたり、深く憐れんでいる。
去年、高句麗と新羅などの使者がともに来て入朝したので、朕はこの仇と怨みを解いて、改めて誠と睦みを篤くするよう命じた。新羅の使者の金法敏が奏して言った。『高句麗と百済は唇と歯のように相依り、ついに干戈を挙げて侵し迫ることが交互に至り、大きな城と重い鎮がともに百済に併せられました。疆土は日ごとに縮まり、威と力はともに衰えましたので、百済に詔して侵した城を返させてくださるよう願います。もし詔を奉じなければ、ただちに自ら兵を起こして打ち取りますが、ただ古い地を得れば、すぐに和を交わすことを請います。』
朕はその言葉がすでに理に順っているので、許さないわけにはいかなかった。昔、齊の桓公は土地を列ねられた諸侯の一人にすぎなかったが、それでも亡んだ国を存続させた。まして朕は万国の主であるから、どうして危うい藩を憐れまずにいられようか。
王が併せ持つ新羅の城はともにその本国に返すべきであり、新羅が得た百済の俘虜も、また王に返させる。その後にこそ患いを解き紛れを釈き、戈を納め鎧を伏せて、百姓は肩を休める願いを得、三つの藩は戦争の労がなくなるのである。
9十一年 — 高宗が璽書で諭す(後)
比夫流血邊亭,積屍疆埸,耕織並廢,士女無聊,豈可同年而語哉?王若不從進止,朕已依法敏所請,任其與王決戰,亦令約束高句麗,不許遠相救恤。高句麗若不承命,卽令契丹諸藩,度遼,深入抄掠。王可深思朕言,自求多福,審圗良策,無貽後悔。」
あの辺りの亭に血を流し、疆土に屍を積み、耕しも織りもともに廃れて男女に楽しみがないのに比べれば、どうして同じ年に並べて語れようか。
王がもし進退の指示に従わなければ、朕はすでに法敏の請うたところにより、彼が王と決戦するのに任せ、また高句麗に約束させて、遠くから互いに救い助けることを許さない。高句麗がもし命を承けなければ、ただちに契丹や諸藩に遼水を渡らせ、深く入って掠めさせる。王は朕の言葉を深く思い、自ら多くの福を求め、良い策を審らかに図って、後の悔いを残さないようにせよ。」
10十二年 — 唐に朝貢する
十二年,春正月,遣使入唐朝貢。
十二年春正月、使者を遣わして唐に入り朝貢させた。
11十三年 — 倭国と通好する
十三年,春,大旱。民饑。秋八月,王與倭國通好。
十三年春、大いに旱があって民が飢えた。秋八月、王は倭国と通好した。
12十五年 — 成忠が獄で死に、書を上る
十五年,春二月,修太子宮,極侈麗。立望海亭於王宮南。夏五月,騂馬入北岳烏含寺,鳴匝佛宇,數日死。。秋七月,重修馬川城。八月,王與高句麗、靺鞨,攻破新羅三十餘城。新羅王金春秋,遣使朝唐,表稱:「百濟與高句麗、靺鞨,侵我北界,沒三十餘城。」十六年,春三月,王與宮人,淫荒耽樂,飲酒不止。佐平成忠極諫,王怒,囚之獄中,由是,無敢言者。成忠瘐死不食。臨終上書曰:「忠臣死不忘君,願一言而死。臣常觀時察變,必有兵革之事。凡用兵,必審擇其地,處上流以延敵,然後可以保全。若異國兵來,陸路不使過沈峴,水軍不使入伎伐浦之岸,擧其險隘以禦之,然後可也。」王不省焉。
十五年春二月、太子の宮を修めたが、奢りと美しさは極まっていた。王宮の南に望海亭を立てた。
夏五月、赤い馬が北岳の烏含寺に入り、仏堂を回って鳴き、数日して死んだ。
秋七月、馬川城を改修した。八月、王は高句麗・靺鞨とともに新羅の三十余城を攻め破った。新羅王の金春秋が使者を遣わして唐に朝し、表で申し述べた。「百済が高句麗・靺鞨とともにわが北の境を侵し、三十余城を奪いました。」
