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楽樂

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 10 · 漢字 2,158字 · 朗読 8.6分

三国史記(三国時代の正史) 雑志 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1新羅の楽

新羅樂,三竹三絃拍板大鼓,歌舞,舞二人,放角幞頭紫大袖,公襴紅鞓鍍金銙腰帶烏皮靴,三絃,一玄琴,二加耶琴,三琵琶,三竹,一大笒,二中笒,三小笒

新羅の楽は、三竹・三絃・拍板・大鼓・歌・舞である。舞は二人で、放角幞頭をかぶり、紫の大袖の衣と公襴、赤い革の鞓に鍍金の銙をつけた腰帯を締め、烏皮の靴をはく。

三絃は、第一が玄琴、第二が加耶琴、第三が琵琶であり、三竹は、第一が大笒、第二が中笒、第三が小笒である。

2玄琴

玄琴象中國樂部琴而爲之,按琴操曰,伏犧作琴以修身理性,反其天眞也,又曰,琴長三尺六寸六分,象三百六十六日,廣六寸,象六合,文上曰池(池者水也,言其平),下曰濱(濱者服也),前廣後狹,象尊卑也,上圓下方,法天地也,五絃象五行,大絃爲君,小絃爲臣,文王武王加二絃,又風俗通曰,琴長四尺五寸者,法四時五行,七絃法七星,玄琴之作也,新羅古記云,初晉人以七絃琴,送高句麗,麗人雖知其爲樂器而不知其聲音反鼓之之法,購國人能識其音而鼓之者,厚賞,時,第二相王山岳存其本樣,頗改易其法制而造之,兼製一百餘曲以奏之,於時玄鶴來舞,遂名玄鶴琴,後但云玄琴,羅人沙湌?永子玉寶高,入地理山雲上院,學琴五十年,自製新調三十曲,傳之續命得,得傳之貴金先生,先生亦入地理山,不出,羅王恐琴道斷絶,謂伊湌允興,方便傳得其音,遂委南原公事,允興到官,簡聰明少年二人,曰安長淸長,使詣山中傳學,先生敎之而其隱微不以傳,允興與婦偕進曰,吾王遣我南原者,無他,欲傳先生之技,于今三年矣,先生有所秘而不傳,吾無以復命,允興捧酒,其婦執盞膝行,致禮盡誠,然後傳其所秘飄風等三曲,安長傳其子克相克宗,克宗制七曲,克宗之後,以琴自業者非一二,所製音曲有二調,一平調,二羽調,共一百八十七曲,其餘聲遺曲,流傳可記者無幾,餘悉散逸,不得具載

玄琴は中国の楽部の琴にかたどって作ったものである。

『琴操』を見ると、「伏犧が琴を作って身を修め性を理め、その天真に返らせた」とある。また「琴の長さ三尺六寸六分は三百六十六日にかたどり、幅六寸は六合にかたどる。文の上を池といい——池とは水で、その平らなことをいう——下を濱という——濱とは服することである。前は広く後は狭いのは尊卑にかたどり、上は円く下は方いのは天地に法る。五本の絃は五行にかたどり、大絃は君となり、小絃は臣となる。文王と武王が二絃を加えた」とある。

また『風俗通』に「琴の長さが四尺五寸なのは四時と五行に法り、七本の絃は七星に法る」とある。

玄琴を作った次第は、『新羅古記』に次のようにある。はじめ晉の人が七絃の琴を高句麗に送った。高句麗の人はそれが楽器であることは知ったが、その音と弾き方を知らず、国の人でその音を知って弾ける者を求めて厚く賞することとした。

そのとき第二相の王山岳が、その元の形は残しながら、その法と制をかなり改めて作り、あわせて百余曲を作って奏した。そのとき黒い鶴が来て舞ったので、ついに玄鶴琴と名づけたが、後にはただ玄琴といった。

新羅の人、沙湌(一字欠)永の子の玉寶高が地理山の雲上院に入って五十年琴を学び、自ら新しい調べ三十曲を作って續命得に伝え、得はこれを貴金先生に伝えた。先生もまた地理山に入って出てこなかったので、新羅王は琴の道が絶えることを恐れ、伊湌の允興に言って、便宜を図ってその音を伝え受けさせ、ついに南原の公事を委ねた。

