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薛罽頭

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 1 · 漢字 203字 · 朗読 0.8分

三国史記(三国時代の正史) 列傳 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1薛罽頭が唐で死ぬ

薛罽頭,亦新羅衣冠子孫也。嘗與親友四人,同會燕飲,各言其志。罽頭曰:「新羅用人論骨品,苟非其族,雖有鴻才傑功,不能踰越。我願西遊中華國,奮不世之略,立非常之功,自致榮路,備簪紳劒佩,出入天子之側,足矣。」武德四年辛巳,潛隨海舶入唐。會太宗文皇帝親征高句麗,自薦為左武衛果毅。至遼東,與麗人戰駐蹕山下,深入疾鬪而死,功一等。皇帝問:「是何許人?」左右奏新羅人薛罽頭也。皇帝泫然曰:「吾人尚畏死,顧望不前,而外國人,為吾死事,何以報其功乎?」問從者聞其平生之願,脫御衣覆之,授職為大將軍,以禮葬之。

薛罽頭もまた新羅の衣冠を備えた家の子孫である。かつて親しい友四人と集まって宴をして飲むとき、それぞれがその志を語った。

罽頭は言った。「新羅は人を用いるときに骨品を論じ、まことにその族でなければ、大きな才や優れた功があっても越えることができない。私は西の中華の国に遊びに行き、世にまれな計略を振るい、並でない功を立て、自ら栄えある道に至って、簪と帯と剣と佩玉を備えて天子のかたわらに出入りできれば、それで十分だ。」

武徳四年辛巳、密かに海の船に従って唐に入った。

ちょうど太宗文皇帝が自ら高句麗を討ったので、自ら推挙して左武衛果毅となった。遼東に至って高句麗の人と駐蹕山の下で戦ったとき、深く入って激しく戦って死に、功は一等であった。

皇帝が問うた。「これはどういう人か。」側近は新羅の人の薛罽頭ですと申し上げた。

皇帝は涙を流して言った。「我が国の人でさえ死を恐れて、顧み見て前に出ないのに、外国の人が我らのために事に死んだ。何をもってその功に報いようか。」

従う者に問うてその平生の願いを聞き、御衣を脱いで覆ってやり、大将軍の職を授けて礼をもって葬った。

夾注 1

一本作薩。

薛は、ある本には薩とある。