十六年春三月、王は宮人とともに淫らに荒れて楽しみに耽り、酒を飲むことをやめなかった。佐平の成忠が極めて諫めたので、王は怒って獄中に囚えた。これによって敢えて言う者がなくなった。
成忠は食べずに痩せ衰えて死んだが、臨終に書を上った。「忠臣は死んでも君を忘れませんので、どうか一言申して死にたく存じます。臣は常に時を観て変を察しますが、必ず兵乱の事があるでしょう。およそ兵を用いるには、必ずその地を審らかに択び、上流に位置して敵を迎え、その後にこそ全うすることができます。もし異国の兵が来たならば、陸路では沈峴を過ぎさせず、水軍では伎伐浦の岸に入らせず、その険しく狭い所に拠って防いだ後にこそ、よいのです。」
王は省みなかった。
夾注 3
或云淨忠。
佐平の成忠は、淨忠ともいう。
一云炭峴
沈峴は、炭峴ともいう。
一云白江
伎伐浦は、白江ともいう。
13十七年・十九年 — 怪異が相次ぐ
十七年,春正月,拜王庶子四十一人為佐平,各賜食邑。夏四月,大旱,赤地。十九年,春二月,衆狐入宮中,一白狐坐上佐平書案。夏四月,太子宮,雌雞與黃雀交。遣將侵攻新羅獨山、桐岑二城。五月,王都西南泗沘河,大魚出死,長三丈。秋八月,有女屍浮生草津,長十八尺。九月,宮中槐樹鳴,如人哭聲。夜,鬼哭於宮南路。
十七年春正月、王の庶子四十一人を佐平とし、それぞれに食邑を与えた。夏四月、大いに旱があって地が赤くなった。
十九年春二月、狐の群れが宮中に入り、一匹の白い狐が上佐平の書案に座った。夏四月、太子の宮で雌鶏が雀と交わった。将を遣わして新羅の獨山・桐岑の二城を侵し攻めた。
五月、王都の西南の泗沘河に大きな魚が出て死んだが、長さは三丈であった。秋八月、女の屍が生草津に浮かんだが、長さは十八尺であった。九月、宮中の槐の木が鳴り、人の泣く声のようであった。夜、鬼が宮の南の路で泣いた。
14二十年 — 百済は亡ぶという声
二十年,春二月,王都井水血色。西海濱,群魚出死,百姓食之,不能盡。泗沘河水,赤如血色。夏四月,蝦蟆數萬,集於樹上。王都市人,無故驚走,如有捕逐者,僵仆而死百餘人,亡失財物,不可數。五月,風雨暴至,震天王、道讓二寺塔,又震白石寺講堂。玄雲如龍,東西相鬪於空中。五月,王興寺衆僧皆見:若有船楫,隨大水,入寺門。有一犬狀如野鹿,自西至泗沘河岸,向王宮吠之,俄而不知所去。王都群犬集於路上,或吠或哭,移時卽散。有一鬼入宮中,大呼:「百濟亡,百濟亡!」卽入地,王怪之,使人掘地,深三尺許,有一龜。其背有文曰:「百濟同月輪,新羅如月新。」王問之巫者,曰:「同月輪者滿也,滿則虧。如月新者未滿也,未滿則漸盈。」王怒殺之。
二十年春二月、王都の井戸の水が血の色になった。西海の浜に魚の群れが出て死んだので、民が食べても尽きなかった。泗沘河の水は赤く血の色のようであった。
夏四月、蝦蟇が数万、木の上に集まった。王都の市の人が理由もなく驚いて走り、捕らえ追う者があるかのようであったが、倒れて死んだ者が百余人、失った財物は数えきれなかった。
五月、風雨が激しく至って天王寺と道讓寺の二つの寺の塔に雷が落ち、また白石寺の講堂に雷が落ちた。竜のような黒い雲が東西から空中で互いに闘った。
五月、王興寺の僧たちはみな、舟と櫂のようなものが大水に従って寺の門に入ってくるのを見た。野鹿のような犬が一匹、西から泗沘河の岸に至り、王宮に向かって吠え、やがてどこへ行ったか分からなくなった。王都の犬の群れが路の上に集まって、あるものは吠え、あるものは泣き、時が過ぎるとすぐに散った。
