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淵蓋蘇文

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 6 · 漢字 1,173字 · 朗読 4.7分

三国史記(三国時代の正史) 列伝 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1蓋蘇文が君を弑する

蓋蘇文,姓淵氏。自云生水中,以惑衆。儀表雄偉,意氣豪逸。其父東部大人大對盧死,蓋蘇文當嗣。而國人以性忍暴,惡之,不得立。蘇文頓首謝衆,請攝職。如有不可,雖廢無悔。衆哀之,遂許。嗣位而凶殘不道,諸大人與王密議欲誅。事洩,蘇文悉集部兵,若將校閱者,并盛陳酒饌於城南,召諸大臣共臨視。賔至,盡殺之,凡百餘人。馳入宮弑王,斷為數叚,棄之溝中。立王弟之子臧為王,自為莫離支。其官如唐兵部尚書兼中書令職也。於是號令逺近,專制國事,甚有威嚴。身佩五刀,左右莫敢仰視。每上下馬,常令貴人、武將伏地而履之。出行必布隊伍,前導者長呼,則人皆奔迸,不避坑谷,國人甚苦之。唐太宗聞蓋蘇文弑君而專國,欲伐之。

蓋蘇文は姓が淵氏である。自ら水の中から生まれたと言って、人々を惑わした。立ち居と姿が雄々しく偉く、意気が豪放であった。

その父の東部大人の大対盧が死んで、蓋蘇文が継ぐべきであった。しかし国の人は、性質が残忍で暴いといって憎んだので、立つことができなかった。蘇文は頭を地につけて人々に謝り、職を代わって預かることを願い、もし不可であれば廃されても悔いはないと言ったので、人々は哀れんでついに許した。

位を継ぐと凶悪で残忍で道がなかったので、諸々の大人が王と密かに議して誅そうとした。事が漏れると、蘇文は部の兵をすべて集めて、今から閲兵するかのように見せ、あわせて城の南に酒と肴を盛大に並べて、諸々の大臣を呼んで共に見させた。客が至るとみな殺し、およそ百余人であった。

宮に駆け入って王を弑し、いくつかに切り分けて溝の中に捨てた。王の弟の子の蔵を立てて王とし、自ら莫離支となった。その官は唐の兵部尚書兼中書令の職のようなものである。

そこで遠近に号令し、国の事を専らにして、たいそう威厳があった。身に刀を五本帯びたので、左右は敢えて仰ぎ見なかった。馬に上り下りするたびに、いつも貴人や武将を地に伏せさせてそれを踏んだ。出かけるときは必ず隊伍を並べ、前で導く者が長く叫ぶと、人はみな走り散って、穴や谷も避けなかったので、国の人はたいそう苦しんだ。

唐の太宗は、蓋蘇文が君を弑して国を専らにしていると聞いて、討とうとした。

夾注 2

或云蓋金。

蓋金ともいう。

或云西部。

父の東部は、西部ともいう。

2玄奬が来て諭す

長孫無忌曰:「蘇文自知罪大,畏大國之討,設其守備。陛下姑為之隱忍,彼得以自安,愈肆其惡,然後取之,未晩也。」帝從之。蘇文告王曰:「聞中國三教並行,而國家道教尚缺,請遣使於唐求之。」王遂表請。唐遣道士叔達等八人,兼賜《道德經》。於是取浮屠寺館之。會新羅入唐,告:「百濟攻取我四十餘城,復與高勾麗連兵,謀絶入朝之路。小國不得已出師,伏乞天兵救援。」於是太宗命司農丞相聖玄奬賚璽書,勑王曰:「新羅委真國家,朝貢不闕。爾與百濟,宜各戢兵。若更攻之,明年發兵討爾國矣。」初,玄奬入境,蘇文已將兵擊新羅,王使召之乃還。玄奬宣勑,蘇文曰:「往者隋人侵我,新羅乘釁,奪我城邑五百里,自此怨隙已久。若非還我侵地,兵不能已。

長孫無忌が言った。「蘇文は自ら罪が大きいと知って、大国の討伐を畏れ、その守りを備えています。陛下がしばらく忍んでおられれば、彼は自ら安んじてその悪をいよいよ勝手にするでしょう。その後に取っても、遅くはありません。」皇帝はその言葉に従った。

