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金令胤

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 2 · 漢字 415字 · 朗読 1.7分

三国史記(三国時代の正史) 列傳 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1盤屈が死に、令胤が立つ

金令胤,沙梁人,級飡盤屈之子。相祖欽春角干,眞平王時為花郞,仁深信厚,能得衆心。及壯,文武大王陟為冢宰,事上以忠,臨民以恕,國人翕然稱為賢相。大宗大王太宗大王七年庚申,唐高宗命大將軍蘇定方,伐百濟,欽春受王命,與將軍庾信等,率精兵五萬以應之。秋七月,至黃山之原,値百濟將軍階伯戰,不利。欽春召子盤屈曰:「為臣莫若忠,為子莫若孝,見危致命,忠孝兩全。」盤屈曰:「唯。」乃入賊陣,力戰死。令胤生長世家,以名節自許。神文大王時,高句麗殘賊悉伏,以報德城叛。王命討之,以令胤為黃衿誓幢步騎監。將行,謂人曰:「吾此行也,不使宗族朋友,聞其惡聲。」及見悉伏,出椵岑城南七里,結陣以待之。或告曰:「今此凶黨,譬如鷰巢幕上,魚戱鼎中。

金令胤は沙梁の人で、級飡の盤屈の子である。

祖父の角干の欽春は、真平王のとき花郎となり、仁が深く信が厚くて、多くの人の心を得た。成人すると、文武大王が引き上げて冢宰としたので、上に仕えるには忠をもってし、民に臨むには寛さをもってし、国の人はそろって賢い宰相と称えた。

太宗大王七年庚申、唐の高宗が大将軍の蘇定方に命じて百済を討たせたので、欽春は王命を受け、将軍の庾信らとともに精鋭の兵五万を率いてこれに応じた。

秋七月、黄山の原に至って百済の将軍の階伯に出会って戦ったが、うまくいかなかった。欽春は子の盤屈を呼んで言った。「臣となる者には忠に及ぶものがなく、子となる者には孝に及ぶものがない。危ういのを見て命を捧げれば、忠と孝が二つとも全うされる。」

盤屈は「はい」と言った。そして敵の陣に入り、力の限り戦って死んだ。

令胤は代々続く家に生まれ育ち、名と節をもって自ら期した。

神文大王のとき、高句麗の残った賊の悉伏が報徳城で叛いたので、王は命じてこれを討たせ、令胤を黄衿誓幢の歩騎監とした。

出発するとき、人に言った。「私のこの行きでは、一族や友に悪い評判を聞かせはしない。」

悉伏が椵岑城の南七里に出て陣を結んで待っているのを見ると、ある者が告げた。「今この凶悪な党は、たとえば燕が幕の上に巣をかけ、魚が鼎の中で戯れるようなものです。

夾注 1

或云欽純。

欽春は、欽純ともいう。

2令胤が一人で進んで死ぬ

出萬死以爭一日之命耳。語曰:『窮寇勿迫。』宜左次以待疲極而擊之,可不血刃而擒也。」諸將然其言,暫退,獨令胤不肯之而欲戰。從者告曰:「今諸將豈盡偸生之人,惜死之輩哉?而以向者之言為然者,將俟其隙而得其便者也。而子獨直前,其不可乎!」令胤曰:「臨陣無勇,禮經之所識誡,有進無退,士卒之常分也。丈夫臨事自決,何必從衆?」遂赴敵陣,格鬪而死。王聞之,悽慟流涕曰:「無是父,無是子,其義烈可嘉者也。」追贈爵賞尤厚。

万死を出して一日の命を争うだけです。昔の言葉に『窮まった敵を迫るな』といいます。左に退いて、疲れきるのを待って撃てば、刃に血をつけずに捕らえられます。」

諸将はその言葉をもっともだと思ってしばらく退いたが、ただ令胤だけはこれに従わず、戦おうとした。

従う者が告げた。「今、諸将がどうしてみな、いたずらに生きようとする人、死を惜しむ輩でしょうか。さきの言葉をもっともだとしたのは、その隙を待ってその都合のよいところを得ようとするのです。それなのにあなた一人がまっすぐ前に出るのは、よくないでしょう。」

令胤は言った。「陣に臨んで勇がないのは『礼記』が戒めたところであり、進むことがあって退くことがないのは兵士の当然の分である。男子は事に臨んで自ら決めるものだ。どうして必ず多くの者に従おうか。」

ついに敵の陣に赴き、組み合って戦って死んだ。

王はこれを聞いて痛ましく涙を流して言った。「あの父でなければ、あの子はない。その義烈は褒めるに足る。」爵と賞を追贈することがいよいよ厚かった。