一人の鬼が宮中に入って大声で叫んだ。「百済は亡ぶ、百済は亡ぶ。」そしてすぐ地に入った。王は怪しんで人に地を掘らせると、三尺ばかりのところに一匹の亀があった。その背に文があって「百済は満月のごとく、新羅は新月のごとし」とあった。
王が巫者に問うと、答えた。「満月のごとしとは満ちていることで、満ちれば欠けます。新月のごとしとはまだ満ちていないことで、満ちていなければ次第に満ちていきます。」王は怒って殺した。
15二十年 — 唐と新羅の軍が至る
或曰:「同月輪者盛也,如月新者微也。意者國家盛,而新羅寖微者乎。」王喜。高宗詔:左衛大將軍蘇定方,為神丘道行軍大摠管,率左衛將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將軍龐孝公,統兵十三萬,以來征,兼以新羅王金春秋,爲嵎夷道行軍摠管,將其國兵,與之合勢。蘇定方引軍,自城山濟海,至國西德物島,新羅王遣將軍金庾信,領精兵五萬以赴之。王聞之,會群臣,問戰守之宜。佐平義直進曰:「唐兵遠涉溟海,不習水者,在船必困。當其初下陸,士氣未平,急擊之,可以得志。新羅人恃大國之援,故有輕我之心,若見唐人失利,則必疑懼,而不敢銳進。故知先與唐人決戰,可也。」達率常永等曰:「不然。唐兵遠來,意欲速戰,其鋒不可當也。新羅人前屢見敗於我軍,今望我兵勢,不得不恐。
ある者が言った。「満月のごとしとは盛んなことで、新月のごとしとは微かなことです。思いますに、国家は盛んで、新羅は次第に微かになるということでしょう。」王は喜んだ。
高宗は詔して、左衛大将軍の蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、左衛将軍の劉伯英、右武衛将軍の馮士貴、左驍衛将軍の龐孝公を率いて兵十三万を統べて征しに来させ、あわせて新羅王の金春秋を嵎夷道行軍摠管として、その国の兵を率いて勢を合わせさせた。
蘇定方が軍を率いて城山から海を渡り、国の西の徳物島に至ると、新羅王は将軍の金庾信を遣わし、精兵五万を率いて赴かせた。
王はこれを聞いて群臣を集め、戦うべきか守るべきかの宜しきを問うた。
佐平の義直が進んで言った。「唐の兵は遠く大海を渡ってきたので、水に慣れない者は船で必ず疲れているでしょう。彼らが初めて陸に下りて士気がまだ整わないうちに急に撃てば、志を得ることができます。新羅の人は大国の援けを恃んでいるので、わが方を軽んじる心があります。もし唐の人が不利になるのを見れば、必ず疑い恐れて、敢えて鋭く進まないでしょう。ですから、まず唐の人と決戦するのがよいと存じます。」
達率の常永らが言った。「そうではありません。唐の兵は遠くから来て速く戦おうとしていますから、その鋒先には当たれません。新羅の人は、先にたびたびわが軍に敗れているのを見てきましたので、いまわが軍勢を望めば恐れないわけにいきません。
16二十年 — 興首の言を用いない
今日之計,宜塞唐人之路,以待其師老。先使偏師,擊羅軍,折其銳氣,然後,伺其便而合戰,則可得以全軍,而保國矣。」王猶豫,不知所從。時,佐平興首得罪,流竄古馬彌知之縣,遣人問之曰:「事急矣,如之何而可乎?」興首曰:「唐兵旣衆,師律嚴明,況與新羅共謀掎角。若對陣於平原廣野,勝敗未可知也。白江、炭峴,我國之要路也。一夫單槍,萬人莫當,宜簡勇士,往守之。使唐兵不得入白江,羅人未得過炭峴。大王重閉固守,待其資粮盡,士卒疲,然後奮擊之,破之必矣。」於時,大臣等不信曰:「興首久在縲紲之中,怨君而不愛國,其言不可用也。莫若使唐兵入白江,沿流而不得方舟,羅軍升炭峴,由徑而不得幷馬。
