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張保皐・鄭年張保皐,鄭年

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 3 · 漢字 757字 · 朗読 3.0分

三国史記(三国時代の正史) 列傳 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1張保皐と鄭年

張保皐、鄭年,皆新羅人,但不知鄕邑父祖。皆善鬪戰,年復能沒海底,行五十里不噎,角其勇壯,保皐差不及也,年以兄呼保皐。保皐以齒,年以藝,常齟齬不相下。二人如唐,為武寧軍小將,騎而用槍,無能敵者。後,保皐還國,謁大王曰:「遍中國,以吾人為奴婢,願得鎭淸海,使賊不得掠人西去。」淸海,新羅海路之要,今謂之莞島。大王與保皐萬人,此後,海上無鬻鄕人者。保皐旣貴,年去職饑寒,在泗之漣水縣。一日,言於戍將馮元規曰:「我欲東歸,乞食於張保皐。」元規曰:「若與保皐所負如何,奈何去取死其手?」年曰:「饑寒死,不如兵死快,況死故鄕耶。」遂去謁保皐,飲之極歡。飲未卒,聞王弑國亂無主,保皐分兵五千人與年,持年手泣曰:「非子不能平禍難。」年入國,誅叛者立王,王召保皐為相,以年代守淸海。

張保皐と鄭年はいずれも新羅の人であるが、ただその郷里と父祖はわからない。ともに戦いに長じていたが、年はさらに海の底に潜って五十里を行っても息が詰まらなかった。その勇ましさ猛々しさを比べると、保皐は少し及ばなかった。年は保皐を兄と呼んだ。保皐は年齢で、年は技で、常に食い違って互いに下に立たなかった。

二人は唐に行って武寧軍の小将となり、馬に乗って槍を用いると、敵しうる者がなかった。

後に保皐は国に帰り、大王に謁して申し上げた。「中国を遍く巡りましたが、我が国の人を奴婢としております。願わくは清海を鎮めさせていただき、賊が人を掠めて西へ去ることのないようにさせてください。」清海は新羅の海路の要であり、いまこれを莞島という。

大王が保皐に万人を与えたので、この後は海上で郷里の人を売る者がなくなった。

保皐がすでに貴くなったころ、年は職を去って飢え凍え、泗の漣水県にいた。ある日、戍将の馮元規に言った。「私は東に帰って張保皐に食を乞おうと思う。」

元規が言った。「おまえと保皐とは背いた間柄ではないか。どうして行ってその手に死を取ろうとするのか。」

年が言った。「飢え凍えて死ぬのは、刃にかかって死ぬ快さに及ばない。まして故郷で死ぬのであればなおさらだ。」

そしてついに行って保皐に会うと、酒を飲ませてこのうえなく喜んだ。飲み終わらぬうちに、王が弑され国が乱れて主がないと聞いた。保皐は兵五千人を分けて年に与え、年の手を取って泣いて言った。「おまえでなければ禍と難を平らげることはできない。」

年は国に入り、叛いた者を誅して王を立てた。王は保皐を召して相とし、年に代わって清海を守らせた。

夾注 3

《羅紀》作弓福。

「新羅本紀」では弓福となっている。

年,或作連。

年は連とも書く。

此與新羅傳記頗異,以杜牧立傳,故兩存之。

これは新羅の伝記とかなり異なるが、杜牧が伝を立てたので、両方を残しておく。

2史論 — 郭汾陽と李臨淮

論曰:杜牧言:「天寶安祿山亂,朔方節度使安思順,以祿山從弟賜死,詔郭汾陽代之。後旬日,復詔李臨淮,持節分朔方半兵,東出趙、魏。當思順時,汾陽、臨淮俱為牙門都將,二人不相能,雖同盤飲食,常睇相視,不交一言。及汾陽代思順,臨淮欲亡去,計未決,詔臨淮,分汾陽半兵東討。臨淮入請曰:『一死固甘,乞免妻子。』汾陽趍下,持手上堂,偶坐曰:『今國亂主遷,非公不能東伐,豈懷私忿時耶。』及別,執手泣涕,相勉以忠義,訖平巨盜,實二公之力。知其心不叛,知其材可任,然後,心不疑,兵可分。平生積憤,知其心,難也。忿必見短,知其材,益難也。此保皐與汾陽之賢等耳。年投保皐,必曰:『彼貴我賤,我降下之,不宜以舊忿殺我。』保皐果不殺,人之常情也;臨淮請死於汾陽,亦人之常情也。