允興は任地に着くと、聡明な少年二人を選んだ。安長と淸長である。山中に行かせて伝え学ばせたが、先生は教えながらも、その隠れて微妙なところは伝えなかった。允興は妻とともに進んで言った。「わが王がわたしを南原に遣わされたのは他でもなく、先生の技を伝え受けたいためですが、今に三年になっても、先生は秘して伝えないところがあり、わたしは命に報いるすべがありません。」允興が酒を捧げ、その妻が盞を執って膝で進み、礼を尽くし誠を尽くした後に、その秘していた飄風など三曲を伝えた。

安長はその子の克相と克宗に伝え、克宗は七曲を作った。克宗の後、琴を自らの業とする者は一人二人ではなかった。

作られた音曲には二つの調べがあり、第一は平調、第二は羽調で、合わせて百八十七曲である。その他の声や残りの曲で、伝わって記すに足るものはいくらもなく、残りはみな散り失われて、具さに載せることができない。

3玉寶高が作った三十曲

玉寶高所製三十曲,上院曲一,中院曲一,下院曲一,南海曲二,倚嵒曲一,老人曲七,竹庵曲二,玄合曲一,春朝曲一,秋夕曲一,五沙息曲一,鴛鴦曲一,遠岵曲六,比目曲一,入實相曲一,幽谷淸聲曲一,降天聲曲一,克宗所製七曲,今亡

玉寶高が作った三十曲は次のとおりである。上院曲一、中院曲一、下院曲一、南海曲二、倚嵒曲一、老人曲七、竹庵曲二、玄合曲一、春朝曲一、秋夕曲一、五沙息曲一、鴛鴦曲一、遠岵曲六、比目曲一、入實相曲一、幽谷淸聲曲一、降天聲曲一である。

克宗が作った七曲は、いまは亡んでいる。

4加耶琴

加耶琴,亦法中國樂部箏而爲之風俗通曰,箏,秦聲也釋名曰,箏施絃高,箏箏然,幷梁二州,箏形如瑟,傅玄曰,上圓象天,下平象地,中空准六合,絃柱擬十二月,斯乃仁智之器,阮瑀曰,箏長六尺,以應律數,絃有十二,象四時,柱高三寸,象三才,加耶琴,雖與箏制度小異,而大槩似之,羅古記云,加耶國嘉實王見唐之樂器而造之,王以謂諸國方言各異聲音,豈可一哉,乃命樂師省熱縣人于勒造十二曲,後于勒以其國將亂,携樂器投新羅眞興王,王受之,安置國原,乃遣大奈麻注知階古大舍萬德傳其業,三人旣傳十一曲,相謂曰,此繁且淫,不可以爲雅正,遂約爲五曲,于勒始聞焉而怒,及聽其五種之音,流淚歎曰,樂而不流,哀而不悲,可謂正也,爾其奏之王前,王聞之大悅,諫臣獻議,加耶亡國之音,不足取也,王曰,加耶王淫亂自滅,樂何罪乎,蓋聖人制樂,緣人情以爲撙節,國之理亂不由音調,遂行之,以爲大樂,加耶琴有二調,一河臨調,二嫩竹調,共一百八十五曲

加耶琴もまた中国の楽部の箏に法って作ったものである。

『風俗通』に「箏は秦の声である」とある。『釋名』に「箏は絃を高く張り、箏箏と鳴る。幷州と梁州の二州の箏は、形が瑟のようである」とある。傅玄は「上が円いのは天にかたどり、下が平らなのは地にかたどる。中が空なのは六合に准え、絃の柱は十二月に擬える。これはすなわち仁と智の器である」といった。阮瑀は「箏は長さ六尺で、律の数に応じる。絃は十二あって四時にかたどり、柱の高さ三寸は三才にかたどる」といった。

加耶琴は箏と制度が少し異なるが、おおむね似ている。

『新羅古記』に次のようにある。加耶国の嘉實王が唐の楽器を見て作った。王は「諸国の方言はそれぞれ異なるのに、声音がどうして一つであってよいだろうか」といい、そこで楽師で省熱県の人の于勒に命じて十二曲を作らせた。

後に于勒は、その国がまさに乱れようとしているというので、楽器を携えて新羅の真興王に投じた。王はこれを受け入れて国原に置き、そこで大奈麻の注知と階古、大舍の萬德を遣わしてその業を伝え受けさせた。