蘇文は王に申し上げた。「聞くところでは中国では三つの教えが並んで行われていますが、国には道教がまだ欠けています。どうか使いを唐に遣わして求めてください。」王はついに表で請うた。唐は道士の叔達ら八人を遣わし、あわせて『道徳経』を賜った。そこで寺を取って館とした。

ちょうど新羅が唐に入って申し上げた。「百済が我が四十余城を攻め取り、さらに高句麗と兵を連ねて、朝貢に行く路を絶つことを謀っています。小国はやむなく兵を出しますので、伏して天の兵の救援を乞い願います。」

そこで太宗は司農丞の相里玄奬に命じて、璽書を持って王に勅させた。「新羅はまことに国家に身を委ね、朝貢が欠けることがない。お前と百済は、それぞれ兵をおさめるべきだ。もしまた攻めるなら、来年は兵を出してお前の国を討つ。」

初め、玄奬が境に入ったとき、蘇文はすでに兵を率いて新羅を撃っていたが、王が人を遣わして呼んだので帰ってきた。

玄奬が勅を宣べると、蘇文は言った。「昔、隋の人が我らを侵したとき、新羅は隙に乗じて我が城邑五百里を奪った。これより怨みと隙はすでに久しい。もし我らの侵された地を返さないなら、兵はやめられない。」

夾注 1

司農丞相聖玄奬

底本は「相聖」とあるが、「相里」の誤りと見る。 ― 訳者

3男生の兄弟が分かれる

」玄奬曰:「既徃之事,焉可追論?今遼東本皆中國郡縣,中國尚不言,勾麗豈得必求故地?」蘇文不從,玄奬還具言之。太宗曰:「蓋蘇文弑其君,賊其大臣,殘虐其民。今又違我詔命,不可以不討。」又遣使蔣儼諭旨。蘇文竟不奉詔,乃以兵脅。使者不屈,遂囚之窟室中。於是太宗大舉兵親征之。事具《勾麗本紀》。蘇文至乾封元年死。子男生,字元德。九𡻷,以父任為先人,遷中裏小兄,猶唐謁者也。又為中裏大兄,知國政,凡辭令皆男生主之。進中裏位頭大兄。乆之,為莫離支兼三軍大將軍,加大莫離支,出按諸部。而弟男建、男産知國事。或曰:「男生惡君等逼己,將除之。」建、産未之信。又有謂男生:「將不納君。」男生遣諜徃。男建捕得,即矯王命召之。

玄奬は言った。「すでに過ぎた事を、どうして追って論じられようか。今、遼東はもともとみな中国の郡県であったが、中国でさえ言わないのに、高句麗がどうして必ず旧地を求められようか。」

蘇文は従わず、玄奬は帰って詳しく語った。太宗は言った。「蓋蘇文はその君を弑し、その大臣を害し、その民を残虐にした。今また我が詔命に背く。討たないわけにはいかない。」

また使者の蔣儼を遣わして旨を諭した。蘇文はついに詔を奉じず、そこで兵で脅した。使者は屈しなかったので、ついに窟室の中に囚えた。そこで太宗は大いに兵を挙げて自らこれを征した。事は「高句麗本紀」に備わっている。

蘇文は乾封元年に至って死んだ。

子の男生は字が元徳である。九歳で父の任によって先人となり、中裏小兄に移った。唐の謁者のようなものである。また中裏大兄となって国政を知り、およそ辞令はみな男生が主った。中裏位頭大兄に進んだ。

久しくして莫離支兼三軍大将軍となり、大莫離支を加えられて、出て諸部を按じた。そこで弟の男建と男産が国事を知った。

ある者が言った。「男生は君たちが自分を逼るのを憎んで、除こうとしている。」建と産はこれを信じなかった。また男生に言う者があった。「君を入れないつもりだ。」

男生は諜者を遣わして行かせたが、男建が捕らえ、すぐ王命と偽って呼んだ。

4男生と献誠

男生懼不敢入。男建殺其子獻忠,男生走保國內城,率其衆與契丹、靺鞨兵附唐,遣子獻誠訴之。高宗拜獻誠右武衛將軍,賜乗輿、馬、瑞錦、寳刀,使還報。詔契苾何力率兵援之,男生乃免。授平壤道行軍大捴管,兼持節安撫大使,舉哥勿、南蘇、倉巖等城以降。帝又命西臺舍人李虔繹就軍慰勞,賜帶金釦七事。明年,召入朝,遷遼東大都督、玄菟郡公,賜第京師。因詔還軍,與李勣攻平壤,入禽王。帝詔遣子,即遼水勞賜。還,進右衛大將軍、卞國公。年四十六卒。男生純厚有禮,奏對敏辯,善射藝。其初至,伏斧鑕待罪。世以此稱焉。獻誠,天授中以右衛大將軍兼羽林衛。武后甞出金幣,於文武官內擇善射者五人,中者以賜之。內史張光輔先讓獻誠,為第一。獻誠後讓右王鈐衛大將軍薛吐摩支,摩支又讓獻誠。