論じていう。

杜牧が言った。「天宝に安禄山の乱が起こったとき、朔方節度使の安思順は禄山の従弟であるとして死を賜り、詔して郭汾陽がこれに代わった。十日の後、また詔して李臨淮に節を持たせ、朔方の兵の半ばを分けて東へ趙・魏に出させた。

思順の時、汾陽と臨淮はともに牙門都将であったが、二人は互いに相容れず、同じ盤で飲み食いしても常に睨み合い、一言も交わさなかった。汾陽が思順に代わると、臨淮は逃げ去ろうとして計を決しかねていたが、詔して臨淮に汾陽の兵の半ばを分けて東を討てとあった。

臨淮は入って請うた。『一度の死はまことに甘んじて受けます。どうか妻子だけはお免しください。』汾陽は走り下りて手を取り、堂に上がって向かい合って座り、言った。『いま国は乱れ主は遷られた。公でなければ東を伐つことはできない。どうして私の憤りを懐く時であろうか。』別れるときには手を取って涙を流し、互いに忠義をもって励まし合った。ついに巨大な盗を平らげたのは、実にこの二公の力である。

その心が叛かないと知り、その材が任じうると知って、はじめて心に疑わず、兵を分けることができる。平生積もった憤りのなかでその心を知るのは難しい。憤れば必ず短所が目につくから、その材を知るのはいっそう難しい。これが保皐と汾陽の賢さが等しいゆえんである。

年が保皐に身を投げたのは、必ず『彼は貴く我は賤しい。我が身を低くすれば、昔の憤りで我を殺しはすまい』と思ったのであり、保皐が果たして殺さなかったのも人の常の情である。臨淮が汾陽に死を請うたのも、また人の常の情である。

3史論 — 賢者が一人あれば足りる

保皐任年事,出於己。年且饑寒,易為感動。汾陽、臨淮平生抗立,臨淮之命,出於天子,攉於保皐,汾陽為優,此乃聖賢遲疑成敗之際也。彼無他也,仁義之心,與雜情並植,雜情勝則仁義滅,仁義勝則雜情消。彼二人,仁義之心旣勝,復資之以明,故卒成功。世稱周、召為百代之師,周公擁孺子,而召公疑之。以周公之聖、召公之賢,少事文王,老佐武王,能平天下,周公之心,召公且不知之。苟有仁義之心,不資以明,雖召公尚爾,況其下哉。《語》曰:『國有一人,其國不亡。』夫亡國,非無人也,丁其亡時,賢人不用。苟能用之,一人足矣。」宋祁曰:「嗟乎,不以怨毒相惎,而先國家之憂,晋有祁奚,唐有汾陽,保皐,孰謂夷無人哉。」

保皐が年に事を任せたのは自分から出たことであり、年はまた飢え凍えていて感動させやすかった。汾陽と臨淮は平生抗し合っており、臨淮の命は天子から出たものであるから、保皐に比べれば汾陽のほうが優っている。これこそ聖賢が成敗の際に躊躇するところである。

あれは他でもない、仁義の心が雑な情とともに植わっていて、雑な情が勝てば仁義が滅び、仁義が勝てば雑な情が消えるのである。かの二人は仁義の心がすでに勝ち、さらに明をもって助けたので、ついに功を成した。

世は周公と召公を百代の師と称するが、周公が幼い君を抱いたとき、召公はこれを疑った。周公の聖と召公の賢をもってしても、若くして文王に仕え、老いて武王を佐けて天下を平らげることができたのに、周公の心を召公すら知らなかった。まことに仁義の心があっても明をもって助けなければ、召公でさえそうなのだから、まして其の下の者はなおさらである。

『論語』に『国に一人があれば、その国は亡びない』とある。そもそも国が亡びるのは人がいないからではなく、その亡びる時に当たって賢人を用いないからである。まことに用いることができれば、一人で足りるのである。」

宋祁が言った。「ああ、怨みと毒で互いを害さず、国家の憂いを先にした。晋に祁奚があり、唐に汾陽があり、新羅に保皐がある。誰が夷に人がいないといえようか。」