今日の計は、唐の人の路を塞いでその軍が疲れるのを待ち、まず一部の軍に新羅の軍を撃たせてその鋭気を折り、その後に都合を窺って合わせ戦えば、軍を全うして国を保つことができましょう。」
王は迷って、従うべきところが分からなかった。
そのとき、佐平の興首が罪を得て古馬彌知の県に流されていたので、人を遣わして問わせた。「事は急である。どうすればよいか。」
興首が言った。「唐の兵はすでに多く、軍律は厳しく明らかで、まして新羅とともに前後から挟むことを謀っています。もし平らな原、広い野で陣を向かい合わせれば、勝敗は分かりません。白江と炭峴はわが国の要の路であり、一人が槍一本で万人を当てることができますから、勇士を選んで行って守らせるべきです。唐の兵を白江に入らせず、新羅の人を炭峴を過ぎさせないようにし、大王が重ねて閉じて固く守り、その資と糧が尽き、士卒が疲れるのを待った後に奮い撃てば、必ず破れるでしょう。」
そのとき大臣たちは信じないで言った。「興首は長く囚われの中にいて、君を怨んで国を愛していませんから、その言は用いられません。唐の兵を白江に入らせ、流れに沿っても舟を並べられないようにし、新羅の軍を炭峴に登らせ、狭い道を通って馬を並べられないようにするのに越したことはありません。
夾注 2
或云伎伐浦。
白江は、伎伐浦ともいう。
或云沈峴。
炭峴は、沈峴ともいう。
17二十年 — 堦伯が死に、城が囲まれる
當此之時,縱兵擊之,譬如殺在籠之雞、離網之魚也。」王然之。又聞唐、羅兵已過白江、炭峴,遣將軍堦伯,帥死士五千,出黃山,與羅兵戰,四合皆勝之,兵寡力屈,竟敗,堦伯死之。於是,合兵禦熊津口,瀕江屯兵。定方出左涯,乘山而陣。與之戰,我軍大敗。王師乘潮,舳艫銜尾進,鼓而譟。定方將步、騎,直趍其都城,一舍止。我軍悉衆拒之,又敗,死者萬餘人。唐兵乘勝薄城。王知不免,嘆曰:「悔不用成忠之言,以至於此。」遂與太子孝,走北鄙。定方圍其城。王次子泰,自立為王,率衆固守。太子子文思,謂王子隆曰:「王與太子出,而叔擅為王,若唐兵解去,我等安得全?」遂率左右,縋而出而出,民皆從之,泰不能止。定方令士超堞,立唐旗幟,泰窘迫,開門請命。
このときに当たって兵を放って撃てば、たとえば籠の中の鶏を殺し、網にかかった魚を取るようなものです。」
王はそのとおりだと思った。また唐と新羅の兵がすでに白江と炭峴を過ぎたと聞いて、将軍の堦伯を遣わし、死を覚悟した兵五千を率いて黄山に出て新羅の兵と戦わせた。四度合わせてみな勝ったが、兵が少なく力が屈して、ついに敗れ、堦伯は死んだ。
そこで兵を合わせて熊津の口を防ぎ、江のほとりに兵を屯した。定方は左の岸に出て、山に乗って陣した。これと戦って百済の軍は大いに敗れた。唐の軍は潮に乗り、舟の艫と舳を連ねて進み、鼓を打って喚いた。
定方は歩兵と騎兵を率いてまっすぐその都城に向かい、三十里のところに止まった。百済の軍は衆をすべて挙げて防いだが、また敗れ、死んだ者は一万余人であった。唐の兵は勝ちに乗じて城に迫った。
王は免れないと知って嘆いた。「成忠の言を用いなかったために、ここに至ったことが悔やまれる。」そしてついに太子の孝とともに北の辺りへ逃げた。
定方はその城を囲んだ。王の次子の泰が自ら立って王となり、衆を率いて固く守った。太子の子の文思が王子の隆に言った。「王と太子が出られたのに叔父が勝手に王となった。もし唐の兵が囲みを解いて去れば、われらはどうして全うできようか。」そしてついに左右を率いて縄で下りて出たので、民もみなこれに従い、泰は止めることができなかった。