三人は十一曲を伝え受けると、互いに言った。「これは繁雑でまた淫らであり、雅正とすることはできない。」そしてついに約めて五曲とした。

于勒は初め聞いて怒ったが、その五種の音を聴き終えると、涙を流して嘆じた。「楽しくて流れず、哀しくて悲しまない。正しいといえる。お前たちはそれを王の前で奏しなさい。」

王は聞いて大いに喜んだ。諫める臣が意見を献じた。「加耶で国を亡ぼした音ですから、取るに足りません。」

王が言った。「加耶の王が淫乱で自ら滅びたのであって、楽に何の罪があろうか。おおよそ聖人が楽を制したのは、人の情に縁って節度を持たせたのであるから、国の治まりと乱れは音調によるのではない。」そしてついにこれを行って、大楽とした。

加耶琴には二つの調べがあり、第一は河臨調、第二は嫩竹調で、合わせて百八十五曲である。

5于勒が作った十二曲

于勒所製十二曲,一曰下加羅都,二曰上加羅都,三曰寶伎,四曰達己,五曰思勿,六曰勿慧,七曰下奇物,八曰師子伎,九曰居烈,十曰沙八兮,十一曰爾赦,十二曰上奇物,泥文所製三曲,一曰烏,二曰鼠,三曰鶉(赦字未詳)

于勒が作った十二曲は、第一が下加羅都、第二が上加羅都、第三が寶伎、第四が達己、第五が思勿、第六が勿慧、第七が下奇物、第八が師子伎、第九が居烈、第十が沙八兮、第十一が爾赦、第十二が上奇物である。

泥文が作った三曲は、第一が烏、第二が鼠、第三が鶉である。(赦の字はつまびらかでない。)

6琵琶

琵琶風俗通曰,近代樂家所作,不知所起,長三尺五寸,法天地人與五行,四絃象四時也釋名曰,琵琶,本胡中馬上所鼓,推手前曰琵,引手却曰琶,因以爲名,鄕琵琶,與唐制度大同而少異,亦始於新羅,但不知何人所造,其音有三調,一宮調,二七賢調,三鳳皇調,共二百一十二曲

『風俗通』に「琵琶は近代の楽家が作ったもので、どこから起こったか分からない。長さ三尺五寸は天と地と人と五行に法り、四本の絃は四時にかたどる」とある。『釋名』に「琵琶はもともと胡の中で馬上で弾いたものである。手を押して前にするのを琵といい、手を引いて却けるのを琶というので、これによって名とした」とある。

鄕琵琶は唐の制度とおおむね同じで少し異なり、これもまた新羅に始まった。ただ、どの人が作ったのかは分からない。その音には三つの調べがあり、第一は宮調、第二は七賢調、第三は鳳皇調で、合わせて二百十二曲である。

7三竹

三竹,亦模倣唐笛而爲之者也風俗通曰,笛,漢武帝時丘仲所作也,又按,宋玉有笛賦,玉在漢前,恐此說非也,馬融云,近代雙笛從羌起,又笛,滌也,所以滌邪穢而納之於雅正也,長一尺,四十七孔,鄕三竹,此亦起於新羅,不知何人所作,古記云,神文王時,東海中忽有一小山,形如龜頭,其上有一竿竹,晝分爲二,夜合爲一,王使斫之作笛,名萬波息,雖有此說,怪不可信,三竹笛有七調,一平調,二黃鐘調,三二雅調,四越調,五般涉調,六出調,七俊調,大笒三百二十四曲,中笒二百四十五曲,小笒二百九十八曲

三竹もまた唐の笛にならって作ったものである。

『風俗通』に「笛は漢の武帝のとき丘仲が作ったものである」とある。また考えてみると、宋玉に「笛賦」があり、宋玉は漢より前の人であるから、この説は誤りではないかと思う。馬融は「近代の双笛は羌から起こった」といった。また「笛とは滌ぐことであり、邪で穢れたものを滌いで雅正に納めるものである。長さは一尺、孔は四十七ある」とある。

鄕三竹もまた新羅に起こったが、どの人が作ったのかは分からない。『古記』に次のようにある。神文王のとき、東海の中に突然小さな山が一つ現れ、形は亀の頭のようで、その上に竹が一竿あって、昼は分かれて二つになり、夜は合わさって一つになった。王はこれを伐らせて笛を作らせ、萬波息と名づけたという。このような説はあるが、怪しくて信じられない。

三竹の笛には七つの調べがあり、第一は平調、第二は黃鐘調、第三は二雅調、第四は越調、第五は般涉調、第六は出調、第七は俊調である。大笒は三百二十四曲、中笒は二百四十五曲、小笒は二百九十八曲である。