男生は恐れて敢えて入らなかった。男建はその子の献忠を殺したので、男生は逃げて国内城を保ち、その衆と契丹・靺鞨の兵を率いて唐に付き、子の献誠を遣わして訴えた。

高宗は献誠に右武衛将軍を授け、乗輿・馬・瑞錦・宝刀を賜って、帰って報せさせた。詔して契苾何力に兵を率いて援けさせたので、男生はそこで免れた。

平壌道行軍大摠管兼持節安撫大使を授けられると、哥勿・南蘇・倉巖などの城を挙げて降った。皇帝はまた西臺舎人の李虔繹に命じて軍に行って慰労させ、金の釦七つの付いた帯を賜った。

翌年、呼んで朝廷に入れ、遼東大都督・玄菟郡公に移し、都に邸を賜った。これによって詔して軍に帰らせ、李勣とともに平壌を攻めて、入って王を捕らえた。皇帝は詔して子を遣わし、遼水で慰労して賜った。帰って右衛大将軍・卞国公に進んだ。年四十六で死んだ。

男生は純で厚く礼があり、奏し答えるのに敏く弁が立ち、弓の技が上手だった。初めて至ったとき、斧と鑕に伏して罪を待ったので、世はこれをもって称えた。

献誠は天授の年間に右衛大将軍として羽林衛を兼ねた。武后がかつて金と幣を出して、文武の官の内から射の上手な者五人を選び、当てた者に賜ろうとした。内史の張光輔が先に献誠に譲ったので、献誠が第一となった。献誠は後に右王鈐衛大将軍の薛吐摩支に譲り、摩支もまた献誠に譲った。

夾注 1

右王鈐衛

底本は「右王鈐衛」である。唐には「右玉鈐衛」があり「右王鈐衛」という官はないが、底本の外の資料でしかわからない位なので、底本のままにして分かれだけを明らかにする。 ― 訳者

5献誠が無実の罪で死ぬ

既而獻誠奏曰:「陛下擇善射者,然多非華人。臣恐唐官以射為恥,不如罷之。」后嘉納。來俊臣甞求貨,獻誠不答,乃誣其謀叛,縊殺之。后後知其寃,贈右羽林衛大將軍,以禮改葬。

やがて献誠が申し上げた。「陛下は射の上手な者を選ばれますが、中国の人でない者が多いのです。臣は唐の官が射を恥と思うのを恐れますので、やめるほうがよいでしょう。」武后は良しとして受け入れた。

来俊臣がかつて財を求めたが献誠が答えなかったので、そこで叛を謀ったと誣いて、縊り殺した。武后は後にその無実を知って、右羽林衛大将軍を贈り、礼をもって改めて葬った。

6史論 — 蓋蘇文は大逆に至った

論曰:宋神宗與王介甫論事曰:「太宗伐高勾麗,何以不克?」介甫曰:「蓋蘇文非常人也。」然則蘇文亦才士也,而不能以直道奉國,殘暴自肆,以至大逆。《春秋》「君弑賊不討,謂之國無人」,而蘇文保腰領以死於家,可謂幸而免者。男生、獻誠,雖有聞於唐室,而以本國言之,未免為叛人者矣。

論じて言う。

宋の神宗が王介甫(王安石)と事を論じて言った。「太宗が高句麗を討って、どうして勝てなかったのか。」

介甫は言った。「蓋蘇文は常の人ではありません。」

そうであれば蘇文もまた才ある士である。しかし直い道で国に奉じることができず、残り暴いままに自ら勝手にして、大逆に至った。

『春秋』に「君が弑されて賊を討たなければ、国に人がないという」とあるが、蘇文は腰と首を保って家で死んだので、幸いにも免れた者といえる。

男生と献誠は、唐の王室に聞こえるところがあったとはいえ、本国から言えば、叛いた人であることを免れない。