定方が兵に城壁を越えさせて唐の旗を立てさせると、泰は窮まり迫って、門を開いて命を請うた。
18二十年 — 王が降り、福信が起こる
於是,王及太子孝與諸城皆降。定方以王及太子孝、王子泰、隆、演及大臣、將士八十八人、百姓一萬二千八百七人,送京師。國本有五部,三十七郡,二百城,七十六萬戶,至是,析置熊津、馬韓、東明、金漣、德安五都督府,各統州縣。擢渠長,為都督、刺史、縣令以理之。命郞將劉仁願守都城,又以左衛郞將王文度為熊津都督,撫其餘衆。定方以所俘見上,責而宥之。王病死,贈金紫光祿大夫衛尉卿,許舊臣赴臨。詔葬孫皓、陳叔寶墓側,幷為竪碑。授隆司稼卿。文度濟海卒,以劉仁軌代之。武王從子福信,嘗將兵,乃與浮屠道琛,據周留城叛,迎古王子扶餘豊,嘗質於倭國者,立之為王。西北部皆應,引兵圍仁願於都城。詔起劉仁軌檢校帶方州刺史,將王文度之衆,便道發新羅兵,以救仁願。
そこで王と太子の孝と諸城はみな降った。定方は王と太子の孝、王子の泰・隆・演および大臣・将士八十八人、百姓一万二千八百七人を京師に送った。
国にはもともと五部・三十七郡・二百城・七十六万戸があったが、このときに至って分けて熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都督府を置き、それぞれ州と県を統べさせた。首長を抜いて都督・刺史・県令として治めさせ、郎将の劉仁願に命じて都城を守らせ、また左衛郎将の王文度を熊津都督として、その残った衆を撫させた。
定方が俘虜を帝に見せると、責めて赦した。王は病んで死んだので、金紫光祿大夫衛尉卿を贈り、旧臣が弔いに赴くことを許した。詔して孫皓と陳叔寶の墓の側に葬り、あわせて碑を立てさせた。隆には司稼卿を授けた。
文度が海を渡る途中で死んだので、劉仁軌をその代わりとした。
武王の甥の福信はかつて兵を率いたことがあったが、ここで僧の道琛とともに周留城に拠って反き、もとの王子の扶餘豊でかつて倭国に人質となっていた者を迎え、立てて王とした。西北部がみな応じ、兵を率いて都城で仁願を囲んだ。詔して劉仁軌を起用して検校帶方州刺史とし、王文度の衆を率いて近道から新羅の兵を発し、仁願を救わせた。
19龍朔元年 — 仁軌が熊津江の口で勝つ
仁軌喜曰:「天將富貴此翁矣。」請唐曆及廟諱而行,曰:「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表。」仁軌御軍嚴整,轉鬪而前。福信等,立兩柵於熊津江口,以拒之。仁軌與新羅兵合擊之,我軍退走入柵,阻水橋狹,墮溺及戰死者萬餘人。福信等乃釋都城之圍,退保任存城,新羅人以粮盡引還。時,龍朔元年三月也。於是,道琛自稱領軍將軍福信自稱霜岑將軍,招集徒衆,其勢益張。使告仁軌曰:「聞大唐與新羅約誓,百濟無問老少,一切殺之,然後,以國付新羅,與其受死,豈若戰亡!所以聚結,自固守耳。」仁軌作書,具陳禍福,遣使諭之。道琛等,恃衆驕倨,置仁軌之使於外館,嫚報曰:「使人官小卑,我是一國大將,不合參。」不答書,徒遣之。仁軌以衆少與仁願合軍,休息士卒,上表,請合新羅圖之。
仁軌は喜んで言った。「天はまさにこの老人を富貴にしようとしている。」唐の暦と廟の諱を請うて出発し、言った。「わたしは東夷を掃き平らげ、大唐の正朔を海の外に頒ちたい。」
仁軌は軍を御することが厳しく整い、転戦して前進した。福信らは熊津江の口に二つの柵を立ててこれを防いだ。仁軌が新羅の兵と合わせて撃つと、百済の軍は退いて柵に入ったが、水に阻まれ橋が狭くて、落ちて溺れた者と戦死した者が一万余人であった。福信らはそこで都城の囲みを解き、退いて任存城を守り、新羅の人は糧が尽きたので軍を引いて帰った。そのときは龍朔元年三月である。