8鄕樂と崔致遠の鄕樂雜詠

會樂及辛熱樂,儒理王時作也,突阿樂,脫解王時作也,枝兒樂,婆娑王時作也,思內(一作詩惱)樂,奈解王時作也,笳舞,奈密王時作也,憂息樂,訥祗王時作也,碓樂,慈悲王時人百結先生作也,竿引,智大路王時人川上郁皆子作也,美知樂,法興王時作也,徒領歌,眞興王時作也,捺絃引,眞平王時人淡水作也,思內奇物樂,原郞徒作也,內知,日上郡樂也,白實,押梁郡樂也,德思內,河西郡樂也,石南思內道,同伐郡樂也,祀中,北隈郡樂也,此皆鄕人喜樂之所由作也,而聲器之數,歌舞之容,不傳於後世,但古記云,政明王九年,幸新村,設酺奏樂,笳舞,監六人,笳尺二人,舞尺一人,下辛熱舞,監四人,琴尺一人,舞尺二人,歌尺三人,思內舞,監三人,琴尺一人,舞尺二人,歌尺二人,韓岐舞,監三人,琴尺一人,舞尺二人,上辛熱舞,監三人,琴尺一人,舞尺二人,歌尺二人,小京舞,監三人,琴尺一人,舞尺一人,歌尺三人,美知舞,監四人,琴尺一人,舞尺二人,哀莊王八年,奏樂始奏思內琴,舞尺四人靑衣,琴尺一人赤衣,歌尺五人彩衣,繡扇並金鏤帶,次奏碓琴舞,舞尺赤衣,琴尺靑衣,如此而已,則不可言其詳也,羅時樂工皆謂之尺,崔致遠詩有鄕樂雜詠五首,今錄于此,金丸,廻身掉臂弄金丸,月轉星浮滿眼看,縱有宜僚那勝此,定知鯨海息波瀾,月顚,肩高項縮髮崔嵬,攘臂羣儒鬪酒盃,聽得歌聲人盡笑,夜頭旗幟曉頭催,大面,黃金面色是其人,手抱珠鞭役鬼神,疾步徐趍呈雅舞,宛如丹鳳舞堯春,束毒,蓮頭藍面異人間,押隊來庭學舞鸞,打鼓冬冬風瑟瑟,南奔北躍也無端,狻猊,遠涉流沙萬里來,毛衣破盡着塵埃,搖頭掉尾馴仁德,雄氣寧同百獸才

會樂と辛熱樂は儒理王のときに作られ、突阿樂は脫解王のときに作られ、枝兒樂は婆娑王のときに作られ、思內樂(詩惱樂とも書く)は奈解王のときに作られ、笳舞は奈密王のときに作られ、憂息樂は訥祗王のときに作られ、碓樂は慈悲王のときの人、百結先生が作り、竿引は智大路王のときの人、川上の郁皆子が作り、美知樂は法興王のときに作られ、徒領歌は真興王のときに作られ、捺絃引は真平王のときの人、淡水が作り、思內奇物樂は原郞徒が作ったものである。

內知は日上郡の楽、白實は押梁郡の楽、德思內は河西郡の楽、石南思內道は同伐郡の楽、祀中は北隈郡の楽である。これらはみな、里の人が喜び楽しむところから作られたものである。しかし声と器の数、歌と舞の姿は、後の世に伝わっていない。

ただ『古記』に次のようにある。政明王九年、新しい村に行幸して酺を設け、楽を奏した。笳舞は監が六人、笳尺が二人、舞尺が一人であった。下辛熱舞は監が四人、琴尺が一人、舞尺が二人、歌尺が三人であった。思內舞は監が三人、琴尺が一人、舞尺が二人、歌尺が二人であった。韓岐舞は監が三人、琴尺が一人、舞尺が二人であった。上辛熱舞は監が三人、琴尺が一人、舞尺が二人、歌尺が二人であった。小京舞は監が三人、琴尺が一人、舞尺が一人、歌尺が三人であった。美知舞は監が四人、琴尺が一人、舞尺が二人であった。

哀莊王八年、楽を奏するとき、はじめて思內琴を奏した。舞尺四人は靑い衣、琴尺一人は赤い衣、歌尺五人は彩りの衣に繡の扇を持ち、あわせて金の鏤の帯を締めた。次に碓琴舞を奏したが、舞尺は赤い衣、琴尺は靑い衣であった。これだけであるから、その詳しいことは言えない。

