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孝女知恩

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 1 · 漢字 287字 · 朗読 1.1分

三国史記(三国時代の正史) 列伝 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1孝女知恩

孝女知恩,韓歧部百姓連權女子也。性至孝,少喪父,獨養其母。年三十二,猶不從人,定省不離左右,而無以為養,或傭作或行乞,得食以飼之。日久不勝困憊,就富家請賣身為婢,得米十餘石。窮日行役於其家,暮則作食歸養之。如是三四日,其母謂女子曰:「向,食麤而甘,今則食雖好,味不如昔,而肝心若以刀刃刺之者,是何意耶?」女子以實告之。母曰:「以我故使爾為婢,不如死之速也。」乃放聲大哭,女子亦哭,哀感行路。時孝宗郞出遊,見之,歸請父母,輸家粟百石及衣物予之,又償買主以從良。郞徒幾千人,各出粟一石為贈。大王聞之,亦賜租五百石,家一區,復除征役。以粟多恐有剽竊者,命所司差兵番守。標榜其里曰孝養坊,仍奉表,歸美於唐室。孝宗,時第三宰相舒發翰仁慶子,少名化達,王謂雖當幼齒,便見老成,卽以其兄憲康王之女,妻之。

孝女の知恩は、韓歧部の民の連権の娘である。性質がきわめて孝で、幼くして父を亡くし、一人でその母を養った。年三十二になってもまだ人に嫁がず、朝夕に機嫌を伺って傍を離れなかった。

養うものがなく、あるときは雇われて働き、あるときは歩いて乞い、食べ物を得て食べさせた。日が久しくなって疲れ果てるのに耐えられず、富んだ家に行って身を売って婢になることを願い、米十余石を得た。一日じゅうその家で働き、暮れると飯を作って帰って養った。

このように三、四日すると、その母が娘に言った。「この前までは飯が粗くても甘かったのに、今は飯が良くても味が昔のようでなく、肝と心を刃で刺されるようだ。これはどういうことか。」

娘はありのままに告げた。母は言った。「私のためにお前を婢にさせたのだから、早く死ぬほうがましだ。」そして声を上げて大いに泣いたので、娘もまた泣き、その哀しみは道行く人を感じ入らせた。

そのとき孝宗郎が出て遊んでいてこれを見、帰って父母に請い、家の粟百石と衣服や品物を運んで与えた。また買った主に代金を償って良民に戻した。郎の徒の数千人が、それぞれ粟一石を出して贈った。

大王はこれを聞いて、やはり租五百石と家一区を賜り、賦役を免じた。粟が多いので盗む者があるのを恐れ、役所に命じて兵を選んで番を立てさせ、その里を標して孝養坊といった。続いて表を奉じて、唐の朝廷にその美しさを帰した。

孝宗は、当時の第三の宰相の舒発翰の仁慶の子で、幼い名は化達である。王は、幼い歳でありながらすでに老成が見えるといって、すぐにその兄の憲康王の娘を妻として与えた。