ここで道琛は自ら領軍将軍と称し、福信は自ら霜岑将軍と称して徒衆を招き集め、その勢いはいよいよ張った。
人を遣わして仁軌に告げさせた。「聞くところでは、大唐は新羅と誓約して、百済は老いも若きも問わずことごとく殺した後に国を新羅に付けるという。死を受けるより、どうして戦って死ぬのに及ぼうか。だから集まって自ら固く守るだけである。」
仁軌は書を作って禍と福を具さに述べ、使者を遣わして諭した。道琛らは衆を恃んで驕り倨り、仁軌の使者を外の館に置いて、無礼に返答した。「使者の官は小さく卑しいが、わたしは一国の大将であるから、会うのにふさわしくない。」そして書に答えず、ただ帰した。
仁軌は衆が少ないので仁願と軍を合わせ、士卒を休ませ、表を上って新羅と合わせて図ることを請うた。
20龍朔二年 — 福信が道琛を殺す
羅王春秋奉詔,遣其將金欽,將兵救仁軌等,至古泗。福信邀擊,敗之。欽自葛嶺道遁還,新羅不敢復出。尋而福信殺道琛,幷其衆。豊不能制,但主祭而已。福信等,以仁願等孤城無援,遣使慰之曰:「大使等,何時西還?當遣相送。」二年七月,仁願、仁軌等,大破福信餘衆於熊津之東,拔支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚衆,仍令分兵以鎭守之。福信等,以眞峴城臨江高嶮,當衝要,加兵守之。仁軌夜督新羅兵,薄城板堞,比明而入城,斬殺八百人,遂通新羅饟道。仁願奏請益兵,詔發淄、靑、萊、海之兵七千人,遣左威衛將軍孫仁師,統衆浮海,以益仁願之衆。時,福信旣專權,與扶餘豊,寖相猜忌。福信稱疾,臥於窟室,欲俟豊問疾,執殺之。豊知之,帥親信,掩殺福信。
新羅王の春秋は詔を奉じて、その将の金欽を遣わし、兵を率いて仁軌らを救わせ、古泗に至った。福信が迎え撃ってこれを破った。欽は葛嶺道から逃げ帰り、新羅は敢えて再び出なかった。
やがて福信は道琛を殺し、その衆を併せた。豊は抑えることができず、ただ祭を主るだけであった。
福信らは、仁願らが孤立した城で援けがないというので、使者を遣わして慰めさせた。「大使らはいつ西に帰られるのか。見送りの者を遣わそう。」
二年七月、仁願と仁軌らは福信の残りの衆を熊津の東で大いに破り、支羅城および尹城・大山・沙井などの柵を取って、殺し捕らえた者が甚だ多く、続いて兵を分けて鎮め守らせた。
福信らは、眞峴城が江に臨んで高く険しく、要の衝に当たるというので、兵を加えて守った。仁軌は夜に新羅の兵を督し、城の板の壁に迫って、明け方には城に入り、八百人を斬り殺して、ついに新羅の糧道を通じさせた。
仁願が兵を増やすことを奏請したので、詔して淄州・靑州・萊州・海州の兵七千人を発し、左威衛将軍の孫仁師に衆を統べて海に浮かばせ、仁願の衆に加えさせた。
そのとき福信はすでに権を専らにしていて、扶餘豊と次第に互いに猜み忌むようになった。福信は病と称して窟の部屋に臥し、豊が病を見舞いに来るのを待って捕らえ殺そうとした。豊はこれを知り、親しく信じる者を率いて、不意に福信を殺した。
21龍朔三年 — 白江の口で倭の人を破る