新羅のときは楽工をみな尺といった。

崔致遠の詩に「鄕樂雜詠」五首があるので、いまここに記す。

金丸 「身を回し腕を振って金の丸を弄べば 月が転び星が浮かぶように目いっぱいに見える。 たとえ宜僚がいても、どうしてこれに勝ろうか 鯨の住む海も波瀾が静まると知れる。」

月顚 「肩は高く首は縮み髪は高く立ち 腕をまくった儒者の群れが酒杯を争う。 歌声を聞いて人はみな笑い 宵の旗が暁を催す。」

大面 「黄金の面の色こそがその人で 手に珠の鞭を抱えて鬼神を使う。 疾い歩み緩やかな歩みで雅な舞を呈し さながら丹鳳が堯の春に舞うようだ。」

束毒 「蓮のような頭、藍の顔は人の世と異なり 隊を率いて庭に来て鸞の舞を学ぶ。 鼓を打つ音はとんとん、風はしゅうしゅうと 南に走り北に跳んで果てがない。」

狻猊 「遠く流沙を渉って万里を来たり 毛の衣は破れ尽きて塵埃をかぶる。 頭を揺らし尾を振って仁德に馴れる 雄々しい気が、どうして百獣の才と同じであろうか。」

夾注 1

政明王

政明王は神文王である。― 訳者

9高句麗の楽

高句麗樂通典云,樂工人紫羅帽,飾以鳥羽,黃大袖,紫羅帶,大口袴,赤皮鞾,五色緇繩,舞者四人,椎髻於後,以絳抹額,飾以金璫,二人黃裙襦,赤黃袴,二人赤黃裙襦袴,極長其袖,烏皮鞾,雙雙倂立而舞,樂用彈箏一,掬箏一,臥箜篌一,竪箜篌一,琵琶一,五絃一,義觜笛一,笙一,橫笛一,簫一,小篳篥一,大篳篥一,桃皮篳篥一,腰鼓一,齋鼓一,檐鼓一,唄一,大唐武太后時,尙二十五曲,今唯能習一曲,衣服亦寖衰敗,失其本風冊府元龜云,樂有五絃琴箏篳篥橫吹簫鼓之屬,吹蘆以和曲

高句麗の楽について『通典』に次のようにある。楽工の人は紫の羅の帽をかぶり、鳥の羽で飾り、黄の大袖の衣、紫の羅の帯、口の大きな袴、赤い革の鞾、五色の緇の縄を用いる。

舞う者は四人で、後ろに髻を結い、絳で額を抹き、金の璫で飾る。二人は黄の裙と襦、赤黄の袴をつけ、二人は赤黄の裙・襦・袴をつけて、その袖をきわめて長くし、烏皮の鞾をはいて、二人ずつ並び立って舞う。

楽には彈箏一、掬箏一、臥箜篌一、竪箜篌一、琵琶一、五絃一、義觜笛一、笙一、橫笛一、簫一、小篳篥一、大篳篥一、桃皮篳篥一、腰鼓一、齋鼓一、檐鼓一、唄一を用いる。

大唐の武太后のときはなお二十五曲あったが、いまはただ一曲だけを習うことができ、衣服もまた次第に衰え崩れて、その本来の風を失った。

『冊府元亀』に、楽には五絃琴・箏・篳篥・橫吹・簫・鼓の類があり、蘆を吹いて曲に和する、とある。

10百済の楽

百濟樂通典云,百濟樂,中宗之代工人死散,開元中岐王範爲太常卿,復奏置之,是以音伎多闕,舞者二人,紫大袖裙襦,章甫冠,皮履,樂之存者,箏笛桃皮篳篥箜篌,樂器之屬,多同於內地北史云,有鼓角箜篌箏竽箎笛之樂

百済の楽について『通典』に次のようにある。百済の楽は、中宗の代に楽工が死んで散ったが、開元のころ岐王の範が太常卿となって、改めて奏して置かせた。そのため音と伎の欠けたものが多い。

舞う者は二人で、紫の大袖の裙と襦をつけ、章甫の冠をかぶり、革の履をはく。楽で残っているものは箏・笛・桃皮篳篥・箜篌であり、楽器の類は中国の内地と同じものが多い。

『北史』に、鼓・角・箜篌・箏・竽・箎・笛の楽がある、とある。