遣使高句麗、倭國,乞師以拒唐兵。孫仁師中路迎擊破之,遂與仁願之衆相合,士氣大振。於是,諸將議所向,或曰:「加林城水陸之衝,合先擊之。」仁軌曰:「兵法『避實擊虛。』加林嶮而固,攻則傷士,守則曠日。周留城,百濟巢穴,群聚焉,若克之,諸城自下。」於是,仁師、仁願及羅王金法敏,帥陸軍進,劉仁軌及別帥杜爽、扶餘隆,帥水軍及粮船,自熊津江往白江,以會陸軍,同趍周留城。遇倭人白江口,四戰皆克,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水為丹。王扶餘豊脫身而走,不知所在,或云奔高句麗,獲其寶劒。王子扶餘忠勝、忠志等,帥其衆,與倭人並降。獨遲受信據任存城,未下。初,黑齒常之嘯聚亡散,旬日間,歸附者三萬餘人。定方遣兵攻之。
使者を高句麗と倭国に遣わし、軍を請うて唐の兵を防ごうとした。孫仁師が途中で迎え撃ってこれを破り、ついに仁願の衆と合わさって、士気は大いに振るった。
ここで諸将が向かう先を議したが、ある者が言った。「加林城は水陸の衝であるから、まずこれを撃つのがよい。」
仁軌が言った。「兵法に『実を避けて虚を撃つ』とある。加林は険しく固いので、攻めれば兵を傷つけ、守れば日を費やすばかりだ。周留城は百済の巣と穴で、群れが集まっている。もしこれに勝てば、諸城は自ら落ちる。」
ここで仁師・仁願と新羅王の金法敏が陸軍を率いて進み、劉仁軌と別に率いる将の杜爽・扶餘隆が水軍と糧船を率いて熊津江から白江へ行き、陸軍と会して、ともに周留城に向かった。
倭の人と白江の口で出会い、四度戦ってみな勝ち、その舟四百艘を焼いたので、煙と炎が天を焼き、海の水は赤くなった。
王の扶餘豊は身を脱して逃げ、どこにいるか分からなくなったが、高句麗に走ったともいう。その宝剣を得た。王子の扶餘忠勝・忠志らはその衆を率いて、倭の人とともに降った。ただ遲受信だけが任存城に拠って、落ちなかった。
はじめ、黑齒常之が逃げ散った者を呼び集めると、十日の間に帰り附く者が三万余人であった。定方は兵を遣わしてこれを攻めた。
22龍朔三年 — 常之が任存城を取る
常之拒戰敗之,復取二百餘城,定方不能克。常之與別部將沙吒相如據嶮,以應福信,至是皆降。仁軌以赤心示之,俾取任存自效,卽給鎧、仗、糒。仁師曰:「野心難信。若受甲濟粟,資寇便也。」仁軌曰:「吾觀相如、常之,忠而謀,因機立功,尚何疑?」二人訖取其城,遲受信委妻子,奔高句麗,餘黨悉平,仁師等振旅還。詔留仁軌,統兵鎭守。兵火之餘,比屋凋殘,殭屍如莽。仁軌始命,瘞骸骨,籍戶口,理村聚,署官長,通道塗,立橋梁,補堤堰,復坡塘,課農桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱。民皆悅,各安其所。帝以扶餘隆為熊津都督,俾歸國,平新羅古憾,招還遺人。麟德二年,與新羅王會熊津城,刑白馬以盟。仁軌為盟辭,乃作金書鐵契,藏新羅廟中,盟辭見『新羅紀』中。
常之は防ぎ戦ってこれを破り、また二百余城を取り返したので、定方は勝てなかった。常之は別部の将の沙吒相如とともに険しい所に拠って福信に応じていたが、このときに至ってみな降った。
仁軌は真心を示して、任存城を取って自ら功を立てさせようとし、ただちに鎧と武器と干し飯を与えた。仁師が言った。「野の心は信じがたい。もし甲を受け粟を渡せば、賊に資を与える便宜となるだけだ。」
仁軌が言った。「わたしが相如と常之を見るに、忠実で謀があり、機に乗じて功を立てるであろう。なおも何を疑おうか。」
二人はついにその城を取り、遲受信は妻子を捨てて高句麗に走り、残党はことごとく平らげられた。仁師らは軍を整えて帰った。詔して仁軌を留め、兵を統べて鎮め守らせた。
兵火の後で、家々は衰え損なわれ、固くなった屍が草のように散らばっていた。仁軌はまず命じて、骸骨を埋め、戸口を帳に記し、村里を治め、官長を置き、道を通じ、橋を架け、堤を補い、池を復し、農と桑を勧め、貧しく乏しい者を賑わし、孤児と老人を養い、唐の社稷を立て、正朔と廟の諱を頒った。民はみな喜び、それぞれその所に安んじた。
帝は扶餘隆を熊津都督として国に帰らせ、新羅との古い恨みを和らげ、残った人を招き返させた。麟徳二年、新羅王と熊津城で会い、白い馬を犠牲にして盟った。仁軌が盟いの辞を作り、そこで金で書いた鉄の契を作って新羅の廟の中に納めた。盟いの辞は「新羅本紀」の中に見える。
23儀鳳のころ — 国の系統が絶える
仁願等還,隆畏衆携散,亦歸京師。儀鳳中,以隆為熊津都督帶方郡王,遣歸國,安輯餘衆,仍移安東都護府於新城,以統之。時,新羅强,隆不敢入舊國,寄理治高句麗死。武后又以其孫敬襲王,而其地已為新羅、渤海、靺鞨所分,國系遂絶。
仁願らが帰ると、隆は衆が連れ去られて散ることを恐れ、彼もまた京師に帰った。
儀鳳のころ、隆を熊津都督帶方郡王として国に帰らせ、残った衆を安らかに集めさせ、続いて安東都護府を新城に移してこれを統べさせた。そのとき新羅が強かったので、隆は敢えて旧国に入れず、高句麗に寄って治め、そこで死んだ。
武后はまたその孫の敬に王位を襲がせたが、その地はすでに新羅・渤海・靺鞨に分けられていて、国の系統はついに絶えた。
24史論 — 百済が亡んだのも当然である
論曰:《新羅古事》云:「天降金樻,故姓金氏。」其言可怪而不可信,臣修史,以其傳之舊,不得刪落其辭。然而又聞:「新羅人,自以小昊金天氏之後,故姓金氏,高句麗亦以高辛氏之後,姓高氏。」見《晋書》載記。《古史》曰:「百濟與高句麗,同出扶餘。」又云:「秦、漢亂離之時,中國人多竄海東。」則三國祖先,豈其古聖人之苗裔耶?何其享國之長也?至於百濟之季,所行多非道,又世仇新羅,與高句麗連和,以侵軼之,因利乘便,割取新羅重城、巨鎭,不已,非所謂親仁善鄰,國之寶也。於是,唐天子再下詔,平其怨,陽從而陰違之,以獲罪於大國,其亡也亦宜矣。
論じて言う。
『新羅古事』に「天が金の櫃を降したので、姓を金氏とした」とある。その言は怪しくて信じがたいが、臣が史を修めるにあたり、それが古くから伝わったものであるから、その辞を削り落とすことができなかった。
しかしまた聞くところでは、「新羅の人は自ら小昊金天氏の後だとして姓を金氏とし、高句麗もまた高辛氏の後だとして姓を高氏とした」というが、『晋書』の載記に見える。
『古史』に「百済は高句麗とともに扶餘から出た」とあり、また「秦と漢が乱れ離れたとき、中国の人が多く海の東に逃げ隠れた」とある。それならば三国の祖先は、どうしてあの古の聖人の裔でないことがあろうか。その国を享けたことが、どうしてあれほど長かったのか。
百済の末年に至っては、行うところが道に外れたことが多かった。また代々新羅を仇とし、高句麗と連なり和して侵し踏みにじり、利に因り便に乗じて新羅の重い城と大きな鎮を割き取ることをやめなかった。いわゆる仁に親しみ隣と善くするのが国の宝である、ということではない。
そこで唐の天子が二度詔を下してその怨みを和らげたが、表では従い裏では背いて、大国に罪を得たのであるから、その亡んだのもまた当然である。
夾注 1
見新羅國子博士薛因宣撰金庾信碑,及朴居勿撰姚克一書三郞寺碑文。
新羅の国子博士の薛因宣が撰した「金庾信碑」と、朴居勿が撰し姚克一が書いた「三郞寺碑文」に見える。
25三国史記 巻第二十八
三國史記卷第二十八
三国史記 巻第二十八。